第3章 心は浮雲のように

 桜の花の咲く頃は天気が短い周期で変化して、爽やかな快晴だと思っていても、すぐに薄い雲が流れてきて太陽が光の輪の暈を被ったりする。このような曇り空を花曇りというのだ。午後の訓練を終えた燕揚羽1等空曹は、どんよりと広がる花曇りを見やりながら、松島基地外周を走っていた。音速で空を翔けるファイターパイロットを目指しているのだから、身体を鍛えておくのは当然だ。体力は入隊してから自然と身についたがそれでもまだ足りない。女性がファイターパイロットを目指せる道が開放されたが、しかしクリアすべき基準は男性と変わらないので、相対的に男性より体力の劣る、女性に課されたハードルは高い。例え男性の頑健さに及ばなくとも、身体は常に鍛えておくつもりだった。
 軽快に走り続けていると、揚羽と同じように基地外周を走っている男性隊員が前方にいた。半袖のシャツと灰色のピクセル迷彩のズボン、フライトブーツを履く長い両足は交互に地面を蹴っている。走る速度を上げて揚羽は彼に近づいた。前髪を長めに残したコバルトブラックのショートヘアに、猫の目のような奥二重の切れ長の目。やっぱりそうだ。誰もが羨む端正な面立ちの美青年は、第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット、TACネームはゲイルの鷲海颯1等空尉である。颯を見つけた揚羽は少しだけ嬉しくなった。例えるならば四つ葉のクローバーを見つけた感じだろうか。追いついた揚羽が横に並んで挨拶すると、鷲海颯1等空尉は視線を横に動かした。
「誰かと思ったらドルフィンテール……じゃなくて燕か。午後の訓練はどうしたんだ? まさかサボったんじゃないだろうな」
「サボってなんかいません! ちゃんと終わらせました!」
 燕と呼ばれて嬉しかった揚羽の喜びは一瞬で吹き飛んだ。開口一番からかわれて怒る揚羽を横目に颯は走る速度を上げる。置いていかれまいと揚羽も速度を上げて颯についていく。その気になれば余裕で引き離せるはずなのに、颯は少し先で揚羽が追いつくのを待ってくれていた。
「そういえば5番機が見当たらなかったんですけれど、鷲海1尉は今日は飛ばないんですか?」
「IRANに出されているからな。しばらくは地上勤務だ」
「アイロン? 洋服の皺伸ばしに使うあれですか?」
「馬鹿、ア・イ・ラ・ンだ。なんで5番機をアイロンに掛けるんだよ。お前、やっぱり座学をサボってるんじゃねぇのか?」
「座学も訓練も欠かさず出ていますよ! ちょっと聞き間違えただけじゃないですか!」
 IRANは「Inspection&Repair As Necessary」の略称で定期整備のことをいう。激しい機動で過荷重を掛けたりしなければ、だいたい三年を飛んだらメーカーの整備工場に送り、機体をオーバーホールするような重整備を行う。要約していうと飛行機の車検で、ついでに能力向上の改修を行うこともある。
 当たり前だがパイロットの仕事はフライトだけではない。フライトの他にもパイロットそれぞれに専門の仕事が与えられており、訓練計画を立案する者、任務遂行時に必要な情報収集を担当する者、部隊に関する外部からの広報業務全般を担当する者などがいる。飛行訓練の合間にそうした事務作業もこなさければいけないので、体力に自信がなければパイロットは務まらない。ちなみに揚羽は座学よりも飛行訓練のほうが好きなので、言わずもがな座学の成績はローアングル・キューバン・テイクオフ顔負けの超低空飛行である。
 それにしてもただ単純にランニングをしているだけなのに、颯が走っている姿はとても絵になっている。その姿といったら、清涼飲料水のコマーシャルで、青春まっしぐらと言わんばかりに、夏の海辺を疾走しているイケメン俳優のようだ。黒髪が跳ねる横顔は羨んでしまうくらい綺麗だし、頬から首筋に伝って落ちていく汗さえも爽やかに見えてしまう。引き締まった上半身に張りついたシャツは、じんわりと汗ばんでいて、なんというか大人の男性の色気が全開になっているような気がする。
(鷲海1尉って彼女はいるのかな……。ううん、こんなにイケメンなんだから、絶対いるに決まってるわ。いるのだとしたらキスはしたことがあるのかしら。もしかすると、エッ、エッチも経験済みとか!?)
 頭の中で許可なく颯のプライベートを推理していると、やや前方を走っていた颯がゆっくりと立ち止まった。どうやら基地外周を一周し終えたらしい。あれこれ考えていたからちっとも気づかなかった。肩で息を切らしながら颯が唐突にシャツを捲り上げた。揚羽の目の前で、筋肉で硬く引き締まった背中と、盛り上がった肩甲骨が露わになる。揚羽は喉まで迸りかけた悲鳴をかろうじて飲み込んだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! どうしていきなり服を脱ぐんですか!?」
「どうしてって……汗を掻いて気持ち悪いからに決まってるだろ。浴場に行ってから服を脱ぐ手間もはぶけるしな」
 言うなり颯はさらにシャツを捲り上げた。今度は服を着ていたら分からない厚い胸板が露わになった。色気溢れる艶めかしい姿態を目の当たりにした揚羽は、思わず生唾を飲んでしまった。
「服を脱ぐなら浴場に行ってからにしてください! 女の子の前でいきなり服を脱ぐなんて変質者じゃないですか! セクハラされたって蓮華2佐に言いつけますよ!」
 半ばパニック状態になった揚羽が悲鳴に近い声で言うと、唇をへの字に曲げた颯は捲り上げていたシャツを下ろしてくれた。官舎を訪ねた時もそうだったが、理性へのダメージが半端ない。汗を掻いて気持ち悪いからシャツを脱いだんだ! だなんて幼稚園児の思考回路ではないか。これ以上一緒にいるとこちらの神経が持たない。ぷりぷり怒りながら第21飛行隊隊舎に戻ろうとしたところ、揚羽は颯に呼び止められた。
「お前、暇なのか?」
「えっ? ええ、一応やることは片付けたので……暇と言えば暇ですけれど」
 颯は何か考えている素振りを見せたあと口を開いた。
「暇ならちょっと俺に付き合え」
「えっ? 付き合えって、まさか――」
「勘違いするなよ。デートの誘いじゃないからな」
 揚羽の期待はばっさりと切り捨てられた。祝福の胴上げをされたが受け留められず、地面に落とされたような気分だ。揚羽の返答を待たずに颯は歩いていく。まったくいいようにこちらの感情を弄んでくれる。嘆息した揚羽は颯の後を追いかけた。付き合えと言われたが颯はどこに行くのだろう。分からないままついて行くと颯は揚羽を待たせて基地売店に入っていった。ややあって売店のレジ袋を提げた颯が出てくる。レジ袋に手を突っ込んだ颯が、取り出した物を揚羽に向かって投げ渡した。揚羽は両手を広げて慌てて受け留める。颯が投げてよこしたのはアップルジュースのミニボトルだった。
「あの、鷲海1尉、これは――」
「走ったから喉が渇いてるだろ。適当に買ったけれどそれでいいか?」
「はっ、はい、ありがとうございます。あとでお金を払いますね」
「いらねぇよ。俺はお前に恵んでもらうほど金に困ってないからな」
 だからその一言が余計だと思うのだが。それにこちらとて数百円を出し惜しみするほど貧乏ではない。まったくどれだけ不器用なんだか。内心呆れつつも颯と一緒に歩き続けた揚羽は、滑走路東側のフェンスの前に到着した。フェンスの向こう側には見学用の展望台が設置されており、ブルーインパルスの格納庫が一望できる。さらに少し歩けば滑走路の正面まで行くことができ、東側からの着陸ではパイロットのヘルメットが確認できるほど距離は近い。フェンス近くで足を止めた颯は、辺りを見回すと大きく口を開いた。
「おーい! トムキャット!」
 颯が呼ばわってからしばらくして「ミャア」と可愛らしい鳴き声が聞こえた。フェンスに開いた穴をくぐって一匹の黒猫が入ってくる。颯が口笛を吹くと黒猫は尻尾を振りながらこちらにやってきた。颯は長身を折って屈みこむと、地面に置いたレジ袋から鮭フレークの缶詰めを取り出して、慣れた手つきで蓋を開けた缶詰めを黒猫の前に置く。黒猫は嬉しそうに一声鳴くと、さっそく鮭フレークを食べ始めた。
「この猫ちゃんは?」
「何日も前から基地をうろついていて、危ないなと思って外に連れ出しても、次の日には戻ってくるんだ。しかたがないから餌をやっているうちに懐かれちまったんだよ。首輪を着けてるし毛並みも良いみたいだから、近くに住む誰かの飼い猫なんだろうな」
「じゃあトムキャットっていうのは――」
「俺が勝手につけた名前。黒猫とか猫とかだとこいつも嫌かと思ってさ。人間だってそうだろ? おい! だなんて呼ばれたら誰だって腹が立つぞ。美味いか? トムキャット。残さず全部食べろよ」
 鮭フレークを残さず綺麗に完食したトムキャットを抱き上げた颯は、いきなり鎖骨から首筋を舐められて笑い声を上げた。いつもの颯からは想像もつかない明るい顔と笑い声だ。これが世間で言う「ギャップ萌え!」なのだろうか。颯が普段見せない明るい表情を見た瞬間、なぜだか心臓の鼓動が暴れ出したように感じたが、それは気のせいだと揚羽は自分に言い聞かせたのだった。


 宝石のような緑色に色づいた草木の上を、爽やかに薫る風が吹き渡っていく。こういう晴れやかな日は、大きく伸びをして太陽の日差しをいっぱい浴びたいところだが、生憎そうはいかなかった。なぜなら鈍痛を訴えている身体が言うことを聞いてくれないのだ。これは高G環境下におけるダメージのせいである。恐らく酷い痣が身体中に浮かんでいるに違いない。首や背骨もいい加減おかしくなっていそうだ。今から老後が心配になってきた。
 今日の訓練は戦技訓練だった。とはいってもF‐2Bを操縦していたのは、地獄の閻魔大王こと遠藤教官で、揚羽は後席に座って教官同士の熾烈な空中戦を体験していた。さすがは現役のファイターパイロット。機体の性能を知り尽くし、限界まで引き出した空中戦は、思わず目を見張るものがあった。それにしても「ふはははは!」と高笑いをしながらF‐2Bを操縦する遠藤教官には戦慄した。彼は生まれながらの超ドS体質に違いない。全身汗びっしょりで気持ちが悪いから、早く宿舎に戻ってシャワーを浴びよう。だが身体が瀕死状態なので思うように歩けない。猫背の姿勢でとぼとぼと歩いていると、後ろのほうから大声が飛んできた。
「こらーっ! 待ちなさい!」
 揚羽が振り向こうとしたその時だ。後ろから走ってきた誰かが、猛烈な勢いと速度で揚羽にぶつかった。咄嗟に両足を踏ん張った揚羽はなんとか転倒せずにすんだが、ぶつかってきた人物は小さな悲鳴を上げて地面に転がった。戦技訓練で疲れ果てている自分に、体当たりをするとはいい度胸をしている。開口一番揚羽は文句を言うべく身構えたのだが、相手を見た途端に文句を言いたい気持ちは一瞬で霧散したのだった。
「ごっ、ごめんなさい……」
 揚羽の背中に体当たりをしてきたのは幼い女の子だった。黒髪をリボンでツインテールに結び、セーラーカラーのマリンワンピースを着ている。実際に衝突されたのはこちらなのだが、いたいけで小さな女の子に謝られると、なんだか自分のほうが悪いことをしたように思えてきてしまう。女の子のところに駆け寄った揚羽は彼女を助け起こした。ややあって警務隊の隊員が急ぎ足でこちらにやってきた。
「勝手に入ったら駄目じゃないか!」
 追いついた警務隊の隊員が険しい形相で女の子を叱りつける。女の子は揚羽の後ろに隠れると身を震わせた。言うことを聞かない女の子に痺れを切らしたのか、大股で歩み寄ってきた隊員は揚羽の側面に回りこむと、恐怖でまだ震えている彼女の細い腕を掴んだ。
「さあ、おじさんと一緒に来るんだ! 君のご両親に迎えに来てもらうからね!」
「いやっ! 離して!」
 女の子は隊員のお腹を叩いて必死に抵抗するが、やはり力と体格で勝る隊員に負けてしまい、引き摺られるように警務隊の警務室に連れていかれた。振り返った女の子が一瞬揚羽を見やる。あれは助けを求めている眼差しだ。どうやら揚羽は知らないうちに、女の子に味方だと認識されてしまったらしい。それに女の子を見捨てて立ち去るのも後味が悪すぎる。仕方がないと割り切った揚羽が警務室に入ると、女の子は椅子に座らされていた。
