第2章 風巻が吹く


 明るく穏やかに晴れ渡った春の日は、光が満ちて風が光っているように感じられる。風を心地良いと感じるのは、厳しい冬を乗り切ったあとの心のゆとりかもしれない。
 鷲海颯1等空尉は第11飛行隊隊舎に向かいながら空を見上げた。太陽の光はもともと無色透明だが、プリズムで色を分けると波長の短い方から順番に虹のような七色になる。日光が空気の中を進む時、空気中の細かい塵などの浮遊物に衝突すると、波長の短い光線は散乱してしまう。その散乱された青系のプリズムの色が人々の目に届き、空が青く染まって見えるのだ。もしも空が青く染まっていなかったら、自分は空に自由を感じていなかっただろう。
 ふと颯は足を止めた。ブルーインパルス専用の格納庫前のエプロンには、六機のT‐4中等練習機が駐機されている。自分が乗る5番機の前に小柄な人間が立っているのだ。その人間は横断歩道を渡ろうとする子供のように、きょろきょろと左右を確認している。見たところどうやら男子中学生のようだ。遠く後ろから颯が見ていることを知らない少年は、恐る恐るといった様子で、5番機の翼に手を伸ばした。
「おい! ドルフィンに触るな!」
 颯が怒鳴ると驚いた少年はこちらを振り返った。エプロンを突き進んだ颯は、伸ばした手で少年の腕を掴み彼を5番機から引き離す。男性にしては小柄だし身体つきも華奢だ。可愛らしい顔立ちは、どちらかと言えば女性に近いが、男性にも中性的な顔立ちをしている者がいるので、男性なのか女性なのかは分からない。しかし今はそんなことどうでもいい。細い腕を掴んだまま颯は少年を見据えた。
「いいか、ドルフィンは整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだって、できるだけ機体を汚さないように気をつけてる。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」
「あの……ツアーって?」
 きょとんとした表情で少年が言った。とぼけているのかと思ったが、そういうふうには見えない。
「お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」
 小柄で童顔、身体つきは華奢だ。だから男子中学生と間違えてもおかしくはあるまいと、颯は思ったのだが、どうやら今の発言が気に障ったらしく、中学生に見える若者は、穏やかに見えるが怒りを抑えた表情で、自分はまだ学生だがれっきとした空自パイロットだと、言い返してきた。学生ということは、コールサインは「アポロ」の第21飛行隊のパイロット――戦闘機の扱い方をまだ知らないヒヨコパイロットということになる。
「学生ということは、第21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」
「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」
「なんだと!?」
「なんだとはなんですか!」
 ヒヨコパイロットのくせに生意気な! 颯は若者の胸倉を掴み上げようと手を伸ばす。だが勢い余って手が滑ってしまい、颯は彼の胸をがっしりと鷲掴みにしてしまった。瞬間颯は違和感を覚える。なんと鷲掴みにした胸が柔らかいのだ。肥満体でもないかぎり、男性の胸板が柔らかいなんてあり得ない。颯は試しに手を動かしてみる。颯の掌にすっぽりと収まるサイズの膨らみは、柔らかくてちょっと気持ちいい。そして颯は自分が間違っていたことに気づく。目の前にいる若者は、男性ではなく「女性」だったのだ。耳まで真っ赤になった「彼女」は、金縛りに遭ったように固まっていたが、大きく口を開くと反撃の声を迸らせた。
「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」
「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて、掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」
「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりかそんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」
