第4章 狂雲騒ぐ

 南から順番に梅雨が終わり、日本列島はいよいよ本格的な夏を迎えていた。いかにも夏らしく澄みわたった空の色はトルコ石のようで、真っ白な入道雲が沸き立っている。胃の腑まで打つ爆音を響かせながら、両翼端からベイパーを曳いて、二機のF‐2B戦闘機が高速で空を飛び回っていた。第21飛行隊の学生パイロットの燕揚羽1等空曹と、彼女の訓練相手の遠藤3佐が乗るF‐2Bだ。二機のF‐2Bは互いの後ろにつこうと、円を描くように旋回している。犬が相手の尻尾を追いかけ合う姿に似ていることから、戦闘機同士の近接格闘戦は「ドッグファイト」と言われるようになったのだ。
 ドッグファイトはただやみくもに相手を追いかけるだけではない。第一次世界大戦以降、長い間に培われてきたさまざまなセオリーがあり、相手の背後に回るための戦術や、効率的な機動方法がある。旋回率やエンジンレスポンスなど、機体の性能差も重要な要素だが、相手との位置関係、速度と高度などの物理的エネルギーを利用して優位に進めるのが基本。ドッグファイトの主導権をとれば、相手にプレッシャーをかけ続けてミスを誘える。その一瞬のミスで相手を撃墜することができるのだ。
(逃がさないんだからっ!)
 揚羽は巴戦から離脱したF‐2Bを追いかける。するとF‐2Bは揚羽の進行方向に向かって鋭く旋回した。防御側が最初にとる基本機動ブレイク。不意を突かれた揚羽は遠藤3佐が乗るF‐2Bを追い越してしまう。揚羽に有利だった戦況は一瞬で不利に変わってしまった。だが揚羽の闘志は決して折れない。揚羽は旋回や方向転換で、位置関係を逆転させることを試みた。
 高度15000フィートを確保。アフターバーナーを使用しない速度350ノットのミリタリー推力で、左にハーフロールを打ち機体を背面姿勢にした。揚羽は真っ直ぐ操縦桿を引いて6Gを維持しながら垂直降下する。揚羽が繰り出した機動は「スプリットS」と言い、機首方位を素早く180度反転させる際に最適な機動だ。
 スプリットSで逆の方向に逃げた揚羽を見た遠藤3佐は、いったん上昇反転して速度を落としてから、彼女を追いかけてきた。揚羽は基本機動のブレイクで遠藤3佐のオーバーシュートを狙う。遠藤3佐は揚羽を追い越したように見えた。だが遠藤3佐は旋回方向の外側で複数回横転すると、速度を落とさずに方向を変えて、再び揚羽の後方に占位したのだ。揚羽はもう一度ブレイクを繰り出したが、降下反転して速度を上げ、一気に上昇してきた遠藤3佐に簡単に背後をとられてしまった。
 背後を取られて焦る揚羽に追い打ちをかけるように、ミサイル接近警報装置の悲鳴が耳に鳴り響く。後方からのミサイル発射炎の放射する、赤外線と紫外線を捉えたのだ。揚羽は即座に回避機動をとる。だが間に合わない。耳障りなミサイル接近警報装置の音は、勝ち誇ったように音量を増して、揚羽の思考を飲み込み押し流した。ややあって揚羽は「スプラッシュ、ワン!」と、遠藤3佐に撃墜宣言される。ヘルメットイヤフォンに帰投の指示が届けられた。事務的な内容に意識が引き戻される。状況終了、揚羽は遠藤3佐に敗北したのだ。
 帰投した松島基地の第21飛行隊隊舎のブリーフィングルームで、揚羽のフライト後の振り返りと評価・反省をするデブリーフィングは開かれた。ミーティングテーブルの上にビニールシートが敷かれ、シートの上に機動図を書くためのグリスペンが用意されているのは、教官と学生パイロットが差し向かいで打ち合わせや反省をするためだ。ビニールシートの表面には今日の機動図が描かれており、両者入り乱れた機動図はさながら蜘蛛の巣を思わせる。両腕を組んで黙している遠藤3佐は、あたかも鞘から抜き放たれる寸前の刀のような、いつ斬り伏せられるのか分からない、一瞬たりとも気の抜けない雰囲気を漂わせている。続く沈黙が揚羽の不安を増幅させた。
「遠藤3佐。私のどこが悪かったのか言ってください。でないと改善のしようがありません」
 勇気を出した揚羽が問うと、遠藤3佐はようやく開口した。
「機体のパワーに任せて無駄な動きが多いしロールの精度も低い。お前は右ロールを起点に防御機動に入るから、それじゃあすぐに手の内を読まれるだろうな。あと馬鹿の一つ覚えみたいにブレイクを連発するな。防御機動はブレイクだけじゃない。シザースやインメルマンターンもあるんだから状況を見て使い分けろ。臨機応変にならないとファイターパイロットは務まらんぞ。分かったか?」
「……はい」
 容赦の欠片もない言葉の集中砲火に、ぐうの音も出ず揚羽は俯いた。航空機の運航では常に多くの要素に注意を払う必要がある。例えば故障が発生した場合、その回復だけに注意を集中してしまうと、航空機は墜落してしまう。それに複数の敵機を同時に相手することもあるので、一点集中型ではなく注意分散型の性格のほうが、パイロットに適しているのだ。
「――だが前より操縦はよくなっていたぞ」
「えっ?」
 予想外の言葉が耳朶を打つ。揚羽が顔を上げると同時に遠藤3佐は席を立ち、「デブリは終わりだ」と言ってブリーフィングルームを出て行った。学生たちから閻魔大王と恐れられる遠藤3佐が、なんと揚羽の操縦技術がよくなったと褒めてくれた。それに普段は鋭い双眸もどことなく優しく細められていたような気がする。あたかも耳元で大砲を撃たれた時のような驚きだ。驚きはやがて喜びに変わる。喜びは絶え間なく心の底から溢れ、揚羽の心と身体をいっぱいに満たした。
 この喜びを颯に伝えたい、遠藤3佐に褒められたと自慢したい。第21飛行隊隊舎を飛び出した揚羽は、第11飛行隊隊舎に向かったのだが、エプロンに着くと同時に足を止めた。閑散としたエプロンにT‐4は駐機されていない。覗いてみたハンガーもがらんどうだ。いつも一番に声をかけてくれる三舟1等空曹もいなかった。揚羽は思い出した。颯たち第11飛行隊ブルーインパルスは、航空祭に参加するため松島基地を旅立ち、今は北海道の千歳基地に展開しているのだ。
(鷲海さん、元気にしてるかな……)
 寂しさが一筋の飛行機雲のように心を通り抜けるのを感じながら、揚羽はからりと晴れた夏空を見上げると、最北の基地にいる颯に思いを馳せた。


 揚羽に思われていることを知らない颯は、松島基地から遠く離れた北海道航空自衛隊千歳基地にいた。
 千歳基地は北海道の中心都市札幌市の南方約45キロに位置する、航空自衛隊唯一の平行ランウェイを持つ基地だ。以前は民間と共同使用だったが、東側隣接地に新千歳空港が開港したので、自衛隊専用飛行場となった。配備部隊は第201飛行隊と掩体運用の第203飛行隊の、2個戦闘機部隊から成る第2航空団、特別航空輸送隊、千歳救難隊の4個飛行隊。基地の北西に実弾訓練が行われる島松実弾演習場があり、そのため全国の空自戦闘機部隊が移動訓練に飛来するほか、日米共同訓練などの各種演習の部隊ともなる。
 千歳基地航空祭は例年8月上旬の日曜日に開催されることが多い。航空祭では第201・203の2個飛行隊配備の、F‐15イーグルによる編隊飛行と機動飛行、千歳救難隊のU‐125A、UH‐60Jによる救難飛行がメインで、年によっては三沢基地のF‐2による模擬対地射爆撃や、アメリカ空軍F‐16によるデモフライトも行われる。出店では北海道名産の焼きとうもろこしやザンギなど、北海道名物が味わえる。言わずもがな展示飛行のフィナーレを飾るのは、第11飛行隊ブルーインパルスの爽快な展示飛行だ。
 航空祭の目玉といえば、急旋回や急上昇を行う機動飛行だろう。千歳基地では機動飛行を行う際に、隣接する新千歳空港を離着陸する民間機を止めて行うため、時間が短く回数も少なく感じられるが、そのぶんフライトの中身は濃く機動も切れがあって鋭い。なかでも三沢基地から飛来してきたアメリカ空軍のデモチーム、F‐16のハイレートクライムは迫力があり、虹色に輝くベイパーが北海道の空に映えていた。
 航空祭では飛んでいる航空機に注目が集まりがちだが地上展示も見逃せない。千歳基地の第201飛行隊の部隊マークをモチーフに、機首と尾翼に力強い羆が描かれた、スペシャルマーキングのF‐15Jイーグル。ミサイルの先端が飛び出しているような展示がなされた、地対空誘導弾ペトリオットミサイル。装備品展示で一番人気なのがコクピットの展示だ。今回はF‐15の操縦席を見ることができ、長蛇の列となっていた。地上展示と装備品展示の他には隊員の音楽演奏があったりと、フライトがない時間帯も来場者たちは楽しんでいた。
「航空祭を終えて松島に戻ったら、俺は揚羽ちゃんに告白します!!」
