第4話 嵐の予感


 青く澄んで絹のように光る夏の空に、真っ白な入道雲が沸き立っている。澄み渡る群青の空と真っ白な入道雲は、まさに真夏の景観そのものだ。夏の匂いが瑞々しい日差しに肌を焼きながら、一人の若い女性が真っ直ぐに伸びる石段を上っていた。リボンがなびく麦わら帽子を頭に被り、マリンルックのセーラーカラーのオールインワンという服装だ。涼しげなライトブルーに染まったショートパンツの裾からは、少年のようにすっきりとした形の両脚が伸びている。
 彼女の名前は夕城小鳥3等空尉。航空自衛隊松島基地・第4航空団第11飛行隊ブルーインパルスに所属するパイロット、6番機のドルフィンライダーである。小鳥は夏の休暇を利用して、父親の荒鷹が眠る霊園を訪れていた。生まれ故郷の宮城県東松島の大地に、荒鷹の御霊は静かに眠っているのだ。
 水がいっぱいに張られた、木桶と花束を両手に携えて、小鳥は果てしなく続く石段を上り続ける。雲間を割って落ちてくる、太陽の日差しに攻撃されながら、一滴の水を零さずに運ぶのはかなりの重労働だ。おまけにサンダルを履いた足を乗せる石段は、オーブントースターのように熱い。だがこちらとて伊達にトレーニングは続けていない。現役の空自パイロットを侮るな。毎日の鍛錬で鍛えた肉体と闘志を奮い立たせた小鳥は、長い石段を制覇して天頂の霊園に辿り着いた。
 吹き抜ける涼風が火照った小鳥の身体を冷ます。眼下を見やれば東松島市内が一望できた。蒼茫たる大空に見守られたこの霊園は、最期の時まで空自パイロットとして生きた荒鷹に、相応しい場所だと言えよう。小鳥は石畳を歩いて荒鷹の墓石が置かれている場所に向かった。木桶に張られた水を柄杓で掬い、墓石に降りかける。次に小鳥は墓石を綺麗に磨きあげて、売店で買ってきた真新しい花と、火を点けた線香を墓前に供えた。
 佐緒里は相変わらず元気にしていること。多忙ではあるが第11飛行隊で過ごす充実した毎日のこと。石神たちブルーインパルスの隊員のこと。両手を重ね合わせて合掌した小鳥は、瞑目して自分の近況を報告する。そして最後に荒鷹のぶんまで空を飛ぶと約束した小鳥は、折り畳んでいた両足を伸ばして立ち上がる。空になった木桶を提げて、霊園の入口に向かおうとした小鳥は、石畳を叩きながらこちらに近づいてくる靴音に気づき歩みを止めた。
 こちらを目指して歩いてくるのは、黒色のスーツを着た男性だ。俯き加減で歩いているので、まだ小鳥の存在に気づいていない。だが小鳥は男性が何者であるか既に気づいていた。ややあって男性が伏せていた顔を上げる。二人の視線が絡み合う。瞬間驚愕の表情が彼の顔面にくっきりと刻まれた。
 小鳥の前に現れたのは日下部一成2等空佐。あの事故が起きるまで、ブルーインパルスの飛行隊長と1番機パイロットを務めていた人物である。白髪に侵食された黒髪。肉が削げ落ちた頬。その双眸に宿るのは弱く儚い光だ。事故から一年が経った今でも、重い十字架を背負い続けているのだろう。そして小鳥の脳裡に暗い過去の一端が色鮮やかに蘇った。


 2014年8月。日曜日に開催された松島基地航空祭で悲劇の事故は起きた。
 午後13時過ぎに離陸した六機のT‐4は、第1区分8課目目の曲技飛行「サンライズ」の実施に失敗してしまい、ブレイクに遅れた6番機が、基地の北側約500メートルの地点に墜落した。爆発炎上した機体は無数の破片となって広範囲に飛散、6番機を操縦していた夕城荒鷹3等空佐は即死した。死者は出なかったが、地上での重軽傷者は十三名にのぼり、全焼家屋一戸を含む住宅や工場など、二十九棟が被害を受け、臨時駐車場に駐車してあった、数百台の車が損害を被った。
 ブルーインパルスの衝撃的な惨事は、七万人の大観衆と居並ぶ報道カメラのファインダーのなかで、一部始終を目撃・記録された。その異常性もあってか、テレビ各局は我先にと速報テロップを流して、6番機の墜落映像は日曜夜のトップニュースとして、幾度も繰り返して全国各地に放送された。航空幕僚監部がスクランブル機を除く、全機の飛行停止を決めたのは、1971年7月31日に発生した、「全日空機雫石衝突事故」以来だった。
 荒鷹の無残な遺体は、事故の衝撃の凄まじさを物語っていた。機体の破片と共に現場に飛散した、遺体のもっとも大きな部位は上半身の前面で、ブルーインパルス専用のパイロットスーツと、その上に着る救命胴衣によって、ようやくそれと分かる状態だった。生前の故人を思わせる形状を保っていたのは、唯一ヘルメットの中に残っていた頭頂部だけで、髪型もよく分かるほど、綺麗に切断されていたらしい。
 事故から数日後、荒鷹の遺体は病院に移送された。航空自衛隊の制服姿の遺体と対面した小鳥は、それが自分の大好きな父親の亡骸だとは、すぐに信じることができなかった。確かに残っていた身体の部位は頭部と左腕くらいで、残るはどんな形を保っていたのかも分からない、肉片や骨片ばかりだった。つまり柩の中の亡骸は、衛生隊が作成した人形に遺体の各部を嵌め込み、残りを制服と包帯で覆い隠したものだったのだ。
 小鳥が日下部一成2等空佐と最後に会ったのは、荒鷹の葬式の場だった。親類縁者、友人、航空自衛隊の隊員など、あまりにも早すぎる荒鷹の死を悼む人々が、遺影の前で焼香して喪主の佐緒里と娘の小鳥に一礼してから席に戻っていく。荒鷹の魂を天に送る神聖な儀式が厳かに進行するなか、喪服を纏った日下部一成は現れた。焼香を終えた日下部は席に戻らず、その場に直立したまま荒鷹の遺影を凝視していた。そして日下部は床の上に膝を落とすと背中を丸めて蹲り、遺影に謝りながら激しく慟哭した。
 日下部の悲痛な嗚咽は、参列者たちの心を深く抉り、悲しみを植えつける。参列者の多くは、日下部の悲しみを理解して同情していた。だがごく一部の人間たちは違った。拳を握り締め、両目を限界まで見開いた彼らの表情は、まさに地獄の悪魔そのもの。彼らは開口すると呪われた言葉を喉から放つ。人殺し! 死んで償え! 次々と迸る怨嗟の声が式場を飛び交う。迸る呪われた言葉は、小鳥の心を深く抉って突き刺さり、遂には彼女の怒りを爆発させたのだった。
「もうやめてください!! どうして酷いことを言うんですか!? 日下部2佐は、ただ父のために泣いてくれただけじゃないですか!! それのどこがいけないんですか!? 私の大好きな父さんの前で、汚ない言葉を言うのは絶対に許さない!! 貴方たちは私と父さんと母さんを侮辱したのよ!!」
 小鳥の口から放たれた怒りの声が式場に伝播する。日下部に罵りの言葉を吐いていた彼らは、一斉に口を閉ざすと、自分たちを叱咤した小鳥に驚きで満ちた眼差しを向けた。場を弁えない愚かな人間たちを断罪した小鳥は、凜とした毅然な表情で瞠目する彼らを見回した。席から立ち上がった小鳥は、遺影の前で蹲っている日下部に近づき、未だに痙攣を続けている黒い肩に触れる。真っ赤に充血した双眸が、驚きの光を波のように揺らめかせながら小鳥を見上げてきた。
「……父さんは貴方を恨んではいません。一緒に空を飛べて嬉しかった、そう言っているのが分かるんです」
 小鳥は静かな気持ちで言葉を紡ぐ。すると日下部の瞳の中で揺れる驚きの光は強くなった。そこに佐緒里がゆっくりとした足取りでやってきた。佐緒里は床に膝をつくと、固く握り締められた日下部の拳を両手で包みこみ、青天の日の凪いだ海のように、穏やかな感情を湛えた眼差しで彼を見つめた。
「小鳥の言うとおり、主人は貴方を恨んではいないわ。もちろん私もです。馬鹿な真似はしないと約束してください、死を選ばないでください。荒鷹さんのぶんまで生きてください」
 唇をきつく噛み締めた日下部は双眸から涙を流した。深く一礼して式場から立ち去った彼は、小鳥と佐緒里の前から永遠に姿を消したのだった。それからしばらくして小鳥は、日下部が航空自衛隊を辞めたと佐緒里から聞く。それを知った小鳥の心は深く傷つき彼女は悲しんだ。亡き荒鷹のぶんまで空を飛んでほしいと思っていたからだ。
 日下部は翼を捨てて空から逃げた。
 荒鷹の遺志とブルーインパルスの青い絆から逃げた。
 小鳥と佐緒里の思いを踏みにじった。
 いつの間にか小鳥はそう思うようになっていた。


「貴女は夕城小鳥さん……ですよね?」
 現実から届いた声が、暗い追憶に沈んでいた小鳥の意識を呼び戻した。スーツのジャケットを腕に巻きつけた日下部一成が、小鳥をじっと見つめている。彼が両手に持っているのは、水が張られた木桶と控え目な色の花で織られた花束だ。彼が真夏の霊園に赴いた理由はたった一つしかない。小鳥と同じく日下部も、荒鷹の墓前で祈りを捧げるためにやってきたのだ。
「今はブルーインパルスで飛んでいると聞きました。きっと荒鷹さんも喜んでいるかと思います」
 罪に染まった邪悪な舌で父親の名前を口にするな――! 仄暗い憎悪の塊が小鳥の内側で大きく膨らんでいく。小鳥は憎悪を剥き出しにした顔で日下部を見据えた。だが日下部はこの場から逃げることもなく、小鳥から放たれる憎悪の眼光を、真正面から受け留めたのである。
「……荒鷹さんのご冥福を祈らせてもらえますか?」
 日下部が一歩前に踏み出した。彼の言葉を耳に受け留めたその瞬間、小鳥の内側で大きく膨張していた憎悪の塊は粉微塵に爆発する。爆発四散した塊の破片は鋭い言葉となり、小鳥の口から稲妻の如き勢いで飛び出した。
「ふざけないで!! 父さんを殺した貴方に、冥福を祈る資格なんてないわ!! 貴方は父さんの遺志から逃げた!! ブルーインパルスの絆と空から逃げた!! 私は貴方を許さない!! 帰って!! 帰ってよ!! 二度とここにはこないで!!」
