ハイドロプレーニング事故で負傷した腰の治療を終え、病院を退院した小鳥が急いで松島基地に戻った時、鷹瀬真由人は既に2番目の青い翼を捨て基地から去っていた。石神の話によると詳しい理由も告げずに第11飛行隊を辞めたいと離隊を申し出て、それが受理されるとすぐに荷物を纏め、飛行教導群アグレッサーが所属している航空自衛隊新田原基地に向けて旅立ったらしい。――もうブルーインパルスでは飛べない、飛びたくない。あの時真由人が言った不吉な言葉が現実になってしまったのだ。 新田原基地に向かう前に小鳥は単独で独身幹部宿舎を訪れていた。もちろん管理人の許可は取っている。他の隊員から聞いた話によると、流星は小鳥の見舞いから戻って来てからは、トイレなど必要最低限のこと以外は何もせず、ずっと宿舎の自室に閉じ籠り出て来ないらしい。尋常ではない流星の様子に、彼と同室の隊員も他の空き室に退避せざるを得なかったという。部屋の前に立ち大きく深呼吸をした小鳥はドアを叩く。予想していたとおり中からの返答はない。ドアノブを回してみると施錠されていないドアは素直に開いた。 侵入してきた光に驚いた暗闇が部屋の奥へ一斉に逃げていく。小鳥の蜂蜜色の視界に映った室内は荒涼としていた。まるで凶暴な嵐が過ぎ去った後のようだ。床の上には脱ぎ捨てられた衣類が畳まれることもなく散乱している。全てのカーテンを閉めきった部屋は、まさに絶望の暗黒に包まれた混沌の世界だった。孤独と絶望を孕んだ濃い暗闇の海に身を沈ませた流星は、部屋の片隅で抱えた膝の中に顔を埋めて座っていた。眠っているのだろうかと思うくらい流星は静かだった。存在さえ感じさせることもなく周囲の暗闇に溶け込んでいる。小鳥は一瞬声をかけるのを躊躇ったが、勇気を出して一歩踏み出した。 「燕さん」 小鳥が喉から放った第一声は硬いブラシで削り取られたように掠れていた。唾液を飲み込みもう一度はっきりと彼の名前を呼ぶ。 「燕さん。私です、夕城です」 固く閉じられていた青みを帯びた灰色の双眸が開き、伏せられていた端正な顔が持ち上がりこちらを見つめる。その顔は夢の中を彷徨っているようにぼんやりとしていたが、小鳥に気づくと驚愕の色が顔の全面に表れた。小鳥は拳を握り締めて部屋の奥へと進む。流星は永い悪夢から覚めたように唇を震わせた。 「……なんの用だ。飛べなくなったオレを笑いにきたのかよ」 冷たい床から腰を上げた流星が小鳥に近づく。カーテンの隙間から差し込んだ陽光が、彼の外貌を小鳥に見せた。乱れた黒髪と衣服。肉が削げ落ちた左右の頬。皮膚の色は病人のように不健康で青白い。青黒い隈に縁取られ血走った双眼は憎悪の塊そのものだ。全身から放たれている氷の憎悪は真っ直ぐに小鳥に向けられていた。 「違います。私は……謝りにきたんです」 「謝りにきた――だと?」 次の瞬間目の前の流星がいきなり動いた。小鳥の視界が斜めに傾き痛みの波が全身を走り抜ける。小鳥を床に突き倒した流星は、彼女に覆い被さるように馬乗りになった。獲物に襲いかかる猛獣を思わせる素早い動作に反応することもできず、小鳥は流星に突き倒され組み伏せられてしまったのだ。小鳥の細い手首を掴む手に強い力が注がれる。小鳥は掴まれている手首の骨が軋む音が聞こえたような気がした。 「オレがお前を許すとでも思っているのか!? オレはお前のせいで飛べなくなった!! 翼を奪われた!! 空から引き摺り下ろされたんだぞ!! オレから翼と空を奪った張本人が『謝りますから許してください』だと!? ふざけるんじゃねぇよ!!」 「簡単に許してもらえるとは思っていません! でも私は燕さんと空を飛びたいんです! 肩を並べて一緒に空を飛びたいんです! 石神隊長も鷹瀬さんも里桜さんも朱鷺野さんもそう思っています! ブルーインパルスの皆が燕さんと一緒に空を飛びたいと思っているんです! 燕さんを信じたいと思っているんです! だから謝りにきたんです!」 「彼女が言ったとおりオレは人殺しのパイロットだ!! そんなオレに皆と同じ空を飛ぶ資格はないんだよ!! 血に塗れたこの手で掴める空なんてどこにもなかった!! オレが飛べる空なんてどこにもないんだ!! どこにもなかったんだよ!!」 流星の慟哭が空気を震わせた。流星は小鳥の上から退くと、暗闇に支配された壁際まで後退し、崩れ落ちるように座りこんだ。伏せられた顔の陰から数滴の涙が零れ落ちる。流星の頬から顎を伝った涙滴は、乱れて崩れた服の上に落ちて楕円形の染みを作っていく。零れる涙と漏れる嗚咽を小鳥から隠すように、流星は片手で顔を覆った。 「私は燕さんが人殺しだなんて思っていません。もしも燕さんが過去に誰かの命を奪ってしまったのだとしたら、何をしてもその事実は変わらないと思うんです。けれどそれは……燕さんの飛行技術とは何一つ関係ないじゃないですか」 顔を覆い隠していた手が剥がれ落ちる。切れ長の眦を涙で濡らした端正な顔が現れた。涙で濡れた青い灰色の視線を受け留めながら、小鳥は心の奥から溢れ出る言葉を一旦押し留めて深く息を吸う。そして呆然とした面持ちの流星を見つめると強い口調で言葉の糸を紡いだ。 「燕さんはそれを言い訳にして空から逃げているんです。だから自分の飛びたい空が見えないんです。過去に囚われ続けているかぎり、燕さんが目指す空は永遠に見つかりません。自分と向き合わなければ――悪夢は終わらないんです」 小鳥は真摯な眼差しで流星を見つめた。流星は心に晴れぬ黒い闇を抱えている。だが小鳥は流星の過去を知らない。だから流星が心に抱える闇の深さも分からない。それでも小鳥は流星の心を蝕む闇を払い除け光が満ち溢れる場所へ導きたかった。流星の心に希望という名の光を分け与えたかった。あの雨の日に流星が過去と向き合う勇気を与えてくれたように勇気の炎を彼の心に灯したかった。 「私たちは燕さんと一緒に空を飛びたいんです。日本の空を飛んでブルーインパルスの素晴らしさを伝えたいんです。私たちは翼がなくても綺麗に飛べる、心に翼を持っているから自由に飛べるんです。心の中に翼があれば、誰だって空を飛べるんです。燕さんの飛びたい空は……いつかきっと見つかりますよ」 ――心に翼を持っていれば誰だって空を飛べる。 小鳥の口から紡がれた言葉は2年前と同じように流星の心を強く衝き震わせた。そして暗澹たる空を切り裂く光の矢の如きその言葉は、流星の心の奥深くに溜まっていた黒い闇を払い除け、彼の心を希望の光が満ち溢れる場所へと導いたのだった。心が光に照らされたその瞬間、熱い感情の塊が流星の魂の最奥で爆発した。 「オレは……オレは……空を飛びたい!! ブルーインパルスの皆と一緒に空を飛びたい!! 二度と空から逃げたくない!! あの人がくれた翼を折りたくない!! 皆の信頼を取り戻したい!!」 小鳥の目の前で感情を爆発させた流星は、途切れ途切れの嗚咽を織り交ぜながら涙を流し、胸に秘めていたであろう嘘偽りのない思いを大声で吐露した。小鳥は確信する。この瞬間、流星と小鳥たちを隔てていた玻璃の壁は音を立てて砕け散ったのだと。そして小鳥は肩を震わせて泣き続ける流星の頭をそっと胸に抱き締め彼の背中を撫でた。 「……それが燕さんの本当の思いなんですね? お願いです、私と一緒に新田原に行ってください。鷹瀬さんに会って燕さんのその思いを伝えましょう。鷹瀬さんも燕さんが来るのを待っているはずですから――」 小鳥の腕を握り締め、彼女の胸に顔を埋めたまま流星は何度も何度も首肯した。流星を一人残した小鳥は部屋を出て宿舎の玄関で彼が来るのを待つ。しばらくすると足音が廊下に木霊した。その音は確実に小鳥のほうへ近づいてくる。ややあって私服に着替えた流星が玄関に姿を見せた。その顔は小鳥が知る燕流星と同じものだ。流星を伴って宿舎の外に出ると石神が二人を待っていた。瞬間流星の顔に鋭い緊張が走る。 「石神隊長、オレは――」 「安心しろ。堂上空将補にはまだ話していない」 「えっ……?」 「新田原に向かう輸送機に連絡しておいたから早く行け。燕、お前が俺たちに償いたいと思っているのなら、絶対に鷹瀬を連れ戻してこい。話はそれからだ」 先導する石神に続き小鳥と流星は空輸ターミナルに向かう。高翼配置とT字尾翼、機体後部に大型のランプドアを備えるC‐1輸送機が駐機されている。胴体のバルジに主脚を収納する輸送機としてはオーソドックスな形状だ。尾翼下の後部扉は開放されており、作業着姿の若い男性隊員が下りたタラップの前で待機していた。 「無理を聞いてもらってありがとうございます。連絡した第11飛行隊の石神です」 「第3輸送航空隊第403飛行隊の大和1等空曹です。そこのお二人――夕城3尉と燕1尉が輸送機に乗るんですね?」 大和1曹と名乗った男性隊員が携えていたバインダーに視線を落とす。そこに搭乗人員の名簿が記されているのだろう。石神に背中を押された二人は大和1曹の後ろに続いてタラップを昇り輸送機の薄暗いカーゴに乗り込んだ。石神のほうを振り返った流星が黒色と藍色が混合する髪を揺らして頭を下げる。何も言わずに流星の肩を叩いた石神は輸送機から離れていった。胴体に沿うようにして左右に並んでいる簡易式の座席に座り、大和1曹の手を借りてベルトを装着した。T‐4のベルトとは似ても似つかない貧弱なベルトだ。エンジンスタート、ぐんと急制動がかかる。左右のJT8D‐M‐9ターボファンエンジンの回転数が上昇していく。機体後方に身体が引っ張られ次いで機体が走り始めた。30秒を過ぎた時、地面からタイヤを離したC‐1輸送機は、滑走路を勢いよく蹴り上げて離陸した。 第3輸送航空隊第403飛行隊は鳥取県航空自衛隊美保基地に属する部隊だ。松島基地の次に新田原基地に向かい最後に美保基地へ戻るらしい。今朝早く美保基地に石神から電話がかかってきて、松島経由で新田原に向かう輸送機はあるか、あれば搭乗が可能なのかと聞かれたのだと、小鳥の隣に座る大和1曹は話してくれた。まさに先見ある行動だ。恐らく石神は分かっていたのだろう。流星がドルフィンライダーとして空を飛ぶために戻って来ることを確信していたからこそ、石神は新田原に向かう輸送機を手配して、何も言わずに彼を送り出したのかもしれない。小鳥は斜め向かい側の座席に座る流星を見やる。流星は配線が複雑に絡み合う天井をただ静かに仰いでいた。 航空自衛隊新田原基地は宮崎県の中南部に位置しており、県庁所在地の宮崎市北方にある新富町に置かれている。配備部隊は第5航空団・飛行教導群・飛行教育航空隊・新田原救難隊の4個飛行隊。F‐4EJ改戦闘機部隊である第5航空団第301飛行隊は、九州南部と東シナ海の領空に接近・侵入してくる国籍不明機に対しての領空侵犯措置の任務に就き、飛行教育航空隊第23飛行隊は、航空学生を含むファイターパイロットの機種転換教育任務に就いている。そして飛行教導群「アグレッサー」は仮想敵機となり、各基地の戦闘航空団を巡回しては空中戦闘訓練の指導を行っているのだ。 領空侵犯に備えた警戒と緊急発進を日常的な任務とし、有事の際には飛来する敵機を迎え撃ち、あるいは海上の敵艦隊を叩く。これが日本全国7ヶ所の航空自衛隊基地に置かれた12個の戦闘機部隊の任務だ。だが飛行教導群アグレッサーは、同じ戦闘機部隊でも異なる任務に就いている。飛行教導群は人材も装備も一流。少数精鋭のパイロットたちは、いずれも全国の戦闘機部隊で先輩パイロットをも唸らせた凄腕ばかりだ。しかし彼らは日常的にスクランブルなどの国防の最前線に出ることはなく、もっぱら戦技の調査と研究に取り組んでいる。そしてその成果を全国7ヶ所の戦闘機基地を巡る「巡回教導」で、実戦部隊のパイロットたちに伝授しているのだ。 「――お前たちが夕城3尉と燕1尉か?」 約2時間のフライトを終え、外来機エプロンに着陸したC‐1の後部扉から降りた二人はいきなり声をかけられる。