突然と現れた復讐に燃える早見弥生の凶刃から小鳥を庇った流星が、彼女の眼前で刺されてから数週間が過ぎ去った。東松島市内の病院に緊急搬送された流星は集中治療室で5日間も意識不明の状態だった。だが流星は6日目の深夜に奇跡的に昏睡状態から回復し、ここより医療設備が整っている仙台市内の総合病院へ転院されることとなった。しかし総合病院に転院はしたものの未だ容体は安定せず、小鳥たちと流星が面会することは決して許されなかった。 そしてそれから更に数週間の月日が経過する。待ち望んでいた流星との面会の許可を担当医師からようやく得られたので、小鳥たちは石神が運転する黒のSUVに搭乗し、松島基地から仙台市内の総合病院に向けて旅立った。仙台市内の総合病院に到着。華麗にハンドルを回した石神が病院敷地内の駐車場に車を停車させる。SUVを降りた小鳥たちは硝子製の自動ドアを通り、淡いクリーム色に塗られた病院の中に足を踏み入れた。病院一階のロビーは大勢の見舞客や患者たちでとても混雑していた。その光景はまるでシチュー鍋で煮込まれている具材のようだ。小鳥たちは人混みを掻き分けながら受付カウンターへ向かい、女性事務員に流星が療養している部屋の番号を尋ねる。「モデルみたいに素敵な彼ですね」と笑った事務員は、五階の512号室だと教えてくれた。 小鳥たちはエレベーターに乗り五階で降りる。殺風景な白い廊下を歩きながら部屋番号を捜す。ややあって512号室と「燕流星」の文字が書かれたプレートを見つけた。小鳥たちの来訪を拒絶する「面会謝絶」の札は提げられていなかった。石神を先頭に小鳥たちは順番に病室へ入った。個室だから他の入院患者は見当たらない。病衣姿の流星は窓際に設置されたベッドに身体を横たえ、窓の向こうに広がる街並みと青天を静かに眺めている。病室に入って来た小鳥たちの姿を認めた流星は、ベッドに深く沈めていた身体を起こすと姿勢を真っ直ぐに正してからゆっくりと一礼した。誰よりも先に開口したのは先頭に立つ石神だった。 「一時はどうなるかと心配したが……その様子だともう大丈夫のようだな」 「はい。いろいろと迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした」 小鳥は光が届かない部屋の片隅にひっそりと立ち、石神たちと流星が交わす会話を黙って聞いていた。会話に加わろうとせず、部屋の隅で物置のように佇んでいる小鳥に気づいた石神は、外で煙草を吸ってくると言い病室を出て行った。石神が病室を出てすぐに真由人と圭麻はトイレに行ってくると言い、里桜は一階の院内売店で飲み物を買ってくると言って病室から出て行った。小鳥を流星と二人きりにするために彼らは揃って退室したのだ。ややあって青みを帯びた灰色の双眸が小鳥のほうに動かされた。 「……久し振りだな」 「……はい」 「とりあえず座れよ。立たれたままでいられると、なんだか落ち着かないんだ」 頷いた小鳥はベッドの脇に置かれていた折り畳み椅子を開き腰を下ろした。流星は白い布団の表面をなぞる陽光を静かに見つめている。流星の横顔を見た小鳥は彼が以前よりも痩せたのではないかと気づく。流星はもともと体脂肪の少ない体型をしていたが、それでも頬の肉は削げ落ち皮膚の色も青白くなっている。それに身体の厚みも薄くなった。そんなことを考えながら流星を見ていると、小鳥に横顔を向けたままの彼はおもむろに口を開いた。 「医者から聞いた話によると、肋骨に当たった刃先が滑って、身体の深い所にまで刺さっていたらしいぜ。おまけにあと数センチ位置がずれていたら危なかったってよ。まったくオレも悪運が強いよな。もう少しで死ねたのに――残念だ」 流星は奇跡の生還を嘆くかのように口角を歪める。「死ねた」という恐ろしい言葉が耳朶に届いたその瞬間――小鳥の心の中で凍りついていた感情の塊が一気に弾けた。 「『死ねた』だなんて――そんなの簡単に言わないで!! 父さんみたいに生きたくても生きれなかった人たちがいるのに、そんなこと言わないでよ!! それに私を庇ったせいで燕さんが死んじゃったら、私はどうしたらいいの!? 死ぬなんて絶対に許さない!! 絶対に許さないんだから!!」 ソプラノの声を張り上げて叫んだ小鳥は、流星が一時は生死の境を彷徨った怪我人であることを忘れ、強烈な体当たりをするように彼の胸元にしがみついた。握り締めた左右の拳で流星の胸を何度も強く叩く。小鳥の眦を焼くのは熱い涙。人間が喜怒哀楽を表現する時に使われる液体だ。襟元を掴み硬く引き締まった流星の胸に深く顔を埋めた小鳥は、洗濯に失敗した衣服のように身体を丸めて泣き続ける。ぎこちない動作の大きな手が小鳥の肩を撫でた。流星の胸に埋めていた顔を上げた小鳥は眦を涙で濡らしたまま彼を見据える。濡れた視線を受け留めた流星は戸惑っているようだった。 「……どうしてお前は、オレみたいな奴のために泣いたりするんだよ」 「そんなの決まっているじゃないですか! 燕さんが私の大切な『仲間』だからです! 仲間の無事を喜んで、仲間のために泣いて笑って怒ったりするのが当然じゃないですか! 私たちは命と心を預け合った仲間だって言ったじゃないですか!」 命と心を預け合った仲間。小鳥の真情がこもった言葉は流星の心を大きく動かし、今までずっと固く閉ざされていた最後の扉を開け放った。そして流星はようやく気づく。最初からその扉に鍵なんてなかった。開けようと思えばいつでも自分の意思で内側から開けられたのだ。――自分を縛りつけていた過去の鎖を断ち切れるのは今しかない。迷いと躊躇いは一瞬にして消え去った。 「お前に話したいことがあるんだ。……聞いてくれるか?」 穏やかさの中に決意の響きを帯びた涼やかな声が小鳥の耳朶に降ってきた。声と同様に切れ長の双眸にも決意の光が宿っている。流星は2年前の記憶を言葉に変えて紡ごうと決意したのだ。小鳥は服の袖で涙を拭い首肯する。流星は二対の視線を宙に向けた。一瞬の瞑目。双眸を開放した流星は、今も強く残っている2年前の記憶を静かに語り始めた。 ◆◇ 2013年1月。石川県航空自衛隊小松基地・第6航空団第306飛行隊に所属する流星は、同僚の隊員と一緒に警戒待機任務に就いていた。対領空侵犯措置を行うため警戒待機任務に就く人員と航空機は、飛行隊が通常の訓練で使用している列線とは違う場所に整備された待機室とハンガーで待機し、パイロット・航空機整備員・武器弾薬整備員・飛行管理員が24時間態勢で勤務に臨む――それが警戒待機任務だ。パイロットたちが待機する待機室は八畳ほどの狭いスペースで、リラックスできるようにソファ・テレビ・DVDなどが設備されている。警戒待機任務中はいつでもスクランブルに向かえる準備を整えたうえで思い思いに過ごす。なのでパイロットはいつでも飛び立てるようにパイロットスーツと耐Gスーツを着用したままとなるのだ。 「おめでとうございます」 不意にシュガートーストのように甘く柔らかい声が耳朶に落ちてきたので、顔の上に載せていた雑誌を除けた流星は、閉じていた双眸を片方だけ開けた。栗色の髪を短く刈り込んだ童顔の青年が微笑みを湛えながら流星を見下ろしている。青年が言った「おめでとうございます」の意味がまったく理解できない。組んでいた両脚を解き、長椅子の上に横たえていた身体を起こした流星は真っ直ぐに青年を見返した。 「何がおめでたいのか、オレにはちっとも分からないんだが?」 「隊長から聞きましたよ! 鷹瀬さんと一緒にアグレッサーに来ないかってスカウトされたそうじゃないですか! さすがは第306飛行隊のエースパイロット! ますます尊敬しちゃいますよ!」 