浜松国際宇宙展のオープニングセレモニーを、華麗に飾ったリモート展示が終わってから、数週間が過ぎ去った。ホームベースの松島基地を離れた、小鳥・流星・石神・里桜たち四人のパイロットは、それぞれT‐4に乗り、航空自衛隊入間基地に向かっていた。2番機パイロットの鷹瀬真由人と4番機パイロットの朱鷺野圭麻は、松島基地で留守番をしている。数日前に訓練後の飛行後点検で、機体の異常が見つかったので、現在はオーバーホールをして修理しているからだ。 埼玉県狭山市に拠点を置く航空自衛隊入間基地は、東京都心に近い航空基地だ。航空総隊司令部飛行隊・第402飛行隊・入間ヘリコプター空輸隊・飛行点検隊・電子戦支援隊・電子飛行測定隊の、合計6個の飛行隊が配備されている。中部航空方面隊をはじめとした、多くの司令部・本部など、多数の独立部隊が所在しており、隊員数は四千人を超える入間基地は、まさに航空自衛隊の総本山とも言える場所であろう。 入間基地を訪れる外来機の多くも、それらの司令部や本部をはじめ、航空総隊司令部の横田基地に、都心にある防衛省への連絡などで、T‐4・T‐400・YS‐IIP・U‐125のほかに、陸自機と海自機も飛来しており、移動訓練中の練習機も立ち寄ることもある。ただしアフターバーナー装備のジェット機は、地方自治体との協定で事前通知がないかぎり、原則的に離着陸できない決まりになっているのだ。 T‐4に乗り空を飛ぶ小鳥たちの進路上に、入間基地の全景が見えてきた。高度と速度を高く維持しながら、滑走路上空に進入する。大きく旋回しながら減速、オーバーヘッド・アプローチで高度を落としながら、小鳥たちは外来機エプロンに着陸した。しばらくすると、鷲尾1曹や彩芽たち整備員を詰め込んだC‐1輸送機も、無事に到着した。第11飛行隊の整備員と入間基地の隊員たちに、T‐4を預けた小鳥たちは、まずは本部庁舎司令部に向かい、基地司令を務める空将補に到着の挨拶をした。 そして次にとある人物との待ち合わせ場所である、第402飛行隊隊舎のブリーフィングルームに向かう。ノックをした石神が、ドアを開け先に入室して、小鳥たちも彼の後に続く。室内では一人の女性が椅子に座り、小鳥たちの到着を待っていた。彼女は椅子から立ち上がると、背筋をぴんと伸ばして、ロウヒールのパンプスの踵を合わせて敬礼した。 「お待ちしておりました。貴重な時間を割いてまできてくださったことを、心から感謝します。鷹瀬1尉と朱鷺野2尉が来れなかったことは残念ですが、どうぞよろしくお願いいたします」 慇懃に小鳥たちを出迎えたのは、航空自衛隊の濃紺の制服を、真面目に着こんだ女性自衛官だった。航空幕僚監部・広報室広報班に所属する、稲嶺恵理花1等空尉その人だ。少し前に小鳥と流星にテレビ局の取材の話を持ってきたのも彼女だった。 小鳥たちが入間基地までやってきたのは、第11飛行隊のPR活動に協力してほしいと、航空幕僚監部広報室の室長から、直々に依頼されたからである。先月に輸送機の事故があったばかりで、予定していた広報の企画が流れてしまい、なんと広報室室長自ら営業に出向いたという。おまけに周辺住民を説得したのも、広報室室長だと言うから驚きだ。 眼鏡の奥の双眸を細めて、可憐な笑顔を咲かせた稲嶺恵理花1等空尉は、小鳥たちと順番に握手を交わしていく。そして最後に流星の前に立った稲嶺1尉は、とても嬉しそうに微笑んだ。稲嶺1尉の笑顔に応えるように、流星も彼女に微笑み返す。流星が見せたその行動は小鳥を驚かせた。 「久し振りだな、稲嶺」 「ええ、そうね。まさか燕君がきてくれるなんて、夢にも思っていなかったわ」 「一応、オレはブルーインパルスの広報幹部だからな」 「よく言うわ。