光を受けて透明感のあるエメラルドグリーンの海が彼方まで広がり、真っ白な入道雲が沸き立つ夏空は、目も覚めるような鮮やかな群青色だ。自然が造形した美しい青色の世界を、雷鳴の如き音を響かせながら、翼から白い筋を曳いた鋼鉄の猛禽が飛んでいく。空を飛翔するのはF‐15イーグル戦闘機。近接格闘戦に優れた機体として設計・開発された、117対0の撃墜対被撃墜比率を誇る、西側要撃戦闘機の代表格だ。イーグルの垂直尾翼には、九つの鬣を持つ白頭鷲の、部隊マークが描かれている。 バレルロール、スプリットS、インメルマンターン。二機のイーグルはあらゆる機動で相手の背後を狙い、時には海面すれすれまで急降下して、蒼穹の舞台で組んずほぐれつの空中戦を繰り広げる。ドッグファイトの由来となった、犬が相手の尻尾を追いかけ合う間抜けな姿ではない。さながら翼を広げて鉤爪を振り回しながら戦う、勇猛果敢な二羽の鷲と言い表しても、過言ではないだろう。 急角度でブレイクしたイーグルは、ループとロールを組み合わせて、縦方向に旋回する機動のインメルマンターンで上昇を始めた。上昇すれば当然ながら機速は落ちる。それにこの局面で軌道を変えれば、どのように飛行しても真後ろから追う相手の前方で、自機の背中を無防備に晒すことになる。 敵機はハイGヨーヨーからのロールを組み合わせた、ラグ追跡で追いかけてきた。高G機動で機速が落ちているはずだから、あとは射程に捉えさえすれば、敵機は弾頭シーカーを冷却されたミサイルを、すぐに発射して撃墜できるだろう。まさに絶体絶命の状況に追い込まれたというのに、1番機イーグルのパイロットは、レギュレーターから送られる航空用の酸素を吸い込むと、不敵な笑みを満面に浮かべたのだった。 『サイレン! ゴーアヘッド!』 斜め後方上空に現れたのは、彼とエレメントを組む三機目のイーグルだった。太陽を背にした三機目のイーグルは、アフターバーナー全開の前進で、相対距離を一気に縮める。脅威となる存在に気がついた敵機は、翼を傾けてブレイクしようとした。だが三機目のイーグルは電子の網を展開して、敵機がブレイクする前に、AAM‐5・04式空対空誘導弾の射程に捉えた。 『ワルキューレ04、スプラッシュ・ワン!』 『――っ!? マジかよっ!』 撃墜宣言と愕然する声が重なり合う。打てば響くように要撃管制官が、空域からの離脱を撃墜されたパイロットに指示する。撃墜認定されたパイロットは戦うことを許されない。悔しさを滲ませた声で返答したパイロットは、機首を回頭させると訓練空域から離れていった。残る敵は一機だ。状況は2対1。圧倒的にこちらが有利である。どのように料理してやろうか愉しげに考えながら、1番機イーグルのパイロット――鷲海颯1等空尉は、「サイレン」と呼んだウイングマンに、後方上空を防御するよう指示を出した。颯は二つのスロットルレバーを力強く押し上げて、エンジンの回転数を一気に上げる。さながら天空に閃く稲妻の如く、イーグルは勇猛果敢に大空を翔けていき、必死に逃げる最後のイーグルをロックオンした。 訓練空域を離れて20分ほど巡航速度で飛行を続けていると、エメラルドグリーンの美しい海を背景にした、沖縄県航空自衛隊那覇基地が見えてきた。本土の基地とはまた違う広大とした敷地だ。ぴんと直立する椰子の木を、ジェットエンジンの風圧で揺らしながら、先頭を飛ぶ颯は無線の周波数を変えて、那覇基地の管制塔に呼びかけた。 『ワルキューレ01、那覇タワー。ウィズフォー、ピッチアウト、フルストップ』 『那覇タワー、ワルキューレ01。チェック・ギアダウン、ランウェイ36、クリアード・トゥ・ランド』 着陸許可が下りたので、斜め一列のエシュロン隊形になった四機のイーグルは、比較的高い高度と速度で滑走路上空に接近した。滑走路上で大きく旋回を行い減速、高度を下げつつトラフィックパターンに進入する。オーバーヘッド・アプローチ。戦闘機で代表的な飛行場への着陸方法だ。滑走路に平行するダウンウインドレグに向かって、180度の水平旋回。ダウンウインドレグに入ったイーグル編隊は、等間隔で一直線に並ぶトレール隊形に変わった。 イーグル編隊は、さらに180度旋回のベースレグ経由で、着陸態勢に移行した。颯は左右の主脚と両翼のフラップを下ろし、胴体上部のスピードブレーキも開放して機速を落とす。四人のパイロットたちが乗るF‐15イーグルJは、一機ずつ順番にランウェイ36に着陸していく。着陸した四機のイーグルは、タキシングで誘導路を通過して、駐機場の決められた場所に停止した。 右サイドコンソールの燃料コントロールスイッチを切ると、双発のエンジンの唸り声は鳴りやんだ。すぐに担当の整備員が駆け寄ってきて、機体の胴体左側に梯子をしっかりと固定する。キャノピーが開放されると、整備員は梯子を素早く上り、パイロットを座席に固定している、ベルトとショルダーハーネスを外していった。 整備員にベルトとショルダーハーネスを外してもらった颯は、胴体左側に掛けられた梯子でエプロン下りると、フックを外してヘルメットを脱いだ。汗ばんだ肌にパイロットスーツが張りついている。早く熱いシャワーを浴びて不快な汗を流したい。しかしフライトの反省と振り返りをするデブリーフィングが待っている。なのでシャワーはしばらくおあずけだ。嘆息してビデオテープとヘルメットバッグを持った颯は、からりとした南国の風が吹くエプロンを歩いていった。 「まったく! ゴルゴの奴、何回同じことを言ったら分かるんだよ!」 デブリーフィングを終わらせたあとの隊員食堂。不愉快極まりない表情で大声を出したのは、TACネームはファイアフライの、蛍木黎児1等空尉だ。ドルフィンライダーの任期を終えた黎児は、どういうわけか颯と同じ戦闘機部隊に配属されたのである。黎児は鼻息荒く、昼食のカツ丼を一気に完食した。「ゴルゴ」とは今日のACM訓練で、黎児のウイングマンを務めたパイロットのTACネームだ。極太の眉毛と瓦のような四角い顔で、「スナイパーライフルを持たせたら、まんまゴルゴ13じゃねぇか!」と先輩パイロットが歓迎会で言ったので、そのまま「ゴルゴ」がTACネームになったというわけだ。 ゴルゴは後先考えずにアフターバーナーを連発する癖があった。数回訓練をした颯は、すぐにゴルゴの癖を見抜いていた。できるだけゴルゴを引きつけて、アフターバーナーを乱発させ、燃料が残り少なくなった頃を見計らって一気に引き離すよう、颯はウイングマンの和泉拓海1等空曹に、あらかじめ指示を出しておいたのだ。そして颯の策にまんまとはまったゴルゴは、和泉にロックオンされた、黎児の援護に向かうことができず、結果黎児とゴルゴは颯と和泉に敗北したのである。 「それにしてもお前は凄いよな。このぶんだと、フライトリーダーどころかマスリーダーの資格も、すぐに取得できるんじゃないか? 鷲海颯3等空佐殿」 「馬鹿、茶化すなよ。俺はまだ1等空尉だぞ」 ドルフィンライダーの任期を終えた颯は、新田原基地第23飛行隊でF‐15の操縦訓練を受けたあと、沖縄県航空自衛隊那覇基地・第9航空団第204飛行隊に着隊した。部隊のコールサインはワルキューレ。「MYSTIC EAGLE」と名付けられた、北欧神話に登場するワルキューレとグリフォンを描いた、芸術的なノーズアートがコールサインの由来となっている。卓越した操縦技術で空を飛ぶ颯は一目置かれ、いずれ204の飛行隊長になるのではないかと、密かに期待されているのだ。 テーブルに円を描いて拗ねる黎児を呆れた目で見ていると、テーブルに置いているスマートフォンが短く鳴った。箸を置いた颯はスマートフォンを手に取り、ホーム画面を開く。どうやらメールが届いたらしい。メールのアイコンを叩いて起動、受信ボックスを確認する。差出人の名前を見た颯は唇をほころばせた。 【今週末お休みが取れたので、土曜日朝一番の飛行機に乗って、沖縄に行きますね。お昼頃に空港に着くと思いますので、到着ロビーで待っていてください。――早く颯さんに会いたいです】 颯は微笑みを広げた。差出人の名前は燕揚羽2等空尉。颯と交際している自衛官だ。築城基地の第8飛行隊で飛んでいた揚羽は、現在松島基地所属の第11飛行隊ブルーインパルスに在籍している。努力を積み重ねた揚羽は、ドルフィンライダーになる夢を叶えたのだ。確か祖父と母親と同じ、6番機パイロットだったはずだが。ふと気づくと右手に持っていたスマートフォンが消えている。いつの間にか黎児が颯のスマートフォンを持っていて、両手の指を高速で動かして、画面に文字を打ちこんでいた。 「愛しい揚羽。俺も早く君に会いたいよ。裸にした君を抱き締めて、熱いキスをして、ベッドに押し倒したい――」 「なっ――!? 黎児! なに勝手に人のスマホをいじってるんだよ!」 「ほい、送信っと!」 颯がスマートフォンを奪い返すよりも早く、黎児はメールを送信してしまった。まったくなんてことをしてくれたのだ。エッチなことしか考えていない、ドスケベ変態野郎と揚羽に思われてしまったかもしれない。すぐに颯は黎児が勝手に送ったメールだと、大慌てで揚羽に送信した。 ★ 週末の土曜日。那覇基地をあとにした颯は、レンタカーを運転して那覇空港に赴いた。颯は立体駐車場に車を停め、車種と駐車時間を設定して、料金システムが計算した駐車料金を払う。立体駐車場を出た颯は空港ターミナルに入り、一階の到着ロビーに視線を巡らせて揚羽の姿を捜した。数分前に届いたメールによると、彼女は飛行機を降りて到着ロビーで待っているらしいのだが。 