 ファイターパイロットは国家防衛の盾となると宣誓した身である。今の颯はF‐15戦闘機に乗るイーグルドライバーではなく、ブルーインパルスのドルフィンライダーだ。だがイーグルに乗っていなくとも、颯はファイターパイロットとしての自負や誇りは持ち続けている。そんな颯に彼女は、「国防の任務に就く空自パイロットだとは信じられない」と言い放った。あたかも己が信じるものすべてを否定されたような気分だ。颯の思考は抑えきれない怒りで満ちていく。颯が右手をきつく握り締めたその時だった。
「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」
 やや間延びした声が聞こえたかと思うと、颯は襟首を掴まれて軽々と後ろに引き摺られた。颯と女性の間に巨大な体躯の男性が強引に割り込んでくる。第11飛行隊飛行班長の鬼熊薫3等空佐だ。穏やかな性格で平身低頭、滅多なことでは怒らない彼は、まさに仏様のような人である。TACネームは鬼熊の熊を取った「ベアー」だが、鬼熊3佐はお菓子作りを趣味にしているので、「スイーツ」を自己申告した。しかし鬼熊3佐の見た目と、スイーツのTACネームとのギャップが激しすぎるのでフライトに集中できない! という意見が多かったので却下されたらしい。
「まったく……いったい何をしているんですか。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」
「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから、俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」
「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」
 颯をTACネームのゲイルで呼んだ鬼熊3佐は穏やかに笑んでいる。だがテディベアのようにつぶらな目の奥は燃えていた。これはまずい。目の奥が燃えているのは、鬼熊3佐が本気で怒る前兆だ。ブルーインパルスは編隊飛行を中心とする部隊。毎回同じメンバーで飛行するので、パイロット同士の信頼関係が特に重要視される。衝突の原因を作った女性に、自分が謝るなんて納得できなかったが、これから訓練が始まるのだから、仏の鬼熊3佐を鬼に変貌させるわけにはいかない。颯は「悪かった」と女性に謝り、第11飛行隊隊舎の中に入った。
 颯は飛行隊隊舎の二階に上がり、ブリーフィングルームのドアを開けて入る。待っていたパイロットたちは、呆れたようでいて面白がっているような視線を颯に向けてきたが、特に何も言ってこなかった。どうせ窓から騒動の一部始終を見物していたに違いない。飛行隊長を中心に、訓練内容の確認、注意事項の伝達、緊急時の手順の再確認などを行う。最後にスモークのオン・オフを確認するスモーク合わせを行い、訓練前のプリブリーフィングは終了した。
 午後13時50分。ブルーインパルスはサードフライトを開始する。ウォークダウンで5番機の前に進んだ颯は、担当の機付き整備員と敬礼を交わして、梯子に掛けられてある装備を手に取った。部隊識別帽子を脱いでサングラスを外すと視線を感じたので、颯は肩越しに振り向いてみる。すると第21飛行隊の彼女が颯を凝視していた。馬鹿みたいに口を開けて棒立ちしている彼女は、まるで憧れのヒーローを偶然見つけてしまった子供のような表情である。
 サバイバルキットなどが詰め込まれたLPU‐H1救命胴衣、下腹部から足首にかけて巻きつけるJG5‐A耐Gスーツなど、颯は手際良くフライトの時に必要な装具を身に着けていく。手の甲の部分が青色になっているフライトグローブを両手に嵌め、最後に逆さ5のメタリックブルーのヘルメットを頭にかぶり、颯は「平常心」のステッカーが貼られている、5番機のコクピットに乗り込んだ。
 整備員とハンドシグナルで交信しながらエンジンスタート開始。機体を点検するプリタクシーチェックを終わらせた颯は、「ヒィィーン」と高いエンジン音を響かせながら、5番機をタキシングさせてランウェイ07の端に向かい、最終チェックポイントでエンジンチェックを完了する。颯の視線の先では1番機から4番機がまず最初に滑走路に進入した。
『ワン、スモーク。ゴーベスト、プッシュアップ。ハンドレット、ナウ』
『フォー、オーケー!』
