2011年国東半島・熊野魔崖仏と臼杵石仏の旅
第一日目 定期観光バスでの国東半島史跡めぐり
朝4時起きでひかりレールスター541号に乗っていざ九州へ
第一日目、大分県は宇佐駅前から朝の10時15分発定期観光バスに乗車して国東半島史跡めぐりをする。
新大阪6時25分発のひかりレ−ルスター541号に乗り、小倉で特急ソニック7号に乗り変え、10時06分に宇佐について10時15分発の観光バスに乗るのである。
レールスターはJR西日本が誇る快適な新幹線車両である。横4列で隣との座席に余裕があり、ひじなども隣を意識せずに掛けることができる。
もっとも今回は小倉まで隣の席は空席のままであった。
新幹線は順調に遅れることなく小倉に向かって進み、小倉での乗り換えも問題なく予定通り宇佐駅に着く。
汽車の遅れによっては観光バスに間に合わないかもしれないと心配したが、余裕で時間前にバス停につく。待つこと約20分、バスのほうが遅れてくる。
バスは大分から別府、日出などで順次客を拾って最後が宇佐駅前となる。到着したバスは立派な観光バスであるが、驚いたことに観光客は小生を含めて何と2人である。
ガイドさんに聞くとお客は1人から催行するとのこと。また予約が無くても宇佐駅までは予約なしの人のために運行し、1人でもお客があれば定期観光を実施するとのことでした。
もちろんお客が無ければ宇佐で打ち切りとなるそうだ。
ガイドさんと運転手、計4人で出発である。大きなバスの前を占領して眺望も満点である。運転手さん、ガイドさんを含めみんなアラカンである。
もう一人のお客さんは埼玉から来たという人で、全国のお寺を廻り朱印状をすでに300近く集めているというつわものでした。お寺のこともよく知っておられた。
小生より少し老年で、悠々自適の引退生活という観であった。お寺を廻っても一日数件の朱印状が頂けるかどうかである。300軒集めるには旅行日数だけでも優に100日を
超えるであろう。また北から南まで全国にまたがっている。このようなことができるとはうらやましい限りである。
まずは宇佐神宮へ……伊勢神宮より格は上?
和気清麻呂の話で有名な、皇室の崇敬厚い由緒ある神宮である。創建は725年であるとか?もともと戦いの神として祭られていたという。
宇佐一族は九州は大分のこの国東、豊後高田あたりを支配した荘園領主である。12世紀ごろには九州一円に支配が及んだという。
宇佐神宮は全国の八幡宮の総本社であるという。また神宮寺弥勒寺の創建とあいまって、国東の仏教文化の魁でもある。
もともと八幡信仰は神道と仏教、海外文化が一体となって生まれたもので、
仏教は真言密教とのつながりが強いとのことである。六郷満山の仏教寺院のほとんどが真言宗系であることもここが原点である。
宇佐神宮では外宮もちゃんと参るようにと。片参りにならないようにとの注意書きが大書されていた。しかたなく?外宮もおまいりしました。
あまり時間が無く詳しくは廻れなかったが、大きな立派な神宮であった。
神社というと参拝の仕方がうるさいのであるが、ここも例外ではなく、いづも神社と同じ作法とか、
ちなみに二礼4拍一礼とか?