腕を組み仁王立ちの構えで佇んでいる男性隊員がそこにいた。坊主頭をした鋭い眼差しの男性で、鍛え抜かれた肉体から放たれる雰囲気は他者を圧倒させる。額に星印がついた髑髏と、鎌首をもたげたコブラのワッペンがパイロットスーツの右胸と左肩に縫いつけられていた。確か飛行教導群は「髑髏」と「コブラ」の二つの部隊マークを持っていると聞いた。いずれも飛行教導隊の編成直後の1981年12月17日に制定したものだ。 「はい。夕城小鳥3等空尉です」 「燕流星1等空尉です」 「俺は飛行教導群教導隊長の獅堂大輔2等空佐だ」 小鳥は思わず息を呑んだ。世界最強と言っても過言ではないイーグルドライバーたちが集まる少数精鋭の飛行部隊。全国各地の戦闘機部隊の飛行技術を向上させるために組織された、人も装備も一流の直轄部隊。卓越した飛行技術を備えるパイロットだけが在籍を許される場所――それが飛行教導群「アグレッサー」だ。そして最強のイーグルドライバーたちを率いる猛者が目の前にいる。獅堂大輔2等空佐が放つ威圧感に気圧された小鳥の背中と掌は緊張で汗ばんでいたが、隣に立つ流星は泰然と構えていた。獅堂2佐は歓迎の笑みを浮かべることもせず、黙したまま小鳥と流星を観察していたが、ややあってから彼は固く結んでいた唇をほどいた。 「だいたいの話は石神3佐と鷹瀬から聞いている。お前たちは鷹瀬を連れ戻しに来たそうだが――正直に言おう。俺たちアグレスは鷹瀬を手放すつもりはない。そこにいる燕1尉と同じく鷹瀬は『10年に一人の逸材』だ。来月には戦技競技会が開催される。あいつが抜ければアグレスの戦力低下は免れん。それにあいつはブルーインパルスには戻らないと言っている。だからあいつを連れ戻すことは諦めてさっさと松島に帰れ。お前たちは呑気にアクロバット飛行で遊んでいればいいんだよ」 容赦の欠片もない氷の言葉が小鳥の耳朶に深く鋭く突き刺さる。厳しい現実が微かな希望を粉々に打ち砕く。硬直する小鳥を一瞥した獅堂2佐が踵を反転させて歩き出す。だがなんとしてでも止めなければいけない。ここで獅堂2佐の歩みを止めなければ、真由人は永遠に連れ戻せないのだから。 「――帰れません」 甘く柔らかなソプラノの声を背中に受けた獅堂2佐の足が止まる。 「獅堂2佐とアグレスの人たちが鷹瀬さんを必要としているのは分かります。けれど私たちブルーインパルスも鷹瀬さんを必要としているんです。それにアクロバット飛行は遊びなんかじゃありません。私たちだって真剣に空を飛んでいるんです。獅堂2佐、貴方も同じ空を飛ぶ者同士なら――私たちがどんな思いでここに来たか分かるはずです」 小鳥と獅堂2佐の視線が中空でぶつかり合う。絶対に真由人を連れ戻す。己が意志を奮い立たせ小鳥は獅堂2佐の鋭い視線を受け留め続ける。先に小鳥から視線を外したのは獅堂2佐だった。しばらくして小鳥と流星を一瞥した獅堂2佐は何も言わずに歩き出した。「黙って俺について来い」ということか。獅堂2佐の後に続いた小鳥と流星は、飛行教導群が拠点としている建物のほうへと向かった。倉庫のように見える質実剛健で巨大な建物がアグレッサーのホームベースのようだ。今まで目にした基地のどの建物よりも大きい。入り口正面の手摺りには、額に星印がついた髑髏の部隊マークが付けられている。だが獅堂2佐は飛行隊隊舎には入らず素通りした。真由人は屋内ではなく屋外にいるのだろう。 格納庫前に広がるエプロンに駐機されているのは、単座型のF‐15イーグルJと複座型のF‐15イーグルDJだ。黒色の識別帽を被りオレンジ色のイヤーマフを着けた十数人の整備員が各機の点検を行っていた。飛行教導群の整備員は飛行班の所属する教導隊とは別の整備隊に所属している。だが列線の整備員として行う整備作業は他の戦闘機部隊と基本的に変わらない。飛行教導群は複座型と単座型のイーグルを運用している。数が多いのは複座型のF‐15イーグルDJ。その理由は二名のほうが状況把握と安全確保を正確かつ確実に行うことができ、より高い訓練効果が得られるからだ。だから通常の飛行訓練では、複座型機には必ず二名のパイロットが搭乗する。かつては装備機がすべてF‐15イーグルDJだった時もあったという。 複座型ばかりである以上に小鳥たちの目を惹くのはその独特の塗装だ。白と黒で縞馬模様に塗装された32‐8081。青と白の紙を直線でカットして散らしたような塗装の52‐8088。主翼端以外ほとんど全ての塗装可能な面を緑と黒で塗り分けた82‐8091。茶・青・黒の組み合わせで青いリングがよく目立つ塗装の92‐8095。黒・茶・明るいオレンジで迷彩風に塗装した92‐8096。通常のパターンから灰色の迷彩模様が浮かび上がったような塗装の92‐8098。主翼と水平尾翼を上下面とも、斜めにカットして外側だけ緑色で塗り、機首にも緑の帯を斜めに巻いたリバイバル塗装の82‐8898。これらの塗装は「識別塗装」と呼ばれ、教導効果を上げるために採用されている。上空において敵味方がはっきり区別でき、安全管理にも一役買っているという。目を射る強烈な異彩。肉体や精神のみならず魂までも握り潰されそうな威圧感。そしてどの機体も世界最強の制空戦闘機であり、大空の覇者に相応しい威厳を放っている。眼前に佇む機体はイーグルであってイーグルではない――どこか別次元の存在のように小鳥は思えてしまうのだった。 「おい! 鷹瀬はいるか?」 獅堂2佐が声を張り上げる。空気を伝播した獅堂2佐の声に反応したようで、整備員と会話していた一人のパイロットが肩越しに振り返った。柘榴色の髪が小鳥と流星の視界で翻る。心臓の律動が小鳥の胸を強く叩く。間違いない。あのパイロットは二人が再会を望んでいた真由人だ。灰色塗装のヘルメットを小脇に抱えた真由人がこちらに歩いて来た。ヘルメットの側面には「KNIGHT」のアルファベットがペイントされている。獅堂2佐が与えた真由人のTACネームに違いない。 「お前に客だ」 獅堂2佐は立てた親指で自分の斜め後ろに立つ小鳥と流星を指し示した。焦げ茶色の双眸が横に動く。そして真由人の甘く整った端正な顔は瞬時に固く強張った。墓場から這い出て来た死者か、あるいは宇宙人と遭遇した時のような驚きと衝撃に満ちている。 「鷹瀬さん、私たちは――」 「言わなくても分かるよ。俺をブルーインパルスに連れ戻しに来たんだろう?」 真由人は小鳥の隣に控える流星に軽蔑の色を滲ませた視線を向けた。 「君が新田原まで来てくれたのは嬉しいが……俺はブルーインパルスには戻らない。もちろん後任を教育せずに辞めたことは悪いと思っている。でも俺はあんな最低な奴と一緒に飛ぶことはできないんだ。新しい2番機パイロットが早く見つかることを願っているよ」 小鳥の肩を叩いた真由人は獅堂2佐に一礼すると踵を返し、担当の整備員と異彩のイーグルが待つ場所へ戻って行った。なんの未練も感じていない大地をしっかりと踏み締めた足取りだ。小鳥が悲哀を帯びた声で悲しみの歌を歌っても、真由人の歩みを止めることはもはや不可能だろう。真由人がイーグルに乗ったその瞬間に、小鳥たちと彼を繋いでいた青い絆はぷつりと引き千切れてしまい、そして二度と永遠に結ばれることはないのだ。 「――逃げるんじゃねぇよ」 流星が放った涼やかで凜とした低音の声が真由人の歩みを止めその長い両脚を地面に縫いつけた。ゆっくりとした速度で真由人がこちらを振り返る。小鳥は異様な雰囲気に気づく。真由人の顔から一切の表情が消えており、冷たく無機質な金属のように変貌していたのだ。 「俺が……逃げる、だって?」 「ああ、そうだ。お前はオレたちに背中を向けて逃げようとしている。お前の親父さんと同じことをしようとしているんだよ」 「――違う! あいつと俺は同じじゃない! 俺はあいつのように逃げてなんかいない! 俺がどんな思いでここまできたか知らないくせに勝手なことを言うな!」 紅蓮の瞋恚の炎が真由人の顔を包みこんだ。放たれた怒声がエプロンの空気を震わせる。一気に距離を詰めてきた真由人は右手を伸ばすと流星の胸倉を鷲掴みにした。その手は罪人を拷問する万力のように流星の服を巻きこみ強く締めあげている。 「俺は努力を重ねてこの空まできた!! でもお前は違う!! 血の滲むような努力も苦労もしていない!! 家にも親にも恵まれて、天性の才能だけで飛ぶお前に俺の何が分かるんだよ!!」 柘榴色の前髪の隙間から覗く真由人の双眸は、極北の大陸に浮かぶ氷河のように凍てついていた。その内側に閉じ込められた激情は今にも音を立てて弾けそうに見える。あまりの苛烈さに小鳥は戦慄したが、流星は怯むこともなく真由人の氷の視線と真っ向から対峙していた。 「……確かにお前の言うとおりだ。でもオレは才能だけでここにいるとは思っていない。ブルーインパルスの皆が――真由人が側にいてくれたからこそオレはここまでこれたんだ。だからブルーインパルスに戻って来てくれ。……頼む」 流星の真摯な眼差しと強い言葉は真由人の心を大きく揺さぶった。流星の胸倉を掴んでいた手を離した真由人は、数歩後ろに下がって瞠目すると息を呑み俯いた。しばらくして俯いていた真由人が顔を上げる。その顔と双眸には先程まで剥き出しにされていた憎悪は浮かんでいない。だが代わりに静かなる闘志が湛えられていた。 「――俺と勝負しろ、流星」 「……勝負?」 「そうだ。1対1のACM訓練で俺と勝負だ。言葉だけでは何も分からない。誠意、思い、そして――空自パイロットとしての誇り。お前の思いの全てを空の上で俺に見せてみろ」 真由人は地上で勃発した戦いの続きを空の上でやるつもりなのか。決闘を申し込まれた流星は石像のように沈黙している。小鳥が固唾を呑んで動向を見守るなか、難解な方程式の答えを導き出した流星はゆっくりと首肯する。彼が選んだ選択肢が正解か不正解のどちらなのかは、世界を創造した神様でも分からないだろう。 「獅堂隊長、こいつと戦ってもいいですか?」 真由人が事態を静観していた獅堂2佐に視線を向ける。太い腕を組んだ獅堂2佐は瞑目して思案していたが、ややあって双眸を開けた彼はその精悍な顔に不敵な笑みを湛えた。それは今の緊迫した状況とはあまりにも不釣り合いとも思える愉しげな表情だった。 「――いいだろう。燕1尉が乗るイーグルと装備一式は俺の物を貸してやる。準備ができたらエプロンに来い。お前らはアグレッサーのパイロットを本気にさせたんだ。覚悟しておけよ」 不敵な笑みを崩さないまま獅堂2佐は真由人を伴いエプロンのほうへ歩いて行った。二人の背中を見送った流星はハンガーの中にある救命装備室に姿を消した。ややあって小鳥も流星の後を追いかける。小鳥が救命装備室のドアを開けて中に入ると、流星は獅堂に貸し与えられたパイロットスーツに着替えているところだった。ジャケットを脱いだ流星がジーンズのベルトを外し始めたので、頬を赤く染めて小鳥は視線を逸らす。着替え終えた流星が鉄製のハンガーに掛けられてある救命装具一式に手を伸ばす。小鳥は素早く踏み出すと流星よりも先に救命装具を手に取った。片方の眉を顰めた流星が小鳥を見やる。 「お前と遊んでいる暇はないんだ。さっさと装備をよこせ」 「私が代わりに戦います!」 「馬鹿なことを言うな。イーグルに乗ったことがないお前に何ができるんだよ。……あいつはもうオレたちが知るドルフィンライダーの真由人じゃない。ファイターパイロットの真由人だ」 反駁することもできず小鳥は押し黙る。確かに炎の激情と静かなる闘志を曝け出したあの時の真由人は、小鳥が知るドルフィンライダーの鷹瀬真由人ではなかった。その瞳もその顔もファイターパイロットそのものだった。何も言えずにいる小鳥の見ている前で流星は救命装具の装着を終えた。