人見知りが激しいくせに」 流星と稲嶺1尉は、甘い微笑みを共有しながら、まるで恋人同士のように親密な会話を楽しんでいる。会話を中断した流星が、稲嶺1尉に向けて右手を差し出す。眼前に差し出された流星の右手を、彼女は両手で包みこむように握り締めた。会話の輪の外に弾き出された小鳥は、呆然とした面持ちで二人を見つめていた。笑顔を浮かべながら握手に応じる流星を、ブルーインパルスに配属されてから初めて見たからだ。 流星が稲嶺1尉に言ったとおり、ブルーインパルスの5番機パイロットは、広報幹部を務めており、部隊に関する外部からの広報業務全般を、担当しなければいけない。流星はドルフィンライダーとしての義務と矜持に目覚めて、自分に与えられた役割を全うするため、PR活動に参加したと思いたいが、もしかしたら稲嶺1尉に会いたかったから、参加したのかもしれない。小鳥の隣に立つ石神が、顎を撫でながら開口した。 「あの二人は仲が良いな。別れたのが信じられんぐらいだ」 「別れた――?」 石神の言葉を聞いた小鳥は、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。 「燕さんと稲嶺1尉は……まさか付き合っていたんですか!?」 「ああ、そうだ。燕が広報室を辞めるまで、二人は交際していたらしいぞ」 青天の霹靂ともいえる事実を知った小鳥は、二度目の衝撃に頭蓋を激しく殴られた。無愛想で協調性の欠片もない流星が、まさか稲嶺1尉と交際していただなんて――。害獣から農作物を守る案山子のように直立した小鳥は、まだ甘い談笑を続けている、元恋人同士の二人を凝視していた。傍から見れば、楽しく語り合うカップルに嫉妬している、愛情に飢えた可哀想な女の子に見えるだろう。そんな小鳥の視線に気づくこともなく、流星との親密な会話を終えた稲嶺1尉は、彼女たちに席へ座るように促した。 「ではPR活動の内容をご説明しますね。これが資料です」 着席した小鳥たちは、稲嶺1尉から順番に資料を受け取った。稲嶺1尉の説明を聞きながら資料を捲る。まずは広報班で一人ずつ順番に、雑誌社の簡単なインタビューを受ける。次にエプロンでT‐4と一緒に全員で写真撮影。その次は一時間半の休憩を挟んでから、四機編成で離陸をして、居並ぶテレビカメラの前で、ローパス課目の展示飛行を披露する。それが今回行われる、ブルーインパルスのPR活動の内容だった。 「もう一人のPR担当広報官と、マスメディア関係の方々の到着は明日になります。ですので今日はゆっくりと身体を休めてください。団司令に話はとおしていますので、入間基地のBOQを使ってください」 稲嶺1尉と別れた小鳥たちは、独身幹部宿舎に向かいそこで解散した。部屋に届いていた荷物の開封と整理を終えた小鳥は、部屋中に充満している埃を追い出すため窓を開けた。新鮮な空気を味わおうと窓から身を乗り出した小鳥は、信じられない光景を目撃してしまう。――なんと流星と稲嶺1尉が、楽しそうに談笑しながら、小鳥のすぐ真下を歩いていったのだ。おまけに流星と稲嶺1尉は、互いの身体を密着させて、腕を組んでいるではないか。 頭上から呆然と見下ろす小鳥に気づかないまま、元恋人の二人は遥か彼方へ歩き去っていった。小鳥は弾かれるように部屋を躍り出ると、ポルターガイストのように耳障りな騒音を奏でながら、階段を駆け下りた。独身幹部宿舎から飛び出した小鳥は、もはや見えないと分かっていながらも、流星と稲嶺1尉の姿を血眼になって捜す。だが予想していたとおり二人の姿は見つからない。心の奥深くから苛立ちにも似た暗い感情が浮上してきたその時、異様な感触が小鳥の胸全体に走った。 「ひゃああああっ!?」 背後からいきなり胸を鷲掴みされた小鳥は、緊急事態を知らせるサイレンよりも、けたたましい悲鳴を上げた。