 サインと握手会を終えたあとの、本番前のプリブリーフィングの時間。揚羽に告白すると勢いよく宣言したのは、4番機パイロットの蛍木黎児1等空尉だった。颯たちはボントンロールのように同じタイミングで黎児に視線を向ける。拳を握り締めて真一文字に唇を引き結ぶ、黎児の瞳の奥には消化器を吹きかけても消えないであろう、強い決意の炎が燃えていた。
「ファイアフライ、確か前も同じようなことを言ったよな。あの時は……飛行管理員の村本2尉だったか? 告白して数秒でフラれたんだったよな」
 と黎児の決意に水を差したのは、2番機パイロットの黒金大悟3等空佐だ。鍛え抜かれた頑強な体躯。褐色に日焼けした坊主頭と太く濃い眉毛。だが屈強な外見には不釣り合いな、つぶらで澄んだ目をしている。海外ドラマの登場人物に似ていることから、「デレク」のTACネームがつけられたのである。水を差した声は低く甘い。褐色に焼けた肌と甘い低音の声は、なんだか洋菓子のブッシュ・ド・ノエルを連想してしまう。茶化された黎児は肉感的な唇を尖らせて抗弁した。
「ちょっとデレクさん! 今度は本気ですよ! 気合い入れて飛びますから、見ててください!」
「気合いを入れて飛んでくれるのは嬉しいが、レター・エイトで合流する時に、勢い余って突っ込まないようにな」
 蓮華2佐の軽口にどっと笑いが起こる。「復唱よろしく」と蓮華2佐が全員に呼びかけると、晴れやかな笑い声で満ちていた室内は一気に静かになった。颯たちはミーティングテーブルの上に右手を突き出して、T‐4に乗って空を飛ぶ自分の姿を脳裡に思い描く。これは全員の呼吸を合わせるために毎日行っている、いわば仕来りのようなものだ。飛行隊長の最後のコールに合わせて、全員が一斉に操縦桿を握る右手首を倒すのである。
「ワン、スモーク。スモーク。ボントン・ロール。ワン、スモーク。ボントン・ロール。スモーク。ナウ! (スモークをオン。スモークをオフ。ボントン・ロールの隊形に開け。スモークをオン。ボントン・ロール用意。スモークをオフ。ロールせよ!)」
 蓮華2佐に続いてボントンロールのコールを復唱、最後の「ナウ!」の掛け声に合わせて、颯たちは操縦桿を握る右手首を倒す。気持ちがいいくらい全員の動きはぴったり合っていた。これが本番だったら間違いなく、万雷の拍手喝采を浴びるボントンロールだろう。完璧な仕上がりに満足した蓮華2佐たちが退室していくなか、席を立った颯は先にブリーフィングルームを出ようとしていた黎児を呼び止めた。
「お前、本気で燕に告白するつもりなのか?」
 颯がやや強い声音で問うと、黎児は睨みつけるほど真剣な眼差しで見返してきた。
「颯、お前の飛行技術はブルーの中で一番だって俺は思っているし、俺は航学の時からお前を尊敬しているよ。でも俺は本気で揚羽ちゃんに惚れているんだ。だから揚羽ちゃんのことだけは絶対に譲れない。お前がなんと言おうと、俺は揚羽ちゃんに想いを伝えるからな」
 垂れ目がちな黎児の目尻は上がって引き締まった顔つきになっていた。――こんなに真剣な黎児は今まで一度も見たことがない。颯と黎児は航学からの付き合いである。その頃から黎児は尻の軽いプレイボーイで、星の数ほどの女の子を口説いては泣かせていた。そんな黎児が「本気で告白する」と真剣に宣言した、一人の女性に――あの揚羽に本気で惚れていると颯に言ってきた。颯を見据える黎児の双眸に湛えられているのは、冷えて凝固した鉄の塊の如き強固な意志。鉄の意志を見せつけられた颯は言葉も出せない。そして黎児は無言の颯を一瞥すると、彼を残してブリーフィングルームから出て行った。
 黎児は颯が友人と呼べる数少ない一人だ。真剣に恋する黎児に応援の言葉をかけられたであろうに、なぜだか颯はそれができなかった。いくら言葉を重ねても言葉にならない焦燥感が、心をぎりぎりと軋ませるのを感じながら、颯は案山子のように棒立ちしていたのだった。



 揚羽が首を伸ばして見上げている、澄みきって滑らかな玻璃のような青空を、二つの編隊に分かれた七機の航空機が飛んでくる。青空に綺麗に映える青と白のツートンカラーの航空機は、「ドルフィン」の愛称で親しまれているT‐4中等練習機だ。360度のオーバーヘッドアプローチで旋回した七機は、ワイドなダイレクト・ダウンウインドに入り、松島基地のランウェイ25に着陸した。さすがは空自が世界に誇るアクロバットチーム。一糸乱れぬ編隊飛行はいつ見ても舌を巻く思いだ。一列に並んだT‐4が誘導路からエプロンに進入してきた。決められた駐機場所で停止して、エンジンをカットオフしたT‐4のキャノピーが開き、コクピットからドルフィンライダーたちが降りてくる。二週間ぶりとなる再会の喜びに胸を躍らせながら、地面を蹴った揚羽は5番機の前にいる颯のところに駆けていった。
「鷲海さん、お帰りなさい! 航空祭はどうでしたか? 展示飛行はうまく飛べましたか? 聞いてください! 私、あの遠藤3佐に褒められたんです!」
 動物園でパンダを見た子供のように目を輝かせて興奮しながら、颯を見上げた揚羽は矢継ぎ早に話題を振った。「凄いじゃないか」とか「頑張ったな」とか、笑顔の颯に褒めてもらえると思っていた揚羽だが、見上げる彼の表情に変化は起こっておらず、それどころかあたかも鉄の仮面を被っているかのように無表情だった。
「鷲海さん……? 千歳で何かあったんですか?」
「……帰ってきたばかりで疲れてるんだ。話があるならまた今度にしてくれ」
 そう言った颯は視線を逸らすと、揚羽から逃げるようにハンガーの中に入っていった。
「颯のことが心配みたいだね」
 颯の様子に不安を覚える揚羽に声をかけたのは、4番機のドルフィンライダーの蛍木黎児1等空尉だった。無表情だった颯とは対照的に、爽やかで快活な笑顔を満面に浮かべている。
「あいつなら大丈夫。展示飛行はかなりハードだからね。飯食って風呂に入って一晩寝たら元気になるよ」
「……そうですよね、明日また会いにいってみます。あっ! 蛍木1尉もお疲れなんですよね? 引き留めちゃってすみません!」
「俺は元気いっぱいだから大丈夫。それより今度の土曜日、空いてるかな。近くの神社で夏祭りがあるんだけれど……よかったら一緒に行かない?」
「鷲海さんもお誘いしたらどうですか? きっといい気分転換になるかと思いますよ」
 揚羽の提案を聞いた黎児は、腹痛でも起こしたように顔を歪めたように見えた。
「そうだね。じゃあ颯には俺から話しておくよ。土曜日の午後6時に、境内の入口に集合ということでいいかな」
 待ち合わせを約束して揚羽は黎児と別れた。少し化粧をしてお洒落をしていこう。初めてのデートが決まった女の子のように、揚羽の心は慎ましやかな幸福感で満ちていた。そしてこの夏祭りの誘いが、颯との関係に大きな波紋が広がる引き金になることを、当然ながら揚羽は知らずにいた。


 真夏の夜の闇に祭り囃子が鳴り響く。シフォンリボンがついたホルターネックのブラウスと、キャラメルブラウンのキュロットスカートに着替えて、アンクルストラップのサンダルを履いた揚羽は、浴衣姿で通り過ぎていく人たちを見送りながら、神社の境内で黎児と颯が来るのを待っていた。少し前に届いたメールによると、事務作業を終えて現在こちらに急行しているらしい。石段を上がってすぐの所で待っていると返信して、揚羽は二人が来るのを待った。
 しばらく待っていると、一人の青年が急いでいる様子で石段を駆け上がってきた。カーキ色で半袖のミリタリージャケットとカーゴパンツ、白地に赤い紐のスニーカーを履いている。スパイラルと平巻きのミックスパーマがかかったようになっている、ミルクティーベージュの髪をした青年は、揚羽と待ち合わせを約束した黎児だ。一段飛ばしで石段を制覇した黎児は、迷わず揚羽のところに急ぎ足でやってきた。息切れ一つしていないのは、日頃の鍛錬の賜物だと言えよう。だが一緒に来ると言っていた颯の姿はなかった。
「鷲海さんは一緒じゃないんですか?」
「ごめんね、揚羽ちゃん。あいつさ、急に熱を出して寝込んじゃってね。来られなくなったんだよ」
「そうですか……。残念ですね」
「食べたい物があったらなんでも奢るからさ、だから元気出してよ。来られなかった颯のぶんまで楽しもうぜ!」