色彩豊かな熱帯魚が泳ぐ水槽の前に揚羽は立っていた。背中にリボンがついたクリーム色のフレンチスリーブのトップスと、ベージュのキュロットスカート、両足にアンクルストラップのサンダルを履いている。脇に置かれているのは水色のスーツケースだ。揚羽はきょろきょろと周囲を見回していた。揚羽は颯を見つけられないでいるようだ。ちょっとした悪戯心が芽生える。揚羽の視界に入らないようにロビーを進んだ颯は、彼女のすぐ後ろで足を止めた。 「――チェック・シックス」 「ひゃっ!?」 颯は揚羽を後ろから抱き締めると、耳元に唇を寄せて甘く囁いた。からかうように熱い吐息を耳に吹きかける。すると揚羽は尻尾を掴まれた猫のように飛び上がった。ハニーベージュの髪を揺らした揚羽はこちらを振り返ると、唇を犀の角のように尖らせて颯を見上げてきた。 「もうっ! 驚いちゃったじゃないですか! 普通に声をかけてください!」 「ついからかいたくなったんだ。悪かったよ」 視線を感じた颯は振り返る。するとロビーに立つ数人の若者が、揃って揚羽のほうを見ていることに気づいた。若者たちは揚羽の脚と胸と臀部を、上から下まで舐めるように凝視している。鼻の下を伸ばした嫌らしい笑みだ。彼らは脳内で猥褻な妄想をしているに違いない。颯は揚羽の肩を抱いて引き寄せると、若者たちに見せつけるように彼女にキスをした。 衆人環視の前でいきなりキスされた揚羽は抵抗してきたが、舌を絡めながら腰を撫でると、身悶えしておとなしくなった。唇を離した颯は軟派どもをぎろりと睨みつける。颯に睨まれた若者たちは、そそくさとロビーを出て行った。――俺の女に手を出すんじゃねぇよ、馬鹿野郎どもが。心の中で悪態をついていると揚羽に背中を叩かれた。 「いっ、いきなり、キスするなんて! 場所を考えてくださいよ! 颯さんの馬鹿! もう知りません! あのエッチなメール、蛍木さんじゃなくて、やっぱり颯さんが送ったんでしょ!」 よっぽど恥ずかしかったらしく、揚羽はうっすらとだが涙ぐんでいた。怒る揚羽が可愛くて、もう一度キスをしたくなったが、きっと火に油を注いでしまうだろうから、颯は我慢することにした。怒りが収まらない揚羽は松島に帰ると言いだした。なんとしてでも阻止しなければ。颯は平謝りしてなんとか怒りの矛を収めさせる。揚羽を連れた颯は、立体駐車場に停めていた車に乗り込み那覇空港を出発した。 那覇空港から小禄バイパスに入り、南下して豊見城道路を15分ほど走り続ける。ややあって椰子並木の先に、「美らSUNビーチ」が見えてきた。全長700メートルの県内最大級の美しい人工ビーチには、ハブクラゲネットが設置され、ビーチ監視員も常駐している。施設も充実している美らSUNビーチは、誰でも安心・快適に利用できるのだ。なぎさ橋を渡って巨大駐車場に車を停める。管理棟に向かった颯は、揚羽と別れて男子ロッカールームに入り、荷物をロッカーに預けて服を脱ぎ、持ってきたハーフパンツの水着に着替えた。 先に着替えた颯は管理棟の前で揚羽が出てくるのを待つ。爽やかに晴れた青空を見ていると、サンダルの踵が地面を叩く音が聞こえた。揚羽がこちらに歩いてくる。桃色の布地と白い水玉模様の、セパレートタイプの水着姿だ。赤いリボンが揺れるトップスに、オーロラのようなフリルのパティオを合わせている。大胆なビキニではなかったが、肌の露出面積は多い。柔らかな曲線を描く膨らみが布地を押し上げている。 「どうですか? やっぱりちょっと子供っぽいですよね」 苦笑した揚羽はアイスダンスをするように、くるりと軽やかに一回転した。パティオが風に踊り、桃の果実のような臀部が露わになる。颯の心臓は高鳴り身体が熱くなった。子供っぽいなんてとんでもない。アイドルさながらの可憐な水着姿ではないか。 「颯さん、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」 首を傾げた揚羽が横から覗き込んできた。水着の胸がぷるんと揺れ、全開になった胸の谷間が、颯の視界に飛び込んでくる。全身の熱が下半身の真ん中に一極集中した。 「あ、ああ! 大丈夫、大丈夫だ! 早く泳ぎに行くぞ!」 深呼吸して気持ちを落ち着かせ、揚羽の手を引いた颯は北浜の遊泳ビーチエリアに向かった。白い砂浜と南国の風に揺れる椰子の木。紺碧の大海原が見渡す限り広がっている。透明な波が砂浜を優しく撫でながら、寄せては返していく。珊瑚の欠片が陽光を弾いて煌めいていた。人工とはとても思えない。自然の美しさに満ちた風景だ。 サンダルを脱ぎ捨てた揚羽は、全身で夏の陽光を受けとめながら、透き通った紺碧の海を目指して走っていく。軽く準備運動をした揚羽が海に飛び込んだ。虹色に光る水飛沫が跳ねる。綺麗なクロールで揚羽は波を掻き分けながら、沖に向かって突き進んでいく。あんまり張り切ると足が攣ると思うのだが。準備運動をして颯は揚羽のあとを追いかけた。 沖縄の海を思う存分満喫した颯は遊泳ビーチを離れ、三角屋根の共有スペースの東屋で、疲れた身体を休めていた。揚羽は飲み物と軽食を買いにパーラーまで行っている。海で遊ぶ家族。ジェットスキーに乗って海を走る若者たち。仲睦まじく砂浜を散歩する恋人。ごくありふれた日常の風景が広がっていた。 ふと颯は思った。自分は安寧に満ち溢れる彼らの日常を、この手で守ることができるのだろうかと。世界情勢が大きく変わりつつある今、安全保障関連法案の国際支援平和法の新設、10の関連法制と事態対処法の一部改正など、自衛隊を取り巻く環境も、大きな転換点を迎えようとしている。 基地をスクランブル発進して侵入機を発見したとする。仮に侵入機が攻撃してきたとならば、それは「武力攻撃事態等」に当てはまり、パイロットは武力行使が可能となる。つまりミサイルおよび機関砲で、相手を撃墜できるということだ。不測の事態に備えて日々訓練しているが、それはあくまでも訓練。現場でそうなった時、自分は撃てるのだろうか? 血の通った生身の人間が乗る航空機を、この手で撃墜できるのだろうか? いくら考えても納得できる答えは出てこない。いや、納得できる答えなどないのかもしれない。 (それにしても遅いな……) 颯は揚羽の帰りが遅いことに気づいた。パーラーに行ってくると言ってから、30分は経っているだろう。東屋からパーラーまでは目と鼻の距離だ。まさか道に迷ったわけではあるまい。嘆息した颯は東屋を離れてパーラーに向かう。パーラーの前に揚羽はいた。レジ袋を提げているから買い物は済ませているのだろう。であればなぜ東屋に戻ってこないのか。その「原因」は揚羽の前にあった。 「ごめんなさい、私、急いでるんです」 「そんなつれないこと言わないでさ、俺と一緒にバナナボートに乗って遊ぼうよ〜」 揚羽は金髪男にしつこくナンパされているようだった。金髪男が揚羽の腕を掴んだ。男のもう片方の手が揚羽の肩に回される。男の指は揚羽の二の腕を滑るように撫でていき、そのまま胸のほうに這っていった。怯える揚羽を見た颯は当然怒りをみなぎらせる。颯は地面を蹴って走り、二人の間に割り込んだ。 「なんだテメェは。部外者は引っ込んでろよ」 「部外者はお前のほうだと思うが? こいつは俺の彼女だ。文句があるなら那覇基地まで来い」 「那覇基地? まさか、テメェは――」 「那覇基地所属の自衛官、航空自衛隊の戦闘機パイロットだ」 颯は金髪男を見据えると強い口調で言った。途端に金髪男の顔は一気に青褪めた。まさに百獣の王に牙を剥く小さな鼠。これは勝てない相手だと判断したらしい。悔しまぎれに舌打ちして颯を一瞥した金髪男は、ポケットから取り出したスマートフォンを、乱暴に操作しながらパーラーを離れていった。ゴミ箱に無理矢理顔を突っ込まされたような気分だ。 「……帰るぞ」 「えっ? せっかく海に来たのに、もう帰るんですか?」 肩を落とした揚羽はおとなしく後ろをついてきた。着替えて駐車場に停めてある車に乗り込む。運転席に座ってシートベルトを締めていると、助手席に座る揚羽が話しかけてきた。 「どうして怒っているんですか?」 「……別に怒ってねぇよ」 「ビーチから駐車場に来るまで一言も喋らないんだもの。それに顔も怖いです」 沈黙を反抗と思ったらしく、揚羽の表情は険しくなっていた。 「私と一緒にいるのがそんなに嫌なんですか? それなら私が沖縄に行く前に、お前なんか大嫌いだって、メールか電話で言えばいいじゃない! 颯さんの馬鹿! 私は一人で帰りますから、沖縄の可愛い女の子と楽しくやってなさいよ!」 シートベルトを外した揚羽が、車から降りるよりも早く、颯は彼女を抱き寄せてキスをした。空港でキスした時と同じく、揚羽は身を捩らせ、首を振ったり颯の胸を叩いたりして必死に抵抗してきた。だが颯はやめなかった。爆発した感情が理性を吹き飛ばしていたのである。颯の口づけから解放された揚羽は、ぐったりと座席に崩れ落ちた。 「どうして、どうして、いきなりこんなことを――」 「――腹が立ったんだよ」 「えっ?」 「自分だって真白に告白されたり、航空祭に来た男にちやほやされて、まんざらでもないくせに、よくもそんなことが言えるよな。俺はお前が他の男と一緒にいるところなんか見たくないんだよ。そんな俺の気持ちも知らないで、沖縄の女とよろしくやってろだって? ふざけるなって思ったら、抑えていたいろいろなものが爆発したんだ」 「私に腹が立ったっていうだけで、こんな場所で、その、キスしたんですか?」 