「お家の電話番号かご両親の携帯電話の番号は知ってるの?」
 隊員が尋ねると女の子は子供用のスマートフォンを取り出した。スマートフォンを受け取った隊員が、画面を操作して電話番号を確認する。
「それじゃあお母さんに連絡して、すぐ迎えに来てもらうからね」
「ママにはまだ言わないで!」
 椅子から飛び下りた女の子が受話器を持ち上げた隊員にしがみつく。なにがなんでも母親への連絡を阻止したい様子だ。これには何か深い理由があるのかもしれない。隊員にしがみついて離れない女の子を引き離した揚羽は、優しい声音で彼女に尋ねてみた。
「どうしてお母さんに連絡したら駄目なの? お姉ちゃんに教えてくれないかな」
「……友達を見つけるまで帰りたくないから」
「お友達を捜しにきたの?」
 こくりと頷いた女の子は目尻に涙を滲ませていた。
「お願い! 一緒にあの子を捜して! あの子はわたしの大切な友達なの!」
 女の子は遂に涙腺を全開にして泣き出した。想いの強さと健気な姿に揚羽は胸を打たれる。こんな姿を見せられたのだから、是が非でも彼女の友達を見つけ出してあげたい。小さな子供とはいえ彼女は日本国民の一人。そして揚羽たち自衛隊員の任務は国民を守り助けることだ。女の子の前に屈んだ揚羽は華奢な肩に手を置いた。
「分かった、お姉ちゃんも一緒に友達を捜してあげる」
「……本当?」
「うん。だってお姉ちゃんは自衛隊員だからね。貴女たちみんなのために働くのが任務なの。だからもう泣かないでくれる?」
 女の子は涙ぐみながら、何度も何度も「ありがとう」と揚羽に言ってきた。女の子に同情した隊員は二時間だけ待つと言ってくれたので、心優しい隊員にお礼を言い、揚羽は彼女を連れて警務室を出る。揚羽が名前を尋ねると女の子は陽菜と名乗り、捜している友達は男の子だと教えてくれた。男の子は乗り物が好きだから、まずは格納庫かエプロンに足を運んだほうがいいかもしれない。
「あっ! ドルフィンさんだ!」
 第11飛行隊のエプロンに駐機されているT‐4を見つけた陽菜は、大きな目を輝かせると脇目も振らずに駆けていった。友達を捜しに来たのではないのか。まったく小さな子供は興味の対象がすぐ変わるから面倒だ。陽菜を追いかけながら揚羽は苦笑する。突然現れた闖入者に驚く整備員たちの視線をものともせずに、陽菜は丹精込めて磨かれて輝くT‐4を、憧れの眼差しで見上げていた。まるで幼い頃の自分を見ているようだと揚羽は思った。
「陽菜ちゃんはT‐4が好きなんだね」
「うん! 大好き!」
「でもT‐4に触っちゃ駄目よ。怖いお兄さんが飛んでくるからね」
「――誰が怖いお兄さんだって?」
 不意に頭上から低い声が落ちてきた。腕組みをした青年が入道雲の如く後ろに立っている。5番機をIRANに出されて地上勤務中の鷲海颯1等空尉だ。究極の仏頂面に怯えたのか陽菜は揚羽の後ろに避難した。
「怖がらなくても大丈夫。このお兄さんはイケメンだけれど、性格が悪いだけだから」
「……おいこら。本人の前でさらっと悪口を言うんじゃねぇよ」
 颯が揚羽の頭越しに陽菜を覗き込む。やはりと言うべきか彼女は身体を震わせた。
「――まさかお前の隠し子か?」
「ちっ、違います! 馬鹿なことを言わないでください! 高校生の頃に産んだ子になるじゃないですか! あり得ないですよ!」 
「冗談に決まってるだろうが。どうせファーストキスも初体験もまだなんだろ?」
 颯は明らかに揚羽を小馬鹿にしている笑みを浮かべた。図星を突かれた揚羽は言葉を詰まらせる。燕揚羽、今年で満23歳。生まれてこのかた、男性とのお付き合いをしたことは一度もない、純情街道まっしぐらの乙女だ。なのでもちろんファーストキスと初体験もまだである。――このセクハラ大魔王め。裸同然の格好で出てきて、うら若き乙女の目の前でシャツを捲り上げ、さらには今の発言だ。やはり蓮華2佐に逐一報告すべきだろう。陽菜が服の袖を引いたので、揚羽は本来の目的を思い出した。
「ごめんね。怖いお兄さんはほっといて、お姉ちゃんとお友達を捜しにいこうね」
 颯を睥睨した揚羽は陽菜と手を繋いでエプロンを離れる。構内道路に戻って歩いていると、靴音が二人を追いかけるように聞こえてきた。振り返ってみると颯が追いかけてくるのが見える。恐らく揚羽に暴言の続きを浴びせたくて追いかけてきたのだろう。颯は自分が満足するまで揚羽を苛めたいのだ。遠藤教官だけでなく颯もドS体質ということか。
「まだ私に言い足りないことがあるんですか? でしたら早く言ってください」
「その子の友達捜し、俺も手伝ってやるよ」
「えっ?」
「友達を捜しに基地まで来たんだろ? 事務作業は終わらせたから暇だし、俺も一緒に捜してやるって言ってるんだ。馬鹿みたいに突っ立ってるんじゃねぇよ。さっさと友達とやらを捜しにいくぞ」
 揚羽の返事を待たずに颯は歩いていった。強引な颯に嘆息しつつ、揚羽は陽菜を連れて彼の後を追いかけた。三人は飛行隊や気象観測隊に広報班などの隊舎を順番に回り、ハンガーと整備格納庫にも足を運ぶ。訪れた先で出会った隊員たちに、幼い子供を見ていないか尋ねてみたが、彼らは一様に「見ていない」と首を振るだけだった。思いつく場所はすべて見て回ったというのに、陽菜が基地まで追いかけてきた友達は見つからない。まさか陽菜が捜しているのは幽霊の友達なのだろうか? 幽霊が視える第六感を持つ少年の映画を揚羽は思い出した。
 ここにきて陽菜が疲れている様子を見せたので、いったん休憩をとることにした揚羽と颯は基地売店に向かい、二人で折半して冷たい飲み物とお菓子を購入すると、空いているテーブルの椅子にそれぞれ腰かけた。季節はまだ春なのに今日は夏を思わせるような陽気だ。汗ばむような陽気に負けた颯はシャツの胸元を掴んで扇いでいる。颯がシャツを扇ぐたびに鎖骨が見え隠れするので、揚羽の視線はどうしても彼の胸元付近に吸い寄せられてしまった。我慢するんだと言い聞かせて煩悩を追い払う。そんな揚羽の気も知らない颯は、コーラを飲んで乾いた喉を潤すと、苺ミルクを美味しそうに飲んでいる陽菜に話しかけた。
「なあ、お前の友達って奴は男なのか? それとも女なのか?」
「男の子だよ」
 颯が訊くと陽菜は怖がらず素直に答えた。どうやら一緒に友達を捜し回っているうちに、颯に抱いていた恐怖心が消えたらしい。
「その子はどんな服を着ているんだ?」
「服は着てないよ。だって着なくてもいいもん」
 なんということだ。彼は衣服を着けることを好まない裸族だったのか! 驚愕した揚羽と颯は思わず顔を見合わせた。しかし裸族は家で寛ぐ時だけ裸になるはず。それなのに全裸で外を歩き回っているなんて異常だとしか思えない。真っ裸で基地をうろついていたら、隊員たちの誰かに確保・保護されているであろうに、これだけ捜しても見つからないとなると、やはり友達の男の子は幽霊なのかもしれない。いずれにせよもう少し詳しい情報が必要だ。なので揚羽は陽菜からさらに情報を訊き出してみることにした。
「ねえ、その子はどうしてお洋服を着なくてもいいのかな。もしかしてお母さんかお父さんに苛められてるとか?」
 揚羽の問いに陽菜は「ううん」と首を振る。
「わたしの友達は猫だもん。猫は服なんて着ないでしょ? それにパパもママも苛めたりなんかしないよ」
 目を見開いた揚羽と颯は二度目の衝撃に頭を殴られた。どうりでこれだけ捜し回っても見つからないわけだ。せめて最初に捜しているのは猫だと言ってほしかった。もちろん訊かなかったこちらにも責任はあるが。
「鷲海1尉、陽菜ちゃんが捜している猫って――」
「ああ、きっとあいつだ。お前が捜している猫、すぐに見つかるかもしれないぞ」
「えっ? 本当?」
 期待に目を輝かせる陽菜を連れた揚羽と颯は、滑走路東側のフェンス前に向かった。颯が口笛を吹くと、その音色を待っていたかのように、一匹の黒猫がフェンスの穴から中に入ってくる。颯が鮭フレークの缶詰めを食べさせていた迷い猫だ。瞬間陽菜の頬に喜びの薔薇色が差す。彼女は颯の足にすり寄ってきた黒猫を抱き上げると、愛情たっぷりに何度も頬擦りした。
「テディ! 帰ってこないから心配してたんだよ!」
 陽菜がする愛情たっぷりの頬擦りと抱擁に、テディと呼ばれた黒猫はとても嬉しそうな鳴き声を上げている。なんとも微笑ましい二人の姿に揚羽は自然と笑っていて、颯もうっすらとではあるが唇を柔らかくほころばせていた。かなり難儀したが無事にテディを見つけられてよかった。陽菜の笑顔を見たら疲れは一気に吹き飛んだ。
「猫ちゃんはテディって名前だったんですね。あの、鷲海1尉。どうして『トムキャット』なんて仮の名前をつけたんですか?」
 揚羽が訊くと颯はまるで宇宙人を見たような表情で見返してきた。
「……お前、ファイターパイロットを目指しているくせに、トムキャットを知らないのか?」
「はい」
「トムキャットは2004年に退役した、アメリカ海軍のF‐14戦闘機の愛称だよ! そのトムキャットを有名にした映画が、俺たち空自パイロットの間で伝説になっている『トップガン』さ! 空自パイロットを目指す奴なら、誰でも知っている超有名な映画だぜ? そのトップガンを知らないなんて、お前は人生損してるぞ! 今度俺の部屋でDVDを見せてやるよ! あの臨場感溢れる空中戦を見たら、興奮すること間違いなしだ!」
 どうやら揚羽は颯の中にある切り替えスイッチをONにしたらしい。颯は目を輝かせてトップガンという映画の素晴らしさを熱く語り始めた。そんな颯の様子に揚羽は目を白黒させた。普段のクールボーイが嘘のような変貌である。人間趣味を語る時はこうまで熱くなれるのか。ややあって熱弁をふるっていた颯が我に返る。若干引き気味の揚羽の視線に気づいた颯は、誤魔化すように一回咳払いをすると、「行くぞ」と言って先に歩いていった。陽菜を連れた揚羽と颯が正門に向かうと、警務隊の警務室の前で隊員と話していた女性が急いだ様子で走ってきた。清楚なホワイトブラウスの上にピンクベージュのカーディガンを羽織り、花柄の黒色のフレアスカートを穿いている。開口一番女性は陽菜に声を荒げた。
「勝手に家を抜け出したりなんかしたら駄目じゃない! 必死で捜したのよ!」
「……ごめんなさい」
 陽菜を叱りつけた女性は揚羽と颯のほうを向くと頭を下げた。
「娘がご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。テディを捜しているのは知っていたんですけれど、まさか基地に忍び込むとは思ってもいなかったので……」
「いえ、いいんですよ。無事にテディ君を見つけられてよかったです。国民を守り助けることが、俺たち自衛隊員の任務ですから」
 爽やかに笑んだ颯が答えたので揚羽は驚いてしまった。夢中になって熱弁をふるったかと思えば、こんなふうに真摯な言葉を口にする。雲のように掴めない青年だと改めて揚羽は思った。何がきっかけで不機嫌になって、何がきっかけで優しさを見せてくれるのだろうか。颯の横顔に当てていた視線を動かした揚羽は、こちらに早足で歩いてくる男性隊員の存在に気がついた。遠目にもはっきりと分かる。彼は第11飛行隊飛行班長の鬼熊薫3等空佐だ。鬼熊3佐は母娘と二言三言会話をすると、揚羽と颯が立つほうにやってきた。
「話は聞きました。陽菜が迷惑をかけたようですみません。おまけにテディ捜しまで手伝ってくれたそうですね。私からもお礼を言わせてください」
「ベアーさん、あの二人と知り合いなんですか?」
「知り合いも何も……妻の奈美と娘の陽菜ですよ」
 本日三度目の衝撃が揚羽と颯に襲いかかった。大きな焦げ茶色の双眸。緑の黒髪に映える透明感溢れる白い肌。薄紅を塗ったような唇。ガラスケースの中で静かに佇む西洋人形を思わせる、可憐な容姿の陽菜が、あろうことか鬼熊3佐の遺伝子を受け継いだ娘だって? おまけに奥さんだという奈美も女優のような美貌の持ち主である。まさに実写版の美女と野獣だ。
「陽菜ちゃんが鬼熊3佐の娘さんだなんて……嘘ですよね?」
「きっとあれだ。異星人と人間を交配させたハイブリッドなんだよ」
「……それはXファイルでしょう。貴女たちは私の娘をなんだと思っているんですか」
 呆れたように嘆息すると鬼熊3佐は颯に視線を向けた。
