阿弥陀寺と織田信長
 天正10年(1582)6月2日。本能寺で明智光秀に奇襲された信長は、首を敵に渡すことを恐れて自害した。正式な葬儀は死から遅れること4カ月半、10月15日、秀吉の主宰により行なわれた。
 さて6月2日、阿弥陀寺の清玉上人は事件を聞きつけると急いで本能寺に行き、墓の後の薮の中で武士たちが信長の遺骸を火葬しているところに出会った。彼らに問いただしてみると、なんでも遺体を敵に渡さないようにとの信長の遺言を守って火葬しているとの返事であった。上人はそれを聞くと、「火葬は出家の役である。ここで火葬したあとに、私が遺骨を阿弥陀寺に持ち返り、墓を築き、その後葬礼法事を行なうのでお任せください」と言い、焼かれた信長の焼骨を取り集めた。そのあと光秀の兵卒たちに怪しまれないよう、本能寺の僧が立ち退く様子をして阿弥陀寺に帰り、ひとまず遺骨を隠した。そののち、寺院の僧徒たちだけで密かに葬儀を行ない、お墓を築いて納骨した。
 こうした事情を知らない光秀は、信長の遺骸を士卒たちに捜させたが、ついに発見出来なかった。一方、阿弥陀寺の清玉上人はさらに本能寺で討ち死にした112人の死骸を引き取り、阿弥陀寺の墓所に葬った。さて6月13日、光秀を山崎の合戦で討ち滅ぼした秀吉は、信長の遺骨がまつられている阿弥陀寺に対し、ここで葬儀を行なうことを告げた。しかし上人は、すでに葬儀はすんだからそれには及ばないといって、秀吉の申し出を辞退した。さらに法要料ならびに御位牌前仏料として300石の御朱印が、秀吉から差し出されたが同じように辞退した。そのため秀吉は大変に立腹し、柴野にある臨済宗大徳寺境内で法事をすることになった。
                    / 情報誌『デス・ウオッチング』93.5より
 寺宝である織田信長木像             納骨されている織田信長本廟
 
 
阿弥陀寺へはバス停河原町今出川から、寺町通を上がること約10分です
 
2002年 第36回京の冬の旅 うるわしコースで阿弥陀寺の秘宝を訊ねます。 興味のある方は是非参加してみて下さい。 詳しくは京都交通局のホームページhttp://www.kyototeikikanko.gr.jp/fuyu/fuyutabi/l41.htmlを見て下さい。