第5章 彩雲の昊

 朝の明るみが果てしない遠方から滲むように広がってくる。眠りから目覚めた揚羽はベッドから下りると大きく伸びをして、朝方の冷たい空気を肺腑いっぱいに吸い込んだ。洗い立てのような太陽の光はとても心地良い。光の領域は部屋の隅々まで広がっていき、残っていた夜の闇は後退していった。水玉模様のベッド、淡いオレンジ色のプリーツカーテンにクリーム色の壁。アンティーク調の机には写真立てが置かれている。起床喇叭の勇ましい音色も、離着陸する戦闘機の爆音も聞こえず、「台風」で部屋を荒らされることもない。そんな毎日に慣れた揚羽は少し寂しく感じたのだった。
 ここは東京都内のタワーマンション――揚羽の自宅だ。四日間の休暇をとった揚羽は松島基地を離れ、両親が住む自宅に帰っていた。ご両親が心配しているだろうから、一度顔を見せに実家に帰りなさいと、波川2等空佐が直接言ってきたのである。親不孝するなと遠藤3佐にも言われたので、休暇を申請した揚羽は輸送機に乗って、埼玉県の航空自衛隊入間基地に飛び、そこから電車に乗り換えて自宅に帰郷したというわけだ。
 着替えて自室を出た揚羽は廊下を歩いてリビングに入った。ダブルディスプレイキャビネット、天然木のレザーソファ、大型のフラットテレビ、コーヒーテーブルがリビングの右側に置かれている。リビング左側の対面式のL字型キッチンでは、女性が鼻歌を歌いながら料理を作っていた。揚羽に気づいた女性は、フライパンを動かしていた手を止めてにこりと微笑んだ。
 肩下まで伸ばした明るい栗色の髪に蜂蜜色の双眸。50代前半なのに、見た目は30代半ばに見える彼女の名前は燕小鳥。揚羽の母親だ。揚羽と同じく小鳥も航空自衛隊のパイロットで、ブルーインパルスの6番機のドルフィンライダーとして空を飛んでいた。そして運命の相手――現在の夫と巡り会い、紆余曲折したが二人は結ばれて愛し合い、娘の揚羽が生まれたのである。
「おはよう、母さん」
「おはよう、揚羽。ちょうど朝ご飯ができたところよ。座って待ってて」
「私も手伝うわ」
 香ばしいきつね色に焼けたバタートースト。油の代わりにマヨネーズで炒めた、ふわふわのスクランブルエッグ。黄緑と赤色の対比が鮮やかな、レタスとトマトのクルトン入りサラダ。砂糖がたっぷり入ったレモンティー。胃袋を刺激する美味しそうな朝食を、揚羽はキッチンとリビングを往復しながら、花柄のテーブルクロスが敷かれたテーブルに運んで並べていく。二人分の朝食を運び終えた揚羽は、椅子を引いて座る。少し遅れて小鳥も、揚羽の真向かいの席に腰掛けた。
 「いただきます」と手を合わせて揚羽は朝食を口に運ぶ。溶けたバターでほんのり甘いトーストは、食べるとさくさくと爽やかな音が顎の骨に響く。サラダのレタスは歯切れがいいし、トマトの味もとても濃厚である。スクランブルエッグは口に入れると、そのまま溶けてしまいそうな柔らかさだ。久しぶりに食べる母の手料理はとても美味しくて、揚羽はあっという間に完食した。食後のレモンティーを飲んで一息ついていると、小鳥がじっと見つめているのに揚羽は気がついた。
「何? 私の顔に何かついてる?」
「いいえ、何もついていないわ。それにしても貴女がバーディゴになって危なかったって、聞いた時は本当に驚いたわ。私もそうだけれど、父さんはもっと心配していたのよ」
「……ごめんなさい」
「別に揚羽を怒っているわけじゃないのよ。私は揚羽が元気な姿で帰ってきてくれて嬉しいの。父さんだってそう思っているわ。それを分かってくれる?」
「……うん」
 手を伸ばして揚羽の髪を優しく梳いた小鳥は、キッチンで食器を洗う作業に入った。母の背中を見た揚羽は胸に罪悪感を覚えた。小鳥の父親の荒鷹は、娘と同じブルーインパルスの6番機パイロットだったが、航空祭に起きた事故で命を落としてしまった。小鳥自身も着陸の際にハイドロプレーニングを起こし、クラッシュバリアに突っ込んで病院に搬送された経験をしている。そして今度は娘の揚羽がバーディゴに陥り、一歩間違えれば海に墜落していたかもしれないのだ。だから小鳥の心中は穏やかではなかったはず。颯がいなかったら間違いなく揚羽は海の藻屑となっていた。
 揚羽はまだ颯と話していない。揚羽は訓練と座学で、颯は全国各地で開催される航空祭で忙しく、じっくり話をする時間がなかなか作れなかったからだ。でもそれは言い訳だと揚羽は思う。その気になれば時間は作れる。休暇が終わって基地に戻ったら颯と話そう。歯磨きを済ませて朝のワイドショーを見ていると、玄関のインターフォンが鳴った。小鳥は後片付けで忙しそうなので、揚羽は代わりに応対することにした。二回目のインターフォンが鳴る。自分が出ると小鳥に言った揚羽は、リビングを出て玄関に向かう。サンダルを履いてドアを開けた瞬間、揚羽は限界まで瞠目したのだった。
 長身で黒髪の青年が軒下に立っていた。第二ボタンまで開けた白のワイシャツの上に、ピンストライプ模様の黒色の袖なしベストを羽織り、同じ色のスラックスを長い両脚に穿いている。整った姿の青年とは反対に、揚羽は色褪せしたTシャツに、太股が剥き出しのショートパンツという、リラックスできる部屋着姿だ。おまけに櫛で梳かしていない髪は寝癖だらけである。揚羽ほどではないが、訪ねてきた青年もちょっとだけ目を丸くしていた。
「凄い格好だな、燕。脱走兵みたいだぞ」
 そう言うと青年――鷲海颯はふっと口元をほころばせた。確か颯は遠く離れた宮城県の東松島にいるはずだが。
「鷲海さん!? どっ、どっ、どうしてここにいるんですか!?」
「どうしてって……休暇で東京に帰ってきたんだよ。東京が俺の生まれ故郷だからな」
「休暇で帰ってきたのは分かりました! でもどうして私の家の住所を知っているんですか!?」
「それは企業秘密だ」
「ですよね――ってなんで企業秘密なんですか!」
「ねえ、いったい誰が来たの?」
 颯と問答する揚羽の声は、どうやらリビングまで筒抜けになっていたらしい。リビングから出てきた小鳥が、スリッパの音を響かせながら、廊下を歩いてくるのが見える。揚羽と玄関先に立つ颯を交互に見やった小鳥は、嬉しくて堪らないといった微笑みを浮かべた。――これはまずい。どうやら小鳥は颯が揚羽のボーイフレンドだと誤解してしまったようだ。早急に誤解を解かなければと揚羽は思ったのだが。
「松島基地第4航空団第11飛行隊所属、鷲海颯1等空尉と申します。揚羽さんとは親しくさせていただいております」
(あわわわ! わっ、鷲海さんの馬鹿! 『親しく』なんて軽々しく言わないでくださいよ!)