京都護王神社には和気清麻呂の話が紙芝居のように書かれているが、当の宇佐神宮には和気清麻呂の話もあまり書いていないように想いました。
もっともガイドさんは「この神社は天皇になりたいという願い以外をお願いしてください」といっておりました。
和気清麻呂が汚たな麻呂にされ復活するまでの話を解説していました。大和朝廷にとってこの宇佐神宮は重要な位置を占めていたのだと想像できる。
それだけに宇佐一族の影響力も大きく国東の六郷満山文化となって花開いたのだと考えられる。
ちなみに六郷とは国東半島の中央に位置する両子山とその28の谷があり、6つの村があったことによる。来縄、田染、伊美、国東、武蔵、安岐と呼ばれていたという。
12世紀ごろには実に65もの寺があったという。
この山岳信仰の始まりが仁聞菩薩によって開かれたといわれている。諸説あるが、仁聞菩薩は宇佐神宮の八幡神の化身であるともいわれているらしい。
こうした説からも国東の六郷満山文化に宇佐一族の占めた重要さが理解できる。
なおこの宇佐神宮の狛犬はいのししというかもっとライオンに近いそうです。あんうんの像ではなくあんあんの像で両方口が開いている。
まだ日本式ではなく中国から伝わったばかりの状態を表しているとガイドよりの説明があった。
余談だが京都護王神社の狛犬はいのししである。
雨の富貴寺ー国宝大堂は門を閉ざす
次に訪れたのは富貴寺である。富貴寺に到着したころ、どんよりしていた空が本格的な雨空となり、雨足も強くなってくる。
実は国宝の大堂は雨の日は、中の壁画や宝物を守るために閉じる決まりになっていた。せっかく訪れても拝観はままならない。
気の毒と思ったのか和尚さんがじっくりと有難いお話をしてくださった。
お話によると、もともとは宇佐氏によって阿弥陀堂として建てられたものとのことです。つまり阿弥陀を拝み、拝みながらあの世に行くという文字どうり極楽往生する建物が
阿弥陀堂であるとのことです。彩色豊かな目を見張るような阿弥陀堂であったとのことです。いわゆる末法思想と結びついたもので、京都の平等院などと同じ手法で創られているそうです。
金箔と500近い仏さんらで囲まれていたことが調査で判明しているとのことです。宇佐一族の反映をしのばせるものです。
またそもそもこの阿弥陀堂の繁栄で、坊が集まって村を形成していたとのこと。よって富貴寺には檀家というものが極端に少ないそうである。
近郷の村々から集まる人々のお布施で坊が繁栄し、半農半坊の武装集団として中世前期は存在したとお坊さんより聞かされた。
その後、坊は衰退し農家となり一軒だけを富貴寺として残し、大堂を守ってきたそうである。
いずれにせよ雨の日になり国宝を見ることができなかったのは残念でした。
南無阿弥陀仏の南無とはインドヒンズー語の帰依を意味する言葉の発音をそのまま表しているそうです。よって阿弥陀様に帰依しついてまいりますとのことを南無阿弥陀仏という。菩薩様に拝むときは
南無菩薩といえばよいそうです。観音菩薩に対しては、南無観音菩薩と唱えればいいそうです。仏教寺院ではこのように南無……と拝むことが基本だとこの富貴寺にて教わりました。
昼は名物……だんご汁をいただく
ちょうどお昼時になったので富貴寺のそばでお昼をいただく。ここ国東の名物はだんご汁である。ほうとうのだんごバージョンである。もっともだんご汁のほうが先かもしれない。
甲斐の国のほうとうなどは、せいぜい数百年の歴史である。それに比べれば、国東の仏教文化や食文化は千年以上前からな訳である。味噌汁にだんご、団子といっても、
棒状の麺を手でちぎって小さくして放り込んだものである。
味は素朴な味噌味の利いたもので,美味しくいただけた。
杵築の市内でも名物だんご汁とうたって宣伝しておりました。
大分県はなんにでもカボスの県である。刺身に、だんご汁に、焼き魚にとどんな料理にもカボスである。秋は最高の料理の季節でもある。