小鳥は視線を真下に転ずる。すると控えめな発育をした小鳥の胸を、しっかりと鷲掴みにした十本の指が、彼女の柔らかい膨らみを確かめるように、くねくねと動いているのが見えるではないか。こんな大胆な行為ができる人物は、たった一人しか思い当たらなかった。 「ふざけないでください! 彩芽さん!」 胸に固定されたままの手を叩き、小鳥は肩越しに振り向く。思ったとおり整備員の鶴丸彩芽が、小鳥の背後に密着するように立っていた。正体を見破られたにもかかわらず、彩芽は嬉しそうに笑っている。今度は下方から掬い上げるように胸を鷲掴みされて、上下に揺さぶられながら、左右に寄せ上げるように強く揉まれた。まるで小鳥の胸の大きさを量っているような手の動きである。くすぐったいような妙な感覚が、腰の辺りをぞわりと粟立たせた。 「小鳥ちゃんって、意外と大きい胸してるんやね。憧れるわぁ」 「ひあっ……あんっ……やっ……やめてください!!」 身体を捻った小鳥は、しつこく胸を揉み続けている彩芽の両手を払い除け、右手で胸を隠しながら彼女と距離をとった。距離をとる間も、彩芽は猫じゃらしと戯れる仔猫のように手を伸ばしてくるので、小鳥は左手で懸命に防御する。互いに譲らない熾烈な戦いが続く。そして長い睨み合いの末に、小鳥と彩芽の攻防は、両者引き分けという形で、ようやく幕を下ろしたのだった。 「凄い悲鳴が聞こえたけれど――どうしたの?」 硝子を指で弾いた時のような、涼やかな声が空気を揺らす。小鳥は彩芽の動向を窺いながら、声がしたほうを見やる。すると宿舎の玄関から里桜が半身を覗かせていた。小鳥が奏でた悲鳴に驚き、部屋から玄関に出てきたに違いない。小鳥はこちらに歩いて来た里桜と合流すると、彩芽が行ったセクシャルハラスメントともいえる行為の一部始終を密告した。片眉を顰めた里桜が綺麗な顔を曇らせる。きっと彩芽を一喝してくれるのだ。2対1の有利な状況に、小鳥は己が勝利を確信したのだが。 「小鳥ちゃんに悪戯するなんて駄目じゃない。燕君に怒られるわよ」 「えええっ!? それだけは堪忍してください! お願いですから、燕さんには言わんとってくださいね〜!」 二人の間で交わされる会話を聞いていた小鳥は呆気にとられる。里桜と彩芽の口から「燕流星」という、思わぬ人物の名前が出てきたからだ。 「どっ、どうして燕さんの名前が出てくるんですか?」 「どうしてって……小鳥ちゃんと燕君は最近仲が良いみたいだから、こっそり付き合っているんじゃないかって、部隊のみんなが揃って噂しているわよ」 「手も繋いでキスもしたん? もしかして……エッチも経験済みなん?」 小鳥の可憐な顔は、瞬時に完熟したトマトのような、鮮やかな赤色に染まる。甘くロマンティックなムードが溢れる、薄暗いホテルの一室のベッドの上で、上半身裸の流星の腕に優しく抱かれている、自分の姿を脳裡に想像してしまったからだ。おまけにその情景は、細部までとても精密に描かれており、流星が甘く微笑みながら「小鳥」と呼ぶ、熱い吐息混じりの囁き声まで聞いてしまった。小鳥は己の想像力の豊かさに驚き、ジェットコースターの如き勢いで左右に頭を振ると、脳裡に浮かんだままの過激な映像を追い払った。 「私と燕さんは付き合っていませんし、エッ、エッチだなんて、そんな嫌らしいこともしていません!! それに関係だって悪いほうです!! 勝手に変な噂をしないでください!!」 怒りと恥じらいで、顔面をさらに赤く染めた小鳥は怒鳴り、左右の目尻を限界まで吊り上げると、眼光鋭く里桜と彩芽を睨みつけた。まさに鬼気迫る形相に気圧された彩芽は、数歩後ずさりすると、両方の掌を耳の横に持ち上げ、里桜は女神のような綺麗顔に、恐怖で引き攣った笑みを浮かべた。これは間違いなく降参の意思表示。