些か興奮気味に喋る青年の名前は早見昶空曹長。与えられたTACネームは「オータム」で、半年前に第306飛行隊に着隊したイーグルドライバーである。昶は常に敬語を使い謙虚な姿勢を崩さない。彼が言うには先輩に敬語を使うのは当然のことらしい。確かにまっとうな考えだとは思う。だが昶に敬語で話しかけられるたびに、流星は全身を羽毛でくすぐられているような感覚を覚えてしまうのだ。 「……自分のことでもないのに、どうしてそんなに喜ぶんだよ」 「僕は学生の頃からずっと燕さんに憧れていたんです! だから喜ぶのは当然ですよ!」 山口県防府北基地・航空学生教育群に幹部候補生として入隊した流星は、フライトコースA・アルファに振り分けられた。まるで身体の一部であるかのように操縦桿とスロットルを操る流星は一目置かれ、同期からは「天才パイロット」と呼ばれていた。そしてウイングマークを取得した流星は小松基地に陣する第6航空団第306飛行隊に配属され、「シューティングスター」のTACネームを与えられる。それから「Alert Readiness」でありながら、航空総隊戦技競技会と呼ばれる模擬空中戦のメンバーに選抜され、航学の同期である鷹瀬真由人と共に第306飛行隊二連勝の一翼を担った。その輝かしい実績を買われた流星は空中戦の敵役として教導する飛行教導隊アグレッサーから誘われたのだった。 「そうだ! 今度部隊の皆さんでお祝いの飲み会をしましょうよ! 可愛い女の子もたくさん呼びましょう! 燕さんはどんなタイプの女の子が好きなんですか?」 「お前だ」 「……はい?」 瞬間昶の動きがぴたりと停止する。長椅子から立ち上がった流星は昶に迫ると彼を壁際に追い詰めた。身を乗り出して壁に片手をつき、互いの鼻先が触れ合いそうな距離まで顔を近づけ、頬から首筋へゆっくりと手を滑らせる。赤くなった耳朶のすぐ近くで熱い吐息を織り混ぜた愛の言葉を囁くと、昶は電流が流れたようにびくりと身体を震わせた。 「オレが好きなのはお前だよ。……キスしてもいいか?」 「はいいいっ!? 駄目です!! 駄目です!! 駄目です!! たっ、確かに僕は燕さんが好きですけれど、それは憧れているだけで恋愛感情じゃないんです!! でも燕さんが望むのなら、僕は喜んで貴方の思いを受け入れます!! 受けとめます!! 禁断の世界に足を踏み入れます!!」 「――は?」 今度は流星が動揺する番だった。あれこれうるさい昶を黙らせる目的でとった行動だったのだが、どうやら彼はこれが冗談だと分からず真に受けてしまったらしい。昶は完全に本気モードだ。鼻息を荒くした昶が迫って来る。尋常ではない迫力に気圧された流星は、先程まで横たわっていた長椅子の上に押し倒されてしまった。馬乗りになった昶は流星が着ている救命装具のバックルを外し始めた。己が身の危険を感じた流星はカウンターの中にいる青白い顔をした飛行管理員に助けを求める視線を向ける。だが彼は眼鏡越しに流星を冷たく一瞥しただけですぐにパソコンの画面に視線を戻した。ベストの隙間から潜り込んできた手が胸を撫でる。交代要員の二人も笑いを堪えながらテレビを見ているだけで助けは期待できない。――自分の身は自分で守るしかない。流星は恋する乙女のような表情をした昶の額を指で弾き、乱暴に彼を押し退けた。 「馬鹿野郎! 冗談に決まってるだろうが! オレにそんな趣味はねぇよ!」 「えぇ? そうなんですか……?」 なぜか残念といわんばかりに眉尻を下げた昶が双肩を落としたその直後だった。飛行管理員の前に置かれた電話が鳴り響いた。飛行管理員が素早く受話器を耳に当てる。蛍光灯に照らされていても青白い顔が次第に険しさを増していく。電話が鳴った段階で流星たちパイロットも整備員も、スクランブルがかかると予期して準備に入っている。つい先程まで弛緩していたアラートハンガーの待機室は、瞬時に極限まで引き絞られた弓弦の如くぴんと張り詰めた緊張感で満たされた。 中部航空方面隊の防空司令所からスクランブルが下令され、飛行管理員が「ホットスクランブル!」と一声した。声が放たれるや否や流星と昶は待機室を飛び出し、アラートハンガーに通じるドアを開けてハンガーに駆け込んだ。サイレンが鳴り響くハンガーでは、二人と同じように待機室から飛び出して来た整備員と武器弾薬整備員たちが、二機のイーグルの発進準備を整えていた。イーグルの兵装は610ガロンハイGタンク・AAM‐3・90式空対空誘導弾・AIM‐7スパロー中射程空対空ミサイル・M61A1・20ミリ機関砲のフル装備だ。 機体は直ちにエンジンを始動できる状態で格納されているので、流星と昶はそれぞれ1・2番機に走り寄り梯子を駆け上がった。整備員が梯子を外すのを確認。流星は右手の人差し指を掲げると同時にスターターレバーを掴んで引いた。鋼鉄の猛禽に熱き生命の脈動が駆け抜ける。人差し指と中指を掲げた流星はリフトレバーを引き上げた。覚醒した双発のジェットエンジンが放つ咆哮がハンガーの空気を震わせた。ここまで約2分。領空は国際法で海岸線から12マイルと定められている。だがマッハ1近くで侵攻してくる機体は1分間に約10マイルの速さで接近してくるため、1分1秒を争って対処する必要があるのだ。 双発のエンジンが始動後、整備員によりイーグルのミサイルに取りつけられていた安全ピンが抜かれる。整備員と共に所定の準備を迅速かつ確実に終え流星は1番機をタクシーアウトさせた。通常は風上に向かって離陸するが、スクランブルの場合は風向きにかかわらず直近の滑走路方向からアフターバーナーを使い一気に離陸する。滑走路に1番機をタキシングさせた流星は、左右のスロットルレバーを最大推力の位置まで押し上げた。それと同時に強く踏み込んでいたブレーキを開放、鮮烈なオレンジ色の閃光が辺り一帯を熱く眩く染めあげる。 『アルタイル01、クリアード・フォー・テイクオフ!』 流星を乗せた1番機は滑走路を蹴り上げるように離陸すると、ハイレートクライムで高度1万フィートの空まで一直線に飛翔した。続いて昶が乗った2番機もハイレートクライムで上昇してくる。アフターバーナーを開放したまま高度2万5000フィートまで上昇。次いでスロットルレバーを押し下げてアフターバーナーを切り、垂直姿勢だった機体を水平に立て直す。流星は航空交通管制圏・進入管制区管制官と交話した後、航空警戒管制部隊の要撃管制官へ管制を移管される。パイロットはここで初めて国籍不明機の詳細を伝達されることになるのだ。流星は気持ちを引き締め無線を待った。 『アルタイル01、ベクター・トゥ・ボギー。1グループ、ハイスピード。ブルズアイ3‐0‐0、フォー0‐4‐0、ノースウエストターゲット・エンジェルス20。フォロー・データリンク』 早期警戒管制機AWACSが敵機らしき反応を捉えたらしく、防空管制所の要撃管制官が口頭で指示を伝えてきた。データリンクを備えているので通信機に文面が流れ、状況表示画面にAWACSより転送されてきた目標が表示された。データはAWACSのレーダー回転数に合わせ6秒ごとに更新されている。「ボギー」は敵味方不明機。「1グループ」はAWACSのディスプレイ上での反応が一つという意味だ。「ブルズアイ」は空域に設定した参照点でそこから見た方位と距離を示している。「フォー」のあとは距離で単位は海里、つまり40海里を指している。そして「エンジェル」は1000フィート刻みでの高度を指し北西の目標は20000フィートを示している。 