プロローグ 青空まで真っ直ぐに


 毛髪や繊維を思わせる筋のある、薄いヴェールのような雲が真っ直ぐに伸びながらも、やや不規則に曲がりながら空の彼方まで伸びている。立春を過ぎてもまだ余寒が厳しく寒い日もあるが、けれども太陽の光は日増しに強くなっていて、寒いなかにも暖かい光の春の訪れを肌で感じられた。青い空と真っ白な雲。その二つを掴んでみたくて、爪先立ちをした少女は限界まで手を伸ばす。すると伸ばした指先が空の青に染まったような気がした。
 三角形のデルタ隊形に並んだ航空機が真っ白い煙を曳きながら青空を飛んでいく。あれは航空自衛隊のT‐4中等練習機だ。戦闘機パイロットを目指す航空学生たちが乗る機体だが、今しがた少女の頭の上を飛んでいったT‐4は、灰色ではなく白と青のツートンカラーで塗られている。その可愛らしい見た目から「ドルフィン」の愛称を持つ白と青のT‐4は、航空自衛隊が世界にアクロバット専門の飛行部隊ブルーインパルスのパイロット、ドルフィンライダーだけが乗れる機体なのだ。
 三機や四機による編隊課目は確かに美しく素晴らしいと思う。だが少女は編隊課目よりも、第一単独機の5番機が実施する、リードソロ課目に心から夢中になっていた。青天を切り裂くナイフの如き鋭い四回のロール。ロールを打ちながら3000メートル上空まで一気に翔け上がる垂直上昇。スプリットSとダブルインメルマンの軌跡が描く8の字。そしてあの機体に大好きな彼が乗っていたのだと思うと、少女の瞳は綺羅星の如く輝き、小さな胸は純粋な心と共に熱く燃え上がるのだった。
「揚羽!」
 涼やかな低音の声が少女の耳朶を打った。黒革のライダースジャケットを着た一人の男性が、こちらに向かって急いで駆けてくる姿が見える。藍色が混じった黒髪を揺らして立ち止まった男性は呼吸を整えると、端正な顔を怒ったように顰め、揚羽と呼ばわった少女を厳しい眼差しで見下ろした。
「そこらじゅう探しまわったんだぞ!? 絶対に母さんの側から離れるなって、あれほど言ったじゃないか! オレがどれだけ心配したと思っているんだ!」
「……ごめんなさい」
 叱咤された揚羽は華奢な肩を落として項垂れる。額に手を当てて嘆息を吐いた男性は、引き締まった長身を折って揚羽の正面に屈みこむと、力なく項垂れている彼女の髪を大きな手で優しく掻き回した。揚羽が顔を上げてみると彼はもう怒っていなかった。
「まったく……お前のブルーインパルス好きにはいつも驚かされるよ。これもオレや母さんの影響なのかもしれないな。ほら、空を見ろ。もうすぐT‐4が飛んでくるぞ」
 男性が空を指差す。それとほぼ同時にTRパイロットのナレーションが響き渡った。
『ただいま会場上空を通過した編隊は隊形変換を行い、再び会場右手方向から進入して参ります。会場上空をご覧ください。六機のT‐4が進入して参りました。4番機を中心に五方向に規則正しく位置した各航空機は、この後一斉に左旋回を開始し、それぞれが円を描き始めます。我が国の花「サクラ」の始まりです』
 1番機を先頭に4番機を中心に据えた、ワイドな正五角形隊形を組んだ六機のT‐4が、滑走路右手方向から進入してきた。高度は2000から5000フィート。フライトリーダーのコールを合図に六機は一斉に旋回を始めた。速度250ノットで3・5Gの360度左水平旋回。六機の旋回が終わると、天空のキャンバスには我が国を代表する桜の花が美しく描かれていた。大空に描かれた一つ一つの円の直径は約500メートル、桜の花の大きさは約1500メートルになる。航空自衛隊創設50周年を記念して、2004年シーズンから実施されている課目の一つ「サクラ」だ。主に第3・4区分や編隊連携機動飛行で実施される課目である。そして揚羽も男性も言葉を忘れて空に花開いたサクラに目を奪われていた。
「ねえ、お父さん。わたし、ブルーインパルスのパイロットに――ドルフィンライダーになりたい。お父さんやお母さんのようなドルフィンライダーになりたいの」
 揚羽の決意を予告もなく聞かされた彼女の父親は、青みを帯びる灰色の双眸を驚きで丸くしていたが、ややあって心の底から喜んでいるような明るい笑顔を浮かべて見せた。彼ならきっと反対せずに応援してくれる。己が決意を伝える前から揚羽はそう確信していた。
「……お前ならきっと立派なドルフィンライダーになれるさ。だからあの青空を目指して真っ直ぐに翔け上がるんだぞ」
 あの青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。父親が紡いだ熱き言葉は揚羽の純粋な心に強く響き渡った。揚羽の夢を乗せた六機のT‐4がフェニックス・ローパスで頭上を翔け抜けていく。憧れのドルフィンライダーたちを乗せたT‐4が飛び去ってからも、大好きな父親と手を繋いだ揚羽は、いつまでも春の淡い青空を見上げていた。