青空を真っ直ぐに伸びる雲に、直交する波状の雲が重なっている。白い筋や帯に見えるもの、釣り針のようなもの、鳥の羽根や馬の尻尾を連想させるもの、ほつれた絹糸を思わせる形の雲が浮いている。きっと夕焼けの時は最後まで美しく輝くだろう。 穏やかに晴れ渡る青空を一機の航空機が飛んでいた。濃い青色の海上迷彩塗装。左右にぴんと伸びた主翼。曲線的な風防と胴体下面に配置された半月型の空気取り入れ口。翼に描かれた白い縁取りと赤い円の国籍記号。直立する垂直尾翼は槍のように高く鋭い。全長15メートルの航空機の名前は、平成の零戦ことF‐2バイパーゼロ。「対艦番長」という勇ましい呼び名を持つ航空自衛隊の戦闘機である。前後に座席が並ぶ複座型のF‐2Bには二人のパイロットが乗っていた。 『今日も空は綺麗だなぁ……』 『おい! スワローガール! 訓練は着陸するまで終わっていないんだぞ! ぼけっと呟いてる暇があったら着陸の準備をしろ!』 操縦席のパイロットが呟く。すると棘のある声が前後席通話装置を通じて届けられた。頭で思ったことを呟いてしまっただけではないか――と「スワローガール」と呼ばれたパイロットは心の中で反駁する。堂々と反駁できないのは相手が教官だからでもあるし、彼が言ったことがぐうの音も出ない正論であるからだ。飛行訓練は基地に帰投するまでが訓練。空の上では何が起こるか予測できない。ゆえに一秒たりとも気を抜いてはいけないのだ。「ラジャー」と返したパイロットは気を引き締めて飛行を続ける。ややあって視界前方に管制塔が見えてきたので、パイロットは無線のチャンネルをTWRに合わせた。 『アポロ15、松島タワー。15マイル、ノースストレート、インフルストップ』 『松島タワー、アポロ15。チェックギアダウン、ランウェイ25L。クリアード・トゥ・ランド、ウインド、ツー・スリー・ゼロ、アット、ゼロワン』 『アポロ15、ラジャー。ランウェイ25L。インフルストップ』 管制塔に応えたパイロットはHUDに視線を向けた。縦の緑色のラインはグライドスロープニードルといい、滑走路の位置を示している。まずはこのラインと、現在の速度・方向で飛行を続けた場合の到達地点を示す、ベロシティベクトルを重ねなければならない。ラダーペダルを踏んだパイロットは、左右に機首を振ってグライドスロープニードルをベロシティベクトルに重ねた。 横の緑色のラインのローカライザーニードルは、理想の進入角度を示している。次はベロシティベクトルをローカライザーニードルに合わせつつ、スロットルを落として300キロ前後まで減速だ。雲の波が断ち切れ指示されたランウェイ25が近づいてくる。機首を起こしながら200キロ前後まで減速。左右の主脚とメインギアが滑走路に接地した。そのまま減速を続けたF‐2Bは綺麗に停止した。 『アポロ15、ナイスランディング』 『えっ? やった! 褒められましたよ!』 『ぼけっとするなって言っただろうが! さっさと駐機場に行け! アイハブするぞこら!』 褒められたかと思ったらすかさず教官に怒鳴られた。まさに飴と鞭である。もしかしたら管制官にも今の会話を聞かれたかもしれない。管制官の皆さんに大爆笑されているであろう光景を脳裡に浮かべながら、パイロットはタキシングでF‐2Bを誘導路からエプロンに走らせた。誘導係の整備員のパドルに従いながら、慎重にタキシングを続ける。赤色のパドルが交差した瞬間にブレーキを踏み込む。お辞儀をするように機首を上下させたF‐2Bは、決められた位置で停止した。 帰投を待ち構えていた担当の機付き整備員たちがすぐさま走ってきた。機体胴体左側に乗降用の梯子が固定される。梯子を上った整備員は、キャノピーを開放したパイロットと教官を座席に固定している、ベルトとショルダーハーネスを手際よく外していく。束縛から解放された二人は、順番に梯子を伝って地面に下りた。空調が効いているとはいえやはり密閉空間のコクピットの中は蒸し暑い。だからパイロットは基地の空気がいつもより綺麗に感じられたのだった。 「装備を脱いだらすぐブリーフィングルームに来い。――徹底的に指導してやるから覚悟しとけよ、スワローガール」 ドスの効いた声音で言った担当教官の遠藤龍二3等空佐は、エプロンを去って格納庫の救命装備室に姿を消した。遠藤3佐の背中を見送ったパイロットは、大きく嘆息するとフックからベルトを外して、灰色塗装のヘルメットを脱いだ。春風にたなびくふんわりとしたハニーベージュのショートヘアは、ランダムに重なり合うカールがついていて、ところどころが元気よくぴんと跳ねている。幼さが色濃く残る可憐な顔立ちには、酸素マスクの跡がくっきりと残っていた。 「……私はスワローガールじゃないもん。何度言ったら分かってくれるのかしら」 桜色の唇を不満そうに尖らせる彼女の名前は燕揚羽1等空曹。宮城県航空自衛隊松島基地・第21飛行隊で、日々訓練に励む元気いっぱいの航空学生だ。そんな揚羽の夢はもちろん一人前のファイターパイロットになることだ。そして憧れのパイロットが飛んでいた、第11飛行隊ブルーインパルスのドルフィンライダーになるのが最終目標である。いきなり救命装備室から顔を突き出した、遠藤3佐に呼ばわれた揚羽は、「はい!」と返事を返して、ヘルメットバッグとビデオテープを両手に持つと、地面を蹴り飛ばし大慌てで走っていった。 ★ 徹底的に指導してやると遠藤3佐に脅迫――ではなく言われたとおり、揚羽のフライトの振り返りをするデブリーフィングは散々だった。最低評価をつけられなかったのが、せめてもの幸いだと言えよう。遠藤3佐は触ると幸福を呼ぶという、ビリケンのような見た目をしているのに、どうして矢継ぎ早にえげつないことを言えるのだろうか。あれはビリケンさんじゃなくて地獄の閻魔大王だ。今まで何人の学生たちを地獄の大窯で茹でてきたのか訊いてみたい。しかしそれを訊いてしまったら最後、今度は揚羽が煮えたぎる大釜の中に投げ込まれてしまうだろう。 デブリーフィングが終わって第21飛行隊隊舎を出た揚羽は、とある飛行隊の区画になっている基地東側に向かった。その飛行隊の名前は第11飛行隊ブルーインパルス。空自の飛行部隊で、唯一アクロバット飛行を専門としている飛行隊である。第11飛行隊の訓練風景を見にいくのが毎日の習慣になっているのだ。ブルーインパルスのアクロバット飛行を思い出した揚羽の胸はすっと軽くなる。いつの間にか鼻歌を歌えるまでに、揚羽の気持ちは回復していた。思い出すだけで心が軽くなるなんて不思議だ。きっとあの翼には、みんなを元気にさせる特別な魔法がかかっているのかもしれない。 軽やかな足取りで歩いていくと、青色のラインが入れられた白壁の建物が見えてきた。漢字で書かれた「第十一飛行隊」の木製の看板が、玄関脇の柱に提げられている。ここが第11飛行隊の飛行隊舎だ。そのすぐ隣には緩やかなアーチ形状の建物があり、上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が、青色で大きく書かれていた。あの建物がT‐4などの航空機を収納している、ブルーインパルス専用の格納庫である。そして格納庫のすぐ前に広がるエプロンに、駐機されている航空機を見つけた揚羽は、頬を紅潮させると子供のようにきらきらと目を輝かせたのだった。 エプロンに駐機されているのは六機のT‐4中等練習機だ。機体上面は青と白のツートンカラー、裏面は上面のリバースパターンに塗装されている。T‐4中等練習機は、T‐33及びT‐1の後継用に開発されたこともあり、機体の大きさはそれら先輩機と、ほぼ同寸法となっている。その外見は全体的に角がとれて、丸みを帯びたものとなっているが、左右の胴体脇に置かれたエアインテークや尖った機首など、全体の印象はミニ戦闘機といった感じだ。滑らかな流線形のフォルムは、「ドルフィン」の愛称のとおり、愛らしいイルカを思わせる。ドルフィンキーパーと呼ばれる航空機整備員の姿はなかった。 (ちょっとだけ触ってみてもいいよね……) 周囲を見回しながら、揚羽は日の光を照り返しているT‐4に近づく。手を伸ばした揚羽が、翼に触れようとした時だった。 「おい! ドルフィンに触るな!」 突然飛んできた怒声が揚羽の耳朶を打った。振り向いてみれば、エプロンに立つ青年がこちらを睨んでいるではないか。航空自衛隊標準装備の低視認性を重視する、オリーブグリーンのパイロットスーツを着ているから、飛行隊のパイロットにちがいない。 右胸に着けているのは、青い地球に六機のT‐4を表す金色の矢印、衝撃をイメージした赤色の縁取りの金色のストライプと翼のエンブレム。左肩には日の丸をイメージした、白い縁取りの赤色の円の中心に、T‐4と同じ配色の、イルカのキャラクターを置いたデザインの、ショルダーパッチを着けている。驚くことに彼はブルーインパルスのドルフィンライダーだった。いきなり怒声を浴びせられて驚く揚羽のところに、ドルフィンライダーの青年が早足でやってくる。大きな手に腕を掴まれた揚羽は、T‐4から乱暴に引き離された。 「いいか、ドルフィンは整備員たちが丹精込めて磨いてくれているんだ。俺たちパイロットだってな、できるだけ機体を汚さないように気をつけてる。だから勝手に機体にべたべた触られるとみんなが困るんだよ。分かったならさっさとツアーに戻れ」 「あの……ツアーって?」 きょとんとした面持ちの揚羽が尋ねると青年は片方の眉毛を撥ね上げた。 「……お前、観光ツアーの客じゃないのか? てっきりミリタリーマニアでコスプレ好きの中学生かと――」 松島基地では事前に申し込めば、司令部監理部広報班の案内で基地見学をすることができる。どうやら彼は、揚羽を基地見学ツアーからはぐれた観光客と思いこんでいたようだ。だがそれにしても23歳の可憐な乙女を中学生と間違えるなんて失礼すぎる。揚羽は怒りを覚えたが、もとはと言えば機体に触ろうとしたこちらが悪いのだ。なのでここは穏やかに返すことにした。 「私は中学生じゃありません。まだ学生ですけれど、れっきとした空自パイロットです」 「学生ということは、第21飛行隊のヒヨコパイロットか。なら1等空尉の俺はお前の先輩になるな。今度俺のドルフィンに触ろうとしてみろ。基地から摘まみ出してやるから覚悟しておけよ」 「――っ! なんなんですかその言い方は! 先輩なら後輩のお手本になるような態度を見せたらどうなんですか!」 「なんだと!?」 「なんだとはなんですか!」 揚羽の発言は彼の怒りの導火線に火を点けてしまったらしい。怒れる青年は一歩踏み出すと、揚羽の胸倉を掴み上げようとしたが、勢い余ってか手が滑ってしまい、なんと彼女の控えめな発育の胸を、がっしりと鷲掴みにしてしまった。