なので小鳥は里桜と彩芽を許すことにした。だが二度目はない。仏の顔も三度までだ。 「冗談に決まってるやないか。なんや元気がなさそうやから、励ましたろうと思っただけやって。小鳥ちゃんも里桜さんも、今からウチに付き合ってくれん? 甘いもんでも食べにいこうや」 荷物の開封と整理は終わったし、ローパス課目の事前訓練は、今日の午後から始める予定になっているはずだ。だがこれ以上、流星と稲嶺1尉が仲睦まじく寄り添っている場面を、二度と目撃したくなかったので、小鳥は里桜と一緒に彩芽の甘い誘いを受けることにしたのだった。 「すみません! ストロベリーパフェ、一つお願いします!」 「小鳥ちゃん、これで三杯目よ。お腹は大丈夫なの?」 小鳥は勇ましく腕を掲げて店員を呼ばわり、ストロベリーパフェを追加注文をする。すると半ば呆れたような、里桜の涼やかな声が喫茶店に響き渡った。小鳥の目の前には、空になった硝子製の器が二つ並んでいるからだ。私服に着替えて入間基地を旅立った小鳥と彩芽と里桜は、花の都と称されるフランスの首都パリを思わせる、お洒落な雰囲気が漂う喫茶店で、三人だけのささやかな女子会を開いていた。 真っ赤に熟した苺が頂点に君臨するパフェが、銀色のトレイに載せられて、小鳥たちのテーブルに運ばれてきた。テーブルにパフェが置かれるや否や、小鳥は富士山のように盛られたバニラアイスを、スプーンで豪快に掬い、一気に口の中へ放り込む。眉間に皺を寄せながら、パフェを咀嚼する小鳥を、隣席と向かい側に座る里桜と彩芽は、宇宙人を発見したような顔で見ている。 「まさに鋼鉄の胃袋やな。圭麻やったらとっくの昔に死んでるで。あいつは甘いもんを食べすぎたら蕁麻疹が出てまうんやから笑えるわ。それにしてもいったいどないしたん? なんか嫌なことでもあったとか?」 「……ありました」 銀色のスプーンを手元に置いた小鳥は、溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、20ミリ機関砲の如き勢いで、流星と稲嶺1尉の熱く甘い親密ぶりを、彩芽と里桜にうち明けた。小鳥の話を聞き終えた彩芽は、ソファの背もたれに背中を預けて腕を組むと、真犯人をつきとめた名探偵シャーロック・ホームズのような微笑を唇に浮かべた。 「なるほどなぁ。小鳥ちゃんは燕さんと仲が良い稲嶺1尉に嫉妬してるというわけやな」 喉に苺の果肉が引っかかり気道を塞ぐ。小鳥は窒息する前に急いでミルクティーを流し込み、喉に絡みついている苺の果肉を押し流した。小鳥の反応を見た彩芽は、自らの推理が正しいと確信したようで、テーブルに頬杖をついて、チェシャ猫のような薄ら笑いを浮かべている。 「しっ、嫉妬だなんて違います!! どうして私が稲嶺1尉に嫉妬しなきゃいけないんですか!? まさか私が燕さんのことを好きだなんて思っているんですか!? そんなわけありません!! 意地悪で、高慢で、冷淡で、天上天下唯我独尊の塊みたいな人を、好きになるわけありませんよ!!」 全力で彩芽の言葉を否定した小鳥は、顔面を紅潮させて立ち上がり、垂直に振り上げた両手でテーブルを叩いた。小鳥が奏でた大音量に驚いた客たちが、一斉に非難の視線を彼女に向ける。突き刺さるような冷たい視線を全身に浴びたお陰で、興奮状態だった小鳥は、いくぶん落ち着きを取り戻した。琥珀色のレモンティーをストローで掻き混ぜながら、彩芽が口を開く。 「確かにそうやな。燕さんって超イケメンなんやけれど、小鳥ちゃんの言うとおり、性格が悪いからな。ウチら整備員もな、機体をちゃんと磨いてない! キャノピーが汚れてる! ってしょっちゅう難癖をつけられてるんや。お父さんが航空幕僚長やから調子にのってるんやで!」 「燕さんのお父さんが航空幕僚長? 