 揚羽の気も知らない颯は、背筋を真っ直ぐ伸ばすと小鳥に挨拶をした。揚羽は内心慌てふためいた。手を繋ぐほど親しいのか、キスするほど親しいのか、その先に進んだほど親しいのか、「親しく」とはいっても段階があるだろうに。確かにキスはしたしエッチなこともされた。だがあれは不可抗力だ。果たして小鳥はどう思ったのか。揚羽は考えただけで恐ろしかった。
「揚羽の母の小鳥です。娘がいつもお世話になっているようですね」
 慇懃に挨拶された小鳥も颯に会釈を返す。小鳥が横目で揚羽を見やった。「貴女とお似合いね」と小鳥の視線が語っている。揚羽が何を言っても小鳥は信じないだろう。
「颯君はどんな用事で来たの?」
「揚羽さんに話したいことがあるのですが……できれば二人きりで話したいんです。これから彼女と出かけても構いませんか?」
「ええ、もちろんいいわよ。ほら、揚羽! 早く着替えてきなさい! 10分で準備しなさい! いいわね!?」
「はっ、はいっ!」
 小鳥に一喝された揚羽は、鞭で臀部を叩かれた馬のように飛び上がると、廊下を走って自室に駆け込んだ。クローゼットを開けてTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てた。クローゼットから引っ張り出した、九分丈のホワイトブラウスと、草色のハイウエストのガウチョパンツに着替える。初夏の草原のように爽やかな色の組み合わせのお気に入りの服だ。どんなに慌てていても身に染みた習慣は忘れない。脱いだ衣服は綺麗に畳んでクローゼットに直す。ファンデーションと桃色のチークを頬に薄く伸ばし、最後にコーラルピンクの口紅とリップグロスを塗った。
 陸海空の自衛隊全体に浸透している、「5分前の精神」で準備を終えた揚羽は、財布とスマートフォンを押し込んだ、アーモンドブラウンのショルダーバッグを掴み、颯が待つ玄関に戻った。にやつく小鳥に見送られた揚羽と颯は、玄関を出てマンションを後にする。並木に挟まれて木漏れ日が落ちる坂を下りていると、前を歩く颯が足を止めて振り向いた。
「いきなり来て悪かったな」
「ええ、それはもう驚きました。来るなら来るって連絡してくださいよ。そのことはもういいです。出かけるって言いましたけれど……どこに行くつもりなんですか?」
「デートだと思って俺についてこい。練習にもなるしな」
「えっ? デート!? それに練習って――あひゃっ!?」
 揚羽は宇宙人のような声を上げた。なんと颯はいきなり揚羽の手を握ってきたのである。揚羽と手を繋いだ颯はどんどん歩いていく。すれ違う女の子たちは熱い視線を颯に送り、嫉妬の視線を揚羽に突き刺してきた。絶世の美青年と手を繋いでいるのだから、揚羽に嫉妬するのも頷ける。目的地も分からないまま、ロールプレイングゲームで主人公に付き従う仲間のように、揚羽は颯のあとについていく。道を真っ直ぐ進んだり曲がったりしていると、生命の緑に輝く木々が見えてきた。あの場所は境相管轄の国民公園として親しまれている新宿御苑だ。
 新宿御苑はイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を、巧みに組み合わせた庭園で、日本における近代西洋庭園の名園だ。広々とした芝生に、ユリノキやプラタナスなどの巨樹が点在する、イギリス風景式庭園、薔薇花壇を中心に、左右にプラタナスの並木を配した、フランス式整形庭園、回遊式の情緒あふれる日本庭園など、さまざまな様式の特色が溢れる庭園が楽しめる場所となっている。入園料は二百円。揚羽が入園料を払うより先に、颯が彼女のぶんもまとめて払ってくれた。
 広大な芝生を抜けて揚羽は颯と玉藻池の側まで歩く。ここは江戸時代の内藤家の屋敷跡の面影を留める庭園で、現在の大木戸休憩所には御殿が建てられ、池、谷、築山、谷をしつらえた景勝地「玉川園」が造られたといわれている。御苑で暮らす水鳥たちも羽を休めている、穏やかな空気に包まれた庭園だ。人々のざわめきに混じり、首都圏では珍しい野鳥の歌声が聞こえる。肩を並べてゆっくり玉藻池の回りを歩いて行くと、咲き始めの金木犀の花が静かに揺れる場所に着いた。颯は玉藻池の対岸を見つめたまま口を開いた。
「……ずっと胸の中に押し込めているものがあるんだ。それは凄く複雑に絡み合っていてさ、苦しい悲しいって訴えるには、あまりにも我儘な気がして、今まで誰にも言えなかった、話せなかった。黎児が言ったとおり、俺は過去を引き摺っている弱虫だ。でも弱虫の自分とは今日で決別するよ」
 颯が揚羽のほうを向いた。力強い決意の眼差しだ。そして力強いと同時に水晶のように澄みきっている。
「だから、初めて俺と真っ直ぐに向き合ってくれた燕に話したい、聞いてほしい。長くなると思うけれど、聞いてくれるか?」
「――はい」
 頷いた揚羽は颯に手を引かれて近くのベンチに座った。揚羽の隣に颯が腰掛ける。まだ颯の口は開かない。今颯は頭の中で話の起承転結をまとめているのだろう。ややあって颯が口を開く。現在から過去に続く階段を一歩ずつ下りていくように、颯はゆっくりとだか明瞭とした声で、揚羽に追憶の物語を語り始めた。



 それは今から10年前のことだ。第1次試験の筆記・適正検査、第2次試験の口述試験・航空身体検査、第3次試験の海上・航空身体検査の一部と、航空操縦適正検査及び、医学適性検査に合格した颯は、山口県防府北基地・航空学生教育群の入隊式を数週間後に控えていた。入隊後は航空学生として、全員が学生隊舎で規則正しい団体生活を送りながら、2年間の基礎教育を受け、続いて飛行訓練を中心とした、それぞれの段階の操縦課程に進むのだ。
 人生の大きな転換点となる日、颯は母親の鷲海結衣と新宿を散策していた。正直18歳の若者が母親と出歩くのは些か恥ずかしい。さりげなくそう言ってみたら、「一緒に来てくれないとお母さん泣いちゃうから!」と結衣に駄々をこねられてしまい、結局彼女に押し切られる形で出かけることにしたのである。颯が自衛隊に入隊したら、結衣は当分の間息子に会えないのだ。それに今のうちに親孝行をしておくのも悪くないと思う。人生何が起こるのか、まったく予想がつかないのだから。
 ひととおり新宿の街を見て回った颯と結衣は、古本屋街の一角にある落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。ショーケースの中には自家製のケーキや焼き菓子が綺麗に並べられていて、コーヒーの香りが漂う店内は穏やかな時間が流れている。喫茶店にいるのは女性が多く、彼女たちはコーヒーや紅茶を飲みながら、ゆったりとした午後の時間を楽しんでいた。颯はコーヒーとハムチーズと卵のサンドウィッチ、結衣はカフェオレとホットケーキを注文する。結衣は鞄を開けると中から出した物を颯に手渡してきた。
「これは?」
「いいから開けてみて」
 シールと包装紙を剥がすと、黒色のベルベットに包まれた長方形の箱が出てきた。続いて颯は蓋を持ち上げる。箱の中に入っていたのは銀色の腕時計だった。紺色の文字盤に銀色の長針と短針。9時位置の秒針部分には、第11飛行隊ブルーインパルスの部隊マークがあしらわれている。「裏側も見て」と結衣に言われたので、颯は時計をひっくり返す。すると裏面には【HAYATE WASHIMI】の文字が彫られていた。
「母さん、これ――」
「少し早いけれど、貴彦さんと私からの入隊祝い。入隊おめでとう、颯。貴方ならきっと、立派なファイターパイロットになれるわ」
「……ありがとう、母さん。肌身離さず持って大切にするよ」
 貴彦からの入隊祝いと聞いた颯の心は喜びで溢れていた。父の貴彦は航空自衛隊のファイターパイロットで、千歳基地第2航空団・第201飛行隊の飛行隊長を務めており、今は基地官舎で独り暮らしをしている。いわゆる単身赴任だ。颯が防府北基地に入隊したあと、結衣は北海道に飛び、貴彦と夫婦水入らずで暮らす予定になっている。山口県と北海道、結衣とは遠く離れてしまうが、颯はもうすぐ19歳になるのだから、いつまでも親に甘えているのはあまりよろしくない。それに親離れをするいい機会である。どれだけ遠く離れていても、親子の絆は断ち切れないのだ。
 昼食を食べ終えた颯はレジで代金を支払って、結衣と一緒に喫茶店を出る。喫茶店を出て少し歩いた先にある、大きなスクランブル交差点の信号の前で、颯は喫茶店にスマートフォンを置き忘れてきたことに気づいた。個人情報の塊をうっかり置き忘れるとは不用心すぎる。誰かに悪用される前に急いで取りに戻らなければ。結衣に言うと彼女はここで待っていると言ったので、時計を預けた颯は急ぎ足で来た道を引き返した。幸いなことに颯が置き忘れたスマートフォンは、誰かに持ち去られることもなく、喫茶店のマスターが忘れ物として預かっていてくれた。
 親切なマスターに礼を言って颯が喫茶店を出た時だ。突然大砲が撃たれた時のような大きな音が、辺り一帯に鳴り響いた。音がやむと辺りは静かになったが、すぐに人々が騒ぐ声が聞こえてきた。得も言われぬ不安を覚えた颯は、ざわめく声が流れてくるほうを目指して走った。騒ぐ声が大きくなり、一箇所に集まる群衆が見えてくるにつれて、颯の胸の不安も増幅していく。群衆の壁を乗り越えて最前列に出た颯は、眼前に広がった光景に瞠目したのだった。
 歩道に乗り上げ電柱に衝突して、フロント部分が大破した乗用車。歩道に倒れたままぴくりとも動かない人たち。路上に散乱しているのは、倒れている人たちの靴や鞄だ。その中に見覚えのあるエナメルパンプスと白色の鞄が転がっている。冷たい手で心臓を鷲掴みにされ、全身の細胞を撫でられたような感覚が襲う。嫌だ、嫌だ、見たくない。視線を動かしたら最後、颯は悲しみと絶望の谷底に突き落とされてしまうだろう。だが颯の意思とは無関係に両目が動く。そして颯は、歩道に倒れて動かない結衣の姿を見てしまった。