「ところでゲイル、事務所の貴方の机に書類が積まれたままなんですが、あれはいったいどういうことですか? 蓮華2佐が隊長室でお待ちしていますから、すぐ隊舎に戻りなさい。奈美と陽菜を官舎まで送ったら私も行きますからね」
 最後に「覚悟しておきなさい」と付け加えた鬼熊3佐は、待っていた奈美と陽菜を連れて歩いていった。奈美は一礼して陽菜は両手を大きく振り、揚羽と颯に感謝の気持ちを伝える。鬼熊3佐と奈美と手を繋いで歩く陽菜は、至福の笑顔を満面に浮かべていた。
「家族、か――」
 不意に揚羽の隣で親子の姿を見つめていた颯が静かに呟く。夕焼け空を見た時に感じる憂いと寂しさが、颯の綺麗な横顔に表れているような気がした。
「さてと、猫は見つかったし隊舎に戻るとするか」
「猫捜しに付き合ってくれて、ありがとうございました。でもどうして事務仕事は終わらせただなんて嘘をついたんですか? 言ってくれれば私一人で捜しましたのに――」
「……お前を放っておけなかったからな」
「えっ……?」
 揚羽の胸は熱く燃え上がる。だが揚羽の期待は次に放たれた言葉によって、見事に裏切られたのだった。
「ミイラとりがミイラになるって諺を知ってるだろ。あのままお前を一人で行かせていたら、二人とも迷子になっていたに決まってる。お前は見ていて危なっかしいから、誰かが側にいて目を光らせておかないといけないんだよ。だから俺はお前に付き合ってやったんだ。感謝されてもいいくらいだぜ」
「そうですね。これもみんな鷲海1尉のお陰です」
 揚羽が素直に認めると、颯は毒気を抜かれたような顔になった。まるでドッキリを仕掛けられたお笑い芸人のような表情だ。特におかしなことを言ったつもりはないのだが。
「……なんなんですかその顔は」
「いや、その、お前があまりにも素直すぎて驚いたんだ。いつもなら即座に生意気に言い返してくるし――」
「だって鷲海1尉がテディに懐かれていなかったら、私たちは彼を見つけられなかったかもしれませんよ。鷲海1尉が迷い猫だったテディを見つけて、餌をあげて仲良くなったから、陽菜ちゃんは彼と再会できた。私はそう思います」
 眦を緩めて柔らかく微笑んだ揚羽は、素直に思ったことを言葉に変えて颯に伝える。微笑みを向けられた颯は、しばらく揚羽を見つめたあと、素っ気なく顔を逸らしてしまった。もしかしたら目の錯覚かもしれないが、揚羽には颯の頬がほんのりと朱色に染まっているように見えた。あの颯が乙女のように恥じらいを見せている。まさに驚天動地だ。照れる颯をもっとからかいたくて揚羽は言葉を続けた。
「早く隊舎に戻ったほうがいいんじゃないですか? 蓮華2佐が手ぐすね引いて待ってますよ」
「――っ! お前に言われなくとも分かってるよ!」
 唇をへの字に曲げた颯は拳骨で揚羽の頭を小突くと、肩をいからせながら第11飛行隊隊舎が建つほうへ歩いていった。あれでこそいつもの颯だ。なんだか嬉しくなった揚羽は自然と笑ってしまう。新緑の季節を迎え始めた風光る松島基地を、温かな凱風が吹き抜けていく。お互いが不思議な引力に惹かれ合っているのを、揚羽と颯は当然ながらまだ知らずにいた。



 積み重なって見える団塊状の雲が浮かぶ、からりと晴れた空はすっかり夏の様相だ。視界いっぱいに広がる空は、真っ青な波を幾重にも重ねた海のような色を湛えている。F‐2Bの後席に遠藤教官を乗せて、松島基地を離陸した揚羽は、島や岩礁など地形上の目標物を頼りに飛ぶ地文航法の訓練を行っていた。しかし建物が建ち並び、山や川などの明確な地形上の目標物が多い地上とは違い、海上は目標物を捉えにくく、自機の現在位置を簡単に見失ってしまうのだ。遠藤教官に操縦を奪われることもなく、揚羽はなんとか無事に訓練終了を告げられる。揚羽が操縦桿を倒して基地への帰投経路をとった時、ヘルメットイヤフォンに声が届いた。
『松島オペラ、アポロ15。聞こえますか?』
 オペラは在空機に指示を出す飛行指揮所のコールサインで、「Flight Operation」を縮めたものである。揚羽が応答するとオペラは遠藤教官と代わってほしいと言ってきた。
『アポロ15、ボイスクリア。――なんだって? ああ、分かった。そっちのランウェイに着陸すればいいんだな?』
 会話が終わった後席から緊張感が伝わってくる。不安を覚えた揚羽は前後席通話装置で遠藤教官に話しかけた。
『教官、基地で何かあったんですか?』
『……どうやら着陸しようとしたF‐2Bが事故を起こしたらしい。ランウェイ07は使えんそうだから、ランウェイ15に着陸するぞ』
 遠藤教官に頷いた揚羽は、胸を掻き乱す不安がさらに大きくなるのを感じたが、冷静でいられるよう努めた。管制塔と交信した揚羽は基地上空を右旋回すると、オーバーヘッドアプローチでランウェイ15に着陸する。着陸したあとはタキシングで誘導路からエプロンに進入した。整備員にベルトとハーネスを外してもらった揚羽は、飛び降りるようにコクピットから出る。揚羽は遠藤教官の制止する声も聞かず、場内救難を要請するサイレンが鳴り響く構内を疾走した。
 揚羽が向かったランウェイエンドにある緊急拘束装置には、翼とキャノピーが大破したF‐2Bが、右に傾斜した状態で、網に囚われた魚のように引っかかっていた。黒山の人だかりの近くに停まっているのは救急車両だ。ややあって救急隊員が担ぐストレッチャーに乗せられた、女性パイロットが運ばれてくる。目の前を運ばれていく彼女の顔を見た揚羽は愕然とした。
 ストレッチャーに乗せられているのは石神瑠璃3等空尉。フライトコース・ブラボーの幹部候補生で、浜松基地第1航空団での戦闘機操縦基礎課程を終えたあとは、F‐2戦闘機操縦課程に振り分けられて、揚羽と同じ第21飛行隊で共に訓練に励んでいる、未来の女性ファイターパイロットである。瑠璃は揚羽より先に訓練を終えて基地に帰投しようとしていた。遠藤教官から事故を聞かされた時、揚羽の脳裡には真っ先に瑠璃の顔が思い浮かんでいた。事故を起こしてしまったのは、やはり彼女だったのか――。空で覚えた揚羽の不安は現実になってしまったのだ。
「瑠璃さん!」
 ストレッチャーに駆け寄った揚羽が呼ばわると、瑠璃はうっすらとだが薄茶色の双眸を開けた。瑠璃の綺麗な顔は血の気を失って青褪めており、彼女のものと思われる血がこびりついている。揚羽は瑠璃が声を発するのを待っていたが、彼女は再び双眸を閉ざしてしまった。瑠璃を乗せたストレッチャーが救急車両に運び込まれる。怪我人を乗せた救急車両は扉を閉めると、サイレンを鳴らして赤色灯を光らせながら、市内の自衛隊病院を目的地に走り去った。瑠璃の衝撃的な姿を目の当たりにした揚羽は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「燕!」
 名前を呼ばわれた揚羽は身体を捻って振り向いた。息を切らした青年が少し離れた所に立っている。ブルーインパルスの部隊ワッペンと、ドルフィンライダーのショルダーワッペンが付いたパイロットスーツの上に、救命胴衣を身に着けて耐Gスーツを巻いた青年は、リードソロを担当する鷲海颯1等空尉だ。揚羽の正面に早足で歩いてきた颯は、化石のように端正な顔を強張らせている。瞬間揚羽の視界はいきなり遮られた。背中と腰に回されているのは引き締まった颯の長い腕。右肩に温かい重みを感じるのは、覆い被さるように屈んだ颯が、揚羽の肩に顔を埋めているからだ。
(嘘、私、鷲海1尉に抱き締められてる――?)
 揚羽の頭の中は真っ白になっていた。お互いの身体は隙間がないくらい密着していて、起伏に乏しい揚羽の胸は、鍛え抜かれた颯の逞しい胸に押し潰されている。颯の乱れた心音が密着している揚羽の胸を叩く。自分が颯に抱き締められるなんてあり得ない。顔を合わせるとまず颯が何かしらの憎まれ口を叩き、それに揚羽が反駁するような関係だ。決してこのように強く抱き締めてもらうような、甘ったるい関係ではない。それなのに揚羽は颯の腕の中にいる。とても信じ難い出来事、まさに青天の霹靂だ。埋めていた肩から顔を上げた颯が、真っ直ぐに揚羽を見つめてきた。
「21飛行隊の奴が事故を起こして、クラッシュバリアに突っ込んだって聞いたから、俺はお前が事故を起こしたんじゃないかと――」
 颯の声は途中で途切れた。長い睫毛に埋もれてしまいそうな颯の切れ長の双眸は、透明な朝露の珠を乗せた葉っぱのように濡れていて、溜まっていく涙の重みを支えきれずに震えていた。涙を湛えた切ない眼差しに真っ直ぐ見つめられて、揚羽の胸はぎゅっと締めつけられる。そして揚羽は颯をこんなふうにしている感情の正体に気づいた。それは恐怖である。颯の心の中には恐怖が雨雲のように広がっているのだ。
「あの、鷲海1尉、私は大丈夫ですから……」
 周囲の視線が二人に一極集中している。顔から火が出る思いで揚羽が言うと、抱いていた彼女を離した颯は、天を仰ぐと両目を固く瞑り、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いてから、閉じていた双眸を開けた。颯は恐怖を心の奥深くに押し込めて蓋をした。揚羽にはそう思えた。
「本当に大丈夫なのか? 怪我とかはしていないのか?」
「はい。事故を起こしたのは、私と同じ21飛行隊の――」
「おい、イルカ野郎。事故現場でいちゃつくとは、いい度胸をしてるじゃねぇか」
 凄みを効かせた声が揚羽の言葉を途中で断ち切った。炯炯たる眼光を放つ遠藤教官が、腕組みの構えで仁王像の如く二人の後ろに立っていた。並々ならぬ怒気が全身から迸っているのが分かる。遠藤教官に「イルカ野郎」と呼ばれた颯は、当然ながら不快そうに眉間に眉を寄せたが、遠藤教官は気にせず言葉の続きを言った。
「事故の原因が分かったぞ。バードストライクだ」
 バードストライクは鳥が衝突したことで起きる事故のことだ。こびりついた死骸と血痕で視界が遮られたり、窓や機械部品が破損することが二次被害の原因となり、さらには激突したことが原因で操作を誤る恐れもある。高速で飛ぶ航空機の場合は特に深刻で、キャノピーを損傷したりエンジンの吸気口に衝突すると、墜落にいたる場合もあるという。鳥は航空機から見て低空を選んで飛ぶことが多く、従ってもっとも危険な離着陸の際に、バードストライクが生じることが多い。また空港・飛行場は、河川や海の近くに建設されることが多いので、発生件数自体も非常に多いのだ。
「その場にいた奴が、後ろに乗っていた柴教官から聞いた話によると、バードストライクでキャノピーを損傷した際、石神はパニックになって操縦を誤って、速度を落とせないまま緊急拘束装置に突っ込んでしまったらしい。真っ先に駆けつけて二人を助け出したのは、救難隊の朝倉晴登1等空尉だそうだ」
 遠藤教官が出した朝倉という名前に颯は敏感に反応した。
「朝倉が? あいつが石神3尉と柴教官を助けたんですか」
「お前、奴と知り合いなのか」
「防府の航学の同期なんです。それで晴登はどこに?」
「二人を助けた時に割れたキャノピーで怪我をしたから、車で市内の病院に向かったそうだ」
 続けて質問をしようとした颯を遠藤教官は遮った。
「とにかく石神と柴に朝倉1尉も無事だから安心しろ。隊舎に戻ってデブリを始めるぞ、スワローガール。お前にはイルカ野郎とよろしくやっている暇なんてないんだからな」
 これ以上事故の話をしたくない様子の遠藤教官は、強引に会話を終わらせると、揚羽に厳しい目を向けてから歩いていった。事故現場に集まっていた隊員たちも、安堵の表情を浮かべながら続々とランウェイを立ち去り始めている。いつの間にか場内救難のサイレンも鳴り止んでいた。
「……俺たちも隊舎に戻るぞ」
「そっ、そうですね。私たちも早く戻らないと。鷲海1尉、また蓮華2佐と鬼熊3佐に怒られちゃいますよ」
 いつもの颯に戻ってほしくてわざと軽口を叩いた揚羽だったが、彼は無言で揚羽を一瞥すると一人で先に歩いていってしまった。揚羽も颯の後を追いかけるが、彼は一度も振り返ることなくどんどん先に進んでいく。空はからりと晴れているにもかかわらず、突然雨が降ってくる。きっとこれは颯の代わりに天が泣いているのだと揚羽は思った。そして抱き締められた時の颯の温もりと、涙の珠に濡れる切ない眼差しを思い出しただけで、平らな水面に石を投げ入れられたように、揚羽の心は波立ち騒いで落ち着かなくなるのだった。