指令を受けた流星はウィルコの代わりにマイクスイッチを二度押すジッパーで応え、対象機に向けて最短ルートで飛行した。防空管制所は全国に点在するレーダーサイトを使い、要撃戦闘機の位置と対象機の位置を補足する。要撃戦闘機は防空管制所からのデータリンクによって誘導されるため、無線通信はほとんど行わない。F‐15の場合だとターゲットの情報がレーダースコープ上にシンボルで表示されるので、パイロットはそれを見ながら機体を操縦する。ターゲットまでの距離が狭まってくると自機のレーダーでも索敵を行うが、レーダーコンタクトのあとロックオンすると、データリンクからの情報は消え自己誘導に移るのだ。 しばらく飛び続けているとテン・オクロック――10時の方向に二つの黒点が見えた。1番機を2番機の真横に動かした流星は昶にハンドシグナルを送った。無線での会話は侵入機に傍受される恐れがある。それにこちらの接近に気づかれれば先制攻撃される可能性もあるからだ。侵入機と思しき黒点は日本列島を沿うように北西へ飛行している。黒点から目を離さずに流星は思案した。黒点は白鳥のように優雅に飛んでいる。まだこちらには気づいていないのだ。ということは――無線が傍受されている可能性は低い。 『アルタイル01、目標発見! 侵入機10時方向!』 『識別せよ!』 (赤いリボンと八一の文字に星のマーク……? あれは中国空軍のJ‐10Aだ!) J‐10A殲撃10型は1986年に独自開発された中国の第4世代戦闘機で、翼端部を斜めに切り落としたデルタ主翼とカナード翼が特徴の単座型戦闘機である。23ミリ機関砲やPL‐8および、R‐73赤外線誘導空対空ミサイルなどの兵装で優れた格闘性能を有する機体と正面からぶつかるのは自殺行為に等しい。そう判断した流星は無線を介して昶に伝えようとした。視線の向こうを飛ぶ二機のJ‐10Aの機首が揺れる。向こうもこちらの存在に気づいたに違いない。 『オータム! ここはいったん高速旋回で距離を取るぞ! オレについてこい!』 『はっ――はい! 了解です!』 流星は操縦桿を倒し高速旋回で相手との距離を一気に開こうと試みた。確認のため後方を振り返った流星は瞠目する。なんと二機のすぐ後ろにJ‐10Aが張りついていたのだ。流星と昶は左右の高速旋回を繰り返しJ‐10Aを振り切ろうと奮闘するが、まるで蝶と戯れる子犬のように二機はしつこく追従してきた。「専守防衛」を信条とする流星たちが攻撃できないのをいいことに遊んでいるのだ。ややあって流星たちの後方に張りついていた二機のJ‐10Aは、唐突に機首を翻すと緩やかに降下旋回しながら離れていった。 『アルタイル01、侵入機は中国のJ‐10A戦闘機と判明』 『了解。侵入機は針路を変えて佐渡島方面に向けて直進している。領空まで20マイル。接近して変針通告せよ』 『アルタイル01、了解。これより変針通告に移る』 流星は1番機を編隊から離れたJ‐10Aの後方上空に占位させた。昶には写真撮影を指示した。相手政府に抗議するための証拠を残すためだ。よって迎撃機は二機発進するのが普通となる。 『貴機は日本の領空20マイルまで接近中だ。ただちに針路を変更しろ』 流星は国際緊急周波数を使用して侵入機のパイロットに変針通告を伝達した。だが二機のJ‐10Aは彼の通告を無視して更に領空7マイルまで接近した。誘導して強制着陸させろと要撃管制官からの指示がくる。エレベータ・ダウン、1番機をJ‐10Aの真横に占位。次に流星は機体を左右にバンクさせて左方向に離脱する。これは「迎撃機の誘導に従って追従せよ」との意味であるが、やはりJ‐10Aはこの機体信号にも従わなかった。流星は1番機をJ‐10Aと平行になる位置へ移動させた。これは最後の警告手段である警告射撃を実施するためだ。万が一にも命中しないように、目標と平行になる位置へ機体を動かしてから射撃しないといけない。流星は操縦桿のトリガーに人差し指を添える。曵光弾を含む銃弾を空に放とうとしたその瞬間――。 『危ない!!』 悲鳴に近い昶の叫びが耳朶を打つ。間髪入れずにもう一機のJ‐10Aが真下から突き上げるように急上昇してきた。急いで緩降下する2番機と上昇してきたJ‐10Aの軌跡が交錯する。2番機の垂直尾翼がJ‐10Aの主翼の片側を切り裂く。主翼を裂かれたJ‐10Aは左右に揺れながらも2番機の後方へ占位すると、さっきの倍返しだと言わんばかりに23ミリ機関砲を連射したのち、一瞬で巨大な火の球となり爆散した。 『昶!!』 後方を振り返った流星は2番機の姿を捜した。根元から垂直尾翼を失った2番機は、左右に揺れ動きながら高度を下げている。流星はスロットルレバーを押し下げて速度を落とし、海面に向かって降下を続ける2番機を追いかけようとした。瞬間RWRの警報がいきなり鳴り響く。流星は反射的に操縦桿を倒した。振り向いた視界に映るのは流星が変針通告をしたJ‐10Aだ。仲間を失ったパイロットが放つ剥き出しの憎悪が流星の背中を刺した。アフターバーナーを開放、流星はイーグルを左右に横滑りさせながら相手を振り切ろうと試みる。相手が攻撃してこないのは射撃の機会を窺っているからか。それともこちらを嬲ってから撃墜するつもりなのか。J‐10AはAAMを搭載していたか? 流星は侵入機を発見した時を思い出そうとするが、凍りついた思考は動かない。だから鳴り止まないRWRの警報音も無視するしかなかった。 1番機とJ‐10Aの軌跡が何度目かの交錯をしたその瞬間、流星は操縦桿を手前にまでいっぱい引き寄せた。あたかも立ち泳ぎをしているかの如くイーグルは空中で静止する。意表を突かれたJ‐10Aはたちまちオーバーシュートした。素早く操縦桿を倒しスロットル全開で海面に向かってパワーダイブ。海面ぎりぎりでエレベータ・アップ、超低空を横滑りしながら全速力で逃走を図る。上空を振り仰ぐとJ‐10Aは機首を押さえるようにこちらを追従していたが、しばらくすると唐突に反転旋回し中国本土のほうへ飛び去っていった。 アンチコリジョン・ライトの赤い光が次第に遠ざかっていく。やがてJ‐10Aは再び黒点に姿を変えると雲海の彼方に消え去った。燃料がビンゴになったのか、あるいは深追いは避けるようにと中国本土から指示が下ったのかもしれない。防空司令所に2番機の事故と自機の位置を伝えた流星は、急いで1番機を上昇させて2番機と並走させた。コクピットの昶はぐったりとした様子で操縦席に沈みこんでいる。それに2番機は振り子のように揺れ続けていた。コクピットから機体後方に視線を滑らせた流星は愕然とする。2番機は垂直尾翼を失っただけでなく片方のエンジンにも被弾していたのだ。 『お前、被弾したのか! どこをやられた!?』 『後方から撃たれてエンジンと胴体に被弾したようです』 『コントロールは!? 舵は利くのか!?』 『舵は……大丈夫です。片方だけですけれどエンジンも動きます。でも――』 昶の声は途中でぷつりと断ち切られる。次の瞬間2番機の高度が急激に落ちた。2番機は右に大きく傾き、そのまま空を滑るように墜ちていく。気圧の急変が翼端に白い霧を生み出す。凝結した水分が航跡となり白い尾を曳いていく。白い航跡は機体の降下速度が増した証。地上から見ればそれを彗星の軌跡だと間違えるのだろうか。違う。あれは彗星のように綺麗で神秘的なものじゃない。今にも失われようとしている一人の人間の命の輝きだ。 『オータム! このままじゃ墜落するぞ! すぐにエレベータを引け! アップだ! アップしろ!』 斜めに滑空を続ける2番機を追いかけながら流星は必死に呼びかけた。 