「母さん!!」
 叫んだ颯は歩道を走った。結衣の側に膝をつき、彼女を抱き起こす。両手についたものを見て颯は戦慄した。颯の両手にべったりとついたのは、目に突き刺さるような真っ赤な血。颯が抱き起こした結衣は、頭部から夥しい量の血を流していたのだ。両目を固く閉ざした結衣は、血の気を失い青褪めていて、さっきまで無邪気に笑っていた彼女とは別人のようだった。
 サイレンの音と赤色灯が颯の視覚と聴覚を刺激する。通報を受けた救急車が現場に到着したのだ。救急車から降りてきた救急隊員は、事故に巻き込まれた怪我人たちをトリアージしていき、結衣がいちばん危険な状態だと判断した。救急隊員がストレッチャーに結衣を乗せて車内に運び入れる。颯も同乗した救急車は、サイレンの音を高らかに響かせながら、都内の大学病院に向けて走っていった。
 大学病院の搬送口では医師と看護師が待機していた。病院に到着後、結衣を乗せたストレッチャーはすぐに病院に運び込まれ、脇を固めた看護師に押されて白い廊下を疾走する。首に固定器具、口に酸素マスクを着けた結衣の姿は、見ていられないほど痛ましい。手術室に走る途中で結衣は何度か心肺停止になったが、そのたびに電気ショックと心肺蘇生で、彼女はなんとか命を繋ぎ留めた。意識を取り戻した結衣が震える手を伸ばす。颯はストレッチャーと併走しながら、伸ばされた結衣の手を胸に抱き締めた。
「ねえ、貴彦さんはどこ……? お願い、貴彦さんに会わせて……。せめて最後に、彼の顔が見たい、声が聞きたいの……」
「最後なんて言うなよ!! 母さんは絶対に死なない!! 生きて父さんと会って、助かってよかったって、泣いて笑って三人で喜ぶんだ!! だから死んじゃ駄目だ!!」
 颯の必死の呼びかけもむなしく結衣は再び意識を失った。看護師が廊下の奥にある手術室の扉を、突き破るように押し開ける。全開になった扉を抜けたストレッチャーは、手術室の中に運び込まれ、立ち入る資格を持たない颯の目の前で扉は閉ざされた。扉上部の赤いランプが点灯する。もはや颯にできることは何もない。ひたすら一心に神に祈りを捧げることしかできないのだ。
 木々の間を群体となって移ろう鳥のように、病院の時間はゆっくりと流れていく。地球の自転とはこれほど遅いものだったのかと、廊下の長椅子に座る颯は感じていた。颯は千歳基地に電話をかけて、貴彦を呼び出してもらおうとしたが、アラート任務に就いていた父は、スクランブルが発令されて離陸していったばかりだと言われて愕然とした。運命の神の残酷な悪戯に颯は怒り悲しんだ。
 拷問を受けているような気持ちのまま、颯は手術室のランプが消える瞬間を何時間も待ち続ける。夜の気配が廊下に満ち始めた時、手術室の赤いランプが消えた。扉が開放されて医師と看護師たちが出てくる。長椅子から立ち上がった颯は、すぐさま医師のところに走り寄った。結衣の手術は無事に成功して、彼女は一命を取り留めた。希望の言葉が聞けるのだと颯は思っていたのだが。
「これはあなたの物ですか?」
 出てきた医師が颯に渡した物は、入隊祝いに結衣がプレゼントしてくれた、ブルーインパルス仕様のパイロットウオッチだった。だが真新しかった時計は、文字盤の硝子に細かな亀裂が入り、針は時間を刻むのを止めている。
「そうです、母さんが俺にプレゼントしてくれた時計です。母さんは助かったんですよね? それなら早く会わせてください!」
 颯の質問に医師は沈痛な面持ちで首を振った。ここでようやく颯は気づく。手術が無事成功したのなら、結衣を寝かせたベッドが運び出されてくるはずだ。しかしいくら待ってもベッドは運び出されない。颯は医師の肩越しに手術室を見やった。看護師たちが黙々と後片付けをしている。看護師たちの表情は一様に暗い。瞬間颯は医師を突き飛ばし、制止を求める手を振り払って手術室に駆け込んでいた。床には血が流れた跡がはっきりと残っており、死の気配が色濃く残っている。さながら熾烈な戦場を思わせる光景だ。颯は震える足で部屋を進み、手術台に横たわる結衣に近づいた。
 颯は手術台で眠る結衣の手を握る。生者の温もりを失った結衣の手が、颯の手を握り返してくることはなかった。冷凍庫で冷やしたような結衣の手の冷たさが、繋がった手から脊髄を通って脳髄に達する。その冷たさは結衣が死んだという紛れもない証拠だったが、颯は頑なに信じようとしなかった。
「死んだふりなんて悪い冗談はやめろよ。これから父さんと一緒に暮らすのに、呑気に寝てる場合じゃないだろ? 父さんが北海道で待ってる。だから早く起きないと駄目だよ。母さん、頼むから目を開けてくれよ。目を開けてさ、いつもみたいに笑って、俺の名前を呼んでくれよ――」
 何億光年の宇宙の彼方で瞬く星のような、自分で聞き取れないほどか細い震える声で、颯は結衣の手を握り締めたまま彼女に話しかけた。結衣は目を覚まさない。笑って名前を呼んでくれることもなかった。結衣は二度とここには戻ってこない。結衣は神聖な天国の七つの門をくぐり、颯の声が届かない、遠い場所に旅立ってしまったのだ。
 絶望的な現実が颯の全身から力を奪う。床の上に崩れ落ちた颯は背中を丸めて蹲り、唸るような嗚咽の声を上げてむせび泣く。希望と幸福に満ち溢れた日々が、未来永劫に続くと思っていた。だが一瞬の転換点を境にして、永遠に続くと思っていた、希望と幸福のすべては粉々に砕け散り、跡形もなく失われてしまったのだった。



 がらんどうとした部屋に明るい光はなく、密度のある暗闇が重なり合うように、部屋の四方に広がっている。宇宙空間を独りで彷徨っている時のような、重い空気が漂う部屋で、颯は独り静かに佇んでいた。颯が見つめているのは、白い布が掛けられただけの簡素な仏壇。簡素な仏壇の上に置かれているのは、細い煙をくゆらせる青緑色の線香で、遺影も位牌も置かれていない。もう霊安室に結衣はいない。今は遺体安置所で永遠の眠りに就いているのだ。しばらくすると靴音が近づいてきた。僅かに開けたドアが開放される。廊下の電気の青白い光が差し込んできて、最後に息を切らした男性が部屋に入ってきた。父親の鷲海貴彦3等空佐だ。
「颯、母さんは……結衣はどこにいるんだ?」
 着替える時間がなかったのか、オリーブグリーンのパイロットスーツの上にジャンパーを着た貴彦は、がらんどうの室内を見回すと、掠れた声で颯に尋ねてきた。恐らく一睡もしていないのだろう、貴彦の両目は酷く充血していた。結衣の事故を聞いた貴彦は、すぐさまC‐1輸送機に飛び乗り、遠く離れた東京まで駆けつけたに違いない。
「……母さんは死んだよ。今は遺体安置所にいる」
 青褪めた貴彦はよろめきながら仏壇に近づくと、仏壇の上に両手をついて肩を震わせた。貴彦が泣いているとすぐに分かったが、颯は共に涙を流す気持ちにはなれなかった。
 結衣の死因は頭を強打したことによる脳挫傷だった。事故に巻き込まれたのは、男性二人と結衣を含めた女性三人。事故を起こした乗用車の運転手は、皮肉なことに軽い打撲を負っただけだったらしい。事故の原因は男の居眠り運転で、それだけでも許せないのに、なんと男は酒も飲んでいた。死ぬに相応しい者がいるならば、間違いなく罪を犯した男だろうに、どうして結衣だけが命を落とさなければいけないのか。仏壇の前から離れた貴彦はこちらに歩いてくると、颯の肩にまだ悲しみで震える手を置いた。
「すぐに母さんを迎えにいこう。まずは家に帰って――」
 颯は肩に置かれた貴彦の手を乱暴に振り払い、ぎょっとする彼を睨みつけた。
「――ふざけるな」
「颯……?」
「母さんは死ぬ前にあんたに会いたいって言っていたのに、どうしてもっと早く来てくれなかったんだよ!! 国防の任務がそんなに大事なのか!? 愛する人の命よりも大事なのか!? それなら好きなだけ空を飛んでいればいいさ!! 愛する人を守れなかったあんたは、空自のファイターパイロットじゃない!! でも俺は違う!! 大切な人を守れるファイターパイロットになってみせる、あんたとは違うっていうことを証明してみせる!!」
 嵐の空に閃く稲妻のように怒りを迸らせた颯は、顔面の筋肉を痙攣させて叫んだ。憤激の熱い涙が眦を濡らしているが、構わず颯は両目を吊り上げて貴彦を凝視する。果たして貴彦はどんな反応を見せるのだろうか。激しく反駁するのか、それとも問答無用で殴りかかってくるのか。だが貴彦は反駁もしてこなかったし、颯に殴りかかってもこなかった。貴彦は黙って視線を逸らしたのである。それを見た颯は自分が拒絶されたのだと思った。嘲りにも近い歪んだ笑みが顔に広がっていく。そして颯は低い声で静かに笑い出した。
「母さんの代わりに俺が死ねばよかった、あんたはそう言いたいのか。ああ、そうだよ!! 母さんが死んだのは俺のせいなんだよ!! あの時俺が母さんを一人にしなかったら、母さんは事故に巻き込まれなかった、母さんは死ななかった!! あんたの望みどおり、俺が死ねばよかったんだ!! 母さんの代わりに俺が――」
 乾いた音が鳴り響き、颯の叫びは途中で断ち切られた。針で刺されたような痛みを感じると同時に、左側の頬がじんわりと熱くなる。右手を振り抜いた格好の貴彦がすぐ目の前にいた。怒りと悲しみが混在した貴彦の双眸は、真っ直ぐに颯を見据えている。
「自分が死んだらよかっただなんて、そんなことを言うのはやめろ!! 私も結衣もそんなことは思っていない!! お前が死んだって結衣は生き返らないんだ!!」