 司令部管理部広報班は、基地のホームページ・SNSの更新、メディアの取材対応、基地見学者の対応と案内などの対外広報に、新しく着隊した隊員情報、基地のイベントスケジュール、基地内報などの対内広報の仕事をしている。いわば広報班は基地と外を繋ぐ橋渡し役だ。松島基地で起きた事故はその日のうちにメディアに取り上げられ、翌日には司令部管理部広報班に電話やメールが一斉に押し寄せた。
 その多くは周辺住民からのもので、あんな事故があったのだから、今すぐ飛行訓練を止めるべきだ! という意見が大半だった。なかには税金泥棒だとか、人を殺すために訓練をしているんじゃないのかという、こちらからしてみれば理不尽なものも混ざっていた。大量に送られてくるメールや鳴り止まない電話に、わずか数名しかいない広報班は、当然ながら本来の業務なんてできるはずもなく、ほとんど一日中対応に追われていた。さらには基地前で抗議デモが起こる始末である。そして事態を重く見た第4航空団司令の斎藤一之空将補は、航空総隊司令と航空幕僚長に指示を仰ぎ、騒ぎが収束するまで救難隊を除く部隊の飛行訓練を自粛すると、広報班を通じてメディアに発表したのだった。
「なんなんですかあの態度は! ただ朝倉1尉はいるかどうか訊いただけなのに!」
 頬を膨らませた揚羽は怒りを露わに声を荒げた。この日揚羽は、事故で負った怪我の治療を終えて基地に戻った、石神瑠璃3等空尉と一緒に松島救難隊の隊舎を訪れた。その目的は瑠璃を助け出してくれた、朝倉晴登1等空尉に会ってお礼を言うためだ。しかし赴いた救難隊隊舎に、朝倉1尉の姿は見えなかったので、揚羽は適当な隊員に彼の居場所を尋ねてみた。すると尋ねられた隊員は、親の仇だと言わんばかりに顔を険しくさせると、朝倉1尉はアラート待機で今は不在だと、愛想の欠片もない声音で言ってきたのだ。ゆえに揚羽はこうして河豚のように頬を膨らませているのである。
「これも全部私のせいね。……ごめんなさい」
 揚羽の隣を歩く瑠璃が暗い声で謝った。
「バードストライクなんて予測できるわけないじゃないですか。だから瑠璃さんのせいじゃありません。あれは不可抗力だったんです」
 予知能力者ではないのだから、事前にバードストライクを予測できるわけがない。揚羽は至極当然のことを口にしたのだが、瑠璃の心を覆う暗い気持ちは消せなかった。瑠璃が心から悔いているというのに、往来する隊員たちの視線はとても冷たい。まるで罪人を見るような目だ。自らに向けられる氷の視線に耐えられなくなったのか、瑠璃は学生隊舎に戻ると揚羽に告げると、猟犬から逃げる子鹿のように早足で構内を歩いていった。怪我を治して復帰したというのに、基地に戻ってみれば敵意剥き出しの態度で出迎えられた瑠璃は、気の毒としか言いようがない。
 瑠璃は山口県防府北基地・航空学生教育群にいた頃から揚羽に親切にしてくれた。いわば姉のような存在である。その瑠璃を朝倉1尉は危険を顧みず助けてくれたのだ。なんとか朝倉1尉にお礼を言うことはできないだろうか。あまり賢くない頭脳を回転させて揚羽は考えた。確か颯は朝倉1尉を航学の同期だと言っていた。であれば電話番号かメールアドレスを知っているだろう。ここはひとつ颯に頼ってみるべきか。飛行訓練は自粛しているから、11格納庫に出向いても颯には会えないだろうし、隊舎の事務室でデスクワークをしているかもしれない。それにわざわざ呼び出してもらうのも些か気が引ける。
 揚羽は腕時計の文字盤を見やった。時刻は12時を少し回っている。一日で一番食堂に人が集まる時間帯なので、颯もいるかもしれないと思った揚羽は、とりあえず隊員食堂に足を運んでみることにした。お昼時で賑わう食堂に入った揚羽は、長机が並ぶ飲食スペースの一番奥の角席に座って昼食を摂っている颯を見つけた。唐揚げ定食を食べている颯の向かい側には、ブルーインパルスの部隊ワッペンとドルフィンライダーのショルダーワッペンがついた、オリーブグリーンのパイロットスーツを着た青年が腰掛けている。颯よりも先に揚羽を見つけたのは、彼の向かい側に座って談笑していた青年だった。
「もしかして……君はドルフィンテールの燕揚羽ちゃん!?」
 席から立ち上がった青年は、目を輝かせながら真っ直ぐ揚羽のところにやってくる。見知らぬ青年に名前を呼ばれた揚羽は、もちろん戸惑ってしまった。
「えっと、あの、貴方は……?」
「俺は蛍木黎児1等空尉。地獄のポジションの4番機を担当してるんだ。ずっと前から揚羽ちゃんとお話ししたかったんだよ〜」
 自己紹介をした蛍木黎児1等空尉は、海辺の朝のような爽やかな笑顔を浮かべて見せた。年齢は颯と同じ20代後半だろうか。やや垂れ目がちな双眸と、片方の頬に浮かぶ笑窪が魅力的な青年だ。マッシュベースのショートヘアはミルクティーのような柔らかい茶色で、スパイラルと平巻きのミックスパーマがかかったようになっている。本人いわく髪質と髪の色は生まれつきで、伯父と母親も同じ髪の色をしているらしい。
 黎児が自ら言ったとおり、4番機はブルーインパルスのなかで地獄のポジションだと言われている。飛行機は危険な時は上に逃げるのがセオリーだが、4番機は編隊飛行をする時、隊長機の後方下部を飛行するため、上方に逃げ場がないからだ。1番機のジェット排気を直接浴びるために、気流が不安定な中でのコントロール。1番機のスモークを浴びつづけるためキャノピーが汚れ、アクロ後半では視界も悪くなっていく。さらには編隊の両側に2番機と3番機がいるのでどこにも逃げ場がない。おまけに追突の危険もある4番機は、まさに地獄のポジションだと言えるだろう。左右のバランスと先頭との距離、1番機からの後方排気を考慮しつつ、安定した飛行が要求される4番機パイロットの黎児は、優れた操縦技術を持っているにちがいない。
「俺と話したくて捜しにきてくれたんだよね? それじゃあ向こうの席でゆっくり話そうか」
 黎児は揚羽の肩にさりげなく手を回してきた。それに顔の距離も近い。下手をすれば唇が触れ合ってしまいそうだ。
「すみません、私、鷲海1尉にお話ししたいことがあって――」
「ええっ!? 俺に会いにきてくれたんじゃないの!? こんな無愛想な奴より俺と話すほうが楽しいのに〜」
「……誰が無愛想な奴だって?」
 今まで黙々と唐揚げ定食を食べていた颯が、ここでようやく声を出して顔を動かした。颯と視線が重なったその瞬間、彼に抱き締められた時の記憶が揚羽の脳裡に蘇り、恥ずかしさと気まずさが胸を叩く。
「それで? 俺になんの用なんだ」
 椅子の背もたれにもたれかかって腕と脚を組んだ颯が尋ねてきた。朝倉1尉に会うために赴いた救難隊隊舎で、隊員に冷たい態度で応対されたことを話すと、颯と黎児は互いに顔を見合わせた。
「無理もないよな。俺たちパイロットとメディックは仲が悪いからね」
「仲が悪い?」
 黎児が伯父と同じ戦闘機部隊にいたパイロットの奥さんから聞いた話によると、同じ基地に属していても救難隊と飛行隊はまったくの別組織らしい。交流会や懇親会も開かれないし、一緒に訓練を行うこともほとんどない。パイロットだと分かっても、どの飛行隊に所属しているのかも分からないそうだ。おまけに戦闘機パイロットの中には救難隊や輸送隊を下に見ている者もいるらしい。そう言えば揚羽が航空学生として山口県防府北基地・航空学生教育群にいた時、防衛大出身の幹部候補生と高卒の航空学生が、反目し合っていた光景を何度か見たことがある。ファイターパイロットとメディックの関係も、それと同じ氷炭相容れずということなのか。
「ファイターパイロットは国家防衛の盾となる身を宣誓したからね。膨大な血税が投入された戦闘機に乗って、超常的な飛行の愉悦に浸るという行為が自分たちだけに許されているのは、命を捨てる覚悟に対する『反対給付』のようなものだって考えちゃうんだよ。そんなある種の特権意識を持っているから、他者を見下すような態度を取ってしまうんだろうね。大丈夫だよ、揚羽ちゃん。颯とは違って俺はそんなことしないからさ!」
 嫌味を言われた颯は黎児を睥睨すると彼に続いて口を開いた。
「防衛大学校出身者のみで構成されるAのアルファとBのブラボーに、一般大学出身と航空学生が混ぜられたCのチャーリーとDのデルタ、航空学生のみのEのエコーとFのフォックストロットがあっただろ? 昔はどっちの出身者も混ぜられていたけれど、防衛大学生と航空学生の喧嘩がなくならないから、四つのフライトコースに分けられるようになったんだよ」
「そうなんですか……。お二人とも詳しいんですね」
「詳しいんですね、じゃねぇだろ。俺に話があるんじゃないのか?」
 颯はパソコンに打ち込んだ文字が誤変換された時のような苛立ちを見せた。いつの間にか話が脱線していたらしい。
「鷲海1尉は朝倉1尉と航学の同期だって言ってましたよね。朝倉1尉と連絡を取ることってできませんか?」
 揚羽が訊くと颯は片方の眉を顰めた。
「いったい晴登に――」
「もしかしてデートしてくださいって言うんじゃ――ぐふっ!?」
 会話に乱入してきた黎児の口に大量の千切りキャベツが押し込まれた。千切りキャベツで黎児の口を塞いだのは颯である。揚羽のほうを向いた颯は、娘に彼氏がいることを初めて知った父親のような顔をしていた。
「……お前、マジで晴登にデートしてくれって頼むつもりなのか?」
「ちっ、違います! 私は瑠璃さんを助けてくれたお礼を朝倉1尉に言いたいだけです!」
「瑠璃? クラッシュバリアに突っ込んだ21飛行隊のパイロットか?」
 揚羽が「そうです」と頷くと、颯はどことなく安堵したような面持ちになった。
「それならそうと早く言えよ。晴登に連絡はしてみるけれど、会えるかどうかは分からないからな」
「はい。ありがとうございます」
 ポケットからスマートフォンを引っ張り出した颯が電話番号を打ちこもうとしたその時だ。今まで大量の千切りキャベツを咀嚼していた黎児が再び割り込んできた。
「だったら今度の休みに晴登と瑠璃さんを呼んで、颯の部屋で鍋パーティーをやろうぜ! みんなで鍋をつつけばすぐに仲良くなれるぞ!」
「おい! なんで俺の部屋でやるんだよ!」
「飯食って風呂に入って寝るだけの部屋なんだから別にいいだろ! 颯は土鍋とカセットコンロ、俺は肉と野菜とお酒を準備するから、揚羽ちゃんと瑠璃さんは、お茶とジュースとお菓子を買って持ってきてくれる? それじゃあ今週土曜の午後6時ということで!」
 あっという間にスケジュールを組み込んだ黎児は席を立ち上がると、鼻歌を歌いながら上機嫌で食堂から出て行った。その場に取り残された揚羽は、恐る恐る視線を動かして颯のほうを見やる。颯は左右の目尻を吊り上げて唇をひん曲げていた。きっと颯の腹の底では出口を持たない怒りの塊が、あたかも溶岩のようにぐらぐらと煮えたぎっているに違いないと、揚羽は思ったのだった。



 土曜日の午後6時。外出許可を取った揚羽は、瑠璃と一緒に基地から徒歩五分の官舎に着いていた。二人が提げているレジ袋の中には、基地売店で購入した飲み物とスナック類が入っている。単身者用の棟の三階に上がり、廊下を歩いて奥から二番目の部屋のインターフォンを揚羽は鳴らす。揚羽は颯が裸で出てきたらどうしようと不安を覚えたが、ドアを開けて二人を迎えたのは、颯ではなく先に来ていた蛍木黎児1等空尉だった。黎児に招かれた二人は玄関で靴を脱いで部屋に上がる。勝手知ったる様子の黎児に案内されて入ったリビングのキッチンでは、部屋の主である颯が仏頂面で鍋の準備を整えていた。室内を見てみたがどうやら朝倉1尉はまだ来ていないようだ。
「狭くて汚い部屋だけれど、遠慮しないで寛いでね」
「……おい。お前の部屋のほうが狭くて汚いぞ」
 颯がキッチン越しに黎児をぎろりと睨む。黎児は狭くて汚いと言ったが、男性らしく紺色と黒色の家具で統一されたリビングは、埃一つ落ちていないし綺麗に整理整頓されている。布団や毛布の畳み方などは、入隊時にそれはもう厳しく指導されるので、それが今でも身に染みついているのだろう。颯一人に鍋の準備をしてもらうのは悪いと思ったので、揚羽が手伝いを申し出ようとしたその時だった。