 人差し指から小指までが並んだような、フィンガーチップ隊形を組んだ1・2・3・4番機が、スモークの白煙を曳きながら、隊形を菱形のダイヤモンドに変える。そして四機はギアとフラップを下ろしたままの、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで離陸していった。
『ブルーインパルス05、松島タワー。レディ・フォー・ディパーチャー』
 次はいよいよ颯が離陸する番だ。颯は無線のチャンネルをTWRに変えて、基地管制塔に呼びかけた。ブルーインパルスは第11飛行隊のコールサイン。通信の際にいちいち部隊名を名乗っていては手間がかかるため、航空自衛隊の飛行隊はそれぞれ個別のコールサインを持っている。ちなみに「05」は部隊の5番機という意味だ。
『松島タワー、ブルーインパルス05。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』
『ラジャー。ブルーインパルス05、ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』
 颯は酸素マスクのエアを大きく吸い込んだ。
『ファイブ、スモーク・オン! ローアングル・キューバン・テイクオフ、レッツゴー!』
 颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を加速させる。周囲の景色は混ざり合うと色の洪水となり、瞬く間に後背へと流れ去っていく。充分な速度を得た颯は、操縦桿を手前に引き寄せた。上に動いた水平尾翼が機首を押し上げる。翼に風を纏った5番機はふわりと浮揚して、ランウェイ07の端で一気に飛翔すると、天高く宙返りした。視界が開けて快晴の空の青が広がった時には、生意気な第21飛行隊のヒヨコパイロットのことなんて、颯は綺麗さっぱり忘れていた。


 ピリオドごとの飛行訓練を終えたパイロットは、飛行隊隊舎のブリーフィングルームに集合して、フライト後の振り返りと評価・反省をするデブリーフィングを行う。フライトについて特に何も言われなかったが、しいて言えばローアングル・キューバン・テイクオフの離陸高度が、少し低すぎたかもしれないと鬼熊3佐に指摘されたくらいだった。パイロットたちが退室していくなか、颯はその場に留まりデブリーフィングの復習をしていたのだが、自分の他にもう一人のパイロットが部屋に残っていることに気づいた。
「聞いたぞ聞いたぞ〜。お前、あのドルフィンテールちゃんと喧嘩したんだってな!」
 薄ら笑いを浮かべながら颯に話しかけてきたのは、4番機のドルフィンライダーの、蛍木黎児1等空尉だ。一見すると甘く整った顔立ちの爽やかな好青年だが、好みのタイプの女性を見つけると、すぐ口説きにかかるという悪癖の持ち主でもある。TACネームは蛍の英語名の「ファイアフライ」だが、それでは長いから縮めて「フライ」にしたらどうだと、先輩パイロットから意見が上がった。しかし「フライ」だと蛍ではなく蠅になってしまうので、なんとかそれは避けたいと黎児が必死に懇願した結果、最初に提案されたファイアフライに落ち着いたというわけだ。
「ドルフィンテール? なんだよそれ」
「毎日欠かさずT‐4を見に来る第21飛行隊の女の子だよ。ちらっと見たけれど、すっげー可愛い子じゃないか! あんな子が松島にいたなんて知らなかったぜ!」
 ドルフィンテールなんて知らないと思っていたが、「第21飛行隊の女の子」と聞いて颯はようやく思い出した。許可もなくT‐4に触ろうとしていたから止めようとしたのだが、いろいろとアクシデントが積み重なってしまい、救命装備室まで筒抜けの口論を繰り広げた生意気な学生パイロット。黎児が言うように可愛い子だったかどうかは覚えていない。なるほど、彼女が近頃部隊の中で噂になっているドルフィンテールだったのか。自分にはどうでもいいことだったが、一つだけ指摘しておきたいことがあった。
「馬鹿、イルカに尻尾はねぇよ。あれは尻尾じゃなくて尾鰭だから、ドルフィンテールじゃなくて『ドルフィンフィン』だろ」
 颯の言った「ドルフィンフィン」は、どうやら黎児の笑いのツボを刺激したらしい。黎児は「ぶふっ!」と妙な声を出すと、ミーティングテーブルに突っ伏して肩を震わせ始めた。底抜けに明るい男だと颯はつくづく思う。伯父が横田基地航空総隊司令というエリート男子なのに、そのことを鼻にもかけず、誰にも気さくに接するので、黎児は基地の誰からも好かれているのだ。