救命装備室を出た流星がエプロンに向かう。それでも流星を引き留めたい。その一心で小鳥はハンガーを走り彼の背中にしがみつく。背中にしがみついた小鳥の体温に驚いた流星の歩みはぴたりと止まった。 「食事も睡眠も充分に摂っていない身体で戦うなんて無茶ですよ! こうなったのは私が事故を起こしたからなんです! だから私が代わりにイーグルに乗って戦います! イーグルに乗ったことがなくてもバイパーゼロには乗っていました! だから少しは戦えます!」 小鳥は流星の胸の下に両腕を回して服をきつく掴み、嗚咽を噛み殺しながら震える声を絞り出す。二人が仲違いする原因を作ったのは小鳥にある。あの時小松基地で早見弥生に会って流星の過去を聞かずにいれば、ハイドロプレーニングを引き起こして緊急拘束装置に突っ込んでいなければ、このような最悪の事態に進展することはなかったのだ。流星の背中に顔を埋めて小鳥は己を責め続けた。 「真由人はARで戦技競技会メンバーに選抜された凄腕のパイロットだ。お前の操縦技術じゃとても太刀打ちできねぇよ。……それにこれはオレと真由人の問題だ。お前じゃ解決できないんだよ」 「でも――!」 「準備はできたのか?」 小鳥の声と重なるように柔らかな声がハンガーに響く。ハンガーの入り口に真由人が立っていた。流星の背中に寄り添っている小鳥を見た真由人は一瞬だけ不快そうに眉を顰めた。胸の下に絡んでいた小鳥の両手を解いた流星が頷く。先に出た真由人に続き二人はハンガーを出る。異例ともいえる突然のACM訓練を観戦しようと集まったパイロットと整備員たちで、エプロン地区は早朝の満員電車のように混雑していた。流星と真由人は観衆を掻き分けながらエプロンの中心に向かい小鳥も二人の後に続く。エプロンの中心には二人を戦いの空へと導くF‐15イーグルDJに、獅堂2佐ともう一人の男性パイロットが待っていた。 「こいつは山崎1尉だ。燕1尉の後ろに乗ってもらう」 「飛行教導群所属、山崎賢太郎1等空尉だ。よろしくな」 「燕流星1等空尉です。よろしくお願いします」 最強のイーグルドライバーが集まる飛行部隊に所属しているのだから、獅堂2佐のような屈強で強面の人物を小鳥は想像していたが、流星と握手を交わす山崎賢太郎1等空尉は、いかにも自衛官らしく凛々しい好青年のパイロットだった。それに流星や真由人とそれほど年は変わらないだろう。獅堂2佐との短いプリブリーフィングを終え、左右に分かれた流星と真由人はイーグルの外部点検を済ませると、目を合わすことも互いの健闘を祈る言葉を交わすこともなくコクピットに乗り込んだ。歓喜の咆哮を上げるエンジン。鋼鉄の翼が風を纏う。レディー・フォー・ディパーチャー、クリアード・フォー・テイクオフ。四人のファイターパイロットを乗せたイーグルは地上を離れ、小鳥の目の前で青空の高みに昇っていった。 ◆◇ 流星は自分にアサインされたイーグルの前で機付き整備員と合流し敬礼を交わした。流星に貸し与えられたのは白と黒で縞馬模様に塗装されたイーグルだ。次に流星は機体の外部点検を始める。固定装備のM61A1・20ミリ機関砲。胴体真下のSta5に610ガロンハイGタンク。左右主翼付け根付近のSta2・Sta8にAAM‐3・90式空対空誘導弾のキャプティブ弾。胴体左右のSta3・4・6・7にAIM‐7スパロー中射程空対空ミサイルのキャプティブ弾。それら要撃戦闘訓練時の兵装が機外装備の搭載ステーションに装備されている。前部カナード翼の切り込みが外観の特徴の青色塗装のキャプティブ弾は、ミサイルシーカーが生きている訓練弾のことで実際に発射はできない。しかしいずれの装備もセンサーやシミュレーションプログラムと結合されているので、実際に発射しなくても命中と被弾が分かるようになっているのだ。 機体を一周する要領で外部点検を終えた流星は、整備ログに氏名等を書き込んでから胴体左側の梯子を上りコクピットに乗り込んだ。ふとイーグルの下からこちらを見上げる小鳥と視線が重なる。胸の前で祈るように両手を組んだ小鳥は真っ直ぐに流星を見上げていた。できることなら自分が山崎1尉の代わりに後席に乗り込み、戦いの結末を見届けたい――。そんな思いが小鳥の表情と眼差しに表れている。流星は小鳥の眼差しから逃げるようにバイザーを下ろす。整備員に促された小鳥は何度もこちらを振り返りながらエプロンから離れていった。 双発のエンジンが覚醒する。流星は機外の整備員とインターホンでやり取りしつつ各部点検動作を行った。ステアリング・ブレーキ解除、双発のエンジンノズルから排気炎を迸らせながらタキシーアウトしたイーグルは、「ラストチャンス」と呼ばれる滑走路の最終チェックポイントで停止した。待機していた列線整備員と武器小隊の整備員が、兵装の安全ピンを迅速かつ確実に引き抜いていく。点検を終えた整備員が外からOKのサインを出した。流星は片手を挙げて整備員に応えると、左右のスロットルレバーをミリタリー推力の位置まで押し上げた。 左右のエンジンの回転数と排気温度計の数値が一気に上昇、双発のF100‐IHI‐220Eエンジンから放たれる震動が機体を揺らす。イーグルは前方へ跳び出すようにランディングを開始した。前方から押し寄せる重力加速度が流星の身体を座席に叩きつける。操縦席前面のHUDに映る速度スケールが一気に増えていく。時速120ノットを迎えた瞬間に操縦桿を手前に引く。流星の視界から滑走路面が吹き飛ぶように消え去った。周囲の景色が明瞭さを失い色の洪水となって後方へと流れていく。ややあって傾いた機体は重力の楔から解き放たれ大空の青が視界全体に広がった。 今回の対戦闘機戦闘訓練は中立状態から開始されるニュートラルで行われることになった。互いに同じ周波数で会話ができる状態にして、赤編隊と青編隊に分かれて訓練空域の両端から見合い、「ファイツ・オン」のコールで互いに突撃して戦闘に入る。すれ違い互いの後尾を取るように機動して、押さえこみながら射撃を繰り返し、相手を確実に撃墜できたと思ったら「スプラッシュ!」とコールして勝利を宣言するのだ。しばらくしてMFDのレーダー画面に赤色の菱形シンボルが現れた。方位はトゥエルブ・オクロック。流星と真っ直ぐに正対する形だ。少しずつだが確実に近づいている。肉体と精神を高圧電流の如き緊張が駆け抜ける。いよいよ空自で最強と言ってもいい戦闘機部隊との戦いが始まるのだ。 やがて綿雲が散る青空の彼方に一つの黒点が見えた。遠く離れているというのにその機体の塗装が独特の斑模様をしているのがはっきりと分かった。間違いなく真由人が乗るイーグルだ。そしてついに両者の相対距離はゼロになった。ファイツ・オン、ヘッドオン・マージ。まさに一瞬の速さで二機はすれ違う。まさに一瞬の速さで二機はすれ違う。流星はすれ違いざまに真由人の背後を取ろうと急旋回に入った。だが真由人もこちらの背後を取ろうと旋回を続けているので、二機のイーグルはキャノピーを向け合う状態――キャノピー・トゥ・キャノピーになっている。ということは旋回能力が互角ということか。 巴戦から離脱した流星は操縦桿を引き一気に上昇旋回した。速度を高度に変換し旋回半径を小さくすることで、オーバーシュートしないように流星は機動する。ピッチ角を上げたあとは敵機が視界に入るように機体を背面姿勢にした。真由人の旋回面の内側に留まれると判断した流星は降下旋回を始め、上昇で獲得した高度を速度に変換しながら真由人を追尾した。ブレイク・ターンを継続する真由人は次第にエネルギーを失っていく。流星がミサイルの最大射程内に捉えようとしたその瞬間――真由人は瞬時に旋回方向を切り返し、こちらの後ろ上方に向けて機動してきた。 真由人はシザーズに持ちこむつもりだ。だがそう簡単に背後を取らせはしない! エンジンパワーを最大にして機首を一気に上げる。減速しながら最大Gで旋回、流星は相手を自機の前方に押し出すように機動した。二機のイーグルが光満ちる青天を翔け抜けていく。機体が生み出す風圧が周囲の空気を震わせる。二筋の航跡雲が瞬く間に後方へと伸びていった。その軌道は鋭角的なカーブを描きながら互いを追従している。繰り返されるロールとブレイク。蜘蛛の巣のように複雑な航跡雲が空に編まれていった。 真由人は交差直後の交差角が最大となるタイミングで真っ直ぐにアンロード加速して離脱した。そのまま左右のアフターバーナを開放し流星の猛追から逃れようと試みる。スロットルレバーをアフターバーナーの位置に押し込み流星は逃げる真由人を追いかけた。高度差があるぶんこちらのほうが優速だ。流星は小刻みに変針する真由人の動きに合わせて進路を修正し、AAM‐3ミサイルの有効射程まで距離を縮めていく。素早くアンテナを振って走査を開始。相手の位置が大きく変わっていないことを確認する。HUD右側に表示されているミサイルの射撃可否を示す、動的発射領域の表示は真ん中に矢印がきていた。 左上の敵機を示すTDボックスと跳ね回るミサイルシーカーが一つに重なり赤色に染まる。流星はFOVサークルの中央に操縦方向指示マーカーがくるようにイーグルを動かした。だが真由人は急角度で雲海に突撃したのち姿を隠した。スロットル・アップ、流星は雲と並走するように真由人を追跡する。流星はレーダーを対空モードの状況認識サブモードから、格闘戦モードのスルー走査サブモードに切り替え、パルスを連続的に浴びせた。放たれる電子の波は水蒸気の塊に阻まれることなく狙いをつけた。 『ターゲット・ロックオン! FOX2――』 流星がミサイル発射を宣言した瞬間、分厚い雲の塊が弾け飛んだ。 前ではない――後ろだ! 雲を引き裂き蒼空に飛び出してきた真由人が流星の後方に占位していた。スナップ・ロールで急速離脱。だが真由人は素早いスリップで追随してくる。エレベータ・ダウン、流星は雲海目がけてイーグルをダイブさせた。高速度で雲底を突き抜けたイーグルは翼端から水蒸気の尾を曳きながら、追いかけてきた一機のイーグルともども空を貫くようなスパイラル・ダイブで落ちていく。機首を135度に倒して右バンク。エレベータを引き上昇する。7Gの180度旋回、45度の機首角度で素早く機体を水平に戻す。スライス・バックで後方に占位。流星はミリタリーパワーで逃げる真由人を追跡する。だがこちらのほうが速度が高い。このままでは相手を追い越してしまう。操縦桿を引いてエレベータ・アップ、最大可能Gで一気に機首を引き起こす。急上昇で速度エネルギーを殺しながらラグ追跡の軌道へ。それでも速度はまだ高い。上空でロールを打ち更に速度を落とす。背後につこうとしたその時、突然と真由人がブレイクして右ロールで急減速した。 ハイGバレルロール。敵機が背後から高速で迫ってきた時の回避機動で、ブレイクした後に反対方向へロールを繰り出すことで急減速し相手を前方に押し出すのだ。成功すれば立場を逆転できるのだが、敵に回避機動を察知されると逆に標的となってしまうという非常に難しい機動である。追う側から追われる側へ。ほんの数瞬で立場が逆転した。RWRの警告音がヘルメットの内部で鳴り響く。それと同時に円形ディスプレイの頂点近くで赤い輝点が明滅し、HUDに「LOCK」の文字が素早く表示された。流星はバレル・ロールで回避行動に移る。左右のロールを打つたびに天地が逆転して光と影が反転した。高度・速度計の数値と方位・機首角度の数値が秒単位で変化していく。まるで竜巻の胎内に飲み込まれたようだ。だが耳障りなRWRは一瞬たりとも静かになってくれない。頭を左右に巡らして状況を確認。それと同時に現状を打破するための機動を導き出した。 操縦桿とスロットルレバーを素早く動かしフルスロットルでエレベータ・ダウン。視界全体に茫漠たる藍色の海原が広がった。