揚羽の胸に食い込んだ青年の手は、あろうことか彼女の胸を揉んでいるではないか。今まで誰にも触らせたことのない胸を、見ず知らずの青年が無遠慮に揉みしだいている。耳まで真っ赤になった揚羽は石像のように硬直していたが、なんとか青年の手を振り払い、反撃の声を出すことができた。 「エッチ! スケベ! ド変態! 女の子の胸を鷲掴みにして、おっ、おまけに、むにむに揉むなんて!」 「なっ――! 俺は好きで掴んだわけじゃねぇよ! お前が女だったなんて知らなかっただけだ! それに洗濯板みたいな胸なんて、掴んで揉んでも嬉しくないぜ!」 「誰の胸が洗濯板みたいですって!? 中学生と間違えたばかりか、そんな失礼なことを言うなんて最低だわ! 貴方みたいな人が、国防の任務に就く空自パイロットだなんて信じられない!」 「はいはい、口喧嘩はそこまでにしましょうね」 揚羽と男性の口論を断ち切ったのは、やや間延びした声だった。頭の上から大きな影がかぶさってくる。次いでいきなり襟首を掴み上げられ、揚羽と青年は軽々と引き離されてしまった。それでも睨み合う二人の間に、二人目のドルフィンライダーの男性が割り込んでくる。縦にも横にも大きい巨大な体躯の男性だ。 「まったく……いったい何をしているんですか。何が原因で喧嘩しているのか知りませんが、見たところ彼女はまだ学生のようですし、ここはひとまず先輩の貴方が謝るべきだと私は思います」 「ちょっとベアーさん! なんで俺が謝らなくちゃいけないんですか!? こいつが勝手にドルフィンに触ろうとしていたから俺は止めただけです! だから俺は絶対に謝りませんよ!」 「ゲイル、これは班長命令ですよ。彼女に謝りなさい」 男性は微笑しているが目は笑っていなかった。静かなる迫力に気圧された青年は息を呑むと、渋々といった様子で揚羽に頭を下げてきた。 「……俺が悪かった」 誠意など微塵も感じられない謝り方だったが、ここは謝罪を受け入れて怒りの矛を収めるべきであろう。揚羽は頷いて青年の謝罪を受け入れた。 「ほら、早くブリーフィングルームに行きなさい。隊長たちが待っていますよ」 男性に促された青年は最後に揚羽を睨みつけると、第11飛行隊隊舎に入っていった。 (それにしても大きい人だなぁ……) まじまじと男性を仰ぎ見た揚羽は心の中で呟いた。縦にも横にも大きい体躯は、脂肪ではなく岩壁のような筋肉で隆起しているから、オリーブグリーンのパイロットスーツは今にも張り裂けそうだ。パイロットスーツの袖は二の腕まで捲り上げられていて、ジャングルのような剛毛が、びっしりと逞しい腕に生えていた。だが大振りの双眸はつぶらで綺麗に澄んでいる。日焼けした顔立ちは、どことなくテディベアに似ているような気がした。揚羽がおずおずと声をかけると彼はこちらを見下ろした。 「えっと、あの……」 「私は鬼熊薫3等空佐、さっきの彼は鷲海颯1等空尉です。ゲイルが失礼な態度をとってすみません」 「第21飛行隊の燕揚羽1等空曹であります。謝るのは私のほうです。勝手にT‐4に触ろうとした私が悪いんです。申し訳ありませんでした」 揚羽は鬼熊薫3等空佐に頭を下げる。すると鬼熊3佐は頭を下げた揚羽に、珍しい動物を見つけたような目を向けた。 「21飛行隊の女の子? では貴女が噂の――」 「えっ?」 「いえ、なんでもありません。プリブリーフィングがありますので、これで失礼します」 揚羽に微笑んで見せた鬼熊3佐も、第11飛行隊隊舎に入っていった。ひとまず騒動が収まり肩の力を抜いた揚羽は息を吐く。カメラを構えた人たちがブルーインパルスを一目見ようと、ランウェイ07/25の北側にあたるフェンス沿いに集まってきている。揚羽の周りにも飛行訓練を見にきた隊員たちが続々とやってきた。第11飛行隊隊舎屋上の観覧席にいるのは、基地見学に訪れた観光客だろう。 しばらく待っていると、プリブリーフィングを終えた第11飛行隊のパイロットたちが、飛行隊隊舎から出てきてエプロンに姿を見せた。七人全員が紺色の部隊識別帽子と、青と白のカラーでカスタムされたOAKLEYのFLACK JACKETのサングラス、オリーブグリーンのパイロットスーツという出で立ちで、救命胴衣や耐Gスーツは着けていない。メタリックブルーのヘルメット、救命胴衣と耐Gスーツとフライトグローブは、機体の横の梯子に掛けられている。 (やった! これから始まるのは飛行場訓練だわ!) 揚羽は喜んだ。ブルーインパルスの飛行訓練は、他の飛行部隊と同じく一日三回が基本。すべての飛行訓練で六機が揃って飛ぶわけではなく、訓練の内容や機体の整備状況によって機数は変更される。飛行場訓練と呼ばれる基地上空での訓練が行われるのは週三回程度で、ウォークダウンやナレーションなど、本番同様の一連の流れが、併せて演練されることがあるのだ。揚羽は期待に胸を高鳴らせながら、演練が始まるのを待った。 エプロンの端に一列に並んだドルフィンライダーたちが、ウォークダウンで機体を目指して行進していく。手の振りも歩幅も見事に調和している。ステップをカウントしているのは6番機のドルフィンライダーだ。順番に解散していったドルフィンライダーたちは、機付き整備員と敬礼を交わして、梯子に掛けられている装備を身に着けている。