 黎児に手を引かれた揚羽は、祭りで賑わう境内に足を踏み入れた。焼きそばとたこ焼き、綿菓子にフランクフルトなどを販売するテントが、境内の両側に一列に並んでいる。夏祭りの出店は食べ物だけではない。射的や輪投げに金魚すくいなど、遊戯目的の出店も境内に並んでいた。揚羽は夏祭りを楽しんでいたが、しかし彼女の意識の一部は、ここにいない颯に向けられていた。微熱なのかそれとも高熱なのか。食事はきちんと食べられたのか。お腹を壊してはいないだろうか。次から次へと心配事が湧いてくる。どうやら無意識のうちに表情が暗くなっていたらしく、揚羽の様子を心配した黎児が顔を傾けて覗き込んできた。
「もしかして疲れちゃった?」
「えっ? ええ、少し歩き疲れちゃったみたいです」
「それじゃあ向こうに行って休憩しようか」
 黎児に連れられた揚羽は、境内を離れて二つ目の石段を上がり、左右に竹林が生い茂る場所に向かい、置かれていた木製のベンチに腰掛けた。ベンチに揚羽を座らせた黎児は、自販機で飲み物を買ってくるといい場を離れていった。揚羽は鞄からスマートフォンを出してメール機能を起動させた。颯のメールアドレスと簡単な文章を打ち込む。揚羽は送信の表示画面を叩こうとしたが、もしかしたら颯は官舎の自室でぐっすり眠っているかもしれない。であればメールを送るのはやめておいたほうがいいだろう。作成途中のメールを破棄してスマートフォンを鞄に戻す。しばらくすると飲み物を買いにいっていた黎児が戻ってきた。
「揚羽ちゃんはアップルジュースでいいかな」
「はい。ありがとうございます」
 揚羽にアップルジュースを渡した黎児が隣に座る。植物の匂いを含んだ爽やかな風が、葉擦れの音を奏でながら吹き抜けていく。活気溢れる境内から遠く離れているので、辺り一帯はとても静かだ。風が奏でる葉擦れの歌を聴きながらジュースを飲む。コーラを飲んで喉の渇きを潤した黎児が揚羽に話しかけた。
「揚羽ちゃんって憧れている人とかいるの?」
「ええ、いますよ。以前ブルーインパルスに在籍していた、5番機パイロットの人です。私、その人に憧れて、空自パイロットになって、ドルフィンライダーになろうって決心したんです。蛍木1尉も憧れの人がいるんですか?」
「俺は伯父さんの光陽さんに憧れて、空自パイロットを目指したんだけれど、実はもう一人憧れている人がいるんだ」
 黎児が憧れるもう一人は名前を鷹瀬真由人といい、その彼は30代の若さで、空自最強の戦闘機部隊と言われる、飛行教導群アグレッサーの教導隊長を務めていた。おまけに真由人は306飛行隊にいた時に、「Combat Readiness」の資格がないと参加できない戦技競技会に、「Alert Readiness」の資格でありながら参加を許されて部隊を勝利に導いた。そんな輝かしい経歴を持つパイロットに、黎児が憧れを抱くのも当然だ。
「俺が鷹瀬さんに憧れるのはそれだけじゃないんだよ。実は俺の家は母子家庭でさ、母さんは離婚してからずっと、女手一つで俺を育ててくれたんだ。もう20年は昔になるかな。母さんと一緒に、光陽さんに会いに小松にいった時、鷹瀬さんと話す機会があってね。彼も母子家庭で育って、育ててくれた母親を守りたいから、ファイターパイロットになったって聞いたんだ。その時の鷹瀬さんの姿が凄く凜々しくて、一瞬で憧れの人になったんだ。だから俺は航空自衛隊のファイターパイロットを目指した。強くなって母さんを守るために」
 話し終えた黎児が揚羽のほうを向く。揚羽を見つめる黎児の顔は、強い決意を秘めているのだと言わんばかりの、真剣な表情に変わっていた。
「揚羽ちゃんだって……そうなんだろ?」
「えっ……?」
「揚羽ちゃんが憧れている人はもう一人いる。でもそれは憧れじゃない、君はそいつのことが――颯のことが好きなんだ」
「ちっ、違います! 鷲海さんのことなんか別に――」
 反論しようとした瞬間、黎児が動いた。黎児に腕を掴まれた揚羽は、シーソーのように引き寄せられて、事態を認識する暇もなく、彼の胸にしっかりと抱かれていたのだ。服の下に収まっている黎児の胸は、まるで内側に炎を宿しているかのように熱かった。
「……俺、揚羽ちゃんのことが好きなんだ。こんな真剣になる恋なんて、今までしたことがないよ。だから君を颯になんか渡したくない。いいや、絶対に渡さない。颯を好きにならなくていい、揚羽ちゃんは俺だけを好きになったらいいんだ」
 抑圧を突き破った揚羽への恋慕の情が、黎児の二つの瞳を燃え上がらせている。告白された衝撃で動けない揚羽に、黎児は端正な顔を近づけてきた。今から黎児が行おうとしていることは理解できた。黎児に唇を奪われたくないのに、だが揚羽の身体は動こうとしない。あと数センチの距離で、黎児の唇が揚羽の唇に重なろうとしたその時、揚羽はようやく身体の自由を取り戻して動くことができた。黎児を押し返した揚羽は逃げるように駆け出した。
「揚羽ちゃん!」
 揚羽を呼ばわったものの、黎児は後を追いかけてこなかった。飛ぶように石段を駆け下りた揚羽は、そのまま雑踏の中を走り続ける。前後不覚の状態で走っていたので、揚羽は前から歩いてきた男性の胸に、速度を落とせず顔面からぶつかってしまった。一言謝ろうと顔を上げた揚羽は瞠目する。揚羽がぶつかったのは、胸元が大きく開いたVネックの半袖シャツを着て、黒色のダメージジーンズを穿いた青年。なんと彼は熱を出して寝込んでいるはずの颯だったのだ。
「鷲海……さん? どうしてここにいるんですか?」
「……帰るぞ」
「えっ? 帰るって――」
 いきなり颯に手首を掴まれた揚羽は、半ば引き摺られるように、夏祭りの会場から連れ出された。揚羽の手を掴んで放さず、黙々と前方を歩く颯の広い背中には、抑えきれない怒りが漲っているように見える。話しかけたほうがいいと思うのに言葉が出てこない。不意に踏みしめる地面の感触が柔らかくなる。陸地が途切れて広大な水平線が目の前に広がった。いつの間にか揚羽は石巻湾を一望できる海岸にいた。砂浜と海の境界が混ざり合い、一面闇の絨毯といった光景だ。今まで揚羽の手を掴んでいた颯の手が離れる。海風に髪を揺らした颯が振り向いた。
「熱を出して寝込んでいるって蛍木1尉から聞きました。熱は下がったんですか?」
「それは黎児の嘘だ。俺は熱なんか出しちゃいねぇよ」
「嘘? 蛍木1尉はどうして嘘なんてついたんですか?」
 揚羽が聞き返すと颯は呆れ果てたような表情になった。
「お前はどれだけ馬鹿なんだ? 呆れ果てて物も言えないぜ。お前のことだから、食べ物に釣られてのこのこついていって、人気のない場所で襲われそうになったんだろ? 少しは警戒心を持ったらどうなんだよ。黎児も黎児だぜ。こんな色気のないガキを好きになるなんて、あいつも趣味が悪いな」
「――っ! 鷲海さんには関係ないじゃないですか! 私のことが好きじゃないんだから、いちいち偉そうに口出ししないでください!」
 瞬間砂浜を蹴った颯が動く。まるで瞬間移動したかのような素早い動きだった。揚羽は背後に建つ防波堤の壁に押しつけられた。片手を壁に当てた颯が影のように覆い被さってくる。颯の手に顎を掴まれた揚羽は、強引に顔を上げさせられた。唇に柔らかい感触が押し当てられて、揚羽は限界まで両目を見開く。それは逃げる隙も与えないほどの突然のキス。そして心のこもっていない乱暴なキスでもあった。身の危険を感じた揚羽は颯の胸を押す。だが揚羽を抱き締める、筋肉で引き締まった細身の身体は、ぴくりとも動かなかった。
「鷲海さんっ……やめてっ……んんっ……はぁっ……」
 熱い吐息と一緒に甘い声が漏れる。揚羽の全身の血流は沸騰して下腹が熱くなった。冷たいと思っていた颯の唇は、温かくて柔らかく、吸盤のように吸いついて離れない。今すぐこの行為をやめてほしいと願っているのに、なぜか身体は甘い快楽を求めている。相反する二つの思考が、頭の中で溶けて混じり合う。だが湧き上がった恐怖と羞恥心が、身体を麻痺させている快楽を断ち切り揚羽を動かした。
「やっ、やめてください!!」
 なんとか唇を離して声を出せた揚羽は、颯の胸に両手を突っぱねて彼を突き飛ばした。揚羽は呼吸を乱しながら、颯を上目遣いに凝視する。
「いっ、いきなりキスするなんて!! いったい何を考えているんですか!?」
 どうしようもなく腹が立ってたまらない。揚羽の一声は抑えきれない怒りで震えていた。
「ああ、そうだ!! 俺はお前のことなんか好きじゃねぇよ!! 好きじゃないのに、どうして胸が苦しくなるんだ!? どうして腸が煮えくり返りそうな気持ちになるんだ!?」
 颯の喉から迸った叫びは、無限に広がる宵闇に吸い込まれていく。混ぜてしまった絵の具を元の色に戻せないように、颯は混ざり合った感情を分離できず苦しんでいるように見える。嫉妬、怒り、悲しみが渾然一体となり、颯の心の中を吹き荒れているのだ。さらに猫の目のような切れ長の眦は微かに震えていた。