スロットルを開放したまま急降下、重力とエンジンパワーを組み合わせ、瞬間的に速度を得るパワーダイブで逃走を図る。純白の雲が断ち切れ海面が物凄い速度で近づいてくる。荒く乱れた呼吸を繰り返しながら流星は背後を見やった。太陽の中心に浮かぶ黒点――真由人が乗るイーグルの機影がはっきりと見えた。初めは小さかったイーグルは次第に大きさを増していく。酸素マスクの奥で流星は歯噛みする。全速力での逃走劇は失敗に終わったのだ。 スロットルレバーをミリタリー推力に押し上げハイGターン。真由人と正対した流星は20ミリ機関砲を叩きこむ。しかし真由人は射撃を難なく回避するとインメルマン・ターンで背後を狙ってきた。操縦桿を倒し流星は急激な旋回機動に入る。Gリミッターが鳴り響き重力加速度が流星の身体を押し潰す。耐Gスーツを身に着けているというのに、全身の筋肉と細胞が悲鳴を上げているのが分かった。鈍痛がこめかみや眼窩の奥を走り抜ける。だが限界寸前の肉体を嘲笑うかのようにRWRは鳴り続けていた。F15を円形と菱形で囲んでいるマークは、今まさにイーグルからロックオンされてミサイルを発射されたことを示している。自己防御装置がチャフを展開させ電波欺瞞紙を空中に散布する。チャフとはグラスファイバーやプラスチックで作られた紐状や短冊状の小片で、表面に蒸着されてある金属が電波を反射してくれるのだ。間一髪で画面に投影されている自機のシンボルからミサイルが逸れていった。 流星は安堵の息を一つ吐き双肩の力を抜いた。しかし息つく暇を戦場の空は与えてくれない。RWRは引き続き敵機の追従を教えている。呼吸は苦しく全身の筋肉は今にも引き千切られそうだった。だが今は動き続けなければ確実に撃墜される状況だった。それに自分はこんなところで墜とされるわけにはいかないのだ。アフターバーナー開放、流星はイーグルを50度のバンクに傾け7Gで旋回を始めた。エレベータを引き上昇旋回。180度の旋回を終える際に速度が300ノット以下に落ちないように注意する。左右のスロットルレバーをアフターバーナー全開の位置に押し込んだまま、さながら天空に閃く稲妻の如く鋼鉄の荒鷲は一気に彼我との距離を詰めていく。エレベータ・アップ。ほとんど垂直に近い角度のハイレートクライムで上昇。楕円の軌跡を描きながら真由人を視界に収める。菱形のミサイルシーカーと重なったTDボックスが真紅に色づく。ミサイル発射の条件が整ったことを示す「SHOOT」サインが眼前に現れた。 だが次の瞬間、流星は驚きで瞠目する。 ――真由人の姿が視界から忽然と消失していたのだ。 流星は茫漠たる眼下の大海原に素早く視線を走らせる。両翼端からベイパーを曳きながら急激な横滑りで急降下していく真由人が見えた。木の葉落とし――デッドリーフと呼ばれる機動で回避したのか。降下後は獲得した速度エネルギーを活かし上昇反転で反撃に転ずるか、そのまま離脱するかを選ぶことになる。機首を上げて上昇反転した真由人は流星の後方上空のコントロールゾーンに占位した。 『甘いぞ! シューティングスター!』 再度として響いた警報音と真由人の声が重なった。ミリタリーパワーで増速した真由人は、強引に流星との距離を詰めていく。コクピットにミサイル接近警報装置が響き渡る。流星はミサイルと直角になるようにビーム機動をしながらチャフを撒き、最後はアンロード加速でミサイルを回避した。だが真由人は連続でミサイルを撃ってきた。ミサイルを引きつけてから8Gで旋回、アンロード加速で速度を回復しながらチャフを展開して二発目を回避する。三発目のミサイルをビーム機動で回避した流星は、スパイラル・ループを描きつつ急上昇に移った。最大Gで旋回か? それともスパイラル・ダイブで落ちるか? あるいはチャフ・フレアを展開させて撹乱するか? だが何度も繰り返した高G機動とアフターバーナーの影響で燃料は残り少ない。それに今の危機を脱しても次の機動で撃墜されてしまう。広大な空にいるというのにどこにも逃げ場がないとは皮肉なことだ。 振り切れないのであれば、いっそ追い抜かせてオーバーシュートを誘うしかない。わざと前方に飛び出させて無防備になった背面を狙うのだ。しかしスロットルを落とせば真由人の加速に対応できない。機体のエンジンパワーを維持したまま急減速する方法はないのか。通常の機動を繰り出しても卓越した操縦技術を持つ真由人は問題なく追随してくる。もっと急速に機体速度を落とさなければ勝機はない。焦燥が思考を焼く。瞬間スロットルレバーを握り締めた流星の脳裡に閃きが走る。 急速に機体速度を落とす手段は――たった一つだけあった。 『往生際が悪いぞ流星!! いい加減に負けを認めたらどうだ!?』 誠意。 真由人への思い。 空自パイロットとしての誇り。 己の覚悟。 最後に小鳥の姿が脳裡に描かれる。 その全てが混じり合い、それは熱い言葉となって流星の口から放たれた。 『オレは負けるわけにはいかないんだよ!! 絶対にお前をブルーインパルスに連れ戻す!! それがオレにできる皆への償いだ!! 真由人!! お前だって本当は――ブルーインパルスで飛びたいんじゃねぇのかよ!!』 心からの思いを叫んだ流星はスロットルレバーのスピードブレーキを開放した。その直後つんのめるような衝撃が全身を殴打した。強力な双発のエンジン推力と空気の壁が衝突して機体を軋ませる。オーバーシュートした真由人のイーグルが後方から飛び出してきた。イーグルの姿がモニター画面に大きく映し出される。イーグルの速度が上がった。無防備な背中を晒したことに気づき急いで増速したのだ。イーグルの胴体上面に設置されているスピードブレーキの開放は、空中での急激な減速に極めて有効である。空戦中に後方から敵機が加速して追跡してきた場合に、スピードブレーキを開くと機体速度が急低下し、後方からきた敵機が自機を追い越してしまうこともあり得るからだ。 双発のエンジンはフルスロットルの状態を維持している。なので流星がスピードブレーキを閉じるとイーグルの速度は瞬時に戻った。風圧とスピードブレーキ後流が生み出す振動が機体の安定を掻き乱す。それでも流星は三舵を操り機体の姿勢を崩さない。FOVサークルの中央にイーグルの尾部を捉えた。ターゲット・ロックオン、TDボックスとミサイルシーカーが重なり赤色のダイアモンドを形成した。HUDに「SHOOT」の文字が再び表示される。流星は真由人をミサイルの射程に捉えたまま飛び続けた。 『……俺の負けだ』 ミサイル射程の向こう側にいる真由人が敗北を認めたその瞬間、二人の雌雄を決する熾烈な大空の戦いは、今ここに終わりを告げたのだった。 二機のイーグルはオーバーヘッド・アプローチで滑走路に着陸すると、タキシングで誘導路を走りエプロンに進入したのち決められた位置で停止した。先にキャノピーを開いてコクピットから姿を見せたのは真由人だった。梯子を伝って地面に降りた真由人はおぼつかない足取りで数歩進んだあと、神への信仰心を失った信者のように地面に座り込んだ。小鳥と流星はすぐに彼の側へ駆けつける。バイザーを引き上げてヘルメットを引き剥がした真由人の顔は、頭上に広がる空のように蒼白だ。唇の端に苦笑いを浮かべた真由人は震える声を絞り出した。 「……やっぱり、お前は強いな」 肩を落とした真由人は俯くと柘榴色の髪でその顔を覆い隠した。よく目を凝らして観察すれば頑丈なパイロットスーツに包まれた双肩が小刻みに震えているのが分かる。――真由人は悔し涙を流しているのだ。どう行動を起こせばいいのか分からないまま、時間だけが悠然と過ぎ去っていく。ややあって真由人を見下ろしていた流星が唇を解いた。 「――オレは強くなんかない」 流星の言葉に反応した真由人が顔を上げる。その顔はやはり涙で濡れていた。 「オレはずっと過去から目を背けてきた、空から逃げていた臆病者だ。でもお前は違う。お前は自分の過去と向き合っている、空から逃げていない。勝負に勝ったから強いんじゃない。自分と向き合うことができる人間こそが強いと言えるんだ。だから本当に強いのはオレじゃない――お前だよ、真由人」 長身を折り真由人の正面に片膝をついた流星は言葉を続けた。 「オレはもう二度と空から逃げない。2年前の過去と決別する。だからもう一度だけオレを『仲間』として『友人』として信じてくれ」 沈黙と静寂が辺りを包み込む。流星の真情は果たして真由人の心に届いたのだろうか。 「……お前の思いはよく分かったよ。でも、俺は自分がどうしたらいいのか、どうしたいのかまだ分からないんだ。俺に答えを出すための時間をくれないか?」 例え真由人が第11飛行隊を拒み飛行教導群に留まる道を選んでも、それは彼が決めた道であり彼が選んだ人生の選択肢だ。それに二人は真由人の人生に口出しできる権利を持ってない。権利を持っている者がいるとするならば、それは7日間で世界を創造した神様だけだろう。小鳥と流星は視線を交わして頷き合った。頷きを見た真由人は、憔悴しきった顔をしていたにもかかわらず、小鳥と流星に向けて感謝の微笑みを返してくれた。ヘルメットを抱えた真由人が細長い影を引き摺りながら歩いて行く。その背中はまるで翼を失った鳥のように弱々しく、指先で軽く触れただけで粉々に砕け散ってしまいそうだ。やがて真由人の姿は燃えるような夕焼けの海に沈んでいき、二人の視界から完全に消え去ったのだった。 ◆◇ 独身幹部宿舎の自室のベッドに寝転び枕に頭を沈めた真由人は、白銀のウイングマークを見つめながら重い嘆息を口から吐いた。憂いを含んだ重い息は無限の宇宙には昇れず、天井に衝突して冷たい床の上に墜落した。それにどことなくウイングマークの輝きが弱まっているように見える。イーグルドライバーとドルフィンライダー。二つの間で揺れる真由人の心の迷いが白銀の輝きを曇らせているのだ。瞑目した真由人は過去の記憶がしまわれている扉を開いた。 (今の俺の姿をあいつが見たら――どんな顔をするんだろうか) 真由人が「あいつ」と呼ぶのは彼の父親のことだ。10年前まで名前も顔も知らなかった父親は、真由人が生まれてすぐに判子を押した離婚届だけを残し、妻と息子の前から永遠に姿を消した。なぜ父親は家族を捨てて出て行ったのか。その理由を真由人は今も知らない。真由人は事情を知るであろう母親の朱里に理由を尋ねようとした。だが部屋を満たす暗闇の中で蹲って啜り泣く朱里の背中を初めて目にした時、それは決して訊いてはいけないことなのだと真由人は悟ったのだった。 朱里は神奈川県横須賀市内の総合病院に勤務する優秀な医者で、家計を支えるために昼夜問わず働き詰めだった。医者という職業は戦場で戦う兵士に似ていると真由人は思う。急患が搬送されれば休日であろうが関係なく招聘される。おまけに人員が不足している時は一人で何役も勤めなければいけない時もあったからだ。そんな多忙の極みである朱里が、授業参観や運動会などの学校行事に当然ながら来れるはずもなく、仲睦まじい家族の姿を見るたび真由人はいつも心に孤独を感じていた。寂しくないと言えば嘘になる。だが朱里は父親のいない家庭を必死に支えようとしている、息子の未来を明日へ繋ごうとしているのだ。そんな朱里の姿を見て育った真由人は、女手一つで子供を育てるという母親の大変さを自然と理解するようになっていた。 ――家族を捨てて姿を消した父親の代わりに朱里を守りたい。 子供から大人に成長した真由人はいつしか使命感にも似た思いを胸に抱くようになっていた。あの時の自分が無力な子供ではなく強い大人の男だったなら、去り行く父親を引き留められたかもしれない。暗闇で独り啜り泣く朱里を腕に抱き締められたかもしれない。朱里に対する強い思いは力への渇望となり、真由人は大切な人を「守るための力」を欲するようになっていたのだ。 