『……駄目です。さっきから手に力が入らないんですよ。脇腹に穴が空いています。どうやら僕も被弾したみたいです』 『馬鹿野郎! 諦めるな! ベイルアウトしろ!』 『お願いがあります。……生きて帰れなくてごめん、って母さんに伝えてください』 『馬鹿なことを言うな!! オレたちファイターパイロットの任務は日本の空を守ることだけじゃない!! 生きて地上に帰ることも任務なんだよ!! オレが必ず助けてやる!! だから諦めるな!! 最大多数の幸福を信じろ!! 一緒に小松に帰ろう!! 一緒に空を飛ぼう!!』 『燕さんと一緒に空を飛べて……嬉しかったです』 まるで遺言とも思える昶の言葉が耳朶に届いたその直後、被弾して破損していた2番機のエンジンが激しく爆発炎上した。あたかも蛇の如く炎は機体を這い回る。業火の牙が尾翼と主翼を噛み砕く。そして流星の眼前で鮮烈な炎を纏った2番機は、回転しながら垂直に近い角度で墜ちていき、眼下に広がる雲海の中に消えていった。顕微鏡で覗いてみても二度と見つからないだろう。 『昶……返事をしろよ……』 流星は無線を繋ぎ震える声で呼びかける。だが無線は静かだった。 『部隊の皆でお祝いの飲み会を開いてくれるんだろう? 可愛い女の子も連れてきてくれるんだろう? オレが好きなのは、泣き虫で守ってやりたいって思える、年下の女の子だ。そんな子をたくさん連れてきてくれよ。なあ、昶、頼むから返事をしてくれよ。頼むから――』 シュガートーストのように甘く柔らかな声が返ってくることを強く願い、流星は上空を旋回しながら無線で呼びかけ続ける。だが耳朶を揺らす柔らかな声が返ってくることはなかった。2番機は墜ちていった雲の下から上昇してこなかったからだ。 人間の生死など歯牙にもかけない、冷酷で無慈悲な青が網膜に突き刺さる。 青く広大な静寂の世界に、流星はただ独り取り残されたのだった。 そのあと現場空域に小松救難隊が到着したが、2番機は海面に激突した衝撃で粉微塵に砕け散り、懸命の捜索も空しく海中に没した機体と昶の遺体は発見できなかったらしい。一人だけ生き延びた流星が小松基地に帰投する前から、基地の内外では日本と中国の戦闘機の衝突で蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。帰投した流星は小松基地で徹底したデブリーフィングを受け、しばらくの間は部外者との接触を一切禁じられた。 中国機が自衛隊機を撃墜した。逆にイーグルがJ‐10Aに体当たりした。勝手な推測を流す者が多く、日本政府も中国政府もそれぞれ自分の主張を言い立て、相手を激しく非難するだろうと思われていた。だが記者会見で防衛省も中国国防省も「訓練中の事故」だと世間一般に公表した。テレビで会見を観た流星は愕然とする。デブリーフィングで自分は確かに真実を語ったはず。それなのに事実は歪曲されてしまった。誰の策略なのかはすぐに分かった。父親の燕飛龍航空幕僚長だ。飛龍は何よりも世間体を第一に考える男。どんな手段を使ってでも息子が関係する事故を隠蔽しようとしたのだろう。 そして流星は部隊の飛行隊長から「F転」を通告された。F転とは戦闘機パイロットが地上職へ転換することを指す隠語だ。それは日本の空を守ることを使命とするパイロットにとってはまさに死刑宣告に等しく、ロシアや中国の戦闘機以上に恐れているといっても過言ではない。転換先は地味な任務に就かされることが多く、戦闘機パイロットは花形とも言われる職業なので、これを機に部隊を去る者もいるという。高荷重環境下で飛行や訓練を行うファイターパイロットが、身体検査をパスして戦闘機に乗り続けるのは難しく、身体に異変が現れ始める35歳前後で上司からF転を打診される。しかし流星は25歳の若き青年で健康な肉体の持ち主だ。まだまだ現役のファイターパイロットとして飛び続けられるだろう。だがその肉体ではなく事故の影響で不安定になった精神面が問題視されたのだった。 ファイターパイロットは音速に近い速度で大空を飛び回りつつ時には一瞬で乱高下する。それに最大で9Gの重力加速度と戦いながら空中戦を行わなければいけない。だからこそファイターパイロットには、研ぎ澄まされた集中力・一瞬の判断力・苦痛に耐え抜く忍耐力が要求されるのだ。不安定な精神を抱えたまま飛び続けていれば事故を起こし、取り返しのつかない事態を生じさせてしまう。恐らく上層部はそう判断したに違いない。 自衛隊は厳しい縦割り社会だ。上官が行けと命令すれば例えそこが銃弾が飛び交う熾烈な戦場だろうと素直に行くしかない。こうしてF転の通告とパイロットの資格を罷免され、第306飛行隊ファイターパイロットの任を解かれた流星は、荷物を纏めると独り小松基地を離れ日本の首都である東京都に向かった。東京都新宿区陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地を敷地とする防衛省――航空幕僚監部広報室広報班。そこが翼を奪われ地上で生きることを余儀なくされた流星の転換先だった。 広報室広報班に異動してからも空に焦がれる思いは心から消えず、睡眠薬に頼らなければ夜も眠れない日々が続いた。そんなある日のことだ。とある飛行隊が行うアクロバット飛行を、四人組ロックバンド「Humpty Bump」のミュージックビデオに使いたいので協力してほしいという話が広報室に持ち込まれた。アクロバット飛行を行う飛行隊といえば一つしかない。「青い衝撃」の呼び名を持つ第11飛行隊ブルーインパルス。宮城県に拠点を置く、航空自衛隊松島基地第4航空団に陣する飛行隊である。 第4航空団団司令との面会をとりつけた流星は宮城県に出向いた。JR仙石線矢本駅で降りタクシーで松島基地を目指す。しばらく車に揺られていると道の彼方に松島基地の全景が見えてきた。この辺りまで来ると周囲に建物の姿はほとんど見られない。視界に映るものは田んぼと道路に飛行場だけだ。正門の前でタクシーを降りる。警衛所から出て来た隊員に身分証を見せて入講証を受け取り流星は松島基地に足を踏み入れた。都会の喧騒とは無縁の松島基地は空が広く見える。それに大気の青がより鮮やかに感じられた。松島の空気が澄みきっている証拠だ。警衛所の脇で待機していると、連絡を受けた案内役らしき二人の男性隊員が急ぎ足でやって来た。どちらもダークグリーンのパイロットスーツ姿で、右胸と左肩に青い地球と翼を重ね合わせたエンブレムとイルカのワッペンを着けている。 「お待たせして申し訳ない。第11飛行隊隊長の日下部一成2等空佐です」 「夕城荒鷹3等空佐です。松島基地へようこそ」 すらりとした長身の男性が日下部一成2等空佐と名乗り、彼よりやや背が低い男性が夕城荒鷹3等空佐と名乗った。短く簡潔に流星も名乗り返して握手を交わす。二人は流星に些か興味を覚えているように見える。まるで四つ葉のクローバーを見つけた時のような目だ。きっと二人はあの事故を知っているに違いない。二人に案内されて赴いた本部庁舎第4航空団司令部の一室で待っていたのは、達磨に瓜二つな外貌をした堂上清史郎空将補だった。限界まで股を広げふんぞり返るようにソファに座っている。世界は自分を中心に回っていると思い込んでいる厄介な人種だ。持ってきた資料に目を通した堂上空将補は初めは難色を示していたが、流星がとある人物の息子と知るや否や、彼は途端に態度を一変させて全面協力を申し出た。ここで断れば己の昇進に響くと判断したのだろう。後日改めて担当の人間と訪れると約束を交わし、流星は日下部2佐と夕城3佐と共に司令部を後にした。 