 血を吐くような思いで小鳥は叫んだ。小鳥の悲痛な叫びを耳に受け留めた日下部は、両眼を見開いて唇を引き結び、青褪めた顔で一礼すると石畳を踏み締めながら来た道を引き返していった。しばらくすると爽やかな真夏の青空は、鉛色の雲に覆われ始めた。やがて雲の隙間から大粒の雨が落ちてくる。その雨は、あたかも蝉の抜け殻のように立ち尽くす、小鳥を嘲笑っているかのようだった。
 霊園を後にした小鳥は、ぼんやりとした思考のまま、重い足取りで狭い歩道を歩いていた。傘もレインコートも持っていないので、小鳥の全身は歩いて数秒も経たないうちに雨粒で濡れていく。不意に鈍い衝撃が小鳥の肩に走った。どうやら反対側から歩いてきた通行人とぶつかってしまったらしい。「すみません」と小さな声で謝って行き過ぎようとした時、小鳥はいきなり腕を掴まれて拘束された。
「……夕城?」
 雨音と一緒に涼やかな低音の声が小鳥の耳に落ちてきた。続いて藍色の傘が小鳥の頭上を覆う。振り向いた小鳥は雨粒で濡れた顔を上げる。タイトな黒いVネックの半袖シャツと、ブラックのダメージジーンズで、引き締まった細身の姿態を包んだ青年が、ブルーインパルスモデルのパイロットウオッチを巻いた右手で、小鳥の腕を掴んでいた。大きく開いた胸元と、左指に着けられた銀製のペンダントと指輪が、シンプルな服装に彩りを加えている。青みを帯びる灰色の切れ長の双眸は、小鳥の存在に驚いているように瞠目していた。
「燕さん……?」
 小鳥も蜂蜜色の双眸を瞠目させて驚く。まさに思わぬ邂逅だと言えよう。なぜならば小鳥の片腕を掴んだまま、驚きで瞠目している端正な面立ちの青年は、第11飛行隊ブルーインパルスの5番機パイロット、TACネームはスワローテールの燕流星1等空尉だったからだ。
「こんな所で何をしているんだよ。それに傘はどうしたんだ。持っていないのか?」
 片腕を掴まれたまま流星に問いかけられたが、答える気力はどこにもない。小鳥は顔を伏せたまま押し黙っていた。激しさを増す雨で濡れた衣服が小鳥の身体に張りつき、胸の膨らみと腰から臀部に続く、滑らかな曲線がくっきりと表れていた。
 大学生らしき若者の集団が、小鳥の姿態に視線を絡ませて、嫌らしく笑いながら通り過ぎていく。きっと若者たちの頭は、卑猥な妄想でいっぱいになっているに違いない。舌打ちした流星が、複数の欲望の視線から小鳥を守るように立ち位置を変える。次いで流星が切れ長の双眸を鋭く一閃させて、彼らを睥睨すると、若者たちは蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げていった。
 ややあって流星に掴まれている腕が引っ張られて、小鳥は自分の両足で歩くことを強制された。先程と同じように抵抗する気力はどこにもない。流星に手を引かれた小鳥は、生まれたばかりの雛鳥のように、おとなしく彼の後ろについて歩く。どこかの建物に入ったかと思うと、小鳥はエレベーターに乗せられた。停止したエレベーターを降りて廊下を歩き、ドアの前に立った流星が、臀部のポケットの財布から出した鍵でドアを開ける。流星に背中を押された小鳥は室内に押し込まれた。
 ここでようやく小鳥は顔を上げた。どうやらここは流星が下宿しているマンションの一室のようだ。自衛隊では真面目に基地勤務していると、借家を借りる許可を申請することができる。これを「下宿」と言い、許可さえもらえば下宿先で自由時間を満喫して、翌朝出勤することもできるのだ。ただし何か起きた時に、すぐに対応することができる人員としての初度対処要員や、当直や警備の応援に出勤しなければならない規則があるので、本人の希望通りに外出許可が取れるわけではない。
 先に玄関に上がった流星に靴を脱ぐよう促されたが、ずぶ濡れの身体のままで上がってもいいのだろうかと迷ってしまう。小鳥を待つ流星は苛立っているように見える。小鳥は躊躇いながらもサンダルを脱ぎ、雨粒を滴らせながら玄関に濡れた足を乗せた。流星の後に続いて廊下を進み、右側のドアの奥にある洗面所らしき部屋に入る。洗面台の反対側には、ドラム式洗濯機が置かれており、奥に見えるのは曇り硝子が嵌め込まれたドアだ。恐らくドアの向こうは浴室なのだろう。小鳥のほうを振り向いた流星が口を開いた。
「そのままじゃ風邪をひくから早くシャワーを浴びろ。着替えの服はオレの服を貸してやる。かなりサイズが大きいだろうが我慢しろよ。脱いだ服と使ったバスタオルはオレがあとで洗うから、そこの洗濯機に入れておいてくれ」
 てきぱきと指示を出した流星は洗面所から出ていった。ややあって小鳥は身体に張りつく衣服と下着を脱いで、生まれたままの姿になった。ドアを開けて浴室に入り、右側にあるシャワーの蛇口を捻る。シャワーヘッドの吐き出す冷たい水が、温かいお湯に変わるのを待つ。掌で液体の変化を確認、シャワーの真下に立った小鳥の裸体の表面を、温かい雨が流れ落ちていく。それでも小鳥の心を覆う暗欝な気持ちは流れ落ちなかった。
 シャワーを浴び終えて浴室から洗面所に出ると、綺麗に折り畳まれたバスタオルと衣服が、洗面台の上に置いてあった。バスタオルで身体を拭いた小鳥は、衣服を手に取って広げてみる。白色で半袖のポロシャツとインディゴブルーのハーフパンツだ。流星とは30センチは身長差があるので、やはり衣服のサイズは大きく、着てみたポロシャツは小鳥の太腿まで覆い隠した。
 濡れた衣服とバスタオルを、洗濯機の中に入れた小鳥は洗面所を出る。微かに聞こえてくる音を頼りに、廊下のいちばん奥にある部屋に入った。紺色と黒色の家具で統一されたリビングは、左側にL字型の対面式キッチンがあり、右側には革張りのソファとテーブルに、薄型テレビが置かれている。流星はキッチンの片隅にいた。腕を組んでIHコンロの上に置いてある、銀色のケトルを静かに見つめている。
 リビングの入口で立ち止まったまま動かない小鳥に流星が気づく。だが流星は何も言わなかった。流星は沸騰したケトルを持ち上げると、カウンターの上に用意していたマグカップに熱いお湯を注ぎ、差していたマドラーで、ゆっくりと中身を掻き混ぜる。コーヒーのような香りがふわりと広がった。二個のマグカップを持って、キッチンから出てきた流星が、ソファのほうに切れ長の視線を動かした。どうやら小鳥に座れと言っているようだ。小鳥はリビングに入るとおとなしくソファに着席した。目の前にマグカップが置かれる。揺らめくのは柔らかな茶色の液体だ。小鳥の隣に流星が腰を下ろす。二人分の体重を受け留めたソファは、マシュマロのように形をへこませた。
「冷めないうちに飲めよ。身体が温まるぞ」
「――はい。いただきます」
 小鳥は両手で包みこむように、マグカップを持ち上げて口元まで運び、柔らかい色の茶色い液体を一口飲んだ。それは甘味と苦味が絶妙に配合されたココアだった。そして優しい味のココアを飲んだ途端、左右の眦から急に大量の涙が溢れ出した。小鳥が突然涙を流し始めたというのに、隣に座っている流星は驚いた様子も見せない。まるで小鳥が泣き出すことを予期していたかのように。誰でもいいから話したい、話を聞いてほしい。でなければ悲しみと憎しみに、心が押し潰されてしまいそうだ。涙と嗚咽と格闘しながら、小鳥は霊園の暗い出来事を流星に話す。流星は黙ったまま小鳥の話を聞いていた。
「……日下部2佐は、空と荒鷹さんから逃げていないと思う」
 ややあって流星が静かに呟いた。それは天から落ちた雨粒が、地面にぶつかって砕ける瞬間のような、とても小さく静かな声だった。小鳥は流星のほうを見やる。端正な横顔に花を添える長い睫毛の上には、暗い憂いが降り積もっていた。
「それはどういうことですか……?」
「日下部2佐は荒鷹さんを心から思っている、自らが犯した罪と向き合い続けている。だから荒鷹さんの墓前に花を供えにきたんじゃないのか?」
 息を呑んだ小鳥は双眸を瞠目する。流星が紡いだ言葉が、小鳥の心を強く衝いて揺さぶったからだ。――確かにその通りかもしれない。荒鷹から逃げたとするなら、日下部は彼の墓前にその姿を現さなかったはず。だが日下部は霊園にやってきた。それはつまり、日下部が荒鷹から逃げてはいないという証拠ではないのだろうか? 犯してしまった罪と、背負った十字架の重さと向き合い続けているからこそ、日下部は荒鷹の墓前にやってきたのではないだろうか? 迷い揺れる小鳥の隣で流星は言葉を続ける。
「日下部2佐は、部隊の誰よりも真面目で責任感の強い人だ。大切な仲間の荒鷹さんの死と、大勢の人が負傷した事実を重く受け留めて、自分自身を責め続けていた。ブルーインパルス解散の話が持ち上がった時、日下部2佐は自分が責任を取って辞職するから、部隊を解散させないでほしいと、上層部に掛け合った。それを知ったオレたちは、説得を続けてなんとか日下部2佐の気持ちを変えさせようとした。でも日下部2佐はそれを許さなかった。これが自分にできる最大限の償いだと言って、日下部2佐は自らの手で翼を折って、空から身を引いたんだ」
 小鳥たちパイロットにとって空というものは、かけがえのない大切な存在だ。それなのに自ら翼を折ることが、永遠に空から離れることが、どれほど辛い決断だったのかを、小鳥は考えもしなかった。それを知らず、悲劇のヒロインの役に陶酔していた小鳥は、日下部に酷い暴言を吐いた。父の墓前で呪われた言葉を使って日下部を罵り、彼が負った心の傷に毒を塗って、さらに傷口を広げた。小鳥は聖なる式場で罵詈雑言を連射していた醜い人間たちと、同じことをしてしまったのだ。
