第8章 虹の架け橋


 鬼熊2佐が乗る1番機が海に墜落した。事故の一報を聞いた松島救難隊と石巻海上保安署のヘリと巡視艇は、すぐさま事故現場海域に向けて出動した。先に離陸したU‐125Aが発見した1番機は、機体の底を波間に沈めながら漂流していて、墜落した衝撃で翼が折れ曲がっていたらしい。助け出された鬼熊2佐は意識不明の状態で、呼吸と脈拍はすでになく、病院に搬送されたあと医師たちによる心肺蘇生措置を施されたが、鬼熊2佐の命を救うことはできなかった。
 鬼熊2佐の死因は静脈血栓塞栓症だった。エコノミークラス症候群とも呼ばれる静脈血栓塞栓症は、同じ姿勢を長時間続けることによって、脚部の静脈に血栓ができることをいう。最悪の場合、この血栓が血流によって心臓へと流れ、肺などの重要な動脈を塞いでしまうことによって、死に至る可能性もある病なのだ。この静脈血栓塞栓症は、胸や脚の痛みに咳を伴う喀血が、症状として表れるという。医師からそれを聞いた揚羽は戦慄した。咳を伴う喀血はなかったものの、胸や脚の痛みがあると鬼熊2佐が言っていたのを思いだしたからである。あの時からすでに鬼熊2佐は病に冒されていた、大鎌を持った死神に狙われていた。そして死神が振るった大鎌に命を刈り取られてしまったのだ。
 鬼熊2佐の通夜と葬儀は彼が生まれ育った仙台市内で執り行われた。喪主は鬼熊2佐の両親が務め、夫の突然の死を聞いた奈美はとても憔悴しており、まだ幼い陽菜は父親の死を理解できていないのか、きょとんとした面持ちで周囲を見回していた。家族、親類、友人一同、揚羽たちブルーインパルスのパイロットの他に、蓮華2佐と花菜に三舟1曹、晴登と瑠璃など松島基地の隊員たち、そして悲報を聞いた颯と黎児が、那覇基地から急いで駆けつけてくれた。
 葬儀は2時間ほどで終わり、出棺前に揚羽たちは遠い所に旅立つ鬼熊2佐と最後の別れをした。覗き込んだお棺の中に横たわる鬼熊2佐は、本当に死んでしまったのかと疑いたくなるほど、まるで仏様のように穏やかな顔をしていた。棺を乗せた霊柩車がサイレンを鳴らして火葬場に向けて出発し、家族と親類たちが乗った小型のマイクロバスが、後に続いて走り去る。走っていく二台の車が見えなくなると、辺り一帯は静寂に包まれた。茜色に暮れ始めた空も相まって、訪れた静寂は深く冷たく感じられた。
「一人で大丈夫なのか? なんなら落ち着くまで側にいるぞ」
「わたしは大丈夫ですから。颯さんは基地に帰ってゆっくり休んでください」
 揚羽は偽物の笑顔を張りつけて答える。だが颯はなかなか帰ろうとしない。揚羽がもう一度「大丈夫だから」と言うと、颯は渋々といった様子で黎児と一緒にタクシーに乗りこんだ。タクシーを見送った揚羽は別のタクシーに乗って官舎に戻った。廊下を進んでリビングに入った瞬間、悲しみと疲労が津波の如く押し寄せてきて、揚羽は崩れ落ちるように座り込んだ。まるで魂の半分をごっそり持っていかれたように身体が重い。いったいどうして鬼熊2佐が命を落とさなければいけないのだ。揚羽ははたと思い当たる。――鬼熊2佐は揚羽に身体の不調を見せていたではないか。あの時、無理矢理にでも病院に連れていってさえいれば、鬼熊2佐は病で命を落とさなかったはずだ。一命を取り留めて今も元気に空を飛んでいた。そして奈美と陽菜と一緒に笑っていただろう。そこまで考えた瞬間、揚羽の中で何かが砕け散った。
「隊長が死んだのはわたしのせいだ。隊長が死んだのはわたしのせいだわ――」
 同じ言葉を呪文のようにぼそぼそと呟きながら、ゆっくりと立ち上がった揚羽はキッチンに歩いた。キッチンに歩くその姿は夢遊病者と言ってもおかしくない。揚羽はシンクの下の収納棚を開き、ドアポケットに差していた包丁を震える両手で握り締める。自ら命を絶つなんて間違っているのは分かっていた。だがこの時揚羽の精神は崩壊しかけていた。隣で普通に話をして、笑顔を交わしていた人が、目の前から突然いなくなってしまった衝撃で、正常な考えができないほど、揚羽の心は打ちのめされていたのだ。握り締めた包丁を喉に突き刺そうとしたその時だった。
「揚羽!!」
 雷鳴のような大声がリビングに響き渡る。誰かがキッチンに飛び込んできたかと思うと、揚羽は後ろから羽交い締めにされた。いきなり羽交い締めにされた驚きと、命を絶つ行動を邪魔された怒りが渾然一体となり、半狂乱になった揚羽は包丁を振り回しながら激しく抵抗する。不意に羽交い締めにしている相手が声を上げた。どうやら振り回した包丁が身体のどこかに当たったらしい。拘束する力が緩んだので、相手を突き飛ばすように振り払った揚羽は後ろを振り返る。振り向いたその瞬間揚羽の背筋は凍りつき、彼女は理性を取り戻した。
「颯さん……?」