元宮磨崖仏、真木大堂を続いて訪れる
富貴寺を後に真木大堂に向かう。途中、元宮磨崖崖仏に立ち寄る。国東での最初の磨崖仏である。
磨崖仏の周りには屋根があり、そこが阿弥陀堂のようになっていたことを想像させる。それはともかく今は立派な屋根がついて、雨の日でも見学できるようになっている。
正面に柱を差し込めるような穴が開いています。磨崖仏は昔から阿弥陀堂として大切に守られてきたと思われる。
ここ大分に磨崖仏や石仏が多く残っているのは、やわらかい石が豊富にあったことによるらしい。ともかく魔崖仏に始まり、石仏、国東塔、五輪塔、石の鳥居と何でも石である。
石仏と魔崖仏の違いは、岩に張り付いているかどうかの違いである。大きな岩に彫られ、移動できないものが魔崖仏な訳である。
最初の元宮磨崖仏の後、真木大堂を訪れる。
大堂の中に六郷満山の最大寺院であった、馬城山伝乗寺の日本一大きな大威徳明王像、重要文化財の阿弥陀如来坐像などを拝観する。
但し、小生目が悪く、近づいて見ることのできないものや、室内の照明ではあまり細かい部分は見れないので、興味なくチラッと拝観した。
外に釣鐘塔があり、家内安全健康を願って大きな音を鳴らして拝観を終了しました。
本日のメイン熊野魔崖仏に挑戦
鬼が積みし石段を 登らば現われむ 岩に刻まれし 大いなる仏よ と歌われた日本一雄大荘厳な熊野磨崖仏である。
熊野磨崖仏は山の中である。雨足が一段と強まるなか上下の雨カッパを着て、鬼の造った百段の自然石段に挑戦する。もう秋とはいえ、入り口で杖を貸していただき山道を
歩き始めると合羽の中は汗でびっしょりとなる。山道と石段を歩くこと10分ほど、自然石段の足元ばかりが気になりうえはなかなか見られない。滑らないよう慎重に歩く。
自然石段の手すりがなくなるところまで登ると、眼前に雄大な大日如来と不動明王が現れる。
雨で大きな大日如来がかすんで見える。不動明王も同じである。感動の一瞬を迎える。旅人が多くの困難を越えてここで大日如来に会ったときのことを想う。
一瞬時が止まる。雨の中の大日如来と不動明王に対峙し、人の営みの尊さのようなものを感じた。まずは深々と南無合唱である。
石段を登ってくるもう一人の旅人の杖の音にわれに返る。ともかく必死で雨の中をここまで来たのだからと、雨の中の写真撮影を敢行する。
実に雨の中、曇るかなたに慈悲の仏である。最高のショットが得られた。大日如来は6、8米、不動明王は8米である。日本一の大きさを誇る。
最後に両子寺(ふたごじ)を訪問
六郷満山の中では中山本寺であり、山岳修行の根本道場になるとのこと。仁王門を通って階段を山門に向かって歩くと、川蟹があちこちに現れる。ちょっと余所見をしていると
踏みつけそうになる。豊かな自然が残っている。秋には紅葉と石段という最高のシチュエーションをかもしだしている。さしずめ京都ならもみじの名所となると思われた。
奥の院の霊水をいただく。健康であるように祈願する。
第二日目 国宝臼杵の石仏を拝観
ホテルで自転車を借りていざ臼杵石仏へ
2日目は昨日と打って変わって、秋の晴天である。抜けるような青空と、心地よい風の舞う絶好の旅行日和となる。ホテルで臼杵石仏への行き方を尋ねると、
ちょっときついが自転車ではと?提案される。聞けば7〜8キロはあるらしい。坂の上り下りが気になったので尋ねるとほとんど平坦路とのこと。
ホテルのサイクルを貸してくれるという。
まだ8時前だが早速出発する。国道に沿っての平坦路が続く。臼杵石仏への次々と看板が現れる。安心して進むことができる。日本人にはそれで十分だが、
外国人用に英語で後何分と書かれている。時間は思うにサイクル用である。日本人は自動車が圧倒的なのだろう。サイクルで廻るのはいまやアラカンの老人と外国人なのだろうか?