「ああ、そうだ! だいたい揚羽も悪いんだぞ! お前は他の男がほうっておかないくらい可愛いんだから、もう少し露出の少ない服を着たり、男に声をかけられても無視したりなんなりして、ちょっとは防衛策を取れよ! 俺はお前が悪い男に傷つけられるところなんて見たくない、耐えられないんだよ!」 半ばやけくそ気味に叫んで颯は黒髪を掻き混ぜる。何が言いたいのか自分でも分からない。揚羽は呆気にとられた表情で颯を見つめていた。目を瞬かせた揚羽が唇をほどく。 「それは私も同じです。お互い忙しくてなかなか会えないから、颯さんは私のことなんか忘れて、他の女の子と仲良くしてるんじゃないかって、最近よく思ってたんです。でもそれは違いましたね。私のことを心配して、思ってくれていたなんて、知らなかった。……ごめんなさい、颯さん」 揚羽は頭を下げてきた。意地らしいまでの純粋な姿に颯は胸を打たれる。比べて自分は怒りと欲望に任せて愛を押しつけた大馬鹿者。己の器の小ささに溜息が出る。小鳥と流星は自分を信頼して揚羽を託してくれたのに、もう少しで颯は二人の信頼を裏切るところだった。揚羽に謝らせて事を終わらせるのは卑怯だ。颯は黒髪を揺らして頭を下げた。 「……ごめん、揚羽。今のは俺が悪かった。俺が好きなのは揚羽だけだ。だから他の女になんか興味ねぇよ。真っ直ぐで純粋な揚羽に、俺は恋をしたんだ」 はっと目を見張った揚羽は、はにかみながら短く頷いた。伸びてきた揚羽の手が颯のジャケットを掴んだ。頬を赤く染めた揚羽は、眉尻を下げて上目遣いに颯を見ている。哀切な目をしているから、生理現象に襲われたのだろうと颯は思ったのだが。 「あの、颯さん。私、官舎に着くまで、我慢できそうにないです……」 瞬間颯の思考は凍結したが、すぐに再び回転を始めて、揚羽が言った言葉の意味を理解した。つまり揚羽はこの場で颯に愛してほしいと言っているのだ。あまりにも突拍子なお願いに、颯は苦笑してしまった。 「お前って、意外と大胆なんだな」 「だっ、だって、凄く気持ちよかったんだもの。あんなに気持ちよかったら、誰だって我慢できないです。……やっぱり駄目ですよね。変なことを言ってごめんなさい。官舎に着くまで我慢します」 「馬鹿、駄目じゃねぇよ。……俺だって我慢できないんだ」 身体を傾けた颯は、揚羽の頬を両手で挟んで顔を近づけ、今度は蝶の羽ばたきのように優しく唇にキスをした。颯は座席のシートを後ろに倒して横たわり、引力の代わりに手を伸ばして、揚羽を引き寄せる。揚羽はふわりとかぶさってきた。甘い香り、心臓の鼓動、柔らかな感触が、颯の全身に広がっていく。アイハブコントロール、ユーハブコントロール。遠く彼方に広がる海の歌声を聞きながら、颯と揚羽は心と身体を一つに重ね合った。 ★ 熱く甘い夏を含んだ入道雲が青天に浮かんでいる。エプロンをじりじりと焦がす夏の陽光は、いきなり目の前で白い爆発を起こしたように明るい。容赦のない炎天下のなか、馬鹿みたいに晴れ上がった沖縄の太陽に全身を焼かれながら、颯は黎児と肩を並べて格納庫の前に立っていた。パイロットスーツと救命装具、耐Gスーツを着けているのでとても暑い。まさにサウナ状態だ。額から滑り落ちた汗が頬を伝う。颯は身体に張りつくパイロットスーツの袖で顔を拭った。 「お前さ、揚羽ちゃんと会ってから調子がいいよな。……さてはたくさん『燃料補給』したな?」 「燃料補給? なんだよそれ」 「とぼけるなよ〜! 揚羽ちゃんと熱い夜を過ごしたんだろ? くそう! うらやましいぜこんちくしょう!」 黎児は人気アイドルの熱愛現場を撮影したカメラマンのような笑みを浮かべた。揚羽を抱いた熱い夜を思い出してしまい、颯の顔は耳まで真っ赤になった。確かに「燃料補給」したのは事実だ。だがそれを黎児に言い当てられたのが腹立たしくて、颯は長い脚を振り上げてローキックをお見舞いする。颯に臀部を蹴飛ばされた黎児は、痛いと喚きながら兎のように飛び跳ねていた。不意に表情を引き締めた黎児が空を見上げた。どうやら「彼ら」が到着したらしい。 「ようやくお出でになったみたいだぜ」 「――ああ」 二人が仰ぐ青空を爆音を響かせながら二機の航空機が飛んできた。巨大な前縁ストレーキと直線的な主翼。二枚の垂直尾翼は水平尾翼の手前に配置され、独特なシルエットを生み出している。航空自衛隊が保有している戦闘機ではない。臀部の針を突き出した蜂の如きシルエットの戦闘機は、米海軍の艦載機F/A‐18Eスーパーホーネットだ。二機のF/A‐18Eスーパーホーネットは、オーバーヘッドアプローチで着陸すると、誘導路をタキシングしてきてエプロンの一角で停止した。 「なあ、スーパーホーネットって空母の艦載機なんだろ? 空母じゃなくても普通に着陸できるのか?」 「スーパーホーネットは陸上向けに、スペインやカナダに輸出しているからな。お客様に挨拶しに行くぞ」 颯と黎児は駐機されたF/A‐18Eスーパーホーネットのところに向かった。二人が機体の前に着いたのと同時にキャノピーが開き、ベルトとショルダーハーネスを外されたパイロットが梯子を下りてくる。颯と黎児に向かい合う位置に立った、パイロットの一人がヘルメットを脱いだ。 「アメリカ海軍岩国航空基地第5空母航空団、第27戦闘攻撃飛行隊、飛行隊長のルーク・オブライエン中佐だ。TACネームはトールだが、トールサイズのトールじゃなくて、雷神のトールだからな。こいつはTACネームはエンジェルの、ジェイミー・ガブリエル中尉。今日はよろしく頼むぜ」 流暢な日本語で挨拶した、ルーク・オブライエン中佐は快活な笑みを浮かべたが、ジェイミー・ガブリエル中尉は、短く頷いてみせただけだった。ヘルメットをかぶってバイザーも下ろしたままなので、ガブリエル中尉の顔は見えない。それにしてもオブライエン中佐は見事な体躯の持ち主だ。恐らくだが190センチはあるだろう。全身筋肉の塊と言っても過言ではない。オブライエン中佐とは反対に、ガブリエル中尉は男性にしては些か華奢に見える。まあパイロットスーツの下は筋肉でいっぱいなのかもしれないが。 第5空母航空団は、ロナルド・レーガンを搭載空母とする、アメリカ海軍空母航空団の一つで、山口県岩国航空基地に地上展開している。混成航空部隊であり、戦闘攻撃機、電子戦機、早期警戒機、哨戒ヘリコプターなどで構成される第5空母航空団は、空母航空団の中で唯一アメリカ合衆国本土以外に展開しているのだ。 始まりは1ヶ月前に開かれた戦技競技会でのことだった。颯と黎児たち「MYSTIC EAGLE」の第204飛行隊は、見事飛行教導群アグレッサーに勝利して、F‐15戦技部門で優勝を果たしたのである。その時戦技競技会会場に、偶然にも第5空母航空団の司令がいて、是非204飛行隊と異機種間戦闘訓練、通称DACTをしたいと、アメリカ国防総省を通し、防衛省経由で申し込んできたというわけだ。先に黎児がオブライエン中佐とガブリエル中尉と握手を交わす。後ろに下がった黎児と入れ替わるように颯は前に進み出た。 「航空自衛隊那覇基地第9航空団第204飛行隊、鷲海颯1等空尉です。こちらこそよろし――」 颯の言葉は途中で断ち切れた。前に進み出たオブライエン中佐は、なんといきなりアンダースローで、颯の股間を掴んでもみもみと揉んできたのだ。想定外の事態に颯の思考は凍りつく。オブライエン中佐は掌に収めたものを、軽く叩いて上下に弾ませ、熱心な様子で感触を確かめている。満足したのかオブライエン中佐は、颯の股間のものを掴んでいた手を離した。 「綺麗な顔をしているから、てっきり女の子かと思ったが、ちゃんと『デカい』のがついているじゃないか! これで遠慮なく戦えるぜ!」 破顔一笑したオブライエン中佐はハンガーに入っていった。上官の非礼を詫びるように、頭を下げたガブリエル中尉も、ハンガーに入った彼のあとを早足で追いかけていった。棒立ちしたまま動かない颯に黎児が声をかける。 「お、おい、颯、大丈夫か……?」 「――あの変態クソ野郎、全力で叩き潰すぞ」 「はっ、はい……」 颯の目に殺意を見た黎児は、震えながら返事をした。沸々と闘志が湧き上がる。恋人の揚羽にさえ触らせたことがないものを、あろうことか初対面の金髪筋肉男に、無遠慮に揉みしだかれたのだ。目の前に大金を積まれたって許すものか。颯の指は想像上の機関砲の発射トリガーに、しっかりとかけられていた。 垂直尾翼に九つの鬣の白頭鷲が描かれたイーグルが、ハンガーから灼熱のエプロンに引き出される。颯は1番機に、黎児は2番機に向かい、担当の機付き整備員と敬礼を交わした。固定装備のM61A1・20ミリ機関砲が940発。胴体真下のSta5に、610ガロンハイGタンク。左右主翼付け根付近のSta2とSta8に、AAM‐5・04式空対空誘導弾のキャプティブ弾。それら要撃戦闘訓練時の兵装が、機外装備の搭載ステーションに装備されている。前部カナード翼の切り込みが外観の特徴の、青い塗装の訓練弾はキャプティブ弾と呼ばれ、炸薬や推進装置が入っていないため発射はできないが、先端のシーカーは生きているから、赤外線目標を検知することができる。どの装備も最新の演習評価システムとデータリンクしているので、実際に発射しなくても命中と被弾が分かるようになっているのだ。 外部点検を終えた颯はコクピットに乗り込んだ。ベルトとハーネスを固定した颯はヘルメットを被る。前方への張り出しが大きいこのヘルメットは、HUDの機能をヘルメットに移した、ヘルメット装着型表示装置を採用した、最新式のヘルメットだ。