あれで、全ては狂っちまった。
マダムを突き刺しながら、俺はそんな叫び声を心の中であげる。
荒く狂った呼吸の後で、マダムが俺に擦り寄ってくる。
「シンジさんったら、今日は何かあったの?それとも何か欲しいものでもあるのかしら」
甘ったるい声。吐き気のするような声。汚染された声。
「別に。あなたの愛があればね」
つまりは金だ。ついでに、命。これはおまけ。慰謝料みたいなもんだ。
甘ったるい囁きをすると、マダムは頬を染めた。こういうところだけは、
昔と変わっていないのだろう。他は全て変わり果てているけれど。
ラ・フランスのような身体を抱き寄せながら、俺は煙草に火をつけた。
「この間の検査薬、どうだった?」
SEXした後でそんな事を言うマダムの頭は、根本的に腐っている。
「あれ、やってみたんだけど、使えないんじゃないの?何も変化なかったけど」
俺がそう言うと、マダムは軽やか・・・本人は軽やかだと思っている声で笑った。
「いやぁね。あれは感染した人しか出ないもの。つまり、ネガティブって事よ」
アメリカで新開発された、小型のエイズ検査薬。日本で持っている者は、まだほとんど
いないという。
ごく一部の関係者だけが持っているのだ。それを俺に渡しておいて、つまり一度は疑っ
ておいて、マダムは自分でそれを忘れている。
「何だ。もっと派手なのかと思った」
「良かったじゃない。きれいな身体だって事よ」
「あなたも、安心だね」
そう言って、俺は煙草の火を消し、再びマダムを強く抱き寄せる。
「あら・・・嫌だわ、また?」
淫乱なマダムの低い笑い声がクックッと響く。色気はまったく感じない。
吐き気なら感じる。駅前で残飯をつつく鳩のような声だ。
「いいでしょう?・・・あなたがそうさせるんだ」
ポケットに収まるような、ちっぽけな検査薬。
そこに一本浮き出た、赤い筋。
それは、俺がユーリを殺してしまう事の証。
その残酷な事実を押し付けたマダムに対する憎悪が、俺を猛り狂わせる。
俺は、HIVキャリアーだ。
あんたにも、伝染してやる。
あんたを、殺してやる。
ユーリがあんたの旦那を殺すように。
あんたも、殺してやる。
殺意が、俺のペニスを再び持ち上げる。ナイフのように鋭いそれで、マダムを貫き、
突き刺し、刺し殺す。
今、俺がコンドームをつけていない事など、欲望にまみれたマダムは気にかけてもいない。
セクシーだと本人だけが思っている喘ぎ声の下で、脂肪に覆われたマダムはそのまま
気絶しそうな程身をよじらせて、よがり狂っている。
あんたを、殺してやる。充分に金をむしり取ったその後で。
俺が死んだ、ユーリが死んだ、その後で。
明け方の街をタクシーで走らせていると、携帯が鳴った。
「もしもし」
「シンジ?やっと終わったの?」
「ユーリ」
ノイズ混じりのユーリの声は、少しだけむくれている。
仲間うちではクールなポーカーフェイスで知られているというけれど、俺はそんなのは嘘だと
思う。
ユーリの声は、具合の悪い電波に乗っても尚、その感情をあらわに伝えてくる。
或いは、10歳という年齢差の結果なのかもしれない。
「今日は結構稼げたよ。ユーリ、今日学校は?」
できるだけ優しく声をかけると、ユーリは「学校?」と呆れた声をあげた。
「何寝ぼけた事言ってんの?今日から夏休みだよ、あたし」
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