 返す言葉は出なかった。貴彦を突き飛ばした颯は、彼が呼ばわる声に振り返らず、霊安室を飛び出した。颯は廊下を走る途中で失速すると、よろめきながら立ち止まり、壁に背中をつけてずるずると廊下に崩れ落ちた。
 涙が溢れて止まらない。結衣の代わりに自分が死ぬべきだった。自分に向けて放った言葉が心に突き刺さって抉る。あの時自分がスマートフォンを置き忘れてさえいなかったら、結衣は事故に巻き込まれることもなかった、理不尽に命を奪われることもなかった。自分が結衣の命を奪い、彼女が思い描いていた幸せな未来を壊してしまったのだ。
 忍び泣きはやがて嗚咽に変わり、片手で顔を覆った颯は、身体を震わせながら滂沱する。そしてこの瞬間、強く握り締めるパイロットウオッチの、文字盤に入った亀裂のように、貴彦との絆に深い亀裂が走っていく音を、颯の耳は確かに聞き取ったのだった。
 結衣の魂を天に送る葬儀は終わり、颯は山口県防府北基地・航空学生教育群に入隊した。それから颯は座学や飛行訓練に励んだ。入隊を境に颯は貴彦との連絡を絶ち、休暇がきても決して家には帰らなかった。颯が連絡を絶ってからも、貴彦は電話をかけてきたりメールを送ったりしてきたが、時が経っていくうちに回数は減っていき、やがて貴彦からの連絡はなくなった。
 2年の航空学生課程で、最低評価を意味するピンクカードを一枚も貰わなかった颯は、ウイングマークを取得したあと、自らの希望通りF‐15戦闘機操縦課程に振り分けられる。そして宮崎県新田原基地での、F‐15戦闘機操縦課程を優秀な成績で修了した颯は、石川県小松基地の第6航空団第306飛行隊に着隊した。
 306のイーグルドライバーになった颯は、「ゲイル」のTACネームを与えられ、一心に空を飛んで飛行技術をさらに磨き続ける。飛行時間は1300時間を超え、二機編隊長の資格も取得した颯は、航空総隊戦技競技会のメンバーに選抜され、卓越した飛行技術で306を勝利に導いた。そして颯は第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロットに抜擢され、小松基地から松島基地に異動した。颯は子供の頃から憧れていた彼と、同じ翼で空を飛べるようになったのだ。
 憧れのリードソロとして空を飛べるというのに、だが颯の心に喜びの感情はなかった。憧れの彼を追いかけて、青と白のドルフィンに乗って日本の空を飛ぶ。寝る間を惜しんで努力と鍛錬を続け、ようやく形にできた夢の翼は、いつの間にか輝きを失っていたのだ。結衣が命を落としたあの日に、颯の純粋な憧れと夢は、固く閉ざした心の奥で凍りついてしまったのである。貴彦への憧れは憎しみに変わり、純粋な夢は葬り去られ、颯は空を飛ぶ喜びも意味も、思い出せなくなっていた。



 10年前の追憶の物語は幔幕を下ろし、疲れきったように息を吐いた颯は、唇を水平に結ぶと深い海の底の貝のように沈黙した。音の伝わらない真空のような静けさが、揚羽と颯がいる場所を中心にして、新宿御苑に広がっていくようだ。揺られた木々が風の竪琴をかき鳴らし、水鳥たちが泳ぐ玉藻池は涼しげな水音を響かせる。颯に伝えたい言葉が胸の奥で形になっていく。揚羽は黙って隣に座る颯のほうを振り向き、ゆっくりと口を開いた。
「どうして鷲海さんがお父さんを――貴彦さんを憎むのか。私、分からないんです」
 颯が揚羽を見返してきた。当たり前だが颯は驚いた顔をしている。長い時間をかけて話したにも関わらず、話を理解できていない揚羽に呆れているのだろうが、揚羽は構わず言葉を継ぎ足した。
「貴彦さんが憎いのなら、どうして空自のファイターパイロットを目指したんですか? 貴彦さんが大好きだから、同じ空を飛びたかったから、鷲海さんはファイターパイロットの道を選んだ。鷲海さんは貴彦さんを憎んでなんかいない、本当は大好きなんですよ。それは鷲海さんが悪いんじゃありません。悲しみが大きすぎて、今まで気づけなかっただけなんです」
 颯に言いたいことはまだある。うまく言える自信はなかった。だけれども思いは言葉にしないと相手に伝わらない。思いを伝えるために人間は言葉というものを与えられたのだ。
「生まれた時から今までずっと、鷲海さんは貴彦さんと結衣さんの『愛』に包まれて育ってきた。だから貴彦さんを嫌いにならないでほしいんです。鷲海さんが貴彦さんを嫌いになったら、彼を愛した結衣さんまで、嫌いになってしまうんじゃないでしょうか。……うまく言えなくてごめんなさい」
 ぐちゃぐちゃに絡み合って、複雑になった感情の糸を、揚羽の言葉が優しくほどいていく。すべての感情の糸が完全にほどけた瞬間、貴彦と過ごした日々が颯の脳裡に蘇った。
 イーグルのプラモデルを持って公園を走り回った日。特別に201飛行隊のイーグルのコクピットに座らせてもらった日。貴彦に肩車をしてもらって、離陸していくイーグルに目を輝かせた日。いちばん最後に蘇ったのは、颯が山口県に旅立つ前に、もう家には帰らないと貴彦に告げた夜の記憶だった。その時貴彦は「分かった」と短く言っただけだったが、そのあと電気も点けない暗い自室で、啜り泣いていた彼を颯は見てしまった。逞しい身体を丸めて啜り泣く貴彦の姿は、10年が経った今でも鮮明に覚えている。
 どうして自分は貴彦に声をかけられなかったのだろうか。あの時、一言「ごめん」と言いさえすれば、貴彦の肩を抱いて一緒に涙を流していれば、こんな複雑な関係にはならなかった。いちばん辛い思いをしたのは、最愛の女性を失った貴彦だっただろうに、颯は自分の気持ちしか考えていなかった。颯は悲劇のヒーローの役に陶酔していたのだ。揚羽が言ったとおり、自分が貴彦を嫌いになってしまったら、結衣の愛を否定してしまうことになる。そこまで考えたら、心を引き裂くような後悔の念が颯を責めた。
「……俺は自分のことだけ考えて、父さんの気持ちなんて、なんにも考えていなかった。いちばん辛くて悲しいのは父さんなのに、俺は自分の悲しみや怒りをぶつけて、父さんの心を傷つけてしまった。お前の言うとおり、俺は父さんを嫌ってなんかいない。本当は父さんが好きだ、大好きなんだ。父さんに憧れて空自パイロットを目指したのに、どうしてこんな最低な奴になっちまったんだろうな――」
 唇を噛んで俯いた颯は、膝の上に置く両手をきつく握り締めると、心の底から湧き出る貴彦への思いを口にした。颯の長い睫毛の裏に溜まった涙が溢れ出して、玻璃のように光りながら落ちていく。颯のくしゃくしゃに歪んだ顔の泣き腫れた瞼は、二枚の貝殻のように閉じていて、彼がときどき息を吸うたびに唇が動いている。
「いいえ、違います。鷲海さんは最低な人なんかじゃありません。私が知る鷲海さんは、誰よりも勇敢で、優しくて、立派なパイロットです」
 一瞬にして萎む朝顔のように、項垂れて静かに涙を流す、颯の身体に両腕を回した揚羽は、そっと彼を抱き締めた。抱き締められた颯は、一瞬身を強張らせたが、揚羽の肩に顔を埋めて泣き続ける。颯を抱くには揚羽の身体は小さく両腕は短い。でも揚羽と颯はそれでよかった。揚羽は颯を抱き締めていたかったし、颯は聖母のような揚羽の温もりを感じていたかったからだ。気持ちを落ち着かせた颯が顔を上げる。
「燕」
「はい」
「俺、まだお前に謝っていなかったよな。……親父さんを人殺し呼ばわりして、本当に悪かった」
 揚羽が見ている前で颯は深く頭を下げた。膝の上に置かれた両手の拳は、後悔の念と罪悪感で震えている。揚羽は颯の手を両手で包み込むように握り締めた。
「……いえ、もういいんです。私だって鷲海さんに酷いことを言いましたから。お互い様ですよ」
「お互い様だって? 馬鹿なことを言うな。俺はお前が尊敬する親父さんを、人殺し呼ばわりしたんだぞ? それなのにどうして簡単に許せるんだよ。殴るなり罵るなりお前の好きにしてくれ。そうしてくれないと俺の気が済まないんだ」
 なんらかの制裁を望む颯に、だが揚羽は静かに首を振る。
「鷲海さんは悲しい思いをして、たくさん悩んで苦しんで、傷ついてきました。だから私は、これ以上あなたを苦しませたくない、悲しい思いをしてほしくないんです。鷲海さんが気持ちよく空を飛べるように、笑顔で松島に戻ってほしいんです」
 今度は揚羽が颯に抱き締められる番だった。触れ合った箇所から、温もりと安らぎが全身に流れて満ちていく。世界に自分たちしか存在していないような不思議な感覚が、二人を包み込んでいた。
「……ありがとう」
 今まで言いたくても言えなかった、短い言葉が颯の口から零れ落ちる。嘘偽りのない揚羽の思いは、一筋の華やいだ光となって颯の心を明るく照らし、決して消えない希望の火を灯したのだった。



 休暇の最終日。「話がある」と父にLINEで呼び出された揚羽は、喫茶店で彼が来るのを待っていた。ショートケーキとベイクドチーズケーキ、苺のタルトにモンブランやガトーショコラなど、レジカウンター近くのショーケースに並べられたケーキやお菓子は、さながら宝石箱の中の宝石のようだ。揚羽の父も自衛官だが、今はパイロットの職を辞して事務方の仕事に就いている。なかなか会えない父とゆっくり寛げるなんて、揚羽の胸は嬉しい気持ちでいっぱいだった。この場に颯がいたら、「ファザコンかよ」とからかわれるに違いない。
 胸を躍らせながら父が来るのを待っていると、出入り口のドア上部に付けられている、金色のドアベルが「チリリン」と可愛く鳴った。揚羽はドアのほうを見やる。残念ながら来店者は父ではない。細身のダークスーツを着て、細いフレームの眼鏡をかけた黒髪の中年男性だ。応対に来た店員と二言三言交わした男性は、揚羽が座る席のほうに歩いて来た。
