第2回九州王朝ー装飾古墳を訪ねる旅2023/04/16〜19
ヤマちゃんと2回目の九州王朝ー装飾古墳を訪ねる旅をしました
4月が近づいてきたのに、どこにも旅することが出来ない日々が続いていた。そんなある日、旅の広告に「熊本・山鹿の装飾古墳館を訪れる」とあったのを見て、
そうだ九州王朝の装飾古墳を訪ねる旅に出ようと思い立った。ヤマちゃんには私から誘いの電話を入れた。
数年前にヤマちゃんと二人でレンタカーを借り福岡の装飾古墳を巡る旅をした。
このときはヤマちゃんが行動計画を立て、私は運転手を務めた。よく良くカレンダーで確認したら、装飾古墳を訪れたずれたのは8年前であった。
福岡県は板付環濠遺跡から廻りはじめて、春日市は須玖岡本遺跡、宮若市の竹原古墳と近くの大塚古墳、うきは市にある月岡古墳、八女市の石人山古墳廻り、さらに
佐賀県は超有名な吉野ヶ里遺跡、日本最古の水田がある菜畑遺跡、福岡に戻って平原弥生遺跡を巡り、元寇防塁を見るという旅をした。装飾古墳の旅と云っても数ヶ所訪れただけで、
九州王朝の装飾古墳を見るというものではありませんでした。どちらかというと縄文から弥生、古墳時代へと流れる時間を感じようというものであった。
九州王朝最盛期の証、きらびやかな装飾古墳群
熊本県北部菊池川沿いに連なる装飾古墳群は4世紀から7世紀にかけて、福岡八女の岩戸山古墳を中心に広がる古墳群の一部である。
7世紀にかけて造られた神籠石群も筑紫を取り巻く九州王朝の山城である。
4世紀卑弥呼(ヒミカ)の時代から、7世紀初頭の「日出でる国の天子……」阿毎の多利思北孤、更に白村江の戦いの敗北と大和政権確立に至壮大なドラマ
の展開地である。私はそのように思い、そのように歴史を理解してきた。装飾古墳の華やかさや力強さを感じることによって、九州王朝の存在を確かなものにしたかった。
この目でその繁栄を感じ取ることは決定的に重要である。装飾古墳の旅を思いついたとき実行あるのみと思った。
私がヤマちゃんを誘う
今回は私が誘って、計画を立てた旅でした。旅行はトラピックスのダイナミックツアーを使って、急な計画の割にはお安く飛行機で熊本に行くことの出来た。
山鹿市を中心にした装飾古墳巡りであったので、山鹿温泉に2泊トラピックス指定の熊本1泊なる旅行日程となった。
熊本市内に宿泊するのはもったいないような旅程になるが、これも格安ツアーでは仕方が無いと思う。結果的には疲れを考えると良い行程になったと感じている。
思い立ったその月中で旅が出来たので大変満足している。ちなみに熊本市内東横イン一泊付き伊丹ー熊本往復37,400円であった。
時期を選んでじっくり計画すればもっと安く旅行は出来るのだけれど、思い立ったが吉日即実行はなかなか難しいものです。お得を感じながら旅行を計画するのは
旅のもう一つの不可欠な要素です。私のような年金生活者にとっては旅を計画し実現する大きな動機となります。JRでの熊本往復や今どくの飛行機往復でも
最低4万円はかかる中で、阪急トラピックスのダイナミックツアーを見つけた感激は言い表せないものがあります。少し余分な宿泊が付くのですが、
そこは年金生活者の持っている時間的余裕を行かせば良いと考えた。熊本市内の古墳巡りを加えて計画を立てた。
今回の旅では、全国旅行支援の割引適用があって、山鹿温泉富士ホテルの宿泊は20%OFF、4000円の電子クーポン付きとなった。
旅行社によるあとから割引の適用はまかり成らないとのことで、トラピックス料金は20%OFFにはなりませんでした。
1日目 実物が見られるチブサン古墳へ
一路タクシーでチ ブ サ ン 古 墳 へ
4月16日伊丹空港10時40分熊本行ANA1625便プロペラ機で飛びたった。この日は向かい風で熊本には定刻より10分遅れの12時
05分に到着した。13時30分には山鹿博物館に到着する必要があった。私たちはタクシーで先ずは宿泊先の山鹿温泉の富士ホテルに向い、チブサン・オブサン古墳、
古代への道や古代の森散策のため旅行用荷物を預け身軽にする。そしてお願いしていたホテルの車で山鹿博物館へ送っていただき、
13時30分の受付に間に合うことが出来た。実はこの身軽になって古墳散策が出来たのは、富士ホテル瓜生支配人のご尽力のたまものでした。事前に相談したとき、特別にホテルから山鹿博物館まで
ホテルの車で送っていただけることになったのです。タクシーで向かえば重い荷物を持って古墳の見学となり、また次への移動も大変である。そのことを相談したら気軽に「おくりますよ!