米軍で使われている、統合ヘルメット照準システムと同等の機能を持ち、ヘルメットのバイザーに各種情報が投影される仕組みになっていて、AAM‐5のようなオフボアサイト能力を持つ、ミサイルの誘導に効果的な、照準システムとされている。ちなみにF‐35のHMDは、表示される情報をHUD並みに拡充してHUDを廃止させ、機体6箇所に設置した赤外線カメラで仮想画像を作り出し、機体が邪魔して見ることができない、前下方や後下方も見ることができる。それにより真後ろにいる敵機を、ロックオンすることができるらしい。 70項目のチェック完了、エンジンスタートとタキシーチェックも完了したので、颯は整備員に車輪止めを外してもらい、タキシングを開始した。ブレーキを踏んで動作確認、飛行計器も正常だ。滑走路に進入する前のアーミングエリアで、列線整備員と武器小隊の整備員に、外部点検とミサイルの安全ピンを抜いてもらい、颯は1番機を滑走路に進入させた。 颯は滑走路上でブレーキを踏み込み、左右のスロットルレバーをミリタリーパワーまで前進させて、回転計、油圧計、燃料流入計、ファンタービン入り口温度計をチェックする。回転数90パーセント以上、タービン入り口の温度は322度。どちらも正常だ。離陸準備はすべて整った。颯は基地管制塔に無線で呼びかけた。 『ワルキューレ01、那覇タワー。ツーイーグル、ハイレートクライムテイクオフ』 『那覇タワー、ワルキューレ01、ツーイーグル。ウインド・ツー・スリー・ゼロ・ディグリーズ・アット・スリー・ゼロノッツ。ランウェイ36、ハイレートクライムテイクオフ』 『ワルキューレ01、ラジャー。ツーイーグル、ランウェイ36、ハイレートクライムテイクオフ』 踏み込んでいたブレーキから足を離した颯は、スロットルを80パーセントに上げて、ミリタリー位置までレバーを押し上げた。双発のエンジンの回転数が上昇。AN/AWG‐20プログラム可能型兵装操作セットの右側にある、速度・マッハ計と迎え角度指示計の針が、一気に跳ね上がった。双発のF100‐IHI‐220Eエンジンから放たれる震動が、機体を前後左右に揺らす。1番機は前方へ跳び出すようにランディングを開始した。前方から押し寄せる重力加速度が、颯の身体を座席に叩きつける。HMDの青みがかったバイザーに映る、速度スケールが一気に増えていった。 時速120ノットを迎えた瞬間に颯は操縦桿を手前に引く。離陸した1番機は、機体上面にベイパーの虹を美しく輝かせながら、空を貫くようなハイレートクライムで一気に上昇していく。フラップアップ、250ノットになる前に車輪を格納。350ノットを維持しながら上昇を続ける。ややあって黎児が乗る2番機も、ハイレートクライムで離陸してきて颯と合流した。基地を離陸した二機は、那覇DEPからGCIで南西航空混成団オフサイドと交信するよう指示を受け、訓練空域までレーダーモニターされながら飛行を続けた。 今回の異機種間戦闘訓練は、中立状態から始まる「ニュートラル」で行う。互いに同じ周波数で会話ができる状態にして、赤編隊と青編隊に分かれて、訓練空域の両端から見合い、「ファイツ・オン」のコールで、互いに突撃して戦闘に入る。すれ違ったら互いの背後を取るように機動して、押さえこみながらミサイルや機関砲の射撃を繰り返す。そして相手を確実に撃墜できたと思ったら、「スプラッシュ!」とコールして勝利を宣言する。これが通常行われている、空自の戦闘訓練だ。 那覇基地を離陸した二機は訓練空域に到着した。先行して離陸していた二機のスーパーホーネットが、反対方向に旋回していくのが見える。空域の端に到着した颯と黎児も、旋回して向きを変えた。しばらくしてレーダーディスプレイに赤の菱形シンボルが現れた。方位はトゥエルブ・オクロック。少しずつだが確実に近づいている。 『ワルキューレ02、ゴー・トレール』 颯は黎児にトレール隊形にしろと指示を出した。トレール隊形は隊長機が30秒ほど先行する隊形だ。こうすれば先行機が敵機を視認する「アイボール」となって、後続の機体に注意を促すことができ、相手が先行機に食いついた場合は、後続機が「シューター」となって、敵機の背後に回り挟みこめる。この場合引きつけ役となったアイボールは、即座に離脱してシューターの支援に入る。逆に相手がシューターに食らいついたら、アイボールは引き返してシューターとなればいいのだ。「ツー」と返した黎児の2番機は、やや速度を落として1番機との距離を置いた。 青空の遥か彼方に二つの黒点が現れた。黒点は迷うことなく、こちらを目指して真っ直ぐ飛んでくる。大型の直線翼が陽光に煌めく。丸みを帯びたストレーキと、外開きの双垂直尾翼が、颯の視界に入った。ファイツ・オンのコールで増速した四機は前進を続け、目にも止まらぬ速さで交差した。腹を見せるナイフエッジで、オブライエン中佐とすれ違った颯は、彼の背後を取ろうと最大Gの急旋回に入った。だがオブライエン中佐も、颯の背後を取ろうと旋回を続けているので、二機の軌道は空に丸い円を描いているようになっている。 操縦桿を引いた黎児は2番機を急上昇させた。中天でループを打ち背面で状況を確認しながら、オブライエン中佐の後方を狙う。黎児はオブライエン中佐の旋回のタイミングを計りながら、速度・ピッチ角を調整してループを打つ。颯と巴戦を続けるオブライエン中佐の斜め後方に、黎児が降下しようとしたその瞬間、コクピットにレーダー警報装置の悲鳴が鳴り響いた。黎児は素早くコンソール右側のRWR表示装置を見やる。するとシックス・オクロックの方角に、赤い菱形シンボルがはっきりと映っていた。 (シックス・オクロック――! 後ろだって!?) 眼下に広がる雲海の一部が弾け飛び、ガブリエル中尉が乗るスーパーホーネットが、黎児の背後に躍り出た。黎児はガブリエル中尉と交差した瞬間を確かにこの目で見た。それなのにいつの間に、雲海の中に身を潜めていたのだろうか。不意打ちを食らったにもかかわらず、黎児の思考は冷静だった。黎児は瞬時に旋回方向を切り返すと、ガブリエル中尉の後ろ上方を狙うように機動した。防御機動の一つシザーズだ。 しかしシザーズで勝負を仕掛けたものの、黎児は有利な位置を掴めない。黎児は交差直後の交差角が最大となるタイミングで、真っ直ぐにアンロード加速して離脱した。そのまま左右のアフターバーナーを開放し、ガブリエル中尉の猛追から逃れようと試みる。だが高度差があるぶん彼のほうが優速だ。左右のスリップで攪乱を狙うこちらの動きに合わせて、機体の軌道を修正したガブリエル中尉は、短距離ミサイルの有効射程まで距離を縮めてきた。 ミサイルアラートがコクピットに鳴り響く。それと同時に円形ディスプレイの頂点近くで、赤い輝点が明滅した。HMDに「LOCK」の文字が素早く表示される。黎児はロックオンされた。ガブリエル中尉は、レーダーを捜索モードから照準モードに切り替え、パルスを連続的に浴びせきているのだ。警告音が次第に大きくなっていく。今頃コクピットのガブリエル中尉は、勝利を確信した表情で、操縦桿のミサイル発射スイッチに、人差し指を乗せているに違いない。 一方その頃、颯はオブライエン中佐の後ろ上方のコントロールゾーンに、1番機を滑り込ませることに成功していた。あとはひたすらプレッシャーをかけて追跡すれば、攻撃の機会は必ず巡ってくるだろう。だがその予想は裏切られた。この高度では最適に近い速度で旋回しているにも関わらず、オブライエン中佐は颯の天頂近くまで移動したのだ。このまま続けると形勢が逆転してしまう。セオリーではここでウイングマンの黎児が、上空を塞ぐ格好で占位して、いつでも離脱できるようにしているはずなのだが、向こうも牽制どころではないレベルで、ガブリエル中尉に捕まっていた。このままでは黎児が撃墜されてしまうかもしれない。 今のタイミングなら、オブライエン中佐がこちらの離脱に気づき、追いかけるにしてもワンテンポ遅れて逃げ果せられる。そう判断した颯は追跡を打ち切り、オブライエン中佐と逆向きに機首を巡らせて、アンロード加速で失った機速を回復したあと、黎児のほうに機首を向けた。だが黎児とはおよそ9キロ引き離されていて目視できない。黎児のほうに向かう最中にIEWSが、後方からレーダー誘導ミサイルが撃たれたことを警告してきた。 しかしすでに相手とは20キロ以上離れており、この距離で後方から撃たれるぶんには、有効射程は3分の1から4分の1程度に短くなるので、この距離ならECMのみで充分対処できた。6キロまで近づくと、ようやく状況が分かった。黎児はガブリエル中尉にコントロールゾーンに侵入されて、少しずつ追い込まれているところだった。短距離射程ミサイルを選択、颯は黎児に指示を出すと同時にミサイルを発射した。 『ワルキューレ01、フォックス・ツー! ファイアフライ、ブレイク!』 颯のミサイル発射宣言が空域に響き渡る。ミサイルの発射距離は些か遠かったが、牽制としては充分に役立った。危険を感じたガブリエル中尉は、急いで上昇反転して黎児から離れていく。発射されたミサイルは赤外線誘導されたが、案の定力尽きて落ちていった。黎児は颯とすれ違い降下していく。後方に離脱していったガブリエル中尉が追いついてくるまで1分弱。それまで1対1の態勢で戦える。颯が撃ったM61A1・20ミリ機関砲を、エルロン・ロールで回避したオブライエン中佐は、1番機のほうに向き直った。追いついてくるガブリエル中尉が、颯の後方からくる形となるので、時間差がつくが挟撃できると判断したのだろう。 