 そのまま通り過ぎると思っていたが、男性はなぜか揚羽の前で足を止めた。もしかしたら相席するつもりなのだろうか。しかし店内は数人の客しかいないので、当然席は充分すぎるほど空いている。まさか揚羽に危害を加える目的か。緊張する揚羽の前で男性は開口した。
「あなたが燕揚羽さん、ですか?」
 いきなり名前を呼ばれた揚羽は目を丸くする。
「えっ? はっ、はい、そうですけれど……あなたは?」
「航空幕僚監部広報室室長、鷲海貴彦と申します」
「鷲海? それじゃあ、あなたは――」
「鷲海颯の父です。確か一度、松島でお会いしたことがありますよね」
 瞬間揚羽の脳髄の記憶を司る部分は一気に活性化した。正門を入ってすぐ、往年の名機が置かれている所で、颯と言い争っていた男性だ。殴られて倒れた彼を介抱しようとしたから、その顔はよく覚えているはずなのに、彼が自己紹介をするまで忘れていたとは情けない。相席してもいいかと訊かれたので揚羽は頷いた。鷲海貴彦は椅子を引いて、揚羽の真向かいに腰掛ける。店員が注文を訊きにきたので、揚羽はレモンティー、貴彦はカフェオレを注文した。
 貴彦は年齢を感じさせない整った顔立ちの人だが、あまり他人にプレッシャーを与えるタイプではない。気がつくとすぐ側で優しく微笑んでいるようなそんな感じだ。対して颯は遠くから歩いて来るだけで、それが彼だと分かるような独特の存在感がある。颯が年齢を重ねたら貴彦みたいな男性になるのだろうか。いろいろ考えながら貴彦を見ていたら、揚羽はにっこりと微笑み返された。
「実は私が揚羽さんのお父さんに頼んで、ここに呼び出してもらったんです。あなたにどうしても話したいことがあったものですから。失礼な真似をしてすみません」
「いえ、お気になさらないでください。広報室の室長ということは、MAMORの取材は鷲海室長が取り計らったんですか?」
「ええ、そうです。雪村君には悪いことをしたなと思いましたが、少しでも颯のためになることをしたかったんですよ」
 貴彦は脇に置いている鞄から一冊の雑誌を出すと、テーブルの上に置いた。置かれた雑誌は広報誌MAMORの4月号だ。貴彦は雑誌を開くと揚羽に見せてきた。
「あっ! その写真は――」
 貴彦が開いたのは「航空自衛隊のイケメン特集!」の記事が載った見開きページだ。颯の写真と簡単なプロフィールが書かれている。もちろん全開の笑顔の写真も掲載されていた。貴彦は苦笑しながら揚羽を見た。
「T‐4のコクピットに座らせたら、すぐに笑ってくれたと雪村君から聞きました。揚羽さんが提案してくれたそうですね。お陰で息子が笑う顔を久しぶりに見られましたよ」
 店員が注文の品を銀色のトレイに乗せて運んできた。レモンティーとカフェオレを置いた店員が立ち去ると、貴彦は一拍おいてから話を続けた。
「息子が――颯が生まれた日は強い風が吹いていましてね、病院中の窓がガタガタ揺れていたんですよ。普通泣き喚いて怖がるはずなのに、結衣に抱かれる颯は嬉しそうに笑っていました。あの風のように、強く勇敢になってほしいと願いを込めて、私が『颯』と名付けたんです」
 届けられたカフェオレを一口飲んだ貴彦は言葉を継ぐ。
「昨日、颯が久しぶりに家に帰って来ましてね、彼からすべて聞きました。誰にも言えずに一人で苦しんでいたことに気づけなかったなんて、私は父親失格です。ですが揚羽さんの真っ直ぐな思いが、颯の心を救ってくれた、再び空を飛ぶ勇気を与えてくれた。感謝してもしきれないくらいですよ。……本当にありがとうございました」
 席から立ち上がった貴彦は、揚羽に向けて深く頭を下げた。
「そっ、そんな! 私も鷲海さんに命を救ってもらいました、強さと勇気を教えてもらいました! だから感謝したいのは私のほうです! ありがとうございました!」
 慌てて揚羽も立ち上がり、ハニーベージュの髪を揺らして貴彦に頭を下げる。年齢も異なる二人の男女が、席から立って互いに頭を下げ続ける様子は、他の客から見ればきっと、奇妙な光景に映っているだろう。見上げると気の遠くなるほど高い空は、青く明るく晴れていて、銀粉を撒いたように輝いていた。


 颯たちブルーインパルスの隊員は、飛行隊隊舎の前に一列に並んで立っていた。「全員バケツを持って、飛行隊隊舎の前に立っていろ!」と蓮華2佐に叱られたわけではない。今日は東京都新宿区陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地の防衛省から、なんと航空幕僚長が視察のため、松島基地にやって来るのである。全員緊張した面持ちだ。航空幕僚長といえば、統合幕僚長の次に権力を持つ存在。その航空幕僚長が基地に来るのだから、緊張するのは当然だといえよう。
 しばらくすると二人の男性が飛行隊隊舎のほうに歩いてくるのが見えた。一人は松島基地司令の斎藤一之空将補で、もう一人が航空幕僚長に違いない。斎藤空将補と男性が飛行隊隊舎の前に到着する。蓮華2佐の号令で、颯たちは一斉に背筋を伸ばして敬礼した。
(あの人が航空幕僚長か……)
 颯は敬礼したまま男性に視線を向けた。紺色の制服を飾るのは、色鮮やかな防衛記念章と、銀色に輝く四個の桜星の階級章。年齢は貴彦と同じ50代に見えた。藍色が混じった黒髪。綺麗な線を描く切れ長の目は青色を帯びた灰色をしている。事務職といえば、相撲取りであるかのような、でっぷりと太った人を想像してしまうが、目の前の航空幕僚長はそうではない。すらりとした長身に、贅肉はほとんど一欠片もなく、全身の筋肉が念入りに鍛え上げられているのが分かる。航空幕僚長は前に出ると、隊員一人一人に労いの声をかけていく。そして航空幕僚長は、なぜか颯の前で足を止めた。
「君が鷲海颯1等空尉だな?」
「えっ? そうですが……」
「一度、大きくなった君に会ってみたかったんだよ。それに娘がいろいろと世話になったからね」
「あの、すみません。仰っていることがよく分からないのですが――」
 戸惑いを露わに颯が尋ねると、航空幕僚長は相好を崩した。
「私の名前は燕流星。燕揚羽の父親だよ」
「ええええっ!?」
 天地がひっくり返ったような衝撃を受けた颯は、思わず素っ頓狂な声を喉から迸らせていた。蓮華2佐が厳しい目を向けてきたので、颯は慌ててあんぐりと開けていた口を閉じる。無礼な真似をしてしまったから、きっと厳しく叱咤されると颯は覚悟していたが、燕流星航空幕僚長は片手で口を隠して失笑していた。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。その様子だと、どうやら揚羽は君に話していなかったようだな。それに私と君は初対面じゃないんだぞ」
「初対面じゃない?」
「18年前、小松基地で会ったじゃないか」
 と言われたが18年も昔のことなんて簡単には思い出せない。眉間に皺を刻んで煩悶する颯に、流星は苦笑しつつも助け船を出してくれた。
「私は幼い君にこう言った。『オレが飛んだあの青空を目指して、真っ直ぐに翔け上がれ』とな」
「はいいいいっ――ぐふっ!!」
 再び叫んだ颯を黎児と黒金3佐が両側からの肘鉄で黙らせる。青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。それは今まで一度も忘れたことがない大切な言葉、颯を無限の大空に連れていってくれる魔法の言葉だ。不躾だと分かっているが、颯は流星の端正な顔を凝視する。藍色が混じる黒髪も、青みを帯びる灰色の双眸も、18年前に出会った憧れのパイロットと同じだった。
 犬鷲のシューティングスター、そしてブルーインパルスのエースと称された、TACネームはスワローテールのパイロットが、まさか揚羽の父親だったとは――。気づけなかった自分も間抜けだが、それよりも運命の不思議さに驚きたくなる。しかし揚羽も揚羽だ。もう少し早く流星が自分の父親だと教えてくれれば、颯はみっともない姿を晒さずに済んだのだから。
 鬼熊3佐たちは先にブリーフィングルームに向かい、広報幹部の颯は蓮華2佐に連れられて、流星を飛行隊隊舎一階のブルーミュージアムに案内した。ミュージアム入口にはF‐86Fセイバー・T‐2・T‐4が、空を飛ぶ姿を描いた特大の絵画が飾られている。F‐86F・T‐2時代の貴重な資料、歴代のツアーパッチやガイドブックなどもすべて展示されており、ブルーインパルスの歴史を間近に感じることができるのだ。蓮華2佐の説明を聞く流星は、昔を懐かしんでいるような表情で、ミュージアムの展示物を鑑賞していた。
 ブルーミュージアムを出た三人は、階段を上がって隊舎二階に向かい、廊下を進んで鬼熊3佐たちが待っているブリーフィングルームに入った。普段行っているプリブリーフィングの様子を流星に見てもらうと、ここに来る前に颯は蓮華2佐から聞いていたのだが、思いもよらない言葉が蓮華2佐の口から放たれたのだった。
「みんなも知っていると思うが、今日のセカンドフライトは5番機の後席に燕空幕長を乗せて、洋上アクロ訓練を行うぞ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってください! 燕空幕長を乗せて飛ぶなんて、俺は一言も聞いていませんよ!?」
「おい、ファイアフライ。お前、ゲイルに言っていなかったのか?」
 黒金3佐に訊かれた黎児は瞬きしたあと、「ごめんちゃい!」と言ってぺろりと舌を出した。人を食った謝り方に、颯は黎児を一発殴りたい衝動に襲われたが、流星がいるのでここはぐっと堪えるしかない。颯は微笑む流星に肩を叩かれた。
「鷲海君。チャンバーは済んでいるから、安心してくれ」
(いやいやいやそういう話じゃないでしょう!)
