2004年の正月は長崎で迎える

今年の正月もまた九州で迎えた。原爆とキリシタンで有名な港町長崎で迎えた。今年の旅は下関で武蔵を偲びレトロ門司港を訪れ、フェリーを駆使して五島列島は福江島に渡り西のはて万葉乃里三井楽で東シナ海を望み、長崎で正月を迎える旅であった。
今回九州長崎を旅するに導いた最大の牽引車は、元旦の飛行機バーゲンフェァーである。実に伊丹長崎間が9、100円で搭乗できる。
旅の計画は元旦長崎空港から伊丹に帰る飛行機を確保したところから始まる。さてではどの様にして長崎に行くのか?長崎は何処を訪れるのかと計画を立てるのである。
島原から天草にするか?五島にするか?さらに費用はどうなるのか?ガイドブックを捲る中、博多から福江島への夜行フェリー太古を発見して旅程は決まった。
まずは今ブームの下関巌流島を訪れて武蔵と小次郎をの対決を忍び、レトロで売り出す門司港を訪ねる。
博多へ移動して夜行便で福江島を訪れ、長崎に再度フェリーで移動する。
長崎市内をたっぷり観光して一路飛行機で帰路にという具合である。
交通費、宿泊代金など考えてもなかなかリーズナブルな計画である。パック並とは行かないまでも下関巌流島とレトロ門司港 ・福江島 ・長崎4泊5日朝3夕1付き新幹線とフェリーグリーン寝台、飛行機とMKタクシー付き55、000円の旅はなかなかの計画と自負している。
実際はこれに食費と観光代金(施設入館料金、レンタカー、観光バス代、市内観光交通費、食費)が20、000円ほど必要となる。
2ヶ月前に飛行機の予約を取ることから始めた結構大がかりなものである。

小次郎は門司を向いていた

8時50分に自宅出発。9時59分新大阪発レールスターで新下関に向かう。ちょうど昼過ぎに下関に着いた。まずは腹ごしらえをして、早速JRお薦めの武蔵ハイキングを開始する。ゆかりの地を歩く"その六"山口下関コースをたどる。
話がそれるがこの武蔵ハイキングMAPはなかなかのものである。細かな路地まで記載してあり迷うことなく目的を達することが出来る。全部で八種類でているが、観光ハイキングにはお勧めである。
紅葉稲荷神社から日和山公園、永福寺を経て亀山八幡宮、唐戸桟橋と歩いた。日和山公園には高杉晋作の銅像が海峡に向かってそびえ立っていた。
又亀山八幡宮には日本一大きなふぐの像とか林芙美子の文学碑、さらに日本床屋発祥の地碑など具だくさんのところである。
下関は市街地を坂道が取り巻く典型的な港町で坂の町である。しかし日本銀行の支店がある想像以上に大きな都市であった。
さて巌流島であるが、いまは埋め立てが進んで決闘当時より大きな島になっているとのことである。次の舟が来るまでに約50分ほどあって、銅像などを見て回るわけである。それ以上のものではないが、やはり小島に渡って立つと言うことが重要なのである。小生以外にも沢山の人が訪れた。記念写真を撮って巌流島上陸記念認定証を頂くわけである。
島へは船で10分ほどであるからちょうど1時間10分の行程である。お気軽な観光であった。
この後連絡船に乗って門司港に向かう。連絡船は10分おきぐらいに出ておりこれも10分ほどで対岸の門司港に着く。 近年レトロ門司港で売り出してはいるものの、ついたのが夕暮れ時であったせいもあり、レトロタワーに登る以外は何もできなかった。
下関に比べ小さな町との印象が強かった。時間があれば関門海峡を歩いて渡りかったのであるが又の機会に譲るしかない。
28日の歩数22800歩

フェリー太古で朝福江港に着く

門司港から快速で博多まで約1時間30分の移動である。
バスを乗り継いで博多港に着くとそこに五島列島行きフェリー太古が待っている。0時01分発にもかかわらず、22時には乗船が開始される。
年末の帰省客でごったかえし席の確保で皆血走った目をしていた。小生は一ヶ月前に指定席のグリーン寝台(二段ベッド)を確保していたので悠々である。しかしあまりの混雑と冬の夜なので実のところ窓も何もないベットしか居場所がなく、寝付くままではちょっと大変であった。
福江港までにいくつかの寄港地があり、早朝4時にはアナウンスが入り始める。その後1時間ごとのアナウンスに起こされ、ベッドからでると通路にまで人が寝ていてビックリした。昨夜は出航前に就寝したのでこれほど人であふれているとは夢にも思っていなかった。年を取り早くから目が覚めるようになった。こんな状況でベットにしか居れないのにはほとほと参った。
最終寄港地の奈留島を過ぎると乗船客も少なくなり、遅めの朝食を頂くことが出来た。