「お手伝いします。えっと……」
「鷲海颯。石神さんだったっけ。じゃあ白菜と葱を切ってもらえるかな」
 揚羽より早く行動したのは瑠璃だった。キッチンに入った瑠璃は颯の隣に立つと、慣れた包丁さばきで白菜を適当な大きさに切り始めた。それにしても絵になる二人だ。言わずもがな颯は美青年だが、母親の遺伝子を色濃く受け継いだ瑠璃も負けてはいない。陶器の滑らかさを連想させるような雪肌に、真っ直ぐに通った高い鼻梁。くるりと上を向いた長い睫毛に縁取られた、張りのある大きな瞳は湖のように綺麗に澄んでいて、透明感溢れる瑠璃の美貌をさらに引き立てている。颯と瑠璃は楽しそうに会話をしながら食材の下ごしらえをしていた。仲睦まじい様子を見せつけられた揚羽は、不安で落ち着かない気持ちが、あたかも夏空に入道雲がむくむくと湧き上がるかのように、己の心に広がっていくのを感じた。
 鶏肉と野菜に白滝などの食材がテーブルに運ばれてきた時、外のインターフォンが鳴らされた。カセットコンロをテーブルに置いた颯が玄関に向かい、相手を確認してからチェーンを外してドアを開ける。ややあって颯と一緒に一人の青年がリビングに入ってきた。柔らかな髪質の黒髪のショートヘアは、目元と両耳の上に軽く被さっている。目鼻立ちがすっきりと整った、生真面目で意志の強さを感じさせる凜々しい青年だと言えよう。半袖のシャツから覗く腕も胸郭も引き締まっていた。きっと日頃から熱心に鍛えているに違いない。リビングに入った青年は一同を見回すと開口した。
「松島救難隊のメディック、朝倉晴登1等空尉です。どうぞよろしくお願いします」
 自衛隊の航空機が行方不明になった際に、その搭乗員の捜索救助を行うことを主たる任務とするのが航空救難団だ。航空救難団の編成は救難団司令の下、司令部・飛行群・救難教育隊・整備群から成り、飛行群はその隷下に全国の主要航空基地に、10個救難隊を要している。各救難隊は所在基地名を冠して識別されており、松島基地所在の救難隊だから、「松島救難隊」と呼ばれているのだ。救難隊の隊員たちは空自の中で最も過酷な訓練を重ね、さらに陸上自衛隊第1空挺団でレンジャー訓練も受けるのだという。
「まったく晴登は相変わらず馬鹿真面目だな。堅苦しい挨拶はいいから、早く鍋を食べようぜ!」
 黎児に促されて揚羽たちはテーブルを囲むように腰を落ち着けた。カセットコンロに乗せられた土鍋はぐつぐつと煮えていて、食欲をそそるような湯気と香りが漂っている。瑠璃がグラスに飲み物を注いで回り、鍋奉行となった颯が小鉢に具材を入れて揚羽たちに手渡す。颯から小鉢を受け取った揚羽は眉を顰めた。揚羽の小鉢には野菜がほとんど入っておらず、なぜか鶏肉がてんこ盛りになっているのだ。その盛られかたといったら、まるで世界遺産に登録されている富士山のようである。瑠璃たちの小鉢には、野菜と鶏肉がバランスよく盛られているのに、いったいこれはどういうことなのか。揚羽は颯に尋ねてみることにした。
「あの、鷲海1尉、私のだけお肉がいっぱい入っているんですけれど……」
「お前は胸がだいぶ発育不足だからな。肉をたくさん食べたら胸が大きくなるんじゃないかって思ったのさ。成長期なんてとっくの昔に終わってるから、あまり効果はないと思うぜ。気休めってやつだな」
「失礼にもほどがあります!!」
「あっ! この野郎! なにしやがるんだ!」
 倍返しだと言わんばかりに揚羽は颯の小鉢に大量のポン酢をぶち込んだ。綺麗に澄んでいた小鉢は、たちまちコーヒーのような濃い茶色に染まる。唖然とする颯を前に、ざまあみろと揚羽はほくそ笑んだ。これでは食べようにも辛すぎて食べられないだろう。無論反撃された颯が黙っておとなしくしているはずはない。身を乗り出した颯は手を伸ばしてくると、揚羽の頬を両手で思い切り掴んできた。揚羽の頬を掴んだ颯の大きな手は、あたかも餅を伸ばすかのように、彼女の頬の肉をぐいぐいと左右に引っ張っている。
「ふぁにふるんふぇすふぁ! (なにするんですか!)」
「うるせぇ! さっきのお返しだ! だいたいお前はいつも生意気なんだよ!」
「それはこっちの台詞です!」
 揚羽も素早く手を伸ばして颯の鼻を摘まみ上げる。すると颯は「ふごっ!」と豚が鳴くような声を出した。
「ずるいぞ颯! 俺も揚羽ちゃんのほっぺたをむにむに引っ張る!」
「ちょっ、蛍木1尉!? やだ! 変なところを触らないでください!」
 揚羽と颯の掴み合いにほろ酔い状態の黎児が乱入して、晴登との交流会は大乱闘の場と化した。あたかも犬の縄張り争いのような喧嘩を目の当たりにした瑠璃と晴登は、最初はぽかんと呆気にとられていたが、すぐに席を立つと二人で協力して、組んずほぐれつ状態の揚羽と颯を同時に引き離した。晴登と瑠璃の仲裁で、二人の喧嘩は両者引き分けという形で、なんとか無事に収束したのだった。
 それから鍋の中身はあっという間になくなり、鶏肉と野菜の旨味が染みこんだ出汁で作った雑炊も綺麗に完食した。基地売店で買ってきたチョコレートとスナック菓子をつまんで、ジュースやビールを飲みながら、揚羽たちは食後の穏やかな時間を過ごしていた。
 ふと揚羽は隣に座る瑠璃の様子がおかしいことに気づいた。先程から瑠璃はちらちらと晴登のほうを見ていて、彼と視線が合いそうになると、慌てて明後日の方向に目を逸らすのだ。そう言えば、颯に案内されて晴登がリビングに入ってきた時、瑠璃は頬を赤く染めて忘我の表情を浮かべていた。――間違いない。瑠璃は晴登に一目惚れした。そして心の底で密かに愛慕を寄せている。キューピッドの金の矢にハートを貫かれたのだ。これは是が非でも恋の橋渡しをしなければ。頭に名案が浮かんだ揚羽は瑠璃のほうを向いて開口した。
「瑠璃さん。もう遅い時間ですし、朝倉1尉に基地まで送ってもらったらどうですか?」
「えっ!? いきなり何を――」
 揚羽にいきなり提案された瑠璃は、落とし穴にはまったように驚いた。だがまんざらでもなさそうだ。あとは晴登が引き受けてくれるのを待つだけだったが。
「晴登はゆっくりしてろよ。俺が石神さんを送る――いてっ!」
 余計なことを言うなというふうに、手を伸ばした揚羽は颯の太腿の肉を思い切りつねった。この鈍感大魔王め。少しは場の空気を読んだらどうなんだ。恋心も分からないくせに、キューピッドの巨大なハートを描いているなんて信じられない。日本全国の恋人たちに謝れと言いたい思いである。
「そうだな。若い女性が独りで夜道を歩くのは危ないし、石神さんさえよければ基地まで送っていくよ」
「私はいいけれど、揚羽ちゃんはどうするの?」
「私は――」
「俺があとで送っていく。いちおうこいつも女性だからな」
(――いちおうってどういう意味よ!)
 瑠璃の恋心に気づいたのか気づいていないのか、颯は揚羽を基地まで送ると言ってきた。失礼すぎる言い方に当然揚羽は怒りを覚えたが、計画通り瑠璃と晴登を二人きりにすることができたので、引き攣った笑顔で「ありがとうございます」と颯に返した。瑠璃と晴登は連れ立って部屋を出ていき、揚羽と颯、そして床に大の字になって爆睡している黎児が部屋に残った。颯はテーブルの土鍋と食器をキッチンに運んでいる。揚羽も箸とグラスを持ってキッチンに向かい、水が流れるシンクの横に置いた。
「それにしても嬉しそうでしたね」
 揚羽はやや棘のある声で、泡立たせたスポンジで食器を洗っている颯に話しかけた。
「何がだよ」
「何がって、キッチンで瑠璃さんと話していた時のことです。あんなにデレデレしちゃって、下心全開でしたよ。男の人ってみんな美人に弱いんですね」
「お前、もしかしてやきもちを焼いてるのか?」
「やっ、やきもち!? やきもちなんて焼くわけありません! 馬鹿なこと言わないでください!」
 顔を真っ赤にした揚羽はリビングに戻り、小鉢を積み重ねてキッチンに運ぼうとした。しかし寝返りを打った黎児の顔を踏みそうになってバランスを崩してしまい、手に持っていた小鉢をうっかり落としてしまった。揚羽の手から落ちた小鉢はフローリングの床に激突して、盛大な音を立てて粉々に砕け散る。まさかの失態に青ざめた揚羽は、すぐにしゃがみ込んで破片を拾い集めようと手を伸ばした。だが素手で拾い集めようとしたため、揚羽は小鉢の破片で指を切ってしまい、思わず悲鳴を上げてしまった。切った指先から赤い血が滴り落ちる。小鉢を落として割ってしまったばかりか怪我までするとは。きっと今日は厄日に違いない。音と悲鳴を聞いた颯がキッチンから出てきた。
「ごめんなさい! 割った小鉢は買って返します!」
 揚羽は颯に怒鳴られる瞬間を覚悟する。だが颯は何も言わなかった。颯は揚羽の手を掴んで立たせると、彼女を洗面所に連れていったのだ。颯は洗面台の蛇口を捻ると揚羽の手首を握り、血を滴らせる指先を丁寧に洗い始めた。揚羽は後ろに立った颯と二人羽織のような体勢になっている。なので筋肉が隆起した逞しい身体の温もりや息遣い、心臓の鼓動が意識しなくとも伝わってきた。揚羽の心臓は灼熱に熱した鉄球のように破裂しそうだ。それに鼓動も激しく波打ち身体が熱を帯びている。そうこうしているうちに傷口の洗浄が終わり、颯に手を引かれた揚羽はリビングに戻った。
「あの、鷲海1尉、本当にごめんなさい……」
「小鉢より自分の怪我の心配をしろ。見たところ深く切っていないから大丈夫だと思う。黎児を部屋に連れていったら、基地まで送るからちょっと待ってろ。絆創膏と傷薬を置いておくから、俺が戻るまでに傷の手当てをしておけよ。破片はあとで俺が片付けるから、絶対に触るんじゃないぞ」
「……はい」
 てきぱきと指示を出した颯は、チェストの引き出しから出した絆創膏と傷薬をテーブルの上に置くと、爆睡する黎児を叩き起こして彼を肩に担ぎ、器用に玄関のドアを開けると外に出て行った。大海原の真ん中に放り出されたように揚羽は独り残される。「やきもちを焼いているのか」と颯に訊かれて動揺した理由が分からない。颯は揚羽をからかう目的で言ったのだと思う。だから軽く受け流すこともできたであろうに、なぜか心の重心が大きく揺れ動いてしまったのだ。そして今にも皮膚を突き破りそうな、この胸の高鳴りはいったいなんなのだろう――。心のどこか深いところに眠っていた感情が、波立ち騒ぐような微かなざわめきを、揚羽は確かに感じ取ったのだった。

 
 一方その頃、一足先に官舎を後にした瑠璃と晴登は、夜空に星が瞬く音も聞こえてきそうなほどの、静寂に包まれた道を並んで歩いていた。周囲は虫の声以外何も聞こえず、世界中で目を覚ましているのが二人だけのように思えてしまう。星を抱く夜の空は晴れ上がり、あたかも洗われたあとのように綺麗に澄んでいる。瑠璃と晴登が踏みしめて歩く路面も、空と同様に深い藍色に染まっていた。
「朝倉1尉」
 瑠璃は少し前を歩く晴登に声をかけた。鍛え抜かれた広い背中が動き晴登が振り返る。
「朝倉1尉に言いたいことがあるんです。少しだけいいですか?」
「もちろん構わないよ。それじゃあ場所を移そうか」
 進路を変えた瑠璃と晴登は、松島基地の正門を右に見ながら左に曲がり、次のT字路とその次の細いカーブを直進する。突き当たりを右に曲がって少し進むと、工事車両と見学者用の駐車場に着いた。駐車場の奥には11格納庫が一望できる見学用の展望台が置かれている。駐車場を進んだ二人は展望台に上がった。暗澹と横たわる宵闇の中には、隊舎の明かりや11格納庫の照明灯が浮かび上がっている。その光景はさながら夜の海に映る星明かりのようだ。しばらく夜の基地を眺めたあと瑠璃は口を開いた。
「バードストライクで事故を起こした私を助けてくれて、ありがとうございました。本当は交流会の場で言いたかったんですけれど、揚羽ちゃんと鷲海1尉の喧嘩を止めるのに夢中で忘れちゃったんです。遅くなってしまって申し訳ありませんでした」
「別に謝らなくてもいいんだよ。それにお礼なんて言わなくていい。僕はメディックとして当たり前のことをしただけだ」
 謙虚な晴登の態度を見た瑠璃は戸惑ってしまった。きょとんとする瑠璃を不思議に思った晴登が、どうかしたのかと訊いてきたので、瑠璃は思ったことを素直に言うことにした。