「母さん、俺、航空自衛隊の幹部候補生として防衛大に入ろうと思う。ファイターパイロットになって母さんを守りたい、母さんがいるこの国の空を守りたいんだ」 日本列島に桃色の桜の花が咲き誇る春。高校3年生に進級した真由人は今まで胸に秘めていた己の決意を朱里に告げた。息子の決意を聞いた朱里は入り組んだ迷宮のように複雑な表情を見せた。母親の表情と自分を見つめる眼差しは、10年の歳月が経った今でも鮮明に覚えている。覚悟・諦観・悟り。その中に真由人が望んでいた喜びは含まれていなかった。最初は防衛大学校から自衛隊に入隊するという進路は特に考えていなかった。だがミリタリーマニアの友人に連れられて赴いた陸上自衛隊の中央観閲式で、輝くサーベルを携え凛々しく勇ましく行進する防衛大学学生隊の姿を見た瞬間、あの場所に行けば求めていた「強さ」が得られると真由人は確信したのだった。 「……私は反対しないわ。貴方の信じた道を歩きなさい」 朱里は箪笥の奥深くに押し込んでいた箱を取り出すとそれを真由人に手渡した。厳重に保管されていたからとても大切にしている物が入っているのだろうと思ったが、箱の中に入っていたのは一枚の写真だけだった。写真に写っているのは、赤子を腕に抱いた女性と凛々しい表情をした青年だ。赤子は自分で二人の男女は若かりし頃の朱里と父親に違いない。だが何よりも真由人が目を奪われたのは青年が着ている衣服だ。濃紺の背広の上下はまさしく航空自衛隊の制服だった。肩には三つの桜星と一本線の階級章が縫いつけられ、左胸には翼を広げた鷲を模した銀色のエンブレムが輝いている。厳しい訓練に耐え抜き、鋼鉄の翼を手に入れた者だけに与えられる航空徽章――ウイングマークだ。写真から視線を上げた真由人は、驚いた顔を元に戻せないまま朱里を見た。 「……彼の名前は鷹瀬和真1等空尉。貴方のお父さんよ」 まさか父親が航空自衛隊のパイロットだったとは――。真由人は俄かには信じられず戸惑いを覚える。知らず知らずのうちに自分は父と同じ道を選んでいたのか。陸上自衛隊・海上自衛隊・警察官・海上保安庁など、航空自衛隊の他にも強さを象徴する職業はあるであろうに、真由人は迷うことなく数多くある選択肢の一つから「航空自衛隊」という答えを選んだのだ。 ――答えを選んだ理由は一つしかない。 和真から受け継いだ遺伝子が、真由人を空へ導こうとしているのだ。 部屋に反響した硬い音が追憶の海に沈んでいた真由人の意識を現実に呼び戻す。瞼を開けてベッドから起き上がった真由人は返事をしてからドアを開放した。開放したドアの向こう側にいた人物を見た真由人は驚きを露わにする。部屋を訪ねてきたのはアグレッサーを率いる教導隊長の獅堂大輔2等空佐だったからだ。乱れていた襟元を整えた真由人はぴんと背筋を伸ばした。 「夕城3尉と燕1尉は少し前にC‐1輸送機に乗って松島に戻ったぞ。出発ぎりぎりの時間までお前を待っていたらしい」 「――そうですか」 「お前は悩んでいるのか」 「えっ……?」 「このままアグレッサーのファイターパイロットとして飛び続けるか、それともブルーインパルスのドルフィンライダーとして空を飛ぶか。お前はそのことで悩んでいる。だからお前はあいつらと一緒に松島へ帰らなかった。そうなんだろう?」 心を揺さぶる迷いを獅堂2佐に言い当てられて真由人は黙りこむ。イーグルは10年前から欲していた力を象徴する灰色の翼だ。対してドルフィンことT‐4の白と青の翼は、真由人に戦いの空とは違うもう一つの空を見せてくれた。真由人にとってはどちらもかけがえのない翼だ。それゆえに真由人はどちらの翼を選ぶべきなのか逡巡を続けていたのだった。 「獅堂隊長……俺はどうすればいいんですか?」 「決めるのは俺じゃない。お前の『心』だ」 獅堂2佐の拳が真由人の胸を突く。飛行隊隊舎の応接室に真由人を訪ねて来た来客が待っていると伝えた獅堂2佐は立ち去った。決めるのは自分の心――。その場に立ちつくした真由人はしばらく獅堂2佐の言葉を噛み締めていた。部屋に戻り作業着の上着を羽織った真由人はアグレッサーの飛行隊隊舎に向かう。静まり返った廊下を早足で歩きノックをしてから応接室のドアを開ける。来訪者は無人の応接室のソファに座り、卓上に置かれたコーヒーカップの水面を見つめていた。ファンタジー映画に登場する魔術師のように、水を媒介にして未来を見ているのだろうか。 「母さん――?」 真由人の声を耳朶に受け留めた女性は弾かれたようにソファから立ち上がった。二人の視線が一つに重なり合う。真由人の顔に驚きの色が滲んで広がっていく。真由人に会うために新田原基地を訪ねて来たのは、遠く離れた神奈川県にいるはずの朱里だったのだ。どうして朱里は神奈川県から宮崎県までやって来たのか。真由人は朱里に理由を訪ねようとしたが先に開口したのは彼女だった。 「少し痩せたんじゃない? 食事はきちんと摂っているの?」 「三食ちゃんと食べているよ。そんなことよりどうしてここに?」 「ブルーインパルスを辞めて、新田原基地に戻ったって石神さんから聞いたわ。だから急いで会いに来たの」 「石神隊長が――」 「何があったのか詳しく話してちょうだい」 ソファに座り直した朱里は隣に座るよう真由人に促してきた。こちらを見上げる茶色の双眸は真剣な光を湛えている。覚悟を決めた真由人はソファに腰を沈め訥々と言葉の糸を編んでいった。小鳥を見舞いに行った際に流星と諍いを起こしたこと。新田原まで真由人を追いかけて来た流星と1対1の格闘戦を繰り広げたこと。僅かに頭を垂れて床の一点を見つめ続けながら、真由人はこれまでの経緯を包み隠さず朱里に話した。静かに話を聞く朱里は無言だ。言葉での叱責かまたは平手打ちで頬を弾くか。そのどちらかを繰り出すべきか考えているのだろう。 「……ごめんなさい」 だが唐突に朱里は謝ってきた。叱責されると覚悟していた真由人は戸惑うと同時に驚く。彼女に謝られる理由がまったく分からないからだ。真由人は朱里の肩に触れて頭を上げるように促した。濃い赤茶色の髪を揺らし顔を上げた朱里の目尻は微かに濡れている。彼女が泣き出す前兆だ。 「何も悪いことをしていないのにどうして母さんが謝るんだ? 謝るのは俺のほうだよ」 「私がもっと早く本当のことを話していれば――」 「本当のこと?」 朱里は横に置いていた鞄から茶色の封筒を取り出し、言葉の意味を理解できていない真由人にそれを手渡した。真由人は封筒を開封する。中に入っていたのは一枚の便箋だ。何度も繰り返し読まれていたらしく便箋の端は擦り切れている。真由人は折り畳まれていた便箋を開き二対の視線を文面に走らせた。 【愛する朱里へ。空という場所は一度舞い上がれば二度と戻って来れないかもしれない場所だ。だから航空自衛隊のパイロットは、常に死と隣り合わせの毎日を繰り返さなければいけない。毎日のように空を見上げて、僕の無事を祈る君の心痛は計り知れないだろう。君は大丈夫だと言ってくれたが、やはり僕は君と別れることにした。この決断が、君と真由人を深く傷つけることは充分に承知している。身勝手な僕の我儘を許してくれ。――和真】 便箋に書かれた文字が網膜に刻まれていくにつれ、真由人の心臓の律動は高く速くなっていった。真由人は便箋の文面を読み終える。だが心に受けた衝撃の大きさのせいで声を出すことができない。努力して絞り出した真由人の声は、蜘蛛の糸に絡め取られた哀れな蝶のように震えていた。 「……母さん。この手紙は、まさか――」 真由人の声は途中で砕け散った。朱里は何も言わずに頷く。真由人が紡ごうとした言葉の続きを知っていたからだ。この手紙を書いた人物は間違いなく真由人の父親である鷹瀬和真だった。 「貴方のお父さん――和真は私と真由人を残して死ぬことを何よりも恐れていたの。私は平気だと何度も彼に言ったわ。でも駄目だった。私は彼を引き留められなかった。それからしばらくして和真はその手紙と離婚届を置いて出て行ったわ」 朱里は別の封筒を取り出すと中身を真由人に見せた。中身を見た真由人の心に二度目の衝撃が襲いかかる。その紙は神の前で誓った夫婦の愛が終わったことを証明する離婚届だったのだ。ここで真由人は疑問に思う。既に提出されているはずの離婚届を、どうして今もまだ朱里が所持しているのだろうか? 「私はまだ和真と離婚していないの。もちろんあの人は知らないわ。私は和真を独りにしたくなかった。私は地上で生きて、空で生きる和真の道標になりたかった。役目を終えた和真が空から地上に戻る時、私たちのところへ迷わず戻れるように――」 真由人は嘘だと強く否定したかった。だが朱里の真摯な顔と眼差しがそれが嘘ではないと物語っていた。父は――和真は母と息子を見捨てて出て行った。ずっとそう思っていたのに真実はその逆だった。朱里の心の平穏を願い守るために、和真は家族の側を離れることを決意した。彼は家族を守るという己の使命を全うしようとしたのだ。愛する家族と離れなければいけないと断腸の思いで決断した時、和真の心は引き裂かれんばかりの痛みを訴えていたことだろう。 そんな和真の心境も知らず真由人は彼が家族を捨てたと思いこんでいた。彼を恥じて憎しみを募らせ心の中で軽蔑しながら生きてきた。そんな自分が急に醜く思えた。まるで人間の皮を被った腐り果てた泥人形のようだ。だが電話でも手紙でもなんでもよかった。本当のことを話してくれれば、真由人は和真のことを憎悪せず嫌いにならずに済んだだろうに。不意に朱里を映している視界が滲む。真由人の双眸は自らが発生させた涙の海で溺れていたのだ。 「どうして本当のことを言ってくれなかったんだよ!! 言えばいいじゃないか!! 言ってくれればいいじゃないか!! 言ってくれないと分からないじゃないか!! 俺に言わないから、隠していたから、あいつのことを恥じて、軽蔑して、憎んでしまったじゃないか!! 俺は馬鹿だよ!! 大馬鹿野郎だ!! 俺はいったいなんのために強くなろうとしたんだよ!!」 真由人は号泣しながら叫んだ。今までずっと自分に父親はいないと強く言い聞かせてきた。でも本当は苦しかった。寂しかった。哀しかった。空を見上げるたびに無意識のうちに和真の姿を捜して彼のことを思っていた。家族を捨てたあんたに国の空を守る資格はない。いつか空の上で和真に出会ったらそう言おうと心に強く決めていたはずなのに――今は違う言葉が言いたかった。真由人は朱里を守るために強さを求めた。だが本当は父親とは違うことを証明するために強さを求めたのかもしれない。家族を捨てて姿を消した和真は弱い人間だ。しかし自分は彼とは違う。弱い人間じゃない、家族に背中を向けて逃げ出した臆病者じゃない。それを証明するために真由人は強くなりたかったのだ。 「……ごめんなさい、真由人。私が貴方を縛りつけていた、貴方を苦しめていたのね。もっと早く貴方の苦しみに気づくべきだった。貴方から自由な人生と夢を選ぶ権利を奪ってしまったわ。強くならなくていい、私を守る必要なんかない。真実を話して貴方にそう言うべきだったんだわ。本当にごめんなさい――」 朱里の懺悔を否定するように真由人は首を振った。 「違う、違うよ、母さんは何も悪くない。ただ憎んでいるだけで、父さんのことを訊こうとも知ろうとしなかった俺が悪いんだ。母さん、俺、父さんに会いたい。父さんに会って、いろんなことを話したい」 「ええ、今度、一緒に会いに行きましょう。思いきり親子喧嘩をして仲直りしましょう。きっと貴方のことを立派なパイロットだって褒めてくれるわ」 真由人の心を凍てつかせていたものが涙と溶け合い流れていく。 そして真由人は一人のパイロットに教えられたことを思い出す。 空は――こんなにも綺麗で自由だということを。 群青の空が叡智の火の色に移り変わるにつれ、純白だった雲の集団は夕焼けの赤を孕んだ色に染まっていく。