3人の客を乗せた観光バスが出発

福江港に着くと予約した観光バスが迎えに来る。観光バスは二人以上で運行になる。この日は午前便だけ運良く運行となった。
東京から来たカップルの小林夫妻と小生の三人が乗客である。ガイドさんは自称一八才の佐藤さんである。
昨年の桜島観光でバス巡りがよかったので今回も観光バスにした。土地の話やいろいろなことが聞け楽しい半日観光となったが、如何せん半日では何処も見ることが出来ないもどかしさがあった。
観光バスでは堂崎教会と鐙瀬溶岩海岸に行った。堂崎教会は赤煉瓦造りのゴチック様式とヨーロッパの典型的な教会スタイルである。明治一二年建築の五島初の天主堂である。ちなみにガイドさんの説明によると五島でのキリスト教徒は人口の約一〇%とのことでした。やはり多いように思える。
鐙瀬溶岩海岸では残念ながらビジターセンターが休みで、周りの島々を見たに止まった。
乗り合わせた3人とも午後も観光バスを希望したが、前日閉めきりとのことで急遽レンタカーに乗り換えることになった。

レンターカーで島を一周

観光バス会社でレンタカーを借りた。軽自動車のライフである。軽といっても4ドアの立派な車であった。沖縄のレンタカーとは違い無傷の新車同様の車で感激した。
まずは佐藤ガイドの住む玉之浦町大瀬崎灯台と井持浦教会ルルドをめざす。途中まず富江町の井坑(溶岩洞穴)によった。ここは現在閉鎖中であったが島が溶岩で出来ていることをよく示す場所であった。さらに勘次が城にも寄る。海岸に残された石積みの遺構で、倭寇の時代の物らしい。海賊と戦うための城壁が作られていたようである。海に向かった大きな倭寇像にはビックリした。
海岸沿いに玉之浦町に向かうが意外に遠い。海岸線特有の葛折りの道とようやくすれ違える細い道に意外と神経もすり減ってしまう。
先に井持浦教会ルルドに寄るつもりが見過ごすミスをしてしまった。大瀬崎灯台では有数の絶壁に本当に感動する。 井持浦教会ルルドでは写真のみ撮らしていただいた。実のところすでに相当疲れていて、あまり熱心に見学しなかった。やっぱり観光バスの方がらくちんと再確認しました。
次に向かったのは西の果て万葉乃里三井楽町である。柏崎公園には、遣唐使や遣隋使が最後の寄港地とし、ここから東シナ海の大海原にでていった記念の碑が立っている。
空海記念碑「辞本涯」が西の中国を望んで立っている。本涯を辞すとは日本の果てを去るとの意味だそうである。この日東シナ海は大きく荒れていた。じっと海が収まるのを待ち一機に中国をめざした平安時代の人を思った。
この後遣唐使ふるさと館によって今日の宿中本荘へと急いだ。
29日歩数8、176歩

福江市内を散策した2日目

福江島での宿泊は、インターネットで選んだ「海鮮料理自慢の旅館」中本荘である。 夕食ではお刺身や焼魚、天ぷらなど腹一杯いただいてぐっすりとやすみました。
朝中本荘のある武家屋敷や、石田城跡、福江港と常灯鼻、明との貿易が盛んだったころ作られた中国人街の名残を残す六角井戸や明人堂を散策した。
12時のフェリーには未だ時間があったので、レンタカーでアコウの巨木と国宝のある明星院を訪ねて福江島を後にした。なお明星院は年末で残念ながら見学することはかなわなかった。
福江島でのレンタカーの走行距離は二日間(24時間)で169キロメートルであった。

ついに長崎に到着

福江港を12時に出航したフェリーは、奈留島、中通島を経て16時40分に長崎港に到着した。ジェットフォイルを使えば1時間30分で到着できるのであるが、ここはやはり節約と急ぐ旅でもないのでフェリーで海を渡った。
福江島から長崎港まで直線にして100キロあると聞いていた。にもかかわらず長崎入港時かすかに五島列島の島影が見えたように思われ、相当遠くの島まで見えるものだと改めて感心した。
入港1時間も前から三菱重工のドックが鮮明に見えたのにも驚いた。
長崎港大波止ターミナルビルを出るとすぐサンルート長崎の看板が見えほっとする。 この日の歩数は20、046歩
 