正門に続く構内道路を歩いていると、青い屋根の帽子を被った白色の建物が視界前方に入ってきた。建物の上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が青色で大きく書かれている。第11飛行隊専用の格納庫だろう。爆音が耳朶を打ち何かに導かれるように流星は空を仰いだ。彼方まで澄みきった青空を飛んでいるのは、白と青の二色に塗られた四機のT‐4中等練習機。流星は無意識のうちに足を止め、四機のT‐4が描くアクロバットの軌跡をその目で追いかけていた。空の青を痛く眩しく感じ視線を下ろして悲しげに瞼を伏せる。だが瞼の裏に焼きついた空の青はいつまで経っても消えてくれない。瞑目して立ちつくす流星を夕城3佐は静かな面持ちで見つめていた。 「燕君……だったかな? 今からT‐4の後席に乗って飛んでみないか?」 想定外ともいえる言葉に驚いた流星は、閉じていた瞼を開けて瞠目した。 「自分が……ですか? しかし自分はもうパイロットではありません。それに堂上空将補の許可も得ずに飛ぶのはまずいのでは――」 「心配することはない。許可は私がもらってこよう。我々は芸能人を乗せて飛んだことがあるからね。だから君がパイロットでないことは特に問題にならないよ」 沈黙した流星はどうすればいいのか逡巡する。これは思わぬ僥倖であり、ずっと焦がれていた空を再び飛べる最初で最後の機会。だからこの機会を逃せば二度と空は飛べないかもしれない――。気づけば流星は首肯していた。満足げに笑み流星の肩を叩いた夕城3佐は構内道路を引き返して行く。流星は日下部2佐に連れられ、ハンガーのすぐ隣にある第11飛行隊隊舎に向かった。隊舎二階のオペレーションルームでは、飛行訓練を終えた隊員たちがデブリーフィングをしていた。四人のORパイロットと三人のTRパイロットの計七名だ。簡潔に自己紹介をして順番に握手を交わす。3番機のTRパイロットが綺麗な女性だったので流星は少し驚いた。日下部2佐が流星に体験搭乗をさせてもいいかと尋ねると彼らはすぐに頷き快諾した。異論の一つもない快諾だ。きっと日下部2佐は彼らから篤く信頼されているのだろう。 しばらくすると夕城3佐が笑顔で戻って来た。どうやら堂上空将補の許可も得られたようなので、隊員たちはさっそく体験搭乗の打ち合わせを始めた。内容はすぐに決まった。離陸するのは1番機・5番機・6番機の三機で、流星は夕城3佐が操縦する6番機の後席に搭乗する。離陸したら訓練空域へ向かい基本機動と5番機と6番機のデュアルソロ課目を実施。それらを終えて松島基地に帰投するという内容だ。ホワイトボードに描かれた図で説明を受けながら、流星は己が心臓の律動が高鳴っていくのを感じたのだった。 流星は救命装備室で予備のパイロットスーツと救命装具一式を身に着けエプロンに向かった。エプロンの空気は離陸前の独特の緊張感を孕んでいる。日下部2佐と夕城3佐と5番機のパイロットがそれぞれの機体の外部点検を行っていた。三人に歩み寄り一礼した流星は機体胴体に立てかけられた梯子を上がり、長身を折り曲げて6番機の後席に身体を沈める。T‐4はイーグルよりもコンソールの計器類が少ない。ヘルメットを被り酸素マスクと通信用マスクを装着して漆黒のバイザーを引き下げる。酸素マスクとレギュレーターを結合、無骨なベルトとハーネスで全身を固定。肩越しにこちらを見やった夕城3佐に頷き返した。1番機と5番機が順番に誘導路を通過して滑走路の端に入る。6番機も誘導路から滑走路に進入して整備員の最終チェックを受けた。双発のエンジンが放つ爆音が大気を裂く。1番機と5番機は轟音を響かせながら、僅か数秒で綿菓子のような雲が泳ぐ青い空へと飛翔していった。 『準備はいいかい? 気分が悪くなったらすぐに言ってくれ』 『了解です』 頷いた夕城3佐が管制塔と無線越しに会話を交わす。流星はクリアード・フォー・テイクオフの言葉が自分を空に導いてくれる魔法の言葉のように聞こえた。スロットルレバーを押し上げた夕城3佐が6番機を発進させる。爆音を響かせながら滑走路をランディング。流星が飛ぶと思うと同時に股の間にある操縦桿が倒れた。風を纏い機体は静かに浮揚する。テイク・オフ、高度2500フィートまで上昇。上空で合流した三機は巡航速度で金華山沖の訓練空域に向かった。 光満ちる青天と純白の雲海がキャノピーの外をゆっくりと流れていく。流星は6番機の赤い後席に深く身体を沈め、青と白の二色が織り成す幻想的な風景をただ静かに眺めていた。このままずっと世界の彼方まで広がる青空を飛べたらどんなに素晴らしいだろうか。連なる純白の雲の峰を越えて、生命が生まれた蒼茫たる海を眼下に望み、優しい風に導かれながらどこまでも空を飛べたら――。流星の思考と心をいっぱいに満たすのは焦がれるような空への思いだった。 『燕君、君の身に起こった事故のことはよく知っているよ』 不意に届いた夕城3佐の声が、青い夢想に沈んでいた流星の意識を覚醒させた。 『目の前で仲間を失ったと聞いたよ。……とても辛かっただろうね』 『……同情はしないでください。貴方にオレの何が分かるんですか。空を飛べる貴方に空を飛べない者の気持ちなんて分からないでしょう』 流星は怒りを滲ませた声で反駁する。反撃を食らった夕城3佐は押し黙った。些か強く言いすぎたかもしれない。だが夕城3佐は触れられたくない心の領域に無粋にも踏み込んできたのだ。だから反駁する権利ぐらいあるだろう。果たして夕城3佐はどのような反応を見せるのだろうか。流星は夕城3佐の反応を待った。 『ユー・ハブ・コントロール!』 『えっ!? ちょっ――ちょっと待ってください!』 流星は焦った。なんと夕城3佐は唐突に流星に機体のコントロールを委ねてきたのだ。見れば前席の夕城3佐は両手を肩の高さにまで掲げているではないか。安定性を失った6番機は揺籃であやされる赤子のように左右に揺れ始める。夕城3佐を乗せたまま墜落するわけにはいかない。流星は慌てて股の間の操縦桿を握り締めた。操縦桿を握り締めたその瞬間、忘れようとしても忘れられなかった感覚が蘇り、それに導かれるがままに流星は操縦桿を操っていた。旋回。エルロン・ロール。ループ。バレル・ロール。流星が操縦するとT‐4の三舵は鋭敏に反応した。流星が脳裡に思い描いた軌跡がそっくりそのまま再現されるのだ。まるで自分が一羽の鳥となり、大空を自由自在に飛翔しているようだった。上下左右360度。美しい青天が見渡す限り広がっていた。あんなに焦がれていた空がすぐ近くにある、その空を自分で機体を操り飛んでいる――。そう思うと言葉が出ず、流星はただ空の青を見つめていた。 『……確かに私には君が抱える苦しみや悲しみは分からない。君は早見君の事故のことで自分を責め続けた、苦しんで苦しんで苦しみぬいた。そして空を飛びたいという思いを捨てきれずにいる。そうじゃないのかな?』 夕城3佐の言葉は流星の耳朶に深く鋭く突き刺さり同時に心を強く衝いた。 『君は充分に悩んで苦しんだ。だから……自分を許してあげてもいいんじゃないかと私は思うんだ』 その瞬間――流星の心の奥底で感情の塊が弾け飛んだ。 そして過去の情景が次々と鮮明に脳裡に蘇る。 墜落した昶を見捨て自分だけが生き残ってしまった罪悪感で激しくむせび泣いた夜。眠りに落ちるたびに悪夢に襲われた日々。F転とP免を通告されて広報室に異動になったあとも、空を飛びたい思いが心から消えない日はもちろん一度もなかった。