 揚羽の後ろにいたのは沖縄に帰ったはずの颯だった。壁にもたれかかった颯は顔を顰め、右腕を押さえている。腕を押さえている手の下から流れているのは恐らく血だろう。揚羽が包丁で切りつけたのは颯だったのだ。故意ではないといえ颯を傷つけてしまった。自分がしでかしたことに恐怖した揚羽は、血に濡れた包丁を放り投げると、颯のところに急いで駆け寄った。
「血がっ、血が出てるっ……! ごめんなさい! ごめんなさい! わたし、わたしっ、なんてことを――!」
 傷の痛みに顔を顰めながらも、颯は「大丈夫だ」と無理に笑ってみせた。揚羽は颯をソファーに座らせ、彼が着ているスーツの上着とシャツを脱がし、持ってきた傷薬と滅菌ガーゼ、包帯で傷の手当てをする。幸い皮膚を切っただけだったようで、傷薬で消毒したあと滅菌ガーゼを貼り、やや強めに包帯を巻くと、流れていた血はすぐに止まった。浅い傷で本当に良かった。もしも腕の傷が深くて神経を損傷していたら、颯は戦闘機の操縦ができなくなっていたかもしれない。揚羽が安堵で胸を撫で下ろしたその時、木の枝が折れたような乾いた音が鳴り響き、同時に熱い痛みが左の頬に広がった。瞋恚の炎を目の奥に燃やした颯の右手が宙に浮いている。颯の繰り出した平手打ちが揚羽の頬に炸裂したのだ。
「この馬鹿野郎!! どうして死のうとしたんだよ!! まさか自分が死ねばベアーさんが生き返るとでも思ったのか!? 俺も自分が死んでも人は生き返らないって父さんに言われたよ!! だからおまえが死んでもベアーさんは生き返らないんだぞ!!」
「だって、だって、隊長が死んだのはわたしのせいなんです!! あの時病院に行くように強く言っていたら、訓練はやめて、今日は休んだらどうだって言っていたら、隊長は死ななかったかもしれないんです!! 隊長を殺したのはわたしだわ!!」
 揚羽の言い分に颯はきっぱり「違う」と言い放った。
「ベアーさんの死は揚羽のせいでも誰のせいでもない。あれはどうすることもできなかった。人の力ではどうにもならない天命だったんだよ。それに命で命は取り戻せない。自分の命を大切にしろ。きっとベアーさんはそう言うと思う。だから命を絶ちたいだなんて思わないでくれ。俺はもう二度と大切な人を失いたくないんだ――」
 瞳を涙で濡らした颯に言われたその瞬間、葬儀の時から抑えていた感情が内側から爆発した。溢れた涙で瞼が膨らみ、視界が水浸しになる。顔を歪めた揚羽は颯の胸にすがりつき顔を埋めて激しく泣いた。命で命は取り戻せない、自分の命を大切にしろ。颯の言葉が心に重くのしかかる。こんなことをしたって鬼熊2佐は生き返らないし誰も喜ばない。逆に悲しみを連鎖させるだけだ。火がついたように大声で泣き叫ぶ揚羽を颯は強く抱き締める。揚羽の涙が涸れ果てるまで、颯はずっと抱き締めていてくれた。


 胸の中で泣き疲れて眠ってしまった揚羽をベッドに運んだ颯は、彼女を起こさないよう静かに寝室を出ると、ドアの鍵を開けて部屋の外に出た。鍵をかけた颯は階段を降りて官舎を離れ、豪華な星空に彩られたしんしんと冷たい冬の夜道を歩く。霧を孕んだ冷たい空気が、硬い粉のように瞼や頬を叩いてくる。適当な場所まで歩いた颯は足を止めた。上着の胸ポケットに手を伸ばした颯は、煙草をやめたことを思い出して苦笑した。気持ちを落ち着けたい時や整理したい時、昔はよく煙草を吸っていたのだが、「身体に悪いから駄目です!」と揚羽に言われてやめることにしたのだ。
(まさか揚羽があんなことをするとはな――)
 凍った息を吐いて腕の包帯に触れた颯は独りごちた。戻ってきて正解だった。葬儀を終えて揚羽と別れた颯は、黎児と一緒に仙台空港に向かったが、やはり彼女のことが心配になり、黎児を先に帰らせて急ぎ引き返したのだ。部屋の鍵が開いていたからおかしいと思い、廊下を走ってリビングに駆け込むと、包丁を喉に突き刺そうとしている揚羽がいた。怪我をしただけで最悪の事態はなんとか免れたが、あと数秒でも駆けつけるのが遅ければ、揚羽は確実に命を絶っていただろう。普段の揚羽だったら絶対にあんな真似はしない。自ら命を絶とうと考えるまでに、揚羽の心は限界寸前まで追い詰められていたのである。
 どんなに強い心の持ち主であっても、簡単に乗り越えられるほど人の死というものは優しくない。自分も交通事故に巻き込まれた結衣を目の前で失った。それなのにどうして揚羽の気持ちを分かってやれなかったのか。理由はすぐに思い当たった。颯は揚羽に不安と恐怖を打ち明けて自分だけ楽になっていた、部隊を辞めて退官してくれると聞いて安心していた。揚羽は強い心を持っているから、鬼熊2佐の死をきっと乗り越えられるだろうと、颯は楽観視していたのだ。
