青く透けた無限の天空を霞のような春の雲が流れていく。まだ春寒の残っている冷たい空気の中に、花や芽の瑞々しい匂いが混じっている。気持ちよく晴れ上がった青空を背景に、満開の桜の花が咲き誇っていて、温かな春風が吹くと桃色の花弁が花吹雪となって渦を巻く。まるで自分の新しい生活を祝福してくれているみたいだと、宮城県航空自衛隊松島基地の正門の前に立つ彼女は思っていた。制帽、紺色のジャケットと膝下丈のタイトスカートを身に着け、左胸に銀色のウイングマークを輝かせる彼女の名前は燕揚羽2等空尉。福岡県築城基地から松島基地に異動してきた航空自衛官である。 「お帰りなさい、ドルフィンテール」 穏やかな調子の声が春風に乗って揚羽の耳に届いた。声が聞こえたほうを見やると、警務室の前にパイロットスーツ姿の男性隊員が、日焼けした顔に微笑みを浮かべて立っていた。190センチの筋骨逞しい体躯を誇る男性は、2年前から揚羽がよく知る人物だ。彼は鬼熊薫2等空佐。TACネームは「ベアー」の鬼熊2佐は、第11飛行隊ブルーインパルスの飛行班長を務めていたが、3等空佐から2等空佐に昇任し、今はブルーインパルスの飛行隊長、そして1番機パイロットとして空を飛んでいる。こちらにやって来た鬼熊2佐に向けて揚羽は敬礼した。 「ただいま戻りました。鬼熊2佐、私はもうドルフィンテールじゃありませんよ」 「そうでしたね。基地司令がお待ちしていますので、行きましょうか」 揚羽に視線を投げかけた鬼熊2佐が歩き出す。警務隊が勤める警務室の受付窓口に、身分証を提示した揚羽は彼のあとに続いた。庁舎地区にある第4航空団司令部に入り、基地司令が待つ司令室の前に向かう。鬼熊2佐が扉を叩いて用件を伝えると、「入りなさい」と返事が返ってきた。扉を開けて入った司令室は、金粉を振り撒くような春の陽光で満ちている。正面に置かれている執務机の左側に、背筋を伸ばした男性がこちらのほうを向いて立っていた。揚羽と同じ空自の紺色の制服の左胸には、色鮮やかな防衛記念章が数多く着けられている。第4航空団兼松島基地司令の斎藤一之空将補は、揚羽を見るとにこりと微笑んだ。 「申告! 燕揚羽2等空尉は、本日築城基地より第11飛行隊に着隊しました!」 揚羽は真っ直ぐに背筋を伸ばすと、明瞭とした声で淀みなく着隊の報告をする。斎藤空将補は揚羽に視線を当てたまま、静かに「ご苦労」と返事を返した。 「燕揚羽2等空尉、君は今日この瞬間から、第11飛行隊ブルーインパルスの一員だ。君と同じく、ブルーインパルスのパイロットを目指す自衛官たちの鑑となるよう、しっかり訓練に励みなさい」 「はい!」 第11飛行隊ブルーインパルスの一員。まさに身も心も引き締まる凜とした言葉だ。斎藤空将補に敬礼をした揚羽は、鬼熊2佐と共に司令部をあとにした。隊員食堂、基地クラブ、基地売店など、基地施設は見慣れているはずなのに、気持ちが新しくなると見る物すべてが新鮮に思えてしまう。鼻歌を歌いながら、ミュージカルよろしく華麗にスキップをしたいところだが、鬼熊2佐がいるので揚羽は我慢した。 基地東側の区画にブルーインパルスの飛行隊隊舎と専用の格納庫は置かれている。上部に青色のラインが入った、見た目が学校の校舎のような白色の建物が第11飛行隊隊舎だ。自動ドアを抜けた先のエントランスには、ブルーインパルスのエンブレムが描かれたカーペットが敷かれ、創設50周年を記念したモニュメントが飾られているほか、向かって左手の壁には、メンバー全員の顔写真を貼った木製の額縁と、在籍隊員の氏名などを記したプレートが並べられていた。 揚羽と鬼熊2佐は正面の階段で隊舎の二階に上がり、左に曲がって廊下を進んでいく。飛行前と飛行後に集合して、飛行計画を打ち合わせるプリブリーフィングや、フライトの評価や反省をするデブリーフィングを行う、ブリーフィングルームのドアが見えてきた。ブリーフィングルームの隣にあるのは隊長室だ。ブリーフィングルームから賑やかな声が聞こえてくる。鬼熊2佐が言うには、飛行班の全員が首を長くして、揚羽が来るのを待っているらしい。それを聞いて揚羽は緊張した。鬼熊2佐がドアをノックして開ける。果たしてどんなパイロットたちが待っているのだろうか――。揚羽は緊張しながら入室した。 「きたきたきたーーー!!」 揚羽が入室した直後だ。椅子を跳ね飛ばして立ち上がった青年が雄叫びを上げた。目を白黒させる揚羽に構わず、青年は闘牛のように鼻息荒く近づいてくると、がっしりとした両手で揚羽の手を握り締めた。 「初めまして! 俺は6番機パイロットの相田亮平1等空尉です! TACネームは相田の『あい』をとった『ラブ』です! みんなからはブルーインパルスのムードメーカー、アイラブ相田って呼ばれ――あふんっ!」 突然相田亮平1等空尉がちょっと悩ましげな声を上げた。相田1尉の後ろに違う青年が立っている。パイロットスーツのポケットに両手を突っ込み、片脚を上げた状態の姿勢だ。相田1尉は涙目で臀部を押さえているから、後ろの青年が予告もなく蹴りをお見舞いしたのだろう。 「いきなり蹴るなんて酷いじゃないか! お尻が四つに割れたらどうするんだよ!」 「うるせぇくたばれクソ野郎」 「だいたいお前はどうしていつも蹴ってくるんだ!?」 「そこにお前がいるからだ」 「なんだと!? この白雪姫がっ!」 「その名前で呼ぶな!」 臀部を蹴られた相田1尉と彼の臀部を蹴った青年が火花を散らす。なんだか初めて颯と会った時の自分を見ているようである。今にも掴み合い殴り合いの喧嘩を始めそうな、二人の間に割って入ったのは、やはり鬼熊2佐だった。 「いい加減にしなさい! また1週間トイレ掃除をしてもらってもいいんですよ? それとも――」 2年前に颯を戦慄させた鬼熊2佐の氷の微笑みは今も健在だった。骨の髄まで震え上がった相田1尉と青年は、怒りの矛を収めるとそれぞれ席に着く。しかし二人は怒られたのはお前のせいだと言わんばかりに、テーブル越しにまだ睨み合っている。どうやら二人の諍いは日常茶飯事らしい。残りのパイロットたちはどこ吹く風といった様子だ。鬼熊2佐は額に手を当てて嘆息すると、気を取り直した顔で揚羽を見やった。 「みっともないところを見せてしまってすみません。自己紹介、よろしくお願いします」 鬼熊2佐に頷いた揚羽は、踵を合わせて背筋を伸ばし、右手をこめかみに当てて敬礼した。 「築城基地から着隊しました、燕揚羽2等空尉であります! よろしくお願いします!」 揚羽の着隊の挨拶が終わると、パイロットたちは順番に自己紹介していった。飛行班長の北浦克寿2等空佐。2番機の三井武憲3等空佐。3番機の鹿島穰3等空佐。4番機の比嘉真太郎1等空尉。相田1尉の二回目の自己紹介が終わり、最後に彼と火花を散らした青年が揚羽の前に進み出た。 「――5番機パイロットの真白潤1等空尉。君のことは先輩の鷲海さんから詳しく聞いてる。これからよろしく」 真白潤1等空尉は表情を変えず淡々と挨拶をした。短く刈り込んだ黒髪と、日に焼けた人好きがする顔立ちで、背が高く身体つきもがっしりとしていて逞しく、まさに熱血漢を絵に描いたような相田1尉とは対照的に、真白潤1等空尉はパイロットしては色白で華奢な姿態をしている。硝子細工のように繊細で神経質な青年。それが揚羽が覚えた真白1尉の印象だ。そして最後に鬼熊2佐が改めて自己紹介をして、着隊の挨拶と顔合わせは終了した。 荷物の整理があるだろうから、今日はもう基地官舎に帰っていいと言われたので、鬼熊2佐たちに一礼した揚羽は飛行隊隊舎をあとにした。飛行隊隊舎を出た揚羽の目に、エプロンに駐機されている、ブルーインパルス仕様のT‐4の姿が映った。懐かしのT‐4を見てから官舎に行くことにした揚羽は、エプロンのほうに向かう。六機のT‐4は飛行後点検が行われている最中で、三人一組で点検する整備員の中に、揚羽は見知った顔を見つけた。エプロンに立つ揚羽に気づいた整備員は、歓喜の笑顔を浮かべて走ってきた。 「揚羽ちゃん! お帰りなさい!」 「ただいま! 花菜ちゃん!」 整備員は佐倉花菜1等空曹。第11飛行隊の整備小隊に異動した花菜は、OJTと呼ばれる実務訓練を受けたあと、晴れて一人前のドルフィンキーパーになったのだ。およそ2年ぶりの再会を、手を取り合って喜ぶ揚羽と花菜のところに、もう一人の整備員と男性パイロットがやってくる。二人の登場はさらに揚羽を喜ばせた。 「おう! 元気そうじゃないか! ドルフィンテール!」 「久しぶりだな、ドルフィンテール」 やって来たのは三舟勇1等空曹と蓮華悠一2等空佐だった。三舟1曹は第11飛行隊の整備小隊整備班長として基地に留まっていて、ブルーインパルスの1番機パイロットの任期を終えた蓮華2佐は、現在第21飛行隊の教官として、ファイターパイロットの育成をしている。2年前は独身貴族だった蓮華2佐は、去年結婚したと聞いた。だが驚くことに蓮華2佐の結婚相手はなんと花菜なのだ。揚羽と同じく花菜も、憧れのドルフィンライダーと幸せになることができたのである。二人が左手の薬指に嵌めている、お揃いの結婚指輪が、まだ結婚していない揚羽にはとても眩しく見えた。 「もう! 鬼熊2佐にも言いましたけれど、私はもうドルフィンテールじゃありませんよ! だから三舟さんも蓮華2佐も、次からはドルフィンライダーの燕揚羽って呼んでくださいね!」 揚羽が唇を尖らせて不満をぶつけると、三舟1曹と蓮華2佐は揃って苦笑した。二人に怒って注文したが、ドルフィンテールと呼ばれた時、実は嬉しかったのは内緒だ。整備員に呼ばわれた三舟1曹は、揚羽に片手を上げると急いでエプロンを走っていった。 「それじゃあ私も隊舎に戻るよ。またあとで」 「はい」 揚羽は呆気にとられた。蓮華2佐と花菜はなんと揚羽が見ている前で軽いキスを交わしたのである。蓮華2佐と花菜は、周囲の目などまるきり気にしていない様子で、熱く見つめ合っている。まったく少しは遠慮したらどうなんだ。見ているこちらのほうが恥ずかしくなってしまうではないか。蓮華2佐を見送って花菜と別れた揚羽は、警務隊の隊員に挨拶して基地正門を出ると、徒歩5分の場所に建つ官舎に向かった。 これから揚羽が生活の拠点とする官舎の部屋は、偶然にも颯が使用していた部屋だった。まずは窓を開けて空気を入れ換え、次にカーテンを開けて暗い室内を明るくした。1LDKの部屋に積まれているダンボール箱を順番に開けて、きちんと中身が揃っているか確認する。新居に引っ越してきてから、まず最初に行うことは隣近所への挨拶だ。ここに来る前に予め買っておいた引っ越し蕎麦を携えて、揚羽は左右の部屋と、上と下の階に住む隊員に挨拶をしてから、既婚者の隊員とその家族が住む棟に足を運ぶ。目的の部屋を見つけた揚羽はインターフォンを鳴らす。