「揚羽ちゃん!」
 颯のものではない声が響き渡る。道路から海岸に続く坂の上に、呼吸を乱した青年が立っていた。明るい髪色の青年は黎児だ。神社の境内からここまで、揚羽を追いかけてきたに違いないだろう。眼下の砂浜に立つ揚羽と颯を、交互に見やった黎児の表情が険しく変わる。どうやら黎児は見ただけで、自分が来る前に二人の間で何が起こったのかを、瞬時に理解したようだった。黎児は砂浜に飛び下りると颯に掴みかかった。
「このクソ野郎!! よくも揚羽ちゃんを傷つけやがったな!! 彼女のことが好きなら告白したらいいじゃないか!!」
 颯の顔に彫像のように固く青ざめた冷酷な笑みが浮かぶ。俺には関係ないといったような冷淡な表情になった颯は、喉の奥で低く笑うと唇を開いた。
「……俺があいつを好きだって? 寝言は寝てから言えよ。あんな女、好きでもなんでもないね。あいつが欲しいなら、喜んでお前にくれてやるさ。キスするなり抱くなり好きにすればいいだろ」
 揚羽の気持ちなどまるきり斟酌していない、颯の言葉に黎児が憤慨した。怒りで握り締められた黎児の拳が颯の顔を殴る。問答無用で顔面を殴られて、砂浜に倒れ込んだ颯の上に、黎児は馬乗りになった。馬乗りになった黎児は颯を殴るのをやめようとしない。突然の暴力なのに颯は反撃の意思を見せようとしなかった。恐ろしい光景に身が竦んだ揚羽は一歩も動けなかった。
「ああ、そうだな! 過去を引き摺っている弱虫のお前よりも、俺のほうが揚羽ちゃんを幸せにできるしな!」
 冷たい顔の肌の下に浮かんでいた冷笑は消えた。額に青筋を張らせて目尻を吊り上げ、唇をひん曲げた颯は大変な剣幕で、切れ長の双眸に怒りを込めて黎児を睨みつけた。
「――お前に俺の何が分かるんだよ!!」
 勢いよく上半身を起こした颯が黎児の顔面に頭突きを食らわした。鼻柱に一撃を食らった黎児は後ろによろめいたが、両足を踏ん張って体勢を立て直すと、頭突きの倍返しだと言わんばかりに颯の顔を殴りつけた。飛び散った鮮血が砂浜を赤く染める。さながらドッグファイトのように、黎児と颯は組んずほぐれつになりながら、攻撃と反撃を繰り返した。拮抗していた戦いは唐突に終わりを迎える。黎児の渾身の一撃が颯の腹に炸裂したのだ。腹部に強烈な一撃を食らった颯は、激しく咳き込みながら、背中を丸めて蹲った。蹲って咳き込む颯を黎児が引き摺り起こす。振り上げられた黎児の拳は真っ直ぐ颯の顔に向けられていた。
「やめてっ!!」
 揚羽は躓きそうになりながらも走り、今にも颯を殴ろうと構える黎児の背中にしがみつく。松明のように高く上げられていた拳を下ろした黎児が、肩越しに揚羽のほうを振り向いた。
「もう……もう……やめてください……お願いです……」
 鳥籠に捕らわれた鳥のように身体と声を震わせながら、揚羽は黎児に懇願した。鼓膜が痛くなりそうな静寂が辺りを包み込む。
「――行こう、揚羽ちゃん」
「えっ……? でも、鷲海さんが――」
「あんな最低な奴、放っておけばいいんだ」
 助ける価値もないというふうに、黎児は凍てついた視線で颯を一瞥した。颯はこちらを見ようともせず、座り込んだまま身動きひとつしない。あたかも身体の動かし方を忘れてしまったようである。黎児に手を引かれた揚羽は、後ろ髪を引かれる思いで砂浜を後にした。不意に喉の奥が痛くなり、左右の眦も熱くなる。――いつの間にか揚羽は泣いていたのだ。揚羽の涙を見た黎児は当然ながら驚いていた。
「揚羽ちゃん……」
「ごめっ……ごめんなさいっ……私の……私のせいで……」
 嗚咽が言葉を途切れさせた。颯と黎児が衝突した原因が自分だということは分かっている。だが揚羽はそれを認めるのが怖かった。身体を折って両手の中に顔を埋めた揚羽は、硝子玉のような双眸から万斛の涙を落とした。双眸を焼く涙は熱いのに、頬を伝わって落ちていく時はとても冷たい。汲んでも尽きない井戸のように、目に涙を溢れさせて泣き続ける揚羽を、胸に抱き締める勇気が出ないのか、黎児は悲痛の色を被せた面持ちで彼女を見つめていた。



 油蝉がやかましく鳴く蒸し暑い夏の午後。夏の強い日差しを浴びた植物は燃えるように青い。夏祭りの日から数日が経ったが、松島基地はいたって平穏そのものだ。第11飛行隊で隊員同士の悶着が起こった様子もなく、洋上アクロ訓練と飛行場訓練も普通に行われていた。颯と黎児が殴り合いの喧嘩を繰り広げたことを、飛行隊長の蓮華2佐と飛行班長の鬼熊3佐はまだ知らないのだろう。
 ランニングウエアに着替えた揚羽は、学生隊舎を出て基地外周をランニングしていた。強烈すぎたあの出来事は、今でも鮮明なまま記憶に刻まれている。颯に抱き締められた時の温もり。強引に押し当てられた唇の感触。身体を愛撫する官能的な手の動き。男の本能を剥き出しにした颯の顔。そのすべてが記憶に焼きついていて消えない。思い出しただけで胸が苦しくなってしまう。だから揚羽はなんとか気を紛らわせたかった。強制的に体力を消費すれば、考えるエネルギーもなくなるだろうと思ったから、こうやってランニングをしているのだ。
 基地を半周した揚羽は正門の近くで足を止めた。松島基地の正門を入ってすぐの所には、往年の名機が置かれている。初代ブルーインパルス機で、「ハチロク」の愛称で親しまれたF‐86Fノースアメリカンセイバー、T‐2高等練習機、T‐6テキサン練習機、F‐104Jスターファイターなどを見ることができる。T‐2高等練習機の前に置かれているのは、平成13年に解散した第22飛行隊の記念碑だ。
 その第22飛行隊の記念碑の前に二人の男性がいた。見学ツアーに申し込んだ観光客かと思ったが、よく見てみると男性の一人はパイロットスーツを着た颯だった。颯はもう一人の男性と激しく言い争っている様子だ。相手の男性は五十代前半、黒髪を綺麗に整えてダークスーツを着ている。言い争っているとはいっても、主導権を握っているのは颯のほうだ。男性は貝のように口を閉じ合わせたまま、一言も抗弁せずに押し黙っている。そんな男性の態度が気に食わないのか、颯の表情はさらに険しくなっていった。
「彼女は死ぬ間際まであんたの名前を呼んでいたんだぞ!! それなのにあんたはその時何をしていたんだ!? 愛する人を守れなかったくせに、昔のことは忘れろだって!? ふざけるんじゃねぇよ!!」
「とにかく落ち着きなさい! 頼むから私の話を聞いてくれ!」
「うるせぇ!!」
 スーツの襟を引き千切るように掴んだ颯は、握り締めた拳の一撃を男性の顔面に食らわせた。拳に鼻柱を打たれた男性は、よろめきながら展示機に背中をぶつけて、草地の上に倒れ込んだ。これは看過できない。急いで駆け出した揚羽は、再び拳を振り上げた颯と倒れた男性の間に割り込んだ。
「やめてください! いったい何をしているんですか!?」
 間に割って入ってきた揚羽に驚いた颯の動きが止まる。死んだと思った人間が、急に蘇った瞬間を目の当たりにしたような驚きの表情だ。不愉快だと言わんばかりに舌打ちした颯は、揚羽と男性を一瞥すると、早足でその場を立ち去っていった。尋常ではない颯の様子に、揚羽は呆然としていたが、怪我人がいることを思い出し、急いで振り返った。
「大丈夫ですか!?」
 揚羽は男性を助け起こした。男性は殴られた鼻から血を垂らしている。命に関わる怪我ではないだろうが、やはり応急手当は必要だ。診療所で怪我の手当をするからと言った揚羽に、男性は首を振って治療を拒否した。
「いえ、大丈夫です。このことは誰にも言わないでください。……お騒がせしてすみませんでした」
 眼鏡をかけ直して揚羽に一礼した男性は、ハンカチで鼻を押さえると足早に去っていった。駐車場から出てきた黒色のセダンが、道路を走り正門を出て行くのが見える。走り去るセダンを見送った揚羽は、踵を回して颯の後を追いかけた。第11飛行隊専用の格納庫の裏側に颯はいた。揚羽に背中を向けているので表情は分からない。颯に被さる格納庫の影は、どことなく周囲の影より暗く見えた。
「鷲海さん」
 揚羽が声をかけると颯はゆっくりとした動作で振り向いた。まだ表情に感情は出ていない。腹に力を入れて平静を装っているように見える。
「あいつは帰ったのか」
「ええ、ついさっき帰られました。あの男の人と言い争っていたみたいですけれど、彼はいったい誰なんですか?」
「……お前には関係ない」
 背中を向けた颯の両足が動く。揚羽は手を伸ばして颯の腕を掴み、場に留まることを要求した。