本当なんですか?」 「あら。小鳥ちゃんは知らなかったの?」 航空幕僚長とは、防衛省航空幕僚監部の長で空幕長と略され、航空防衛行政に関する最高の専門的助言者として、防衛大臣を補佐する者のことだ。統合幕僚長に航空自衛官が着任した場合を除き、航空自衛官の最高位となる。階級は空将――空軍中将相当であるが、統合幕僚長と同じ特別の階級章が定められているため、実際は空軍大将相当となっている。 航空幕僚長の息子という、特権的な地位に生まれついただけでも幸運といえるのに、さらに流星は容姿端麗の美青年だ。おまけに彼は花形職と言われる元戦闘機パイロットであり、現在は誰もが羨むドルフィンライダーである。「天は二物を与えず」というが、流星は神様に特別贔屓にされているに違いない。指を銜えて嫉妬してしまいそうだ。 「ほんま鷹瀬さんとは大違いやで。文句一つ言ってこんし、女性に優しくていつも謙虚やし。ところで話は変わるけれど、なんでファイターパイロットになったんですかって、随分前に鷹瀬さんに訊いたことがあるねん」 「鷹瀬さんはどう答えたんですか?」 「『守りたいからだ』ってゆうたんや」 「守りたい……? 守りたいって、何をですか?」 「詳しくは教えてくれへんかったけれど、日本の空を守りたいって意味やと思うで。その言葉を聞いた瞬間ウチは痺れたで〜! あの凜とした顔と眼差しは今も忘れられへん! まさに航空自衛隊パイロットの鑑のような人やわ! 燕さんも鷹瀬さんを見習うべきやで! 小鳥ちゃんもそう思うやろ!?」 レモンティーが揺れるグラスを置いた彩芽は、こちらに向けて身を乗り出すと、綺羅星のように双眸を輝かせながら、小鳥に同意を求めてきた。鼻息が荒く頬も赤いのは興奮している証拠だ。彩芽が言うとおり、真由人は端正なうえに育ちも良い。だが小鳥は素直に「そうですね」とは言えなかった。 「私は彩芽さんが言うほど、燕さんが悪い人だとは思えないんです」 彩芽は驚いたことを示すように双眸を瞬かせた。 「いきなりなんなん? 高慢・冷淡・天上天下唯我独尊の塊人間だ! って言うたのは小鳥ちゃんやで?」 「確かに燕さんにはそういうところがあります。けれど燕さんが冷たい態度を取ったりするのは、誰かと信頼関係を築くことを、恐れているからなんじゃないかって思うんです。それに燕さんは、大切な人を失くした人たちの心の痛みを知っています。パートナーである私が――心を分け合った私が、燕さんのことを悪く言うなんて、駄目ですよね」 小鳥の脳裡にあの夜の情景が――満天の星に見守られながら互いの心を分け合い、信頼し合うと誓った夜の情景が、細かく鮮明に蘇ると、不思議と苛立ちにも似た感情は、心の中から消えていた。小鳥は苛立ちに任せて純白のパフェを崩していた手を止め、静かに言葉を紡ぐと同時に、流星を中傷した己を戒める。綺羅星のように輝いていた彩芽の双眸が、より一層と煌めきを増す。その眩い煌めきを向けられた小鳥は、先程の発言で墓穴を掘ってしまったことに気づいたのだった。 「そこまで言うんやから、小鳥ちゃんは燕さんのことが好きなんやな。おまけに『心を分け合った』やなんて、えらい意味深なことを言うし、やっぱりエッチも経験済みなんちゃうの? 里桜さんもそう思いますよね?」 「だっ、だから違うって言っているじゃないですか! 里桜さんも何か言ってください!」 小鳥と彩芽から同時に同意を求められた里桜は、静かに沈黙している。ややあって薔薇色の唇が開かれた。小鳥と彩芽は期待しながら里桜の言葉を待つ。だがその隙間から零れた言葉は、小鳥と彩芽のどちらかを擁護するものではなかった。 「……私は小鳥ちゃんと彩芽ちゃんが羨ましいわ」 里桜の涼やかな声が空気を震わせて、彼女が注文した紅茶の水面に、見えない波紋が浮かぶ。