「……大切な人の命を奪ってしまった相手を許すのは、簡単なことじゃない。でも、過去に囚われたままでは未来に進めない。それに荒鷹さんは復讐を望んでいないと思う。お前が苦しんで悲しむ顔は見たくない、大切な人たちが幸せであってほしい。きっと荒鷹さんは、空の上でそう願っているとオレは思うんだ」
 両方の眦から再び大量の涙が溢れ出す。小鳥は引き結んでいた唇を開き、華奢な肩を震わせて、あどけない顔を歪ませながら、途切れ途切れの嗚咽を吐き出しながら、夕立のように激しく泣いた。まだ乾ききっていない小鳥の髪を、流星の大きな手が優しく掻き回す。すると涙の量はさらに増えてしまった。
 涙の水圧に負けた小鳥は、半身を捻ると流星の胸元を掴んで彼に抱きついた。小鳥は硬く引き締まった胸に顔を埋めて泣き続ける。いきなり抱きつかれた流星は、面食らいながらも小鳥の頭を胸に抱くと、幼子をあやすように彼女の背中を撫でた。小鳥の眦から溢れ続ける涙が涸れ果てるまで、流星の心音と温もりは、彼女を優しく包み込んでくれていた。

◆◇

 真夏の暑さが残る9月中旬。小鳥たちはT‐4に乗り、次なる展示飛行の開催地である、航空自衛隊小松基地に向けて空を飛んでいた。1961年に石川県に開庁された航空自衛隊小松基地は、北海道の千歳基地と同様に、旧ソ連機へのスクランブルが多かった、日本海側唯一の戦闘機配備基地だ。小松基地はミサイル講習などでも使用される、「G空域」と呼ばれる訓練空域が近く気候も安定しているので、航空総隊戦技競技会や日米共同訓練などの舞台になることも多い。
 配備部隊は2個飛行隊の第6航空団と、小松救難隊の3個飛行隊。第6航空団は303・306の戦闘機部隊2個飛行隊から成り、日本海と中部地域の領空に接近・侵入してくる、国籍不明機に対しての対領空侵犯措置などの任務に就く。北海道の千歳基地と同様に、旧ソ連機へのスクランブルが多かった小松基地は、日本海側唯一の戦闘機配備基地だ。現在はロシアもさることながら、朝鮮半島や中国方面からの、国籍不明機に対する対処も行っており、航空祭時にもスクランブルによる緊急発進が見られるなど、その重要度は以前よりも増している。
『あの、燕さん、この前は、その、迷惑をおかけしてすみませんでした』
 小松基地に向けて飛ぶ道すがら、小鳥は無線の周波数を変えて流星に話しかけた。あの日のことを思い出した小鳥は、恥じらいの赤に頬を染める。あのあと泣き疲れた小鳥は、いつの間にか眠ってしまい、翌朝流星が使用しているベッドの中で、目を覚ましたのだ。眠ったまま一人で歩けるわけがないので、流星が小鳥を抱き上げて、寝室まで運んだということになる。当然のことだが小鳥は流星と一緒に寝ていない。その夜はリビングのソファで眠ったと本人から聞いた。おまけに手作りの朝食までご馳走になってしまった。穴があったら入りたい思いだ。
『……別に迷惑とは思ってねぇよ。いちいち謝るな』
 それはぶっきらぼうな言い方だったが、涼やかな低音の声は、どことなく優しい響きを帯びていた。
『燕さんは、日下部2佐が航空自衛隊を辞めた理由を、私に教えてくれました。燕さんが教えてくれてなかったら、日下部2佐はブルーインパルスの絆と空から逃げた、父さんから逃げたんだって、私はずっと思い続けていたかもしれません。燕さんが私に過去と向き合う勇気をくれたんです』
『オレがやったんじゃない。その勇気は初めからお前の中にあったものだ。大切にしろよ』
『……はい』
 視界前方に小松基地の滑走路が見えてきた。滑走路と正対する形で旋回、オーバーヘッド・アプローチで接近しながら、格納していた左右の主脚を下ろす。メインギア接地、続いてノーズギアが滑走路に触れた。全開に下ろした両翼のフラップと、胴体後方のスピードブレーキで、機体速度を落としていく。風切り音が大きくなるのと同時に、荒ぶっていた双発のエンジン音は鎮まっていった。
 滑走路からタキシングで誘導路に入り、エプロンの決められた位置で六機のT‐4は停止した。待機していた小松基地の整備員たちが、すぐさま駆けつけて機体胴体に梯子を引っかける。T‐4から下り立った小鳥たちは、機体を整備員たちに託して庁舎地区に向かった。
 構内を歩いていくと豪奢な造りの建物が見えてきた。建物の色は空自の基地によく見られる薄緑色だ。硝子張りの玄関の向こう側には、真紅のカーペットが敷かれており、入口の脇には「第6航空団司令部」と書かれた看板が掲げられている。入ってすぐのエントランスの床は、眩しく感じられるほど磨き抜かれ、これまでの戦技競技会で優勝した部隊の、賞状・楯・トロフィーなどの、輝かしい功績を象徴する物が収められた、ガラスケースが置いてあった。階段で二階に上がると、すぐ右手に焦げ茶色の扉が見えた。扉の隙間から、思わず姿勢を正したくなるような空気が流れてくる。間違いなくこの扉の奥に団司令を務める空将補が待っているのだ。
 ぴんと背筋を伸ばした石神が扉を叩き、部隊名と名前を名乗る。ややあって入室を許可する声が返ってきた。石神を先頭に小鳥たちは些か緊張しながら入室した。淡い陽光が差す、静謐とした空気に包まれた室内には二人の男性がいた。二人は黒い革張りのソファに向かい合わせになって座り、艶やかな光沢を放つ焦げ茶色の机を挟みこんで、真剣な面持ちで話しこんでいる。小鳥たちを見た二人は即座に口を閉じて会話を終えた。どうやら小鳥たちには聞かれたくない会話を交わしていたようだ。
「――では私はこれで失礼する。例の件だが……いい返事を期待しているぞ」
 ソファに沈めていた腰を上げた男性が、こちらに歩いてきた。稲妻のように鋭い切れ長の双眸を持つ、五十代前半と思しき長身の男性だ。空自の濃紺の制服の下に、鍛え抜かれた筋骨逞しい体躯が眠っているのが分かる。不意に男性の歩みが止まった。鋭い眼差しは空間の一点を――小鳥の隣に控える流星だけを捉えていた。二人は知り合いなのだろうか? もし仮にそうだとしても、友好的な関係には見えない。むしろその逆だ。絡み合う視線の色は剣呑であり、両者の間に深く暗い亀裂が走っているように思える。流星から視線を外した男性は、扉を開けて出ていった。流星はしばらく男性が出ていった扉を見つめていたが、真由人に肩を叩かれて、扉から引き剥がした視線を前方に戻した。
「小松基地へようこそ。私が第6航空団司令兼小松基地司令の菅原空将補だ」
「第11飛行隊隊長の石神焚琉3等空佐であります。到着の挨拶に参りました」
 小鳥たちは一斉に背筋を伸ばして、踵を合わせて敬礼した。黒縁眼鏡に囲まれた菅原空将補の双眸は、小鳥たちを順番に見つめていき、その視線は流星と真由人のところで留まった。菅原空将補は言葉を紡ぐ代わりに軽く笑んだ。微笑を向けられた流星と真由人は、表情を引き締めたまま会釈する。流星と真由人はかつて第306飛行隊に所属していた。その二人が小松基地に戻ってきたことを菅原空将補は嬉しく思っているのだろう。
 到着の挨拶を終えた小鳥たちは、司令部を出て今度は独身幹部宿舎に向かった。小鳥は歩きながら基地の全景に視線を巡らせる。基地クラブに隊員食堂。飛行隊隊舎。紅白に塗られた通信塔。Y字型の電波塔が、構内道路沿いに立っている。構内道路を走っていくのは、VADS対空機関砲を積載した整備車両や、LAV軽装甲機動車だ。萌える緑に染まった並木は、力強い生命の律動を感じさせた。美しい基地の全景に感嘆していると、不意に先頭を歩く石神が立ち止まり、続いて立ち止まった流星のほうを見やった。石神は悪戯を思いついた子供のような表情をしている。そして思いもよらない言葉が石神の口から放たれた。
「燕、夕城に小松基地を案内してやれ」
 やや間をおいて、青みを帯びた灰色の双眼が小鳥のほうに向けられる。次いでその双眼は驚いたように見開かれた。予想外の展開に流星はかなり戸惑っているようだ。それは小鳥も同じだった。お世辞にもまだあまり友好的な関係とは言えないのだから、二人とも戸惑うのは当然だ。きっと激しく拒絶されるだろうと覚悟していたのだが、意外にも流星は素直に頷いた。石神たちが歩き去ったあと、小鳥はおずおずと流星に声をかけた。
「あの、燕さん、嫌なら嫌だって言ってもよかったんですよ? 基地は私一人で見て回りますから、皆さんと一緒にいってください」
 流星は仏頂面で小鳥を見つめている。ややあって彼はおもむろに造形の整った口を開いた。
「お前を一人になんかさせられるかよ」
「えっ……?」
 意味深げな言葉を聞いた小鳥の胸は、太陽のように熱く燃え上がる。だが次に流星の口から放たれた言葉によって、その熱は急速に冷めてしまったのだった。
「お前から目を離すと危ないからな。滑走路で転んで戦闘機に轢かれるかもしれないし、格納庫に迷い込んで、整備車両や牽引車に轢かれるかもしれない。だからオレは案内役を引き受けてやったんだ。ありがたく思えよ」
「なっ――なんなんですかそれは! てゆうか前にも同じようなことを言いましたよね!? それにどうして私が乗り物に轢かれる前提の話になっているんですか! 酷すぎます! 失礼すぎますよ! もう! 変に期待させないでください!」
「期待? お前はいったいオレに何を期待していたんだよ」
「何も期待していません――きゃっ!?」
 聞き捨てならない言葉に怒った小鳥は、回れ右をして歩き出そうとした。しかし足を踏み出した瞬間、小鳥は地面の微少な亀裂に躓いてしまった。地面に向けて傾いた小鳥の身体を、後ろから素早く伸びてきた長い腕が抱き留める。小鳥を激突の危機から救ったのは流星だ。そして小鳥は流星に背後から抱き締められるような格好になっていた。華奢な腰に絡む長い腕。流星の引き締まった胸板の感触と温もりが、背中越しに感じられる。落ちてきた熱い吐息が小鳥の耳と首筋をくすぐった。