演練が順調に進んでいくなか、揚羽の視線は一人のドルフィンライダーに釘付けになっていた。 (嘘でしょ? あの人が5番機のパイロットだなんて――!) 揚羽が凝視するのは5番機のドルフィンライダー。ヘルメットをかぶるため、紺色の識別帽子を脱いでサングラスを外したドルフィンライダーは、なんと驚くことに揚羽の胸を掴んで揉んだ青年だったのだ。揚羽は何かの間違いだと思いたかった。だが青年が頭にかぶった、ヘルメットのバイザーカバーに描かれた、逆さになった数字の5が確かな証拠。難易度の高い背面飛行が多い、リードソロを担当する5番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描き、その技量を誇っている。唖然とする揚羽が見ている前で、青年は5番機のコクピットに乗り込んだ。 青と白のT‐4に搭乗したドルフィンライダーたちが、整備員と連携してエンジンを目覚めさせた。「ヒィィーン」と高い音が鳴り響き、ポジションナンバーの描かれた垂直尾翼のライトが点灯する。同時にジェット噴流に押し出されたスモークが空に昇っていった。敬礼する整備員が見送るなか、一列に並んだT‐4がタクシーアウトしていく。滑走路に進入した六機のT‐4は、双発のF3‐IHI‐30ターボファンエンジンを、誇らしげに轟かせると青空に飛翔していった。 無礼極まりない青年が5番機を操縦するのだから、きっと目も当てられないほど酷い飛行だと揚羽は思っていた。だが次々とリードソロ課目を実施する5番機を見ていくうちに、揚羽は自分が間違っていたと思い知らされる。その軌跡は時には鋭く時には柔らかい。さながら一羽のツバメが優雅に空を飛んでいるようだ。憧れの5番機のパイロットは嫌な性格をした青年だ。それなのに彼が松島の空に描くアクロバットから、揚羽は目が離せない。なんだか悔しい思いを感じる揚羽の頭上を、ざまあみろと言わんばかりに、5番機がバーティカル・クライム・ロールを打ちながら、天高く昇っていった。 ★ 炊きたての白米の甘い香りがふわりと漂ってくる。香りが鼻腔を走り回ると揚羽の腹の虫が鳴った。身体も頭も酷使した揚羽の胃袋は空っぽだ。隊員食堂の入口で石鹸と水で綺麗に手を洗い、揚羽は食堂に入った。食堂を進んで配膳カウンターのほうに向かう。うどん定食を大盛りで注文、ポケットからIDカードを取り出して、精算機のリーダーにかざす。精算を済ませた揚羽は、大盛りのうどん定食が乗ったトレイを受け取った。 「訓練お疲れさまです」 揚羽に声をかけてきたのは、第21飛行隊航空機整備員の佐倉花菜1等空曹だ。柔らかそうな黒髪。ぱっちりとした大きな双眸は綺麗に澄んでいる。なんだか栗鼠を思わせるような愛らしい外見は、世間で言う「癒し系女子」だろうか。年齢は揚羽より一つ上の二十四歳。基地外周をランニングしていた時、揚羽は同じくランニングしていた花菜と出会い、二言三言会話を交わしているうちに、意気投合して仲良くなったのだ。 「花菜ちゃんもお疲れさま。一緒に食べよっか」 「はい」 揚羽は花菜と一緒に席に着こうとしたのだが、突然目の前に現れた巨大な山が、彼女の進路を遮った。正確に言うとそれは山ではない。形よく均整美を保って隆起している女性の胸である。揚羽は視線を動かす。するとむっちりとした胸を、真っ直ぐに反らした女性が、眦を吊り上げて揚羽を見下ろしていた。 「聞きましたわよ。貴女、鷲海様と喧嘩したんですってね!」 彼女は大野木麗香1等空曹。揚羽と同じ第21飛行隊の学生パイロットである。いわゆる同じ釜の飯を食った者同士だが、何かと理由をつけて揚羽に突っかかってくるのだ。ウイングマークを取得して、F‐2戦闘機操縦課程に進んでからも、麗香は相変わらず揚羽を目の敵にしていた。相手が好きだから意地悪をするという俗説があるが、麗香にその俗説は当てはまらない。麗香は揚羽を不倶戴天の敵と認識してやまないのだ。トレイを花菜に預けた揚羽は、負けじと麗香を睨みつけた。 「鷲海様って……誰?」 首を傾げて揚羽が聞き返すと、麗香は前につんのめった。さながら関西で人気の某新喜劇芸人のようなリアクションだ。 「とぼけないでちょうだい! ブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海颯様のことよ! 私だってまだお話ししたことがないのに、よりによってどうして貴女みたいなちっぱい子が、鷲海様とお話しできるのよ! 私の鷲海様にエッチなことなんかしたら許しませんわよ!」 「エッチなことなんかするわけないじゃない! あんた馬鹿じゃないの!? てゆうか『ちっぱい』ってどういう意味よ!」 「自分の胸に手を当てて、よーく考えてみることね! とにかく今日の鷲海様は、MAMORの取材で忙しいんだから、ちょっかいを出さないでちょうだい!」 巨大な胸で揚羽を押し退けた麗香は、さながらステージを闊歩するファッションモデルのように歩いていった。去りゆく麗香の背中に揚羽は舌を突き出して反抗する。「私の鷲海様」だなんて、相変わらず思い込みの激しい女性だ。どうやら麗香の脳味噌は、颯をボーイフレンドと誤って認識しているらしい。颯にエッチなことなどするわけがない。むしろその逆である。揚羽は颯に胸を鷲掴みにされて、何度も揉まれたのだ。