「関係ないって――そんなことを言っている場合じゃありませんよ! 理由もなく一般の人を殴ったんですよ!? 誰にも言わないでくれって頼まれましたけれど、蓮華2佐に言うべきだと私は思います! だからまず私に教えてください! そのあと一緒に蓮華2佐のところに行きましょう!」
「関係ないって言ってるのが分からねぇのかよ!」
 閃く稲妻のように身を翻した颯が、腕を掴む揚羽の手を力任せに振り払った。颯と向き合った揚羽は戦慄する。目尻を険しく吊り上げた颯は、一気に殺気立っており、火のような怒りの色を全身に漲らせていたのだ。
「そんなに知りたいのなら教えてやるよ! あいつの名前は鷲海貴彦、俺の父親だ! お前の親父と同じ人殺しの父親さ!」
「私の父さんが、人殺し――?」
 颯の口から放たれた言葉は冷たい棘となり、揚羽の心に深く突き刺さった。
「ああ、そうだ!! 俺は知っているんだぞ!! お前の親父は墜落した仲間を見捨てて、自分だけ助かった卑怯者の人殺しなんだろ!? 仲間の一人も守れない奴が、空自のファイターパイロットだったなんて笑わせるぜ!!」
 瞬間風船が破裂した時のような乾いた音が鳴り響いた。颯の顔は左に傾き頬は赤く腫れている。揚羽は右手を振り抜いた体勢で立っていた。揚羽の平手打ちが颯の頬を弾き、暴言を吐いた彼を黙らせたのだ。
「違うわ!! 父さんは人殺しなんかじゃない!! 父さんは最後まで諦めなかった!! 最大多数の幸福を信じ続けた、立派なファイターパイロットよ!! 仲間を目の前で失った父さんが、今までどんな思いで生きてきたのか知らないくせに、知った口を利かないで!! 貴方は最低な人間だわ! そんな人に、私は――」
 続く言葉は出なかった。張り詰めていた感情の糸がぷつりと断ち切れ、怒りと悲しみが混ざり合ったものが、胸に突き上げてきたからだ。尊敬する父親を侮蔑された悲しみに、耐えきれなくなった揚羽は、片手で口を押さえて走り出した。途中颯が呼ばわったが、聞く耳持たず揚羽は走り続ける。そのあとのことは記憶から消えていた。気づいたら揚羽は学生隊舎の自室にいて、ベッドに突っ伏して滂沱していたのである。悲しみは波紋のように広がり連鎖していく。とめどなく傷つけられた揚羽の心は温もりを失い、あたかもこれから死んでいくかのように、硬く冷たくなっていったのだった。


 颯と衝突した翌日から揚羽は第11飛行隊の区画に足を運ばなくなった。過密になってきた飛行訓練や座学で忙しく、足を運ぶ時間がないというのが理由である。以前は空を飛んでいくT‐4を見ただけで、爽やかな風に吹かれているような気持ちになれた。しかし今はT‐4を見ただけで、悪意に満ちた颯の言葉を思い出してしまい、心が痛んで重く沈んでしまうのだ。ドルフィンライダーになって、日本の空を飛ぶのが夢であり目標だったのに、その夢と目標はどんなに手を伸ばしても届かない場所に、輝きを失いながら落ちていくような気がしていた。
『オペラから連絡だ。どうやら雷雨警戒警報が発令されたらしい。急いで基地に戻るぞ。――おい! 聞こえているのか!?』
『えっ!? はっ、はいっ! 聞こえています!』
 斜め前方を飛ぶF‐2Bに乗る、遠藤3佐に怒られた揚羽は慌てて返答する。「ぼんやりするな」と遠藤3佐が呆れる声が聞こえた。考え事をしていて気もそぞろになっていた。旋回した遠藤3佐のF‐2Bに続き、揚羽も操縦桿でエルロンを倒して機体を旋回させる。基地に雷雨警戒警報が発令されると、戦闘機や輸送機などは急いで基地に帰投させて、格納庫に入れなければいけないのだ。
 空は大理石のように重く、高い空と低い空に浮かぶどす黒い雲が流れる方角は、てんでんばらばらになっている。乱れ騒ぐ雲は天気の異常を告げているのだ。しばらく飛んでいると雷鳴が曇天を裂いた。前方に広がる積乱雲の中に雷が連続で閃くのが見える。間を置かずに大粒の雨が降り出した。雨はすべてを押し流すほど凄まじく降り注ぐ。揚羽の視界は豪雨の幕に閉ざされてしまった。一番大きな音を立てて雷が落ち、揚羽の視界を白い閃光が貫いた。どうやら近くで落雷があったらしい。遠藤3佐は大丈夫だろうか。揚羽は無線の周波数を合わせて呼びかけた。
『遠藤3佐、大丈夫ですか? 応答してください! 遠藤3佐!』
 揚羽は何度も呼びかけたがなぜか無線は繋がらない。まさかと揚羽はある結論に至った。――揚羽が乗るF‐2Bは被雷した。機体を駆け抜けた電流が無線を断絶させたのだ。被雷による悪影響は、無線の断絶やエンジンの停止だけではない。時にはパイロットを失神させて、操縦不能に陥らせることがあるという。ふと揚羽は気づいた。遠藤3佐が乗るF‐2Bが、どこを捜しても見つからないのである。揚羽は遠藤3佐を見失ってしまったのだ。揚羽は位置を確かめようとレーダーに目を向けたが、最悪なことに無線だけではなくレーダーも、被雷の影響で動かなくなっていた。
 頼りのレーダーも動かず、視界が利かないなか揚羽は空を飛び続ける。揚羽は自分の意識と機体の姿勢が、どんどんかけ離れていくような気がしていた。左太股の脇にあるスロットルレバーを押し込めば、速度計の針は上昇を始める。座席に押しつけられる加速感はあるのだが、ほとんど真っ暗闇と言ってもいい、荒天の空を飛んでいるので速度感は絶無だ。左右どちらに旋回しているのか、加速しながら上昇しているのか、それとも真っ逆さまに墜ちているのか、目標物が見えない空ではまったく分からなかった。
 冷えて重々しい金属のような空を飛んでいるのは自分だけ。雷を含んだ雲は、暗澹としたその縁だけを金色に輝かせていた。一面が白く波立つ海は揚羽が墜ちてくるのを待ち構えている。初めは冷静だった揚羽の思考は、次第に孤独感と恐怖で塗り潰されていった。突然コクピットに「ピー、ピー」と警報音が鳴り響く。これは計器板中央の水平状況指示器の警報音。機体の姿勢を元に戻せと揚羽に警告しているのだ。機体の姿勢が狂っている? HSIの警報音は揚羽を混乱させた。いったいどうすればいいのか分からない。恐怖と混乱は増幅していった。
 怯える揚羽の頭上に橙色の光点が浮かび上がった。きっとあの光は遠藤3佐が乗る、F‐2Bの航法灯が放つ光に違いない。頭上に見えるということは、遠藤3佐は揚羽より上の高度を飛んでいるのだ。遠藤3佐が無事でいてよかった。安堵で胸を撫で下ろした揚羽は、上昇するため操縦桿を手前に引き寄せる。だが揚羽が上昇するのを制止するかのように、HSIの警報音は鳴り続けていた。


 薄墨を流したような空に厚い雲が暗澹と動いている。うっすらと光る水色の空は、やがて広がる雲の胃の腑に飲み込まれてしまった。今にも雨が降り出しそうな空模様なのは一目瞭然である。しばらくして金華沖に向かっていた天候偵察機が基地に戻ってきた。金華山沖をはじめ洋上での訓練を行う際に先行して離陸、訓練空域の天候を確認するのが天候偵察機の役割だ。
 ブルーインパルスの訓練と展示飛行はVFRを前提としている。パイロット自身が目視によって安全を確保しながら飛行するのが、有視界飛行方式と呼ばれる「Visual Flight Rules」を略したVFRだ。視界が確保されていなければ当然飛行はできないので、雲の高さや雲量など天候の影響を受ける。訓練ができる天候ではないのは、誰の目から見ても明らかだった。
「今日の訓練は雨で中止か。誰かさんの日頃の行いが、悪いからなんじゃないのか?」
 聞こえよがしに嫌味を言ってきたのは、颯の隣のデスクの椅子に座って、細かな事務作業をしている黎児だった。向けられた表情と視線には毒を含んだ棘がある。売られた喧嘩は買う主義だ。颯はぎろりと黎児を睨み返した。
「その言葉、そっくりそのままお前に返すぜ。天気が悪くなったのは、今までお前が捨ててきた女たちの、恨みのせいなんじゃないのか?」
「――っ! なんだと!?」
「やる気か!? 上等だ! かかってこいよ!」
 同時に席を立った颯と黎児は睨み合い、不可視の火花を宙に散らした。いつ殴り合いになってもおかしくない、激情が気化した危険な空気が漂い始める。
「いい加減にしないか! 鷲海、蛍木、お前たちはいったいどうしたんだ! ろくに会話はしないし、目を合わせようともしないじゃないか! 数日前から様子がおかしいぞ? 何かあったのなら今すぐ私に話しなさい!」
 涼やかな声が空気を裂く。睨み合う颯と黎児を叱咤したのは蓮華2佐だ。切れ長の双眸は吊り上がり、唇は固く引き結ばれている。これ以上我慢がならないといった表情だ。もしもここが裁判所の法廷だったなら、颯と黎児は法廷侮辱罪で退廷を命じられていただろう。
「……少し外の空気を吸ってきます」