 黎児が担当する4番機パイロットは、第4航空団飛行群の戦技企画班長を兼務している。展示飛行などの際の、隊員の宿泊や給食については、航空団のほうで各部署に手配してもらえるのだが、その際に航空団と部隊の間に入って調整する役割を担っているので、コミュニケーション能力が高い黎児は、まさに適職だと言えるかもしれない。
「それでだな、21飛行隊の学生にさり気なく聞いてみたところ、彼女は燕揚羽ちゃんっていうらしいぞ。顔だけじゃなくて名前も可愛いなんて最高じゃないか!」
 ついさっきまで興味なんてまったくなかったのに、黎児が言った名前に颯の意識は反応した。
「燕――? そのドルフィンテール、燕っていう名字なのか」
「そう聞いたぞ。もしかして知り合いなのか?」
「……まさか。生意気な女だったから覚えていただけさ」
「それを聞いて安心したぜ! ライバルは一人でも少ないほうがいいからな!」
 ――いったいなんのライバルだよ。と颯は心の中でガッツポーズをする黎児につっこんだ。どうやら黎児の脳内は常に恋愛スイッチがONになっているらしい。恋愛スイッチよりも仕事スイッチをONにしろと言いたい気分だ。
「鷲海、話がある。隊長室にきてくれ」
 ブリーフィングルームと隊長室を繋いでいるドアが開き、1番機のドルフィンライダーで飛行隊長の蓮華悠一2等空佐が顔を覗かせた。蓮華2佐は35歳の若さでブルーインパルスの飛行隊長の座に昇りつめた、防衛大学校出身のエリート幹部である。おまけに蓮華2佐はすらりとした長身の美丈夫なので、航空祭では彼のサインと握手と写真撮影を求める女性ファンたちで、長蛇の列ができるほどだ。蓮華2佐が颯を名字の鷲海で呼ぶ時は、決まって重要な話の場合が多い。「はい」と答えた颯は席を立って隊長室に向かい、ドアを閉めてから机の椅子に腰かけた蓮華2佐の正面に直立した。
「鷲海はMAMORを知っているか?」
「はい。防衛省が編集協力している広報誌ですよね」
「そうだ。そのMAMORからお前を取材したいと申し出があった」
「――はい?」
 なんでも広報誌MAMORは「航空自衛隊のイケメン特集!」という、見開き2ページの記事を組んでいて、どういうわけか今回自分に白羽の矢が立ったらしい。おまけに航空幕僚監部広報室の室長は、満面の笑顔で即決したという。今すぐにでも広報室に乗り込んで、無責任な室長を怒鳴りつけたい思いだ。
「形はどうであれ、自衛隊に興味を持ってくれるのはいいことだ。自衛隊は国家公務員だから、敷居が高くて近寄りがたいイメージが、一般に定着している。おまけに自衛隊を毛嫌いしている人たちも少なくはない。そんななか取材をさせてくれと申し出があったんだ。お前が乗り気じゃないのは分かっているが、ここはひとつブルーインパルスの代表として、受けてくれないか?」
 第11飛行隊ブルーインパルスは、航空自衛隊の代表として、多くの人たちと接する役割を担う部隊である。それに5番機パイロットの颯は、外部からの取材や広報を担当する広報幹部だ。気が進まないから取材を受けないなんて、それこそまさに職務放棄に当てはまる。あらかじめ質問内容は決まっているというし、写真撮影もすぐに終わるだろう。そう思った颯はMAMORからの取材依頼を受けることにしたのだが、己の考えが甘かったことを思い知るのだった。


「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「そこをなんとかお願いしますよ。なるべくイケメンの自然な表情をという特集記事なので……」
「迷惑な特集記事ですね」
「はぁ……」
 颯が冷たい声音でばっさり切るように返すと、市ヶ谷の航空幕僚監部から来た広報官の雪村衛士2等空尉は、人類滅亡の瞬間がきたかのような、絶望の表情で嘆息した。颯の我慢も限界に近づいていた。普段から生命の危険と隣り合わせの生活を、義務付けられている職種の人間に、「独身ですか?」とか「休暇の過ごしかたは?」とか「好きな女優は?」なんて軽薄な質問をされたのだから、不快に思わないほうがおかしいだろう。
 万一の時は自らの命を捧げてでも、国民を守る義務がある。それは殉職する可能性もあるということだ。そんな覚悟を背負っているのだから、笑顔なんて簡単にできるわけがない。そもそも自衛隊員は芸能人でもアイドルでもないのだ。仏頂面で雑誌記者と話していると、蓮華2佐が雪村2尉を連れてこちらにやって来た。真面目に仕事をしろとお叱りを受けると思っていたのだが、予想外の言葉が颯の耳朶を打った。