感情の波に揺さぶられた流星は操縦桿を握り締めたまま背中を丸めて蹲り、強く引き結んだ唇の隙間から途切れ途切れの嗚咽を吐き出した。バイザーの隙間から溢れた涙滴が頬を伝う。気づけば操縦桿から手応えが消えていた。流星が操縦桿から手を放してみても6番機は安定している。夕城3佐が再びコントロールを引き受けたのだ。 『心に翼を持っていれば誰だって空を飛べるんだ。大丈夫、空は逃げないよ。君が再び飛べる日がくるまで空は待っていてくれる。だから君の心の翼を折らないでほしい』 胸に強く響いた言葉に導かれるように流星は顔を上げた。 広がるのは遥かなる群青の空。 三機のT‐4の軌跡が描く純白の航跡雲が涙で滲む視界に映る。 そして流星は魂の底から強く思う。 願わくば――彼らと同じ翼でこの空を飛びたい。 松島基地訪問からしばらく経ったある日のことだ。流星はF転とパイロットの資格罷免を取り消された。それはまさに特例ともいえる決定だった。航空自衛隊の歴史の中で資格を罷免された者がパイロットに復帰した事例などないだろう。この特例を下したのも飛龍に違いない。なぜなら飛龍は流星がファイターパイロットで在り続けることを強く望んでいたからだ。だが流星は飛龍が望む第306飛行隊には戻らず、第11飛行隊への異動願いを申し出た。こうして念願のドルフィンライダーになった流星は5番機のTRパイロットとなり、失われていた時間を取り戻すかのように、心に開いていた穴を埋めるかのように、夢中でT‐4を操り松島の空を飛んだ。そして約1年間の飛行訓練を続けて最終検定フライトに合格し、5番機のORパイロットに昇格したのである。 これで夕城荒鷹3等空佐と肩を並べて航空祭を飛べる。流星の胸は輝かしい喜びと期待で満ち溢れていた。だが胸を満たす喜びと期待は、夕城3佐の突然の死によって粉々に打ち砕かれてしまう。夕城3佐の死はまだ癒えていない流星の心に大きな爪痕を残した。それから流星は自分と世界を隔てる壁を作り、周囲の人たちを拒絶するようになった。心の半分を預けた相手が死ぬ痛みと悲みはもう二度と味わいたくない。誰も信頼しなければ心の半分を預けることもなく、相手が死ぬ悲しみも痛みも感じずに済むのではないか――そう思ったからだ。 「……ごめんなさい」 桜色に染まった小鳥の唇から小さく儚い声の雫が零れ落ちる。唐突に謝られた流星は些か驚いたらしく、片眉を顰めた顔で小鳥を見ていた。 「そんな辛い過去を背負っていたとも知らずに私は燕さんに酷いことを――仲間を墜としたんじゃないかって、空から逃げた臆病者だって言いました。でもそれは違ったんですね。燕さんは最後まで諦めなかった、最大多数の幸福を信じ続けた、空から逃げなかった。……私は最低な人間だわ。父さんと同じ空を飛ぶ資格がないのは私のほうです」 流星はどんな顔をして自分を見ているのだろうか――。それを知るのが怖い。俯いた小鳥は垂れ下がった明るい栗色の髪で己の表情を隠す。小鳥は覚悟を決めて瞑目し唇を真一文字に引き結ぶ。流星の平手が顔面を打ち罵りの言葉が鼓膜を引き裂く時を待つ。だが流星は小鳥の顔面を殴打することも、苛烈な言葉で彼女の鼓膜を裂くこともしなかった。ややあって固く引き結ばれていた流星の唇がゆっくりと解かれていく。そして開いた唇から放たれたのは、小鳥を罵倒する怒声ではなく意外なほどに穏やかな声だった。 「……謝るのはオレのほうだ。オレは今までお前に酷いことをしてきた。危険な目に遭わせて罵って頬を叩いた。オレをここまで導いてくれた荒鷹さんがいなくなって、どうしたらいいのか分からなくなって、荒鷹さんがいなくなった悲しみや憤りをお前にぶつけていたんだ。簡単に許してくれるとは思っていない。謝れと言うのならいくらでも謝る。殴りたいのなら気が済むまで殴ってくれて構わない。……本当に悪かった」 伏せていた顔を上げた小鳥の眼前で、流星は藍色が混じった黒髪を揺らし頭を下げた。白い布団の上に置かれた流星の拳は小刻みに震えている。伸ばした手を流星の震える拳に重ね掌に指を絡ませて強く握ると、冷たくも温かい不思議な温もりが小鳥の手に染み込んだ。重なり合った手から流星の鼓動が小鳥に伝わってくる。演奏者の指に弾かれて奏でられた竪琴のように繊細な鼓動だ。その鼓動を感じ取った瞬間、あの時分け合った互いの心は確かに繋がっているのだと小鳥は気づいた。だから自分には分かる。流星の心の痛みや悲しみが手に取るように分かる。そして流星が抱く空への思いが――痛いほど心に伝わってくるのだ。絡めていた指を解いた小鳥は流星の掌の上に小さなお守り袋を置いた。桜色の布地に「安全祈願」と刺繍されたお守り袋は、2年前の松島基地航空祭で小鳥が佐緒里から貰った物だ。流星は小鳥にお守り袋を渡された理由が理解できていないようだった。 「このお守り袋に、燕さんが元気になって空に戻れますようにって、私の思いを込めておきました。だから……だから……絶対に松島に戻ってきてください、ブルーインパルスに戻ってきてください」 小鳥はまた泣いていた。できることなら笑顔でお守り袋を手渡したかった。流星が気持ち良く怪我を治せるように笑顔でいたかった。でも気持ちとは裏腹に涙が溢れてしまう。次の瞬間前方に引き寄せられた小鳥は流星の胸に抱かれていた。小鳥が見上げると流星は今にも泣き出しそうな顔をしていた。そして小鳥は強く優しく抱き締められる。密着する身体。絡み合う体温。溶け合い一つの旋律となる鼓動。互いに分け合った心の半分が流星の思いを小鳥に伝える。 「……約束するよ。オレは必ず松島に戻る、ブルーインパルスに戻る。もう『死ぬ』なんて言わない。だから――信じて待っていてくれるか?」 「……はい」 流星の胸に頬を寄せた小鳥は静かに瞑目する。 閉じた瞼の裏側に、永遠の彼方まで続く青空が広がっていた。 ◆◇ 小鳥と別れてから流星はすぐにリハビリを始めた。担当医師からは抜糸するまで身体を動かすことを固く禁じられていたが、1日の大半を寝たきりで過ごしているのだから、筋肉は確実に肉体から剥がれ落ちていく。ベッドの上で腹筋をしたり腕立て伏せやスクワットをしたりなど、完全に回復していない身体でできる範囲のことはなんでもやった。もちろん縫合された脇腹の傷口は完全に癒えていないので、身体を動かすたびに引き攣るような鋭い痛みが走った。だが流星はひたすら耐え忍ぶ。1日でも早く退院して松島基地に戻りたい、小鳥たちブルーインパルスのメンバーと一緒に日本の空を飛びたい――。そんな熱い思いが流星の思考をいっぱいにしていたからだ。 「――身体を動かすなと医者から言われたのではないのか?」 流星がいつものように腕立て伏せをしていると甘くて苦いバリトンの声が耳朶の中に落ちてきた。腕立て伏せを中断し、乱れた呼吸を整えながら顔を上げる。長身で頑強な体躯をダークスーツで覆い隠した50代前半の男性が、逞しい両腕を組んで流星を見下ろしていた。小松基地でブルーインパルスに対する中傷の言葉を吐き、夕城荒鷹の尊厳を傷つけた張本人。彼の名前は燕飛龍。航空自衛官の最高位である航空幕僚長の座に就いている流星の父親だ。 「……あんたには関係ない」 素っ気なく答えて立ち上がろうと動いた瞬間、まだ癒えていない脇腹の傷口から電流の如き鋭い痛みが走り、流星はぐらりとよろめいてしまった。安定性を失った流星を逞しい腕が抱き留める。飛龍に身体を支えられながら流星は再びベッドの上に寝かされた。飛龍は折り畳み椅子を広げて座ろうともせず、両腕を組んで床の上に立ったままだった。その姿はまるで獄中の囚人を見張る看守のようだ。 「怪我の具合はどうだ」 「……あと1週間ほど経ったら抜糸するらしい。