里桜は目の前に置いた紅茶の水面を、静かに見下ろしている。羨ましいと言われた小鳥と彩芽は、胸に戸惑いを覚えた。そんな二人に気づかず里桜は言葉を継いだ。 「貴女たち二人は、いつも純粋で真っ直ぐで、一途に誰かを想ったり、強く信じ続けることができる。……けれど私はそれができなかった。大切な人に背中を向けて逃げてしまったの」 ゆっくりと開かれた、里桜の唇から零れ落ちた暗い言葉は砕け散り、やがて空気の一部となった。空気が静寂を帯びる。天使の梯子のような陽光が、窓硝子を透過して里桜の上に降り注ぐ。窓の外を眺める里桜の綺麗な白い横顔は、儚い憂いを纏っており、真夏の日差しに負けて、今にも溶けてしまいそうだった。 凜とした静けさが広がるその日の夜。小鳥は入間基地の一角で、独り静かに佇んでいた。小鳥が見つけた一角は、純粋で穏やかな静寂に守られており、広大な空へと導いてくれる滑走路が、一望できる素晴らしい場所だった。藍色の幕が広がった空には、ベガ・デネブ・アルタイルが形作る夏の大三角形が、銀色に燦然と輝いている。 夏の星座の他にも宵闇を照らす光源はあった。それは灯台の明かりのように煌々と輝く、格納庫の照明灯である。第11飛行隊の整備員たちが、徹夜でT‐4の点検整備を行ってくれているのだろう。汗と油まみれになって作業する、整備員たちが地上にいて支えてくれるからこそ、小鳥たちドルフィンライダーは、偏に空を飛ぶことができるのだ。 「――誰だ?」 整備員たちの作業を眺めていると、暗闇の彼方から鋭い声が飛んできた。草が踏み潰される乾いた音が、こちらに近づいてくる。まさか入間基地を巡回する、基地警備隊に発見されてしまったのか。自衛隊はいかなる場合でも、時間厳守・命令厳守が求められる。警備隊に連行されて、部隊の連帯責任となってしまったら、流星から容赦の欠片もない、罵詈雑言を浴びせられるのは確実だ。素直に謝れば罪を軽くしてくれるかもしれない。座っていた小鳥は急いで立ち上がり、鋭い声が飛んできたほうに頭を下げた。 「すみません! なかなか寝つけなくて、夜風にあたっていました! すぐに宿舎に戻りますであります!」 「……なんだ、お前かよ」 月明かりのスポットライトの下から現れたのは、恐怖の警備隊ではなく、灰色の作業着を着崩した流星だった。直立する小鳥を一瞥した流星は、その長身痩躯を折り曲げると、草地の上に寝転んだ。両手は頭の下で組まれて枕代わりとなり、すらりと伸びた長い両脚は、無造作に投げ出されている。まるで自宅のリビングにあるソファの上で、ゆったりと寛いでいるような格好だ。ただ草地の上に寝転んでいるだけなのに、なぜだか小鳥は流星の姿に目を奪われてしまう。 寛ぐ流星を前に、この場から立ち去るべきか否か逡巡したが、こちらを見上げてきた彼に、お前も座れよと言われたので、小鳥は歩幅一歩分ほど離れた場所に、遠慮がちに腰を下ろした。気紛れに吹く夜風に髪を揺らしながら、二人は沈黙を保ったまま滑走路を眺める。心地良い沈黙に心を解された小鳥は、いつの間にか胸の内に秘めていた言葉を口にしていた。 「燕さんと稲嶺1尉って、付き合っていたんですね」 草地に寝転んでいた流星が、引き締まった上半身を起こす。夜空に瞬く夏の星座を眺めていた、切れ長の視線が小鳥のほうを向いた。突然と投げかけられた小鳥の言葉に、流星はとても驚いているようだった。 「……いきなりなんだよ」 「私、燕さんは絶対にPR活動に参加しないだろうなって、思っていたんです。ブルーインパルスの広報幹部だから、参加したわけじゃありませんよね? 別れた稲嶺1尉のことが忘れられなくて、どうしても彼女に会いたかったから、私たちと一緒にきたんですよね?」 尋ねてからすぐに、自分は何を言って何を訊いているのだろうと小鳥は後悔した。