二日かけてたっぷり長崎見学

31日は朝から雨であった。雨の中まずは平和公園と浦上天主堂を訪れた。原爆資料館は元旦から開くとのことでこの日は休館日である。爆心地に再現された浦上天主堂の破壊された建物や、公園内のモニュメントの数々を見て回る。その後再建された大浦天主堂を見学し、山王神社の二の鳥居を確認し、坂本国際墓地を見学して一旦ホテルに帰る。
雨と寒さでどっと疲れがでてしまい体が温まるまでの休息をとる。
昼になってようやく元気になり昼食をとりに一路中華街に向かう。開店している店が少なく何処も人の行列が出来ている。あちこち探して回りちょっとはずれの中華店で特製皿うどんを頂く。これが実に旨くて、特製の名に恥じない多くの具がのっていた。
腹ごしらえを終え、天気も回復してきて元気になってくる。そこでまずは旧中国人街唐人屋敷跡を巡る。チャイナタウンのすぐそばの高台にある。市場などもあり下町と言った感のあるところである。
  ここからオランダ坂に向かう。唐人屋敷跡からは、高台の細い道を行けばすぐに行けそうであるが、込み入っておりどうも旨く行けそうにない。一度中華街にまで戻って大きな道づたいにオランダ坂をめざす。オランダ坂は坂というだけあってすごい坂道にある。自動車が通る道はオランダ坂通でオランダ坂とは違うようである。オランダ坂はどちらかというと歩行者専用の急坂と言える。坂を上りきると車道と一緒になるが、その下りたるや車が止まらないのではと心配するくらい急坂であった。
この高台から、孔子廟中国歴代博物館がかいま見えるのであるが、そのすごさに圧倒された。時間がなく見学していないが見る価値は十分とある見た。
オランダ坂を降りると、グラバー邸第2入り口への道という、ミニケーブルカーのようなエレベーターに出会う。斜めに登るエレベーターは初体験であった。しかも今はやりの展望付きなので斜めに登るのがよく判る。恐ろしく展望のよい高台にでる。この先に二段目のエレベーターが待っている。こうしてグラバー邸の一番高台から見学を開始できるようになる。正門というか第一入口からだとのぼりばかりになりなかなか大変なのでこうした工夫をしたと思われる。邸園内にはちょっとした登り専用エスカレーターもあった。さすがにグラバー邸ではなくグラバー園というわけである。
グラバー園からすぐそばの大浦天主堂を訪ねた。歴史があり、国宝とのことである。がちょっとお寺の見学より疲れるように思えた。写真を撮るな、騒ぐな、云々で……小生の偏見か?
夜は諏訪神社と出島ワーフを訪ねた。ここも一昨年の福岡と同じで、小生が出かける頃は未だ準備段階で、二年参りというか年越しの行事はもっともっと遅くならないとという雰囲気である。何しろ人がいない、電気もついていない。
若者主体の出島ワーフでも未だ数十人の人が集まっているだけであった。それでも8時過ぎにはなっていたのに……
この日の歩数は31、435歩
なお長崎では電車のり放題一日切符を500円で購入して、電車で行ったり来たりした。今回は電車に乗って町をしるであった。

元旦に原爆資料館と出島を訪ねる

元旦の朝さっそく開いているという原爆資料館と国立平和記念館を訪ねる。原爆資料館は新しく建て直されたようで、未だ新しいものであった。それだけに展示の内容もなかなかのものである。人類の中でこれほど悲惨な兵器はないことをいろいろの角度から訴えるものとなっている。 長崎を訪れる人は必ず寄って欲しいと思った。
さらにその隣には国立平和記念館が建てられていた。戦没者の名簿が保管され平和を祈念している。
この後アーケード街に戻り、昼食を取る。ところが悲惨なことに食堂という食堂が開いていない。チャイナタウンも開いている店が少なく何処も行列である。ようやく見つけたラーメンをすすり、ベローチェで昼休みというか昼寝をして元気回復する。ちなみにマクド、ドーナッツ、ドトールなどは明いてはいたが……
午後からは復元作業が進む出島を訪れた。ここ数年のうちには完全に復元するとのことで現在は発掘作業などを行っていた。復元されたオランダの旗を掲げる柱の巨大なことにビックリした。高さも20mちかくあるように思えた。
空港への時間があり比較的さっさと出島は見学したが、半日かけて見学してもよい場所である。
終わってみるとあっと言う間の5日間であった。歩いて町を知るをテーマにしているが、今回はどちらかというと交通機関を駆使したたびになった。町の規模が小さくなればなるほどどうしてもと歩では物足りなくなってしまう。とは言え車でさっさと通っていくと、ちょっと下町の変化というか匂いというか、あるく旅でしか会えない人の営みがつかめなくなる。なかなか良い旅にするのは難しいと思う。しかし今回も其れなりにそれぞれの町を身体に刻み込めたと自負している。
元旦の歩数13、300歩
ANA長崎便17時55分伊丹無事着陸。19時自宅着、元旦は交通量も少なくMKタクシーは40分ほどで京都に到着した。
              記  2004年1月吉日
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