小鳥と流星は肩を並べてハンガーの外壁にもたれかかり、一言も言葉を交わすことなく赤く燃える空を仰いでいた。天空を染める赤はとても鮮やかで、見上げる者の網膜まで焼き尽くしてしまいそうだ。 新田原基地で繰り広げられた手に汗握る格闘戦は、接戦に接戦の末に流星の勝利で幕を下ろし、真由人と別れた小鳥と流星はC‐1輸送機で松島基地に戻った。真由人は答えを出すための時間がほしいと二人に頼み、小鳥と流星はそれを承諾した。真由人が望んだ時間がどのくらいの単位なのかは分からない。1日かそれとも1週間か。もしかしたら世界が終わる日に答えが出るのかもしれない。ドルフィンライダーかイーグルドライバー。白と青の翼と灰色の翼。果たして真由人はどちらの翼を選ぶのだろうか。 「……そろそろ部屋に戻ったらどうだ?」 小鳥がハンガーに来てから数時間が経っただろうか、ここで初めて流星が涼やかな低音の声を発した。隣にいる小鳥を邪険にしているのではない。彼女が疲れているのではないかと心配してくれているのだ。小鳥と流星の間にはまだ気まずい空気が残留していたが、今はそれを気にしている時ではなかった。小松基地で石神に解雇を宣告された流星は今も松島基地に留まっている。どうやら石神はまだ堂上空将補には話していないようだ。 「いえ、もう少しここにいます。……お気遣いありがとうございます」 「……好きにしろ」 僅か数十秒の短い会話は終わった。確かに小鳥の心身は疲弊しきっていたがそれは流星も同じだろう。食事も睡眠も充分に摂らないまま、アグレッサーのパイロットと熾烈な空中格闘戦を繰り広げたのだから。松島基地に戻った小鳥は飛行訓練の合間に時間を見つけては、真由人が帰って来ることを信じハンガーの前で彼を待ち続けた。帰還した真由人が真っ先にハンガーを訪れると思ったからだ。ハンガーに行くとそこには必ずと言っていいほど流星がいた。流星も小鳥と同じ考えにいきついたのだろう。 「……真由人は戻ってこないかもしれない」 「どういうことですか?」 「真由人はファイターパイロットになるのが夢だった。あいつの家は母子家庭で、真由人は母親を守るために、母親がいるこの国の空を守るために強くなりたいと言っていた。守るための力を求めた結果、ファイターパイロットという答えにいきついたんだ。形はどうであれ真由人は再びアグレッサーに戻った。だからブルーインパルスに戻って来るとは思えない」 小鳥は記憶を掘り起こす。彩芽が真由人にどうしてファイターパイロットを目指したのかと問うた時、彼は「守りたいからだ」と答えたと言っていた。真由人が力を望んでまで守りたかったのは、たった一人で自分を育ててくれた母親だったということか。真由人はきっと松島に帰ってくる――そんな小鳥の願いは急速にしぼんでいく。努力の末にやっと手に入れた夢をむざむざ手放す人間などいない。だから真由人は永遠にブルーインパルスには戻ってこないのだ。残酷な現実が小鳥の心に突き刺さった。 「――夕城」 不意に流星が小鳥を呼んだ。俯いていた小鳥は流星を見上げた。その端正な横顔には驚きの色がまざまざと滲んでおり、彼の視線は真紅に燃える空の一点を凝視している。天界から降臨してきた断罪の天使を目撃したのだろうか。流星の視線を追いかけた小鳥もその双眸を驚きで瞠目させた。こちらに向かって飛んでくる飛行物体が二人の視界にはっきりと映っていたからだ。それは断罪の天使ではなく一機の戦闘機――迷彩塗装のF‐15イーグルDJだった。機体を茜色に染めたイーグルは、オーバーヘッド・アプローチで外来機エプロンに着陸したので、小鳥と流星は外来機エプロンへ急いだ。二人が到着すると同時にイーグルのキャノピーが開き、後席に搭乗していたパイロットが地上に降り立ちヘルメットを脱ぐ。風でたなびく柘榴色の髪は、さながら静かに揺らめく炎のようだった。 「鷹瀬……さん?」 「真由人……?」 小鳥と流星が同時に名前を呼ぶと柘榴色の髪の青年パイロット――鷹瀬真由人はにこりと微笑んだ。微笑みを消し表情を引き締めた真由人が背後で佇むイーグルを仰ぎ見る。その視線の先にいるのは操縦席に座ったままのパイロットだ。ややあってパイロットがバイザーを上げて酸素マスクを外す。飛行教導群アグレッサーを率いる猛者、獅堂大輔2等空佐の顔がその奥から現れた。獅堂2佐がイーグルに真由人を乗せて松島まで飛んできたのか。 「獅堂隊長。隊長や部隊の皆にいろいろと迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」 真由人は獅堂2佐に向けて深く頭を下げた。果たして獅堂2佐は真由人の謝罪を受け入れるのだろうか。今まで固く引き結ばれていた獅堂2佐の唇が言葉を紡ぐために開かれる。 「……俺もアグレスの奴らも迷惑だとは思っていない。俺たちはお前がブルーインパルスに必要なパイロットだと判断しただけだ。頭を上げろ、鷹瀬。お前が謝る必要はない」 獅堂2佐は真由人から外した視線を小鳥と流星のほうに向けた。 「夕城3尉に燕1尉。ドルフィンライダーの任期の3年が終わったら、俺は今度こそ必ず鷹瀬をアグレッサーに連れていくからな。これだけは覚えておけよ」 キャノピーが完全に閉じて獅堂2佐を包み込む。双発のF100‐IHI‐220Eエンジンから放たれる爆音が空気を振動させた。鮮烈さを増した排気炎が迷彩塗装の機体を前方に押し出す。誘導路から滑走路へタキシング、800メートルほど滑走したところでイーグルの機首が浮き上がる。背後に広範囲の陽炎を生み出しながら、真紅に燃える天空の彼方に飛び去っていく鋼鉄の猛禽を、背筋を伸ばして敬礼した真由人は見送っていた。爆音は消え去りやがて深い静寂が訪れた。 「――お前は本当にそれでいいのかよ」 静寂を切り裂いたのは流星の喉から放たれた声だった。その表情も放たれた声もナイフのように鋭い。こちらを振り返った真由人を流星は強く睨みつけた。 「せっかくアグレッサーのファイターパイロットに戻れたっていうのに、どうしてブルーインパルスに戻ってきたんだよ! ファイターパイロットになるのがお前の夢だったんじゃねぇのかよ!」 流星の叫びは空に吸い込まれ緋色の雲の一部になった。 「……思い出したんだ」 「思い出した……?」 「空という世界は自由で、戦いの空だけがファイターパイロットの全てではないことを、俺に教えてくれた人がいたんだ」 それは今から2年前。早見昶の事故の責任を取る形で第306飛行隊を辞めた流星は、航空幕僚監部広報室広報班での短い勤務を得て第11飛行隊に異動するらしいと、306からアグレッサーに異動した真由人は人づてに聞いた。航空自衛隊松島基地・第4航空団所属第11飛行隊――通称ブルーインパルス。アクロバット飛行を専門とする飛行隊のことは知っていた。人見知りが激しく無愛想な流星が、協調性と社交性を重きとする部隊でやっていけるのかと心配したが、真由人にはどうすることもできない。自分にできることはイーグルに乗って日本の空を守ることだけなのだ。 2対2のACM訓練を終えて救命装備室で装具一式を外していると、自分に会いたい人間が来ていると整備班長から知らされた。どこにいるのか尋ねるとその人物はハンガーの前で待っているらしい。普通は飛行隊隊舎の応接室で待っていると思うのだが。どちらにせよ来客を待たせるのは失礼だ。真由人は急いで装備を脱ぎハンガーの外に出る。真由人に会いに来たと思しき人物は、エプロンに駐機されている迷彩塗装のイーグルを眺めていた。ダークブルーの識別帽と作業着姿の男性で年齢は40代に見える。右胸と左肩に縫いつけられているのは、青い球体と翼を重ね合わせたエンブレムとイルカのワッペンだ。彼は第11飛行隊ブルーインパルスのパイロットに違いない。真由人はすぐに男性の正体を見破った。 「どうも初めまして。私は松島基地第4航空団、第11飛行隊に所属する夕城荒鷹3等空佐だ」 「飛行教導隊所属、鷹瀬真由人1等空尉であります。失礼ですが……どのような用件で自分に会いに来られたのですか?」 「君を第11飛行隊にスカウトしにきたんだよ」 あまりにも突拍子すぎる発言に真由人は双眸を丸くした。 「自分を……ですか? 仰っている意味がよく分かりませんが――」 「これはすまない」 夕城荒鷹3等空佐は相好を崩すと言葉を継いだ。 「少し前に燕流星君と知り合ってね、何度か彼から君のことを聞いたんだ。君は腕の立つ素晴らしいファイターパイロットで、人見知りが激しい自分が唯一信頼している友人だと照れながら言っていたよ」 まさかあの流星が自分を褒めていたなんて――。真由人は俄かには信じられずにいた。次の瞬間夕城3佐は表情を引き締め真摯な眼差しで真由人を見つめていた。 「流星君の身に起こった事故は君も知っているだろう? 彼の心の傷はとても深い。私は傷を負った流星君を独りで飛ばせたくはないんだ。彼には支えが必要だと思っている。だから友人である君にブルーインパルスへ来てほしい。無理な頼みだということは分かっている。でも流星君には鷹瀬君の支えが必要なんだ。――このとおりだ」 ダークブルーの識別帽を脱いだ夕城3佐は深く頭を下げてきた。しばらく思案したのち真由人は静かな声で言葉を紡いだ。 「……申し訳ありませんが、自分にはファイターパイロットとしての責務と使命があります。ですから夕城3佐の頼みは聞けません。本当に申し訳ありません」 夕城3佐の言葉は強く心を打ったが、真由人は彼の願いを聞き入れることはできなかった。流星を思う気持ちは真由人にもあった。だが真由人には成すべきことがある、執念にも似た譲れない強い思いがある。それらを投げ捨ててまでブルーインパルスにいきたいという思いは湧かなかったのだ。重力の塊のような沈黙が流れていく。ややあってゆっくりと夕城3佐が頭を上げた。 「……いや、いいんだ、君が謝る必要はない。無理なことを言ってすまなかったね。最後に一つだけ話しても構わないかな?」 「どうぞ」 「力だけで誰かを守れると思ってはいけない。君はファイターパイロットの責務と使命に囚われすぎていて、空を飛ぶ本来の意味を忘れてしまっているように見えるんだ」 ダークブルーの識別帽を被り直した夕城3佐は柔らかく微笑むと一礼して真由人の前から立ち去った。彼方の景色に滲んでいく後ろ姿を望みながら真由人は思う。確かに真由人は母親である朱里を守りたい一心で航空学校に入り、ファイターパイロットを目指した。自らの意思で選んだその道が間違っていたとは思っていない。だが夕城3佐の言葉を反芻していると、その決断が間違っていたような気になってしまうのだった。 (――愛する者がいる国の空を守る。それのどこが間違っているんですか?) 既に見えなくなった夕城3佐の背中に向けて真由人は問うていた。 2013年4月。休暇を利用して新田原基地を離れた真由人は、宮城県航空自衛隊松島基地で開催されている航空祭に足を運んだ。今や世界に名を馳せるアクロバットチームの展示飛行が行われるだけあって、航空祭会場はとても混雑している。仲の良さそうな恋人同士。遠方からやって来たバッグパッカーの若者。バスツアーで訪れた観光客たち。第11飛行隊の帽子を被った子供と手を繋いでいる夫婦。客層は実に幅広い。飲み物を買いに赴いた松島基地の北門近くで、どことなく困った様子の女性が落ち着きなく周囲を見回していた。往来する人々は誰一人として彼女に救いの手を差し伸べようとしない。こんなに大勢の人間がいるのだから、自分の代わりに誰かが助けてあげるだろう――そんな群衆心理が働いているのだ。自衛隊員の使命は国民を守り助けること。真由人はさり気なく女性のほうへ歩み寄った。 「勘違いでしたらすみません。