ややあってドアが開き、部屋の住人が顔を覗かせた。 「揚羽ちゃん?」 「お久しぶりです、瑠璃さん」 「本当に久しぶりね。立ち話もなんだから中に入って」 瑠璃に招かれた揚羽は室内に入った。2LDKの部屋は綺麗に整理整頓されており、ベビーベッドや紙おむつ、兎や青色の丸い鼠など動物の縫いぐるみが所狭しと置かれている。そういえば玄関にもベビーカーが置かれていた。 「瑠璃さんは今何ヶ月なんですか?」 「7ヶ月。この子ったらときどきお腹を蹴ってくるのよ」 大きく膨らんだお腹を撫でた瑠璃は嬉しそうに微笑んだ。瑠璃の名字は石神ではない。新しい名字は朝倉。松島救難隊の救難員の朝倉晴登1等空尉と結婚した瑠璃は、航空自衛隊を退官して今は晴登と一緒に官舎で暮らしているのだ。紅茶、ミネラルウォーター、クッキーを運んできた瑠璃は、少し難儀そうに揚羽の向かいのソファに腰掛けた。 「準備万端って感じですね」 部屋の半分を占領するベビー用品を見回して揚羽は言った。 「早く準備しておいたほうがいい! って晴登さんが次から次に買ってくるのよ。ちょっと気が早いと思わない?」 と瑠璃は呆れた様子を見せたが、我が子が生まれてくる時を楽しみにしているのが、手に取るように分かった。慈しむようにお腹を撫でる瑠璃からは、光のような母性が満ち溢れている。晴登と瑠璃の子供だ。きっと素晴らしい子供が生まれてくるに違いないだろう。 「瑠璃さんは子供を産むって決めた時、その、後悔はしなかったんですか?」 揚羽の質問に瑠璃は双眸を瞬かせた。それは今から1年前のことである。実は瑠璃はブルーインパルスの3番機パイロットに抜擢されていた。だがなんと瑠璃はそれを断ったのだ。揚羽と同じく瑠璃の両親もドルフィンライダーで、小鳥と流星と肩を並べて空を飛んでいた。瑠璃がドルフィンライダーになることを夢見たのは言うまでもない。そして抜擢の話が舞い込んだ。ドルフィンライダーはファイターパイロットの次に花形と言われる特技。空自パイロットなら誰もが喜び勇んで抜擢の話を受けるだろうに、瑠璃は夢を掴むことなく自らの意思で手放した。そして退官して晴登と一緒に生きる道を選んだ。後悔していないのか訊きたくなるのが人間の性だろう。ミネラルウォーターを一口飲んだ瑠璃はゆっくりと唇をほどいた。 「後悔はしていないけれど、とても迷ったわ。愛する晴登さんの子供が欲しい、守るべき人たちのために頑張る彼を側で支えたい。私は迷いよりもこの気持ちが強いことに気づいたの。だから私は晴登さんと一緒に生きる道を選んだの。この子を産むためには、私が元気な身体でいないといけないしね」 「それに」と言った瑠璃は言葉を続けた。 「私の夢は揚羽ちゃんが受け継いでくれたわ。飛んでいくT‐4を見るだけで、私はブルーインパルスのみんなと空を飛んでいるような気になれる。夢は夢のままで大切にしまっておいたほうがいい時もあるのよ」 瑠璃は晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。後悔していない、心から満足している様子が手に取るように分かる。瑠璃に引っ越し蕎麦を渡した揚羽は部屋に戻った。日用品の買い付けや、部屋の整理整頓をしているうちに、いつしか世界は黄昏を迎えていた。揚羽は写真立てをじっと見つめる。中に入っているのは、204のF‐15を背にして立つ、微笑んだ颯を写した写真だ。 花菜と瑠璃はそれぞれ結婚して、瑠璃は晴登の子供を授かった。もちろん揚羽も颯といつかは結婚したいし、彼の子供が欲しいと思っている。しかしまだ決心がつかないのだ。颯に結婚を申し込まれ、子供が欲しいと請われた時、自分は翼を畳んで空から離れられることができるのだろうか? いくら煩悶しても答えは出てこない。揚羽はベランダに出て景色を眺める。夕焼けで薔薇色に燃える空を、ブルーインパルスのT‐4が、タッチアンドゴーで飛んでいくのが見えた。 ★ 鏡のように明るい青空に爆音を轟かせながら、二機のT‐4が滑走路を疾走していく。5番機は離陸して脚を上げたのち、超低空で滑走路を水平飛行する。滑走路の端で急上昇、半宙返りで離陸時とは逆方向に飛んでいった。そして6番機は脚を下げたままのダーティー形態で、右に360度のバレルロールを打った。デュアルテイクオフの、ローアングル・キューバン・テイクオフと、ロールオン・テイクオフで離陸した5番機と6番機は、先に離陸していた四機とジョインナップすると、松島基地上空にアクロバットの軌跡を描いていった。 (これがブルーインパルスのアクロバット――!) 6番機の後席に座ってハンドグリップを握り締める揚羽は、あまりの凄さに全身の皮膚を粟立たせていた。全国の戦闘機パイロットの中から選抜された、精鋭たちが集まる部隊とだけあって、彼らの操縦技術には終始圧倒されっぱなしだった。ブルーインパルスは民間機のように、一機ずつ飛ぶようなことはせず、地上で編隊を組んだまま同時に離陸する。統制のとれた動きで迫力満点にテイクオフすると、低空飛行からあっという間に大空へ飛翔するのだ。 揚羽が担当するのはオポージングソロと呼ばれる第2単独機の6番機だ。デュアルソロ課目と、第1単独機の5番機とは異なる、オリジナルのソロ課目を実施する。また五機で実施する課目では、1番機が率いる編隊と合流して、フォーメーション課目も担当するため、ある意味もっとも多忙なポジションだと言えよう。ブルーインパルスの任期は3年と決まっている。1年目は訓練、2年目に実技、最後の3年目が実技と新規入隊者を教務するのが基本。ブルーインパルスは1番機から6番機までがあり、選抜された時点で乗る機番が決まっていて、3年間変わらない。なので揚羽は先輩パイロットの相田1尉に師事して、オポージングソロの全部を学ばなければいけないのだ。 「どうだ、スワロー。6番機のアクロバットにはだいぶ慣れてきたか?」 ファーストピリオドのフィールドアクロが終わり、6番機のコクピットから下りて、全身汗まみれで今にも倒れそうな揚羽に声をかけたのは、TACネームは「ノース」の北浦克寿2等空佐だった。1番機の後席に乗っていた北浦2佐も、揚羽と同じく全身汗まみれである。飛行班長もパイロットだが基本的に飛ばない。飛行隊長が病気や怪我などで飛べなくなった時に、代役として飛ぶのが飛行班長の役目だ。スワローは揚羽が第8飛行隊にいた時から使っているTACネーム。新しい部隊に異動したら、TACネームを変更することができるが、揚羽はスワローが気に入っているので、そのまま使い続けている。 「機体にかかるGは、最大で5Gまでだって聞きましたけれど、実際体験してみると、もっとあるような気がしました。あと機体同士の距離が凄く近くて、いつ衝突するかビクビクしてましたよ」 揚羽は思ったことを素直に口にした。編隊の空中集合の時など、普通の部隊の常識では考えられないほど、凄まじい勢いで僚機が接近してくるのだ。しかもパイロットの全員が、そしてあの相田1尉さえも、課目の開始高度と終了高度を、ぴたりと一致させる精密な操縦ぶりである。ブルーインパルスという部隊は、まさに神業のような飛行を事もなげにやるものなのだと、揚羽は改めて感心してしまった。 「それはお前だけじゃないさ。俺も最初は小便がちびりそうだったからな!」 北浦2佐が豪快に一笑する。誰かに見られているという微妙な感覚を背中に覚えた揚羽は、髪を揺らして後ろを振り返ってみた。すると5番機パイロットの真白潤1等空尉が揚羽を見つめていた。静かではあるが、奥深くに情熱の炎を宿した目だ。揚羽と視線が重なる前に真白1尉は目を逸らすと、影が伸びるように音もなく静かに歩いていき、ハンガーの隣の飛行隊隊舎に入っていった。 揚羽がブルーインパルスに着隊してから2ヶ月が経った。1番機から5番機の後席に搭乗して、各機と自機が担う役割を充分に勉強し、相田1尉から基本的な曲技飛行の操縦操作と、細かなテクニックを教わった揚羽は、6番機の後席から前席に乗り換えて、相田1尉を後ろに乗せての、単機飛行洋上アクロ訓練に入っていた。もちろんパイロットの仕事は飛行訓練だけではない。航空祭でファンに書くサインの練習、展示服の採寸、TRパイロットが展示飛行の際に読み上げる、ナレーションの原稿作成と練習など、まさに猫の手も借りたいほどの忙しい毎日が続いていた。 「噛むなよ噛むなよ〜」 某三人トリオのお笑い芸人のようなことを言いながら、にやにやしているのは先輩の相田1尉だ。この日揚羽は隊舎屋上の観覧席で、展示飛行のナレーションの練習をしていた。メタリックブルーのアタッシュケースには、ナレーションに必要な原稿、エアバンドレシーバー、BGM用のMD、マイクなどの道具一式が入っている。ナレーターは基本的に配属1年目のTRパイロットが担当する。展示飛行の際はエアバンドレシーバーを聞いてタイミングを計るほか、課目の変更があった場合などは、臨機応変な態度が求められるのだ。 『ここで本日展示飛行を行うパイロットを紹介します。1番機、フライトリーダー、2等空佐、鬼熊きゃおる――』 「言ったそばから噛むか!? てゆうか『きゃおる』ってなんだよ! 隊長に失礼だぞ!」 「相田1尉が邪魔してくるから噛んだんです! 邪魔しにきたのなら帰ってくださいよ!」 「別に俺は邪魔しにきたわけじゃないぞ! 可愛い後輩を見守りにきたんだ!」 とは言いつつも相田1尉はにやついていた。二度と噛むものか。揚羽は気を引き締めて原稿を読み上げていく。今度は噛まなかった。だが「ローリング・コンバット・ピッチ」を、なんと「ローリング・ウォンバット・ピッチ」と言い間違えてしまったのだ。瞬間揚羽の後ろで笑い声が爆発した。いちいち振り向かなくても分かる。相田1尉がお腹を抱えて笑い転げているのだろう。 暢気な笑い声は揚羽の失敗を大いに面白がっている証拠。F‐86Fの時代から、連綿と継承されてきた、伝統ある課目を言い間違えるとはなんとも情けない。どうせなら相田1尉の紹介部分をわざと言い間違えればよかった。「休憩するか」と相田1尉が言ってきたので、頷いた揚羽はマイクと原稿をアタッシュケースに直して、相田1尉の隣のベンチに座る。相田1尉はレジ袋から緑茶のボトルを取り出すと揚羽に手渡した。揚羽はキャップを捻って一口飲む。少し苦味のある緑茶の味が口の中に広がった。 「それにしても不思議だよな。どうしてそう噛んだり言い間違えたりするんだ? こんなにナレーションが苦手な隊員なんて、俺が覚えているかぎり一人もいなかったぞ」 「……だってどうしても緊張しちゃうんです。原稿を読みつつ、レシーバーを聞きながら、タイミングを計らないといけないし、一回も噛まないで読むなんてできっこないですよ」 揚羽の弱音を相田1尉は黙って聞いていたが、少しして口を開いた。 