「この前揚羽ちゃんと一緒に、救難隊の隊舎に朝倉1尉を訪ねに行ったんですけれど、冷たく追い返されてしまったんです。パイロットとメディックはあまり仲が良くないって、航学にいた時に聞いたことがあったので、だからあんな態度をされたんだって思っていたんです。でも、朝倉1尉は、その――」
「僕は他のメディックとは違う。君たちパイロットを嫌ってはいない。石神さんはそう言いたいんだろう?」
 晴登が口にした言葉は、今まさに瑠璃が言おうとしていたものだった。気まずさを覚えながら瑠璃は首肯する。
「僕は変わり者だって思われているからね」
「変わり者?」
「花形の戦闘機パイロットを辞めて、救難隊に異動願いを出した変わり者」
 F‐15イーグル、F‐4EJ改、F‐2バイパーゼロの戦闘機を乗りこなすファイターパイロットは、航空自衛隊の花形と言われている。ゆえに戦闘機以外の輸送機・救難機パイロットや、あるいは地上職への転換を指す「F転」を通告されると、それを機に部隊を去る者もいるというほどだ。
「どうしてファイターパイロットをお辞めになったんですか?」
「――僕にはどうしても見つけたい人がいるんだ」
 夜空を仰いだ晴登は一拍おいてから語り始めた。
 三年前まで晴登は、茨城県航空自衛隊百里基地を拠点とする、第302飛行隊のF‐4EJ改2に乗るファイターパイロットだった。父の朝倉篤哉2等空佐も航空自衛隊のパイロットで、松島基地第21飛行隊の教官として基地に勤務していた。晴登が二機編隊長の資格取得を目指して訓練に励んでいたある日、篤哉が消息を絶ったという一報が百里基地に届けられた。
 それは学生のソロフライトの訓練中のことだった。その日は訓練の途中で海霧が発生して、篤哉は学生を連れて基地への帰投経路を飛んでいた。しかし篤哉は突然学生に先に戻るよう伝えると、機体の方向を変えて濃い霧が漂う空の彼方に飛んでいったのだ。学生は無事基地に帰投したが、篤哉が乗るF‐2は何時間経っても基地に戻ってこない。海霧が晴れるのを待ってから、松島救難隊と石巻海上保安署の巡視艇が出動して、現場海域をくまなく捜索したが、消息を絶った篤哉とF‐2を発見することはできなかった。篤哉は死亡したとみなされたが、どうして彼が学生を先に帰して機体の方向を変えて飛んでいったのか。真実は三年経った今でも解明されていないのである。
「戦闘機に乗っていても父さんは見つけられない。だから僕は救難隊のメディックに志願したんだ」
「そうだったんですか……」
 遠く宵闇の彼方を見つめていた晴登の視線が動く。微塵の濁りも見えない澄み渡った、黒曜石のような双眸が真っ直ぐに瑠璃を映している。晴登に見つめられた瞬間、瑠璃は時間が止まって周りが透明になったような気がした。
「確かにパイロットとメディックの関係はあまり良くないと思うこともある。でも、救難隊の全員がそうじゃないということを、知っておいてほしい。君たちが国防の任務に誇りを持っているのと同じように、僕たちメディックも『他を生かすために』という任務に誇りを持っているんだ」
 晴登の声と表情は一点の曇りもなく凜としていて、彼が救難の特技を心から誇りに思っているのだと、瑠璃は確かに感じ取った。あたかも見えない絵筆で塗り重ねられていくように、夜の闇は一段と深く濃くなっていく。基地に戻ろうと晴登が言ったので、彼に続いて展望台を下りた瑠璃は、駐車場を離れて来た道を引き返す。前を歩く晴登の背中を見つめる瑠璃は、魂に刻まれた遠い憧れのように、清らかな気持ちが胸の中を静かに流れていくのを感じていた。



 晴登たち松島救難隊に救難出動の命令が下ったのは、松島基地に雷雨警戒警報が出された直後のことだった。悪天候で視界が利かず、宮城県警のヘリ・県の防災ヘリ・そして陸上自衛隊のヘリも離陸することができなかったからだ。本来ならヘリより高速のUH‐125A救難捜索機が、先に駆けつけて遭難者を捜し出しておくのだが、上空には強風が吹き荒れており、雲が海面に接するほどで視界は利かず、捜索機はやむなく急上昇して、現場海域から一時離脱せざるを得なかったという。救助の対象は地元の漁協組合に属する漁船「大栄丸」で、乗組員は船長の男性と彼の息子の二人。家族が止めるのも聞かず船長の男性は、低気圧が近づく石巻湾に船を走らせていったらしい。
 風速は秒速27メートル。豪雨と雷鳴が轟くサンダースコールが基地で暴れ回っている。UH‐60Jの運用規則では、風速25メートル以上だと回転翼が暴れて機体を損傷する恐れがあるため、エンジンを始動させられない。晴登たちはじっと耐え忍びながら風が落ち着くのを待った。午前10時45分。松島基地周辺の風速が20メートルの疾強風まで下がったので、このタイミングを逃すまいと、救難隊は一斉にエプロンに飛び出して、濃紺に塗装されたUH‐60J救難ヘリコプターに乗り込んだ。
 機長はパイロットの守矢3等空佐。副操縦士はORの羽場1等空曹。紅一点の機上整備員の水沼2等空曹。そして晴登はメディックとしてサバイバーを救助する。水沼2曹がチェックリストを歯切れよく読み上げ、羽場1曹がそれを復唱しながら計器を一つずつ確認していく。イグニッションオン、エンジンスタート開始。T‐700‐IHI‐401Cターボシャフトエンジンの力強い振動がヘリを揺らす。直径16メートルの四枚のローターが、滝のように降る雨を細かく砕き、四方に弾き飛ばした。
 ジェットエンジンの轟音が大気を切り裂く。晴登たちが搭乗するUH‐60Jより先に離陸したのは、救難捜索機のU‐125Aだ。UH‐60J救難ヘリとU‐125Aは基本的にペアで出動する。速度で勝る捜索機が先行して現場海域に飛び、すぐに捜索活動を開始する。現場海域に到着したU‐125Aは、レーダーや赤外線装置、双眼鏡や肉眼による目視など、あらゆる手段を用いて遭難者を捜す。こうして遭難者を発見するとすぐに救難隊の飛行指揮所に報告すると共に、見失わないようその付近に発煙筒や着色剤でマーキングする。そして現場の状況を観察し、後続する救難ヘリに現場の状況を伝えるのだ。
「ガーディアン45、松島タワー。レディー・フォー・ディパーチャー」
『松島タワー、ガーディアン45。ウインド・スリー・ツー・ゼロ・アット・セブン。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』
「ガーディアン45、ラジャー。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ」
 離陸許可を得たので、羽場1曹が操縦桿を手前いっぱいに引き寄せた。四枚のローターが生み出す揚力が、濃紺色の機体をふわりと浮き上がらせる。ランウェイを離陸したUH‐60Jは、石巻湾に向けて飛び続けた。黒々とした雷雲が蠢き、稲光を放つ雷の柱が建つ暗黒の空は、まさに混沌の世界と化していた。縦横無尽に暴れ回る風が、低空飛行で飛ぶ機体を揺らす。海上は波頭がのめりながら唸り声を上げ、水煙が立っている。波の高さは10メートルになるだろう。どうやら落ち着いていた天候が、再び悪化してしまったようだ。必死に操縦桿を握る羽場1曹が呻くように言った。
「発達した低気圧が近づいているっていうのに、船を出すなんて自殺行為じゃないですか!」
「漁をしている最中に天気が悪くなったのかもしれないだろう。文句を言っている暇があったら操縦に集中しなさい」
 羽場1曹に守矢3佐が冷静に返した直後、先行していたU‐125Aから無線が入った。
『アスコット17よりガーディアン45、聞こえますか?』
「ガーディアン45、ボイスクリア」
『二名のサバイバーを発見。発煙筒は投下済みです。要救助者の現在位置は、牡鹿半島北東約40キロの地点です』
「ガーディアン45、ラジャー。ただちに急行します」
 晴登たちが現場海域に到着したのは、離陸から約二時間後の午後12時半過ぎだった。晴れていれば一時間の飛行距離のはずなのだが、最悪の視程と激しい乱気流の影響で、到着時間が大幅に遅れてしまったのだ。発煙筒の煙が上がる荒れ狂う海に浮かぶ、一隻の漁船が波に振り回されている。甲板に二人の男性が這いつくばっていた。自然の猛威を前にした人間は無力だ。甲板の二人は何度も波に揉みくちゃにされ、今にも海に引き摺り込まれそうだった。
 座席を離れた晴登は救出準備の態勢を整えた。キャビンの後方に移動した水沼2曹も、救助者を吊り上げるホイストケーブルの準備をしている。開放された搭乗口から入ってくる雨風と波飛沫が、真下の海を見据える晴登の顔を叩く。留め具にケーブルを固定した晴登は、水沼2曹にハンドサインを送りながら降下を続け、漁船の甲板に近づこうとした。瞬間猛烈な横風がホバリングをするUH‐60Jを殴りつけ、機体と晴登を左右に大きく揺さぶった。細いが頑丈なケーブルが晴登の身体に食い込む。痛みに耐えながら晴登はようやく甲板に降りることができた。
「松島救難隊の朝倉です! 怪我はありませんか!?」
 全身ずぶ濡れの男性は青ざめた顔で頷く。見たところ怪我はしていないようだ。
「まずは貴方を引き上げます! しっかり捕まっていてください!」
 男性がしっかり抱きついたのを確認した晴登は、上空の水沼2曹に引き上げ開始のハンドサインを送った。ホイストケーブルが慎重に巻き上げられ、男性を固く抱いた晴登は左右に回りながら上昇していく。ややあって機体が傾き重みが増える。晴登と男性は無事キャビンに戻ることができたのだ。
「石巻海上保安署の巡視艇しまかぜが、こちらに急行しているらしい。船長の救助は海保に任せて、我々は基地に戻るぞ」
 守矢3佐の言葉に晴登は眼下の大栄丸を見やった。荒れ狂う波が被さる甲板には、晴登が救助した男性の父親が取り残されている。彼は今どんな思いで晴登たちが乗るヘリを見上げているのだろうか。晴登はキャビンのほうを振り返った。毛布を被って震えている男性は、すがるような眼差しで晴登を真っ直ぐ見つめている。視線が重なったその瞬間、燃える太陽を丸ごと飲み込んだように、晴登の身体の奥のほうは熱くなった。
「海保がくるまで彼の体力は持ちません! 守矢隊長! もう一度僕を甲板に降ろしてください!」
 晴登の頼みに羽場1曹と水沼2曹は、当然ながら驚きの表情を浮かべて見せた。救難員は是が非でも助けにいこうとする。だが二次災害を起こしてしまっては元も子もない。救難ヘリの機長は、機内にいる副操縦士や機上整備員の意見に、航空機の能力と自らの経験に照らし合わせ、救難員を降ろすか否か決断する。救難活動での行動は、彼らの判断が最優先されるのだ。晴登は守矢3佐の言葉を待ち続けた。
「朝倉、救難員はお前が乗っていた戦闘機のパイロットとは違う。戦闘機と違って体当たりをするわけにはいかない、殉職するわけにはいかないんだよ。だからといって遭難者の気持ちになって突っ込んでいくのは愚か者だ。安全を考えて冷静さを保ち、でも遭難者を絶対に救助する、連れて帰らなければいけない。それが私たち救難最後の砦に与えられた任務、救難隊が信条とする『他を生かすために』なんだ」
 クルー全員と救助者の命を背負う守矢3佐の言葉は、晴登の心に重く響く。救急患者の受け入れを拒否する病院のように、救急車もろとも盥回しになることが分かっていても、手に余る事例は係わらなければ責任は問われない。挑戦して失敗し、非難されて責任をとらされるくらいだったら、最初から「できない」と言えば済むことだ。しかし晴登は怯まなかった。
「救難隊の任務は分かっています。でも、僕は目の前に救える命があるなら全力で救いたい。それに自分の未来のために、一人の未来を捨てるなんてできません。救えない命なんてない、命に優先順位なんてない、それが僕の信念なんです」
 守矢3佐を見つめた晴登は思いの丈をぶつけた。体内を流れる熱い思いが紅蓮の炎となって燃え上がっている。黒曜石にも似た晴登の瞳からは、烈々たる気迫の光が放射されていた。緊張と沈黙が渾然一体となり機内を満たす。誰よりも先に口を開いたのは羽場1曹だった。
「俺も朝倉と同じ思いです。救える命が目の前にあるのに何もしないなんて、それこそ救難の意思に反しますよ」
 羽場1曹に同意するように水沼2曹も頷く。守矢3佐はブロンズの彫像のように沈黙している。こちらを振り向いた守矢3佐は、強固たる決意の光をその双眸に漲らせていた。