妙な言いがかりをつけるのはやめてほしい。 「なーにーよーあの爆乳女!! いつどこで何時何分何秒に、その鷲海颯様があんたの彼氏になったっていうのよ!! エッチなことをされたのは私のほうよ!! それにあんたの魂胆は見え見えなんだからね!! ブルーインパルスが見たくて、あわよくばドルフィンライダーの彼女になりたいから、あんたはF‐2を希望したんでしょーがああぁっ!!」 怒りを爆発させた揚羽は吼えた。食事を中断した隊員たちが、何事かといった様子で揚羽のほうを見る。 「あっ、あの、揚羽ちゃん、そろそろ席に座らない……?」 怒りが収まらない揚羽に、蚊の泣くような声で話しかけてきたのは花菜だ。左右の手にトレイを持つその姿は、中国雑技団を思わせる。よく見ると花菜の両手は小刻みに震えていた。どうやら花菜の上腕二頭筋は限界に近づいているらしい。おまけに花菜も半泣き状態である。揚羽は自分のトレイを受け取り、花菜を連れて窓際の席に腰掛けた。「いただきます」と手を合わせ、揚羽は熱々のうどんを一気に啜る。うどんも出汁で柔らかくなったかき揚げも美味しかった。 「今日MAMORの取材があるって、麗香は言ってたよね。いったいなんの取材で来るのかな」 自衛隊には防衛省が編集協力を唯一している広報誌がある。それがMAMORだ。毎月日本の防衛に関する旬な特集や、自衛隊の基礎知識、日本各地に展開する部隊の、活動・装備品の紹介などを、分かりやすい記事と迫力満点の写真で提供しており、特殊な装備の紹介や防衛政策よりも、自衛官に焦点を当てているのだ。 「『航空自衛隊のイケメン特集!』っていう記事の取材みたいですよ。なんでもブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海1尉が取材対象に選ばれたとか」 「ええっ!? あんな奴が選ばれたの!?」 松島基地第4航空団・第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット、鷲海颯1等空尉。パイロットたちが部隊内だけで使うTACネームはゲイル。T‐4に触ろうとした揚羽を一喝して、観光ツアーでやって来た、ミリタリーマニアでコスプレ好きの男子中学生と間違え、挙げ句の果てに彼女の胸を鷲掴みにして、もみもみ揉んだ青年である。それにしても分からない。鷲海1尉より相応しいパイロットがいるであろうに、どうして彼が取材対象に選ばれたのか腑に落ちない。顔立ちが綺麗なのは認めるが性格は最悪だ。明らかに人選ミスだろう。 「ねえ、揚羽ちゃん。よっ、よかったらだけれど、私たちもMAMORの取材、見にいってみない?」 「えっ?」 揚羽の真正面に座る花菜は、頬を赤く染めてもじもじしている。――そうだった、花菜もドルフィンライダーの一人に憧れているのだ。花菜から見るドルフィンライダーは、まさに殿上人の如き存在。一人で見にいくのは心細いから、揚羽に一緒に来てほしいと、花菜は遠回しに言っているのだ。鷲海颯という人間に些か興味を覚え始めていたし断る理由もない。なので揚羽は花菜と連れ立って、MAMORの取材風景を見物しにいくことにした。 青空の澪を白い雲の船舶がゆったりと流れていく。MAMORの取材が行われる第11飛行隊のエプロン地区は、言わずもがな大勢の見物客で混雑していた。まるで朝方の満員電車のような光景だ。尻込みする花菜の手を引いた揚羽は、人混みを掻き分けて最前列に移動した。 「おう、やっぱり来たかい。ドルフィンテール。佐倉のお嬢ちゃんも一緒か」 「……その呼び方、やめてくれません?」 揚羽と花菜に話しかけてきたのは、ダークブルーの部隊識別帽子を、前後逆に被った整備員だ。どことなく不良中年に見える彼の名前は、三舟勇1等空曹。第11飛行隊整備小隊の整備班長を務めている、この道一筋二十年のベテラン整備員で、何度か通っているうちに顔見知りになったのである。 ちなみに「ドルフィンテール」とは揚羽の渾名だ。毎日欠かさずブルーインパルスを見にくることから、第11飛行隊の隊員たちは、いつからか揚羽をそう呼ぶようになったらしい。直訳するとイルカの尻尾になるが、イルカに尻尾はない。あれは尾鰭だから、正しくは「ドルフィンフィン」になると思うのだが。嘆息しながら揚羽はエプロンを見回す。T‐4は駐機されているが、肝心のパイロットの姿が見当たらなかった。 「鷲海1尉はまだ来ていないんですか?」 「ん? ああ、鷲海は救命装備室で着替え中だ。なんなら覗きにいってもいいぞ」 「いきません! からかわないでくださいよ!」 少しして颯がハンガーの救命装備室から出てきた。颯はいつも着ているオリーブグリーンのパイロットスーツではなく、タイトな作りのダークブルーのパイロットスーツを着ている。あれは展示飛行の時に着る、「展示服」というパイロットスーツだ。格好良すぎる颯の展示服姿に、不覚にも揚羽はドキドキしてしまう。男性隊員の嫉妬の眼差しと、女性隊員の熱い視線を気にする様子もなく、エプロンの中央に進んだ颯はMAMORの取材を始めた。 「あの……鷲海1尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」 「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」 「はぁ……」 間髪入れずに颯が返す。