「まったく……だからお前から目を離せないんだよ。おい、大丈夫か?」
 小鳥は肩越しに背後を振り仰ぐ。すると神様の最高傑作ともいえる、流星の端正な顔がすぐ近くに――互いの鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離にあった。なので小鳥が首を伸ばせば、唇同士が軽く触れ合ってしまうかもしれないだろう。
「ひゃいっ!? はっ、はい! 大丈夫ですっ!」
 顔面を真っ赤に爆発させた小鳥は、流星の腕の中から高速離脱した。挙動不審な小鳥を一瞥した流星が構内を歩いていく。こちらが抱く感情などまるで斟酌していない様子だ。自分の容姿が周囲の異性にどれだけ影響を及ぼすのか、まるきり意識していないのだろう。まったくいいようにこちらの理性を掻き乱してくれる。嘆息した小鳥は先を歩く流星のあとを急ぎ足で追いかけた。


 想定外の事態が起こったものの、小鳥は流星に小松基地を案内してもらうことになった。ファイターエアベースを訪れたからには、やはり戦闘機を見てみたいものだ。小鳥が戦闘機を見てみたいと遠慮がちに頼んでみると、流星は頷いてくれた。東京ドーム83個分の広大な敷地を歩いているうちに、小鳥は違和感を覚えた。それは往来する隊員たちが見せる態度である。彼らは距離を置いて、こちらを注視しないようにしているように見えた。なかにはあからさまに視線を背ける者もいた。距離があるにもかかわらず、隊員たちが放つ明確な緊張感や敵意が、空気を走り伝播してくる。だが彼らはいったい何に対して緊張しているというのか。
 小鳥は隊員たちの視線を辿ってみる。すると視線の先に流星がいた。そして小鳥は確信した。彼らは流星を避けている、敵視している。流星と視線が重なり合わないようにしているのだ。しかしそれにしても理由が分からない。同じ志を抱き、同じ空を飛んだ仲間同士だというのに、どうして彼らは流星を疎んじて避けるのだろうか? 先頭を歩く流星に訊けば、真実を得られるかもしれないが、それは不躾すぎる問いかけだ。それに避けられて恐れられている理由を、流星が自ら好んで話すはずもない。小鳥があれこれ思考を巡らせていると、前を歩く流星が肩越しに振り向いた。
「気になるか」
「えっ? 何がですか?」
「……あいつらはオレが今も空を飛んでいるのが気にいらないのさ」
 どういうことだと尋ねる間もなく、流星は先に進んでいった。格納庫の脇を抜けると、航空祭のメイン会場のエプロンに出た。小松空港の民航機と共有している滑走路の端に、黒塗りの建物が二つずつ見える。五分待機のアラートハンガーだと流星は教えてくれた。兵装・燃料・整備状態を万事整えて警戒態勢を保っている戦闘機を「アラート機」と言い、それらが待機している格納庫を「アラートハンガー」と呼ぶ。アラートハンガーには四機の戦闘機のほかに、パイロットと整備員の待機室が中央にあり、基地の中でも常に緊張している場所と言われている。
 アラートハンガーは戦闘機が一機ずつ格納されるようになっていて、スクランブルが発令されると、即座に扉が開く。パイロットはアラートハンガーの中で、そのままエンジンを始動してタキシングを開始する。一回のスクランブルで発進するのは、編隊長機と僚機の二機。ミサイルなど兵装の安全ピンを抜く作業も、ハンガー内で行われる。F‐15の場合だとスクランブル発令からハンガーアウトまで、約二分という迅速さ。各基地では年間を通じていちばん多く使われる、滑走路方向に合わせてアラートハンガーが設置され、発進に際してアラート機には、最優先順位が与えられている。フォーメーションでテイクオフすることはなく、編隊長機・僚機の順番でアフターバーナーを使用して上昇していくのだ。
 不意に空に爆音が轟いた。晴れ渡る青空の眩しさに、蜂蜜色の両眼を眇めながら、小鳥は空を仰ぎ見る。青天に浮かぶのは三機の機影だ。双発のエンジン。二枚の垂直尾翼。広い主翼面積と猛禽類のようなシルエット。戦闘機の名前はF‐15イーグルJ。近接格闘戦に優れた機体として設計・開発された、117対0の撃墜対被撃墜比率を誇る、最強の制空戦闘機だ。垂直尾翼には「ゴールデンイーグルス」の呼び名を持つ、石川県の県鳥の犬鷲が黄色で描かれている。第6航空団第306飛行隊が使用している、F‐15イーグルJに違いない。
 三機のイーグルは滑走路に接地すると、そのまま速度を落とさずに、エンジン全開で再び空に舞い上がった。着陸してから間髪入れずに離陸する、「タッチアンドゴー」と呼ばれる復行方式だ。双発のエンジンノズルからは、鮮烈なオレンジ色の炎が噴き出している。アフターバーナーで増大した地鳴りの如きエンジン音が小鳥の鼓膜を震わせた。アフターバーナーを焚いた鋼鉄の荒鷲は、機体上面にベイパーの虹を美しく輝かせながら、空を貫くようなハイレートクライムで一気に上昇していく。市街地に比較的近く騒音の影響を抑えるため、すぐ日本海側に急旋回する飛び方は、まるで航空祭の機動飛行のようである。大空に向けて飛翔するその姿は、まさに威厳に満ち溢れる大空の覇者そのもの。小鳥はその雄姿に己が目を奪われていた。
「……小松市は雪と雨が頻繁に降って気温も低い。それに『鰤起こし』と呼ばれる冬の雷も酷いんだ。だから落雷や戦闘機のトラブルによる殉職隊員も少なくない。そんな北陸特有の悪天候の中で、小松基地の隊員たちは風雪に耐えながら、五十年以上も日本の空を守り続けている。あのイーグルは勇敢な彼らの魂そのものだとオレは思う」
 青天を仰ぐ流星の端正な横顔には、僅かな翳りが刻まれていた。それは未練という名の切ない翳り。あの勇猛果敢な鋼鉄の鷲に乗って大空を翔けたい――。小鳥には流星がそう切願しているように見えた。
「306飛行隊に戻る気になったか」
 ブラックコーヒーのようなバリトンの声が背後から響く。背後を振り向くと、濃紺の制服で逞しい体躯を包んだ男性が、こちらに歩いてくるのが見えた。司令部で菅原空将補と密談を交わしていたあの男性だ。制服の左胸には色鮮やかな防衛記念章が着けられている。そして襟元と両肩に着けられている階級章を目にした小鳥は瞠目した。存在を主張するのは四個の桜星。四個の桜星を与えられた男性は、防衛省航空幕僚監部の長の航空幕僚長に違いない。
 確か流星の父親は航空幕僚長だと小鳥は前に彩芽から聞いた。とすると彼が流星の父親ということになるのだろうか。どうやら男性は流星だけに話しかけたようだった。小鳥に一度も視線を向けようとしないのがその証拠だ。自分以外の人間を取るに足らない矮小な存在だとしか思っていないのかもしれない。話しかけられた流星は、無言のまま射抜くような視線で彼を睨んでいる。
「菅原空将補に話をしておいた。第11飛行隊というくだらない部隊などさっさと辞めて、第306飛行隊に戻ってこい」
 傲然と構えた男性が聞き捨てならない発言をする。ブルーインパルスのパイロットを務める小鳥は、当然不快に思い眉を顰めた。だが相手が航空幕僚長だけに激しい反駁はできない。やんわり反駁しようと小鳥は唇を開く。小鳥を留めたのは先に放たれた流星の声だった。
「お言葉ですが、貴方は間違った認識をしています。ブルーインパルスはくだらない部隊ではありません。実際に自分の目で展示飛行を見てみれば、その素晴らしさが分かるかと思います」
「第11飛行隊ブルーインパルスのことはよく知っている。展示飛行というくだらない行事に、うつつを抜かしている部隊だろう?」
「オレたちの部隊を侮辱しないでください。航空幕僚長とはいえ、言っていいことと悪いことがあります」
「少しはその口を慎んだらどうだ。お前が今こうして空を飛んでいられるのは、誰のお陰だと思っている。私がF転とP免を取り消して、お前にウイングマークを戻してやったのだぞ? だがあろうことか、お前は第306飛行隊ではなく、第11飛行隊に異動願を出した。お前は私の厚意を裏切ったのだ」 
 反撃を食らい流星は押し黙る。だが切れ長の双眸は鋭さを失っていない。むしろその逆に研ぎ澄まされていくように見えた。
「だがお前がブルーインパルスで飛ぶ理由などもうないだろう。お前が慕っていた夕城荒鷹は死んだのだからな。大勢の民間人を巻きこんで死ぬとは、まったく迷惑極まりない男だ。死ぬのならば一人で死んでほしいものだ」
 次の瞬間今まで無表情だった流星の表情が一変した。端正な顔の表面に表れたのは瞋恚の焔を纏った激情。地面を蹴り飛ばした流星は、あたかも鎖から解き放たれた猟犬の如く男性に飛びかかる。流星は男性の胸倉を掴み上げると開口した。
「荒鷹さんを侮辱するな!! お前がオレを空に戻したんじゃない、荒鷹さんがオレを空に戻してくれたんだ!! オレは第306飛行隊には戻らない!! お前の指図も受けない!! オレの目の前から消え失せろ!!」
 流星は激しい怒気を孕んだ声で叫ぶ。涼やかな切れ長の双眸は戦慄を覚えるほど熾烈であり、流星が男性に対して抱いている、憎しみの一端を小鳥は垣間見ることができた。飛行場の空気は瞬時に冷たく張り詰める。騒ぎに気づいた隊員たちや整備員が、遠巻きにこちらを眺めていた。息の詰まりそうな膠着状態が続く。先に動いたのは男性だった。
「――よく覚えておけ。お前がいるべき場所はブルーインパルスではない、306飛行隊だ」
 乱れた襟元を完璧に整えた男性は、氷の眼差しで小鳥たちを一瞥してから立ち去った。冷たい緊張で張り詰めていた空気は、彼が去ると共にゆっくりと弛緩していく。遠巻きにこちらを観察していた隊員たちは、安堵にも似た表情を浮かべると、各々の仕事に従事するために飛行場を離れていった。