 5番機の後席に乗って飛ぶつもりでいる流星に、颯は心の中でつっこんだ。
 チャンバーとは低圧訓練を含む航空生理学実習の通称で、その由来は低圧訓練装置の「チャンバー」からきている。航空生理学実習は、飛行が人体に及ぼす影響や、障害に対する対策を学ぶ。低圧訓練は低圧訓練装置の中に入り、約35000フィートと同じ気圧や低酸素症を、実際に体験する。一説には陸上自衛隊で行われる、約30キロの装備を身につけて、雪上行軍を数時間行うのと、同じだけの体力を消耗するといわれている、身体に負荷がかかる訓練なのだ。
「あの、燕空幕長、視察というのは口実で、本当は私に会うために松島にいらっしゃったのですか?」
 もしやと思った颯が尋ねると、流星は「おや」と双眸を瞬かせた。
「ばれてしまったか。秘書の佐渡は石頭でね、松島行きを許してくれなかったんだよ。松島に行かせてくれないのなら、入間からT‐4に乗って一人で松島に行く! と佐渡に言ったら、彼は渋々許してくれたというわけだ。あの時の佐渡の顔は見物だったぞ。鷲海君、君は娘の命を救ってくれた恩人だ。直接赴いて礼を言う。それが礼儀だろう?」
 颯の胸に震えが走る。憧れの人を乗せて空を飛べるのだから、断る理由なんてない。プリブリーフィングを終えた颯たちは救命装備室に向かい、救命胴衣と耐Gスーツを身に着ける。颯の予備のパイロットスーツと救命胴衣にフライトグローブ、耐Gスーツとヘルメットが流星に渡されて、颯は彼の着替えを手伝った。紺色の制服を脱いだ流星の姿態は、筋肉で引き締まっていて年齢を感じさせない。パイロットスーツに着替え、救命胴衣と耐Gスーツを着けた流星は、誰もが目を奪われてしまうほど凜々しくて格好良かった。
「馬子にも衣装とはこのことだな」
「そっ、そんなことはありません! とてもよくお似合いです! 惚れ惚れします!」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいよ。さあ、行こうか」
 まったく自分は何を言っているのだ――。言ってからすぐに颯は後悔した。18年ぶりに憧れのパイロットと再会できた喜びと興奮で、颯は些か我を忘れているのだ。こんな間抜けな姿を揚羽に見られたら、確実に馬鹿にされて笑われる。両手で頬を叩いた颯は、緩んでいた気持ちを引き締めて、先にハンガーを出た流星のあとを追いかけた。
 搭乗前の外部点検を済ませた颯は5番機に搭乗する。些か緊張しながら機付き整備員とハンドシグナルを交わし、プリタクシーチェックを終わらせた。5番機の垂直尾翼のストロボライトを点滅させた颯は、ランウェイ端の最終チェックポイントにタキシングで向かい、離陸前のエンジンスタートを完了した。F3‐IHI‐30ターボファンエンジンの高音も、スモークと燃料の匂いも、気のせいだろうか、いつもと違うように感じる。黎児が乗る4番機の次に離陸した5番機は、デルタ隊形の左側に占位して、訓練空域の金華山半島東岸沖に針路を定めた。


 キャノピーの外に広がる水色に澄んだ秋の空は、気が遠くなるほど高く晴れ上がり、薄い雲が斜めに流れ去っていく。まるで世界中の秋晴れを、全部ここに持ってきたかのような、素晴らしい秋日和である。眼下に見える海では淡い秋の陽光が踊るように輝いていた。どうしても流星に話したいことがあった颯は、インターコムを繋いで後席の彼に話しかけた。
『燕空幕長』
『なんだね?』
『あなたにお話ししたいことがあるんです。聞いてくれますか?』
『ああ、構わない』
 レギュレータから酸素マスクに送られる、航空用の酸素を吸い込んだ颯は口を開いた。
『俺、あいつの――揚羽さんの前で、あなたを人殺し呼ばわりしたんです。その時、俺は疎遠になっていた父と喧嘩して、凄く怒って苛々していた。俺はなんの関係もないあなたを出汁にして、自分の怒りや苛立ちを解消しようとしたんです。俺も目の前で母親を亡くしました。だから大切な人を失った人の気持ちを知っているはずなのに、俺はあなたの気持ちを全然考えていなかった。……俺は最低な人間です』
 果たして流星はどのような言葉を返してくるのだろうか。股間の操縦桿を握り締めた颯は唇を噛んだ。
『――君を見ていると、昔の自分を思い出すな』
『えっ?』
『私がブルーインパルスのパイロットだった頃、妻に――小鳥に酷いことをしたんだよ』
 一拍おいたあと流星は静かに語り始めた。
 それは今から29年前、流星がブルーインパルスの5番機パイロットを務めていた時のことだ。流星には心から信頼するパイロットがいた。パイロットの名前は夕城荒鷹3等空佐といい、6番機のパイロットを務めていた小鳥の父親である。当時の流星は、目の前で仲間を失った時に負った心の傷が、完全には癒えておらず、他人と常に一定の距離を置いていた。仲間との交流を断ち続ける孤独な流星に、親身になって接したのが荒鷹だった。
 浴場でいきなり背中を流されたり、休日寝ているところを叩き起こされて、無理矢理ドライブに連れ出されたり、奥さんの佐緒里に「小鳥のお婿さんだ!」と勝手に紹介されたり、流星は自由奔放な荒鷹に何度も振り回された。もちろん最初は激しく口論を繰り広げ、掴み合いの喧嘩もした。だがいつの間にか流星は荒鷹の人柄に惹かれていたのだ。そして少しずつだが、閉ざされていた心は開かれていき、流星は笑顔や喜びの感情を取り戻していった。
 航空祭で荒鷹とデュアルソロを飛ぶ。それを目標に流星はT‐4に乗り松島の空を飛んだ。TRパイロットの時には、各基地の航空祭で展示飛行のナレーションを務め、苦手なサイン会やファンとの写真撮影も頑張った。毎日の鍛錬と努力を積み重ねた流星は、最終検定フライトに無事合格して、晴れて5番機のORパイロットに昇格することができた。
 流星のアクロデビューは9月に開催される三沢基地航空祭に決まった。流星は指折り数えてアクロデビューの日を楽しみにしていた。しかし8月に開催された松島基地航空祭で、ブルーインパルスは事故を起こしてしまう。第1区分8課目サンライズのブレイクに失敗した荒鷹は、6番機に乗ったまま地上に墜落して、その命を空に散らしてしまったのだ。
 荒鷹の死は流星に大きな衝撃を与え、心の瘡蓋を引き剥がして、傷口から悲しみの血を流させた。信頼する者をまた失い、華やかな夢を奪い去られた流星は再び心を閉ざし、悲しさで胸を空っぽにしながら空を飛んだ。そして荒鷹の死から1年後、彼の娘の小鳥が第11飛行隊ブルーインパルスに着隊して、流星は6番機パイロットの彼女と、デュアルソロを飛ぶことになったのである。
『私は6番機にわざとジェット後流を浴びせたり、時には小鳥を罵って頬を叩いたりしたんだ。私は小鳥とどう向き合えばいいのか分からなかった、もしもまた置いていかれたらと思うと、彼女を信頼するのが怖かったんだよ』
 流星はそこで言葉をとめた。流星が感じている後悔と悲しみが颯にも伝わってくる。流星が喋るたびに、過去の欠片が鋭利な刃物となり、彼の心に突き刺さっているのだ。
『でも小鳥は諦めなかった。彼女は私と飛びたいという思いを真っ直ぐにぶつけてきた、私を信じると言ってくれた。真っ直ぐで純粋な小鳥の思いが、私の心を救ってくれたんだ。翼がなくても綺麗に飛べる、心に翼を持っているから自由に飛べる。心の中に翼があれば、誰だって空を飛べる。小鳥が教えてくれた大切な言葉は、1日たりとも忘れたことはないよ』
 流星の言葉が颯の胸を貫く。聖書のように静謐な言葉は、颯の心にゆっくりと沁みこんでいった。
『揚羽さんは俺に言いました。悲しい思いをして、たくさん悩んで苦しんで、傷ついてきた。だからこれ以上俺を苦しませたくない、悲しい思いをしてほしくない。俺が気持ちよく空を飛べるように、笑顔で松島に戻ってほしい。彼女はそう言ってくれたんです。真っ直ぐで純粋な揚羽さんに、俺も心を救われたんです』