ハイGターンで旋回したオブライエン中佐が、颯の側面に回り込んできた。速い。颯が気づいた時には、もうロックオンアラートが鳴り響いていた。颯はチャフをばら撒いてミサイルを回避する。パワーダイブで急降下、稼いだ運動エネルギーを今度は前進につぎこんだ。だがオブライエン中佐はエンジンを全開にして追従してくる。背後を取られている以上、ミサイルの誘導距離はオブライエン中佐のほうが短い。なんとかもう少しよい位置を取れないか。後ろは無理にしても横並び、あるいは上下のラインが理想なのだが。 (くそっ! 視界に捉えさえすれば、HMDの視線照準モードでロックオンできるのに――!) 颯が悔しさで歯噛みしたその時だ。黎児の声がヘルメットイヤフォンに響いた。 『颯! 縦に8の字びっくり大作戦だ!』 『縦に8の字びっくり大作戦? 分かるように言えよ!』 『お前にしかできない機動だよ! 頼む! 俺を信じてくれ!』 自分にしかできない縦に8の字の機動。瞬間颯の脳裡に閃きが走った。颯はVSD液晶画面に視線を当てる。味方を示す緑色の菱形シンボルが、斜め下方から近づいてくる様子が視野に入った。黎児が乗る2番機だ。先程まで20キロは離れていたが、高速でこちらに接近してくる。颯はバックミラーに視線を上げて、オブライエン中佐との間合いを測った。後方5キロ。だがさらに距離が縮まる。VSD液晶画面の黎児の位置は斜め左下10キロ、セブン・オクロックの位置だ。颯は機体をやや右に傾けてから、操縦桿を手前まで一気に引き、インメルマンターンの機動に入った。 『いくぞ! 黎児!』 『おうよ!』 インメルマンターンで上昇した颯は、間髪入れずにもう一度インメルマンターンを繰り出し、続いて二回のスプリットSで一気に降下した。颯が繰り出したのはバーティカル・キューバン・エイト。ブルーインパルスの曲技飛行である。同じインメルマンターンで追跡してきたオブライエン中佐は、まさか颯がインメルマンターンを二回繰り出すとは思わず、たちまちオーバーシュートしてしまった。そこにガブリエル中尉を振り切った黎児が、アフターバーナー全開で突っ込んでくる。オブライエン中佐が反転する前に、黎児はスーパーホーネットをロックオンした。 『ワルキューレ02、フォックス・ツー! スプラッシュ・ワン!』 黎児の撃墜宣言が空域に響き渡る。要撃管制官に撃墜認定されたオブライエン中佐は、空域を離脱していった。スプリットSの降下を終えたばかりで、まだ機体の体勢を整えられていない颯に、背後から高速で迫るガブリエル中尉が砲撃の牙を剥く。まさに絶体絶命の状況だ。だが颯は諦めていなかった。なぜなら自分には、心から信頼するウイングマンがいるのだから。 『黎児! あとはお前に任せたぞ!』 『ああ! お前の背中は俺が守ってやるよ!』 レター・エイトさながらに急旋回した黎児は、颯の真下を駆け抜けると一気に急上昇して、釣瓶落としでガブリエル中尉に迫りながら、AAM‐5・04式空対空誘導弾のキャプティブ弾を連続で発射する。正面から進撃するミサイルは、驚異的な速度で彼我との距離を詰めて、ガブリエル中尉もろともスーパーホーネットを撃墜した。撃墜認定されたガブリエル中尉が空域を離脱していく。そしてこの瞬間、颯と黎児は見事勝利を掴み取ったのだ。颯の横に並んだ黎児が「やったな!」と親指を立てる。颯も同じく親指を立てた。両翼端から白い航跡雲を曳きながら、二機の戦乙女のイーグルが翔ける空は、美しく青く澄み渡っていた。 高く晴れ渡る沖縄の青空に爆音を響かせながら、颯と黎児は那覇基地に帰投した。高い高度と速度で滑走路上空に接近、滑走路上で大きく旋回を行って減速して、高度下げつつトラフィックパターンに進入しながら、360度のオーバーヘッド・アプローチで着陸態勢に入る。先頭を飛ぶ颯が最初に着陸して、それに続くように黎児も着陸した。滑走路をいっぱいに使って減速、滑走路の端で方向転換して誘導路をタキシングする。エプロンにイーグルを駐機した颯は、スイッチを押してコントロールハンドルを引き出し、ハンドルを後方に回してキャノピーを開放した。颯は梯子を使いエプロンに下りる。ほとんど9Gに近い激しい機動を繰り返したせいか、全身の筋肉と骨が悲鳴を上げている。汗が噴水のように噴き出して止まらない。我慢できなくなった颯は、救命胴衣の留め具を外し、汗でびっしょりになったパイロットスーツの、ジッパーを下ろして胸元を全開にした。 「まさかアクロバットを繰り出してくるとはな! ブルーエンジェルズもアメイジングだぜ、ジャパニーズボーイ!」 スーパーホーネットから降りたオブライエン中佐が、颯のところにやってきた。颯と同じく汗びっしょりのオブライエン中佐は、口笛を吹きながら「WOW!」と驚いている。両手を広げて驚く仕草は、ややオーバーリアクション気味で、日米の文化の違いを感じさせた。闊達な笑みを浮かべたオブライエン中佐が、颯の眼前に右手を差し出す。颯はまた股間を掴まれて揉まれるのかと警戒したが、オブライエン中佐は笑いながら首を振った。 「久しぶりにいい汗を掻いたよ。今回は俺たちの負けだが、次に戦う機会があったら、俺たちが勝つからな!」 「いつでも受けて立ちますよ」 不敵に笑った颯はオブライエン中佐と固い握手を交わした。いい汗を掻いたのはこちらも同じだ。アメリカ海軍の戦闘攻撃飛行隊と訓練できる機会なんて滅多にない。 「おい! 大丈夫か――うわわっ!?」 慌てふためく黎児の声が聞こえた。エプロンに座り込んだ黎児と、彼の胸にもたれかかったガブリエル中尉が、振り向いた颯の視界に映った。側に駆けつけた颯は何事かと黎児に尋ねる。スーパーホーネットから降りたガブリエル中尉が、急に前によろめいたのを見て、偶然近くにいた黎児は彼を支えようとした。しかし9Gに近い機動で疲労した身体が言うことを聞かず、黎児はガブリエル中尉と一緒に倒れ込んでしまったらしい。 「野郎を抱く趣味なんてないっつーの。なあ、大丈夫か?」 愚痴を言いながら黎児がガブリエル中尉の細い肩を揺する。黎児の胸にもたれかかっていたガブリエル中尉は、ゆっくりと身を起こした。ガブリエル中尉はバイザーを上げると、灰色塗装のヘルメットを脱いだ。太陽の光のように輝く金色の髪に宝石を思わせる碧眼、薔薇の蕾のような唇がヘルメットの下から現れる。颯と黎児は揃って瞠目した。エンジェルのTACネームを持つジェイミー・ガブリエル中尉は、なんと男性ではなく若い女性だったのだ。 「Thank you very much,captain hotarugi」 ガブリエル中尉が眦を緩めて黎児に微笑む。薔薇色の唇が奏でた声は、湧き水のように澄んで透き通っていた。 ★ 黎児の様子がおかしくなったのは、第27戦闘攻撃飛行隊とのDACTが終わった翌日のことだった。エプロンにイーグルを駐機する際に、誘導係の整備員を危うく轢きそうになったり、ACM訓練の時に、誤って味方機を撃墜しかけたりなど、明らかに黎児は普段と様子が違っていた。死神に魂を奪われたような、あるいは河童に尻小玉を抜かれたような、心ここに在らずといった様子である。底抜けに陽気な黎児はいったいどこに行ってしまったのか。颯もそうだが、204の誰もが黎児を心配していた。 「お前、最近変だぞ。何かあったのか?」 ファーストピリオドの飛行訓練のデブリーフィングが終わったあと、颯は黎児に話しかけた。ブリーフィングルームにいるのは颯と黎児だけだ。この日のACM訓練でも、黎児は自分のウイングマンを敵と誤認して撃墜しかけた。数えるとこれで四回目だ。さすがにこれは看過できないと思った颯は、黎児に理由を尋ねることにしたのである。だが黎児は答えない。ミーティングテーブルに頬杖をつき、ぼんやりとした顔で窓の外を見ている。そんな黎児の態度は颯の苛立ちを増幅させた。 「整備員を轢きそうになったり、味方を敵と間違えて撃墜しそうになったり、無茶苦茶しやがって、いったいどういうつもりなんだ。訓練なんてかったるくてやってられない、お前はそう言いたいのか? 光陽さんと鷹瀬さんに憧れて空自パイロットになったくせに、その体たらくはなんなんだよ。やる気がないのならさっさと辞めればいいだろ。俺は引き留めないぜ」 些か強い口調になってしまったが、これくらい言わないと事の重大性を認識させられない。大切なのは事故の原因を未然に防ぐこと。重大な事故が起きてからでは遅いのだ。突然大きな音が部屋に響き渡る。椅子から立ち上がった黎児が颯を見据えていた。 「俺だって真面目にやってるよ! でもっ、でもっ、駄目なんだよ! 彼女のことを思い出すと、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなるんだ!」 眉尻を下げて唇を震わせる黎児の顔は、青褪めていて力もなく、悲しそうで恨めしそうで恥ずかしそうで、なんとも言いようがない表情だった。心の中で入り乱れたいろんな感情が、衝突を繰り返して激しい火花を散らしているようだ。 「彼女?」 「ジェイミー・ガブリエル中尉。……俺さ、ガブリエル中尉を好きになったんだよ」 黎児の告白に颯は驚いた。ジェイミー・ガブリエル中尉は、数日前に颯と黎児と異機種間戦闘訓練をした、第27戦闘攻撃飛行隊のファイターパイロットである。颯も黎児もガブリエル中尉は男性だと思っていた。だが驚くことにガブリエル中尉は、金髪碧眼の綺麗な女性だったのだ。そのガブリエル中尉を黎児は好きになった? まさに開いた口が塞がらない思いだった。 