 取り消されたF転とP免。空自パイロットが飛ぶために必要なウイングマークを戻された流星。そして流星は父親に激しい憎しみを抱いている。小鳥には分からないことばかりだった。その答えを知るのは流星しかいない。だが小鳥は問いかけることができずにいた。なぜなら流星の背中は激しい怒りで震えていたからだ。

◆◇

 第303・306飛行隊、小松救難隊の訓練時間と重ならないように調整しながら、小鳥たちはT‐4に乗って小松の空を飛び、小松基地航空祭の事前訓練に励んだ。飛行場で航空幕僚長と対面したあと、流星の行動に変化が表れ始めた。精密機械の如く完璧な操縦技術を誇っていた流星は、事前訓練でミスを重ねるようになり、心配した小鳥たちが会話を求めても、それに応じないことが多くなったのだ。そしてある日、流星が人知れず煩悶している姿を見た小鳥は、己が胸に不安を感じ始めたのだった。
 事前訓練と事務作業を終えて流星を昼食に誘うと、彼は煙草を吸ってからいくと言ったので、先に飛行隊隊舎を後にした小鳥は、青い屋根を被る白壁の建物の隊員食堂に向かった。自販機コーナーを通り過ぎた先にある食堂スペースは、プランターの向こうに長机が規則正しく整列している。左手には配膳カウンターが設けられており、大勢の給養員たちがあたかも時計の歯車のように、せわしなく動き回っていた。どの料理もとても美味しそうだ。悩みに悩んだ末に、小鳥は給養員が勧めてくれた日替わりBセットを注文した。精算を済ませて注文した昼食をトレイに載せ、小鳥は席に着いた。
 だがいくら待っても流星は食堂に姿を見せない。熱い湯気をくゆらせていた昼食もすっかり冷めてしまい、引っ越してきたばかりの隣人のように無愛想になっていた。まったく流星はまだこないのか。嘆息した小鳥は冷めて固まった料理から視線を外す。出入り口のほうを見やると、ちょうど作業着姿の一団が入店してくるところだった。彼らは陽気に歓談しながら配膳カウンターを目指して歩いてくる。その視線が小鳥の上で留まった。瞬間笑い声がぷつりと途絶える。小鳥を一瞥した一団は彼女から少し離れた席に着いた。そして彼らは聞こえよがしに大声で会話を始めた。
「さっき正門で大騒ぎがあったから行ってみたんだけれどよ、どうやら例の『彼女』がきたみたいだぜ」
「マジかよ。でも、どうやって燕が小松に戻ってきたことを知ったんだ?」
「さぁな。どこかのお節介な奴が教えたんじゃないのか」
「――疫病神め。どこまで迷惑をかけるつもりなんだよ」
 舌打ちと邪悪の塊のような言葉が小鳥の耳を貫いた。瞬間小鳥は戦慄する。これまで聞いたことのない、黒々とした侮蔑の響きが込められていたのだ。小鳥は声が聞こえたほうを素早く振り返り、声を発したと思われる一人の男性隊員を蜂蜜色の視界に捉えた。
「それってどういう意味ですか?」
 席を立って早足で歩み寄った小鳥は、浅黒い顔の男性隊員を強い眼差しで見据えて問いかけた。背中に声をぶつけられた隊員がこちらを振り向く。突然の闖入者に隊員は一瞬沈黙したが、すぐに研ぎ澄まされた鋭く剣呑な視線を返してきた。
「なんだ? お前は誰だ?」
「燕さんと同じ第11飛行隊の者です。『疫病神』ってどういう意味ですか? 燕さんは貴方たちに何もしていないじゃないですか」
 小鳥は感情を抑えた声で反駁した。太い眉を顰めて小鳥を凝視していた隊員の顔が、面食らったように歪んだ。唇の端を吊り上げた隊員がにやりと笑う。それは推理小説の犯人を教えたがる人間が浮かべそうな狡猾な笑みだった。
「まさかお前は知らないのか?」
「何がですか」
「燕に会いにきた奴は――二年前にあいつが見殺しにした同僚の母親さ」
 隊員の口から放たれた言葉は決定的なもので、全身の細胞が一瞬で凍てつくような戦慄を小鳥に植えつけた。そして戦慄は胸騒ぎに変化する。その胸騒ぎは穏やかに晴れ渡った空に、突如として現れた積乱雲のようなものだった。床を蹴り飛ばした小鳥は食堂を飛び出すと、正門を目指して疾走する。だが小鳥が正門前に到着した時には流星の姿はなかった。警務隊の隊員に尋ねてみると、流星は来訪者を連れて306飛行隊隊舎に向かったらしい。
 身を翻して正門を離れた小鳥は306飛行隊隊舎に駆けこんだ。エントランスを抜けて廊下を彷徨っていると、微かな話し声が空気の流れに乗って小鳥の耳に届いてきた。声を頼りに廊下を進む。見えたのは来客を通す応接室だ。応接室のドアは半開きになっている。小鳥は身を屈めると壁に密着して、ドアの隙間から室内の様子を窺った。
 綺麗に整頓された室内には三人の人間がいる。石神と流星と中年の女性だ。来訪者と思われる女性はソファに座り、流星は部屋の片隅にいた。逞しい両腕を組んだ石神は、流星を守るように立っている。卓上のカップから立ち昇る湯気だけが、蜃気楼のように揺らめいていた。このまま沈黙が続くのかと思ったその時、厳しい面持ちで石神が口を開いた。
「早見さん。二度と燕には会いにこないでくださいと言ったはずですよ」
 石神に早見と呼ばれた女性が伏せていた顔を上げた。小鳥が身を潜めている位置から彼女の表情は見えない。見えるのは蛇行する川のようにうねった栗色の長い髪だけだった。空気が微動する。早見が吐いた息が空気を揺らしたのだ。
「どうして!? 何がいけないの!? 息子を――昶を殺した男に会いにきて何がいけないのよ!! 人殺し!! あの子を返してよ!!」
 金切り声が響き渡った瞬間、弾かれるようにソファから立ち上がった早見は、石神を押し退けると彼の後ろにいた流星に襲いかかった。流星の身体に絡みつき、腕に爪を食いこませて牙を剥こうとする早見を石神が引き離す。応接室は瞬く間に戦場と化した。あの屈強な石神が、たった一人のか弱い女性を押さえ込むのに手間取っている。石神は早見に怪我を負わせることを恐れているのだ。
 石神を助けにいくべきか否か。小鳥が逡巡していると後ろから足音が駆けてきた。振り向くと血相を変えた真由人が走ってくるのが見えた。話を聞き急いで応援に駆けつけたのだろう。一瞬だけ小鳥を見やった真由人は、迷わず応接室に飛び込むと、石神と力を合わせて流星から早見を引き離した。さすがに成人男性二人の力には抗えなかったようで、早見はすぐにおとなしくなった。
「……これが最後の忠告だ。二度と燕に近づかないでください。いいですね?」
「人殺し!! 私は昶を殺したあんたを絶対に許さない!! 絶対に許さないから!!」
 小鳥の眼前で半開きだった応接室のドアが全開に開放される。両側から早見を拘束した石神と真由人が出てきた。石神は小鳥がそこにいることに驚いていたが、何も言わずに真由人と協力して早見を連れて立ち去った。騒乱の嵐が過ぎ去り静かなる沈黙が訪れる。小鳥の背後で響いた物音が静寂を切り裂く。長身を引き摺るように応接室から流星が出てきた。流星の服はぐちゃぐちゃに乱れていて、端正な顔は酷く憔悴しきっていた。
「燕さん、今の女性は誰なんですか? それに人殺しって――」
「……お前には関係ない」
「でも――!」
「絶対に彼女に近づくな。分かったな?」
 鋭い眼差しと有無を言わさない強い口調で小鳥に警告した流星は、神様しか答えを知らない謎を残したまま立ち去った。


 小鳥が彼女と再会したのは、小松基地に展開してから数日後のことだった。今日の天候は曇り空。ブルーインパルスの訓練と展示飛行はVFRを前提としている。パイロット自身が目視によって安全を確保しながら飛行するのが、有視界飛行方式と呼ばれる「Visual Flight Rules」を略したVFRだ。視界が確保されていなければ当然飛行はできないので、雲の高さや雲量など天候の影響を受ける。事前訓練ができる天候ではないのは、誰の目から見ても明らかだった。
 事務作業を片付けた小鳥は宿舎に戻り、部屋のベッドに座ってサインの練習をしていた。だがちっとも集中できない。先日流星に会いにきた彼女の存在が思考の大半を占めていたからだ。ここはランニングでもして気持ちを落ち着かせよう。宿舎の玄関から出た小鳥は、建物の外壁に背中を預けて立っている、彼女の存在に気がついた。この周辺の一般人の立ち入りは禁止されているはずだが。小鳥の視線に気づいた彼女は、外壁から背中を離すと、真珠のような白い歯を見せて微笑んだ。
「貴女は――」
「こんにちは、私は早見弥生よ。貴女のお名前は?」
「……夕城小鳥です」
「とても可愛いお名前ね。ここに燕さんは泊まっているのよね?」
「そうですけれど。一般の人はここに入れないはずです。どうやって入ったんですか?」
「警備員さんがいたけれど、燕さんと会う約束があると言ったら、入れてくれたわ」
「それは嘘ですよね? 貴女は燕さんに会えないはずです」
「そうね、私は嘘をついたわ。ねえ、燕さんは基地にいるの?」
「お教えすることはできません」
「そう、なら別にいいわ。貴女に教えたいことがあるのだけれど……どこか人目につきにくい場所はないかしら。石神さんに見つかったら面倒だから」
 小鳥が帰るように促しても、早見弥生は聞きいれてくれそうにない雰囲気だ。ここはひとまず彼女の要望を聞いたほうがいいだろう。人気が少ない場所といえば、小松基地を散策しているうちに見つけた、あの場所しか思い当たらない。視線を送ってから歩き出すと、早見弥生は少し離れて後ろをついてきた。小鳥は管制塔から整備地区に通じる構内道路の脇にある、掩体壕という場所に、早見弥生を連れて赴いた。