 揚羽が立ち直るにはまだ時間がかかるだろう。だから揚羽が元気になるまで颯は側にいたかった。しかし颯は明日沖縄に帰らなければいけない。それでも愛する揚羽を守りたい、側で彼女を支えたい。荒んでいた心を救ってくれた揚羽のために全力を尽くしたかった。ならば自分に何ができるのか。深まる宵闇のなか颯は寒さを忘れて独り煩悶する。長い時間が流れ去ったあと、颯は一つの答えに行き着いた。
「ベアーさん。俺にできるでしょうか――」
 銀河のように渦巻く満天の星空を仰ぎ見て颯は呟いた。あたかも颯の呟きに答えるかのように、一つの星がひときわ強い輝きを見せる。颯に向けて強い輝きを放った星は、役目を終えたように夜空に消えていく。そして星の光が静かに消えた時、颯の心髄には堅固たる決意が宿っていた。



 ブルーインパルスは空自の花形部隊と言われているが、創設から現在に至るまで、数多くの墜落事故を起こしている。鬼熊2佐が墜落した事故を引き金に、ブルーインパルスの存在自体が危険視され、取り返しのつかない事態が起こる前に、部隊を解体するべきではないかと声が上がり始めた。流星と斎藤空将補の尽力によって部隊解体の危機は免れたが、ブルーインパルスが活動再開をするにあたって、航空幕僚監部から一つの条件が提示された。提示されたその条件とは、新しい飛行隊長を迅速に見つけて着任させるという内容だった。
 しかしそんな簡単に飛行隊長が見つかるのだろうか。揚羽たちは一様に危惧の念を抱いたが、しばらくして幸運なことに、新しい飛行隊長が決まったと北浦2佐から聞かされた。なんでも3等空佐に昇任したばかりの彼は、1番機パイロットに必要なマスリーダーの資格を取得してまだ日が浅いものの、部隊の誰もが認める優れた操縦技術の持ち主らしい。そして今日、市ヶ谷の航空幕僚監部で、新任飛行隊長教育を終えた飛行隊長が、第11飛行隊に着任する。揚羽たちはブリーフィングルームで、北浦2佐が迎えに行った飛行隊長が来るのを待っていた。
「入ります!」
 明瞭とした声が到着を告げる。次いでブリーフィングルームのドアが開き、北浦2佐に続いて男性が入ってきた。帽章がついた制帽を被り、引き締まった長身に紺色の制服を着た男性が入室した瞬間、彼を見た揚羽たちは限界まで目を見開き、耳のすぐ側で大砲を撃たれたように驚いたのだった。
「……颯さん?」
 一番に開口した揚羽の声は驚きのあまり震えていた。北浦2佐が連れてきた新しい飛行隊長は、なんと那覇基地の第204飛行隊で飛んでいるはずの颯だったのだ。
「みんなもよく知っていると思うが、今日から1番機パイロットとして飛んでもらうことになった、鷲海颯3等空佐だ。しばらくは俺に師事して技術を学んでもらう。鷲海3佐、みんなに挨拶をしてくれ」
 北浦2佐に頷いた颯は背筋を真っ直ぐに伸ばすと、右手をこめかみに当てて敬礼した。
「那覇基地より着隊しました、TACネームはゲイルの鷲海颯3等空佐であります! よろしくお願いします!」
 淀みなく着隊の報告をした颯は敬礼の構えを解き、驚きで夢現になっている真白1尉たちと、順番に握手を交わしていく。最後に揚羽のところにきた颯は、同じく握手をしたあとみんなに一言断ると、彼女だけをブリーフィングルームの隣にある隊長室に連れていった。
「驚かせて悪かったな」
「どうして、どうして颯さんが、ブルーの飛行隊長に――?」
 まだ声に震えが残る揚羽の問いかけに、颯は一拍おいてから口を開いた。
「……本当は自分の力でここまできたかった。でもそれだと間に合わない。揚羽の心が先に壊れてしまうと思った。だから流星さんに頼んで、いろいろと手配してもらったんだ。流星さんの権力を利用したって、悪く言われるかもしれない。俺は大好きな揚羽を守りたい、側で揚羽を支えたい。俺の心を救ってくれた揚羽のために全力を尽くしたい。ベアーさんの死を無駄にしたくない。流星さんと小鳥さんが飛んでいたブルーインパルスを――みんながいるブルーインパルスを守りたいんだ」
 颯の声と眼差しは静かだが力強かった。颯の堅固たる決意と真情が込められた言葉は、引き潮のあとの潮鳴りの響きのように、揚羽の心を強く打った。颯に返す言葉は出なかった。溢れた涙と嗚咽が喉を詰まらせて、揚羽は泣きながら頷くことしかできなかったのだ。静かに涙を流す揚羽を颯が抱き寄せようとしたその時だった。
「ゲイルさん!」
「ゲイル!」