 逃げるように事務所を後にした颯は、そのまま第11飛行隊隊舎を出た。煙缶が置かれている喫煙場所で煙草を吹かしていると、雷鳴が鳴り響き雨が降ってきた。降り出した雨はやがて篠突くような豪雨になり、辺りは一面水飛沫で白っぽくなっていく。
 これは颯の推察だが、蓮華2佐は二人の間に何があったのか知っているのだと思う。隊長室に招聘して聴取することもできるであろうに、敢えてそれをしないのは、颯と黎児が自らの意思で話すのを、辛抱強く待ってくれているのだ。蓮華2佐には悪いが、今はまだ話す気にはなれなかった。
 不意に揚羽の姿が脳裡に思い出される。颯が最後に会った揚羽は、今降っている雨のように泣いていた。愕然とした表情の揚羽の、硝子玉のような大きな双眸は限界まで見開かれ、悪夢を見たかのように、彼女の華奢な身体は震えていた。揚羽の泣き顔を思い出した瞬間、颯の心に大きな痛みが走った。
 ――どうして自分が罪悪感を覚えなければいけないのだ。眉間を押さえた颯は瞑目して首を振る。衝突の原因を作ったのは揚羽なのだから、衝撃を受けるとは虫が良すぎるのではないのか。傷つきたくないなら放っておいてくれればよかった。他人のことにいちいち首を突っ込んできた揚羽が悪い。颯が激しく怒鳴りたくなるのも当然だ。そしてそれを最後に揚羽は、第11飛行隊の区画に来なくなったのだった。
 轟音が鳴り響き颯は頭上を仰いだ。すると降りしきる豪雨の中を、一機の戦闘機が飛んでいるのが視界に映った。シルエットを見るかぎり、あれは第21飛行隊のF‐2Bだろう。基地に飛んできたF‐2Bは建物の陰に隠れて見えなくなった。吸い終えた煙草を煙缶に捨てる。濡れるのは仕方ないと思いながら、喫煙場所から第11飛行隊隊舎に戻ろうとしたその時だ。誰かがこちらに走ってくるのが見えた。傘も差さない全身ずぶ濡れの青年は、現在颯と敵対関係にある黎児だった。黎児は開口一番颯を罵るのかと思ったのだが。
「……揚羽ちゃんの行方が分からなくなったそうだ」
 冷たい雨に打たれたせいなのか、黎児の顔は青褪めていた。
「それがどうしたんだよ。濡れてまで俺に知らせにきたっていうのか? ご苦労様だな」
 水溜まりを踏んだ黎児が距離を詰めてきた。表情に落ちている影は濃い。怒りを必死に抑えているように思える。
「揚羽ちゃんの行方が分からなくなったんだぞ。それなのにお前はなんとも思わないのか?」
「ああ、思わないね。あいつのことだから、訓練が嫌になって逃げたんじゃないのか?」
 颯の視界は斜めに傾き身体に痛みが走った。抑えていた怒りを爆発させた黎児が、颯を濡れた地面に引き摺り倒したのだ。颯の上に跨がった黎児は、怒りとも悲しみともつかない激情を剥き出しにしていた。
「よくもそんなことが言えるな!! 揚羽ちゃんは広い空を今独りで飛んでいるんだぞ!! こんな暴風雨の中を独りで飛んでいるんだぞ!! 死ぬほど怖い思いをしている揚羽ちゃんを、訓練が嫌になって逃げ出しただなんて、どうしてそんなことを平気で言えるんだよ!!」
 颯の顔に雨粒とは違う成分の水滴が落ちてくる。顔に落ちてきたそれは涙だった。引き摺り倒した颯を見下ろす黎児は泣いていたのだ。黎児の心中を表しているかのように、颯の胸元を掴んでいる手は震えていた。
「お前だって気づいてるはずだろ? 揚羽ちゃんはな、お前に憧れていて、お前のことが好きなんだよ。俺だって揚羽ちゃんが好きだ、大好きなんだ。でも、悔しいけれど、俺は揚羽ちゃんを幸せにできない。揚羽ちゃんを幸せにできるのは、お前しかいないんだ。だから頼む、揚羽ちゃんを助けてやってくれよ……」
「黎児……」 
 颯の胸に突っ伏すように顔を埋めた黎児が啜り泣く。そんな黎児の姿は颯の心を大きく揺さぶった。揚羽の気持ちには気づいていた。揚羽が自分を見る眼差しが、憧れから別のものに変わっていたのも知っていた。だが颯は知らぬ存ぜぬを決め込んだ。揚羽が自分に向ける感情と向き合うのが怖かったのである。その結果颯は揚羽の心身を深く傷つけた。本来ならば己の感情と真っ向から向き合い、揚羽との関係についてきちんと結論を出すべきだったのだ。今ここで背中を向けて逃げたら、揚羽との間に生まれた亀裂は永遠に修復できない。
「――さっき飛んできたF‐2Bには誰が乗っていたんだ?」
「えっ? 確か遠藤3佐だったかな。今は21飛行隊隊舎のオペラに――って、颯!?」
 黎児の言葉を最後まで聞かず、颯は濡れた地面を蹴って走り出していた。颯は全身ずぶ濡れのまま21飛行隊隊舎に駆け込み、床や壁に水滴を散らしながら飛行指揮所がある階に上がる。指揮所前の廊下は、集まった大勢の隊員たちで溢れかえっていた。颯は黒山の人だかりを掻き分けて指揮所に入る。無線機が置かれているカウンターの前には、指揮所幹部と第21飛行隊隊長に教官たちが集まっていた。
「燕! 聞こえているのか!? 応答しろ! 燕!」
 必死の形相で無線機のマイクに叫んでいる男性がいた。揚羽の担当教官の遠藤3佐だ。遠藤3佐も颯と同じく全身ずぶ濡れだった。だが無線機は死んだように沈黙している。遠藤3佐は繰り返してマイクに叫ぶが応答は返ってこない。唸るような声を出した遠藤3佐は、壊れんばかりの力でマイクを乱暴に叩きつけた。
「くそっ! どうして繋がらないんだ!」
「もしかしたら……被雷したのかもしれません。それなら無線が通じないのも説明がつきます」
 近くにいた飛行管理員が答える。それを聞いた遠藤3佐は耐えられぬほどの緊張で顔を強張らせた。遠藤3佐はしばらくその場に直立していたが、決意したように拳を握り締めると、出入り口のほうに向かって歩き出した。歩みを進める遠藤3佐の前に一人の男性隊員が立ちはだかる。厳しい面持ちの男性隊員は、第21飛行隊隊長の波川2等空佐だ。
「遠藤、どこに行くつもりだ?」
「決まっているでしょう。燕を捜しにいくんです」
「はいそうですかと行かせられるわけないだろう。こんな悪天候のなか飛び立つなんて自殺行為だぞ。それに燕がどこにいるのかも分からないのに、闇雲に捜し回るのは危険だ。今は天候が回復するのを待って――」
「こうしている間にも燕の機体の燃料は減っているんですよ!? それなら誰かが燕を捜しに飛んだほうがいいじゃないですか! こうなったのは俺があいつを見失ったからなんです! お願いします、波川隊長! 俺を行かせてください!」
 悲痛をいっぱいに滲ませた、遠藤3佐の大声が響き渡った指揮所は、水を打ったように静まりかえった。聞こえているのは建物を叩く雨音と猛り狂う風の音だけだ。まだ学生パイロットとはいえども、揚羽は航空自衛隊の一員で颯たちの仲間であり同志。指揮所にいる誰もが仲間を助けたいと強く望んでいる。それなのに行動を起こすことができない。胃の腑を焼くような焦燥に弄ばれるしかないのだ。誰もが絶望の底に沈んでいたとき、飛行管理員が上擦った声を出した。
「かっ、管制塔からです! 燕1曹と無線が繋がったって――」
「貸してくれ!」
 指揮所の隅にいた颯は装甲車のように突き進み、遠藤3佐より先に震える飛行管理員の手からマイクを奪い取った。睨んできた遠藤3佐に構わず呼びかける。
「燕! 俺だ! 鷲海だ! 今どの辺りを飛んでいるんだ!?」
『鷲海さん? どうしてそこにいるんですか?』
「いいから答えろ! 現在位置はどの辺りなんだ!」
『レーダーが動いてないので分かりません。でも遠藤3佐の機体の航法灯を見つけました。今機体を上昇させて、航法灯が見えるほうに近づいているところです』
 ようやく聞けた揚羽の声は思いのほか落ち着いている。だが揚羽の報告を聞いた颯は困惑していた。揚羽が言う遠藤3佐は現在颯の隣にいる。だから機体の航法灯が見えるだなんてあり得ない。ならば揚羽が見ている航法灯はいったいなんなのだ? 颯は揚羽に詳細を訊こうとしたが、先程から「ピー、ピー」とおかしな音が聞こえていることに気づいた。
「燕。さっきから聞こえている音はなんなんだ?」
『音? これはHSIの警報音です。さっきからずっと鳴り続けているんですよ。きっと被雷したせいで壊れちゃったんですね』
 不可視の無数の触手が全身の皮膚を逆撫でに走り抜け、颯は一気に戦慄した。背中を氷柱で撫でられたような戦慄は、颯の身体の隅々から数十億個の細胞まで、じんわりと広がっていく。肉体は戦慄していたが、しかし颯の思考は冷静だった。不意に横から腕を掴まれる。それは遠藤3佐の手だった。颯が見やった遠藤3佐は、神経が凝結したかのように顔を強張らせている。遠藤3佐も颯と同じ結論に辿り着いたのだ。