抜糸したあとは数日様子を見て、問題がなかったら退院できると思う。それにしてもあんたがオレを心配するなんて気味が悪いぜ。いったいどういう風の吹き回しだ?」 「美智留がお前を心配している。それに父親が息子を心配するのは当然のことだと思うがな」 美智留は流星の母親の名前だ。――思い返せば防衛大学校に入学してからほとんど家に帰っていない。父親の影から逃れたくて独り暮らしを選んだからだ。だが皮肉なことに自分は今こうして飛龍と共にいる、航空幕僚長の父親という絶大な存在の恩恵でウイングマークを取り戻せた。自分が今も空を飛んでいられるのはまさに飛龍のお陰だといえよう。とても複雑な思いだが、だからこそ自分は小鳥たちと出会うことができたのだ。 「お前は嫌味を言うためだけに私を呼んだのか? 何か大事な話があるというから、私はわざわざここまで出向いてやったのだぞ?」 飛龍の表情とバリトンの声は微かだが苛立ちを滲ませていた。確かにそうだ。流星は嫌味を言うためだけに東京から飛龍を呼び寄せたわけではない。航空幕僚長である飛龍にしかできないことを頼むため、流星は東京都心に住む彼と連絡を取り遠く離れたここに招聘したのだ。その頼み事とは小鳥に償いたいという思いから生まれたものだった。小鳥と出会えたから自分は変わることができた、重い過去の鎖を引き千切ることができた、空を飛ぶ意味を思い出すことができた。小鳥がいなければ――流星は自らの手で命を絶っていたかもしれない。だからこそ命と心を救ってくれた小鳥に償いたかった。それで彼女に何か償えることはないか、何か自分にできることはないかと流星は考えた。そして逡巡の嵐を彷徨った末に、流星は小鳥が強く望んでいたことを思い出したのだった。 流星は枕元に置いてある桜色のお守り袋を手に取りそっと握り締めた。お守り袋に残る小鳥の体温と想いが静かに沁み込んでくる。純粋な笑顔を浮かべる可憐な小鳥の姿が脳裡に浮かび自然と口元が綻んでいく。これから自分が言うことは、小鳥と交わした約束を半分破ることになるだろう。だがそれでも流星の決意は揺るがない。口元を引き締めて飛龍のほうに向き直る。そして流星は決然とした面持ちで開口した。 「――オレと取引をしてほしい」 ◆◇ 宇宙に渦巻く銀河を思わせるような星空が空の彼方まで広がっている。その真下に立っていると銀色の雨となった満天の星が全身に降り注いでくるようで、まるで宇宙の中心に身体が浮遊しているような不思議な感覚を覚えてしまうのだ。冷たくも澄んだ秋の終わりを感じさせる風が軽やかに踊りながら吹き抜けていく。鈴虫が奏でる音色を聴きながら、小鳥は独り飛行隊隊舎屋上の観覧席で佇んでいた。流星はまだ入院中で松島基地には戻っていない。少しでも流星がいない寂しさを紛らわせたい、彼と繋がっていたいという思いから、二人で心を分け合ったこの場所を小鳥は訪れたのだった。静寂を孕んだ宵闇に沈むエプロンを眺める小鳥の背後で靴音が響く。小鳥が栗色の髪を翻して振り向くと石神がそこに立っていた。そういえば消灯時間が迫っていたような気がする。石神はそのことを小鳥に勧告するためにここまで来たのだろう。背筋をぴんと伸ばして姿勢を正した小鳥は石神と向き合った。 「すみません! なかなか寝つけなくて夜風にあたっていました! すぐ部屋に戻ります!」 「いや、いいんだ。別にお前を注意しにきたわけじゃない。なんだか俺も寝つけなくてな、少し夜風に当たりにきたんだよ」 気にするなと笑って石神は片手を挙げる。こちらのほうに歩いて来た石神は、小鳥から少し離れた場所で足を止めた。石神が作業着の胸ポケットから煙草の箱を引き摺り出す。次いで彼は煙草を口に銜えライターで先端を炙り緋色に染める。しばらく煙草を美味そうに味わってから、石神は夜空に向けて紫煙を吐き出した。 「……ありがとうな、夕城」 唐突に感謝の言葉を贈られた小鳥は驚き隣に立つ石神を見上げた。 「俺たちブルーインパルスは今まで心と絆を一つにしていなかった。いや――しようともしなかった。でも夕城がブルーインパルスに来てくれたお陰で、俺たちはようやく心と絆を一つに重ねることができたんだと思う。たくさん泣いて傷ついた分だけブルーインパルスの絆は強く確かなものになった。どんなに絶望的な状況でも切れない絆が俺たちにはある。夕城はそれを示してくれた。いくら感謝しても足りないよ」 小鳥は見上げる石神の横顔を伝って落ちていく透明な雫を見た。同時に鼻を啜る音が小鳥の耳朶に届く。星空を仰ぐ石神が頑なに小鳥と視線を合わそうとしないのは、自分が鼻を啜りながら泣いているところを彼女に見られたくないからなのだ。視線を下ろした石神は真っ直ぐに小鳥を見つめると、いつものように莞爾とした笑みを浮かべた。涙の痕跡は見当たらない。精悍な顔と鳶色の双眸は小鳥への感謝の気持ちで満ち溢れ、あたかも上天の星のように強く気高く輝いていた。その輝きを目にした小鳥は強く心を打たれる。そして石神焚琉は第11飛行隊ブルーインパルスを心から愛し、そして誇りに思っているのだと改めて知ったのだった。 「ここにいたのか――。随分捜したよ」 不意に柔らかい声が小鳥と石神の背中を叩いた。開放されたドアから作業着を着た三人の男女が屋上に入って来る。真由人・里桜・圭麻の三人だ。 「おいおい三人揃っていったいどうしたんだ?」 「小鳥ちゃんを元気づけてあげたくて捜していたの。……燕君がいなくて寂しいんじゃないかって思ったから」 「……夕城、流星がいなくなって寂しいと思うのは俺も皆も同じだよ。俺たちはチームだ。だから君が抱える悲しみや寂しさを――俺たちにも分かち合わせてほしい」 「僕たちはずっと燕さんと一緒にいたのに、彼が抱える苦しみや悲しみに気づけなかった。でも夕城さんに仲間を信じる大切さを教えてもらいました。だから今は夕城さんや燕さんの思いが分かるんです」 里桜の優しい言葉と微笑みが小鳥のほうに向けられる。里桜に続くように真由人と圭麻も小鳥を見つめて言葉を紡ぐ。彼らの思いやりに触れた小鳥の胸は熱くなった。色も形も異なる六つの瞳に宿る感情はどれも同じもの。三人は小鳥の胸の内を見透かしており心の底から彼女を案じているのだ。輪になった小鳥たちはいろいろなことを語り合った。小鳥と流星の出会いと衝突。小鳥の最終検定フライトと鷺沼との別れ。入間基地でのPR活動。小鳥と日下部との邂逅。流星を憎む早見弥生。小鳥のハイドロプレーニング事故。流星と真由人の決闘。そして早見弥生に刺された流星の負傷。半年分の思い出が彼らの脳裡に次々と蘇った。 小鳥は喜怒哀楽の感情を織り交ぜながら語り合う四人に視線を向ける。三沢基地第3航空団第3飛行隊で飛んでいた石神。祖父と父に憧れてブルーインパルスのパイロットを目指した里桜。パイロットではなく整備員を目指していた圭麻。最強のイーグルドライバーたちが集まる飛行部隊アグレッサーにいた真由人。彼らはブルーインパルスの展示飛行に魅せられ、ドルフィンライダーとして空を飛ぶことを強く望み松島基地にやって来た。生まれ故郷も年齢も性別も異なる者たちが、同じ空を飛ぶことを夢見て松島の地に集った。これはまさに奇跡――いや「運命」としか表現のしようがない。だが青い運命に導かれた仲間はまだもう一人いる。その仲間――燕流星のことを想えば想うほど、小鳥の胸は切ない痛みと共にぎゅっと締めつけられるのだった。 (燕さん、ブルーインパルスの皆も私も貴方のことを思っています。だから早く戻って来てください。私たちは待っています。