 勇気と決意が泉のように湧き動く。「だから」と大きく呼吸をして、颯は溢れ出る熱い思いを言葉に変えた。
『俺は二度と空から逃げません。あなたと約束したように、青空を目指して真っ直ぐに翔け上がってみせます。流星さん、見ていてください。俺はいつか必ず、あなたを超える空自パイロットになってみせますよ』
『――生意気に言ってくれるじゃないか。それなら手始めに、君が飛ぶ空を私に見せてみろ』
『はい!』
 蓮華2佐が訓練開始を告げる。1・2・3・4番機が飛んでいくのを見やりながら、颯はスロットルレバーを押し上げた。回転数を上げた双発のターボファンエンジンが、大空の賛歌を高らかに歌う。ブルーインパルス05、クリアード・フォー・テイクオフ。超低空飛行で飛んだ5番機は一気に上昇して、ローアングル・キューバン・テイクオフで青空を翔ける。気づけば颯は流星と声を合わせて笑っていた。鱗雲が泳ぐ淡い青空が、颯の視界いっぱいに広がった。



 紫陽花色の夕焼け空が松島基地の上に広がっている。金色に輝く薔薇色の雲が夕空の真ん中を貫いていた。さながら真っ二つに割れた天の裂け目が、勢いよく燃え上がっているかのような雄大な光景だ。紺色の制服を着た揚羽は、第11飛行隊のエプロンで独り佇み、口から白い息を吐きながら、茜色に染まったブルーインパルス仕様のT‐4を観賞していた。
 ゆっくりと確かな彩りを見せて春夏秋冬季節は巡り、揚羽が第21飛行隊に着隊してから10ヶ月が経った。中間検定、そして最終検定に合格した揚羽は、この日飛行教育航空隊の教場で、戦闘機操縦課程の修了証書を授与したのだ。揚羽の修了式に立ち会ってくれた、主任教官の波川2等空佐や教官たちは、まるで自分のことのように喜んでいた。明日揚羽は松島基地を旅立つ。ブルーインパルスのT‐4を見られるのは今日が最後になる。だから揚羽は修了式が終わったあと、第11飛行隊の区画に足を運んだのだ。
「燕」
 T‐4を観賞していると揚羽は名前を呼ばれた。青年パイロットが一面茜色に染まったエプロンに立っている。オリーブグリーンのパイロットスーツの上に、救命胴衣と耐Gスーツを着た青年は颯だ。颯はこちらに歩いてくると、揚羽の正面で足を止めた。揚羽を見下ろす颯は優しく微笑んでいた。
「修了式、終わったんだな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「配属先はどこに決まったんだ?」
「築城基地の第8飛行隊です」
 九州北部に所在し、西日本の防空の要となるのが、福岡県航空自衛隊築城基地だ。対馬や壱岐島など、日本海に浮かぶ島々にも即座に駆けつけることができる。第304飛行隊が抜けたあとには、青森県三沢基地からF‐2部隊の第8飛行隊が移動してきており、築城基地は優秀な対艦・対地攻撃能力と空戦能力を兼ね備えた、F‐2ベースとなっているのだ。
「華の第8航空団に配属が決まるなんて凄いじゃないか」
 颯は喜んでくれたが、揚羽の心は曇天のように暗く沈んでいた。
「……鷲海さんと遠く離れちゃいますね」
 空に飛ばしたシャボン玉が割れた時のような、小さくて儚い声で揚羽はぽつりと呟いた。ドルフィンライダーの任期は3年。現在颯は2年目なので、あと1年松島基地に留まる。対して揚羽は福岡県築城基地の第8飛行隊に着隊して、戦闘機部隊のファイターパイロットの道を歩む。学生の時よりも厳しく過酷な訓練が、待ち受けているのは間違いない。それは颯だって同じだ。最後の3年目は展示飛行を担当しながら、後任パイロットの育成にあたることになる。揚羽が会いたいと望んでも、気軽に会えるような関係ではなくなるのだ。透明の寂しさが秋の水のように、揚羽の中を果てしなく流れていった。
「やっと鷲海さんと分かり合えたのに、離れ離れになるなんて嬉しくないです。我儘だって言われるかもしれません。でも、私はまだ松島を離れたくない、もう少しだけ鷲海さんと一緒にいたいんです。鷲海さんに話したいことがいっぱい残ってる、教えてもらいたいことだってたくさんあるの。鷲海さんと会えなくなるなんて……そんなの嫌です」
 切なさと寂しさを吐き出した揚羽は颯に視線を当てた。颯の瞳はしっとりと濡れていたが、彼は泣いていない。だが今にも泣き出しそうだった。つまり颯も揚羽と同じ気持ちを感じているのだ。一歩踏み出した颯は手を伸ばすと、揚羽の腰のあたりを横から抱くように引き寄せた。抱き締められた揚羽の、T‐4のフォルムようにしなやかに湾曲した華奢な身体は、空気の分子すら入れないほど、引き締まった颯の身体にぴったりと密着している。愛おしげに揚羽の髪を撫でる、颯の大きな手は下に滑ってくると、赤ん坊のように柔らかい彼女の頬を包み込んだ。
 長身を折った颯の端正な顔が、彗星のように近づいてくる。数秒先の未来を予知した揚羽はそっと目を閉じた。羽毛のように柔らかい感触が揚羽の唇に押し当てられた。あの時された乱暴なキスとはまるで違う。優しさと愛情に満ち溢れたキスだ。颯の揚羽を想う気持ちが、重なった唇から心に伝わってくる。美しい音楽を聴いている時のような、穏やかな快感が揚羽を包み込む。緩やかに川を流れる水の如く、時間は二人の身体を通り抜けていった。
「――好きだ、揚羽」
 重ねていた唇を離した颯が揚羽の耳元で熱く囁く。鳥籠の中の鳥が空に恋するような表情で、揚羽は颯を見上げた。
「……ずるいです」
「ずるい?」
「私が先に言おうと思っていたのに、先に言うなんてずるいです」
 揚羽が子供みたいな我儘を言うと、颯は花の蕾が咲いたように顔をほころばせた。
「じゃあ、言ってくれよ。……俺も揚羽の口から聞きたい」
「私も鷲海さんが好き、大好き。初めて会った時から、あなたに憧れているの。離れる前に、もっとあなたの側にいきたい、近づきたい。だから――」
 人差し指で唇を塞がれたので、揚羽は最後まで言えなかった。微笑む颯は「分かっている」というふうに頷いてみせる。空でハンドシグナルを交わしているように、揚羽は颯と喋らなくてもきちんと意思が伝わった。それはつまり二人の心が通じ合った証。揚羽と颯は引力に引き寄せられて固く抱き合った。颯は揚羽の身体を割れやすい硝子細工のように抱き締める。揚羽は颯の胸に頬を寄せ、彼の心臓の鼓動に耳を傾けた。エプロンに細く長く伸びる影は一つに重なり合い、演劇の幕が下りるように早く色を変えていく、清冽な冬の黄昏の中に溶けていった。


 松島基地をあとにした揚羽と颯は、夜空に浮かぶ月も星も凍えそうな、冬の道を手を繋いで歩いていた。梟の鳴き声が聞こえてきそうな静かな夜だ。硝子のように澄みきった夜空では、三つ星のオリオン座が東の空で銀色に輝いている。基地官舎に着いた揚羽は颯に続いて三階に上がり、しんと静まりかえった彼の部屋に入った。部屋に入ってからすぐに、揚羽は壁に押しつけられて、颯のキスの洗礼を受けた。
「――シャワーはどうする? 先に浴びるか?」
「……いえ、このままでいいです。鷲海さんはどうします?」
「……俺もこのままでいいよ」
 囁くように答えた颯は揚羽の身体に腕を回すと、彼女を横抱きに抱き上げた。颯はその体勢のまま廊下を進んでドアを開けると、寝室のベッドの上に揚羽を仰向けに寝かせて、キャノピーのように覆い被さった。ハニーベージュの髪を掻き分けた颯が、揚羽の額や頬、首筋に音を立ててキスを落とす。颯の股間はもう硬く張り詰めていて、擦れ合うたびに揚羽の両脚の間は熱く燃えた。
「鷲海さん」
「ん?」
「笑わないでくださいね。……その、私、初めて、なんです」
「揚羽は俺に大切な初めてをくれるんだ。……笑うわけないだろ」
「……はい」