「……イルカ野郎、どうやらお前も気づいたようだな」
「――はい、間違いありません。燕は空間識失調になっています」
 空間識失調は航空医学用語で「バーディゴ」と呼ばれており、機体の傾きが把握できなくなり、自分の機体の旋回方向だけでなく、上昇しているのか下降しているのかさえ、錯誤してしまう危険な状態のことだ。人間の平衡感覚は視覚情報の多くを拠り所としている。内耳の三半規管などは、角速度にして秒速二度に満たない僅かな動きを検知できず、地平線の見えない雲や霧の中や夜間飛行では、放置しておけばパイロットの意識と機体の姿勢は、どんどんかけ離れていくという。
 視界が悪いなか空を飛ぶことは、地中を掘り進むのに似ているが、立ち止まることが許されないパイロットは、蚯蚓を捜す土竜と違って追い立てられた気分になる。そして空気が薄いこともあり、飛行中の人間は「パイロットの六割頭」となって判断力が鈍り、錯覚に陥りやすいのだ。マイクを取り上げた颯は努めて冷静な声で揚羽に呼びかけた。
「燕、落ち着いてよく聞け。お前は今バーディゴになっているんだ」
『バーディゴ――?』
「バーディゴは飛行中に平衡感覚が失われる現象で、上下左右がまったく分からなくなる。自分の姿勢が確認できなくなるんだ。お前が見ているのは航法灯じゃない。多分漁船の明かりだと思う」
『じゃあ、私は今背面飛行で飛んでいるってことですか? そんなはずありません! 私は正しい姿勢で飛んでいます! HSIが故障しているだけですよ!』
 怒気を孕んだ声で揚羽は反駁してきた。バーディゴはベテランからルーキーまで、飛行経験の多少に関係なく、人間なら誰でも起こりうる生理現象だ。もしバーディゴになったら、冷静になって計器を信じるほかないのだが、愚かにも人間はそうした危機に直面すると、科学よりも自らの感覚に従い、機械の故障を疑ってしまいがちになる。揚羽は今まさにその精神状態だった。
「お前は自分が正しい、機械が故障していると思っているだろうが、そう思っているうちに手遅れになってしまうんだよ! 死にたくなかったら俺の言うことを聞け!」
 冷静さを忘れて颯は怒鳴る。颯の怒鳴り声に怯んだのか、揚羽は沈黙したようだった。
『――いい加減にしなさいよ』
 やや間を置いて返ってきた揚羽の声は低く冷たかった。言葉の硬い響きは、さながら研磨されたダイヤモンドを思わせる。
『俺の言うことを聞け? よくもそんな偉そうなことが言えますね!! 私が素直に言うことを聞くとでも思っているんですか!? 貴方は私の父さんを侮辱して傷つけたのよ!? 何かにつけて私を馬鹿にして、生意気なヒヨコパイロットだって言って、全然認めようともしない!! それに好きでもないくせにあんなことをしたわ!! 簡単に許せるわけないじゃない!! 貴方は最低な男よ!!』
 言葉遣いこそいつものように丁寧だが、揚羽の声音には今までにない激しい感情が弾けていた。揚羽の言葉は痛みと共に颯の心に沁み渡る。心臓を激しく刺されても死ねない拷問のような心痛だった。だがこの痛みは自分のものではない。揚羽が感じている心の痛みだ。
「――ああ、そうだ。お前の言うとおり、俺は最低な男だよ。お前を馬鹿にしたこともあったし、そんな関係じゃないのに、あんなことをして傷つけた。お前が尊敬する親父さんを侮辱した」
 深呼吸を一回。「でもな」と颯は言葉を続ける。左右の拳を握り締めて強い口調で。
「もうお前は俺にとって生意気なヒヨコパイロットじゃない、同じ空を目指す命と心を預け合った『仲間』だ!! 俺だけじゃない、指揮所にいるみんなが、お前に生きて帰ってきてほしいと強く願っているんだよ!! ファイターパイロットを目指すお前も知っているはずだ!! ファイターパイロットの任務は日本の空を守ることだけじゃない!! 生きて地上に帰ることも任務なんだよ!! だから帰ってこい!! 俺たちの――俺のところに帰ってこい!! お前に言いたいことが、話したいことがたくさんあるんだ!! 俺を信じてくれ!!」
 今まで抑えに抑えてきた熱い感情が、宇宙で新星が誕生した瞬間の如く爆発した。爆発した熱い思いが揚羽に伝わったのか知る術はない。胸に突き上げてくる気持ちで、闇雲に涙が溢れてくる。人前で泣くなんてプライドが許さない。だが今はプライドなんてどうでもよかった。揚羽の命が助かるのなら、プライドなんて喜んで捨ててやる。天に神様がいるのならお願いだ。どうか揚羽に嘘偽りのない俺の思いを届けてほしい。心から祈りを捧げた颯は、唇を噛み締めて天井を仰いだ。


 激しい雷雨の夜などに、教会の尖塔や船のマストのような尖った物の先端に現れる、火炎状の青紫色のことを「セントエルモの火」という。船乗りの間では、セントエルモの火が二つ出現すると、嵐が収まると信じられた。揚羽が見つけたF‐2Bの橙色の航法灯は、まさに船乗りを導くセントエルモの火だと言えよう。操縦桿を手前に引き寄せて機体を上昇させる。揚羽が遠藤3佐のF‐2Bに近づいていたその時だ。被雷の影響で停止していた無線が復旧した。最初の交信相手は松島タワーの管制官だ。揚羽は管制官と会話したあと、松島基地の飛行指揮所に無線を回された。揚羽は飛行管理員が交信してくると思っていたのだが。
『燕! 俺だ! 鷲海だ! 今どの辺りを飛んでいるんだ!?』
 揚羽は驚いた。交信してきたのは飛行管理員ではなく、なんと颯だったのだ。部外者は帰れと言いたかったが、揚羽はぐっと堪えて言葉を飲み込んだ。
「鷲海さん? どうしてそこにいるんですか?」
『いいから答えろ! 現在位置はどの辺りなんだ!』
「レーダーが動いてないので分かりません。でも遠藤3佐の機体の航法灯を見つけました。今機体を上昇させて、航法灯が見えるほうに近づいているところです」
 ぼんやりと浮かぶ航法灯の位置を確認しつつ揚羽は答える。指揮所で何か談義しているのか、数分間無線は静かだった。ややあって通信を再開した颯は、聞こえている音はなんなんだと訊いてきた。颯が言っている音とは、先程からしつこく鳴り続けている、HSIの警報音のことだろう。この音はHSIの警報音で、先程から鳴り続けているのは、被雷したせいで壊れているからだと揚羽は言った。再び無線が沈黙する。次に聞こえた颯の声は落ち着いていたが、強い緊張を必死に抑えているように思われた。
『燕、落ち着いてよく聞け。お前は今バーディゴになっているんだ』
「バーディゴ――?」
 座学で勉強したから知っていた。バーディゴは飛行中に平衡感覚が失われる生理現象で、上下左右がまったく分からなくなり、自分の姿勢が確認できなくなる。星が見えない曇りの夜間飛行だと、怖ろしいことに「漁り火」を「夜空の星」と思い込み、漁船が走る漆黒の海に真っ逆さまに「急上昇」した例もあるほどで、上下の感覚などいとも容易く失われるのだという。生還すれば仲間に貴重な教訓をもたらすが、ほとんどは気づかないまま海の藻屑と消えるから、バーディゴは原因不明の代名詞でもある。あろうことかそのバーディゴに自分は陥っている? そんなはずはない。正しい姿勢で空を飛んでいる絶対的な自信がある。間違っているのはHSIのほうだろう。最終的に正しいのは機械ではなく人間なのだから。
「じゃあ、私は今背面飛行で飛んでいるってことですか? そんなはずありません! 私は正しい姿勢で飛んでいます! HSIが故障しているだけですよ!」
『お前は自分が正しい、機械が故障していると思っているだろうが、そう思っているうちに手遅れになってしまうんだよ! 死にたくなかったら俺の言うことを聞け!』
 揚羽が反駁すると、冷静さを失ったのか颯は大声で命令してきた。瞬間憤りが血管を逆流して、脳髄に一極集中する。脳髄の毛細血管が線香花火のようにぷつぷつと破裂しそうだ。怒りの心は揚羽の口を押し開けて、笛の音のような息と一緒に外に溢れ出ると、声に形を変えて迸ったのだった。
「俺の言うことを聞け? よくもそんな偉そうなことが言えますね!! 私が素直に言うことを聞くとでも思っているんですか!? 貴方は私の父さんを侮辱して傷つけたのよ!? 何かにつけて私を馬鹿にして、生意気なヒヨコパイロットだって言って、全然認めようともしない!! それに好きでもないくせにあんなことをしたわ!! 簡単に許せるわけないじゃない!! 貴方は最低な男よ!!」
 全身怒りの塊になった揚羽は耐えきれず、大爆発した感情を声に変えて叫んだ。そうだ、颯は最低な人間だ。これまで揚羽を馬鹿にしてきた。恋愛関係でもないのに、無理矢理キスをしてあんなことをした。さらには揚羽が尊敬する父を人殺し呼ばわりした。揚羽はそれが一番許せなかった。