松島の空で貴方を待っていますから――) 不意に口を閉じていたドアが外側から静かに開放された。誰が来たのかと思い小鳥たちはドアのほうに視線を向ける。小鳥たちの視線の先にいたのは、荷物を詰めたボストンバッグを肩に提げ、フードがついた黒色のミリタリージャケットと同色のダメージジーンズを着た長身の青年だ。瞬間小鳥の胸は大きく震える。月明かりに照らされながら小鳥たちとの距離を縮めた彼は、宇宙の藍色が混じる黒髪を揺らして立ち止まった。順番に小鳥たちと視線を重ね合わせた彼――燕流星は足下に荷物を置いてゆっくりと唇を解いた。 「……今までのオレは、過去に囚われすぎて周囲を拒絶していました。でも、このままじゃ駄目だ、もうここで終わりにするべきだとようやく気づいたんです。夕城がオレに教えてくれました。背中に翼がなくても綺麗に飛べる、心に翼を持っているから自由に飛べる、心の中に翼があれば誰だって空を飛べる。だからオレは、ドルフィンライダーとして飛べる3年を無駄にしたくない、自分が飛びたいと思う空を見つけたい。お願いします、石神隊長。オレをもう一度ブルーインパルスで飛ばせてください」 真っ直ぐに背筋を伸ばした流星は石神に向けて深く頭を下げた。逞しい両腕を組んだ石神は黙したまま頭を下げる流星を見つめている。稲妻を支配する神々の王のように厳しい面持ちだ。自分の信頼を裏切った流星を許せないという思いが、やはりまだ心の片隅に残っているのだろうか。 「……もう一度ブルーインパルスで飛ばせてくれだって? お前がいったいなんのことを言っているのか分からんな」 死刑を宣告された罪人のように頭を上げた流星の表情が強張る。だが石神の言葉にはまだ続きが残されていた。 「燕、お前は第11飛行隊ブルーインパルスの一員なんだぞ? だからお前がブルーインパルスで飛ぶのは当たり前じゃないか。お前は俺たちのかけがえのない仲間――そして命と心を預け合い、同じ空で繋がった同志だ。……お前がブルーインパルスに戻って来てくれて俺は嬉しいよ」 「石神隊長――」 瞬間流星の端正な顔はたちまち歪み切れ長の眦から大量の涙が溢れ出た。悲しみの涙ではない歓喜の涙が溢れ続ける。唇を噛み締めて泣き続ける流星を囲んだ小鳥たちは彼を優しく慰め、今まで断ち切れていた青い絆が、再び一つの糸に結ばれていくのを確かに感じ取った。そして再び固く結ばれた青い絆は、もう二度と誰にも断ち切れないだろう。 宿舎に戻る前にT‐4を見たいと流星が頼んできたので、飛行隊隊舎を出た小鳥は彼を連れてハンガーに向かっていた。石神たちは先に宿舎に戻っている。病院に見舞いに行った時と同じように、彼らは小鳥に気を遣ってくれたのだ。隊舎を出てからエプロンに着くまで小鳥は一言も話せずにいた。話したいことが山ほど積もっているというのに小鳥はまだ何も話せていない。何を話して何を訊こうか頭の中で考えて整理していたはずなのに、小鳥は言葉を声に変えることができなかった。エプロンの真ん中に来て小鳥はようやく言葉を絞り出すことができたのだった。 「燕さんは覚えていないと思いますけれど、私たちはエプロンで初めて出会ったんですよ。5番機から降りてきた燕さんに『挨拶もできない奴は荷物を纏めて出て行け!』って言われちゃったんですよね」 「オレがお前と初めて出会ったのはエプロンじゃねぇよ」 「えっ……?」 放たれた言葉を不思議に思い小鳥は流星のほうを振り返る。 「2年前の松島基地航空祭。展示飛行を見ていたら、歩きスマホをしていたお前が背中にぶつかってきた。それでオレは持っていたウイングマークを落としてしまって――それをお前が拾ってくれたんだよな」 小鳥の脳裡に2年前の松島基地航空祭の情景が蘇る。確か小鳥は売店に飲み物を買いに行ったまま戻って来ない母親の佐緒里を捜していた。電話が繋がらないからメールで連絡を取ろうと思ったのだが、荒鷹が送信していたメールに目を奪われていた。そして目線を下に落としたまま歩いていたせいで、一人の観客の――灰色の作業着とブルーインパルスの識別帽を被った青年の背中に顔面からぶつかってしまったのだ。瞬間あの青年と流星の姿が一つに重なり合う。切れ長の双眸も涼やかな低音の声も、その全てが同じだったことに小鳥はようやく気づいたのだった。流星は小鳥が2年前の出会いを忘れていたことを特に気にしたふうもない。エプロンを進んでハンガーに足を踏み入れた流星は、自分の搭乗機である5番機の前で足を止めた。小鳥も流星の後に続いて彼の隣に立ち、ゆっくりと口を開き甘く柔らかいソプラノの声を奏でた。 「私たちは――『運命』に導かれたのかもしれませんね」 「……運命?」 「生まれ育った場所も、年齢も性別も違う私たちが、ドルフィンライダーとして空を飛ぶことを夢見て松島基地で出会った。運命に導かれたから私は石神隊長たちと出会えた、燕さんと再会できた。そしてドルフィンライダーとして皆と一緒に空を飛んでいる。誰かが決めたわけでもない、自分の意思でも理屈でもない、言葉ではうまく説明できないこういうのって、まさに運命だと思いませんか?」 「――オレを導いてくれたのは運命だけじゃない」 静かな眼差しで小鳥を見つめる流星は、ミリタリージャケットの胸ポケットを開けると小さな袋を取り出した。ハンガーの照明に浮かび上がったそれは、小鳥が病院で流星に手渡した桜色のお守り袋だった。小鳥の手を取った流星は彼女の小さな掌の上にお守り袋を載せる。王子がシンデレラに硝子の靴を履かせるような優しくも恭しい動作だ。その動作を見た小鳥は流星がお守り袋を大切に持ってくれていたのだと知った。 「夕城、お前が迷っていたオレをこの空まで導いてくれた、心を救ってくれた。オレを信じて待ってくれている皆と、このお守りに込められたお前の純粋な思いが届いたから、オレはこの場所に戻ることができたんだ。だから今までずっと言えなかった言葉を――ありがとうを言わせてくれ」 「いえ、そんな……ありがとうを言いたいのは私のほうです。燕さんは松島に戻って来てくれた、ブルーインパルスに戻って来てくれた。ただそれだけでいいんです」 「必ず松島に戻る、ブルーインパルスに戻る。……オレはお前に約束したからな」 返す言葉は出なかった。静かなる感情が小鳥の心を満たしていく。短く素直に頷き小鳥は流星に寄り添った。不思議と気恥ずかしい感じはしない。むしろごく自然に二人は身を寄せ合っていられた。失われた魂の半分をようやく取り戻したような、神様に命を与えられる前から二人で並んで共に歩み、永い人生を分かち合ってきたような感覚を小鳥と流星は同時に覚えていた。流星の大きな手が小鳥の手を包み込み優しく握り締める。小鳥もぎこちなく細い指を彼の掌に絡めた。そして二つの手は固く強く結ばれる。掌から伝わる確かな温もりは流星の存在が幻ではない証拠。真っ直ぐに流星を見上げた小鳥は、いつの間にか涙で濡れていた顔のまま頑張って微笑み、溢れ出る彼への想いを一つに束ねた言葉を口にした。 「おかえりなさい……燕さん」 あたかも花の蕾が開くように、流星の端正な顔に微笑みの波が広がっていく。その微笑みを見た小鳥は、これがいちばん言いたかった言葉なのだと気づいたのだった。そして小鳥の言葉を受け留めた流星は短く告げる。 「――ただいま」 天空を彩る白銀色の光が夜の松島基地を満たしていく。夜が明けたらきっと綺麗な青空が見渡す限り広がっている。そんな神の福音にも似た予感を胸に感じながら、吹き抜ける涼風に明るい栗色の髪と藍色がかった黒髪を揺らし、鴛鴦のように寄り添い合った小鳥と流星は、穏やかに凪ぐ銀色の星海をいつまでも見つめていた。 |