 揚羽と颯はぎょっとした。いきなり隊長室とブリーフィングルームを繋ぐドアが開き、真白1尉たちが駆け込んできたのだ。全員が涙目でしきりに鼻を啜っている。恐らくドアの向こうで揚羽と颯の会話を聞いていたのだろう。真白1尉たちはこちらに走り寄ってくると、全員で揚羽と颯を抱き締めた。その光景といったらまるで押しくらまんじゅうのようである。「戻ってきてくれてありがとう」や、「ゲイルさんとまた一緒に飛べるなんて嬉しいです!」など、感謝感激の大合唱が始まった。やがて一人が笑い出すと、連鎖するように笑い声が広がっていく。振幅する笑いの響きの中で、揚羽は無邪気な子供らしい表情を顔一面に溢れさせ、負けじと声を立てて笑った。歓喜の鐘をつくような晴れやかな笑い声は、揚羽たちが心の底から笑っている証拠。鬼熊2佐が亡くなってから初めて、揚羽たちは心の底から笑うことができたのだった。


 冷たい雪が溶けて桃色の桜が満開に咲き誇り、桜が咲き終わると木蓮が花を咲かせ、暗い紫色の大きな花が散ると空の青は濃く深まり、山野を埋める草木は目に沁みるばかりの鮮やかな緑色に色づいていく。そういう具合に、色合いと匂いに微かな日々の変化によって、季節は凍える冬から穏やかな春に変わり、そして春から暑い夏に移り変わっていくのが感じられた。
 颯が第11飛行隊に着隊してから数日後、航空幕僚監部から飛行訓練再開の許可が下り、最初に行う展示飛行は8月下旬に開催される松島基地航空祭に決まった。飛行隊長に颯を迎えて気持ちを新たにした揚羽たちは、松島基地航空祭に向けて飛行訓練に励んでいた。なかでも北浦2佐に師事する颯は、誰よりも真剣かつ精力的に訓練に励み、その成長の早さには誰もが舌を巻く思いだった。そして颯は7ヶ月という短い期間で、1番機のORパイロットに昇格したのである。最低でも1年4ヶ月は費やす教育課程を颯は7ヶ月で修了した。心髄に強い意志があるからこそ、颯は成し遂げることができたのだ。
 松島基地航空祭を明日に控えたその日の夜。揚羽は独り飛行隊隊舎屋上の観覧席に座っていた。見上げる夜空には水晶の欠片のように輝く星が敷き詰められていて、密集したその姿はあたかも天の川が夜空に流れているようだ。夏には珍しく空気が澄み切っているため、大空を彩る星の輝きは大きい。まるで宇宙に渦巻く巨大な銀河が、そっくりそのまま顕現したかのような圧巻の夜空だった。鉄の扉が開く音が聞こえて揚羽は肩越しに振り返る。涼しげな第二種夏服を着た颯がそこに立っていた。
「こんな所にいたのか。早く寝ないと身体に悪いぞ」
 そう言った颯はこちらに歩いてくると、揚羽の隣のベンチに腰を落ち着けた。二人はしばらく無言で宇宙のような星が渦巻く夜空を眺める。大きな音が聞こえない静かな空間に佇んでいると、まるで宇宙空間に浮かんでいるような錯覚に陥りそうだ。
「颯さんには感謝してもしきれないですね。わたしがまだ学生だった時、バーディゴから助けてくれて、死のうとしていたわたしを全力で止めてくれて、今度はわたしたちブルーインパルスのために松島に来てくれた。本当になんて言ったらいいのか分からないです」
 揚羽の感謝の言葉を聞いた颯は、静かに首を振ると口を開いた。
「……いや、感謝したいのは俺のほうだよ。あの時揚羽が教えてくれたから、俺は父さんと分かり合えることができた、真っ直ぐで純粋な揚羽が、俺の心を変えてくれたから、俺は過去を乗り越えることができたんだ」
 いったん言葉をとめた颯は、「でも」と言ってから続きを話した。
「俺が感謝したいのは揚羽だけじゃない。父さんと母さん、揚羽を生んで育ててくれた小鳥さんと流星さん、そして俺を支えてくれたブルーインパルスのみんなに感謝したい。今まで出会った人たちの思いが胸にあるからこそ、俺はこうやって空を飛んでいられるんだ」
 揚羽の手の上に颯の大きな掌が重ねられる。星空から視線を下ろして見つめ合った二人の唇は自然に重なり合った。
「揚羽と出会えてよかった。心の底からそう思うよ」
「……わたしも颯さんと出会えて幸せです」
 無限に広がる宇宙の片隅で、運命の相手と巡り会えた奇跡に感謝しながら、揚羽と颯は肩を寄せ合って手を繋ぎ、時間を超えて届いた星の輝きをいつまでも眺めていた。


 夜が明けると真っ青な波を重ねた海のような群青色が空に広がっていく。格納庫前のエプロンでは、整備小隊が朝礼を終えてアウトハンガーに取りかかっていた。格納庫から引き出されたT‐4がエプロンに並べられる。飛行機の各所を叩いたり、コクピットに乗り込んで舵を動かしたり、パネルを開けて覗き込んだりしながら、整備員たちは手際よく飛行前点検を進めていく。颯は飛行前点検を見守るように立っていて、その姿から展示飛行という任務への強い意気込みが感じられた。
 午前8時に基地の門が開放されると、早朝から開門を待っていた人たちが、まるで潮のように基地の中に押し寄せてきた。松島基地を訪れたのは事前応募で当選した1万人。30万人以上が訪れたという入間基地航空祭と比べるとかなり少ないが、揚羽たちに来場者の数なんて関係ない。来てくれた人たちに感謝して全力で空を飛び、航空自衛隊という組織をより多くの人たちに知ってもらう。それが揚羽たちブルーインパルスに与えられた任務。そして人々に対する感謝の気持ちが、航空自衛隊へのさらなる理解に繋がっていくのだ。