「……ガブリエル中尉は明日岩国に帰るって聞いた。なあ、颯。俺はどうしたらいいんだ?」 颯を見てきた黎児の瞳は熱く潤んでいた。ほんのりと上気した頬に熱く潤んだ瞳。まさしく恋する青年の表情だ。何度か衝突もあったが、颯と揚羽は時間をかけて関係を構築し、最後に愛を確かめ合うことができた。だがガブリエル中尉は明日岩国基地に帰る。もしかしたらアメリカ本土に帰国するかもしれない。そうなってしまえば、黎児は簡単にはガブリエル中尉に会えなくなるだろう。可愛い女の子を見つけたら、後先考えず口説きにかかる黎児が、臆病風に吹かれている、訓練に集中できないほど煩悶している。間違いない、黎児は本気で恋をしているのだ。颯は黎児の肩に両手を置くと、真摯な眼差しで彼を見つめて開口した。 「今日の訓練が終わったら、彼女をデートに誘って告白しろ。思いは言葉にしないと相手に伝わらないんだ。何も行動しないで後悔するより、行動して後悔したほうがいいだろ? 尻込みするなんてお前らしくもないぞ。ふられたら朝まで一緒に酒を飲んでやる。とにかく当たって砕けろ」 「なんだよそれ。酔った勢いでお前を襲うかもしれないぞ。それでもいいのか?」 「上等だ。返り討ちにしてやるよ」 花瓶を割った子供のように涙ぐんだ黎児がいきなり抱きついてきた。世話の焼ける友人だと苦笑しながら、颯は嗚咽で震える黎児の背中を叩く。そこに忘れ物を取りに和泉拓海3等空尉がブリーフィングルームに入ってくる。抱き合う颯と黎児を見た和泉は目を見張り、「先輩たち、そんな関係だったんスか!?」と大声で叫んだ。いつもの陽気さを取り戻した黎児が和泉を煽り立てる。鼻息荒く興奮する和泉の誤解をとくのに、颯はかなりの時間を費やしたのだった。 ★ ブルーインパルスの4番機に乗り、5番機と6番機が空に描いた巨大なハートを、スモークの矢で貫いていた自分が、こともあろうに自分のハートを射貫かれるとは、夢にも思ってもいなかった。今日最後の訓練を終えた黎児は那覇基地を発ち、那覇空港の南側に位置する、豊見城市に属する瀬長島に続く、海中道路を車で走っていた。ハンドルを回しながら黎児は助手席を見やった。助手席に座っているのは金髪碧眼の女性――ジェイミー・ガブリエル中尉だ。キャミソールとデニムジーンズ、頭にメッシュキャップを被っている。清水の舞台から飛び降りる覚悟で、黎児はガブリエル中尉をデートに誘ったのだが、意外にもあっさりと、彼女はデートの誘いを受けてくれた。 年間約28万人が来島する瀬長島は那覇空港に隣接していて、離着陸する航空機を間近で見物できるためか、家族連れや航空ファンが多く訪れ、スポッティングや撮影がよく行われていた。また島北東部に四つの市営野球場が整備され、キャンプや海水浴にウインドサーフィン、潮干狩りや釣りも楽しむことができる。さらに島の西海岸に隣接した傾斜地には、観光商業施設「ウミカジテラス」が展開しているのだ。 黎児は瀬長島ホテルの海中道路側のスペースを整備した展望公園に向かった。展望公園に到着した黎児は駐車場に車を停め、ガブリエル中尉と肩を並べて遊歩道を歩く。途中の緑地帯では、豊崎までの海や豊見城道路の与根高架橋が望め、夕日を受けて茜色に染まった飛行機が、空を飛んでいくのも見られた。女の子を喜ばせる言葉は豊富にある。今までだってたくさんの女の子に愛の言葉を囁いてきた。それなのに今は言葉が出てこなかった。 海中道路側から一番遠い、ホテル側の展望台で二人は自然に足を止めた。展望台の向こうに広がるのは、紫紺色の水平線を長く曳く海だ。水平線の彼方に沈みゆく夕日の、炎のような陽光が海原を緋色に染めて、波が踊るたびに光の粒が弾けている。沖縄の自然が造形した美しく雄大な景色に、ガブリエル中尉は目を奪われていた。潮風になびく金色の髪に、茜色に染まった純白の肌。海原を眺めるガブリエル中尉の姿は、まるで天界から降臨した炎の天使のように美しかった。 瞬間黎児の鼓動は高鳴り、心臓の律動が速くなった。胸の奥が締めつけられ、甘く切ない痛みの塊が心を刻む。胸に湧き上がった衝動に突き動かされた黎児は、ガブリエル中尉の細い肩を抱き寄せて視線を合わせると、覗き込むような姿勢で彼女にキスをした。ガブリエル中尉は瞠目したが抵抗しなかった。顔を持ち上げて、突然のキスを受け入れている。黎児はもう少しだけ、唇の柔らかい感触を楽しみたかったが、ガブリエル中尉が苦しそうに身じろぎしたので、慌てて顔を離した。途端に理性が戻り羞恥心がこみ上げる。相手の了承もなしにキスするなんて正気の沙汰じゃない。 「ごめん、俺、馬鹿だよな。……好きでもない男に無理矢理キスされて、嫌だったよね」 いったん言葉をとめた黎児は、決意の深呼吸をして言葉を続けた。 「君に言いたいことがあるんだ。俺、君のことが好きなんだ。君は覚えていないと思うけれど、あの時見た君の笑顔が、とても素敵で、綺麗で、忘れられなくなった。君が俺に興味がないってことは分かってる。それでもいい、俺はこの想いを君に――」 黎児は目を見張った。今度は黎児がガブリエル中尉にキスされていたのだ。背伸びをしたガブリエル中尉は、白魚のような両手で黎児の頬を挟み、目を閉じて唇を重ねていた。海猫が鳴き、波が岸壁に打ち寄せる音だけが静かに響く。揚羽への恋が散ったあと、自分が真剣に恋をすることは、もう二度とあるまいと黎児は思っていた。けれど胸を熱くさせるこの感情は「恋」だ。終わったと思っていた恋は、まだ終わっていなかった。黎児が真実の愛に辿り着くその時を、辛抱強く待っていてくれたのだ。重ねていた唇を離したガブリエル中尉の緑色の瞳は、沈みゆく夕日のように熱く燃えていた。 「……笑わないでくださいね。私も基地で会った瞬間、蛍木1尉に恋をしたんです。誰かを好きになったのも、こんなに胸が熱くなったのも初めてだわ。私からも言わせてください。黎児さん、私もあなたが好きです」 「ジェイミー、君は俺の運命の人だ。岩国に戻ろうがアメリカに帰国しようが関係ない。君と遠く離れてしまっても、俺は必ず会いに行くよ。だから俺の恋人になってくれるかい?」 「――はい」 神の奇跡のような夕日の浮かぶ空は、紫色を帯びる薔薇色に燃え上がり、瀬長島の大地を茜色の残照に染めていく。今日見た夕日を自分はきっと一生忘れないだろう。真実の愛を見つけた喜びが、光り輝きながら全身に満ちていくのを感じながら、ガブリエル中尉と一緒に過ごせる最後の夜に、黎児は彼女と愛を分かち合ったのだった。 ★ 9月に入っても空気は熟れたように暑く、厳しい残暑が長く続いていた。元気に鳴く蝉の声が、地獄の釜で煮られているような残暑を、さらに耐え難くしている。颯は飛行隊長の平山2佐と黎児、そして和泉拓海3等空尉と朝から警戒待機任務に就いていた。航空自衛隊は敵が日本の領空に侵入しないように、24時間365日警戒監視している。万が一領空侵犯の恐れがある航空機を発見した場合、すぐさま航空機を緊急発進させ、対領空侵犯措置を取る。この緊急発進を「スクランブル」と呼ぶのだ。 兵装・燃料・整備状態を万事整えて、警戒態勢を保っている戦闘機を「アラート機」と言い、それらが待機している格納庫を、「アラートハンガー」と呼ぶ。アラートハンガーには四機の戦闘機のほか、パイロットと整備員の待機室が中央にあり、基地の中でも常に緊張している場所と言われている。アラートハンガーは、戦闘機が並んでいるエプロンとは、随分離れた滑走路の端にあるのが特徴で、これは滑走路の末端から、アラート機が素早く離陸できるようにするため。エプロンから滑走路まで、誘導路をゆっくり走っていたら、スクランブルの発令から5分以内で離陸することは不可能になる。つまりできるだけ早く、アラート機が離陸のポジションにつけるように考えられているわけだ。 「鷲海1尉は何回もスクランブルしてるんですよね。警告射撃までいったことはあるんですか?」 パイロットが待機するアラート待機室。平山2佐がトイレのため、待機室を離れたのを見計らって、和泉が長椅子に座って雑誌を読む颯に話しかけてきた。和泉のTACネーム、サイレンの由来となった高い声は、気のせいかいつもより上擦っている。それに瞳もきらきら輝いていた。和泉は気持ちが昂ぶっているのだ。普通アラート任務は緊張すると思うのだが。いったいどんな精神構造をしているのか。雑誌を閉じた颯は和泉に視線を向けた。 「ああ、一度だけあったな。警告射撃をする前に相手は立ち去ったよ」 「あと少しで撃てたのに残念ですね! 鷲海1尉も撃てなくて悔しかったですよね!」 無邪気に笑う和泉の言葉を耳にした瞬間、颯の思考は耐えられない憤激でいっぱいになった。嵐のように激しい怒りは、稲妻を閃かせながら颯の全身を駆け巡る。長椅子から立ち上がった颯は、顔の端まで目尻を吊り上げて和泉を睨みつけた。さながら蛇に睨まれた蛙の如く、青褪めた和泉は身を強張らせた。 「――お前、今なんて言った?」 「えっ? あと少しで撃てたのに残念だ、撃てなくて悔しかったですかって……」 「あと少しで撃てたのに残念だ? 撃てなくて悔しかった? ふざけたことをぬかすんじゃねぇよ、この馬鹿野郎が!! するとなんだ!? お前は戦闘機を撃墜したいから空自パイロットになったのか!? 俺たちは『専守防衛』を信条とする自衛隊だぞ!! 俺たちは戦闘機を撃墜するために訓練をしているんじゃない、日本の空を守るために訓練をしているんだよ!!」 逃げようとした和泉の胸倉を掴んだ颯は、雷鳴のような大声で怒りを叩きつけた。