歩いて行くなんて大変ですよ。着く頃車を用意して待ってます。」
との返事を頂いたのです。一日古墳巡りをして結構歩くのが大変なこと、距離も思う以上にあり心底感謝しました。
余談になるが、瓜生支配人には宿泊についても相談に乗っていただき、私たちはリーズナブルな料金で2食付き個室に泊ることが出来ました。温泉はかけ流しでゆったりと温泉気分も味わえました。
実のところチブサン古墳の見学が土日限定10時、14時各10名となっていることに飛行機を確定した後に気がつき、ひやひやしながらタクシー
を飛ばすことになってしまった。本物を見る機会を逃すことはないと事前にタクシー内で昼食をとるよう準備したり、
ホテルに無理を言って車を用意していただき何とか無事に本物に出会う機会を得た。
古墳内部は二室に分かれていて、手前の2から3人が漸く立てるような小部屋から先はガラス等で内部が仕切られ奥にある装飾石室(壁画)を見ることが出来た。
正直うっすらと石室内部が装飾されているのを確認できる程度であった。
しかもひと組1から2分程度と時間も限られていて、目の良くない私にはなんとも物足りないものでした。また当然のことでしょうが写真を撮ることも出来ませんでした。
しかし細長い横穴の階段を上り、洞窟のような小穴に身をかがめて目の当たりにした本物の装飾壁画を見ることは何物にも変えがたい価値があるように思う。
8年前竹原古墳で装飾壁画を見たのとは違う感激のようなものがあった。竹原古墳では全く素で壁画に出会うことが出来たので、へ〜こんなものが……で終わったのであるが、
国史跡に指定され保存処置がされてきたこと、装飾古墳としては一級のものであることなどで、本物に接する感激を味わったと言える。
チ ブ サ ン て 乳 房 ? オ ブ サ ン は 安 産?
ここでチブサン古墳について、パンフをもとに簡単に紹介しておく。「6世紀前半に築造された全長約55m以上の前方後円墳で、主体部は複室の横穴式石室。
石室内の石屋形には赤、白、黒で幾何学文様や人物が描かれ、装飾古墳として有名である。墳丘のくびれ部に立てられていたとされる凝灰岩製の石人(高さ1.5m)
は、現在、九州国立博物館で保管展示されている。」
「チブサン古墳の西北350mの場所にあるのがオブサン古墳である。直径22m、和5mほどの墳丘を持つ円墳です。6世紀後半に造られたとされ、非常に珍しい、
突堤(入口両脇の突き出た部分)を持つ円墳です。内部は巨石を使って、複数の横穴式石室が造られている。」
チブサン古墳は装飾の白い二つの○が乳房のように見えるからチブサンと呼ばれ、オブサン古墳は安産の神様が祭られていたことからオブサンと呼ばれたと云われています。
もっとも私にはチブサン古墳の装飾は大きなくちばしを持った鳥か、恐竜が睨みつけているように感じました。むしろ前方後円墳の全景が乳房のように見えました。
乳房山だからチブサンと思いました。写真の全景を見てそう思いませんか?……

チブサン古墳の内部を見学の後、すぐ隣にあるオブサン古墳と古墳の杜を散策して、古代への道をたどって山鹿博物館に戻った。
古 代 の 森 か ら 鍋 田 横 穴 群 へ
山鹿市立博物館を見学して、鍋田横穴群に向かった。この山鹿市内では弁慶ヶ穴古墳とか臼塚古墳、馬塚古墳など有名な装飾古墳があるが、
現在保存のため未公開、見学は出来ないとのことで、
間近に装飾を見ることの出来る、博物館から歩いて30分ほどの処にある鍋田横穴群に向かった。
解説によると「この鍋田横穴群は菊池川支流の岩野川に面した台地の崖面にある
6世紀後半に造られた61基の横穴。10基に装飾がある。中でも27号横穴は人物、弓、靭、盾、剣などが浮き彫りされ赤で彩色されされるなどしている。」とあった。
もっとも色は確認することが出来なかったが、点々と続く横穴が川の上流部まで数百メートルに渡ってあるように見えた。