肩を落として大きく嘆息したのは、東京都新宿区市ヶ谷の航空幕僚監部広報室広報班から派遣されてきた、雪村衛士2等空尉だ。だが困惑しているのは彼だけではない。バズーカ砲のようなカメラを構えた、男性カメラマンも困惑している。二人が困惑するのも無理はない。なぜならばT‐4を背後に立つ颯は、無表情のままにこりとも笑わないのである。その眦も口角もまったく微動だにしない。強力な接着剤で固定されているのかと思ってしまいそうだ。雑誌記者は颯の緊張をほぐそうと会話を始めたが、やはり彼の端正な顔を凍てつかせている、硬い表情は溶けなかった。 「参ったな……噂には聞いていたけれど、まさかこんなに無愛想だとは知らなかったよ」 揚羽の隣にきた雪村2尉は、二回目の嘆息を吐いた。父親譲りの人好きがする顔は、思わず励ましの声をかけたくなるほど落胆している。落胆しているのは、雑誌記者とカメラマンも同じだ。敏腕編集長から「何がなんでも絶対にイケメンの笑顔を撮ってこーい!」と強く言われているのかもしれない。仏頂面の写真など持ち帰ったら、間違いなく叱責されるだろう。 「T‐4に乗ったら笑うんじゃないですか?」 「T‐4に?」 「T‐4に触ろうとした私に怒鳴ったくらいだから、飛行機が大好きな飛行機馬鹿なんだと思いますよ。誰だって好きな物を見たり、近くに行ったら自然と笑うじゃないですか。だからT‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって」 「――今なんて言った?」 揚羽と雪村2尉の会話に、風鈴のように涼やかな声が割り込んできた。雪村2尉の隣で撮影風景を見守っていた男性隊員が、切れ長の目を揚羽に向けている。「ひゃっ!」と声を上げた花菜が、顔を真っ赤に染めて揚羽の後ろに隠れた。 涼やかな目元と真っ直ぐ通った鼻梁。欧米人のような細い顎。ダークラベンダーアッシュの髪を左右に流して、額を露出させている。すらりと伸びた両脚は長くて腰の位置も高い。まさにハリウッド俳優のようなプロポーションの持ち主である。ブルーインパルスの飛行隊長で1番機のドルフィンライダー、TACネームは「ロータス」の、蓮華悠一2等空佐その人だ。 「えっ? 鷲海1尉は飛行機が大好きみたいだから、T‐4に乗せたら笑うんじゃないかなって――」 「そうか、その手があったな。雪村2尉、すまないが一緒に来てくれないか?」 「はっ、はい!」 蓮華2佐は雪村2尉を引き連れて颯のところに歩いていった。蓮華2佐たちは雑誌記者とカメラマンを交えて、何やら会話している様子である。蓮華2佐に頷いた颯は、梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。颯の顔はカメラを意識するように傾けられている。ややあって颯は瞼を伏せると瞑目した。まさかこの状況下で居眠りをするつもりなのか。 だがそれは違った。閉ざしていた双眸を開いた颯は、さっきまでの仏頂面が嘘だったかのように、白い歯を見せて笑っていたのだ。まさかの全開の笑顔に、周囲から「おぉー」とどよめきの声が上げられた。奇跡の笑顔を逃すまいと、カメラマンは連続でシャッターを切っている。揚羽の隣では蓮華2佐と雪村2尉が驚きを露わにしていた。 (なによ、笑おうと思えば笑えるんじゃない! まったく素直じゃないんだから!) 揚羽は心の中で不平不満を口にする。それにしてもT‐4に乗っただけで簡単に笑うなんて、颯は心の底から空を飛ぶことが好きなのだろう。太陽の笑顔を浮かべた颯が、不意に揚羽のほうを振り向いた。颯は揚羽に笑いかけたのではない。颯は彼女の斜め前方にいるカメラマンに笑顔を向けているのだ。 それなのにどうしてだろう。快晴の空のように、明るくて、爽やかで、眩しい颯の笑顔は、揚羽の胸を熱くさせて、同時に鼓動を高く跳ねさせる。その音の大きさといったら、周りにいる人たちにまで、自分の心臓の音が聞こえてしまったのではないかと思ってしまったほどだ。本当はあの表情が颯の隠している本質なのではないかと感じた瞬間、揚羽の胸の中は切なく苦しくなってしまったのだった。 広報誌MAMORの取材が終わってから数日が経ち、松島基地はすっかりいつもの様相に戻っていた。今日最後の課業を終えた揚羽は、栄養豊富・ボリューム満点の夕食を食べ終えて、駐輪場に向かっていた。鼻歌交じりに基地構内を歩いていると、道の片隅の側溝付近に小さな物が転がっているのに気づいた。なんだろうと思いつつ揚羽は近づいてみる。側溝付近に落ちていたのは腕時計だった。紺色の文字盤に銀色の長針と短針。9時位置の秒針部分には、ブルーインパルスの部隊マークがあしらわれている。文字盤を保護する硝子には、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていて、壊れているのか時計は時間を刻んでいない。裏側を見てみると、【HAYATE WASHIMI】の文字が刻まれてあった。 (鷲海颯って……5番機のドルフィンライダーの人だよね。じゃあこの時計は彼が落としたのかしら) 壊れてはいるが落とし物であることには変わりない。であれば早急に持ち主に届けるべきだろう。揚羽は基地東側にある第11飛行隊の区画に向かった。