「ブルーインパルスにはな、『ナレーションの神様』って言われた伝説の人がいたんだ」 「ナレーションの神様?」 「その人は鷺沼伊月さんって言ってな、一度も噛まず言い間違えず、彼の声はセイレーンの如くたくさんの人たちを魅了したって言われてるんだ。大袈裟に言ってるんじゃないぞ。実際俺も聞いた時、マジで鳥肌が立ったよ」 鷺沼伊月のことは揚羽もよく知っていた。若かりし頃の小鳥が師事した、6番機のドルフィンライダー、そして祖父の荒鷹の弟子だった男性である。穏やかで物腰柔らかく、一度も小鳥に声を荒げたことがなかったという。確か揚羽が生まれた時、一番に出産祝いを贈ってくれたと流星から聞いた。航空音楽隊の自衛官と結婚した彼は、今は夫婦水入らずでのんびりと暮らしているらしい。 「俺も最初は噛んだし言い間違えもした。でも展示飛行のナレーションはな、ブルーのパイロットの誰もが乗り越えなければいけないことの一つなんだ。間違えずに喋るのもそうだが、何よりもいちばん大切なことは、ブルーインパルスの素晴らしさを、たくさんの人たちに知ってほしいという熱い気持ちなんだ。燕は俺たちの中で、一番熱い気持ちを持っていると俺は思ってる。燕なら最高のナレーションができる! だからこんなところで挫けるな!」 揚羽は相田1尉の大きな手に肩を掴まれた。人好きがする日焼けした顔も双眸も、さながら神輿に乗るお祭り男の如く、溢れんばかりの情熱で輝いている。相田1尉の情熱は揚羽の心に熱い炎を灯す。――相田1尉の言うとおりだ。こんなところで挫けていては、いつまで経っても一人前のドルフィンライダーにはなれない。夢を目指して頑張ると揚羽は颯に約束した。小鳥も流星もナレーターを勤めたのだから、二人の娘である揚羽にだって必ずできる。そこまで考えてみると、不思議と上手に喋れるような気がした。気持ちを切り替えた揚羽がアタッシュケースを持ち上げた時だった。 「――随分と楽しそうだね」 舌の先に氷の塊を乗せたような冷えきった声が響く。揚羽は後ろを振り返る。すると鉄の扉の前に腕組みをした真白1尉が立っていた。鼻柱に両側から強く迫った眉は極めて不快だと言っているようだ。 「君はいったい何をしにブルーインパルスに来たんだ? まさかドルフィンライダーとよろしくしたいから、ブルーインパルスに来たわけじゃないよね? 分かってると思うけれど、僕たちはアイドルじゃないんだよ」 「私はそんな浮ついた気持ちで、ブルーインパルスに来たわけじゃありません! 誤解しないでくれませんか!?」 聞き捨てならない言葉に当然ながら揚羽は怒りを覚える。だが真白は冷徹な表情を崩さなかった。 「それならもっと真面目にやってほしいものだね。僕はブルーインパルスが国民の税金で遊んでいるアクロバット部隊だと思われたくないんだ」 「おい! 潤! それは言い過ぎだぞ!」 立腹する揚羽と相田1尉を一瞥した真白1尉は、鉄の扉を開けると屋上を立ち去った。空気が重い。鉛の箱に押し込められて海に沈められたような気分だ。 「なんなんですかあの人は! 失礼にもほどがありますよ! 真白1尉は本当にブルーインパルスのパイロットなんですか!?」 怒りが収まらない揚羽は声を荒げた。単機飛行が多いリードソロは、少々個性が強いパイロットが務めるというが、だがそれにしたってあの態度は度が過ぎるのではないだろうか。社交性もそうだが、ブルーインパルスは仲間との協調性も重要視される部隊。あんな無礼極まりない態度で、真白1尉はよくも今まで飛んでこられたものだ。怒り心頭の揚羽を見た相田1尉は困ったように頭を掻いた。 「あんなふうだが潤は悪い奴じゃないよ。昔から人見知りが激しいところもあったけどな」 「相田1尉は真白1尉とお知り合いなんですか?」 「同じ千葉県生まれで家も隣近所。小中高も同じクラスでさ、確か中学三年の時だったかな。俺の家でトップガンを観て、うわー! 戦闘機パイロットになりてーー! って俺も潤も思ったんだよ。それで一緒に防府北基地に入隊したってわけさ。潤のことはガキの頃からよく知ってる。何か理由があってあんな態度をとったんだと思う。潤には俺からよく言い聞かせておくから、ここは俺に免じて許してやってくれないか?」 相田1尉にここまで言われたのだから許すほかないだろう。それに相田1尉に不平不満をぶつけても状況は改善しない。今すべきことはORパイロット昇格を目指して頑張ることだ。気合いを入れ直した揚羽は、アタッシュケースを開けて道具一式を取り出した。 ★ 5月半ばの空が晴れたまま澄んだ青に溶けている。軽やかに駆け抜ける風は、瑞々しい緑の匂いを含んでいて、呼吸をするごとに肺腑を洗う爽やかさだ。気体のような若芽に煙っていた、欅や楢の緑にも、もう初夏らしい落ちつきがあった。揚羽たちブルーインパルスは、T‐4に乗って松島基地を発ち、浜松基地を経由して鳥取県航空自衛隊美保基地に向けて飛行していた。 ブルーインパルスに着隊してから、初めての航空祭なのに、6番機の後席に乗る揚羽の気持ちは少し沈んでいた。原因は真白1尉だ。屋上の一件のあと、揚羽は真白1尉の態度が改善されると期待していたのだが、彼の態度は一向に変わらず、逆にますます剣呑になる一方だった。それにしても分からない。真白1尉は他の隊員には普通に接するのに、どうして揚羽にだけ冷たく当たるのだろうか? 美保基地航空祭が終わって松島基地に戻ったら、真白1尉に理由を尋ねてみるべきか。ややあって美保基地の全景が見えてきた。美保基地に向けて、空を泳ぐように旋回した六機のT‐4は、オーバーヘッドアプローチでランウェイ07に着陸する。そのあとブルーインパルスは、地形慣熟を兼ねた事前訓練を行い、長い1日を終えた。 翌日の日曜日、空の祭典は幕を開けた。午前9時に美保基地司令が開会宣言を告げると、第3輸送航空団のC‐1輸送機、YS‐11輸送機、T‐400の練習機が上空に現れて、オープニングセレモニーを飾った。以後の展示飛行はプログラム通りの進行で、T‐400の三機編隊飛行、C‐1編隊の物量投下と空挺降下、YS‐11の飛行展示が行われた。さらに築城基地から飛来したF‐2Aが、アフターバーナー全開の機動飛行で航空祭を盛り上げる。空自のCH‐47Jがホバリング展示、海上保安庁のAW139「みほづる」が吊り上げ式救助訓練を実施し、午前の展示飛行は終了した。ブルーインパルスの展示飛行は午後からなので、サイン会を終わらせた揚羽たちは、隊舎の一室に設けられた待機室で、少し早い昼食のお弁当を食べていた。 (うぅ……右手首が痛い……) 箸を持つ右手が痛くて揚羽は心の中で呻いた。相田1尉に「ヘルプに入れ!」と言われた揚羽は、なんとサイン会に強制参加させられたのだ。さすがは航空自衛隊の花形飛行部隊。一列に並んだ揚羽たちの前では、来場者たちが長蛇の列を作り、サインと握手にスマートフォンやカメラでの写真撮影を求めてきた。なかでも手作りのお菓子や、ブルーインパルスを書いた小説の同人誌を貰った時はとても嬉しかった。サイン会には美保基地の周辺に伝わる神話の、「因幡の白兎」の兎をモチーフにした、自衛隊鳥取地方協力本部のキャラクター「トビコ」も、ブルーインパルス仕様の青色のコスチューム姿で来場していて人気を博していた。航空祭は航空自衛隊の広報活動の一環として行われる。平時に行われる大切さと合わせて、「国を空から守る」という意味も、この機会に一人でもいいから考えてくれたらと思う。 「ところでホワイトはどこに行ったんですか?」 一番にお弁当を食べ終えた鬼熊2佐が全員に訊いた。ホワイトは真白1尉のTACネームだ。鬼熊2佐に訊かれて初めて、揚羽たちは真白1尉が待機室にいないことに気がついた。お弁当を食べ始めた時はいたのだが、いつの間に部屋を出て行ったのか。まるで時代劇の将軍様に仕える御庭番のようである。もうすぐ飛行前のプリブリーフィングを始めなければいけないというのに、まったく世話の焼ける青年だ。 「私、その辺を捜してきます」 鬼熊2佐に言い待機室を出た揚羽は、隊舎を歩き回って真白1尉の姿を捜した。通り過ぎた部屋の中に人影が見えたので、引き返して覗き込んでみる。無人のブリーフィングルームに彼はいた。両腕を組んで壁にもたれかかり、窓の外の景色を静かに眺めている。西洋人形のように綺麗な横顔はどことなく悲しそうに見えた。 「真白1尉、もうすぐプリブリーフィングが始まりますよ」 部屋の外から揚羽は声をかけたが、真白1尉はこちらを見ようともしなかった。嘆息した揚羽は室内に入り、真白1尉の正面に移動した。松島基地に帰ってから訊こうと思っていたがもう我慢がならない。両手を腰に当てて揚羽は開口した。 「いい加減にしてくださいよ、真白1尉。あなたはどうして私に冷たく当たるんですか? 何か気に入らないところがあるのなら、遠慮なく私に言ってください。私たちはお互いに信頼し合っていないと飛べないんですから」 ここで初めて真白1尉が揚羽に視線を向けてきた。組んでいた腕をほどいて、壁から背中を離した真白1尉が近づいてくる。薄いが形の整った唇を、愉快そうに吊り上げた真白1尉は、野生の獣のように目を光らせていた。身の危険を本能的に感じ取った揚羽は身を強張らせた。 「――じゃあさ、鷲海さんと別れてよ」 「えっ?」 「君が鷲海さんと別れて、僕と付き合ってくれるのなら、僕は君への態度を改める」 「そっ、そんなことはできません! 私の恋人は颯さんだけです!」 「見た目通り一途なんだね。……ますます奪いたくなった」 首に巻いているスカーフを外して、パイロットスーツのジッパーを胸の下まで下ろした、真白1尉に迫られた揚羽は、壁際に追い詰められてしまった。真白1尉の妖艶な目が心を蕩かすほど狂おしく突き刺さる。今すぐ真白1尉を突き飛ばして逃げろ。脳髄が命令しているのに身体は動かない。あたかも強力な催眠術にかかったようだ。 「君はブルーインパルスのドルフィンライダーで、鷲海さんはスクランブル回数が一番多い那覇基地のイーグルドライバー。だからお互い忙しくてなかなか会えない。鷲海さんは君のことなんかとっくに忘れて、沖縄の女の子と楽しくやってるんじゃないの?」 「そんなこと絶対にありません――ひあっ!?」 真白1尉のしなやかな手が腰と臀部の上をなぞった。まるで羽毛でくすぐられているような感触だ。揚羽の身体を上から下まで愛撫する彼の手は、わざと中心を外してずらしながら、少しずつ確実に近づいてくる。颯以外の男性にこんなことをされたくないのに、どうして身体は動いてくれないんだ。悔しさと情けなさに、揚羽が歯噛みした時だった。 「何やってるんだこの野郎っ!!」 部屋に怒声が爆発した。揚羽に覆い被さっていた、真白1尉の身体がぐんと後ろに引っ張られ、部屋に飛び込んできた誰かが彼の顔を殴った。