頭に集まった血液が泡を立てながら沸騰する。一発顔面を殴らないと気が済まない。怒り心頭の颯は右拳を振り上げた。だが颯は黎児に後ろから羽交い締めにされたので、振り上げた右拳が和泉の顔面を砕くことはなかった。巣を叩き落とされた雀蜂の如き怒りは収まらず、颯は黎児を振り払うと再び和泉に掴みかかった。尋常じゃない光景に飛行管理員も腰を浮かせたその時だ。用を済ませた平山2佐が待機室に戻ってきた。待機室に入ってきた平山2佐は、ぎょっとした顔で立ち止まった。 「いったい何をしているんだ!? 蛍木! 二人を引き離すぞ!」 平山2佐と黎児が協力して颯と和泉を引き離す。黎児が平山2佐に一部始終を説明すると、彼の表情は瞬時に険しくなった。喧嘩両成敗と言わんばかりに、平山2佐の拳骨が隕石のように、颯と和泉の頭に落ちてくる。 「和泉、鷲海の言うとおりだぞ。撃てたのに残念だ、撃てなくて悔しかっただなんて、私たちパイロットは決して思ってはいけない。私たちは撃墜したくて戦闘機に乗っているわけじゃない。私たち航空自衛隊は、日本の空を守る大空の盾になるために、毎日訓練をしているんだ。ここは簡単に戦闘機を撃墜できる、エースウォンバットのゲームの世界ではないんだよ。しかし撃つ時がきたら、その時は撃たなければいけない。だから撃つ覚悟は常に持っておくんだ」 低い調子の落ち着いた、平山2佐の声が紡いだ言葉は、颯たち三人の胸を強く衝いた。10年以上ファイターパイロットとして飛んでいる平山2佐の、経験、自負、思いのすべてが集約された、重みのある言葉だった。長い年月をかけて彫刻を彫るような、落ち着いた態度と声音で平山2佐が颯と和泉を諭したのは、スクランブルを前に緊張させたくないという、彼の思いやりの表れなのだろう。黎児が遠慮がちに挙手した。 「あの、平山2佐。一つ言ってもいいですか?」 「なんだ?」 「エースウォンバットじゃなくて、エースコンバットですよ」 黎児が指摘すると平山2佐は両目をぱちくりさせた。提出したテストの答案用紙に、名前を書き忘れたのを思い出した時のような表情だ。颯たちは笑いそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えていたが、ついに耐えられなくなり口を全開にすると、天井を突き抜けそうに腹いっぱいに声を上げて笑った。平山2佐は最初は憮然としていたが、喉の奥から笑い声を押し出し始める。平山2佐の声も混じった晴れやかな笑い声は、つい先程まで殺気立っていた待機室の空気を明るくしていった。 「……すみません、鷲海1尉。僕、空自パイロットとしての自覚が足りていませんでした。反省しています」 「いや、悪いのは俺も同じだよ。一人で気負い込みすぎていたんだ。怒鳴り散らして悪かった。平山2佐が言ったこと、絶対に忘れるんじゃないぞ」 「はい!」 颯と和泉が亀裂を埋めた直後だ。飛行管理員が待機するカウンターに置かれた電話が鳴り響いた。颯たちは一斉に飛行管理員のほうを見やった。飛行管理員は緊張した面持ちで受話器を耳に当てている。飛行管理員の顔に滲む緊張の色が、次第に増していくのを見た颯は直感した。南西防空管制群の防空司令所から、スクランブルが下令されようとしているのだ。そして受話器を置いた飛行管理員が颯たちを見返した。 「ホットスクランブル!」 飛行管理員が一声すると同時に、颯と黎児は待機室を飛び出した。黎児は2番機が格納されているハンガーに走り、颯は1番機が格納されているハンガーに駆け込む。同じく待機室から駆け込んできた、整備員と武器弾薬整備員たちが、イーグルの発進準備を整えていた。610ガロンハイGタンク、AAM‐5・04式空対空誘導弾、AIM‐7スパロー中射程空対空ミサイル、M61A1・20ミリ機関砲が、1番機のイーグルに兵装されている。 コクピットに搭乗した颯は、アラートハンガーの中でそのままエンジンを始動させ、タキシングで滑走路に向かった。管制塔と交信した颯は、スロットルレバーを押し上げて双発のエンジンを全開にする。巨大な二基のエンジンノズルを、アフターバーナーの青い炎で燃え上がらせた勇猛果敢な荒鷲は、ハイレートクライムでさながらロケットのように飛翔した。続いて黎児が乗る2番機も、ベイパーを曳きながらハイレートクライムで離陸してくる。颯と黎児はアフターバーナーを切り、機体を水平に立て直して編隊を組む。航空交通管制圏・進入管制区管制官と交話したあと、南西防空管制群の要撃管制官との回線が繋がれた。 最初に国籍不明機にスクランブル発進したのは、小松基地第303飛行隊のアラート機だった。現場空域に到着した、303のパイロットが退去するよう勧告すると、国籍不明機は素直に引き返したという。しかしアラート機が小松基地に帰投してからしばらくして、第55警戒隊のレーダーサイトが、尖閣諸島に向かっている国籍不明機を発見したのだ。送信されてきた情報と照らし合わせた結果、それは303がスクランブル発進した国籍不明機だと分かった。そして颯たち第204飛行隊に、スクランブルが発令されたのである。 那覇基地をスクランブル発進した颯と黎児が、針路を南西に定めて飛んでいると、北からこちらに向かってくる大きな機影が見えた。颯と黎児は速度を上げて慎重に接近する。目視で確認できる距離まで近づくと、赤いリボンと星の国籍記号が、胴長の機体に描かれているのが分かった。あれは中国の国籍記号だ。ソ連のTu‐16バジャーをライセンス生産した、中国空軍のH‐6双発大型爆撃機だった。303のアラート機が退去勧告したH‐6に違いないだろう。 『ワルキューレ01、目標発見。侵入機は中国空軍のH‐6爆撃機と判明』 『侵入機は尖閣諸島に向けて直進している。領空まで15マイル。接近して変針通告せよ』 『ワルキューレ01、了解。これより変針通告に移る』 要撃管制官に指示された颯は、操縦桿を倒して1番機をH‐6の後方上空につけた。2番機に乗る黎児は、操縦桿を片手で操りながら、対象機の写真撮影をしている。これは相手政府に抗議するための証拠だ。よって迎撃機は二機発進するのが普通となる。 『Attention attention. We are JAPAN AIR SELF DEFENSE FORCE. Your plane is coming close to 15 miles of Japanese air space. Change the course promptly. (注意、注意。我々は日本の航空自衛隊だ。貴機は日本の領空15マイルまで接近中だ。ただちに針路を変更しろ)』 颯は国際緊急周波数でH‐6のパイロットに変針通告した。だがH‐6が変針する様子は見られない。続けて颯は中国語で注意喚起と警告をする。六回注意喚起と警告をしたが、やはり反応らしきものは認められなかった。誘導して強制着陸させろと要撃管制官が指示をしてきた。操縦桿を倒して高度を下げた颯は、1番機をH‐6の真横につける。次に颯は機体を左右に傾けて左に離脱する。これは「迎撃機の誘導に従って追従せよ」という合図だ。機体信号を送ったがH‐6は動かない。尖閣諸島を目標に飛び続けている。 機体信号に従わなかった場合、現場指揮官から警告射撃の許可が下りる。警告射撃を実施しても侵入機が退去しなかったら、横田基地の航空総隊司令部から市ヶ谷の防衛省に連絡がいき、航空幕僚長、統合幕僚長、そして防衛大臣から自衛隊の最高司令の内閣総理大臣に状況が伝えられ、実弾による撃墜の可否が下されるのだ。 颯の心臓は早鐘の如く脈動する。撃てる能力はあるし、撃つ覚悟も持っている。だができることなら撃ちたくない。目の前を飛んでいる爆撃機のパイロットは颯と同じ人間だ。泣いたり笑ったり怒ったりするし、家族と恋人に友人が帰りを待っている。しかし日本国民の命を守るためには、相手の命を奪わなければいけないのだ。颯が握る操縦桿はあたかも命の重みを背負っているかのように重い。1分1秒が酷く長く感じられる。撃つか撃たないか。颯が究極の選択を迫られるなか、H‐6は唐突に機首の向きを変えると、爆音を響かせながら中国本土のほうに引き返していった。 『ワルキューレ01、侵入機は北に針路を変更した』 『了解。速やかに帰投せよ』 要撃管制官から帰投を指示された颯と黎児は、現場空域を離れると那覇基地に帰投した。全身湯気が立たんばかりに汗でびっしょりだった。大量の汗はなめくじのように身体を滑り落ちていく。梯子でコクピットを下りた颯は、パイロットスーツのジッパーを下ろすと、首筋に伝わって流れる汗の珠が、鎖骨の窪みに溜まったのを手で弾いた。極度の緊張で自律神経がおかしくなっていたようだ。失禁しなかったのがせめてもの救いだろう。たった一度のスクランブル発進で、10年以上寿命が縮んだような気がする。気を緩めれば地面にへたりこんでしまいそうだった。これまで何回かスクランブル発進したことはあるが、喉元にナイフを突きつけられたような緊張感に、まだ慣れることができない。いや、慣れてはいけないのだ。常に緊張感を持って対処するのが、警戒待機任務とスクランブル発進なのだから。 警戒待機任務と304のパイロットに引き継ぎを終えた時には、颯は手足の感覚がなくなるほど疲労していた。まるで一晩中荒波に揉まれていたようだ。足が棒のようになるという言葉が、まったく実感のある形容だと分かった。今にも倒れそうな自分を励ましながら官舎に帰る。とにかく眠い。