 午前9時に松島基地航空祭は開幕した。まず最初に松島救難隊のU‐125AとUH‐60Jが空を飛び、続いて第21飛行隊の二機のF‐2B、最後にブルーインパルスが三機のT‐4で飛び、オープニングフライトを盛り上げる。F‐2Bの機動飛行。ベル412EPの空中消火展示。B‐747、U‐125A、千歳基地のF‐15Jによる異機種編隊飛行。ボンバル300の航過飛行で午前の展示飛行は修了した。垂直尾翼に桜の花とフェニックスのシルエットを描き、黒塗りにしたドロップタンクに、歴代運用機種のF‐2B・T‐2・T‐4・T‐33の平面形を描いた、F‐2Bの地上展示にも観客たちは目を奪われていた。
 オープニングフライトとサイン会を終えた揚羽たちは、隊舎二階のブリーフィングルームでプリブリーフィングを開いていた。気象隊の報告によると、天気は崩れず快晴が続くらしいので、午後の展示飛行は第1区分で進めることになった。飛行隊長の颯と飛行班長の北浦2佐を中心にブリーフィングは進められる。デルタ・ループとデルタ・ロールの代わりにフェニックス・ループとフェニックス・ロールを実施。ローリング・コンバット・ピッチを終えた四機は上空で待機する。5・6番機のコーク・スクリューのあとにジョインナップして、フェニックス・ローパスで、殉職者の冥福を祈るミッシングマン・フォーメーションを行い、展示飛行を終了することに決まった。ブリーフィングの最後は恒例のスティック操作とスモーク合わせだ。揚羽たちはミーティングテーブルに右手を乗せた。
「復唱よろしくお願いします」
「ちょっとちょっと! なんなんですかその言い方は! 気合いが入らないじゃないですか!」
 復唱を頼んだ颯に苦情を言ってきたのは真白1尉だ。思わぬ物言いに颯はきょとんと目を丸くしていた。ただ普通に復唱を頼んだだけなのに、いきなり苦情を叩きつけられて驚いているのだろう。
「そんな気の抜けるような言い方はやめてください。ゲイルさん、あなたは誰もが認めるブルーの隊長なんですから、ここはビシッとカッコよく決めて、僕たちに気合いを入れてくださいよ」
 真白1尉の言葉に北浦2佐たちは、「そうだ!」「そのとおりだ!」と揃って唱和する。颯は困ったように揚羽に視線を向けてきた。しかし揚羽も真白1尉たちと同じ思いだった。颯はもうTRパイロットではない。第11飛行隊の全員が一目置くブルーインパルスの飛行隊長だ。だからここはひとつ飛行隊長としての威厳を見せて、揚羽たちに気合いを入れてほしい。揚羽が颯に頷いてみせると彼は苦笑した。そして颯は表情を引き締めると、テーブルに右手を乗せて開口した。
「復唱よろしく!」
 先程とはまるで違う力強い口調に、揚羽たちの胸は高鳴り笑みがこぼれる。揚羽たちの頷きを見た颯は大きく息を吸い込んだ。
「ワン、スモーク! スモーク、ボントン・ロール! ワン、スモーク! ボントン・ロール! スモーク、ナウ! (スモークをオン! スモークをオフ! ボントン・ロールの隊形に開け! スモークをオン! ボントン・ロール用意! スモークをオフ! ロールせよ!)」
 颯に続いてボントン・ロールのコールを復唱した揚羽たちは、「ナウ!」に合わせて一斉に右手を倒した。脳裡に思い描いたT‐4が同時に右ロールした瞬間、今までに感じたことがない昂ぶりが、稲妻のように肉体と精神を駆け抜けた。確かに昂ぶりを感じるのに、だが不思議と気持ちは落ち着いている。情熱と冷静の境界線に立っているような感じとでも言うべきか。ボントン・ロールのスティック操作とスモーク合わせを、阿吽の呼吸で終えた揚羽たちは視線を交わして頷き合い、ブリーフィングルームをあとにした。


 颯を先頭にブリーフィングルームを出た揚羽たちが、音楽が流れるエプロンに着くと同時に、万雷の拍手喝采が鳴り響いた。観客たちの熱い声援に背中を押されながらエプロンの端に整列。揚羽のステップカウントで、颯たちはウォークダウンでT‐4が駐機されている場所に歩く。T‐4の前で待っていた整備員と敬礼を交わし、梯子にかけられてある救命胴衣や耐Gスーツなどの装備一式を身に着ける。コクピットに乗り込んだ揚羽たちはベルトをきつく締め、メタリックブルーのヘルメットと酸素マスクを装着して、コクピットの点検を終わらせた。