自転車で走ること小一時間、迷うことなく到着する。臼杵の街をサイクルで走っているとすれ違う高校生や中学生が例外なく挨拶してくれる。
見知らぬ街を走る旅人としては心強い限りであった。大変気持ちよかった。雲仙島原のたびでも同じ経験をした。京都など誰も挨拶などしない。困ったものである。
さてこの石仏のいわれであるが、実のところよく判っていない。
しかしこの石仏が、満月寺の御影堂として栄えていたことは間違いないようである。もっとも江戸時代にはもう廃れていたようである。石仏には彩色され立派な伽藍が施され、
阿弥陀堂として栄えたといわれている。石仏には当時の彩色のあとが今も残っている。
解説によると
六十余体の磨崖仏は、昭和二十七年国の特別史跡、昭和三十七年国の重要文化財の指定を受け、永年の歳月をかけて行われた保存修理工事を平成六年三月に終えた。
そのとき頭部のみの姿で親しまれた古園石仏中尊の大日如来像も本来の姿(胴と一体になり)にかえり、臼杵魔崖仏四群五十九体が、平成七年六月国宝に指定された。
磨崖仏では全国初、彫刻においても九州初の国宝指定。木彫りとみまがうばかりの見事な彫刻技術、そして仏の数は他に類を見ることなく、
国の内外での文化遺産としての高い評価を得ている。
ホキ石仏第二群(順路1)
ここには九品の弥陀像と阿弥陀三尊像の石仏がある。
解説による
九品の弥陀像……比較的小さな9体の阿弥陀如来像が刻まれている。中央の一尊だけが裳懸座に座し、彩色も鮮やかに残っているが、他の8体は欠損がひどく惜しまれている。
平安末期ごろの作といわれている。
阿弥陀三尊像……見事な彫刻技術で彫られた、臼杵石仏の中でも最も優れた石仏のひとつである。中尊阿弥陀仏如来像はどっしりと量感豊かで、毅然とした表情は
彫技の冴えを感じさせる傑作である。平安後期頃の作。
ホキ石仏第一群(順路2)
ここには地蔵十王像(第四龕)、如来三尊像(第三龕)、如来三尊像(第二龕)、如来三尊像(第一龕)がある。
解説による
地蔵十王像……中尊に地蔵菩薩をすえ、冥府にあって亡者の罪を裁き救済する十王像を左右に5体ずつ配している。錫杖を持たず、右足を座し左足を立てている
地蔵菩薩は、古い様式で珍しく、光背の菜食唐草紋ものこっている。鎌倉期の作。
如来三尊像……中心の三尊は、中尊に金剛界大日如来を配し右に釈迦如来、ひだりに阿弥陀如来が並んでいる。三尊とも膝前が長く広いのが特徴で、如来像の台座には、願文や
経巻を納めたであろう円や資格の孔がある。平安末期の作。
如来三尊像……ホキ石仏第1群の中心的な存在である中尊の阿弥陀如来は、静まった顔で、眉、目、髭を墨で描き、量感あふれる姿が特徴である。三尊とも彫技は優れ、
ホキ石仏第2群の阿弥陀三尊像同様の傑作で平安期の作といわれる。
如来三尊像……中尊に釈迦如来を刻み、童顔で親しみやすい表情で語りかけてくる。彫法はやや劣り螺髪の刻み方など簡略化したあとが見られ、素朴な印象を与える。平安末期頃の作。
山王山石仏(順路3)
解説より……3体の石仏で、中尊には大きな如来坐像を末、その左右に脇尊としての如来坐像を配す珍しい形式をとっている。邪気の無い童顔が心を和ませてくれる。
「隠れ地蔵」とも呼ばれ、故安井曽太郎画伯が絶賛した像である。平安後期ごろの作。
古園石仏(順路4)
解説より
中尊の大日如来像は、切れ長の目に引きしまった口元が極めて端正で気品あふれる表情を作り、各方面から限りない絶賛を受けている。
以前は、落ちた仏頭が仏体下の台座の上に安置され、長く人々に愛され続け、世界的にも有名であったが、保存の為の修復に合わせて仏頭も見事な姿に復位された。平安後期の作。
寂れた満月寺
臼杵石仏が作られた平安期から鎌倉期まで阿弥陀堂は金箔で豪華に輝く仏像や豪華な色とりどりの仏画で覆われていたようである。
平等院や中尊寺は復元されて当時の豪華な内部を垣間見ることができる。これと同じものがここ満月寺の阿弥陀堂として創建され栄えていたのである。
しかし今は当時の権勢を誇った満月寺はない。
わずか名前のみ残しているといえば怒られるであろうか。お寺の前は石仏公園となっているし、もちろん石仏群もお寺の阿弥陀堂ではない。
江戸時代にはずでに廃寺となっており、石仏も雨晒しになっていたようである。
現在の満月寺はどのようになっているのか?