 この掩体壕は、旧海軍舞鶴鎮守府が当時この基地に配備されていた、零式戦闘機彩雲偵察機などを、格納するため構築されたものだ。昭和19年頃に建てられた、蒲鉾型のコンクリートアーチの表面は、永い時間に侵食されてところどころが黒ずんでいる。正面には台形の開口部が設けられており、アーチの中が確認できた。ぴったりと収まるように置かれているのは、旧海軍の迷彩塗装を施された、T‐6G中等練習機だ。機体の垂直尾翼には、F‐4EJ時代の旧303飛行隊のエンブレムが描かれている。あたかも時の流れから取り残されたように、掩体壕の周囲は静謐な空気で満ちていた。
「ここなら誰も来ないと思います。それで私に教えたいことってなんですか?」
 弥生は視界に小鳥しか入っていないかのように彼女を凝視している。己の姿を映す双眸の奥に、小鳥は狂気の光を見たような気がした。
「貴女はあの男が何をしたか知らないみたいね」
「それは燕さんのことですか?」
「ええ、そうよ。あの男は――燕流星は昶を殺した人殺しよ」
 不気味に薄く笑んだ弥生は恐ろしい言葉を口にした。 
「燕さんは人殺しなんかじゃありません。私たち航空自衛隊のパイロットは、日本の空と国民を守ることが使命です。人の命を奪うなんてことは絶対にあり得ません。貴女は何か誤解しているんです」
「じゃあ死んだ者はどうなるの!? 忠実に命令を守ったって、日本の空と国民を守るだとか綺麗事を言って、死んだ者が笑って帰ってくるの!? あの男は重い罰も受けずにのうのうと生きている!! パイロットの資格を剥奪されたって聞いたのに、どうしてあの男は空を飛んでいるの!? 私から昶を奪った男が、昶から空と翼を奪った男が、どうして今も空を飛んでいるの!?」
 小鳥が見ている前で、弥生は髪を振り乱しながら絶叫した。その豹変ぶりに小鳥は恐怖する。恐らく弥生は精神を病んでおり、流星を擁護する小鳥の発言が、直前まで保たれていた彼女の精神の均衡を崩してしまったのだ。これ以上弥生と接していてはいけない。暗い狂気の渦に飲み込まれてしまう。小鳥はそう思った。事情を知る石神か真由人を呼ぶべきかと思ったが、できるだけ穏便に済ませたかったので、急いで正門まで戻り、小松基地から弥生を連れ出してもらおうと小鳥は判断した。
 踵を返して来た道を戻ろうとした小鳥は、弥生に腕を掴まれてこの場に留まることを強制された。弥生の手は病人のように痩せ細っていたが、小鳥の腕を掴む手の力は強かった。まるで己の魂まで掴まれているようである。弥生は肩に提げている鞄から、膨張した分厚い封筒を引っ張り出すと、強引に封筒を小鳥に手渡してきた。断る理由も見つからず、小鳥はそれを受け取るしかなかった。
「これを貴女にあげるわ。これを見れば、あの男が何をしたのか、どんな罪を犯したのか――そのすべてが分かるから」
 弥生を正門の外まで送った小鳥は、宿舎に戻る途中で足を止めると、彼女から渡された封筒を凝視した。小鳥の思考は何度も逡巡と葛藤の荒波に飲み込まれる。これが開けてはいけないパンドラの匣だということは分かっていた。だが小鳥は真実を知りたいという欲求に負けてしまう。震える指先で封筒の封印を解く。封筒が吐き出したのは一冊のスクラップブック。表紙を捲った小鳥の目に飛び込んできたのは、丁寧に切り抜かれて貼り付けられた、新聞や雑誌の記事で、その全部が二年前の2013年に発行されたものだった。
【日本海沖に航空自衛隊のF‐15イーグル戦闘機が墜落!】
【防衛省は訓練中の事故と発表!】
【中国空軍のJ‐10A戦闘機が、防空識別圏付近を飛んでいたという情報もあり。防衛省の発表は果たして本当なのか?】
【航空自衛隊のF‐15イーグル戦闘機の、二機のうち一機が日本海沖に墜落。搭乗していたパイロット、航空自衛隊小松基地第6航空団第306飛行隊に所属する、早見昶1等空曹が死亡した。もう一人の自衛官の氏名・階級は一切明かされず】
【防衛省は訓練中の墜落事故だと発表したが、匿名で寄せられた情報によると、早見1等空曹が墜落した日は、小松基地にスクランブルが発令されており、死亡した早見1等空曹はF‐15イーグル戦闘機に搭乗し、日本海沖に向けて離陸したという事実が分かった】
 二年前に起きた痛ましい事故のことは小鳥も知っている。まさか流星がこの事故に関わっているというのか。衝撃に撃たれた小鳥は震える手でスクラップブックを閉じる。新聞と雑誌の切れ端に書かれていた内容を、すぐに信じることができない。弥生は呪われた蛇の舌で小鳥を騙そうとしている。すべて妄想に囚われた弥生が捏造した物だ。小鳥はそう思いたかった。
「……夕城?」
 後ろから飛んできた涼やかな声が背中を叩く。身体を捻って振り向いた小鳥は瞠目する。小鳥から数歩離れた場所に、なんと驚いた顔の流星が立っていたのだ。早見弥生が基地を訪れていると聞き、急いで捜していたのかもしれない。流星はスクラップブックのほうに視線を動かした。小鳥は急いでスクラップブックを身体の陰に隠そうとしたが、一気に距離を詰めてきた流星に奪われてしまった。スクラップブックを開いて中身を見た瞬間、流星の表情はマスクのように石化して動かなくなった。
 スクラップブックを閉じた流星が小鳥を見据える。ただ事とは思えないほど険しい視線だ。流星に腕を掴まれた小鳥は、半ば引き摺られるように、306飛行隊隊舎の一室に設けられた、第11飛行隊の待機室に連れていかれた。小鳥を室内に押し込んだ流星は、後ろ手にドアを閉めると、外に出られる唯一の出入り口の前に立った。小鳥は身震いする。これから戦慄の尋問が始まるのだ。
「……これはどういうことだ?」
 流星は手に持っていたスクラップブックを、ミーティングテーブルの天板に叩きつけた。何も言えない小鳥に流星が一歩迫る。
「どういうことだって訊いてるんだよ!!」
 流星が近くにあった椅子を蹴り飛ばす。弧を描いて低空を飛んだ椅子は壁にぶつかり、雷鳴が轟くような音を立てて床に転がった。小鳥は恐ろしさに身を震わせながら後退する。だが流星は近づくのをやめない。さらに後退した小鳥の背中に冷たい壁が触れた。小鳥は逃げ場のない壁際まで追い詰められてしまったのだ。
「彼女と――早見弥生と会ったのか」
「……会いました。燕さんに会いにきたんです」
「絶対彼女に近づくな。オレはそう言ったはずだ。それなのにお前は彼女と会った。彼女と会って何を聞いた? ……いや、分かりきったことを訊くまでもないな。オレが彼女の息子を殺したって聞いたんだろう? オレの過去を知って満足したか? あのスクラップブックは彼女からの贈り物というわけか」
「違います! 私は――」
 流星の拳が小鳥の顔の真横にある壁を殴りつける。あと僅かでも位置がずれていたら、小鳥の可憐な顔の半分は、無惨にも潰れていただろう。流星に胸倉を掴まれた小鳥は、強い力で背後の壁に押しつけられた。
「勝手に人の過去を探ることが『仲間』のすることか!? オレはお前を信頼して、心の半分をお前に預けたんだぞ!! それなのにお前はオレを裏切った!! お前はオレの信頼を踏みにじったんだよ!!」
 流星は憤激の叫びを迸らせた。限界まで吊り上がった切れ長の双眸が小鳥を睨む。強い敵意と氷の殺意を孕んだ目だ。首と気道が圧迫されて呼吸ができない。視界が黒く塗り潰されていき、死神の吐息が首筋を撫でる。小鳥が死を覚悟した時、部屋に誰かが飛び込んできた気配を感じた。
 何かが潰れるような鈍い音が響き渡る。小鳥の眼前で流星が椅子を薙ぎ倒しながら、床に倒れこんだ。急に気道が解放された影響で、大量の空気が肺腑の中に入りこむ。小鳥は激しく咳きこみながら床の上に崩れ落ちた。苦しさで滲み出した涙で視界が霞む。うっすらと見えたのは石神と圭麻の姿だった。飛行隊隊舎に響き渡った怒声と騒音に気づき、急いで駆けつけたのだろう。
「大丈夫ですか!?」
 小鳥の側に膝をついた圭麻が尋ねた。まだ声が出せない状態の小鳥は涙目で頷く。小鳥は視線を動かした。流星の頬は赤く腫れ、唇から一筋の血が流れている。石神は右の拳を握り締めていたから、恐らく彼が流星を殴ったのだ。石神は床に倒れこんだ流星に近づくと、彼の腕を掴んで引き摺り起こした。さらに殴打するのかと思ったが、握り締められている石神の右手はおとなしかった。
「……少しは改心したと思っていた俺が馬鹿だったよ。燕、お前には第11飛行隊を辞めてもらう。お前は航空自衛隊のパイロットにはふさわしくない」
 石神は真っ直ぐに流星を見据えると、明瞭とした声で言い放った。突然の解雇通知を聞かされた流星は、両目を大きく見開き明らかに戸惑っている様子だ。
「……どういうことですか? 納得できる説明をしてください」
「そんなものはない。俺がそう判断した」
「石神隊長はそんな理由でオレを辞めさせるんですか」
「このまま飛び続けていれば、いつか必ずお前は誰かを巻き添えにして死ぬ。そんな危ない奴を第11飛行隊で――航空自衛隊で飛ばせることなど俺にはできん。航空祭を終えて松島基地に戻ったら、俺から堂上空将補に話す。分かったな?」
 石神の腕を乱暴に振りほどいた流星は、苛烈な眼差しで彼を睨みつけると待機室から出ていった。重い溜息を吐いた石神は、椅子に近づくと崩れ落ちるように腰を下ろした。椅子に座った石神は、組んだ両手で頭を支えて俯き、まるで生きる権利を放棄したように動かなくなった。
「石神隊長! 燕さんは悪くないんです! 私のせいなんです!」
「……すまんが一人にしてくれ。今は何も話したくないし、聞きたくないんだ」
「でも――!」
「分かりました。失礼します」
 素直に応じたのは圭麻だった。嫌だと抵抗する間もなく小鳥は圭麻に手を引かれ、半ば強引に待機室から連れ出される。圭麻を先頭に据えて小鳥は黙々と廊下を歩く。階段の踊り場で小鳥は足を止めた。納得できない思いが今にも爆発しそうだったからだ。