「鷲海、T‐4に乗れ」
「はい?」
「T‐4のコクピットに座っているところを撮影してもらう。お前は自分が空を飛んでいるところをイメージするんだ。記者やカメラマンのことは忘れてしまっても構わないから、お前はとにかくイメージすることだけに集中しろ。いいな?」
 聡明な蓮華2佐のことだから何か考えがあるのだろう。突然の指示に戸惑いを覚えつつも颯は頷き、機体左側に掛けられてある梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。
(空を飛んでいる自分の姿をイメージしろ、か――)
 コクピットに座り直した颯はゆっくりと瞑目する。自分が空に憧れるようになったのは、父親が空自のファイターパイロットだったということもあるが、憧れが増したのはブルーインパルスの展示飛行を、初めて観た時だった。なかでも颯はリードソロの5番機パイロットに強く憧れた。もっとも颯を魅了した5番機パイロットは、既にブルーインパルスを去っていたのだが。過去の展示飛行を収録したDVDをネット購入して、颯はブルーインパルスのエースと謳われた、彼の存在を知ったのである。
 颯が憧れのパイロットと出会ったのは、今から18年前のことだ。出会った場所は石川県の航空自衛隊小松基地。父親と一緒に訪れた小松基地航空祭で、出会いの瞬間は颯を待っていた。あとから聞かされた話では、父親が彼と会えるように裏で根回しをしてくれていたらしい。たくさんの人たちで溢れかえる、小松基地の立ち入り禁止区画の向こう、犬鷲を部隊のシンボルマークとする第306飛行隊隊舎の前で、彼は奥さんと一緒に颯が来るのを待っていた。強く憧れるパイロットを目の前にした瞬間、颯の胸の鼓動は高く跳ね上がった。何を話して何を尋ねたのかはよく覚えていない。ただ人生でいちばん幸せだったことだけは覚えている。
「お前はブルーインパルスが好きか?」
 長身を折り曲げて颯と目線を合わせた彼は、両目に掛けていたサングラスを外すと、涼やかな低音の声で訊いてきた。サングラスの奥から現れたのは、同性である颯も思わず見惚れてしまいそうな端正な顔と、青みを帯びた灰色の切れ長の双眸だ。その切れ長の双眸は真っ直ぐな眼差しで颯を見つめている。答えは決まっているのに緊張のせいで声が出てこない。彼の斜め後ろでは、奥さんが「頑張れ!」とジェスチャーしていた。
「――うん! 僕はブルーインパルスが大好きだ!」
 緊張を断ち切った颯は明瞭とした声で答える。すると彼は快晴の日のような明るくて爽やかな笑顔を浮かべると、颯の黒髪を大きな手で優しく掻き混ぜた。
「オレが飛んだあの青空を目指して、真っ直ぐに翔け上がれよ」
 青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。彼の言葉は颯の心に熱く強く響き渡った。空を見上げて彼らの名前を呼びながら、大人になった颯はブルーインパルスの5番機パイロットとして憧れた空を飛んでいるのだ。
 周囲の視線と騒音を忘れられるように精神を研ぎ澄ます。高いエンジン音、風にたなびくスモーク、そして燃料の匂いが鮮明に再現された。四機のT‐4がスモークを曳きながら、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで蒼空を飛んでいく。颯は股の間の操縦桿を握り締めた。回転数を上げていく双発のエンジン音に呼応するように、颯の鼓動は空を飛べる喜びで高鳴っていった。
 憧れのリードソロが飛んでいた青空を真っ直ぐに目指して、颯はスロットルレバーを押し上げて5番機を発進させる。ブルーインパルス05、クリアード・フォー・テイクオフ。颯の呟きはそれが魔法の呪文だったかのように、ランウェイを疾走する5番機をふわりと浮き上がらせた。そして青く透きとおった空が、目の前いっぱいに広がった瞬間、自分でも驚くことに、颯は満面の笑顔になっていた。
「鷲海1尉! こっちを向いてください!」
 やや驚きを滲ませた雪村2尉の呼びかけに応じて、颯は顔の角度を変える。すると視線の先に第21飛行隊の生意気なヒヨコパイロット――ドルフィンテールの燕揚羽が、ぽかんとした顔をして立っていた。不思議なことに颯はもっと笑顔になっていた。理由は分からない。ただ揚羽を見ていると、なぜか自然と笑顔になってしまうのだ。春一番の南風がエプロンを駆け抜けていく。久しぶりに笑えた清々しさを心に感じながら、颯は撮影が終わるまでずっと笑っていた。