夜に向かって進んでいく、夕焼け空の下に広がるエプロンでは、整備員たちが点検を終えたT‐4を、トーイングバーと連結させて、牽引車で格納庫に運んでいる。エプロンを訪れた揚羽に気づいたのは、三舟勇1等空曹だった。 「ドルフィンテールじゃないか。どうしたんだ?」 「その呼び方はやめてくださいって、何回言ったら分かるんですか」 「何が気にいらないんだ? お前さんにぴったりじゃないか」 気を取り直した揚羽は三舟1曹に拾った時計を見せた。 「さっき鷲海1尉の時計を拾ったんです。三舟さんから彼に渡しておいてもらえませんか?」 「鷲海ならついさっき官舎に帰ったぞ。俺は仕事があって忙しいから、お前さんが渡しにいったらどうだ。憧れのドルフィンライダーとお近づきになれる絶好のチャンスじゃないか」 親指を立ててにやりと笑んだ三舟1曹は、揚羽の肩を叩くと牽引車に乗って、颯爽と走り去った。まったく失礼なことを言う。あたかもドルフィンライダーと仲良くなりたいがために、時計を届けにきたような言い方ではないか。他の隊員に頼もうかと思ったが、いつの間にかエプロンに立っているのは揚羽だけになっていて、足下の細く長い影が、独り寂しそうに伸びていた。仕方がない。拾ったのは自分だから責任を持って届けるべきだろう。嘆息した揚羽は警務隊の警務室に足を運び、隊員に外出証を提示して正門を出た。 颯が居住している官舎は、基地から徒歩五分ほどの場所にある。基本的に自衛官たちは基地・駐屯地で生活する。外出も許可制で、平日は特別な理由がないかぎり、許可も下りない。自衛官は自衛隊法で指定された場所に、居住することが義務付けられており、幹部自衛官は基地・駐屯地外の官舎や自宅などに居住でき、通勤を認められているが、それ以外の一般隊員は、基本的には許可されていない。しかし結婚などの事情を認められれば、基地・駐屯地外からの通勤も可能である。ちなみに官舎に住んでいる隊員たちは意識が高い。当番を決めて建物の清掃をしたり、足りない備品は自腹を切って購入しているのだ。 三舟1曹から颯は官舎の三階に住んでいると聞いた。階段で三階に上がり、表札を確認しながら廊下を歩く。奥から二番目のドアの脇に、「鷲海」と書かれた表札を見つけた。インターフォンを押したが反応はない。三回続けて押してみるが結果は同じ。しばらく待ってみるが、住人が出てくる気配はない。どうやら颯は留守にしているようだ。であれば時計は明日渡すことにしよう。 ドアの前から去ろうとした揚羽の後ろで物音が聞こえた。留守かと思ったが在宅しているらしい。ドアに向き直った揚羽は颯が出てくるのを待った。チェーンと鍵が外されたドアが、内側から開いていく。ドアが完全に開放されて、中から颯が出てきた瞬間、揚羽の大きな両目は、顔から飛び出さんばかりに見開かれていた。 ドアを開けて揚羽の前に出てきた颯は、腰にボーダー模様のバスタオルを巻いているだけの、かぎりなく裸に近い姿だったのだ。 逞しい胸板と綺麗に割れた腹筋。完全に乾いていないコバルトブラックの髪は、額や目元に張りついている。黒髪の先端から落ちた水滴が、厚い胸板を伝い、腹筋が割れる下腹部を滑走して、臍の横を通り過ぎ腰のタオルの中に入っていく。生唾を飲んだ揚羽はさらに両目を見開いていた。異性の裸を見るのは初めてではないが、こんなに完璧に整った肉体は父親以外見たことがない。颯から目を離せないまま硬直していると、揚羽は突然口を塞がれた。颯はバスタオルの結び目を手で押さえていて、もう片方の手で揚羽の口を塞いでいる。 「――ふぐぐっ!?」 「手を離すから叫ぶなよ! いいな?」 呼吸が苦しいので揚羽は涙目で頷く。颯は揚羽の口を押さえている手をゆっくりと離した。揚羽の喉から悲鳴が迸らないことを確認した颯は、衝撃で硬直する彼女を廊下に残して、部屋に戻っていった。ややあって黒色のVネックの長袖シャツと、ダークブルーのダメージジーンズに着替えた颯が姿を見せた。颯は急いで身体を拭いてきたのだろう。まだ水分を残した身体に、シャツがぴったり張りついていて、引き締まった胸郭と胸の突起の形がくっきりと浮かび上がっているので、揚羽は目のやり場に困ってしまった。 「はっ、はっ、裸で出てくるなんて! いったい何を考えてるんですか!」 「いきなり訪ねてきたお前が悪いんだろうが! 着替えてる時間もなかったし、黎児かと思ったから、このままでいいかって思って――」 「全然よくないです! せめて下着くらい穿いて出てきてくださいよ!」 「濡れたまま穿いたら気持ち悪いから嫌なんだよ!」 「じゃあ拭いてきたらいいじゃないですか!」 ――なんだか会話が妙な方向に進んでいるような気がする。会話の方向を修正したのは颯だった。 「お前、ドルフィンテールの燕揚羽……だよな」 「えっ? そうですけれど……どうして私の名前を知ってるんですか?」 「……同僚から聞いたんだ。それで俺になんの用だよ」 「基地で時計を拾って、裏を見たら鷲海1尉の名前が彫ってあったから、届けにきたんです」 揚羽はポケットから時計を出して颯に渡す。受け取った時計を見る颯の表情は、どことなく険しいように見える。そんな様子を見た揚羽は胸に不安を覚えた。 「もしかして……捨てるつもりだったとか?」 「……いや、そうじゃない。