「……やっぱり納得できません。もう一度石神隊長と話してきます」
「いっても無駄ですよ」
 先に階段を下りていた圭麻が途中で立ち止まる。半身を捻って小鳥を振り仰いだ圭麻の声は、とても淡白だった。
「石神隊長の判断は正しい。僕はそう思います。事故が起こってからでは遅いんです。大事なのは事故の原因を未然に防ぐこと。燕さんは石神隊長の『信頼』を裏切ったんです。強い信頼関係で結ばれていなければ、僕たちドルフィンライダーは飛ぶことができません。……これでよかったんですよ」
「私はそうは思えません! 私にも責任があるのに、燕さん一人に責任をとらせるなんて間違っています! 第11飛行隊を辞めさせるなんてやり過ぎじゃないですか!」
「僕だってそう思いますよ!!」
 圭麻が声を荒げた。その表情と語気があまりにも強く激しかったので、小鳥は思わず閉口した。
「僕にも責任がある!! あの時、早見さんが基地にきたことを燕さんに知らせてしまったのは僕なんですよ!! 真っ先に石神隊長に知らせるべきだったのに、僕は燕さんに知らせてしまったんです!! その結果こんな事態が起こってしまった!! 夕城さんと燕さんが悪いんじゃない!! 僕が悪いんです!!」
 小鳥を見上げる圭麻は、唇を噛み締めて両目に涙を溜めている。だが圭麻は涙腺を解放することはせず、見事な自制心でそれを制御した。
「……石神隊長はブルーインパルスを心から愛して誇りに思っています。だからブルーインパルスを守るためならなんだってします。僕と夕城さんが自分の責任だと言い張っても、石神隊長は燕さんを辞めさせる。それが隊長の覚悟と責任なんですよ。僕たちにはどうすることもできないんです」
 空気は瓶の底に澱が溜まるように沈んでいく。重い沈黙を引き摺ったまま、寝泊まりしている宿舎の玄関で小鳥は圭麻と別れた。宿舎の狭い部屋に戻った小鳥は、疲れきった重い身体をベッドの上に横たえた。流星は石神の信頼を裏切った。圭麻はそう言っていたがそれは自分も同じだと小鳥は思う。
 石神は小鳥が流星を変えてくれると信じていた。過去に大切な人を失い、同じ傷を心に抱えて同じ痛みを知る小鳥なら、流星の傷ついた心を癒して、彼を再び飛べるようにしてくれる。小鳥を心から信頼していたからこそ、石神はその言葉を口にしたのだ。だが小鳥は早見弥生の邪悪な誘惑に負けてしまい、流星の心を深く傷つけた。その結果小鳥は流星の信頼を失い、流星は石神の信頼を失ってしまったのだ。
 流星から翼と空を奪ってしまった――。
 小鳥は胎児のように身体を丸めると、激しい後悔に苛まれながら悲痛な嗚咽を噛み殺した。

◆◇

 澄み渡る青天の下で小松基地航空祭は開催された。航空祭会場は日本各地から訪れた多くの人々の熱気で満たされている。オープニング飛行と落下傘降下。第303・306飛行隊のF‐15イーグルJによる編隊飛行と機動飛行。小松救難隊のU‐125AとUH‐60Jによる捜索救難。岐阜基地に所属するF‐2の機動飛行。まずはそれらが午前中に行われた。
 小松基地航空祭の見所といえば、303・306の2個飛行隊によるF‐15Jの機動飛行だ。離陸と同時に左右に展開したり、機体背面を見せながら飛行するなどの、観客を意識した構成となっている。また展示飛行の合間には、小松空港の民間機の離着陸も見られた。現役の装備を間近で望める絶好の機会だと言えよう。
 だが午後になると天気は一気に急変する。四方から這い出してきた鉛色の雲の群れが、青天を飲み込んでしまったのだ。ややあって空は雨の涙を流し始めた。午後12時35分。小鳥たちブルーインパルスは、小雨が降るなか地上滑走による展示を行った。ウォークダウンからエンジンスタートに入り、タクシー・アウトを披露する。次にランウェイに進入してスモークを曳きながらタキシングをした。曲技飛行の代わりにブルーインパルスが地上で魅せたパフォーマンスに、観客たちは満足してくれたようだった。
 そして空を飛べないまま小松基地航空祭は終了した。石神の判断で天候が悪化する前に、予定時間よりも早く松島基地に帰投することになった。プリブリーフィングを終えて、Gスーツと救命装備を身に着けて待機室を出る。小鳥たちがT‐4の前に着くと同時に、飛行場に帰投のアナウンスが流れた。小鳥たちはそれぞれの機体に乗り込んだ。整備員と連携して、ベルト・ショルダーハーネスを締めて全身を固定。Gスーツに空気を送るホースとレギュレーターを繋ぐ。胴体から梯子が取り外されると、整備機付き長と二名の整備員が配置についた。そして機体の電源を入れて異常がないことを確認した。
 6番機のプリタクシー・チェックを終えた小鳥の心は、上空を覆い尽くす曇天のように重く沈んでいた。一言でもいいから流星に謝りたかった小鳥は、待機室から出る前に彼に話しかけようとした。だが流星は小鳥と一度も視線を合わせようともせず、荒々しい足取りで出ていったのだった。流星にとって小鳥は互いの心を分け合った特別な存在ではなく、道端に転がる石ころのように、なんの価値もない存在になってしまったのだ。
 準備を完了した六機全機は着陸灯を点けて、タイミングを合わせてキャノピーを閉めた。管制塔からタクシーアウトの許可を得たので、先に離陸する第一編隊の1・2・3番機が誘導路を通り、滑走路の端にデルタ隊形で整列する。流星を編隊長とした小鳥と圭麻の第二編隊も、手前の誘導路で待機した。離陸許可と風向きが管制塔から伝えられる。エンジンランナップを終えた石神が率いる三機編隊が、機体を固定していたブレーキを解き放ち滑走路を走り始めた。100ノットを超えた三機は機首を持ち上げ、緩い上昇角で離陸していく。次いで流星が指揮を執る、第二編隊の4・5・6番機も上空を目指して離陸した。
 前方を飛ぶ5番機――流星との距離がとても遠く感じてしまう。
 曇天の彼方で待ちうけるものに気づかぬまま、小鳥は松島基地の方角に機首を向けた。


 黒々とした積乱雲の軍団が小鳥たちの進路を塞ぐように浮かんでいる。黒雲の中に見えるのは、蜘蛛の巣のような形に閃く稲妻だ。積乱雲の下では激しい雨が降り、雷や雹を伴うことがある。積乱雲は夏の風物詩と思われがちだが、冬の日本海側の地方に豪雪をもたらすのも積乱雲なのだ。低く深い雲が靄のように漂っているので、前方の視界はかなり悪い。だから先行した石神たち1番機編隊の機影も見えなかった。遠くのほうで閃光が瞬き雷鳴が咆哮する。巨大な稲光が轟音を奏でて天を裂く。バイザーを突き抜けた鮮烈な閃光が、小鳥の視界を白色に染める。どうやらそう遠くないところで落雷が発生したらしい。
 前方に視線を転じた小鳥は5番機の異変に気づいた。風に弄ばれる木の葉のように、機動が不安定になっているのだ。排気炎が不規則に明滅を繰り返した直後、5番機は急激に左に傾いたが、ややあって水平姿勢に戻った。不安を感じた小鳥は、流星と連絡を取ろうと無線のスイッチに指を伸ばす。だが彼に拒絶されていることを思い出して一瞬躊躇った。深呼吸をして躊躇いを振り払った小鳥は、勇気を出して無線の周波数を切り替えた。
『こちらハミングバード。スワローテール、応答願います』
『スワローテール、ボイスクリア。……いったいなんの用だ』
『機体の姿勢が不安定になっているようですけれど……大丈夫ですか?』
『細かいことによく気がつく女だな。……左のエンジンの調子が悪いんだ。松島基地まで持ちそうにないから、オレは小松基地に引き返す。お前はそのまま朱鷺野と先にいけ』
 隊列を離れた5番機は、機体を反転させると分厚い雲の彼方に飛んでいった。恐らく流星が乗る5番機は、先程天を裂いた稲妻に撃たれて被雷したのだ。機体を駆け抜けた電流が、左エンジンを停止させたに違いない。確か航空学生だった頃に教官から聞いたことがある。被雷による悪影響は無線の断絶やエンジンの停止だけではない。時にはパイロットを失神させて、操縦不能に陥らせることがあるのだ。
 流星と別れて飛び続けていると、積乱雲の塊は急激な速さで成長していき、やがて雷雲群と呼ばれるスーパーセルに姿を変えた。その姿はまるで空に押し寄せる雲の津波のようだ。銃弾のような雨粒が、途切れることなく降り注ぎ、機体とキャノピーを激しく叩き始めた。
 小鳥と圭麻は全神経を両眼に集中させて、雲の層が薄い箇所を選びながら、慎重に飛び続けた。進路を誤って積乱雲の中に飛びこんでしまったら最後、凶暴な乱気流に巻き込まれたT‐4は空中分解してしまい、小鳥たちはコクピットから投げ出され、海面に叩きつけられて海の藻屑となってしまうだろう。
 発達した雷雲群を回避しながら飛んでいると、視界前方に松島基地の管制塔が見えてきた。管制官と交信して着陸許可を得る。エレベータとスロットルを調整。高度と速度を慎重に下げながら上空を旋回する。豪雨のカーテン越しに、三機のT‐4がエプロンに停まっているのが見える。先行していた石神たち第一編隊も、無事に帰還しているようだ。二機はランウェイ25に向けて進路を定めた。小鳥の前を飛ぶ4番機が無事に着陸した。残るは小鳥が乗る6番機のみ。吹き荒れる暴風と豪雨に注意しながら車輪を下ろし、小鳥は最終着陸態勢に入った。
 ランウェイ25に着陸した6番機の周囲から、花火のように盛大な水飛沫が跳ね上がる。滑走路への進入角度も、着陸時の機体速度も完璧だった。だが小鳥の遺伝子に刻まれた防衛本能が、彼女にもっとスロットルレバーを引けと叫んでいる。瞬間小鳥は異変に気づいた。
(機体の速度が落ちていない――!?)