 MAMORの取材が終わってから数日後、プリンターで出力された確認用の写真が収められたレターパックが、広報班を経由して第11飛行隊隊舎に届けられた。今日最後の訓練と事務作業を終わらせた颯は、歓談している隊員に見つからないように事務所から廊下に出ると、レターパックを開封して、写真が入っているクリアファイルを取り出した。なんだかとても情けない。まるで台所で食べ物を盗んでいる鼠のような気分である。写真に撮られた自分はそれはもう満面の笑顔を浮かべていた。笑窪を刻んで白い歯を覗かせている太陽の笑顔。意外だった。もうこんな笑顔は二度とできないと思っていたのに――。
「なかなかいい写真だな。いつもより五割増しで撮ってもらったんじゃないか?」
 不意に涼やかな声が聞こえたので、颯はやや驚きながら後ろを振り向いた。飛行隊長の蓮華悠一2等空佐が、鋭角的なラインの顎に片手を当てて、颯の肩越しに写真を眺めている。もう一度写真を眺めた蓮華2佐は満足そうに頷いた。
「それにしても良い顔をしているな。これもすべてドルフィンテール――燕1曹のお陰だ」
「どうしてドルフィンテールのお陰なんですか?」
「お前をT‐4に乗せたら笑うんじゃないかと言ったのは燕1曹だからな。まさに彼女が言ったとおりだ。今度彼女に会ったら、礼を言っておくんだぞ」
 「お疲れ」と言うと蓮華2佐は颯の肩を叩き、学校のような隊舎の廊下を歩いていった。空を飛ぶのが大好きなことを、あろうことかヒヨコパイロットの揚羽に見抜かれてしまうとは。つまり自分は猿回しの猿よろしく、彼女の手の上で思い通りに踊らされていたというわけか。恥ずかしさと悔しさの混じった感情が颯の心を掻き乱した。
 飛行隊隊舎を出た颯は三舟1曹に挨拶をしてから正門を出て官舎に向かった。5分ほど歩いて官舎に着く。官舎の三階にある自室の鍵を開けて中に入る。官舎の部屋は1LDKなのであまり広くない。ベッドに座ってリュックサックと服のポケットの中身を取り出していると、腕に巻いているのとは別に持っている、時計が無くなっていることに颯は気づいた。どうやら基地敷地内のどこかで、うっかり落としてしまったらしい。探しに戻るべきか迷ったが、あの時計を持ち続ける理由なんてないので、颯はそのまま放っておくことにした。
 リビングを離れた颯は洗面所に向かい、服と下着を脱ぎ捨てて浴室に入った。シャワーが出す熱いお湯の雨で、溜まった疲れを洗い流していると、玄関からインターフォンの音が聞こえたような気がした。シャワーを止めた颯は耳を澄ます。やや間をおいたあと二回、三回とインターフォンが鳴る。来訪者は黎児に違いない。女の子にふられた愚痴を颯に聞いてほしくて足を運んだのだろう。であればわざわざ服を着て出る必要はないか。身体と髪を軽く拭き、ボーダー模様のバスタオルを腰に巻いて玄関に向かう。サンダルを履いた颯はチェーンと鍵を外してドアを開けた。だがドアの向こうに立っていたのは黎児ではなかった。
 ふんわりとしたシルエットの、ハニーベージュのショートヘアに卵型の顔。颯を真っ直ぐに見つめる、硝子玉のように澄んだ双眸は、眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれている。颯を訪ねてきたのは、なんとドルフィンテールの燕揚羽だったのだ。目を見開いて硬直する、うら若き乙女の目の前にいるのは、バスタオル一枚で下半身を隠しただけの、ほとんど裸に近い姿の精力溢れる若い青年。まさに通報されてもおかしくない絵面である。颯はずり落ちかけたタオルの結び目を押さえると、咄嗟にもう片方の手を伸ばして揚羽の口を塞いだ。
「――ふぐぐっ!?」
「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」
 涙目の揚羽が頷いたのを確認した颯は、警戒しながら手を離す。厄介な悲鳴が上げられることはなかったので、揚羽を廊下に残した颯は、部屋に駆け込むとドアを閉め、タオルで水滴を拭き取った身体に衣服を身に着けると、再びドアを開けて廊下に飛び出した。揚羽は逃亡せずにおとなしく待っていた。よほど受けた衝撃が大きかったのだろう、ちゃんと服を着た颯を目の前にしても、揚羽の顔はまだ赤く染まっていた。