熊 本 県 の 装 飾 古 墳(解説による)
装飾古墳は古墳時代(4世紀初〜7世紀)の5世紀後半〜7世紀ごろ、石室、石棺、横穴墓に三角文・円文などの幾何学文や、船、馬、人物、武具などの具象画を、
彩色・線刻・浮き彫りなどで描いたものである。菊池川流域、宇土半島、八代平野に集中し、全国第一の文化圏を形成している。全盛期の具象画は県北に集中している。
2日目 和水町の塚坊主古墳、江田船山古墳、江田穴観音古墳、玉名町の大坊塚古墳へ
2日目はホテルを8時半頃出て、山鹿バスセンターに向かう。ここで9時発の玉名駅行バスに乗って、9時半頃古墳群のある菊水ロマン館前に到着した。
バスを降りたところに肥後古代の森 菊水地区があり、ここに塚坊主古墳と江田船山古墳がある。
西山さんの案内で塚坊主古墳・江田船山古墳を見学
私たちは塚坊主古墳を見学するために、事前に和水町教育委員会の
西山さんに連絡し、10時に塚坊主古墳前で待ち合わせ案内していただくようお願いしていた。約束の10時に古墳の前に付くと、学芸員の西山さんも来られ
坊主塚古墳に案内された。早い時期に盗掘、破壊され現在の墳丘は復元されたものとか。石室内の石屋形は赤・白で彩色されている。しかし照明が限定され、薄暗い中で
ガラス越しでは色ははっきりと確認できなかった。しかし人形のようなものを見ることが出来感謝であった。
忙しいなか西山さんは「江田船山古墳も見られますよと」
案内してくれました。ここは現在誰でも入れるようになっているとのことで、石棺を目の前で見ることが出来ました。もっとも内部から出た国宝の銀象嵌銘大刀を
はじめとする刀剣や鏡・武具・馬具・装飾品は国宝として東京国立博物館に常設展示され、ここで見ることは出来ない。装飾古墳とその築造者の力を知る上では大変貴重なものと言える。
また5世紀後半には文字文化がすでにあったことを示し、福岡八女の岩戸山古墳とともに、当時の九州王朝の大きな力を感じさせるものである。

資料によると、塚坊主古墳はC原古墳群の古墳で6世紀初頭に築造された墳長43.4mの前方後円墳で、主体部に横穴式石室を持つ装飾古墳で、国史跡である。
江田船山古墳は5世紀に築造された墳長62mの前方後円墳で、内部には横口式家形石棺がある。清原古墳群の主墳。明治6(1873)年に池田佐十によって発掘された。
これも国史跡である。
1Kmぐらい離れた江田穴観音古墳の見学へ移動
このあと1kmほど離れた江田穴観音古墳に向かった。ここ国史跡である。古墳の中に観音様が置かれていたことからこう呼ばれているとか?この江田船山古墳から江田川を挟んだ対岸の諏訪原台地にある7世紀に前半に築造された直径20mの円墳である。主体部に複室
の横穴式石室を持つ。見学には隣接する和水町中央公民館で鍵を借りる必要がある。未だ連絡していないと西山さんに相談すると、西山さんが「用事もあるので公民館まで車で案内し、
鍵を借りる手続きもしましょう」と車で案内して頂きました。対岸といえどかなり遠く本当に助かりました。
内部へは自由に入ることが出来、見て回り触ることも出来ましたが、全く照明がはなく、手持の懐中電灯で真っ暗な石室を見学しました。そんなことでこの石室が複室になっていて
それぞれ意外と大きいことを肌で感じることが出来ました。写真は奥から外を見たものです。また彩色の後のような色があったので写してきました。鍵を返却する折、御朱印帳に張る
立派なお札を頂きました。旅の思い出に大切に保管したいと思います。
驚いたことに、この中央公民館の真ん前に県史跡の若宮古墳がありました。6世紀中頃に築造された長さ約30mの前方後円墳とのこと。この南60mに江田穴観音がある。
公民館の方が
冗談じみて「あら!ここも古墳だわ、気がつかなかったわ!?」と云ったのにはびっくりした。町中彼方此方に古墳があることのリアルな感覚?と思った。