「羽場、ここからは私が操縦する。朝倉と水沼は救出準備とホイストの準備だ」
「守矢隊長――」
「チャンスは一度きりだ! 全員気を引き締めてかかれ! アイ・ハブ・コントロール!」
 瞬間晴登たちの熱い思いは一つに重なった。この姿こそまさに「レスキュー・ファミリー」だ。救難のようなリスキーな職場は、人との繋がりがとても重要になる。普段から隊員の家族総出でバザーを開催したり、隊員が退官する時などは、結婚式並みの盛大なパーティーを開く。なぜそれらをやるかというと、家族や友人、上司に同僚、そして地域の人たちとの交流が円滑にいけばいくほど、不思議なことに救難の仕事はうまくいく。事故を起こさない、死者を出さないというのは、ヘリに乗る搭乗者だけの力ではないのだ。
「貴方のお父さんは絶対に助けます」
 キャビンで寒さに震える男性に誓った晴登は機外に飛び出した。ケーブルで降下しながら晴登は上空を仰ぐ。守矢3佐が操縦を引き受けたヘリは、上空15メートルの高さでぴたりと停止している。自動操縦装置に任せれば、勝手に空中停止してくれるのだが、それは平らな地面でのこと。照射する電波の反射速度で高度を測るから、荒れ狂う海面ではあてにならない。なので、海面では手動で細かく操るほかないのだ。ヘリの四枚のローターが生み出す、風圧と雨風を受けながら、晴登は再び大栄丸の甲板に着地した。船長は波に襲われながらも、前後左右に揺れる船の甲板の手摺りにしがみついている。
「松島救難隊の者です! すぐに引き上げますから、自分に捕まってください!」
 濡れた甲板を走り晴登は船長を助け起こした。だが船長の男性は晴登の手を振り払うと、船首付近に走り寄り、大時化の海の一点を指差して大声で叫び始めた。
「まだ帰るわけにはいかねえんだ! 俺はあの人を捜さなきゃいけねえ! あの人を見つけなきゃいけねえんだ!」
「貴方を絶対に助けると息子さんに約束したんです! 時間がありません! 早く捕まってください!」
 晴登の声に耳を打たれた船長は、我に返ったような表情で彼を見返してきた。船長を腕に抱いた晴登は、ケーブルがしっかり固定されているのを確認すると、水沼2曹にハンドシグナルを送る。水沼2曹が巻き上げ速度を調整しながら、晴登たちを引き上げている時も、ヘリは空中で停止したまま体勢を崩さない。守矢3佐の操縦技術の高さに舌を巻く思いだ。守矢3佐と水沼2曹の息の合った連携で、晴登と船長は無事キャビンに引き上げられた。
「ガーディアン45、松島オペラ。サバイバーを二名収容、これより帰投する」
 船長と息子の状態を確認したあと、守矢3佐は松島基地の飛行指揮所に救助完了を通報した。六人を乗せたヘリは向きを変えて、天界の水底が割れたような勢いで降る雨の中を飛んでいく。晴登が振り向いて見やった、後方のキャビンに座る船長は、波の壁がそそり立つ暗澹たる嵐の海を、ヘリが基地に着くまでずっと凝視していた。


 晴登たちを乗せたUH‐60J救難ヘリは無事松島基地に帰投した。黒々とした雷雲は割れて太陽が姿を見せており、雲間から差す光に触れた空気は白く濁って見えている。鳥の声が鋭く鮮やかに聞こえ、先程までの激しい雷雨が、まるで幻のように思えてしまいそうだ。やがて遠方に渦を巻いていた黒い雲は薄く伸びていき、空は雨の匂いを残したまま穏やかな青色に染まり始めた。
 ヘリから降りた晴登はハンガーに入り、救命装備室で濡れたドライスーツを脱いで作業服に着替えると、守矢3佐に言ってから、衛生隊隊舎の一室に向かった。晴登が赴いた部屋には救助された船長がいる。基地内の診療所に勤務する医師と看護師が、迅速に応急手当をしてくれたので、蒼白だった船長の顔色は良くなっていた。彼の息子は低体温症の症状が見られたので、先に市内の病院に搬送されている。晴登がここに来たのは、船長に尋ねたいことがあったからだ。晴登は黙り込んで座ったまま動かない船長に会釈した。
「……息子の具合はどうなんだい」
「低体温の症状が見られましたが、命に別状はないそうです」
「そうかい。それなら安心したよ」
「自分は救難隊の朝倉晴登1等空尉と言います。疲れているところを申し訳ありません。船長さん、貴方に訊きたいことがあるんです。あの時貴方は、あの人を捜さなければいけない、見つけなければいけないと言っていました。貴方が言う『あの人』とはいったい誰なんですか?」
 晴登は名前を名乗り問いかけた。瞬間虚ろだった船長の表情が一変する。顔が強張るほど驚いた彼は、まじまじと晴登を見つめてきた。突然硬い胼胝のできた手が晴登の腕を掴む。驚愕のため喘ぐような呼吸をした船長は、震える声を絞り出した。
「……あんた、朝倉っていう名前なのか?」
 いきなり腕を掴まれた晴登は戸惑いながらも頷き返す。晴登を凝視している双眸が熱を帯び始める。船長はポケットから一枚の紙を取り出すと、晴登に見るよう手渡してきた。海の水で濡れてぐしゃぐしゃになったそれは写真だ。破かないように注意しながら晴登は写真を受け取る。写真に写っているのは金属製の破片だ。恐らく何か乗り物の一部だろう。濃紺色の迷彩塗装を施された破片は海水による腐食が多い。そして破片に書かれている黒色の文字を見た晴登は、とても大きな衝撃に双眸を瞠目したのだった。
 錆びた破片に書かれているのは【A・ASAKURA】の文字。晴登は確信する。――間違いない。この破片は父の篤哉が乗っていたF‐2の一部だ。だがいったいどうして目の前にいる船長が、篤哉が乗っていたF‐2の破片を撮った写真を持っているのだろうか? 
「三日ほど前に漁をしていたら、そいつが網に引っかかったんだ。俺は確信したよ。この近くにあの人がいるってな。だから俺は無理に船を出したんだ」
「これは空自の戦闘機の一部だと思われます。船長さん、貴方はこの戦闘機に乗っていたパイロットに何があったのか知っているんですか? 知っているのなら僕に話してください。戦闘機に乗っていたパイロットは――僕の父なんです」
 三年前の真実が紐解かれるかもしれない。騒ぎ立つ心を抑えながら晴登は冷静に頼んだ。今度は船長は驚かなかった。まるで最初から分かっていたかのような、落ち着き払った表情である。二人の間に鼓動を圧迫するような深い沈黙が降りてきた。晴登は彼が話してくれることを信じて、辛抱強く待ち続ける。沈黙が永遠に続くのかと思われたその時、船長はぴたりと閉じ合わせていた口を開いた。そして彼は、一つ一つの記憶を丁寧に掘り出しているような、ゆっくりとした口調で語り始めたのだった。
 それは三年前の暑い夏の日のことだった。船長の長谷川松吉は、大栄丸に乗ると石巻湾沖に出て、牡鹿半島近くで沖合漁業に勤しんでいた。充分な収穫を得て港に帰ろうとした松吉は気づく。いつの間にか牛乳のような濃い霧が、辺り一面に垂れ込めていて、うねるように流れているのだ。これは海霧に違いないだろう。夏は特に海霧が発生しやすい。漁に熱中するあまり失念していた。急いでエンジンを吹かせて海を走るも、進むべき方向がまるで分からない。この場合、霧が晴れるまで動かずじっとしていればいいのだろうが、松吉はそれを忘れてひたすら船を走らせた。
 松吉は港に帰りたい一心で船を走らせるが、白い霧の幔幕はいつまでも続いていた。奈落の底へ落ちていくような恐怖が胸に這い上がってくる。もう駄目かもしれない。霧の迷宮に閉じ込められた自分は、永遠にここから抜け出せないのだ。操縦席のコンソールに突っ伏してむせび泣いていると、船のエンジン音とは明らかに違う音が、彼の鼓膜を震わせた。操縦席から甲板に出た松吉は辺りを見回す。すると左後方から何かが飛んでくるのが見えた。
 飛んでくるのは一機の航空機。濃い霧の中、翼に描かれた国籍記号が視界に映る。白い縁取りと赤い円のライジングサン。紛れもない自衛隊の航空機だ。胴体には【A・ASAKURA】の文字が書かれていた。自衛隊の航空機は、上空で翼を振りながら旋回を続けている。もしかすると航空機のパイロットは、自分についてこいと言っているのだろうか? 高度を下げてきた航空機のパイロットと目が合った。キャノピー越しにパイロットが頷くのが見える。松吉に頷いて見せたパイロットが乗る航空機は、再び高度を上げて飛んでいった。
 松吉の胸に迷いや疑いはなかった。――あのパイロットを信じてみよう。その思いだけが彼の思考を満たしていたのだ。藁にも縋る思いの松吉は、やや前方を飛ぶ航空機を追いかけるように船を走らせる。航空機に続いていると、濃い霧の彼方に、ぼんやりとした光が浮かび上がった。あれは陸地に建つ建物の明かり。松吉は無事港に戻ることができたのだ。甲板に飛び出した松吉は、自分をここまで導いてくれた航空機を空に捜したが、どこかに飛んでいってしまったのか、ライジングサンの機体はどこにも見当たらなかった。無事港に帰れたのを見届けて、パイロットは所属している基地に戻ったのだろう。松吉はそう思っていた。
 それは海霧の恐怖が過ぎ去った翌日のことだ。松島基地のF‐2戦闘機が消息を絶ったというニュースを、松吉は偶然テレビで見た。乗っていたパイロットの名前は朝倉篤哉2等空佐。松吉が見た胴体に書かれていたのと同じ名前だ。マスコミは競い合うように報道を展開した。学生を一人にして消えた、無責任なパイロット。約120億円の血税で買われた戦闘機を海に沈めたパイロット。マスメディアはこぞって朝倉2佐に非難の矛先を向けた。
 さらにはどうやって突き止めたのか、とある雑誌の一面に、行方不明になった空自機が漁船に異常接近したとの記事が書かれた。各テレビ局の報道番組も盛んにその記事を引用して、防衛省が事実を隠蔽しているのではないかと疑惑の目を向ける。しかし防衛省は運輸安全委員会の事故調査の結果が出てからと理由をつけ、非難の集中砲火を浴びても頑なに情報公開をしなかった。
 海上自衛隊と第二管区海上保安本部の巡視艇が、海をくまなく捜索したが機体は見つからず、戦闘機に乗っていたパイロットの、朝倉篤哉2等空佐は死亡認定された。松島基地の戦闘機が行方不明になったニュースは、それからも何度か放送されたものの、スポーツ選手の薬物使用疑惑という、各テレビ局の加熱する報道合戦に埋もれてしまい、やがてぱったりと報道されなくなったのだった。
 世間が朝倉2佐の存在を忘れても、松吉は決して彼を忘れなかった。自分はあの時確かに見た。こちらに飛んでくる戦闘機を、大丈夫だと頷いて見せたパイロットを、松吉は確かにこの目で見た。だから戦闘機も朝倉2佐も幻ではない。そして朝倉篤哉2等空佐は、石巻湾のどこかで機体と共に眠っている、誰かが見つけてくれるのを待ち望んでいるのだ。
「それから俺は朝倉さんを捜し続けたよ。俺はなんとしてでも彼を見つけたかった。でないと命懸けで助けてくれた彼に、申し訳が立たねぇんだ。朝倉さんを見つけられないでいるっていうのに、俺は彼の息子のあんたに助けられた。二度も命を救われるなんて、俺はどうしようもない人間だ。晴登さん、あんたは俺を恨んでいるかい? あの日俺が漁に出ていなければ、朝倉さんは命を落とさなかった。俺は朝倉さんの人生を奪った、奥さんと息子の晴登さんから、大切な家族を奪っちまったんだ――」
 悔恨の言葉が喉から絞り出された。顔を伏せた松吉の双眸から溢れた大粒の涙が、握り締めた拳を乗せた膝の上に零れ落ちる。
「――松吉さん。僕は貴方を恨んでなんかいません」
 顔いっぱいに悲愴な色を滲ませた松吉が晴登を見上げた。まるで全人類の罪を一人で背負ったかのような面持ちである。松吉は驚きのあまり言葉が出てこない様子だ。憎しみがこめられた罵詈雑言を浴びせられるのを、松吉は覚悟していたに違いない。
「貴方は危険を顧みずに父を捜し続けてくれた。そして三年前の父に何があったのかを、僕に教えてくれました。もう苦しまなくていい、過去に縛られなくていいんです。貴方は何も悪くない。だから自分を許してあげてください。貴方は奥さんと息子さんと一緒に、自分の人生を幸せに生きてください。きっと父もそれを望んでいます」