顔面を殴打された真白1尉は椅子を巻き込んで床に転がった。ブリーフィングルームに飛び込んできたのは、先輩パイロットの相田1尉だった。拳を固く握り締めて、指の肉に爪を食い込ませながら、みなぎる憤激で顔を火照らせている。危険な甘い罠から解放された揚羽は、ずるずると床に崩れ落ちた。当然だが相田1尉の怒りは収まっていない。相田1尉は目に角を立てて、唇から血を垂らす真白1尉を見下ろした。 「どういうつもりだよ、潤! 燕と鷲海さんが付き合っているのを知ってて、わざとこんなことをやったのか!?」 「……ああ、そうさ」 「なっ――! 鷲海さんはお前にリードソロを教えてくれた先輩なんだぞ!? その先輩の彼女を横取りしようとするなんて、いったい何を考えてやがるんだ!」 「僕は燕が好きなんだよ!!」 真白1尉の衝撃の告白に揚羽と相田1尉は揃って瞠目した。目に涙を溜めて唇を震わせるその姿は、雨に打たれて尻尾を垂れる野良犬のようである。 「……鷲海さんに写真を見せてもらった時、僕は一目で君を好きになってしまったんだ。君と鷲海さんが相思相愛だってことは分かってる、実らない恋だっていうことも分かってる。そう自分に言い聞かせたし、忘れようとしたさ。そんな時、君がブルーインパルスに着隊した。写真でしか見たことがなかった君が目の前にいる。わざと冷たく当たって、君への想いを断ち切ろうとしたけれど、やっぱり駄目だったんだよ。君には悪いことをしたと思ってる。でも、僕は――」 そこまで言うと真白1尉は顔を伏せて嗚咽を吐き出した。重力によって落ちていく涙の珠は、窓から差し込む日の光を受けて、鈍い銀色に輝いている。自分は真白1尉に嫌われていると思っていたが、実際はその逆だったとは驚きだ。相田1尉は真白1尉の正面に片膝をつくと、嗚咽で震える肩に手を置いた。 「……それならどうして俺に言ってくれなかったんだよ。俺たちはガキの頃からの付き合いなんだぞ? 腹を割って話してくれてもいいじゃないか」 「こんな情けないこと、亮平に言えるわけないだろ!」 揚羽は気づいた。真白1尉は冷淡な人間ではない。部隊の誰よりも真面目で不器用な人間なのだ。先輩の恋人に恋をしてしまった彼は、禁断の想いを誰にも打ち明けることなく、胸の奥にしまい込んで鍵をかけた。自分一人でなんとか解決しようとした、気持ちの整理をつけようとした。だができなかった。そして揚羽のブルーインパルス着隊が引き金となり、抑えていた恋慕の情が溢れ出して、自分で制御できなくなってしまったのだ。相田1尉と同じく真白1尉の正面に屈み込んだ揚羽は、肉に爪を食い込ませて握り締められた拳に触れ、セーターをほどくようにそっと拳を開かせた。 「真白1尉の気持ちは分かりました。でも私が愛しているのは颯さんだけなんです。だからあなたの恋人になることはできません。けれど『仲間』になることはできます。これからはブルーインパルスの先輩として、航空自衛隊の仲間として、私にいろいろなことを教えてください」 哲学者のような静かな面持ちで、揚羽が真白1尉に思いを伝えると、硬直していた彼の顔の筋肉は少しずつほぐれていった。真白1尉の唇は静かに合わさり頬から力が消える。やや吊り上がっていた眉は、鳥が羽根を休めるように平らになった。真白1尉は立ち上がると上を向いて瞑目し、鯨が潮を吹くように深呼吸した。目を開けて首を下げた真白1尉が揚羽を見る。揚羽の言葉で気持ちが吹っ切れたのだろう。柔らかく絶対に落ち着き払った表情に真白1尉はなっていた。そして揚羽の前に右手が差し出された。 「今まで君にしてきたことは心から謝る。これからは君の先輩として、航空自衛隊の仲間として、よろしく頼むよ」 「はい! こちらこそよろしくお願いします!」 揚羽と真白1尉は固い握手を交わし、固く握り合う二人の手の上に、相田1尉がハンマーを振り下ろすように力強く掌を重ねる。これからは全員が気持ちよく空を飛べる。三人がそう思った時だった。 「――なるほど。そういうことだったんですね」 「きゃっ!?」 「うわっ!?」 「どっひゃああぁっ!?」 誰のものでもない声が後ろの方から聞こえたので、三人は揃ってびっくり仰天した。いつの間にか部屋の入り口に鬼熊2佐が仁王立ちしていたのだ。口は微笑みを浮かべているのに、つぶらな双眸は爬虫類の如き冷たい光を揺らめかせている。仏の鬼熊2佐が鬼に変わろうとしている。緊張する三人を順番に見やった鬼熊2佐は、口から嘆きの息を吐き出した。 「ホワイトの様子がおかしいと思っていたら、まさかこんなことになっていたとは驚きですよ。まったくゲイルといいファイアフライといい、どうしてスワローはこう男性にモテるんでしょうね」 ここで真白1尉が一歩前に進み出た。覚悟を決めた真剣な面持ちだ。 「これは全部僕の責任です。どんな罰でも受けます。だから燕と亮平は許してやってください。――お願いします」 鬼熊2佐を真っ直ぐに見つめた真白1尉は、頭が膝のところまでくるほど深く頭を下げた。頭を下げた真白1尉を鬼熊2佐は黙って見ている。果たして鬼熊2佐はどのような制裁を下すのだろうか。いざとなったら援護できるように、揚羽と相田1尉は身構える。ややあって鬼熊2佐が組んでいた両腕をほどいた。頬を平手打ちするのかそれとも顔面を殴るのか。痛みを覚悟した真白1尉がぎゅっと目を瞑る。伸ばされた鬼熊2佐の手は、真白1尉の頬を弾かず顔面も殴らず、それどころか肩を優しく叩いたのだった。 「顔を上げなさい、ホワイト。みんなが待機室で待っています。私に謝る暇があるのなら、早く顔を洗ってきなさい。それともそんなみっともない顔で、展示飛行を見に来てくれた人たちの前に出るつもりですか? 私たちに悪いと思っているのなら全力で空を飛んで、言葉だけじゃなくて態度で示しなさい」 鬼熊2佐は息を呑んだ真白1尉の肩を最後にもう一度叩くと、ブリーフィングルームを出て行った。この場で真白1尉を厳しく叱咤することもできたであろうに、鬼熊2佐がそれをしなかったのは、彼の心を乱れさせないためだったのではと揚羽は思った。 心に乱れたまま空を飛べば操縦を誤り、僚機と衝突して墜落してしまうかもしれない。そうなれば甚大な被害が出てしまう。ブルーインパルスは航空自衛隊の顔とも言える存在。事故を起こせば航空自衛隊全体が問題視され、ブルーインパルスの存在も危険視される。だから事故を未然に防ぐことこそが何よりも重要だ。だから鬼熊2佐は穏やかに語りかけた。事故の原因を未然に防ぎ、そして国民とパイロットの命を守る。それが部隊を率いる飛行隊長の責任と使命なのだ。揚羽が見やった真白1尉は、黙って鬼熊2佐が出て行ったドアを見つめていた。 ★ 『ご来場の皆様、本日はようこそ美保基地航空祭においで下さいました。ただいまから、ブルーインパルスの展示飛行を開始いたします。これから約35分間、ダイナミックなアクロバット飛行と、美しい編隊飛行の妙技をお楽しみください』 見上げれば爽快な青天が広がるエプロン地区に、スピーカーから流れた揚羽のナレーションが響き渡る。揚羽はエプロン地区を見渡せるナレーター席に座り、展示飛行の原稿を読み上げていた。サイン会が終わると人が減ったエプロン地区は、展示飛行を見ようと集まった来場者で大混雑している。あたかも早朝の満員電車を思わせる光景だ。座ったまま展示飛行が見られるナレーター席は、まさに特等席だと言えよう。 ナレーションの原稿は、A4サイズの紙で換算すると100枚近くにのぼる。読みやすいように文字が大きく印字されていて、区切りごとに紙をめくっていく方式になっているのだ。全体の構成は「展示飛行の実施前」「オープニング」「曲技飛行」「ランディング」「トラブル等でホールドした時」からなっている。曲技飛行の部分は、序盤は全区分が共通しているが、「サンライズ」から1・2区分に対応した原稿と、3・4区分に対応した原稿に分かれ、最後の「ローリング・コンバット・ピッチ」と「コーク・スクリュー」で再び共通の原稿に戻る。そして原稿には、BGMナンバー、英語ナレーション用の原稿、発声のタイミング、その他各種注意書き等が、さながら蟻の巣のように細かく書き込まれているのだ。 『会場左手では、本日の展示飛行を実施するパイロットが、航空機へと向かいます。整斉としたパイロットの動きにご注目ください。ここで本日展示飛行を行うパイロットを紹介します。1番機、フライトリーダー、2等空佐、鬼熊薫。2番機、レフトウイング、3等空佐、三井武憲。3番機、ライトウイング、3等空佐、鹿島穰。4番機、スロット、1等空尉、比嘉真太郎。5番機、リードソロ、1等空尉、真白潤。6番機、オポージングソロ、1等空尉、相田亮平。以上六名のパイロットが、本日の展示飛行を行います』 揚羽のナレーションに合わせるように、鬼熊2佐たちがウォークダウンで歩いていくのが見える。1番機パイロットの鬼熊2佐から順番に別れたパイロットたちは、それぞれ搭乗機の前に着くと、待っていた機付き整備員と敬礼を交わした。救命胴衣と耐Gスーツ、メタリックブルーのヘルメットを装着した六人がT‐4に乗り込んだ。鬼熊2佐は観客たちに手を振りながら、双発のエンジンを目覚めさせたT‐4を、滑走路の最終チェックポイントに走らせる。そして離陸前の最終チェックを完了した六機のT‐4は、担当するポジションのアクロバット課目で大空に飛び立っていった。 ブルーインパルスの魅力を多くの人たちに伝えたい。手元に置いたエアバンドレシーバーを聴きながら、揚羽は熱い気持ちを声に込めてナレーションを進めていく。揚羽の声はカナリアが囀るようによく通り、耳障りな濁りがなくてエプロン地区にすっきりと響き渡る。長い歴史が織り上げたナレーションは、その文句を聞くだけでも、編隊のスモークやソロの機敏な動きが脳裡に蘇るようだ。まさに言葉の展示飛行と言えるだろう。小鳥と流星、そして颯が飛んでいたブルーインパルスの空は、まだまだ遠い場所にあった。けれどいつかきっと6番機に乗って、ロールオン・テイクオフやスロー・ロール、タック・クロスを描いてみせる。揚羽の澄んだソプラノの声は、サクラが花開いた快晴の美保の空に吸い込まれていった。 ★ 真夏の青空に綿のような雲の野原が広がっている。揚羽は仙台空港から朝一番の飛行機に乗り、宮城県から沖縄県に向かっていた。揚羽が第11飛行隊に着隊してから1年と4ヶ月の月日が経った。70回のB訓練と16回のA訓練の、教育課程を終えた揚羽は、第1区分で構成された最終検定フライトに合格して、念願のORパイロットに昇格したのである。揚羽のアクロデビューは9月に開催予定の三沢基地航空祭に決まった。揚羽に6番機を任せた相田1尉は、千歳基地航空祭でラストアクロを飛び、松島基地を離れて今は小松基地の飛行教導群・アグレッサーにいる。