広大な敷地は無く、建屋も小さな庵を残すのみである。満月寺は膝まで埋まった仁王像とその先に小さな庵、鐘楼、宝篋印塔、観音石仏などが境内にある。
もっともこの満月寺の前の膝まで埋まった仁王像は鎌倉期後期の国指定史跡になっている。さらに宝篋印塔も特別史跡で重要文化財となっている。
かって権勢を誇ったお寺の名残をかすかに放っていた。
臼杵市内を散策
臼杵の石仏と周辺の散策が予定より早く終わることができた。これは宿泊したニューホテル玉屋さんで自転車を貸していただいたことによる。
何しろバス一度乗り過ごすと2時間から3時間待つことになる。その点自転車は時間にとらわれない。朝早く石仏公園に着き、ゆっくり石仏を見て廻り、
美術館なども見学して臼杵市内に戻ることにした。
まだ11時前である。結局3時間近く石仏を見てまわった。臼杵の市内を見て廻ることにして市内に戻る。
ここ臼杵市内から石仏がある公園まで7キロ以上は離れている。国道を一直線なので自動車では迷うことは無い。ことにカーナビなども普及して道を訪ねる人も無いように思う。
ところが小生のような自転車の旅行者にとって道路案内は大変ありがたい。観光地の旅館案内の看板のようにこの先臼杵の石仏という案内が掲げてあり、大変ありがたかった。
しかもその看板には英語でさらに詳しく、後10分とかこの先の信号を右折とか書いてあったのには感激した。
外国人にとって英語の案内が、しかも自転車で町を見て廻る若者を意識して書かれていれば、また来よう、日本は臼杵は良い所だになると思った。
さて、臼杵市内の最大の観光地?臼杵城跡を訪ねる。入り口は非常に立派であったが、残念ながら中にはお城のあとはまったく無かった。大友宗麟のレリーフなるものがあったが余り興味が無いので早々に退散した。
そのご八幡浜行きのフェリー乗り場に行って、海を見、記念写真を撮った。
駅に戻り自転車を玉屋さんに返すとちょうど昼であった。まだ時間があったので急遽杵築を訪ねることにする。
第二日目午後 杵築を訪れる
杵築城下は駅から離れた所にあった
急遽杵築市内を訪れることにしたので、よく調べていなかった。まず、JRの特急ソニックが止まらない。30分ごとに走っているソニックは、止まるのと通過が交互になっている。
臼杵からの連絡のソニックは止まらないほうであった。そんな訳で別府から鈍行に乗り換えて杵築に向かうことになった。
臼杵13時08分にちりん10号に乗って14じ26分杵築に着く。観光地杵築城下はJRの駅からは約これも7キロほど離れたところにある。駅から歩いての観光は無理であった。
今回のように時間に制限があるときはなおさら無理である。
しかも杵築駅からのバスが15時過ぎにしかなく30分以上待たないと無い。仕方なくタクシーに乗って杵築城に向かう。
10分ほどで杵築城につく。
こうして3時まえに杵築城に着き、
約2時間の散策が可能となる。
絶景のロケイションにあった杵築城
杵築城は絶好のロケーションにあった。またお城には杵築市内の市民から寄付された石塔や石仏が多数展示されていてびっくりした。
はじめはレプリカが展示してあるものとばかり思っていたのだが、案内を見ると、個人が持っていても盗難等に合う時代になり、
いっそうお城で展示して保管するほうが作品を維持管理できるとの市民の総意で現在のような展示がされていると書かれていた。国東半島のお宝が展示されている。
国東半島などめぐらなくても国東塔や五輪塔などの石塔はここで見れば十分?と感じた。本物が展示されていることに感動した。
お城を下り城下町、日本唯一のサンドイッチ型城下町杵築を散策する。商人の町を挟んで、南台武家屋敷と北台武家屋敷がたちならんでいる。古い町並みが比較的大きな規模で残っており、