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」 予想だにしていなかった颯の「ありがとう」の一言は、揚羽をとても驚かせた。時計をポケットにしまった颯が揚羽に視線を向ける。 「お前、官舎住まいなのか?」 「えっ? まだ学生なので学生隊舎に住んでます。それが何か?」 「時計を届けてくれた礼だ。基地まで送っていってやるよ」 「お礼なんていりませんよ。それに基地はすぐそこですから一人で帰れます」 揚羽が言葉を返すと颯は呆れたように嘆息した。 「あのな、ここは恋人も奥さんもいない男たちが住む官舎なんだぞ? 彼女や奥さんがいるならともかく、そいつらは日頃の欲求不満が溜まってムラムラしてるんだ。もしかしたら女性を見たらすぐ口説きにかかる、変態野郎がいるかもしれない。だから俺は基地まで送ってやるって言ってるんだ。別にお前を心配して言ってるわけじゃねぇぞ。モデル体型ならともかく、お子様体型のお前が襲われることなんて100パーセントないからな」 「なっ――なんなんですかその言い方は! 失礼すぎます! ひどすぎます! もういいです! 貴方に送ってもらわなくても一人で帰れますから! その変態野郎が貴方かもしれませんしね!」 「おい! 待てって!」 「待ちません! さようなら!」 初めて会った時もそうだったが、本当に失礼極まりない青年だ。こんな奴にエスコートしてもらわなくても一人で帰れる。颯に一礼して廊下を引き返した揚羽は、階段を下りようとしたのだが、ほんの僅かな段差に蹴躓いてしまい、バランスを崩した彼女の身体は、前のめりに傾いた。転落と激突を覚悟した揚羽は両目を固く瞑る。目を瞑った次の瞬間、足音が駆けてきたかと思うと揚羽は腕を掴まれ、勢いよく後ろに引き戻されて倒れこんだ。 「いってぇ……」 痛みに呻く声が聞こえたので、揚羽は首を捻り振り向いた。目の前にあるのは颯の端正な顔だ。独特の眼差しを感じさせる、猫のような奥二重で切れ長の双眸。すっきりと通った鼻筋に、形の整った唇。両目の瞼を縁取る睫毛はとても長い。揚羽は颯に抱き締められるような体勢になっていて、左右に大きく開かれた彼の両脚の間に、人形のように座りこんでいた。揚羽の背中にぴったりと密着している、颯の胸板の感触と温もりが直に伝わってくる。不意に熱い吐息が耳に吹きかけられたので、揚羽は飛び上がりそうになった。 「――大丈夫か?」 「あっ……ありがとうございます」 「これでもまだ一人で帰るって言い張るつもりかよ」 「分かりました! 分かりました! 鷲海1尉に基地まで送ってもらいます! だっ、だからっ、そろそろ放してもらっても、いいですか……?」 一秒でも長くこの体勢でいるのは、恥ずかしすぎて耐えられない。揚羽が音を上げると、颯は「悪い」と言って、腕に抱き締めていた彼女を放してくれた。先に立ち上がった颯が右手を差し伸べた。揚羽は差し伸べられた右手を握り立ち上がる。颯は廊下を引き返していき、自宅玄関のドアの鍵を閉めてから、揚羽が危うく落ちかけた階段を下りていった。 やや遅れて揚羽も階段を下りて、颯のあとを追いかける。官舎の前で待っていた颯と合流して、遠く彼方に海が見える歩道を歩く。風に揺れる揚羽の髪と、前を歩く颯のうなじと同様に、辺り一帯は夕日の光を受けて、茜色に美しく輝いていた。 前を歩く颯は揚羽より身長が高いから、歩く速度は速いはずなのに、なぜだか彼との距離は遠くならず、一定に保たれている。つまり颯は揚羽に合わせて、歩く速度を微調整してくれているのだ。さっきまであんなに憎まれ口を叩いていたのに、不意打ちのように優しさを見せるなんて卑怯だと思う。たった五分の距離がとても長く感じられた。言葉を交わさないまま夕映えの世界を歩いていると、視界前方に松島基地の正門が見えてきた。隊員たちの自家用車が出てくる正門の、少し手前で足を止めた颯が、揚羽のほうを振り返った。 「ここまででいいよな」 「はい。ありがとうございます」 「じゃあな」と軽く片手を上げて、颯は踵を返した。立ち去ろうとした颯に一声かけて、揚羽は彼を呼びとめる。黒髪を揺らして、長い両足を地面に縫いつけた颯が振り向いた。 「この前は失礼なことを言ってすみませんでした。あの時はあんなふうに言いましたけれど、私、鷲海1尉に憧れているんですよ――って誤解しないでくださいね! 私が憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、ブルーインパルスのみなさんで、でっ、でも鷲海1尉に憧れていないわけじゃないんですよ! だって私がいちばん憧れているのは、5番機のドルフィンライダーなんですから! 憧れているのは鷲海1尉じゃなくて、前に在籍していた5番機のドルフィンライダーですけれどっ!」 まったく自分はいったい何を言っているのだ。喋れば喋るほど墓穴を掘っているような気がする。ハニーベージュの髪を揺らして颯に一礼した揚羽は、正門を目指して駆けていく。団栗を見つけた栗鼠のように走っていく揚羽の背中を、颯は戸惑いを湛えた表情で見つめていた。もちろん揚羽は、颯が見つめていることは知らない。太陽が地平線に沈んで、薄明のカーテンがゆっくりと下りてくる。揚羽と颯。二人の距離は近づいたようでいて、実際にはまだ遠いようである。 |