どれだけ優れたイーグルドライバーでも、アグレッサー部隊に入れば初心者以下の扱いをされて、部隊に不必要だと判断されれば、容赦なく切り捨てられると聞いた。真白1尉は心配しているが、揚羽は大丈夫だと思う。きっと今頃は部隊の仲間と休日を楽しんでいるに違いない。 『ご搭乗の皆様、当機はまもなく那覇空港に到着いたします。添乗員が各席を回りますので、指示に従ってシートベルトをお締めになってください。またテーブルも折り畳んでくださるよう、よろしくお願いいたします』 紺色のスカーフを巻いた女性添乗員が座席を回っていき、乗客にシートベルトの締め方を教えている。揚羽も広げていたテーブルを畳んでシートベルトを締めた。少しして機内が揺れる。着陸態勢に入るため機長が機首と高度を下げ始めたのだろう。揚羽は楕円形の窓から外を見た。管制塔、空港のターミナルビル、広大な駐機場と滑走路が揚羽の視界に映った。高度と速度を落としつつ滑走路にアプローチ。戦闘機とは違う緩やかなランディングだ。ゆっくりと制動したあと飛行機は止まった。可動式のタラップが取り付けられる。開けられた乗降口から飛行機を降りて、揚羽はターミナルビル一階の到着ロビーに向かった。 案内のアナウンスが響くロビーは混雑していた。人の波を泳ぐようにすり抜けて、茶色のラバーフローリングの床を歩いた揚羽は、熱帯魚が泳ぐ水槽の前で足を止め、肩に提げている鞄からスマートフォンを取り出した。ホーム画面を開いてメール機能を起動させる。飛行機の到着予定時刻は、前もって知らせておいたから、彼は空港に向かっているか到着しているだろう。「到着ロビーで待っています」とメールを送信。背伸びをして行き交う人々に視線を巡らせていると、腰に何かが巻き付いてきて、硬くて温かい物が背中に当てられた。自分は背後に立つ何者かに抱き締められている。まさか変質者だろうか。大勢の人が行き交う空港で、堂々と女性を襲うとは大胆不敵すぎる変質者だ。 「――チェック・シックス」 「ひゃっ!?」 低い囁き声が聞こえたかと思うと、熱い吐息が耳に吹きかけられ、揚羽の身体はびくりと反応してしまった。抱き締められたまま揚羽は振り返る。すると黒髪の青年が満面に喜色を湛えて笑っていた。胸元が大きく開いたVネックのシャツの上に、半袖のガーゼシャツを羽織り、すらりと伸びた長い両脚にダメージ加工のジーンズを穿いている。シルバーのクロスペンダント、右手と耳に付けた指輪とピアスが、嫌味なくらい良く似合っていた。 会心の笑顔を見せる青年は鷲海颯1等空尉。揚羽の恋人で那覇基地第9航空団第204飛行隊のイーグルドライバーである。変質者ではなかったので一安心したが、いきなり後ろから抱き締めて、おまけに耳に息を吹きかけるなんて、悪戯にしては度が過ぎるのではないか。恋人に会えた嬉しさよりも、悪戯された怒りのほうが強かったので、唇を尖らせた揚羽は颯を見上げた。 「もうっ! 驚いちゃったじゃないですか! 普通に声をかけてください!」 「ついからかいたくなったんだ。悪かったよ」 不意に笑っていた颯の表情が変わった。眉間に怒りの電光を走らせる颯は、殺気を孕んだ視線でロビーの一点を凝視している。さっきまで快活に笑っていたのに、いったいどうしたのだろうか。 「颯さん? どうしたんです――」 揚羽の声は途中で断ち切れた。引き締まった身体を密着させた颯は、いきなりキスをしてきたのである。揚羽と颯の熱愛現場を見た人たちは、足を止めて目を丸くしたり、友人と囁き合いながら通り過ぎていく。衆人環視の前でキスされているなんて恥ずかしい。揚羽は颯の胸を叩いて止めさせようとした。だが腰を撫でられた瞬間、全身が甘く痺れてしまい、抵抗する気もなくなってしまった。重ねていた唇を離した颯はまたロビーの一点を睨んでいる。羞恥心と怒りを爆発させた揚羽は、さながら蠅叩きを振り下ろすように颯の背中を叩いた。 「いっ、いきなり、キスするなんて! 場所を考えてくださいよ! 颯さんの馬鹿! もう知りません! あのエッチなメール、蛍木さんじゃなくて、やっぱり颯さんが送ったんでしょ!」 「あれは黎児が勝手に送ったメールだって言っただろ。いきなりキスしたのは悪かったよ。ガキどもが嫌らしい目でお前を見ていたから、揚羽は俺の彼女なんだぞって教えてやろうと思って――」 「それだけのことで大勢の人が見ている前でキスしたんですか!? もういいです! 私、松島に帰ります!」 「えっ!? 待て待て待て! 久しぶりに会えたのにそれはないだろ! ごめん! 俺が悪かった! 欲しい物や食べたい物があったらなんでも奢る! だから許してくれ! このとおりだ!」 揚羽の帰投宣言を聞いた颯は、ゼンマイ仕掛けの人形のように驚くと、必死の形相で頭を下げてきた。まるで浮気が露見して妻に必死で謝る亭主のような姿だ。向かうところ敵なしの颯が必死に謝っているのを見ているうちに、ぐらぐらと煮え滾っていた怒りは少しずつ収まっていき、雨が上がるように消えていった。仏の顔も三度までという諺がある。別に浮気をされたわけでもないので、ここは許すことにしよう。 「……分かりました、颯さんを許します。でも今回だけですからね!」 揚羽に罪を許された颯は、ほっと力を抜いて表情を緩めた。空港のターミナルビルを出た揚羽は、元気になった颯に連れられて立体駐車場に向かい、彼が運転してきたシルバーのSUVに乗り込んだ。シートベルト確認、エンジンスタート。アクセルペダルを踏み込んだ颯が車を発進させる。座席が左右に並ぶサイドバイサイドのSUVは、駐車場を出ると軽快に道路を走っていく。夏空に浮かぶ雲、エメラルドグリーンの海、建ち並ぶ家やビルなど、見える景色はすべて同じ速度でパノラマのように流れていった。 「そう言えば、揚羽はORに昇格したんだったな」 「はい。三沢基地航空祭でアクロデビューする予定です」 「そうか。見に行けなくて悪いな」 「いえ、気にしないでください。颯さんたちが日本の空を守ってくれているから、ブルーインパルスは空を飛べるんですよ」 揚羽の言葉に「馬鹿」と返した颯は、照れたように口元をほころばせた。揚羽は車を運転する颯を見やる。絵筆で描いたように長くて濃い睫毛。高い鼻柱から斜め上に彫り込んだような切れ長の瞳。ジャケットの袖から出た腕は逞しく、強く激しく空に生きる男の力が迸っている。パイロットスーツや展示服姿の颯は格好良かったが、私服姿の彼も凄く格好良い。さらに磨きをかけた端正な容姿に揚羽は見惚れてしまった。 アプローチしてくる女性も多いであろうに、颯は揚羽を好きだと言ってくれた。告白から3年経ったが、颯は変わらず揚羽を一途に想ってくれている。夢だったドルフィンライダーとして空を飛び、隣には相思相愛の恋人がいる。だから毎日が幸せだと思う。だが揚羽は、自分が颯の恋人に相応しいのかどうか、時々悩んでしまうのだ。颯はどう思っているのか。それを訊く勇気はまだない。物思いに耽っていると、椰子並木の先に広がる「美らSUNビーチ」が見えてきた。 駐車場に車を停めて管理棟に向かい、颯と別れた揚羽は女性用のロッカールームに入った。衣服を脱いで持ってきた水着に着替える。桃色の布地と白い水玉模様、赤いリボンが揺れるトップスに、オーロラのようなフリルのパティオに一目惚れして購入した、セパレートタイプの水着だ。財布とスマートフォンをロッカーに入れて鍵をかけ、揚羽はサンダルを鳴らしながら管理棟の外に出た。先に水着に着替えた颯は青空を見上げている。揚羽に気づいた颯がこちらを振り向いた。ハーフパンツの水着を穿いた颯はやっぱり格好良かった。 「どうですか? やっぱりちょっと子供っぽいですよね」 揚羽は颯の前でくるりと回ってみせた。だが颯はうんともすんとも言わない。あんぐりと口を開けた颯は、顔を真っ赤にして目を見開き、砂浜に突き刺さったパラソルのように立ち尽くしている。明らかに様子がおかしい。心配になった揚羽は横から颯を覗き込んだ。 「颯さん、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」 「あ、ああ! 大丈夫、大丈夫だ! 早く泳ぎに行くぞ!」 端正な顔をさらに赤くした颯は先に歩いていった。揚羽が何気なく視線を動かすと、管理棟の前で談笑している女の子たちが見えた。全員が刺激的なビキニ姿で、豊満な胸で腰も綺麗にくびれている。颯が顔を赤くして動かなかったのは、彼女たちに見惚れていたというわけか。嘆息した揚羽は颯のあとを追いかけた。先に行った颯は何食わぬ顔で、レンタルしたビーチパラソルを、空いている場所に立てている。女の子たちに見惚れていたのかどうか、颯に問い質そうとしたが、せっかく遠路はるばる沖縄の海に来たのだから邪推は忘れて楽しもう。サンダルを脱いだ揚羽は砂浜を走り、宝石のように煌めくエメラルドグリーンの海に飛び込んだ。 海は日射しの加減で万華鏡のように色彩を変え、陽光を受ける海面のさざ波は割れて散った硝子のように神秘的に光っている。人工の物とは思えないとても綺麗な光景だ。潜った海底には月夜の浜辺のような微光が揺らめいていた。適当な距離で泳ぎを止めた揚羽は颯の姿を捜した。だがどこにも見当たらない。まさか揚羽を放置して、さっきの女の子たちと遊びに行ったのか。揚羽が胸に不安を覚えたその時だ。海面の一部が急に盛り上がったかと思うと、海中から黒髪の青年が立ち上がった。 「スプラッシュ・ワンだぞ、揚羽」 「はっ、颯さん!? いつの間に潜っていたんですか!?」 「揚羽が海に入ったすぐあとだ。お前って本当に無防備だよな」 そう言った颯は濡れた黒髪を掻き上げると、真珠のような白い歯を見せて笑った。極上の甘い笑顔に揚羽の胸はときめく。気のせいだろうか、その姿態は以前よりも一回り逞しくなったように見える。硬く引き締まった厚い胸も、綺麗に割れた腹筋も、がっしりとした腰も、今まで何度も見ているはずなのに、なぜだか今日はとても艶めかしくて、男の色気を感じてしまうのだ。そう思った瞬間、揚羽の身体は太陽のように熱く燃え上がる。唇を重ねて厚い胸に抱き締められたい、しなやかな長い指に愛撫されたい、そして硬く逞しいものに中心を貫かれたい――。頭の芯が痺れるような陶酔感のなか、揚羽は嵐のように颯と激しく愛し合う、自分の姿を脳裡に想像していた。 「ぼんやりしてどうしたんだ? 泳ぎ疲れたのか?」 他の所に意識を飛ばしていた揚羽は、颯に問われてはっと我に返った。長身を折り曲げた颯が揚羽を覗き込んでいる。想像の世界で颯と身体を重ねていただなんて口が裂けても言えない。 「はっ、はいっ! 張り切りすぎて疲れちゃったみたいです!」 「そうか。俺も腹が減ったし、向こうに休憩場所があるみたいだから、そこで少し休むか」 「じゃあ食べ物と飲み物を買ってきますね。