玉名市の大坊古墳(国史跡)に向かう
道の駅菊水ロマン館で早めの昼食をとった。レストランが休みで特製弁当を買い食べることとなった。これが大層美味しいできで、この地方の野菜など沢山盛られた食べ甲斐のある弁当でした。
大坊古墳は新幹線新玉名駅から徒歩20分ぐらいの処にある。事前に14時で見学を申し込んでいたが、車での移動もあってもう一本早いバスで移動できそうなので、急遽玉名市教育委員会の
石松さまに電話して、13時に変更していただいた。
大坊遺跡に12時40分頃到着するとすでに石松さんは到着しておられました。感謝感謝です。石室内部はここも照明が暗くて
肉眼で少し見える程度でした。石松さんは京都の仏教大学を出られた学芸員とのことで、生まれは近畿だそうですがその近畿では仕事がなくこの玉名市教育委員会で古墳の保存や研究をしているとのことでした。
仏教大学とのことで京都の話でも盛り上がった。
大坊古墳を取り巻くように宮尾原横穴群や石貫穴観音横穴、永安寺東古墳、永安寺西古墳があるが、バスと徒歩の老人2人旅では、無理は禁物と言い聞かせ見学はまたの機会にすることにした。
新玉名駅のバス停に戻り駅の喫茶で休憩しながらバスを待って山鹿へと帰路についた。ホテルへは16時前に帰り着き、私は山鹿市内の江戸時代からの芝居小屋である八千代座や
頭に金灯籠を掲げた女性たちが優雅に舞い踊る「千人灯籠踊り」で有名な山鹿灯籠民芸館などを見学した。
3日目 岩原横穴群から熊本県立装飾古墳館を巡る
3日目は山鹿での最終日となる。今日のスケジュールは装飾古墳館とその周辺の古墳を見学して、ホテルに戻って預けた荷物を受け取って、バスに乗って熊本市内
へ移動する。宿泊はダイナミックツアーで申し込んだ東横インである。時間的な制約はないが、体力もあるのでなるべく早めに行動することにして、9時前にホテルにタクシーを頼んでおいた。
タクシーでまず岩原横穴群へ向かう。そこから装飾古墳館を目指すことにした。岩原横穴群から岩原双子塚古墳、岩原古墳群などをみて、
開館の9時半すぎには装飾古墳館に到着した。ほぼ一番乗りであった。10時半にビデオ上映があるとのことで、それに合わせて館内をゆっくりと見て回った。
館内にはチブサン古墳をはじめ、昨日見学した大坊古墳、明日訪れる予定の千金甲古墳の石室や石棺にレリーフや彩色が施され、
レプリカではあるが見事に再現されて展示されている。
ビデオを見、中庭の各種石棺が展示されているのを見たりして充実した時間を過した。
石人は本物の4倍の大きさとか
館内をくまなく見て回り十分堪能した私たちは入口の石人と写真を撮り、レストランでタクシー運転手さんのお勧め古代米カレーを食しここを後にした。
もっともこの石人は全くのレプリカで、モデル石人の4倍の大きさとのことであった。本物の石人はここには無いようであった。石人はいくつかのところで公開されていることでここではこのような展示になったのかもしれない。
大きな石人を入口に立てたのは古墳館の設計者、安藤忠雄氏の思いを表現したものでした。

これは装飾古墳館(右2枚)と山鹿博物館(左2枚)で頂いた古代カードです。下さいと云わないと頂けません。
装飾古墳館を跡に徒歩で山鹿市内へと歩き始めたが、ナビが余り良くなく遠回りして歩き出してしまった。ホテルの人に「歩くと迷子になるだけだよ」と言われたとおりになってしまった。
時間もあったので「歩け歩けと」歩いていると桜の上横穴群に出会った。
ここは岩原横穴群と装飾古墳館と桜の上横穴群とがちょうど三角形の処にあった。県指定の史跡であったが、入口は鍵がかかり入ることは出来ない。
近くでタケノコ掘りをされていた農家の方に聞いたが、「ほかには何も無いよ!」といわれ後にした。結局ここから岩原横穴群を経て山鹿方面に等廻りしていたところ、