何かお困りのように見えますが――」 「え? ええ、その、一緒に来た娘が待つ場所がどこだったか分からなくなっちゃって……きっと今頃心配しているに違いないわ」 「よければ俺が案内しますよ。こういう場所には慣れていますから」 「じゃあ……お願いしてもいいかしら?」 どうやら女性は航空祭メイン会場のエプロンで娘と別れたらしい。女性の隣を歩きながら真由人は彼女の話に耳を傾ける。彼女の愛娘はフライトコースC・チャーリーの航空学生で、父親と同じ部隊のパイロットになるために、航空自衛隊芦屋基地で日々勉学と訓練に励んでいるらしい。自分も応援しますよと言うと女性はとても嬉しそうに微笑んだ。しばらくするとTRパイロットのナレーションと航空中央音楽隊が奏でる音楽がスピーカーから流れ始める。ナレーターが話すパイロットたちの説明に流星の名前は挙げられなかった。入隊したばかりだからまだTRパイロットなのだろう。だが新田原基地に真由人を訪ねて来た夕城荒鷹3等空佐の名前は確認できた。 ランウェイ・イズ・クリア、クリアード・フォー・テイクオフ。青と白に塗装されたT‐4は爽やかな春風を纏い、滑走路を駆け抜けて淡い春の青天へ飛翔していく。真由人が歩く場所からは見えないが、T‐4に乗るドルフィンライダーの誰もがコクピットの中でその顔を輝かせているような気がした。ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティ・ターン。フォー・ポイント・ロール。サンライズ。息の合った連携機動で六機のT‐4は様々な曲技飛行を披露していく。真由人と女性は足を止めて曲技飛行に目を奪われていた。そのなかでも天空のキャンバスに描かれた「サクラ」は思わず目を見張るほど美しく、パイロットたちが織り成す空の芸術を見た真由人は己の魂が震えるのを確かに感じた。展示飛行を楽しみながら二人はエプロンに辿り着く。女性は背伸びをして人混みに視線を走らせていたが、どうやら離れ離れになっていた愛娘の姿を見つけたようで、真由人のほうを振り向いた彼女は安堵の笑みを満面に浮かべていた。一礼した女性は人混みを掻き分けながら走って行き真由人の前から姿を消した。 展示飛行がよく望めそうな場所に移動した真由人は再びT‐4が翔ける松島の空を仰ぐ。教官が操縦する初等練習機T‐7に乗って初めて空を飛んだ時、キャノピー越しに見た青空は輝かしい自由に満ち溢れていた。航空学生だった頃は純粋な気持ちで空を飛んでいたはず。だがウイングマークを得てファイターパイロットに近づくにつれ、真由人は「守るための力」を得ることだけを考えて飛ぶようになっていた。日本の空と国民を守る。それが航空自衛隊のファイターパイロットに与えられた使命だからだ。いつの間にかその使命は身体の一部となり、精神の奥深くまで根を伸ばし真由人を縛りつけていた。ファイターパイロットの頂点を目指せば目指すほど、その鎖は更に真由人の肉体と精神を締めつけ心に残っていた大切な何かを削っていった。 その大切な何かこそが――夕城3佐が言っていた空を飛ぶ本来の意味だったのではないだろうか? 瞬間真由人は夕城3佐の言葉の意味を理解した。 ――あの白と青の翼を操り自由に大空を翔けたい。 大切なものを思い出した真由人は魂の底からそう思っていた。 航空祭が終わるとすぐに真由人はハンガーのほうへ向かった。T‐4の飛行後点検作業をしていた女性整備員に声をかけ、自分が新田原に勤める自衛官だということを名乗り、夕城荒鷹3等空佐に会わせてほしいと伝える。なぜか顔を真っ赤に染めた女性整備員について行き、第11飛行隊隊舎の玄関前で夕城3佐が出て来るのを待つ。しばらくするとダークブルーの展示服を着た夕城3佐が正面の階段を下りてきた。恐らくデブリーフィングの途中だったのだろう。真由人の姿を認めた夕城3佐は日に焼けた顔を綻ばせた。 「久し振りだね、鷹瀬君。もしかして航空祭を観に来てくれたのかい?」 「はい。とても素晴らしい飛行でした」 「そう言ってもらえると嬉しいよ。今までの努力が報われる」 深呼吸を一回。心に芽生えた決意を言葉に変えるために真由人は口を開く。 「夕城3佐。俺を――ブルーインパルスで飛ばせてください」 夕城3佐は双眸を大きく見開いた。真由人が紡いだ決意の言葉を耳にして驚いているのだ。もしかしたらエイプリルフールの悪戯だと思っているのかもしれない。彼に信じてもらうにはもっと強い言葉が必要だ。そう思った真由人は息を吸い込み言葉を継ぎ足した。 「俺はファイターパイロットになって強くなることだけを――ただそれだけを考えて空を飛んでいました。でもブルーインパルスの展示飛行を見て、夕城3佐が仰っていた言葉の意味に気づいたんです。自由を求めて空を愛する。それが夕城3佐が言いたかったことですよね?」 精悍な荒鷹の顔の表面に浮かんだ表情を見た真由人は、己が導き出した結論が正しいことを確信した。 「君の申し出はとても嬉しく思う。だがブルーインパルスのパイロット――ドルフィンライダーになるということは、これから3年間君はイーグルを降りることになる。鷹瀬君はそれでいいのかい?」 「例えイーグルに乗っていなくても、俺はファイターパイロットとしての誇りは失くしません。日本の空と国民を守る。それがファイターパイロットの存在意義です。今守れるものがあるのなら、俺はそのために全力を尽くしたい。それに――大切な友達を独りで飛ばすわけにはいきませんから」 莞爾と笑い真由人は宣言する。 心の中を熱く爽やかな風が吹き抜けたように感じた。 記憶のフィルムを巻き戻し、2年前の情景を言葉に変えて伝えた真由人は、最後に大きく息を吐き長い追憶の物語を終えた。凪いだ海のような静寂を孕んだ沈黙が赤い雲と共に流れていく。耳を澄ませば空気の妖精の無邪気な笑い声が聞こえてきそうだ。 「――馬鹿野郎」 掠れた声が沈黙を裂いて辺りに響く。それはあたかも硬いブラシで喉の奥を削り取られたような声だ。その声の主は流星だった。流星を見た小鳥と真由人は驚きに頬を打たれて瞠目する。流星は涼やかな切れ長の双眸から透明な液体を流していた。――流星は泣いていたのだ。予想だにしていなかった流星の反応を目にした小鳥と真由人はただ呆然としていた。 「自分勝手で傲慢なオレを支えるために、やっと手にした夢を手放すなんて、お前は馬鹿だ、大馬鹿野郎だ。オレはお前から夢を奪っちまった、最低のクソ野郎だよ……」 流星の声は次第に小さくなっていき、その声はやがて掠れた嗚咽に変わった。涙を抑えようと流星が空を仰ぐ。夕焼けの光を閉じ込めた涙滴が次々と地面に落ちていく。真由人は流星を泣かせてしまったことを後悔しているようだった。相手を泣かせる行為は諸刃の剣のようなもの。自分も相手も傷つけてしまうのだ。真由人は流星との距離を詰めると彼の両肩に手を置き、静謐な眼差しで見つめた。 「これは俺が自分で選んだ道だ、お前のせいじゃない。だからそんなに自分を責めないでくれ。……流星、俺はお前と一緒に飛びたいと思ったからブルーインパルスに戻ってきたんだよ。お前と一緒なら――どこまでも自由に飛んでいけそうな気がするんだ」 端正な顔を歪ませた流星は真由人に抱きつくと、とめどなく溢れ続ける涙で彼の肩を濡らした。涙と流星を抱き留めた真由人は、嗚咽で震える背中を優しく叩きながら、彼を苦しめている悲しみが早く去るようにと願う。だがそれでも流星は泣き止まない。嘆息を一回、優しい苦笑を浮かべた真由人は魔法の言葉を彼の耳元で静かに紡いだ。 「……いつまでも泣いていると、荒鷹さんに笑われるぞ」 腕に抱く流星が小さく頷く。背中に回されていた真由人の腕を解いた流星が顔を上げる。切れ長の双眸はまだ潤んではいたが、もう二度とその目から涙滴が零れ落ちることはなかった。空の上の神様が友人を想う真由人の願いを叶えてくれたのだ。鼻を啜り涙を追い払った流星が右手を差し出した。真由人は躊躇うことなく差し出された右手を取る。その握力の強さに真由人は思わず顔を歪めたが負けじと更に強い力で握り返した。二人の男の顔に自然と笑みが浮かぶ。小鳥も泣き笑いながら固く握り合う二人の手の上に小さくて華奢な両手を重ねた。三人のドルフィンライダーを包み込む天空の夕焼けは、いつまでも暮れないでほしいと願いたくなるほど美しい色だった。 ◆◇ 太陽は西の地平線の彼方へ姿を消し世界は宵闇の海に沈んだ。小鳥たちブルーインパルスのメンバーは、馴染みの居酒屋「あおい」で真由人の第11飛行隊復帰を心から祝福した。流星と真由人はあの時の諍いなど最初からなかったかのように明るく振る舞い、酒を酌み交わしながら第306飛行隊時代の思い出話に花を咲かせていた。二人に呼び寄せられた小鳥も会話に参加して、真由人が語る流星の意外なエピソードに驚き頬を緩ませたのだった。 飲み足りないので別の居酒屋に行くという石神たちと別れた小鳥は独り松島基地への帰路を歩いていた。誰かに名前を呼ばれた気がした小鳥は歩みを止めて振り返る。歩みを止めた小鳥はしばらく立っていたが、彼女の名前を呼んだと思しき人間は現れない。スマートフォンに熱中する若者や赤ら顔のサラリーマンが千鳥足で通り過ぎて行くだけだ。目に捉えることのできない妖精の悪戯だったのかもしれない。小鳥が前を向いて再び歩き出そうとしたその時だった。 「夕城!」 涼やかで凜とした低音の声が空気を走り小鳥の耳朶を貫いた。小鳥は身を翻して振り向いた。一人の青年が人混みを掻き分けながら小鳥のほうへ走って来る。黒革のライダースジャケットとブラックのダメージジーンズを穿いた青年――燕流星は小鳥の正面でショートブーツを履いた足を止めた。長身を折り前屈みになった流星は乱れた呼吸を整えている。ややあって呼吸を整えた流星が顔を上げた。 「燕さん? 皆さんと二次会に行ったんじゃなかったんですか?」 「お前を基地まで送ろうと思って……追いかけて来たんだ」 「えっ? あぁ〜分かりましたよ! また私を馬鹿にしているんですね? 『歩道で転んで自転車に轢かれる』とか、『足を滑らせて田んぼに落ちる』とかって言うつもりなんでしょう? 別に気を遣ってくれなくてもいいですよ。こう見えても私は自衛官ですから一人で大丈夫です。燕さんは皆さんと楽しんできてください」 一礼した小鳥は再び帰路を歩こうとしたのだが、流星にいきなり腕を掴まれたので危うく転びそうになった。突然のことに驚いた小鳥は後ろを振り向き流星を見上げる。小鳥が仰ぎ見た流星は今まで見たことのない切ない表情を端正な顔に刻んでいた。 「……オレは本気で松島基地まで送っていくって言っているんだ。お前は、その、女性なんだから、たった一人で夜道を歩くなんて危なすぎるんだよ。それに、お前にまた何かあったら、オレは――」 「燕さん……」 小鳥の腕を掴んでいた流星の手は下方へ滑ると彼女の手を包み込むように握り締めた。熱を帯びた蜂蜜色と灰色の視線が一つに重なり合う。蒼い色を孕んだ月明かりが未来へと進む時間から切り離されたように静止している二人の姿態を染め上げる。交わす言葉はいらなかった。心の深い部分がお互いの想いを感じ取っていたからだ。手と手が繋がり指が絡み合ったその瞬間、どうしようもなく甘く切ない感情が小鳥の胸を静かに叩いた。強く締めつけられた胸の奥が熱く激しく燃える。キャンディのように甘酸っぱく、サイダーのように泡を立てて弾けるそれは、小鳥が生まれて初めて経験する感情だった。突然と心に湧きあがった未知なる感情をどうすればいいのか小鳥は戸惑った。そして流星も自分と同じ感情を心に感じているのではないかと小鳥は思う。長い睫毛が影を落とす流星の端正な顔に、虹の色を掻き回したような複雑な感情の色を見たからだ。固く結ばれていた手は温もりと共にゆっくりと離れていく。流星の側から離れて気持ちを落ち着けたい――。