颯さんは休憩場所で待っていてください」 颯は自分が買いに行くと言ってくれたが、興奮している気持ちを静めたかったので、揚羽は彼の申し出を丁寧に断った。颯と別れた揚羽は、まず財布を取りに管理棟に向かい、食べ物と飲み物が販売されているパーラーに歩いた。パーラーにはテラス席が完備されているカフェもあるようだ。サンドウィッチと三個入りのおにぎりセット、麦茶のペットボトルを二本購入する。必要な物を買った揚羽が、颯の待つ場所に向かおうとした時だった。 「ねぇねぇ、ちょっといいかなぁ」 猫撫で声が耳を叩く。揚羽の進路を塞ぐように金髪の若者が立ちはだかっていた。浮ついた軽薄さだけが目立つ外貌だ。分厚い唇に好色な薄ら笑いを浮かべる若者は、揚羽の身体を上から下まで舐めるように見ている。豪華な屋敷に住む主人が、物陰から美しいメイドを見るような、背筋が粟立つ卑しい視線だった。軽薄そうな若者が頭の中で何を考えているのかは訊かなくても分かる。こういう輩は相手にしないほうが賢明だ。 「ごめんなさい。私、急いでるんです」 「そんなつれないこと言わないでさ、俺と一緒にバナナボートに乗って遊ぼうよ〜」 歩き去ろうとした揚羽は若者に腕を掴まれた。揚羽の腕を掴んで離さない若者は、彼女の臀部に下半身を擦りつけてきた。生温かくて不快な感触に鳥肌が立つ。揚羽はパーラーの窓口を見やったが、店員が助けに出てくる気配はない。 「離してください! 私には彼氏がいるんです!」 「俺さ、見ちゃったんだよね〜。君の彼氏、さっきナイスバディの女の子と、手を繋いで丘のほうに歩いて行ったよ。今頃エッチなことでもやってるんじゃないの?」 若者の目撃証言を信じる気なんてなかったが、ひょっとしたらという思いが揚羽の頭をつついた。若者の指は揚羽の二の腕を撫でながら胸のほうに近づいてきた。このまま見ず知らずの男に猥褻な行為をされるのか。揚羽が恐怖に怯えたその時、向こうから走ってきた誰かが間に割り込んできて、彼女の身体に張りつく手を払い除けた。強引に割り込んできたのは黒髪の青年。彼は休憩スペースで待っているはずの颯だった。お楽しみを邪魔された若者は、敵意に満ちた視線で颯を睨みつけた。 「なんだテメェは。部外者は引っ込んでろよ」 「部外者はお前のほうだと思うが? こいつは俺の彼女だ。文句があるなら那覇基地まで来い」 「那覇基地? まさか、テメェは――」 「那覇基地所属の自衛官、航空自衛隊の戦闘機パイロットだ」 鍛え抜かれた広い背中に揚羽をかばった颯は強い口調で言い放った。颯が航空自衛官だと名乗った瞬間、鮃のように扁平な若者の顔は一気に青褪める。相手はF‐15イーグル戦闘機を乗りこなす自衛官だ。それに身長も体格も颯のほうが勝っている。だから若者が颯に勝負を挑んだとしても勝率は低いだろう。一歩踏み出した颯に睨まれた若者は後ずさりすると、ポケットから出したスマートフォンを操作しながら逃げていった。 「……帰るぞ」 「えっ? せっかく海に来たのに、もう帰るんですか?」 揚羽の言葉に答えず颯は歩いて行った。管理棟のロッカールームで着替えた二人は駐車場に向かう。管理棟から駐車場に向かうまでの間、颯はずっと押し黙っていた。 「どうして怒っているんですか?」 「……別に怒ってねぇよ」 「ビーチから駐車場に来るまで一言も喋らないんだもの。それに顔も怖いです」 颯は返事を返さない。腐った食べ物を腹いっぱいに詰め込まれたような不快な表情だ。瞬間凝り固まっていた感情が爆発した。 「私と一緒にいるのがそんなに嫌なんですか? それなら私が沖縄に行く前に、お前なんか大嫌いだって、メールか電話で言えばいいじゃない! 颯さんの馬鹿! 私は一人で帰りますから、沖縄の可愛い女の子と楽しくやってなさいよ!」 揚羽はシートベルトを外して車から降りようとしたのだが、颯に腕を掴まれて助手席に引き戻された。振り向いた揚羽の目の前に颯の端正な顔があった。颯に抱き寄せられた揚羽は唇を塞がれる。颯の唇の感触は溶けるように柔らかく、揚羽から抵抗する意思を奪い去った。今は誰もいない駐車場だが、いつ誰かが来てもおかしくないのだ。だから車中でキスしている場面を目撃されたらどうなるか。想像しただけでも恐ろしい。溶岩のように煮えたぎる熱い塊が、揚羽の身体の中で脈動を始めた。その塊は五臓六腑を押し上げて今にも大爆発を起こしそうだ。唇を解放された揚羽は、ぐったりと座席にもたれかかった。 「どうして、どうして、いきなりこんなことを――」 揚羽は全身を引き攣らせながら儚い声を出した。苦しく感じるほどの動悸に、胸を上下させながら颯を見やる。 「――腹が立ったんだよ」 「えっ?」 「自分だって真白に告白されたり、航空祭に来た男にちやほやされて、まんざらでもないくせに、よくもそんなことが言えるよな。俺はお前が他の男と一緒にいるところなんか見たくないんだよ。そんな俺の気持ちも知らないで、沖縄の女とよろしくやってろだって? ふざけるなって思ったら、抑えていたいろいろなものが爆発したんだ」 「私に腹が立ったっていうだけで、こんな場所で、その、キスしたんですか?」 「ああ、そうだ! だいたい揚羽も悪いんだぞ! お前は他の男がほうっておかないくらい可愛いんだから、もう少し露出の少ない服を着たり、男に声をかけられても無視したりなんなりして、ちょっとは防衛策を取れよ! 俺はお前が悪い男に傷つけられるところなんて見たくない、耐えられないんだよ!」 片手で黒髪を掻き混ぜた颯は、隠していた己の本心を叫んだ。颯は心配で心配で堪らないといった表情をしている。池に張った薄氷のように、颯の心を覆っていた悩みと不安が、ここで一気に割れてしまったのだろう。 「それは私も同じです。お互い忙しくてなかなか会えないから、颯さんは私のことなんか忘れて、他の女の子と仲良くしてるんじゃないかって、最近よく思っていたんです。でもそれは違いましたね。私のことを心配して、思ってくれていたなんて、知らなかった。……ごめんなさい、颯さん」 揚羽は煩悶する颯に頭を下げた。あんなに熱く燃えていた愛は冷めてしまった、お互いの気持ちはすれ違ったと思っていたのに実際はその逆だった。相手のことなんか忘れて、他の異性と楽しんでいるのではないかと、二人は渦巻くような疑念を心に溜めていた。初めは小さな点だった疑念はしだいに大きくなってゆき、今日の出来事が引き金となって表に出てしまった。そして怒りを爆発させてしまったが、結果的に揚羽は颯の本音を聞くことができた。近くにいたらきっと分からなかった。少しだけ距離を置き、溜まりに溜まっていた感情を曝け出したから、揚羽と颯はお互いの本当の気持ちを知ることができた。愛はシャワーのお湯みたいなもの。あるときは冷たく、またある時は火傷をするくらい熱く、そしてそれは高い所から低い所へ自然の法則に任せて、待ってくれている人の所に流れていくのだ。 「……ごめん、揚羽。今のは俺が悪かった。俺が好きなのは揚羽だけだ。だから他の女になんか興味ねぇよ。真っ直ぐで純粋な揚羽に、俺は恋をしたんだ」 落ち着きを取り戻した颯が頭を下げて謝る。すると暗かった目の前が不思議な明るさを帯びてくるのを感じた。何もかも言ってしまったことで、胸の中の重苦しさが消えたような気がする。座席に座り直してシートベルトを締めた颯が車の発進準備を始めた。揚羽は手を伸ばして颯の上着を掴み、哀切な色を湛えた目で振り向いた彼を見た。 「あの、颯さん。私、官舎に着くまで、我慢できそうにないです……」 颯は些か呆気にとられていたが、整った眉尻を下げると苦笑した。 「お前って、意外と大胆なんだな」 「だっ、だって、凄く気持ちよかったんだもの。あんなに気持ちよかったら、誰だって我慢できないです。……やっぱり駄目ですよね。変なことを言ってごめんなさい。官舎に着くまで我慢します」 「馬鹿、駄目じゃねぇよ。……俺だって我慢できないんだ」 微笑んで身を乗り出した颯は揚羽の頬を両手で挟むと、今度は羽毛で撫でるように優しくキスをしてきた。レバーを操作して、座席を倒した颯に引き寄せられた揚羽は、先に横になった彼の上に海月のようにふわりと覆い被さる。そして初めて恋をした時の感情を心に思い出しながら、揚羽と颯は変わらない愛を確かめ合ったのだった。 ★ 遮る物のない空はトルコ石のように真っ青で、夏の過酷な太陽が輝いている。まだまだ夏の暑さが続く9月中旬、揚羽たちブルーインパルスは松島基地を旅立ち、石川県の小松基地で開催されている航空祭に参加していた。エプロン地区で行われている、サイン会の列に並ぶ来場者たちは、額の上にパンフレットや掌を翳して熱い日射しを避けながら、機動飛行が始まる瞬間を待ちわびている。しばらくすると青色と灰色の二色に塗装された、第306飛行隊のF‐15イーグル戦闘機が、エプロン地区の上空に現れた。 青色に塗られた垂直尾翼には、「GOLDEN EAGLES」の文字と轟く稲妻が描かれ、機首には灰色のイーグルヘッドがデザインされた記念塗装機だ。主翼上面にかつての仕様機種である、F‐4ファントムをイメージしたシルエットが描かれている。左方向から飛んできた第306飛行隊のイーグルは、さながら手を振るように機体を傾けながら右方向に駆け抜けると、アフターバーナーを全開にして一気に急上昇していき、ベイパーともどもあっという間に青空の中に吸い込まれていった。 第303飛行隊の編隊飛行。アグレッサーの機動飛行。小松救難隊のU‐125AとUH‐60Jの捜索救難。岐阜基地から飛んできたF‐2の機動飛行が続けて行われ、小松基地航空祭をさらに盛り上げる。小松基地航空祭の見所といえば、303・306・アグレッサーの3個飛行隊によるF‐15Jの機動飛行だ。離陸と同時に左右に展開したり、機体背面を見せながら飛行するなどの、観客を意識した構成となっている。また展示飛行の合間には、小松空港の民間機の離着陸も見られ、午前10時20分に午前の展示飛行は終わった。 お腹はいっぱい気合いも充分、スモーク合わせも完璧だ。意気軒昂に待機室を出て、ファンたちの熱い声援を受けながら、揚羽たちがエプロンを歩いていたその時だった。けたたましいサイレンの音が基地全体に鳴り響いた。エプロンまで聞こえてくるということは、かなりの音量で鳴らされているようだ。この音はスクランブルの時に鳴らされるサイレンだ。ややあって滑走路の端にある、黒塗りのアラートハンガーが開き、二機のF‐15戦闘機が轟音を響かせながら出てきた。 闘龍の部隊マークは303のイーグルだ。巨大な猛禽は滑走路に進入すると、アフターバーナー全開の猛烈なハイレートクライムで飛翔していった。続いて僚機のイーグルがあとを追うように飛んでいく。スクランブルが発令されたということは、相手は中国かロシアの航空機だろう。