ちょうどタクシーが通り掛ったのでこれに乗ってホテルに帰ることが出来た。
ホテルで荷物を受け取り、山鹿バスターミナルから熊本桜町バスセンターに向かう。
バスは1時間近く走り桜町バスターミナルに着いた。途中バスは改修工事中の熊本城横を通り、工事の様子を目の当りにしてまだまだ完成には時間が掛ると実感しました。
なお熊本城見学は今回パスしました。
ラスト4日目 有明海が見える千金甲古墳を訪ね、帰路につく
千金甲古墳への立ち入りは禁止と判明
前日、熊本教育委員会の林田さんに千金甲古墳の見学の件で、最終確認の電話を入れたところ、「公開は勿論、フェンスの中も立ち入り禁止にしている。以前はフェンスの中へは
入ることが出来たのだが……」電話の後連絡が上手く出来ず申し訳ないとのこと。熊本市に着いてから判ったが、我々は取り敢えず有明海の見える山上の千金甲古墳を目指した。
林田さんは事前に知らせられなかったお詫びにと、メールで千金甲古墳への近道などを知らしてくださり、効率的に訪ねることが出来た。
千金甲古墳へは小島三交営業所から山道を登るのがが近道
バス停小島三交営業所から山道を20分ほど登った山中にそれはある。西山中の西側道路を北に向かって進み、
山道を登る。明けた道路に出るたら西に進むと階段と案内看板がある。細い急な階段を数十段上ると千金甲古墳の国史跡指定のモニュメント標識がフェンスの中に
見えた。フェンスは山一帯を囲っており、扉のあるところには防犯用カメラも据えられていた。倒木の危険があるため立ち入り禁止とあった。
フェンス出入口付近からは横穴への入口は見ることが出来ない。
この後看板に戻って、乙号、丙号の処を見学する。乙号古墳も少し危険な状態のように見えた。入口の上の円墳が崩れないよう?屋根のある建物で守られていた。
十分堪能して、来た山道を戻りバス停近くの食堂で昼食をとり、桜町バスターミナルに戻った。
=千金甲古墳について紹介します=
林田さんからのメールを要約
山道を登り、明けた道路に出たら西に進むと階段と案内看板がある。細い急な階段を数十段上ると千金甲古墳、浮き彫りと彩色で有名な甲号である。甲号が最初に造られた。案内板より南側(下の方)に線刻のある乙号、装飾のない丙号がある。遺体を収める施設は、
甲は石障(横穴式石室の玄室各壁に接して立てめぐらせた板状の石材です)に鮮やかな浮き彫り、線刻などの装飾がされている。乙は石屋形(チブサン古墳の石室と同じ作り方です)
でここでは線刻が施されている。甲は5世紀後半、乙は6世紀前半、丙は6世紀後半とされている。
古墳の下の平野は当時海で、ゴミ処理場の煙突が見える横の御坊山という丘は
海の小島であった。当時の海岸線は今の国道3号線のあたりであった。古墳の主はこの近くには住めず、高橋稲荷神社の近くに住んでいた。
古墳は海から見える目印のようなものであった。古墳の主は韓国まで行っていたという。
千金甲古墳の甲号石障のレプリカは県立美術館と装飾古墳館で見ることが出来る
ホテルに戻って預けた荷物を受け取りつつじヶ丘横穴群によって空港へ
宿泊したホテルに戻って預けていた荷物を受け取り、最後の目的地つつじヶ丘横穴群に向かった。JR豊肥本線竜田口近くにある。桜町バスターミナルからバスに
乗ってつつじヶ丘へと向かう。
バス停を降りたところにそれはあったが、地震によるものか雨等によるものかは判らないが、2カ所ある横穴群はどちらもブルーシートで覆われている。
ブルーシートの隙間から辛うじて横穴ひとつを見ることが出来るだけであった。
しばらく休憩し予定より早めであったが、10分ほど歩いた先にあるJR竜田口駅から肥後大津に移動した。肥後大津駅は別称阿蘇熊本空港駅と呼ぶらしい。
ここからは空港までの無料シャトルバスが30分ごとに出ている。これに乗って15分で空港に着く。予定より2時間早く16時過ぎに到着し、18時55分発ANAで無事帰宅した。