『――ああ、そうだ。お前の言うとおり、俺は最低な男だよ。お前を馬鹿にしたこともあったし、そんな関係じゃないのに、あんなことをして傷つけた。お前が尊敬する親父さんを侮辱した』
 揚羽は一言も返せない。「でもな」と颯は続ける。
『もうお前は俺にとって生意気なヒヨコパイロットじゃない、同じ空を目指す命と心を預け合った「仲間」だ!! 俺だけじゃない、指揮所にいるみんなが、お前に生きて帰ってきてほしいと強く願っているんだよ!! ファイターパイロットを目指すお前も知っているはずだ!! ファイターパイロットの任務は日本の空を守ることだけじゃない!! 生きて地上に帰ることも任務なんだよ!! だから帰ってこい!! 俺たちの――俺のところに帰ってこい!! お前に言いたいことが、話したいことがたくさんあるんだ!! 俺を信じてくれ!!』
 嘘偽りのない真情が込められた颯の言葉は、揚羽の心を真っ直ぐに強く衝いた。
 揺れる心と連鎖するように、颯と過ごした日々の記憶が次々と蘇る。
 一緒にランニングをした花曇りの日。鬼熊3佐の娘の陽菜と一緒に猫のテディを捜した日。鍋パーティーで掴み合いをした日。鬼熊3佐の家で晩御飯をご馳走になった日。嫌な思いをした時もあったけれど、颯と一緒に過ごした日々は、まるで高貴な宝石のように今も輝き続けている。その記憶を慈しんで大事にしたい。颯と同じ景色を見て、同じ感情を共有して、同じことをもっと経験したい。そのためには帰らなければ。生きて帰らなければ、颯とやり直すことはできないのだ。熱い感情は震えとなり、揚羽の全身を駆け巡った。
 瞬間揚羽の意識は一気に覚醒する。まるで頭の中で美しい音楽が演奏されているような、不思議な意識の昂ぶりを揚羽は覚えていた。黒雲の波が断ち切れて、視界いっぱいに白波が立つ海が広がる。今まで空だと思っていたのは海だったのだ。考えるよりも早く揚羽は機体を反転させて操縦桿を引いていた。機首が天を仰ぎ翼が海風を纏う。海面すれすれで機体は上昇した。どうやら揚羽は嵐の空域を脱したらしい。積乱雲の軍団は後背に過ぎ去ろうとしていた。
(鷲海さん、私も貴方に言いたいことがたくさんある、話したいことがたくさんあるの。今から貴方のところに帰ります。だから待っていてください――)
 不思議だった。揚羽の心を蝕んでいた暗い気持ちは綺麗さっぱり剥がれ落ちていたのだ。煩悶していたのが嘘のような清々しさである。肩の力を抜いて揚羽はキャノピーの外を見つめる。雲の切れ間から差し込む、幾筋もの神々しい黄金色の光は、あたかも天上と地上を行き交うための階段のようだった。


 積乱雲の軍団は風に追われるように散り散りになっていき、銀灰色の雲の裂け目から白い日の光が差し始める。管制官と交信しつつ飛んでいると、前方に管制塔が見えてきた。揚羽は比較的高い高度と速度で滑走路上空に接近し、滑走路上で大きく旋回を行い減速すると、高度を下げつつトラフィックパターンに進入した。オーバーヘッド・アプローチ。戦闘機で代表的な飛行場への着陸方法だ。滑走路に平行するダウンウインドレグに向かって、180度の水平旋回。ダウンウインドレグに入った揚羽は、180度の旋回でベースレグ経由で着陸態勢に移行した。左右の主脚と両翼のフラップを下ろす。着陸後は制動傘を開いて機速を落とし、タキシングで誘導路からエプロンに進入した。
 揚羽は誘導係の整備員に従いながらタキシングを続ける。エプロンの一角で整備員が二本の赤いパドルを上げた。「ここへきて駐機せよ」の合図だ。揚羽は誘導員の立ち位置に向かって機体を慎重に進ませる。左右のパドルがクロスされる瞬間にブレーキを踏みこむ。機首を上下させたF‐2Bは綺麗に停止した。パーキングブレーキをセット。機体が停止すると待機していた機付き整備員が走り寄り、ノーズギアとメインギアに車輪止めを嵌めこんだ。
 整備員のチョーク・インのハンドシグナルに頷いた揚羽は、右サイドコンソールの燃料コントロールスイッチを切った。背中で唸り声を上げていたF100‐IHI‐129エンジンが静かになる。キャノピーを開放すると、雨上がりの粒立った冷気が肌に沁みた。首を長くして揚羽の帰還を待っていた遠藤3佐たちが、こちらに走ってくるのが見える。整備員にベルトとショルダーハーネスを外してもらった揚羽は、胴体左側に掛けられた梯子で下りようとした。だが生きて帰れた安堵感で力が抜けてしまい、梯子に掛けていた片足を踏み外してしまった。
 今にも転落しそうな危険な体勢になったものの、揚羽は梯子から落ちることはなかった。一番に駆け寄った誰かが、後ろから抱きかかえるように揚羽を支えてくれていたのだ。官舎の階段から落ちそうになった自分を助けてくれた時のように。背中に当たる胸板の感触。息遣いと身体の温もり。伝導する心悸は母親が歌う子守歌のように優しい。揚羽は後ろを振り向こうとしたが、脱力感と疲労感で身体の自由が利かなかった。瞼が脳からの電気信号を無視して勝手に閉じていき視界が暗転する。半分夢のような耳の底で優しく囁かれている声を聞きながら、揚羽は意識を失ったのだった。



 目を覚ますと揚羽は白い角砂糖のような部屋のベッドに横たわっていた。間仕切りのカーテンは開放されていて、指先を入れると暖かそうな日の光が窓から差し、リノリウムの床に落ちているのが見える。現代医学の力が凝縮されていそうな設備はないが、ここが病人や怪我人を治療する施設の一室だと、揚羽はぼんやりとだが理解できた。ふと人影が見えた気がして揚羽は視線を動かす。部屋の入口の近く、一人の青年が腕と脚を組んでパイプ椅子に座り、究極の仏頂面でスマートフォンを操作している。そしてその青年は颯だった。
「鷲海さん……?」
 揚羽が掠れた声で呼ぶと颯は彼女のほうを向いた。スマートフォンをポケットに入れた颯は立ち上がり、座っていたパイプ椅子を持ち上げると、ベッドの側までやってきた。パイプ椅子を置いた颯が腰掛ける。揚羽の記憶が最後に覚えているのは、足を滑らせて梯子から落ちそうになったことだ。ここがどこなのか尋ねようとした揚羽よりも早く颯が口を開いた。
「ここは衛生隊の医務室だ。お前は意識を失って、医務室に運ばれたんだよ。あのあと大変だったんだぞ。波川2佐と蓮華隊長から同時に説教されて、遠藤3佐に拳骨をお見舞いされたんだぜ。あのオッサン、お前に気があるんじゃないのか?」
 颯は明るい声で倒れたあと何があったのか揚羽に教えてくれた。颯は揚羽を安心させようと、無理をして明るく振る舞っているように見えた。なんだか居たたまれなくなり、揚羽は視線を落とした。颯に言いたいことが、話したいことがたくさん積もっているのに、言葉が出てこない。ばらばらに散った言葉を組み合わせて、揚羽は声を出すことができた。
「鷲海さん。私、貴方に謝りたいんです。私は自分のことばかり考えて、自分の気持ちを言いたいだけ言って、鷲海さんの気持ちなんか全然考えていなかった。そんな私が、鷲海さんの――みんなの仲間になんかなれるわけありませんよ。……私はウイングマークを着けるにふさわしくない人間なんです」
 鼻の奥が痛い。目尻も熱く発火する。喉が腫れ上がってうまく呼吸ができない。言葉も紡げなくなって、それでも無理矢理に声帯を開こうとすると、今度は胸腔の辺りに圧迫感を覚える。生まれた時から自分の身体の一部であるはずなのに、喉は自分の意思を持ったように動いてくれなかった。颯は黙っていたが、椅子から臀部を少し浮かせて前屈みになると、揚羽の肩を抱いて彼女を胸の中に引き寄せた。驚いて仰ぎ見た颯の顔つきは意外にも穏やかで、まるで嵐が過ぎ去ったあとの空のようだった。
「――今は頑張らなくていい。だから思いっきり泣いちまえ」
 颯の声は極めて優しく調子は温かで、聞いているとあたかも柔らかく心を慰撫されているような気がした。揚羽の中にするりと入ってきた颯の声は、張り詰めていた心の糸を紡ぎ取っていった。瞬間揚羽が全力で抑えていた涙腺は一気に断ち切れる。服を掴んで颯の胸に顔を埋めた揚羽は、眉間に深い皺を作って、小振りの唇を震わせながら滂沱した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「分かったからもう謝るなって。……お前は何も悪くないんだよ」
 胸に顔を埋めて泣く揚羽の頭を颯は優しく撫でる。そして尖っていた心は、春の陽光に照らされた氷のように静かに溶けて、穏やかに平らになっていき、やがて夜明けの光に包まれたのだった。