スクランブルの発令で、ブルーインパルスの展示飛行は中止になり、小松基地航空祭は閉幕した。残念ではあるが、スクランブル発進した303のパイロットは、現在日本の空を守るために飛んでいる。ファイターパイロットたちがいるからこそ、ブルーインパルスは空を飛べるのだ。 「たっ、たっ、大変ですっ!!」 松島基地に帰投して飛行班の事務所でデスクワークをしていると、整備員の佐倉花菜1等空曹が血相を変えて飛び込んできた。チェーンソーを持った殺人鬼から逃げてきたような形相だ。 「そんなに慌ててどうしたんだ。旦那さんの浮気現場を目撃したのか?」 と慌てふためく花菜をからかったのは、4番機パイロットの比嘉真太郎1等空尉だ。新人歓迎会の時、酔っ払った先輩パイロットに、名字の比嘉を「ハイガー」と言い間違えられて、そのままハイガーが彼のTACネームになったのである。眦を吊り上げた花菜は、比嘉1尉に「違います!」と首を振ると口を開いた。 「さっき悠一さんから聞いたんです! 303が基地に戻ったあとにまた領空侵犯があって、今度は204がスクランブル発進したそうです!」 「204が――!?」 204は颯が所属している部隊ではないか。花菜の報告を聞いた揚羽は、頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けた。立ち上がろうとした瞬間両足が酔っ払ったようにふらつき、後ろに倒れそうになったところを、伸びてきた比嘉1尉の腕に支えられる。揚羽はしばらく椅子に座って呆然としていた。どうしたらいいのかよく分からない。身体の奥のほうから心臓の鼓動の鈍い音が聞こえてきた。手足がいやに重くて、口の中も蛾を食べたみたいにかさかさしている。心を蝕む不安と恐怖と戦っていると、揚羽は比嘉1尉の手に優しく肩を叩かれた。 「顔色が悪いぞ。隊長には俺が言っておくから、今日は官舎に帰って休め」 「でも、まだ仕事が……」 「仕事はいつでもできる。でもスワローの代わりは誰もいないんだぞ。ブルーインパルスはただでさえ忙しい部隊なんだから、休める時にしっかり休んで体調を整えておかないとだめだ。分かったか?」 「――はい」 比嘉1尉の厚意に甘えて官舎の部屋に戻ったものの、身体の震えはまだ止まらず、胃の腑は絞り上げられたように痛かった。F‐2のファイターパイロットだった揚羽も、当然だが何度かスクランブル発進をした。しかし領空侵犯が目的の軍用機と遭遇したことはなく、スクランブルの大半が航行ルートを間違えた民間機だった。それでも待機室ではいつでも飛び出せるよう爪先に力を入れていたし、リラックスしながらも全身の神経を研ぎ澄ませていた。あの異様な緊張感と、肌着がぐっしょりするほど全身に脂汗が吹き出たことは、第8飛行隊を離れた今でも鮮明に覚えている。颯は誰もが認める優秀なイーグルドライバーだ。不測の事態が起きたとしても対処できるだろう。でも不測の事態なんて起きてほしくない。空を飛んでいる時には分からなかった。これが地上で待つ者が感じる不安と恐怖なのだ。 (颯さん。どうか無事に帰ってきてください――) 颯にメールを送った揚羽はベランダに出ると、西に傾斜した陽の光を受けて橙色に染まった空を仰ぎ、最愛の人の無事を心の底から祈った。 ★ 小松基地航空祭が終わってから1週間後の土曜日。仙台空港から飛行機に乗った揚羽は沖縄県に飛ぶと、那覇基地官舎の単身者用の棟に向かい、颯から貰った合い鍵を使って彼が生活している部屋に入った。颯はまだ警戒待機任務に就いているのでいない。警戒待機任務は24時間365日行われる。だから土日も関係ないのだ。廊下を進んで奥のリビングに入り電気を点けた。黒色と紺色の家具で統一された部屋は、相変わらず綺麗に整理整頓されている。ソファにボストンバッグを置いた揚羽はキッチンに行き、冷蔵庫の扉に紙が貼られているのに気づいた。星形のマグネットを外して紙を手に取り、揚羽は内容に視線を走らせた。 【揚羽、来てくれてありがとう。冷蔵庫の食材は好きなだけ使っていいからな! 颯】 冷蔵庫を順番に開けて、中を確認した揚羽は驚いた。お肉と野菜、魚に卵など、料理に必要な食材が豊富に揃えられていたのだ。おまけに賞味期限切れもない。どれも新しい物ばかりである。とすると颯は揚羽のために、わざわざ食材を買い揃えておいてくれたということか。どんな料理を作る予定なのか、3日ほど前に颯に電話で訊かれた。必要な食材を揃えておくため、颯は揚羽に訊いてきたのだ。警戒待機任務で大変だろうに、颯の優しさと細かい気配りに胸が熱くなる。ならば真心をこめた料理を作って颯を出迎えなければ。エプロンを着て服の袖を捲り上げ、気合いを入れた揚羽は調理器具一式を並べて、さっそく料理を開始した。 下味をつけた鶏の唐揚げ。小鳥直伝の肉じゃが。大根、白菜、豆腐を入れたお味噌汁。彩り豊かな野菜炒め。さっぱりとした冷や奴。できた料理を盛った食器をテーブルに並べていると、「ガチャッ」とドアの鍵が開けられる音が聞こえた。揚羽はスリッパを響かせて玄関に歩く。パイロットスーツの肩にリュックサックを提げた颯が、座って紐をほどき靴を脱いでいるところだった。遠目からでも疲れた顔をしているのが分かる。玄関まで出迎えにやって来た揚羽に気づいた颯は、頬の筋肉を今にも笑い出しそうに動かした。まるで太陽と友達になったかのような明るい表情だ。 「お帰りなさい、颯さん。アラート任務、お疲れ様です」 「ああ、ただいま。なんだかいい匂いがするな」 「ご飯はできていますから。先に食べますか?」 「そうだな。着替えてから行くよ」 リビングに戻って冷えた麦茶をグラスに注いでいると、Vネックの半袖シャツとジーンズに着替えた颯が入ってきた。テーブルに並べられた料理を見た颯は、驚いたように切れ長の目を丸くした。 「凄いな。これ、全部揚羽が作ったのか?」 「はい。多かったら残してくださいね」 着席した颯は手を合わせると、まずは鶏の唐揚げを箸で口に運んで頬張った。鶏の唐揚げは颯の大好物だと、彼の父親の貴彦から聞いていたので、気合いを入れて作ったつもりだ。自分が作った料理を誰かに食べてもらうのは今日が初めてだった。なので揚羽は颯がどんな反応を見せるのか緊張する。どうやら揚羽の緊張は無意味だったようだ。颯はどの料理も「美味しいよ」と笑って褒めてくれて、さらに嬉しいことに、ご飯粒一つ残さず綺麗に完食してくれた。なんだか結婚したばかりの新婚夫婦みたいで照れてしまう。気のせいか颯は普段よりも明るいような気がした。 颯が浴室に向かったあと、揚羽は食事の後片付けに取りかかった。使った食器を全部洗って食器棚にしまい、最後に清潔な布巾でテーブルを丁寧に拭く。何気なく視線を動かした揚羽は、リビングの床に落ちている銀色に輝く物に気づいた。落ちている物を拾い上げた揚羽は瞠目する。それは「ドッグタグ」と呼ばれる認識票だった。認識票には自衛隊名・氏名・認識番号・血液型が記されている。有事の際などで、自衛官が不幸にも死亡してしまった場合、一枚は遺体を識別するために歯の間に挟み、もう一枚は形見として遺族に渡すのだ。認識票は颯の「覚悟」を形にした物。不意に冷水を浴びたように揚羽の心は震えた。 「揚羽? どうしたんだ?」 浴室から出てきた颯が揚羽の後ろに立っていた。揚羽が持っているドッグタグを見た颯は、顔面の神経を緊張で強張らせた。意を決した面持ちに変わった颯に、「話がある」と言われた揚羽はソファに座る。揚羽の隣に腰を下ろした颯は、少し間を置いてから唇を開き声を出した。 「――揚羽はいつまでパイロットを続けるつもりなんだ?」 「えっ? いきなりなんですか?」 「……俺さ、誰もいない部屋に帰るのが怖い時があるんだよ。スクランブルは危険と隣り合わせの任務だ。専守防衛を信条とする俺たちは撃てないけれど、相手はすぐに撃つことができる。だからいつ撃墜されてもおかしくない。身も心も疲れきって官舎に帰っても、そこには誰もいない。まるで棺桶の中みたいで、それが寂しくて怖いんだよ。今日揚羽が家にいて、『お帰り』って言ってくれた時、本当に嬉しかった、俺は独りじゃないんだって思えたんだ」 振り向いた颯が揚羽と視線を合わせる。世界の運命を握らされた勇者のような真剣な面持ちだ。 「俺は揚羽と結婚したいし、子供も欲しいと思ってる。でも結婚して子供が生まれたあと、有事が起こって部隊に招集がかかった時、二人とも自衛官だったら、どちらも命を落とすかもしれない。そうなったら子供は独りになって、ずっと悲しい思いをしてしまう。だから俺は、信頼できる揚羽に家族を守ってほしい、俺よりも愛情をよく知っている揚羽に、子供を育ててほしい。もし俺が死んだとしても、揚羽が子供を守って育ててくれる。俺は後悔したまま死ぬのは嫌だ。俺のために、これからできる家族のために、揚羽には部隊を辞めてもらって、ずっと側にいて支えてほしいんだ」 まさに胸を衝かれる思いだった。颯はこんなに思い詰めていた、真剣に将来のことを考えていたなんて知らなかった。それに比べて自分はどうなのだろう。瑠璃から話を聞いて、その時は結婚と出産を意識したものの、それからはすっかり失念していた。子供の頃からの夢だった、ドルフィンライダーになって空を飛び、相思相愛の恋人と過ごす毎日に夢中になっていた、一人で浮かれて喜んでいたのだ。喜びの裏で颯は不安と恐怖と戦い独りで苦悶していた。颯の苦悶に気づけなかったなんて恋人失格だ。 「――分かりました。来年のラストアクロを終えたら、部隊を辞めて退官します」 あまりにも早すぎる揚羽の決断に、当然ながら颯は限界まで目を見開いた。 「なっ――! 俺が何を言ったのかちゃんと分かっているのか!? これは簡単に決断できる話じゃないんだぞ!」 「ええ、ちゃんと分かっています。私も颯さんと結婚して赤ちゃんも欲しいです。でもこのまま空を飛び続けていれば、身体にGの影響が出て赤ちゃんが産めなくなるかもしれません。だったら私は赤ちゃんの命を犠牲にしてまで、夢を追い続けたくないし、空も飛びたくないわ。それに私は颯さんに寂しい思いをさせたくないの。命は夢よりも大切なものです。どちらかを選べと言われたなら、私は迷わずに命のほうを選びます」 颯は心臓を抉られたように愕然とした表情を浮かべた。青褪めた颯の顔はほのかな明かりの中で、夕顔の花のように、ぼんやりと浮かび上がっている。膝の上に置かれた颯の拳は震えていた。揚羽は颯の手を握ろうと手を伸ばす。だが伸ばした揚羽の手は颯に触れることはなかった。まるで揚羽の思いを拒絶するように、颯は彼女から視線を逸らしたのである。 「……変な話をして悪かった。この話は本気にしないでいいから、俺が言ったことは忘れてくれ」 外の空気を吸ってくると言った颯はソファから立ち上がると、揚羽のほうを一度も見ないままリビングを出て行った。