 エンジンスタートの準備完了。垂直尾翼のストロボライトを点滅させた揚羽たちは、正面に立つ整備員とハンドシグナルで連携をとりつつ、エンジンをスタートして各種点検を行った。鳴り響くエンジン音が揚羽たちの胸を熱くさせる。エレベータ・エルロン・ラダーの三舵面をリズミカルに動かし、操縦系統が正常に動くか確認。通信機材、航法装置、飛行計器やエンジン装置もすべて正常だ。整備員に敬礼してキャノピーを閉め、着陸灯を点灯させた揚羽たちは、観客たちに手を振りながらT‐4をタキシングさせ、滑走路の端で最終点検とスモークチェックを終わらせた。
 双発のエンジンを轟然と響かせながら、揚羽たちは滑走路を駆け抜けて迫力満点に離陸した。青空を目指して真っ直ぐに駆け上がれ。流星がくれた言葉を胸に、揚羽と颯は気迫溢れる操縦で、純色の青に染まった松島の空を飛ぶ。イルカが仲良く泳いでいるような二機のロール。四機同時の背面飛行。ロケットのような垂直上昇。大空に輝く巨大な星。六条のスモークが描く雄大なループ。気持ちを一つにしたブルーインパルスのアクロバット飛行は、地上にいる観客たちの胸を熱くさせて感動の渦に包み込む。ローリング・コンバット・ピッチとコーク・スクリューを終えた、1番機編隊と5番機編隊は空中集合して、颯のコールでフェニックス隊形を組んだ。
『ワン、スモークオン! フェニックス・ローパス、レッツゴー!』
 力強い颯のコールで揚羽たちは操縦桿のトリガーを弾く。さながら尾羽のようにスモークを曳いた六機のT‐4は、観客たちの頭上を飛んでいき、最後に編隊から離脱した1番機がスモークを切って、殉職した仲間の冥福を祈るように、青天高く真っ直ぐに上昇していった。揚羽たちの誰もが上昇していく1番機に鬼熊2佐の姿を重ねていた。たとえ肉体が朽ち果てようとも、鬼熊2佐の思いは消えることなく、これからもブルーインパルスに受け継がれていくだろう。青空を昇っていく1番機を追いかけながら揚羽は凜と敬礼をする。いつの間にか眦から零れた一筋の涙が、揚羽の頬を滑っていった。



 松島基地航空祭は大歓声に包まれて閉幕した。来場者たちが帰って行くと熱気は波のように引いていき、あれだけ混雑していたエプロンはがらんどうになった。デブリーフィングを終えた揚羽は格納庫の前に立ち、展示飛行の任務を終えた愛機を感慨深い眼差しで眺めていた。
「……わたしと一緒に飛んでくれてありがとう。今日は最高の展示飛行だったよ」
 6番機の機首にそっと触れた揚羽は呟いた。キャノピーに反射した陽光が涙のように見えて、なんとも言えない感情が胸に込み上げてきた。機体番号725の6番機は、揚羽が第11飛行隊に着隊してから、今までずっと一緒に空を飛んできた。晴れ上がった群青の空。橙色に燃えた夕焼け空。幾千の星が煌めく夜空。北海道から沖縄まで日本全国の空を一緒に飛んだ、いわば家族のような存在だ。そんなかけがえのない相棒との別れの日は近づいている。新しく入ってきたTRパイロットを一人前に育てたら、揚羽はラストアクロを飛んで第11飛行隊を去るのだ。そろそろ隊舎に戻ろうと動きかけた時、揚羽は後ろから静かに声をかけられる。振り向いた先にいたのは颯だった。
「展示飛行、お疲れ様でした」
「俺がうまく飛べたのは揚羽とみんなのお陰だよ。本当にありがとう」
 互いに労いの言葉をかけたあと、揚羽は格納庫からエプロンに連れ出された。
「揚羽に渡したい物があるんだ」
 と前置きした颯はポケットから掌サイズの小さな箱を取り出した。藍色の箱を受け取った揚羽に颯は「開けてみて」と目で促す。箱を開けた揚羽は目を瞬かせて瞠目する。上下に配した二頭のイルカの中央に、ダイヤモンドを嵌め込んだデザインの、銀色の指輪が台座に挟まっていたのだ。驚きで見開いた両目を元の形に戻せないまま、揚羽は颯を見つめた。
「颯さん、これは――」
 颯は大きく深呼吸すると、真摯な表情になって揚羽を見つめ返した。
「俺は見てのとおり飛行機馬鹿で不器用な男だ。この先も揚羽を不安にさせたり恐怖で泣かせたりすると思う。でも揚羽を想う気持ちは誰にも負けないし、揚羽と生まれてくる子供を絶対に幸せにしてみせる。何があっても最大多数の幸福を信じて必ず生きて帰ってくる。俺は大好きな揚羽と一緒に、幸せな未来を作っていきたいんだ。だから俺と結婚してほしい。俺の花嫁になってくれないか?」
 颯に結婚を申し込まれたその瞬間、居心地のいい陽だまりを見つけた鳥のように、揚羽の心は溢れんばかりの幸福感でいっぱいになった。まるで心に虹と星と太陽がいっぺんに現れたような気分だ。喜びはあとからあとから心の底から溢れ出し、歓喜の涙となって揚羽の眦と頬を濡らす。しゃくりあげながら揚羽は何度も頷いた。颯は箱の台座から指輪を外すと揚羽の左手を取った。シンデレラが履いた硝子の靴のように、銀色の指輪は揚羽の指にぴったりと嵌まる。指輪が放つ輝きは太陽や星の光よりも尊くて美しかった。
「せーのっ!」
「うわっ!?」