 濃厚なキスを交わしながら情熱を高め合った揚羽と颯は、四肢を絡ませながら生まれたままの姿になった。初めてピアノの鍵盤を弾くように、揚羽と颯は時間をかけて互いの身体を愛撫する。揚羽の意識は颯の中に入っていき、肌と肌が一体になったような感覚に包まれた。颯の唇と指は連動するように動き出し、揚羽は彼の熱い体温に包まれる。大きな波に身を任せた揚羽の、まだ清らかな乙女の部分の中心は、颯を受け入れるために濡れていた。
 熱く濡れる揚羽の部分に、硬く立ち上がった颯のものが触れる。狭い入り口が開かれて、初めての揚羽を怖がらせないように、手を絡めた颯は「大丈夫だ」と囁きながら、ゆっくりと彼女の中に入ってきた。二人の心と身体は快感の波動の中に溶けていく。そして揚羽の下腹部の中心点で熱い塊が弾ける。魂を蕩かすような甘美な感覚に貫かれた揚羽は、身体を震わせながら颯の首に両腕を回してしがみついた。快楽の余韻が強くて震える揚羽の身体を、颯は唇を重ねながら優しく愛撫する。繋げていた身体を離した揚羽と颯は、一緒にシャワーを浴びてベッドに寝転び、揚羽は颯の胸に頭を乗せた。颯の洗い髪の爽やかな香りが、揚羽の鼻腔にふわりと届いた。
「……不思議ですね」
「不思議?」
「初めて出会った時、私は鷲海さんと大喧嘩したじゃないですか。それなのに、私は鷲海さんを好きになって、鷲海さんも私を好きになってくれて、こうやって愛してくれた。だから不思議だなって。出会う前の私たちが、今の私たちを見たら、きっとびっくりしますね」
 「そうだな」と笑った颯は身を起こすと、続けて起き上がった揚羽を真っ直ぐに見つめた。
「どんなに遠く離れていても、俺の心は揚羽と繋がってる。それに俺たちは同じ空を飛んでいるんだ。いつかきっと会えるさ。だからお前は夢を目指して頑張れ。お前は絶対にドルフィンライダーになる。俺が太鼓判を押してやる」
「鷲海さん――」
 言葉に詰まり、揚羽は涙を滲ませながら頷いた。自分を思ってくれる颯の言葉に、揚羽の心は光芒のような愛情で満ちていく。それは颯も同じだった。見つめ合った揚羽と颯は、手を絡めて握り合い、胸、腰、太腿をぴったり密着させて、今夜最後のキスをした。幸福感が波のように打ち寄せるのを感じながら、揚羽と颯は穏やかな気持ちで眠りに落ちる。鴛鴦のように寄り添って眠る二人を、窓から差す青白い月の光が優しく照らしていた。



 透きとおるような淡い水色の2月の空は、聖水で清められたかのような輝きで満ちている。綺麗に片付けた学生隊舎の自室を出た揚羽は、航空団司令と副司令、飛行指揮所や整備補給群に挨拶をして、C‐1輸送機に乗るため空輸ターミナルに向かっていた。C‐1輸送機は空席があれば、申請するだけで乗ることができ、言わずもがな料金は無料だ。仙台空港から民航機で飛んでいくほうが快適だと思うが、揚羽は今まで一度もC‐1輸送機に乗った経験がない。なのでこの機会に乗ってみようと思い立ったのである。
 空輸ターミナルに着いた揚羽は目を丸くする。ターミナルに駐機されていたのは、チキンレッグに似たC‐1輸送機ではなく、対艦番長のF‐2Bバイパーゼロだったのだ。垂直尾翼には黒豹の部隊マークが描かれている。間違いない。あの黒豹のF‐2Bは、揚羽が着隊する第8飛行隊が運用している機体だ。揚羽はターミナルを見回したが、揚羽が乗る予定の輸送機はどこにも駐機されていない。F‐2Bの周りに集まっているのは、第21飛行隊と第11飛行隊の隊員たちだ。揚羽に気づいた男性隊員が早足でやってくる。パイロットスーツを着た彼は颯だった。昨夜の愛の営みを思い出した揚羽は恥ずかしさを覚えたが、すぐに「おはようございます」と挨拶する。颯も恥ずかしそうに挨拶を返した。
「あの、鷲海1尉。どうして第8飛行隊のF‐2Bが停まっているんですか?」
「こっちに来たら分かるよ」
 颯に手を引かれた揚羽はF‐2Bの前に案内された。揚羽は再び驚きで目を丸くする。F‐2Bの前に立っていたのは、数日前から基地を留守にしていた、遠藤龍二3等空佐だったのだ。遠藤3佐はパイロットスーツと救命胴衣、耐Gスーツを着ていた。とすると彼が黒豹のF‐2Bを操縦してきたのだろうか。目を白黒させて驚く揚羽を見た遠藤3佐は、愉快そうに口角を吊り上げた。
「久しぶりだな、スワローガール。さっさと後ろに乗れ。俺が築城まで連れていってやる」
「えっ? でも、私は輸送機で行くつもりなんですけれど……。それに遠藤3佐って、21飛行隊の教官なんじゃ――」
「俺はもうお前の担当教官じゃない、第8飛行隊のファイターパイロットだ。お前のお守りから解放されたと思ったら、よりにもよって築城基地に配属が決まるとはな。まったくこれから先が思いやられるぜ」
 「それはこっちの台詞だ」と揚羽が反駁しようとしたその時だ。なんと遠藤3佐は豪快に破顔一笑したのである。地獄の閻魔大王と恐れられる鬼教官の、まさかの笑顔に面食らった揚羽の頭を、遠藤3佐の大きな手がぐしゃぐしゃに掻き回す。いつの間にか揚羽も遠藤3佐と一緒に笑っていた。信じられないかもしれないが、遠藤3佐は笑うとなかなか魅力的だ。不意に揚羽と遠藤3佐の間に誰かが割り込んでくる。二人の間に割り込んできたのは、全身から冷たい殺気をみなぎらせた仏頂面の颯だった。
「すみません、遠藤3佐。俺の彼女に馴れ馴れしくしないでもらえませんか?」
「なんだと? おい、イルカ野郎、今なんて――」
 颯は電光石火の速さで揚羽を抱き寄せると、衆人環視の前で彼女の唇を奪った。熱烈なキスに揚羽の身体は甘く痺れる。まさかのキスシーンに、遠藤3佐と集まった隊員たちはびっくり仰天していたが、すぐに万雷の拍手喝采で二人を祝福してくれた。重ねていた唇を離した颯は、揚羽にだけ聞こえる声で、流暢な英語を喋った。
「First Look, First Shot, First Kill」
「どういう意味ですか?」
「敵よりも先に発見して、先に撃ち、先に撃墜する。俺は絶対に逃がさないし外さない。だから揚羽は俺のものだ。……絶対に誰にも渡さないからな」
 颯に撃墜宣言されてしまった揚羽の顔は、耳まで紅葉のように真っ赤に染まった。最後に揚羽の頬に軽く口づけた颯は、隊員たちにからかわれてもみくちゃにされながら、後ろに下がっていった。波川2佐、蓮華2佐、鬼熊3佐の三人が揚羽の肩を叩き、黎児は満面の笑顔で彼女を抱き締めたが、直後颯に臀部を蹴飛ばされた。瑠璃と晴登は力強く握手をしてくれて、三舟1曹は「頑張れよ!」と親指を立てる。花菜は泣きながらも頑張って微笑んでくれた。
 遠藤3佐に促された揚羽は、機体左側の梯子を上がって後席に座る。F‐2Bのコクピットに座った瞬間、揚羽は気持ちが凜と引き締まるのを感じた。これから先、自分が手にするであろう未知の時間に、揚羽の心は熱く高鳴る。細い山道を懸命に登ったら、突然視野が明るく開けて、眼下に美しい風景が現れるような、そんな目の覚めるような一瞬に出合えるかもしれないのだ。
 エンジンが脈動を始めてF‐2Bのキャノピーが閉じた。チョークアウトしたF‐2Bが、ゆっくりと方向転換する。周囲を見やった揚羽は目を見張った。エプロンに集まった全員が揚羽に敬礼していたのだ。たった一人の旅立ちを見送るために、こんなにたくさんの人が集まってくれている。同じ空を目指し、命と心を預け合った仲間への、感謝の気持ちで涙ぐみながら、揚羽も敬礼を返した。
 誘導路から滑走路に進入したF‐2Bが走り出す。周囲の景色が明瞭さを失い、色の洪水となって後背に流れていく。もうみんなの――颯の姿は見えない。寂しさが胸を噛んだが、揚羽は颯の言葉を思い出した。どんなに遠く離れていても、揚羽と颯の心は繋がっている。だから夢を目指して頑張れと颯は言ってくれた。胸に宿った颯の言葉が夢の翼となり、揚羽を空に導いてくれるだろう。轟音を響かせたF‐2Bがハイレートクライムで飛翔する。希望の青に染まった大空が、揚羽の視界いっぱいに広がった。