悪いことを言ったつもりはない。だが颯を傷つけてしまったのは確かだ。魂が血管を下り、足の裏を突き抜けて地面にめり込むように、幸せだった揚羽の心は沈んでいく。そして無人の惑星に取り残されたような孤独と悲しみが、揚羽の心を覆い尽くしていったのだった。 ★ 冷たい風が秋の気配を運んでいく。日本列島は都会の花瓶にも可憐な秋桜がほころびる季節になっていた。秋風が木の葉をさわさわ揺さぶる音を聞きながら、揚羽は飛行隊隊舎屋上の観覧席のベンチに座り、赤蜻蛉が群れを成して飛ぶ、きりっと秋晴れに澄み上がった空を眺めていた。視線を下ろした揚羽は魂も一緒に抜け出ていきそうな深い溜め息を吐く。深い溜め息が出るのも無理はない。なぜなら揚羽は、心臓が地面に落っこちたような、暗い気持ちに囚われていたのだ。 それはサードピリオドの洋上アクロ訓練をしている時だった。揚羽は第2区分第12課目のバック・トゥ・バックを実施していた。バック・トゥ・バックは右側に位置する6番機が、背面飛行の5番機の真横に占位して、機体の下面同士が重なるように合わせていくのだが、その時揚羽は操縦桿を左に倒しすぎてしまい、5番機の左翼と危うく接触しそうになったのだ。6番機の異常接近に気づいた真白1尉が離脱してくれたので、空中衝突の危機はなんとか免れたのだった。デブリーフィングで真白1尉は気にしなくていいと言ってくれたが、仲間の命を危険に晒した自分を、そんな簡単に許すことなどできなかった。 「大丈夫ですか?」 春のそよ風のような優しい声が後ろから届けられる。振り向いた揚羽の視線の先にいたのは鬼熊2佐だった。鬼熊2佐は揚羽のほうに歩いてくると、大きなお尻を彼女の横のベンチの上に乗せた。 「スワローが操縦を誤るなんて、よっぽどのことだとハイガーが言っていましたよ。みんながあなたを心配しています。もちろん私だって同じです」 「……迷惑をかけてしまってすみません」 視線を合わすことができなくて揚羽は顔を伏せる。今は鬼熊2佐の優しさが酷く辛かった。優しい言葉をかけられるほど、揚羽の気持ちはますます落ち込んでしまうのだ。いっそ強い言葉で責めてくれるほうが、気持ちが楽になるのに――。 「ゲイルと何かありましたか」 不意を突かれた揚羽は、梟のように大きく見開いた目で鬼熊2佐を見た。草食動物のように穏やかな表情だ。どんなに磨かれた鏡よりも、綺麗に澄んだ鬼熊2佐の眼差しは、揚羽の心を覗き込むように見つめている。誰にも話した記憶がない出来事を、どうして鬼熊2佐は分かったのか。揚羽は理由を訊こうと口を開いたが、震える息が漏れ出ただけだった。 「ゲイルと何かあったりすると、あなたは元気をなくしたり落ち込んだりしますからね。よければ私に話してくれませんか?」 誰もいない部屋に帰るのが怖い時があること。部隊を辞めて側で支えてほしいと言われたこと。そしてラストアクロを終えたら、部隊を辞めて退官すると言ったこと。静かな教会の礼拝堂のベンチに座り、十字架を見上げているような気持ちになった揚羽は、隣に座る鬼熊2佐に事の顛末を話していた。 「……私は間違ったことを言ったんでしょうか? 私は颯さんが好きです。だから彼と結婚して子供を授かって幸せになりたい。赤ちゃんの命を犠牲にしてまで空を飛びたくない。それが私の本当の思いなのに、颯さんは受け留めてくれなかった。それどころか私は颯さんを傷つけてしまったんです」 揚羽は両膝の上に置いた手に爪を食い込ませ、皮膚が白くなるまできつく握り締めた。鬼熊2佐に話したとおり、揚羽はあれからずっと颯と会っていない。いつ会えるのかとメールを送っても、「忙しいから会えない」としか返ってこないのである。颯が揚羽を避けているのは火を見るより明らかだった。官舎の住所は知っているし合い鍵も持っている。その気になれば颯のところに飛んで行けるのに、だが揚羽は行動を起こせなかった。揚羽は颯に拒絶されるのが怖かった、大好きな颯との愛と絆を失うのが怖かったのだ。 「――あなたはそれでいいのですか?」 諭すような響きの声に揚羽は伏せていた顔を上げた。 「このまま逃げ続けていたら、ゲイルとの愛と絆は終わってしまうでしょうね。こんなところで終わってしまうほど、あなたたちの愛と絆は弱いものだったのですか? それに逃げるなんてあなたらしくない。私が知っている燕揚羽は、真っ直ぐで一生懸命で、壁にぶつかって悩むことがあっても、絶対に逃げ出さない強い女性です。結婚と子供のことは、自衛官なら誰でも一度は向き合わなければいけないことです。ここで悩んでいても問題は何も解決しません。勇気を出して、もう一度ゲイルと話すべきだと私は思います。あなたとゲイルならきっと乗り越えられる、二人で一緒に前に進んでいけますよ」 「鬼熊隊長――」 鬼熊2佐の言葉は揚羽の胸を熱くさせ、彼女の心を覆っていた硬い壁を打ち砕いた。砕かれた壁の向こう側から光が差し込んだように思えた。鬼熊2佐が言ったとおりだ。ここで独り煩悶していても、問題は停滞したまま解決しない。正しくは勇気を出して一歩前に踏み出し、面と向かって颯と話し合い、互いに納得できる結論を出さなければならないのだ。そして自分は颯が好きだ、大好きだ。心の底から愛している。だから颯が隣にいない人生なんて考えられない。揚羽の目から一筋の涙が零れ落ちる。唇を噛み締めて涙を流す揚羽を、鬼熊2佐は静かだが優しい眼差しで見守っていた。 (ちょっとハイガーさん! そんなに押さないでくださいよ!) (俺は押してないぞ! 班長のでかい尻がぐいぐい押してくるんだ!) (誰のケツがでかいだって? 隊長のほうがでかいじゃないか!) 屋上と隊舎を繋ぐ鉄の扉の中から声が聞こえてきた。嘆息した鬼熊2佐は席を立つと、鉄の扉の前まで行っていきなり扉を開け放った。「うわああっ!」と悲鳴を上げて、つんのめるように扉から出てきたのは真白1尉たちである。真白1尉たちは扉に張りついて、張り込み中の刑事さながらに、揚羽と鬼熊2佐の会話に聞き耳を立てていたのだろう。 「みんなで私と隊長の会話を盗み聞きしていたんですね! それってプライバシーの侵害じゃないですか!」 この人間盗聴器どもめ。揚羽は目尻を吊り上げて真白1尉たちを睨みつける。真っ先に弁明を始めたのは比嘉1尉だった。 「俺は悪くないぞ! 様子を見にいこうって言い出したのはホワイトなんだ! ホワイトはスワローのストーカーだからな! だから全責任はホワイトにある!」 「なっ――!? 僕はストーカーなんかじゃありませんよ! それより自分のほうはどうなんです? ハイガーさんだって、『スワローってマジ可愛いよな!』って、隠し撮りした写真をデレデレ見ながら言ってるじゃないですか!」 「おおおおいっ! 今それを言うか!?」 真白1尉と比嘉1尉は相手に罪を負わせようと口論を始めた。北浦2佐は愉快そうな面持ちで二人を見ている。こっそり聞き耳を立てていたのは好ましくないが、真白1尉たちは揚羽を案じてわざわざ来てくれたのだ。一人はみんなのために、みんなは一人のために。絆と団結心を重んじる部隊、それがブルーインパルスだ。誰一人欠けることなく、これからもブルーインパルスのみんなと一緒に、日本の空を力強く飛びたい。暗い雲が晴れた揚羽の心には、そんな強い思いが芽生えていたのだった。 ★ 12月に開催された那覇基地航空祭で、展示飛行やイベントでの展示飛行を中心に活動する、ブルーインパルスのオン・シーズンは終わった。この日揚羽は鼻歌を歌いながら、飛行班の事務室でデスクワークをしていた。揚羽はしばらく空を飛べない。6番機は数日前の訓練のあと、飛行後点検で油圧系統に不具合が見つかり、現在オーバーホールをして修理しているからだ。あのまま飛び続けていたら墜落していたかもしれない。不具合を見つけてくれた担当整備員には、何度感謝しても足りない思いである。 「今日は随分とご機嫌ですね」 と揚羽に声をかけたのは鬼熊2佐だ。鬼熊2佐に鼻歌を聞かれた恥ずかしさで、揚羽は照れ笑いを浮かべる。航空祭のため訪れた那覇基地で、揚羽は颯と会って変わらぬ思いを伝え、誤解を解いて愛と絆を強くすることができたのだ。日本全国を飛び回るオン・シーズンは終わったから、颯と会える機会も増えるだろう。だから揚羽の心は格別の幸福感で溢れ出さんばかりに満ちていた。鬼熊2佐が疲れたように息を吐いた。それにどことなく顔色が悪いように見える。 「隊長、顔色が悪いように見えますけれど……大丈夫ですか?」 「大丈夫ですよ。疲れが溜まっているだけですから」 揚羽の心配をよそに、鬼熊2佐は飛行訓練のため事務室を出て行った。しかし本当に大丈夫なのだろうか。揚羽は不安を覚える。鬼熊2佐は左胸と脚に痛みが出て1番機の操縦ができず、北浦2佐と操縦を変わってもらったりすることが、最近よくあるようになったのだ。鬼熊2佐は溜まった疲れのせいだと言ったが、一度病院に行って人間ドックを受けたほうがよいのではないだろうか。訓練が終わって鬼熊2佐が戻ったら、病院に行くよう強く進言するべきだろう。 しばらくするとT‐4中等練習機の独特の甲高いエンジン音が聞こえてきた。きっと鬼熊2佐たちがエンジンスタートをしているに違いない。高音から低音に変わったエンジン音が遠ざかっていく。6番機を除いた5機のT‐4が、金華山半島東岸沖のアクロエリアに飛んでいく光景が揚羽の脳裡に浮かぶ。そろそろアクロエリアに到着した頃だろう。揚羽が思ったその時だった。まるで地球全体を揺さぶるような、猛烈な音が響き渡ったのだ。続けて怒号と悲鳴が聞こえてくる。席を立った揚羽は隊舎の外に飛び出した。エプロンに集まっているのは整備員たちだ。全員が同じ方向を見て指差している。指差す方向には金華山半島東岸沖のアクロエリアが広がっている。そして空には天に昇る龍のような黒煙が立ちのぼっていた。 容易には理解できない光景に、揚羽や整備員たちが呆然と立ち尽くしていると、黒煙が漂う空をT‐4が飛んできた。きっとなんらかの理由でアクロエリアから戻ってきたのだ。順番に着陸したT‐4から真白1尉たちが降りてくる。世にも恐ろしい光景を目撃してしまったように、彼らは一様に青褪めて表情を強張らせていた。ここで揚羽は気づいた。今日の訓練は6番機を除く1番機から5番機が離陸していったはず。だがエプロンに停まっているのは、2番機から5番機までの四機だけ。つまり鬼熊2佐が操縦する1番機だけが帰投していないのだ。瞬間揚羽の身体は氷水を注がれたように一気に冷たくなる。いつもより冷たく感じる風が吹くなか、真白1尉が固く結んでいた唇をほどいた。 「1番機が海に墜落した――」 震える言葉を耳にした揚羽は、胸を鋭い物で貫かれたような衝撃に襲われたのだった。 |