 後ろからかけ声が聞こえたその瞬間、いきなり颯が驚きの声を上げた。見やると颯は全身ずぶ濡れの状態になっているではないか。空は快晴、雨が降りそうな気配はない。訳が分からないまま視線を動かすと、笑いながらホースを握った北浦2佐と真白1尉たちに、三舟1曹や花菜たち整備小隊の整備員など、パイロットとグランドクルーの全員が、いつの間にかエプロンに集合していた。ホースを握っているのは北浦2佐だから、彼が颯に水を浴びせたに違いない。全身から水を滴らせた颯は茫然自失としていたが、なんとか我に返ると暴挙に走った北浦2佐を睨みつけた。
「ノースさん! いきなり水をかけるなんて、いったい何を考えて――」
 ホースの先端から放たれた二回目の砲撃が颯の顔面に直撃する。また水を浴びせられた颯は言葉も出ない様子だ。
「これは俺に敬語を使ったペナルティーで、さっきのは隊長の苦労を洗い流す水かけだ」
 咳払いをした北浦2佐が颯を見やる。まるで子供の晴れ姿を喜ぶ親のような面持ちだった。
「俺たちはな、隊長がいつスワローテールにプロポーズするのか、首を長くして待っていたんだぞ! 無事にプロポーズも成功したことだし、みんなで結婚の前祝いといこうじゃないか! それっ! 隊長を胴上げだ!」
 北浦2佐の号令で駆け出した真白1尉たちは、さながらお菓子に群がる蟻の如く颯の周りに集まると、「結婚おめでとう!」と祝福しながら、彼の身体を持ち上げて宙に放り投げた。204のイーグルドライバー、そしてブルーインパルスの1番機パイロットとして空を飛んできた颯が、目を白黒させる様子があまりにも面白くて、気づけば揚羽は鈴を転がしたような笑い声を奏でていた。揚羽に続くように北浦2佐たちも笑い出す。そしていつしか重なり合った笑い声は、風に乗って羽のように舞い上がり、青く高く広がる空に吸い込まれていった。


 
 松島基地航空祭から1ヶ月が経ち、季節は夏から秋に移り変わりつつあった。爽やかな風は肌にさらりとして気持ちよく、外の世界には初秋の陽光が眩しく溢れている。水のように澄みきった秋晴れの空は突き抜けるように青い。まさに結婚式を挙げるに相応しい天気と言えるだろう。この日揚羽は第11飛行隊隊舎の一室で、小鳥と一緒に挙式の準備をしていた。揚羽が式場ではなく松島基地にいるのは、颯の強い希望で特別に松島基地で結婚式を挙げることになったからだ。揚羽は挙式の舞台を基地にする理由を訊いてみたが、颯は曖昧に答えるだけで何も教えてくれなかった。きちんとした結婚式は後日改めて挙げるというので不満はないが。
「はい、できたわよ。鏡の前に立ってみて」
 小鳥に促された揚羽は鏡の前に立つ。鏡に映った自分の姿は別人のようだった。ウエストをリボンで結んだアンクル丈のウエディングドレスは、優しく女性らしいラウンドネックのデザインで、ウエストから裾にかけて広がったギャザースカートは、さながら夜空のオーロラを思わせた。ペールピンクのアイシャドーとチーク、クリアコーラルの口紅など、暖色系のメイクが揚羽の可憐な容姿を華やかにしている。揚羽の胸元と両耳で光っているのは、小鳥と流星がプレゼントしてくれた、桜の花をデザインしたピンクダイヤモンドのペンダントとイヤリングだ。ドアがノックされ、紺色の制服を着た流星が入ってきた。振り向いた揚羽を見た流星は、太陽を見上げる時のように目を細めると相好を崩した。
「結婚おめでとう、揚羽。颯君と幸せにな」
「あなたの花嫁姿が見られて、母さんも父さんもとても嬉しいわ」
 肩を寄せ合った小鳥と流星は愛情に溢れた笑顔を浮かべてみせた。両親の祝福の言葉に揚羽の眦は火のように熱くなる。
「父さん、母さん。わたしを生んでくれて、ここまで育ててくれて、ありがとう。今までたくさん迷惑をかけたり心配させたりしたけれど、二人の子供に生まれてきて本当に良かった、幸せだって心から思ってる。父さんや母さんみたいに、颯さんと幸せになります。二人の姿がわたしの理想だから――」
 感極まった揚羽の眦から涙が落ちる。小鳥と流星も同様に瞳を潤ませていた。祖父の荒鷹と祖母の佐緒里、そして小鳥と流星が命を未来に繋いでくれたから、自分は最愛の男性と出会い、そして結ばれることができたのだ。
 小鳥と流星にエスコートされた揚羽は隊舎を出てエプロンに向かう。北浦2佐たちブルーインパルスのパイロットに、三舟1曹と花菜に蓮華2佐、幼い息子を抱っこした晴登と瑠璃に、遠路はるばる松島に来てくれた黎児と遠藤3佐が、エプロンに集まっているのが見えた。もちろん全員が紺色の制服やフォーマルドレスで正装している。航空自衛隊の儀礼服に身を包んだ颯は父親の貴彦と話していた。揚羽に気づいた颯が振り向く。飾りの付いた階級章と肩に付けたモール、そして腰に提げた儀礼刀が、颯の凜々しさをさらに引き立てている。まるで一国の王子のような端正な姿に揚羽は目を奪われ、また颯も花の妖精のような揚羽のウエディングドレス姿に見惚れていた。