周囲を見回した小鳥の視界に、道の片隅でひっそりと佇んでいる自動販売機が映った。 「あっ……あの……何か飲みますか? 走って来たから喉が渇いたでしょう?」 「……そうだな。コーラを頼む」 「コーラですね? すぐに買ってきます」 流星から小銭を受け取った小鳥は逃げるように赤い塗装の自動販売機に近づいた。体内で心音が鳴り響き心の奥底から様々な感情が湧き上がってくる。それはまるで藍色の海で暴れ回る荒波のようだ。月明かりの下で小鳥を待っている流星の姿を横目で窺うと、彼女の中で渦巻く感情の波は更に激しくなった。その感情の荒波に身を任せてしまいたい。今すぐにでも流星のところに走り寄って彼の身体に抱きついて腕を回し、引き締まった胸に顔を埋めて身も心も委ね、己の全てを捧げたいと小鳥は強く思う。それから小鳥は過激とも言える自分の思考に気づくと可憐な顔を恥じらいの赤に染め、それを追い払うように何度も首を振ったのだった。 そして小鳥と同じく流星も突如として己の内側で芽生えた感情に気づき戸惑っていた。だが小鳥よりも遥かに成熟した大人である流星は、胸を締めつける甘く切ない感情の正体を瞬時に理解していた。今まで何人かの女性と交際をしてきたが、こんな気持ちを心に感じたのは初めてだったような気がする。 出会った当初は決して相容れない存在だと思っていた。だがいつの間にか小鳥が側にいることが当たり前になっていた。流星と視線が重なると小鳥は恥ずかしそうに微笑んだ。透明で純粋で綺麗な双眸で見つめられると、気持ちが落ち着かなくなるようになった。やがて流星の心に変化が現れる。小鳥を疎ましく思うことが少なくなり、彼女の存在を肌で感じるたびに心が安らぐような感覚を覚えるようになっていたのだ。流星の心を大きく変えてしまうほど、彼の中で小鳥の存在は大きくなっていたのである。 今ここで胸の奥で燃える甘く切ない感情を小鳥に伝えることもできただろう。路地裏には派手なネオンに彩られた看板を掲げたホテルもある。その気になれば強引に想いを遂げることも可能だ。だがそうすれば小鳥の純粋な心は深く傷つく。それに彼女はまだ理解できずに戸惑っているに違いない。だから時期がくるまで、この想いは胸の内に秘めておくべきだと流星は判断したのだった。 (――荒鷹さん、貴方が言っていたとおりになりそうですよ) 小鳥の背中を視界に捉えた流星は苦笑した。小鳥は自販機の前で深く思い悩んでいる。たかがコーラの一本でそんなに悩まなくてもいいと思うのだが。いずれにせよしばらく待たされる羽目になりそうだ。ライダースジャケットの胸ポケットから煙草の箱を取り出し、その中の一本を口に銜えライターの火で先端を炙る。夜空を仰いだ流星は目を閉じ、口腔に閉じ込めている紫煙を吐き出した。数秒後、閉じていた両目をゆっくりと開放した流星は、漂う紫煙の向こう側に恐ろしい影を見てしまう。驚愕で開かれた流星の口から墜落した煙草は地面に落ち、赤い瞬きを残し暗闇に飲まれていった。 小鳥の指に撃墜されたアップルジュースとコーラの缶が自販機の取り出し口に落ちてくる。地に墜とした戦利品を手中に収めようと身を屈めた時、不意に冷たいものが背筋を駆け抜けて小鳥は身を震わせた。得体の知れない不気味な感覚が走り抜けた直後――すぐ背後に誰かがいることに気がついた。小鳥は肩越しに振り向いて背後を見やる。数十メートル向こうの歩道に一人の女性が立っていた。38万キロメートルの彼方に浮かぶ白銀の天体から降り注ぐ光が彼女の全身を照らし出す。女性は顔を上げると真っ直ぐに小鳥だけを見つめてきた。暗い狂気に囚われた虚ろな双眸は生きる権利を放棄した証。虚ろな目と視線が合った瞬間小鳥は戦慄する。なぜならば小鳥は彼女を知っていたし、彼女も小鳥を知っていたからだ。 「貴女は……早見弥生さん?」 小鳥の呼びかけに反応した女性がゆっくりとした速度で一歩を踏み出す。小鳥が口にした名前は正しかったのだ。早見弥生の姿は変わり果てていた。頬の肉はナイフで削がれたようにごっそりと落ち、落ち窪んだ両目の下を縁取るのは青黒い色に染まった隈だ。乱れた栗色の髪と青白い顔を晒して微動だにしないその姿は、さながら目を真っ赤に泣き腫らしながら死を予言するという不吉な妖精バンシーのようだった。だがどうして早見弥生が東松島の地にいるのか。小鳥が弥生の右手に視線を移した瞬間彼女の思考は凍りつく。弥生の右手に銀色に光り輝く包丁が握られていたのだ。包丁を握り締めた弥生は声を発することもなく、小鳥だけに狙いを定めて近づいて来た。小鳥の背後には赤い自販機がある。つまり小鳥は完全に退路を断たれてしまったのだ。 「私をどうするつもりですか? 今ならまだ間に合います。馬鹿なことは考えないで――」 弥生の唇が左右に吊り上がり三日月の形を模倣した。僅かに開いた唇の隙間から放たれた甲高い哄笑が、小鳥の説得の言葉を掻き消す。指揮棒のように振り上げられた包丁が弧を描く。銀色の鋭い先端は小鳥に向けて突きつけられた。その動作はまるで小鳥に対する挑戦のようだ。 「……貴女をどうするつもりかですって? もちろんズタスタに切り刻んであげるのよ!! 私から昶を奪ったように、私もあの男から大切な仲間を奪ってやるわ!!」 絶叫した弥生は両手で包丁を握り締めると一直線に突進して来た。逃げ場を失った小鳥は両目を固く瞑目する。すぐに訪れるであろう灼熱の痛みを覚悟したその瞬間――小鳥は真横に突き飛ばされてアスファルトの上に倒れこんだ。灼熱の痛みと皮膚を裂かれ肉を抉り取られる感触はない。不思議に思った小鳥は恐る恐る両目を開け、眼前に広がっている信じ難い光景に瞠目したのだった。 「燕……さん……?」 先程まで小鳥がいた場所に流星が立っていた。流星の表情は苦悶で歪みその脇腹には包丁が柄の部分まで深く潜り込んでいる。流星は小鳥を真横に突き飛ばし、彼女が食らうはずだった復讐の凶刃を己の身体を盾にして受けとめたのだ。流星の脇腹に突き刺さっている冷たい刃に力が注ぎ込まれ、それは彼の身体の奥深くへと更に強く捻じ込まれた。 「弥生……さん……」 肉体を噛む激痛が流星の意識を奪っていく。だが意識を失う前に言いたいことがある。流星は手を伸ばし包丁の柄を強く握り締めている弥生の手に触れた。流星の胸に頬を寄せていた弥生が顔を上げる。彼女は驚きと戸惑いに満ちた双眸で流星を真っ直ぐに見上げてきた。 「……貴女がオレを憎んでいるのは分かっています。でも、オレは、昶は復讐を望んでいないと思うんです。オレを殺しても昶は生き返らない。それは貴女がいちばんよく分かっているはずです。それでも貴女がオレを殺したいと強く望むのなら、オレは喜んでこの命を捧げます。だからこれで終わりにしてください、自分自身を復讐から解放してあげてください。これ以上、大切な家族が傷つく姿を昶は見たくないんです。昶を守れなくて――すみませんでした」 強く握り締めていた包丁の柄から両手を放した弥生はおぼつかない足取りで後ずさった。流星の言葉に心を衝かれた弥生が悲痛な声を奏で、頭を抱えてアスファルトの上に蹲る。暗い復讐の念に囚われていた弥生の心が解き放たれたのだ。体内に潜り込んだままの包丁が流星の身体を支えている両足から力を奪っていく。最後の力を振り絞り流星は柄を掴んで包丁を引き抜いた。途端に大量の血が溢れ出す。両足の支えを失った流星はよろめき、黒いアスファルトに抱かれるように仰向けに倒れた。 「燕さん! しっかりしてください! 燕さん!」 流星の傍らに膝を突いた小鳥は彼を抱き起こすと必死に名前を呼んだ。縦に深く裂けた傷口から大量の血が流れ続けている。小鳥は右手をシャツの中に滑り込ませ脇腹の傷口を強く押さえた。だがそれでも血は止まらない。ややあって閉じかけていた流星の瞼が開く。小鳥の姿を捜す灰色の瞳の動きは緩慢だった。流星の意識が今にも暗闇に散ろうとしているのだ。 「どうして……どうして……私を庇ったんですか!?」 「……オレは、もう、仲間が墜ちていくのを、目の前で死んでいくのを見たくなかった。だから、今度こそ、大切な仲間を守りたかったんだ――」 瀕死の流星の脳裡にあの時の光景が鮮明に蘇る。雨に濡れた滑走路に着陸しようとした6番機が水飛沫を撒き散らしながら滑走し、緊急拘束装置を突き破ってオーバーランしていく恐ろしい光景を、5番機に乗った流星は上空から見ていたのだ。砕け散ったキャノピーに覆われたコクピットの中にいる小鳥の顔や四肢は血の気を失い蒼白に染まっていた。駆けつけた救急隊にストレッチャーに載せられた小鳥が運ばれていく際も、彼女の皮膚はいつものように健康的な薔薇色には戻らなかった。事故に気づき真っ先に駆けつけた真由人が、割れたキャノピーで傷つきながらも小鳥を助け出そうと奮闘している時、流星は呆然と立ち尽くしたままその様子を眺めていた。誰よりも早く小鳥を救出する。それがバディである己の役目だということは充分に理解していた。だが流星の両足はまるで強力な接着剤で固定されたように、地面に張りついたまま1ミリも動かなかったのだ。 弥生の存在に気づき、包丁を手にした彼女が小鳥に襲いかかろうとした時、頭で考えるよりも先に流星は地面を蹴り飛ばし、間に合ってくれと心の中で強く叫びながら駆け出していた。 2年前にできなかったことをしたかった。 絶望の淵にいた自分を救ってくれた荒鷹に恩を返したかった。 そして――何よりも大切で愛しい存在である小鳥を守りたかった。 その結果弥生の凶刃に肉体を貫かれてしまったが、やっと大切な者を守ることができたのだ。だからここで死んでしまったとしても流星に悔いはなかった。 脇腹が焼けるように熱い。小鳥の手が押さえている傷口からは真紅の液体が流れ出しているだろう。浅く速かった呼吸の速度が一息ごとに深く遅くなり始めた。周囲の喧騒が遠ざかる。望んでもいないのに両方の瞼が脳髄から送られる電気信号を無視して勝手に閉じていく。自分の意思では制御できない。これは意識を失う前兆だ。肉体の檻から魂が抜け出そうとしているのだ。小鳥は流星の身に起きた恐ろしい変化に気づいた。 「燕さん! 眠っちゃ駄目です! すぐに救急車が来ますから! それまで頑張ってください!」 永遠に目覚めなくなる前に小鳥に触れたい――。薄れゆく意識のなか流星は自らの血で濡れた手を伸ばした。小鳥の両手が血に染まった手を握りそのまま胸に抱き締める。小鳥の柔らかな胸の感触が流星の手に伝わったが、心地良いその感触はすぐに薄れていった。小鳥が胸に抱き締める流星の手は神聖な墓地で眠る死者のように冷たい。黒い衣を纏った死神が流星を黄泉の国へ連れて行こうと引き摺っているのだ。そんなことはさせない――! 小鳥は握り締める手に力を込めた。 「頑張って! 頑張ってください! 私たちを――私を置いていかないで!」 流星の手を胸に抱き小鳥は懸命に呼びかけ続けた。生命の光を失いかけた切れ長の双眸が小鳥を捉える。流星の口元に儚い微笑みが浮かんだ。 「……お前を置いていくわけないだろう。お前がいないと……オレは空を飛べないんだよ」 瞬間涼やかな声がぷつりと途絶える。小鳥が見ている前で流星は青白い瞼を閉ざした。その言葉を最後に唇の動きはぴたりと止まる。それと同時に小鳥が胸に抱き締めていた流星の手も力を失い、彼女の指の間をすり抜けるとアスファルトの上に落ちた。黄金で作られた王子の像の願いを最期の時まで叶え続けた鳥のように、流星は喋ることも動くこともやめたのだった。 「燕さん……!? 目を開けて!! 目を開けてください!! 燕さん!! いやっ……いやああああぁっ!!」 小鳥が何度も身体を揺さぶり悲痛な声で名前を連呼しても、流星は目を覚まそうとする意思を見せなかった。傷ついた肉体から解放された流星の意識は夜の闇に散っていき、二度と地上には戻ってこなかった。 |