「……それで俺になんの用だよ」
「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」
 来訪の目的を言った揚羽はポケットから時計を取り出した。文字盤を保護する硝子に亀裂の入った、ブルーインパルス仕様のパイロットウオッチ。受け取って裏面を見てみると、確かに【HAYATE WASHIMI】の文字が刻印されてあった。複雑な感情の波が颯の心を掻き乱す。これは重い過去の十字架を背負い続けろという神様のお告げなのか――。眉間に皺を寄せて時計を凝視する颯に不安を覚えたのか、揚羽は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「もしかして……捨てるつもりだったとか?」
「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
 颯の口から出た「ありがとう」の言葉に、揚羽は目を丸くして驚いていた。失礼な反応だ。愛想がよくないのは自分でも自覚しているが、これでも礼節や礼儀などの類いは持ち合わせている。
 そのあと颯は学生隊舎で生活する揚羽を、松島基地まで送っていくと申し出たのだが、どうしても素直になれず、とても失礼な言い方をしてしまう。当然ながら揚羽は怒りを爆発させた。あとを追いかけようとした颯の目の前で蹴躓いた揚羽は、階段から落ちそうになった。瞬間颯の身体は鋭敏に反応する。素早く踏み出した颯は、落ちる揚羽の腕を掴むとシーソーのように一気に引き戻して、彼女を抱いたまま一緒に後ろに倒れこんだ。したたかに打った背中の痛みに、颯は思わず呻いてしまった。
「――大丈夫か?」
「あっ……ありがとうございます」
 揚羽がこちらを振り返った。長い睫毛に飾られたぱっちりとした大振りの瞳。触れてみたくなるほど柔らかそうな、桜の花びらのような小さめの唇。なるほど黎児が言っていたとおり、なかなか可憐な容姿をしている。腕に抱き締める身体は細くて柔らかく、少し力を込めただけでぽきりと折れてしまいそうだ。鼻先をくすぐるハニーベージュの髪は甘い香りがした。なんだか身体がむずむずしてきたので、颯は息を吐いて気持ちを落ち着かせた。
「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」
「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」 
 ――まったくそんなに嫌がらなくてもいいだろうに。「悪い」と謝った颯は揚羽を放した。官舎をあとにした二人は、夕映えが美しい長閑な風景の道を、無言で歩き続ける。揚羽が遅れないように、歩幅と速度を調整して歩いていくと、松島基地の正門が見えてきた。正門から出てくる隊員たちの自家用車がすぐ横を走り抜けていく。帰りを待っている家族がいるのだと思うと、颯の心は再び感情の波で掻き乱された。だがどんなに羨んでも過去は変えられない。気を取り直した颯は揚羽のほうを振り向いた。
「ここまででいいよな」
「はい。ありがとうございます」
 颯は官舎に戻ろうと踵を返したのだが、直後に揚羽が呼び止めたので振り向いた。
「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、ブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは、5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」
 一気にまくしたてると揚羽は基地の正門に駆け込んでいった。颯は戸惑いながら華奢な揚羽の背中を見つめていた。揚羽が基地の中に入っていったのを確認した颯は、踵を返して二人で来た道を今度は一人で引き返す。「私は貴方に憧れています」だなんて恥ずかしい台詞を、真剣な表情でなんの裏もなく言ってくるとは驚いた。正確に言うと揚羽が憧れているのはブルーインパルスらしいのだが、それでも最初の一言に驚いたのは事実である。
 颯が思う揚羽は生意気なヒヨコパイロットだ。でも数日前の写真撮影と今日のことで、揚羽の印象が少しだけ変わったような気がする。薄明が忍び寄るなか颯は空を見上げた。夕日を射抜くような飛行機雲が、夕焼け空に真っ直ぐ伸びていた。