「凄く綺麗だよ――」
「颯さんこそ、言葉にならないくらい素敵です……」
 言葉を忘れて揚羽と颯が見つめ合ったその時、銅鑼を鳴らしたような声がエプロンに響き渡った。
「分かった! 分かったからガキみたいに大声で喚くな! 隊長に渡すからちょっと待ってろ!」
 颯に無線機を手渡したのは大股で歩いてきた北浦2佐だ。無線機を受け取った颯が相手と会話を始める。いったい誰と話しているのだろうか。会話を終えた颯は北浦2佐に無線機を返すと思いきや、なぜか揚羽に無線機を渡してきた。どうやら相手は揚羽との会話を要求しているらしい。やや戸惑いながら揚羽は無線機を受け取った。
「もっ、もしもし……?」
『久しぶりだな、燕! 結婚おめでとう!』
 耳に響いた明朗快活な声には聞き覚えがあった。しかしその声の主は予定が合わず来られなかったはずだ。
「相田1尉? 確か来られないって言っていたのに、どういうことですか?」
『サプライズだよ、サ・プ・ラ・イ・ズ! 俺が今どこにいると思う? 聞いて驚くなよ――』
『亮平! ベラベラ喋るなよ! サプライズの意味がなくなるじゃないか! まったく少しは状況を考えろよ! そんな馬鹿な頭でよくアグレッサーで飛んでいられるな!』
 二人の会話にいきなり割り込んできたのは真白1尉だった。もちろん相田1尉は間髪入れずに反駁する。
『誰が馬鹿だって!? 俺はアグレッサーのエースってみんなに言われているんだぞ!』
『おまえがエース? アグレッサーのドンケツの間違いじゃないのか?』
『なんだとっ!?』
『ラブにホワイト! 今日はスワローテールの結婚式なんだぞ! それに航空幕僚長もいらっしゃるんだから、みっともない喧嘩はやめろ! おまえら馬鹿コンビのせいで俺たちまで馬鹿だと思われるじゃないか!』
 今度は比嘉1尉の声が割り込んでくる。比嘉1尉に叱られた相田1尉と真白1尉は黙り込んだ。不気味な沈黙が流れたあと、先に声を出したのは真白1尉だった。
『――ハイガーさん。隊長がスワローテールにプロポーズしたあと、基地クラブでやけ酒飲んで大泣きしていたくせに、よくもまあ偉そうなことが言えますね。今まで内緒にしてましたけれど、その時のハイガーさんを動画で撮影しているんですよ』
『あのハイガーがやけ酒で大泣き!? 潤! その動画、あとで俺のスマホに送ってくれよ! 合コンで話のネタになりそうだぜ!』
『おーまーえーらーっ!! 戻ったらボッコボコにしてやるからなっ!!』
 息の合った掛け合いと、二人に振り回される比嘉1尉が面白くて、揚羽は思わず失笑してしまった。同じく失笑する颯に肩を叩かれたので、揚羽は無線機を彼に返す。颯は三人に短く伝えたあと無線機を北浦2佐に渡した。ややあって滑走路のほうから「ヒィィーン」と聞き慣れた音が聞こえてきた。風に乗ったスモークが視界を流れていく。次いで三機のT‐4が、エンジン音を轟然と響かせながら、まさに疾風の如く滑走路を駆け抜けていき、離陸して上昇したあとそれぞれ左右にブレイクしていった。
 ブレイクした三機のうち二機が正面から進入してきた。進入してきた二機はぐんぐん上昇していくと、ループ機動を継続したまま左右にブレイクする。たなびく二条のスモークが青空に描いたのは、巨大なハート。巨大なハートが現れた直後、左下から上昇してきたT‐4のスモークが、さながら愛の天使が放った矢のようにハートを貫いた。瞬間揚羽はすべてを理解する。颯が松島基地で結婚式を挙げたいと言ったのも、揚羽の代わりに相田1尉が6番機に乗れるよう手配したのも、揚羽にキューピッドを見せるためだったのだ。キューピッドを見上げていた颯は揚羽のほうに向き直ると、凜とした真剣な面持ちで開口した。
「あのキューピッドに誓うよ。俺は生涯揚羽を愛し続ける、そして世界で一番揚羽を幸せにする」
「――わたしも颯さんを愛し続けることを誓います」
 キューピッドが描かれた青空を背景に、揚羽と颯は婚礼の誓いを交わし、そして静かに唇を重ねた。晴れやかな歓声が鳴り響き、色鮮やかな花弁とライスシャワーが二人の門出を祝福する。降り注ぐ花弁とライスシャワーを全身に浴びながら、揚羽と颯はもう一度唇を重ねた。
 未来は未知の領域だ。歩む先に何が待っているのかは誰にも分からない。けれど隣にはいつも颯がいてくれる。だからどんな困難が待ち受けていようとも、揚羽は未来に向かって歩んでいけるだろう。キューピッドを描いた三機のT‐4が、デルタローパスで頭上を駆け抜けていく。揚羽と颯は手を繋ぎ、飛んでいくT‐4に手を振った。青空に伸びた三条のスモークは、希望が待つ未来に続く虹の架け橋のようだった。