4月の末、連休前のある日、ヤマちゃんから電話があった。内容はといえば九州博多に神籠石を見に行かないかとの誘いであった。ええ?それはなんやといったらムニャムニャとと
山城や!九州の山城や!丁度阪急トラピックスの広告で、「博多往復のぞみで2泊3日、¥32400-(1人1室朝食付)」これで安く行けるからどや?九州彩色古墳を尋ねる旅の続きや!と言っているのだ。
どうも良く聞いていると1人で予約して1人で旅をするのは苦手で、私に手配させようとの目論見のようであった。
私はコロナ疲れで旅もしたくてうずうずしていたので、ま!いいかと誘いに乗ることにした。梅雨に入ってからの山行きは困るのでなるべく早めにしようと言うことで最速の日程にした。
大まかではあるが、1日目は久留米の高良山にある神籠石を見に行くこととし、2日目は太宰府にある四王寺山の山城探索、3日目は佐賀県にある帯隈山の神籠石探索と決めた。
糸島の雷山に登るとか博多湾を望む高祖山に登るとかの案もあったが、初めての神籠石の旅なので先ずは神籠石を見ることを第一の目的として旅をすることにした。
余談になるが、新大阪朝7時15分発のぞみに乗るのであるが、6時45分新大阪駅前は車輪展示の前で切符を受け取る指定となっている。
この時間に新大阪駅に着くには京都の住人としては大変な苦労がある。阪急電車の一番電車に乗って、南方まで行って、さらに歩いて新大阪駅前に行くのである。格安での旅行にはいつも苦労がついて回るのであるが、
すぐにはまた行こうという気にはならない。ついでに言えば、帰路も新大阪22時30分について、逆コースで自宅を目指すのであった。
朝の9時50分には博多駅に着き、10時過ぎの荒木行快速電車で久留米を目指す。さらに久留米駅で久大本線に乗換久留米大学前に向った。
11時過ぎには高良大社の大きな鳥井の前に立つことが出来た。地図を便りに神籠石を探すべく山に入った。しばらく歩いて神籠石の案内板にたどり着いたが、どの石が神籠石か判らない。
何しろ見たことが無い訳だから案内があるそばでも良く理解できない。大きな石がいくつもあるのでこれかな?あれかな?なんて話をしながら探索する。
よくわからないので高良大社に参る地元の人に、神籠石はどれですか?と尋ねるのだが、返事はみんな良く判らないとの答えしか返ってこない。
山の中ををぶらぶらしたのであるがこれが神籠石、山城の跡と断定できない。せっかくここまで来たので高良大社にお参りしていくことにして、
参道となっている山道を登り大社のある頂上に向かった。途中で休憩をかねて弁当を食した。参道を歩くこと1時間で大社駐車場に着く。自動販売機があって水を手に入れることが出来て一安心し
た何しろこの日日本で一番暑い場所が久留米と来たので、弁当と一緒に用意した水ではとても足りない無謀登山の丁であった。
ここでも休憩中の高良山参りの女性グループに、神籠石について尋ねるも、そうね!神籠石ね聞いたことあるるけれど良く判らない?との返事がかえってくる。
2日目は太宰府の山城、四王寺山史跡にある大野城の城門跡(太宰府口城門跡、坂本口城門跡、観世音寺口城門跡)や尾花礎石群を訪ねることにした。西鉄太宰府駅から道路沿いを約2時間登ることになった。
2日目もまた九州は暑い日になったので、車道を上るのは大変困難がついて回った。以前にはバスが頂上まで行っていたというが、ここも過疎地と同じでみんな自家用車で行くバスは廃止となっている。
タクシーかテクシーしかないのである。もちろん我々はテクシーだが、日が照りつける車道を登るのは想像以上に体力を奪い休み休み、トボトボと登ることになってしまった。
予定では県民の森に行って、さらには奥の北石垣城門跡まで行く予定であったが、手前の城門跡で力尽きる結果となった。
この日の目的は、後の山城と呼ばれているものと、神籠石を比べ見ることであった。城門口と呼ばれるものや石垣など全く異質のものであることをこの目で確認することにあった。
神籠石は明らかに防御機能では山城には劣るものであった。また山を囲む方式も全く違ったものであると確認した。高良山神籠石と太宰府山城の違いを直に体験できたことは重要であった。
下山は坂本口城門跡から大石垣を経て、太宰府政庁跡にでる山道(登山道)をたどった。事前に調査しこうした登山道を上って居れば一層有意義なものとなったと感じた。
さて少し脱線するが、太宰府政庁跡であるが古い字名では紫宸殿跡と呼ばれており、実は九州王朝の本殿跡であると言われている。太宰府とは今の総理府(内閣府)に当たるもので、
今の天満宮のあたりが太宰府と呼ばれていたとのこと。九州王朝についてはこれから驚くような事実が明らかになっていくと確信しています。興味のある方は古田武彦の古代史に触れてください。
この日は観世音寺から西鉄太宰府駅まで更に歩いて無事電車に乗って博多に帰った。
3日目は天気予報によると曇りのち雨となっていた。雨が降る前に神籠石を確認したいとの思いで、比較的簡単にいくことが出来る佐賀県の帯隈山神籠石を訪ねた。
この地は背振山の麓で、大環濠で守られた縄文遺跡では最大の吉野ヶ里を控える有明海を望む場所にある。いわば九州王朝が有明海(西南方面)からの守りで築いたのがこの帯隈山神籠石群である。
佐賀市の一駅手前のJR伊賀屋駅北4Kmぐらいにある。バスを逃しても歩いて行ける距離にありここを選んだ。
この日は運良くバスが来て帯隈山神籠石群の入口までスムーズに行くことが出来た。案内板もあり史跡指定の場所にはすぐ着くことが出来た。
しかしこの場所は長さ数十メートル、高さ数十センチの神籠石が並ぶだけで、佐賀県のホームページに載せられているような巨大な?神籠石や、数キロに及ぶというような光景ではなかった。
奥に行けばと1時間余り山の中に入って探索するもそれらしきものの発見に至らなかった。高良大社の例もあるので思い切って佐賀県教育委員会に電話で問い合わせることにした。
そこで判明したことはホームページ掲載の写真のような大きな神籠石は、担当の人もどこにあるか判らず探しているとのこと。昔九州大学で調査したときの写真で、埋め戻しや、
開発で不明になったとのことでした。奥にも入口のような神籠石があると案内され、土塁の基礎になっているのを発見した。それが右側の写真である。
まむしが出るので十分注意してくださいと言われ何回か電話の後漸く発見した。こんな経過もあるので天気具合も余り良くなく探索はそこでと止めた。
全容を見ることは出来なかったし、山頂にも行ってないが、帯隈山の麓を神籠石を土台に土塁が数キロ以上築かれているのは確認できた。また案内にはこの土塁の前にはさ数メートルの
柵木が築かれていたとのこと。いわゆる古墳時代の山城とは違うが、明らかに有明海を意識した防衛施設として築かれたものであろう事は確認できた。