 晴登の嘘偽りなき真情の言葉は、春を迎えた大地の上で溶けた、冬が置き忘れた雪の欠片のように、松吉の心に静かに沁みこんでいったように思えた。晴登の心には波紋一つ立っておらず、人里離れた湖のように気持ちは落ち着いていた。それに暗い憎しみで心が満たされることもなかった。重い十字架を背負い続けてきた松吉を、責めることなど自分にはできなかった。むしろその逆である。これからの人生を生きるために必要な一粒の希望の種を、晴登は彼の心に植えてあげたかったのだ。
 松吉の頬を静かに流れていた涙は、やがて掠れた嗚咽に変わる。三年の間抑えていた気持ちが、溢れるままに泣き続ける松吉を、晴登は身を屈めてそっと抱き締めた。救難隊は他者を救済するためだけに在るのではない、自分も救済するために在るのだと、この瞬間晴登は確信したのだった。


 浅い水底のような青味を残す夕闇が夜の暗さに変わっていく。晴登は基地クラブのカウンター席で、独り静かにハイボールを飲んでいた。落ち着いたジャズが流れる基地クラブは、数人の隊員がいるだけで閑散としている。もうしばらくすると卒業記念パーティーのように騒がしくなるだろう。晴登は惑星のような氷を鳴らしてグラスを傾けると、二口目になる琥珀色に輝くハイボールを飲む。晴登は誰かがやって来る気配を背中で感じたので、カウンターにグラスを置いてから後ろを振り向いた。
「お前が酒を飲むなんて珍しいな」
 晴登の後ろに立っていたのは二十代後半で黒髪の美青年。第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロットの鷲海颯1等空尉だ。椅子を引いて隣に座った颯は、晴登と同じ琥珀色のハイボールを注文する。ややあって颯の注文したハイボールがカウンターに置かれた。しばらく二人は無言でハイボールを飲む。先にグラスを置いて開口したのは、晴登ではなく颯だった。
「――篤哉さん、見つかったそうだな」
 颯の言葉に晴登は短く頷いた。晴登たち松島救難隊が、雷雨の海を彷徨っていた大栄丸の船長と息子を救助してから一ヶ月後。海上自衛隊と第二管区海上保安本部の協力で、朝倉篤哉2等空佐はダイバーの手で海から引き上げられた。殉職者の遺骸を回収するのは組織の務めだと言って、高額の経費に渋る各部署を説得して実現させたのは、松島基地司令兼第4航空団司令の斎藤一之空将補だった。各部署の責任者は、なかなか首を縦に振らなかったが、引き上げの話を聞きつけた、航空幕僚長の思わぬ助力もあって、サルベージが実施される運びになったのである。篤哉の遺体が見つかったと基地に一報が届いた時、斎藤空将補は人目を憚らず泣いていた。松島基地司令兼第4航空団司令の執念というよりも、それはパイロット仲間への哀惜の念だったのかもしれない。
 篤哉の遺体は牡鹿半島から北東約50キロの地点、深さ40メートルの海底に機体の残骸と共に横たわっていたという。機体から回収されたフライトレコーダーを、航空事故調査官が解析したところ、篤哉は再び牡鹿半島沖に戻っていったことが分かった。恐らくだが篤哉は、松吉の他に船が走っていないか確認するため戻っていったのだろう。F‐2は金華山近くの海面上を、約60メートルの高度で西から東へ飛行していた。やがてF‐2は徐々に下降しながら右旋回して、それを最後にフライトレコーダーの記録は途切れていたらしい。
 当時の空域の天候は、高度約30メートルから210メートルまで、厚さ約180メートルの海霧が牡鹿半島から金華山全体を淡く覆い、海面上の視程は約300メートルあまりという最悪の天候だった。ゆえに篤哉は高度の低さに気づかないまま、下降しながら旋回を続けて海面に接触してしまった。それが運輸安全委員会の航空事故調査官が導き出した見解だ。
 三年の月日で骸骨と化した篤哉の身体は、両足を骨折していただけで、他の部位に大きな損傷は見当たらず、航空機事故とは思えない綺麗な亡骸だった。衛生隊の一室で対面した篤哉は、綺麗に洗浄されていて、皮膚も肉も剥離して骨格だけの顔だった。だが表情は読み取れなくとも、機種こそ違えど同じファイターパイロットだった晴登には、篤哉の心中が手に取るように分かっていた。
「父さんと再会した時、僕は確信したよ。父さんは航空自衛隊のパイロットで在り続けようとしたんだって。自衛隊員の役割は国民の生命を守ること。だから父さんはすぐに引き返したんだ。危険を顧みないで、ウイングマークの鷲のように勇猛果敢に、守るべき人たちのことだけを、一心に考えていたんだと思う。そして父さんは、穏やかな心で最期の瞬間を迎えたんだ――」
 瞬きと一緒に弾き出された透明な二粒の水滴が、琥珀色の水面に落ちて揺れた。黒曜石のような晴登の目の裏には、いつの間にか溢れんばかりの涙が湛えられていたのだ。最初の涙が零れてしまうと、あとはもう歯止めがきかなかった。グラスを掴んで下唇を噛み締め、身を震わせながら滂沱する晴登の肩を、もっと泣けと言わんばかりに颯が抱く。篤哉を見つけるまでは決して泣くまいと、三年前のあの日晴登は固く決意した。そして篤哉が見つかった今、晴登はようやく泣くことができたのだった。
「……ありがとう、颯。これで前に進めるよ」
「お前の信念が篤哉さんを見つけたんだ。だから俺は何もしちゃいねぇよ」
 晴登が礼を言うと颯は、照れ隠しのようにハイボールを飲んだ。
「変わったな、お前」
「俺が変わった?」
「航学時代のお前はさ、俺に近づくなオーラ全開だったのに、今はなんていうか、雰囲気が柔らかくなったような気がするんだよ。きっと元気で可愛い彼女ができたお陰なのかもしれないな」
 グラスを置いた颯は、眉間にくっきりと皺を寄せた顔で、訳が分からないと言わんばかりに晴登を見つめてきた。
「彼女ができた? いったい何を言ってるんだよ。俺は誰とも付き合っていないぞ」
「そうなのか? 石神3尉と一緒に鍋パーティーに来てた21飛行隊の女の子、僕はてっきりお前のガールフレンドかと……」
「ばっ、馬鹿野郎!! あいつは彼女なんかじゃねぇよ!! 燕は生意気なヒヨコパイロットで、おっ、俺にとってはただの――」
 動揺を抑えきれない乱れた声音で、颯はすぐさま晴登に反駁してきた。しかし気が動転して続く言葉が見つからないのか、顔から首の付け根まで真っ赤になった颯は、水槽で泳ぐ金魚のように口を動かしている。晴登はこんなふうに周章狼狽する颯を初めて見た。もしかしたら第21飛行隊の燕揚羽1等空曹は、颯自身もまだ気づいていない、「特別な存在」なのかもしれない。
「これ以上酔っ払いに付き合ってられるかよ! 俺は帰るからな! あとは独りで飲んでろ馬鹿野郎!」
 グラスに残っていたハイボールを一気に飲んだ颯は、怒ったように靴音をやかましく響かせながら、基地クラブを出て行った。苦笑した晴登はグラスに残っていたぶんを飲み干して、二杯目のハイボールを注文する。篤哉に乾杯を捧げてから飲んだハイボールは、今まで口にしたどの酒よりも格別の味がした。


 帆を張った白い煙が星の散る夜空の海を進んでいく。晴登と別れて基地クラブを後にした颯は、自動販売機の横に立って煙草を吹かしていた。基地や駐屯地も分煙化が進んでおり、なので喫煙場所は建物の外になっているのだ。
「俺が変わった、か――」
 夜空に紫煙を吐いた颯は独りごちた。言われてみると確かに自分でもそう思う。最近雰囲気が変わったのではないかと、上官や同僚から言われることが多くなった。それに笑うことが多くなったし、口数も少し増えた。心にぽっかりと開いた穴が、温かいもので埋まりつつある。忘れていた感情や情緒の類いが蘇りつつあった。
 ブルーインパルスは極度に協調性を社交性を要求されるため、ほとんどと言っていいほど全員が一緒に行動する。デブリーフィングのあとミニサッカーをしたり、休日になると釣りやドライブに出かけたりする。ブルーインパルスに異動が決まってから、覚悟の上だったそんな基本的なことも、颯は息苦しく感じていたのに、いつの間にか仲間と過ごす毎日が楽しくなっていた。「宇宙人」と渾名されていた頃の自分が、嘘のような心境の変化である。素直に認めるのは些か悔しいが、晴登に指摘されたとおり、揚羽の元気と明るさに感化されたのかもしれない。
 「宇宙人」というのは航学時代に、同じフライトコース・チャーリーの幹部候補生につけられた颯の渾名。無口で無表情、何を考えているのか分からないからと、勝手につけられたのだ。好ましくない渾名をつけられようとも、颯はまったく気にしなかった。その幹部候補生は実力もないのに、リーダーを気取っている自惚れ屋だったから、好き勝手に言わせておけばいいと思っていたからだ。
 戦闘機パイロットになれば女にもてるからという、なんとも低俗な理由を聞かされた時、呆れ果てて言葉も出なかったのを覚えている。そんな奴が挺身も国防の任務も務まるはずがない。実際その通りだった。その幹部候補生は居酒屋で他の客を殴り、怪我を負わせるという傷害事件を起こして逮捕され、そのあとフライトコースを課程免になったのである。
 颯は小さくなった煙草を、自販機の横に置かれている、赤く塗られた大型のアルミ缶の中に入れた。この缶は「煙缶」と言い、自衛隊員たちが灰皿の代わりに使っている物。業務用のソースなどが入った、大型のアルミ製の容器を流用したことから、煙缶という名前がつけられたのだ。ちなみに火災予防の意味を持たせるために、赤く塗られているのである。口に銜えた二本目の煙草に、ライターの火を近づけようとした時だ。
「鷲海1尉! 見つけましたよ!」
 宵闇の彼方から鈴を震わせたような澄み透った声が飛んできた。少し間を置いて鈴の音のような声の持ち主が姿を見せる。ところどころが元気よくぴんと跳ねた、ハニーベージュのショートヘアに、硝子玉のような黄色みを帯びた茶色の大きな瞳。第21飛行隊の学生パイロット、燕揚羽1等空曹本人である。揚羽は早足でこちらに突き進んでくる。颯の正面に立った揚羽は眉根を寄せて唇を尖らせた。
「こんな所にいたんですね! もう! ずっと捜していたんですよ!」
「俺を捜していた?」
「今日鬼熊3佐のお宅に晩ご飯を食べに行くって、決めていたじゃないですか。もしかして……忘れていたんですか?」
 「あっ」と小さく呟き颯はぽかんと口を開ける。娘の陽菜がどうしても颯と揚羽に会いたいらしいから、よかったら晩ご飯を食べにこないかと、先週鬼熊3佐に言われたのを、颯は綺麗に失念していたのだ。絶対に忘れるんじゃないぞと、揚羽に偉そうに念押しした本人が、すっかり忘れていたとはなんとも情けない。まさに一生の不覚。そんな颯の様子を見た揚羽はますます唇を尖らせた。
「やっぱり忘れていたんですね? こんな所で呑気に煙草を吸ってる場合じゃないですよ! 陽菜ちゃんが鷲海1尉が来るのを首を長くして待ってますから、早く行きましょう!」
 揚羽が催促したが颯は動かなかった。動かない颯を揚羽は不審に思ったようだ。
「鷲海1尉?」
「――いい加減にやめろよ」
「えっ……? やめろって何をですか?」
 薄闇の中でも揚羽が身を強張らせるのが分かった。やや強い口調だったから緊張しているのだろう。
「階級つけて呼ぶのはやめろって言ってるんだ」
「でっ、でも、今まで鷲海1尉って呼んでも、別に何も言わなかったじゃないですか。それなのに、いきなりどうして――」
「階級つけて呼ぶような間柄じゃないだろ。……それにお前に階級つきで呼ばれると、なんだか落ち着かないんだよ」
 颯が言うと揚羽は視線を外して俯いた。
「わっ、分かりました。これからは鷲海さん、って呼ぶことにします……」
 上目遣いに颯を見上げてきた揚羽は、薄く張った氷のように恥じらいの色を浮かべている。赤面する揚羽は可憐極まる乙女の顔になっていた。それは万華鏡のようにくるくると表情を変える揚羽が、颯に初めて見せる表情だった。
「……この一本を吸ったらすぐに行くから、正門の所で待ってろ」
「はい。少し遅れますって、奈美さんに電話しておきますね」
 綿毛のようにふんわりとした、ハニーベージュの髪を揺らして一礼した揚羽は、颯にぎこちなく微笑んでみせると、正門のほうに歩いていった。揚羽の背中を見送った颯は、二本目の煙草を口に銜えて火を点ける。それにしても階級をつけて呼ぶのはやめろだなんて、どうして口走ったのか理由が分からない。理由が分からないまま颯は煙草をくゆらせる。重心を失った颯の心は、あたかも大波に乗る一枚の木片のように、大きく揺れていた。