 危険を感じた小鳥は、スロットルレバーをアイドルまで押し下げ、胴体後方にある二枚のスピードブレーキを作動させた。だが6番機の速度はほとんど落ちない。ランウェイエンドが目前に迫ってくる。雨粒が纏わりついたキャノピーの向こうに緊急拘束装置が見えてきた。あんな細いネットで、5トンはある金属の塊を受け留められるのだろうか。
 小鳥が衝突の恐怖に顔を歪めた次の瞬間、6番機は凄まじい速度と勢いで、緊急拘束装置に突っ込んだ。ベルトとショルダーハーネスで固定している身体が激しく揺さぶられる。今まで感じたことのない強烈な衝撃が、小鳥の肉体を引き裂いた。ネットを突き破った6番機は、飛び魚のように跳ねると一回転し、千切れたネットを巻き込んで、左に傾斜した状態でようやく停止した。
 口から外れた酸素マスクを胸元に垂れ下げて、ベルトとハーネスに身体を縛られたまま、小鳥はコンソールに突っ伏すように前屈みになっていた。キャノピーが砕け散り、剥き出しになったコクピットに冷たい雨が降り注ぐ。意識が朦朧としていく小鳥の耳に、鼓膜を切り裂くようなサイレンの音が鳴り響いた。あれは基地内に場内救難を要請するサイレンの音色だ。鳴り止まないサイレンの音と同調するように、小鳥の視界と意識は完全なる暗闇で、満たされていったのだった。

◆◇

 瞼を貫いた光で小鳥の意識は覚醒した。真っ白に塗られた広い天井が、意識を取り戻した小鳥を見下ろしている。小鳥は天井と同じ色をしたベッドに寝かされていて、右手は操縦桿ではなく、小さなスイッチを握り締めていた。どうやらこれは誰かを招聘できるスイッチのようだ。親指で軽く押してみるが、反応は返ってこない。ややあって些か急いでいる様子の足音が駆けてきた。部屋のドアが横に滑り、白衣を着た男性と女性が部屋に入ってきた。男性は聴診器を首に提げて、女性はカルテらしきものを携えている。服装からすると、二人は医療従事者に間違いないだろう。
「意識が戻ったようですね。ご気分は?」
「少しぼんやりしますけれど、大丈夫です。あの……ここはどこですか?」
 看護師の女性からカルテを受け取った男性医師は、小鳥の診察をしながら、彼女が知りたいと思っていることを教えてくれた。着陸時に事故を起こしてしまった小鳥は、ここ東松島市内の病院に搬送され、なんと三日間もずっとベッドで眠り続けていたらしい。MRI検査とレントゲン検査を受ける必要があるというので、車椅子に乗せられた小鳥が病室を出ると、壁際に置かれた長椅子に座っていた青年が、素早く立ち上がった。
 フードがついた白色のパーカーの上に、ガーネットブラウンの革ジャケットを重ね、ブラックのジーンズを穿く、柘榴色の髪と甘く整った端正な顔立ちの青年は、ブルーインパルスの2番機パイロットの鷹瀬真由人だ。意識を取り戻した小鳥の姿を見た真由人は側までくると、緊張と不安で強張らせていた端正な顔を安堵で緩めた。
「よかった……目が覚めたんだな」
「はい、ご心配をおかけしてすみませんでした。よく覚えていないんですけれど、私にいったい何があったんですか?」
「君は着陸する時に起きたハイドロプレーニング現象で、クラッシュバリアにヒットして、5メートルほどオーバーランしてしまったんだよ」
 ハイドロプレーニングはタイヤと路面との間に水が入り込み、ブレーキの利きが悪くなる現象だ。あの日の松島基地は、激しい暴風と豪雨に襲われていた。その激しい風雨が、なぜか小鳥の着陸だけを意地悪く妨害したのだ。真由人は小鳥のMRI検査とレントゲン検査に付き添ってくれた。真由人は小鳥が目を覚ますまで、何度も病室を訪ねてきてくれたのだと、検査の合間に看護師の女性が教えてくれた。
 二つの検査を行った結果、脳髄と骨に異常はなく、緊急拘束装置に衝突した際に、座席で腰を強く打ちつけたせいで、炎症して腫れた筋肉が腰の神経を圧迫し、身体を動かそうとすると鋭い痛みが走るそうなので、退院するまで当分は安静にしているようにと、小鳥は医師から言われた。
 真由人に車椅子を押してもらい小鳥は病室に戻る。真由人の手を借りてベッドに戻る際に、小鳥は彼の頬と手の甲に貼られた絆創膏と、ジャケットの袖から覗く白い包帯に気がついた。椅子に座った真由人が小鳥の視線に気づき、腕の包帯を見下ろした。
「これは君を助け出す時に、割れたキャノピーで切っただけだよ。たいした怪我じゃない」
 小鳥を安心させるように真由人が微笑む。たいした怪我ではないと真由人は言ったが、白い包帯が巻かれている範囲は広い。だから程度の軽い怪我ではないだろう。もしかしたら何針か縫合したのかもしれない。故意に起こした事故ではないといえ、小鳥は真由人に怪我を負わせてしまったのだ。小鳥の胸中は暗い罪悪感に覆われていった。
「私のせいで怪我をしたんですね。……すみません」
「君のせいじゃないよ。気にしないでくれ」
「燕さんは? 今は小松基地にいるんですか?」
「流星は松島基地にいる。小松に引き返す途中で、エンジンの調子がよくなって、松島基地に帰投したんだ」
「そうですか。……よかった」
「……どうして流星を心配するんだ?」
「えっ……?」
 流星の無事を聞き、安堵で胸を撫で下ろした小鳥の眼前で、真由人の表情は一変する。まるで雨が降り出す前の曇り空のような、重く暗い影が真由人の顔に浮かび上がったのだ。
「流星は何度も君を傷つけた。聞いた話によると、小松で逆上して君に襲いかかったそうだな。君が事故を起こした時、あいつは何をしていたと思う? ただ突っ立っているだけで、君を助けようともしなかったんだ。もう我慢の限界だ。……俺はあいつを許せない」
「違います! 燕さんのせいじゃありません! これは私が――!」
「君は殺されかけたんだぞ! それなのにあいつを庇うのか!?」
 殺されかけた。真由人の言葉は小鳥の胸を強く衝いた。練成訓練の最中にジェット後流を浴びせられ、荒鷹の代わりに死ねばよかったんだと、存在そのものを否定された。そして秘密にしていた過去を早見弥生に暴かれて、烈火の如く怒り狂った流星に、小鳥は危うく命を奪われかけたのだ。返す言葉も見つからず小鳥は俯く。暗い記憶が小鳥の心を蝕み始める。そして流星を信じていた気持ちは、小鳥の中から少しずつ消えていった。
「――俺が5番機のパイロットだったらよかったのにな」
 椅子から身を乗り出した真由人は、熱く真摯な眼差しで小鳥を見つめ、もう片方の手で彼女の頬に触れていた。小鳥の頬を離れた真由人の手は、肩を滑ると背中に回り込み、彼女を自らの胸の中に抱き寄せた。
「あいつは夕城のパートナーには相応しくない。……だから俺が君のパートナーになって君を守る、守ってみせる」
 初めは戸惑いと抵抗を感じていた小鳥だが、真由人の腕に強く抱かれているうちに、彼の優しさに身も心も委ねてしまいたいと思っていた。そう思いたくなるほど、小鳥の心は傷ついていたのだ。小鳥は真由人の背中に両腕を回して、救いを求めるように強くしがみついた。小鳥と真由人の視線が出合う。呼吸をするように自然と互いの顔が近づく。あと数秒で唇が深く重なろうとしたその瞬間、病室のドアが開け放たれた。
 ドアの外にいたのは医師でも看護師でもない。右手に綺麗な花束を携えた流星だった。流星は病室と廊下を隔てている境界線で、立ち止まったまま動かない。衝撃。苛立ち。嫌悪。悲しみ。人間が抱く暗い負の感情の入り混じった色が、強張っている流星の顔を素早く駆け抜けた。
「……人がせっかく見舞いにきてやったっていうのに、男を連れこんでやりたい放題かよ。いいご身分だな」
 苦虫を噛み潰したような顔をした流星は、持っていた花束をゴミ箱に投げ捨てると、怪我人に贈るには相応しくない、辛辣な言葉を吐き捨てた。冴え渡った月のように冷たく、研ぎ澄まされたナイフのように鋭い声が、小鳥の心に突き刺さる。心のどこかで奇跡の生還を喜ぶ言葉を期待していただけに、小鳥が受けた心の痛みは大きかった。腕に抱いていた小鳥を解放した真由人が椅子から立ち上がる。椅子から立ち上がるまでの動作は、静かで落ち着いていたものの、小鳥の目に映る真由人の横顔には、隠そうとも隠しきれない激情が渦巻いていた。
「――夕城に謝れ」
 発せられた真由人の声も、流星の声と同様に冷気を纏っていた。
「は? 何を言っているんだよ。謝るなんてゴメンだね」
「……もう一度だけ言うぞ。彼女に謝るんだ」
「ふざけんな。どうしてオレがあいつに謝らなきゃいけねぇんだよ」
「夕城はお前のパートナーで、お前は夕城のパートナーだからだ」
「あいつがオレのパートナーだって? 冗談じゃねぇ。あんな女なんかとパートナーなんか組めるかよ。操縦技術が下手くそな奴と組まされたオレの身にもなってみろ。オレまで下手くそに思われちまうんだぜ?」
「それが夕城に対して言う言葉か? 彼女はお前のせいで何回も恐ろしい目に遭ったんだぞ」
「そんなこと知るかよ!! 荒鷹さんの娘だっていうことを鼻にかけて、天狗になっているから、事故を起こしてしまったんじゃねぇのか!? リモート展示が終わったからって、馬鹿みたいに呆けてるんじゃねぇよ!! 空から逃げるなってオレに偉そうに説教したくせに、その姿はなんだよ!! お前は最低のパイロットだ!! お前は――」
 流星の言葉は途中で断ち切れた。渾身の力を込めた真由人の右拳が、流星の顔を殴ったのが原因だった。思いやりの欠片も持ち合わせていない流星の言葉が、今まで抑えていた真由人の怒りに火を点けて、爆発させてしまったのだ。鼻血を垂らした流星が後ろによろめく。怒りを露わにした真由人は、流星を白い壁に押しつけると彼の胸倉を掴んだ。
「夕城を侮辱することは許さないぞ!!」
 真由人が叫ぶ。悪魔も戦慄を覚えそうな冷笑が流星の顔に浮かんだ。
「……お前、あいつのナイト様気取りってわけか? 笑わせるぜ」
「ああ、そうだ!! 好きな女性を守ってやりたいって思っちゃいけないのかよ!! 仲間の一人も守れないお前のほうが最低だよ!! 早見はお前が殺したようなものだ!!」
 瞬間流星の顔から氷の微笑が溶けるように消え去った。
「……言ってくれるじゃねぇか。これでオレも遠慮なくテメェを殴れるぜ!」
 まるで倍返しだといわんばかりに、流星の左拳が真由人の顔を殴った。すかさず真由人も倍の力で反撃する。両者は縺れ合い絡み合いながら、床の上に倒れこんだ。流星の上に馬乗りになった真由人は、彼を昆虫標本のように組み伏せると拘束した。真由人の右手が振り上げられる。流星の顔面を潰す気だ。いつも穏やかで、滅多に怒らない真由人の顔は、今や燃え盛る激情に支配されていた。
 駄目だ。殴ったら最後、二人の間に深い亀裂が生まれてしまう。だから勃発した争いを鎮めなければ。急いでベッドから下りようと小鳥は身体を動かす。だが腰から下部に鋭い痛みが走り、小鳥は悲鳴を上げてベッドから転げ落ちてしまった。睨み合っていた真由人と流星が、ほぼ同時に小鳥を見やる。どうやら小鳥の転落が、一時的に二人の諍いを止めたようだ。
 迅速に行動したのは真由人だった。流星の上から退いた真由人は、慎重に小鳥を抱き上げると、ベッドの上に彼女を寝かせたのだ。小鳥を寝かせてベッドから離れた真由人は、ドアの前に移動する。ドアノブに指先を添えた真由人の唇がゆっくりと開かれた。
「……流星、お前はファイターパイロットの――いや、空自パイロットの風上にも置けないパイロットだ。俺はそんな奴と一緒に飛ぶことはできない。だから俺はもうブルーインパルスでは飛べない、二度と飛びたくない」
 先程とは打って変わった静かな口調で告げた真由人がドアを開ける。真由人は出ていく前に、一度だけ振り返り小鳥だけを見つめていたが、未練を断ち切るように彼女から視線を外すと、病室から出ていった。それからしばらくして、口元を湿らせている血を拭った流星も、荒い足取りで出ていく。無惨に投げ捨てられた花束と小鳥だけがその場に取り残された。
 あんなに強く結ばれていた青い絆が、今まさに断たれようとしている――。生まれてしまった深い亀裂を、修復する方法も分からないまま、小鳥は二人が出ていったドアを、呆然とした面持ちでずっと見つめていた。