頭の中は鉛か腐った泥が詰まったようにぼんやりしていた。シャワーを浴びた颯は強烈な眠気に耐えきれず、ボクサーブリーフを穿いただけの格好でベッドに倒れ込んだ。アラームをセットしようと、颯はスマートフォンに手を伸ばしてホーム画面を開く。すると揚羽からのメールが届いていた。 【303の次に204のみなさんがスクランブル発進したと聞きました。どうか無事でいてください。ゆっくり休んで落ち着いたら、電話でもメールでもいいので、連絡してくださいね。――揚羽】 揚羽の姿を思い出した颯は微笑んでいた。颯の視界に映る世界が暗澹たる闇に覆われていく。今度会ったら揚羽に言いたい大切なことがある。そんなことを思いながら、颯の意識は果てしない深い眠りの海に沈んでいった。 ★ くまなく晴れ上がった紺青の冬空が天高く広がっている。冬になると色彩がなくなって、何もかもが灰色の風景の中に閉じ込められているようだ。日本列島は霧のように染み透る冬の重い空気に包まれているが、南に位置する沖縄県は12月とは思えないほど、肌触りの柔らかな空気に包まれていた。なかでも颯が所属する那覇基地は航空祭を開催しており、基地は真夏のような熱気でいっぱいに満ちていた。 「おまえ、揚羽ちゃんと何かあったのか?」 航空祭の編隊飛行を終えたあとのブリーフィングルーム。いきなり黎児に問われた颯は心臓が止まるような思いをした。まるで犯人はおまえだろうと名探偵に言われたような気分だ。だが内心の動揺を悟られたくない。颯はできるだけ冷静でいられるよう努力しながら黎児を見返した。 「揚羽とはうまくやってる。てゆうかなんでいきなりそんなことを訊くんだよ」 「今日の編隊飛行、旋回のタイミングが少し遅れただろ。平山隊長とみんなは気づいていなかったけどな。マスリーダーの検定試験が近づいているっていうのに大丈夫なのか?」 確かに旋回するタイミングが遅れてしまったことは覚えている。だが黎児がそれに気づいていたなんて驚きだ。なぜなら黎児が乗るイーグルとは3キロほど離れていたからだ。検定試験についてとやかく言うのは大きなお世話だと思う。それに黎児だってもうすぐフライトリーダーの検定試験があるはずだろう。自分のことを心配したらどうなんだと言ってやりたい。颯の気も知らない黎児は「それに」と言葉を続けた。 「いつもはのろけ話を聞かせてくるくせに、ここ数ヶ月何も言ってこない。揚羽ちゃんと何かあったんだって思うのが普通じゃないか。なあ、何かあったのなら俺に話してくれよ。悩みがあるのなら相談にのるぜ」 「……うまくやってるって言っただろ。腹が減ったから昼飯食いにいってくる」 素っ気なく言い返して颯は部屋を出ようとした。しかし次の瞬間強い力で腕を掴まれる。颯の腕を掴んでいるのは黎児だ。ファンの女の子たちと握手や写真撮影をしていた時とは違う、イーグルのコクピットに乗り込んだ時のような真剣な面持ちである。黎児は興味本位で訊いているのではない。心の底から真剣に颯を心配しているのだ。促されるように席に座った颯は、スクランブル任務を終えたあと揚羽と何があったのか、黎児にすべてを話していた。黎児は茶化すこともせず真剣に颯の話を聞いていた。 最後まで話した颯の脳裡に揚羽の姿が浮かんだ。花のように可憐な笑顔。自分を呼んでくれるソプラノの声。真っ直ぐで純粋な心。揚羽を初めて抱いた夜のことは、3年が経った今でも鮮明に覚えている。揚羽のすべてが愛おしい。愛情が心の奥から溢れ出す。自分のほうから冷たく突き放して遠ざけたのに、彼女を愛おしく思うなんて矛盾しているのではないか。だが裏を返せば自分はそれだけ揚羽を愛しているということだ。会って話して揚羽に謝りたい。そうしたいのに一歩踏み出す勇気がどうしても出なかった。俯く颯に黎児は言葉をかける。 「あれだけ大騒ぎしたんだから、最後まで愛を貫き通すのが男ってもんだろ。揚羽ちゃんと会って話してこいよ。それに弱気になるなんておまえらしくもないぞ。俺が知る颯はいつも自信満々で偉そうで、壁にぶつかって悩むことがあっても、逃げ出さずに悩んで悩んで悩み抜いて、壁を乗り越えることができる強い男だ。おまえと揚羽ちゃんは絶対に別れたりしない! 俺が保証してやる!」 颯は黎児に強い力で背中を叩かれる。逃げ続けてきたせいで貴彦との絆を失いかけた。同じ轍を踏む真似は二度としたくない。黎児に感謝を伝えた颯はブリーフィングルームを飛び出すと、ブルーインパルスの待機室がある隊舎に向かった。 「鷲海さんじゃないですか」 ブルーインパルスのファンたちが待ち構える隊舎の前で、颯は一人の隊員に声をかけられた。ダークブルーの部隊識別帽子を被り、同色のタイトなパイロットスーツを着ている。間違いなくブルーインパルスのドルフィンライダーだ。花形ドルフィンライダーの登場に、隊舎の前に集まっている女の子たちが黄色い声を上げた。 「お前、真白か?」 颯が訊くと青年は笑いながら頷いた。青年の名前は真白潤1等空尉。颯からリードソロの技術を教わった5番機のパイロットである。確か真白は今年で最後の3年目だったはず。ラストアクロを終えてブルーインパルスを卒業したと颯は思っていたのだが。真白が言うには、後任の5番機パイロットがまだ見つからないので、しばらくブルーインパルスで飛び続けるらしい。真白の周りに集まってきたファンたちに、どういうわけか颯も握手とサインに写真撮影をお願いされる。二人の美男子と交流したファンたちは、満足した様子で解散していった。 「相田は元気にしているのか」 「ラブですか? あいつは千歳でラストアクロを終えて、アグレッサーに異動しましたよ。暑苦しい奴がいなくなって清々しましたね。ところでどうしたんですか? 隊長に用があるなら呼んできますよ」 「いや、その、用があるのは隊長じゃなくて――」 口ごもる颯を真白は怪訝な面持ちで見ていたが、ややあって彼はなるほど分かったというふうに頷いてみせた。 「隊長じゃなくて『彼女』に会いにきたんですね。プリブリーフィングまで少し時間がありますから大丈夫ですよ。ここじゃあれですし、中に入って待っていてください」 真白に続いて隊舎に入った颯は階段を上がり、踊り場の手前で彼女が来るのを待った。しばらく待機していると、部屋から出てきた女性隊員が廊下を早足で歩いてくるのが見えた。6番機のドルフィンライダーで、颯の恋人の燕揚羽2等空尉だ。踊り場の前で待つ颯を見つけた揚羽は小走りに廊下を駆けてきた。 「忙しい時間にいきなり訪ねて悪かったな」 「そんなことないです。……私も颯さんに会いに行こうかなって思ってましたから」 颯は二人きりで話せる場所を探して廊下を歩く。ちょうどフライトルームの一室が空いていたので、颯は揚羽を連れて中に入った。いつもなら明るく元気に近況を訊いたり話したりしてくるのだが、今日の揚羽は硬い表情を浮かべて黙り込んでいる。空腹の胃に吐き気がくるような不安を覚えているような表情だ。やはりあの出来事が揚羽の心に暗い影を落としているのか。ただ時間だけが無駄に過ぎていく。決意してここに赴いたはずなのに、揚羽を前にすると顔面の筋肉は感電したように動いてくれなかった。だがこのままでは問題は解決しない。颯は意を決して開口した。 「……揚羽のためだ、家族のためだって言いながら、結局俺は自分の我儘を揚羽に押しつけていたんだ。夢だったドルフィンライダーになって頑張る揚羽に、あんなことを言うなんて、俺は最低最悪だよ。これじゃあ嫌われても仕方がないな。器の小さい男だって幻滅したんじゃないのか?」 息を呑んだ揚羽が顔を上げる。二人だけしかいないフライトルームは、教会の告解室のように静謐な空気に包まれていった。自嘲するように口角を歪めた颯は視線を逸らした。不意に揚羽が手を握ってくる。颯と視線を合わせた揚羽は、白いスカーフを巻いた細い首を「違う」と振った。 「幻滅なんてしませんよ。それは自衛官なら誰だって一度は考えることだわ。私は颯さんが大好きだし、心から愛しています。だからあなたがなんと言おうと、私の気持ちは絶対に変わりません」 熱い力を秘めた声で揚羽はきっぱりと言い切った。心に被さっていた暗雲が晴れて光が差し込んだように思えた。どこまでも真っ直ぐで純粋で、そして自分を一途に想ってくれる姿に颯の胸は震える。揚羽は躊躇いなく言ってくれた。ならば自分も揚羽の意思を尊重しよう。どうなるか分からない未来に、いちいち一喜一憂していたら幸せは掴めない。颯は揚羽の背中と腰に腕を回して抱き締めた。 揚羽と別れた颯は204の飛行隊隊舎に戻り、屋上に上がって展示飛行が始まるのを待つ。13時15分、ブルーインパルスの展示飛行は始まった。ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターン。フォー・ポイント・ロール。サンライズ。そして新しく追加されたデュアルソロ課目の「フォーチューン・クローバー」に、2020年の東京オリンピックの空を飾った、五機編隊課目の「GORIN」など、ブルーインパルスは沖縄の青空にアクロバットを描き、集まった人々を感動の渦で包み込んでいった。 (頑張れよ、揚羽。俺も頑張るからな――) サクラが花開いた青空に向かって颯は心の中で呟いた。六機のT‐4がフェニックス・ローパスで頭上を駆け抜けていく。6番機に乗る揚羽が手を振ってくれたような気がして、完爾と笑った颯も大きく手を振り返した。だがこの時の颯は知る由もなかった。ブルーインパルスに悲劇が起こり、自分と揚羽に大きな試練が訪れることを――。 |