数時間の散策にはちょうどよい町並みである。観光にも力を入れているようであちこちにパンフレットなどが置いてあった。
しかし商店や食べ物屋などは無くちょっと時間を観光客を楽しませるにはもう一工夫必要と感じた。
なお余談になるが、もともとは木付であったのが、江戸中央幕府の役人が間違って杵築と書いてきたのをそのまま引き継いで現在の杵築になったとあった。
いずこも上の人のいうことには逆らえないと妙に感心した。
第三日目 日田と田川を訪れる
観光客でにぎわう日田
ここも旧城下町の中心地、豆田町を観光地として売り出していた。ちょうど観光バスが数台訪れていたこともあり
街なかには観光客があふれていた。
トラピックスのバッチをした人ばかりが目立った。
阪急交通社はこの日田観光を大いに売り出そうとしているのだと感じた。
やたら見るところは多いのであるが、どれもが有料で、
どこでも見れるクーポンとか作ってもっと観光客を滞留させる工夫が必要と思った。
もっとも食べ物屋や土産物屋が軒を出して観光客を引き付けているのはよいと思う。饅頭屋から新鮮野菜の即売などもあり、
観光地のみやげ物野屋街といった感はよいと思った。ぶらぶらと街を滞留できるからである。
といっても、現状ではバスの観光客がお昼を食べによる程度になってします。
じっくりと町並みを診て廻る人をひきつけるにはもう一工夫必要だと感じた。
広瀬資料館というところを訪れたが、入場料450円も取りながらわづか10数分で見終わるような有様である。
こんな資料館みたいな有料施設がやたら目に付くのだが、きっと2件も廻るといやになるのではと思った。
もう少し滞留できるような舞台、公園などが必要に思える。
道路も自動車が我が物顔で走っており、
観光客が興ざめだといっていたのには納得である。
臼杵、杵築、日田の中では一番の賑わいであっただけに残念である。
岐阜は高山のような観光地を目指しているのかもしれないが、やはり目玉を作らないと思う。
にぎわう炭鉱博物館を訪ねる

大分からの帰路を日田経由田川石炭博物館見学、その後小倉から新幹線にしたのにはわけがあった。
2002年九州の旅行の折、ボタ山と炭鉱の歴史を知りたく直方の石炭博物館を訪問した。その当時はまだこの田川の石炭博物館は無かったように思う。
山本作兵衛コレクションがユネスコ世界記憶遺産に登録されたことがきっかけで、彼の作品が日本中に紹介され話題となった。
小生も直方に行ったことを思い出したが、機会があれば田川の石炭博物館を訪ねたいと思っていた。
そんな事を思っていたとき、今回の大分行きを決めるとき、帰りにぜひ田川に寄って帰るコースを組むことにした。
石炭博物館は大変な賑わいであったし、駅からの地下道を通ってのコースも新設されていた。
が日田からの汽車は昼間は数本あるのみで、乗客たるや、2両編成で走っている列車に数人しか乗っていないという惨状である。
多くの人は自動車に乗っているのであろうが、九州の炭鉱地帯の寂れた惨状をひしひしと感じました。
博物館の絵は炭鉱の生活ぶりをよく伝えていると感じました。
今回の旅では2時間ほど田川に途中下車した形になったが、もう少し時間をとって炭鉱の町の歴史を学ぶ旅行をしたい。
炭鉱地方の寂れた惨状を報告したが、田川から小倉にいたる汽車も本数は一時間に2本ほどあり、
結構充実しているようには思えたが、乗客はやはり少なく寂れているように感じた。
後セメントをつくる工場があり、山を文字どうり切り取っているのにはびっくりした。
小倉からは一路新幹線望みに乗って帰路に着いた。3時間強で京都の自宅につくことができた。
記 2011年10月吉日