これではまるで芸能人に突撃取材する記者のようではないか。きっと流星は心底呆れ果てているに違いない。小鳥がごめんなさいの台詞を言う前に、流星が口を開いた。 「……馬鹿かお前は。変な勘違いしてるんじゃねぇよ。オレがここにきたのは、お前と――」 流星は迷ったように一瞬だけ口を閉ざした。まるでその先に続く言葉を紡ぐのを、躊躇っているかのように。 「オレがPR活動に参加したのは、お前を見張るためだ。お前から目を離すと、何を仕出かすか分からないからな。着陸に失敗して横転するかもしれないし、T‐4に乗ったまま、隊舎や格納庫に突っ込むかもしれない。だからオレはここにきてやったんだ。ありがたく思え」 「なっ――なんですか!? それってまるで、私が皆さんの足を引っ張っているみたいじゃないですか!」 まさに失礼極まりない言葉の塊を、耳朶にぶつけられた小鳥は、左右の頬に空気を詰め込んで一気に膨らませ、流星に向けて猛抗議した。小鳥の口から放たれた抗議の叫びは、無限に広がる宵闇の彼方に吸い込まれていく。だが失礼極まりなかった流星の言葉にはまだ続きがあった。 「オレはお前のパートナーだからな。心配するのは当たり前だろうが。……それにお前はいつも頑張って努力を続けている。オレたちの足手まといなんかじゃねぇよ」 爽快に晴れ渡った青空を見上げた時のような気持ちが小鳥の心に広がる。思わず立ち上がった小鳥は、隣に佇む流星の端正な横顔を見下ろした。小鳥の目の錯覚かもしれないが、その頬にほんのりと赤みが差しているように見える。 「……警備の奴らに見つかったら面倒だ。そろそろ戻るぞ」 小鳥に宿舎への帰還を促した流星が、身体に付着した草と土を払って立ち上がる。暗闇のほうを向いた流星の背中に、「待ってください」と小鳥は声をかけた。最後に一つだけ小鳥は流星に訊きたいことがあったからだ。 「燕さんは、どうして航空自衛隊のファイターパイロットになろうと思ったんですか? 鷹瀬さんは日本の空を守るために、ファイターパイロットになったって、彩芽さんから聞いたんです。やっぱり燕さんも、日本の空を守りたかったから、ファイターパイロットを目指したんですか?」 小鳥は月明かりを浴びる流星の背中に向けて、思い切った質問を投げかけた。小松基地の第306飛行隊を辞めた流星に尋ねるには、些か不躾な問いかけだと思った。しかしどうして流星は、航空自衛隊のファイターパイロットを志したのか。小鳥はその理由がどうしても知りたかった。 「……日本の空を守る、か。馬鹿真面目な真由人が言いそうな台詞だな」 流星は首を上げると、海の断面のような藍色に染まる上空を仰ぎ、一つに結んでいた唇を、ゆっくりとほどいた。 「……まだガキの頃、オレはいつも空に憧れていたんだ。青空、夕焼け空、プラネタリウムのような夜空にな。そんな空をこの手の中に掴みたくて、いつも全速力で走って、空を追いかけてた。確かに日本の空を守ることが、ファイターパイロットの使命だ。でもオレはただ空を飛びたかった、空に近い場所にいたかった。パイロットになればあの空を掴めると思ったから、オレは航空自衛隊のパイロットになった。ただそれだけさ。お前はどうなんだよ。どうして航空自衛隊のパイロットを目指したんだ?」 「私は父さんと同じ空を飛びたかったから、空自パイロットを目指したんです。実は私の夢はもう一つあるんです。父さんが飛んでいた松島基地航空祭で、ブルーインパルスの皆と『サクラ』を描くこと。それが私のもう一つの夢です」 小鳥に背中を見せている流星は、黙ったまま彼女が語る純粋な夢を聞いていた。そして足下の草を折った流星が振り向いた。 「……そうか。お前の夢が叶うといいな」 瞬間小鳥の心臓の律動は高鳴り、回転率は急上昇していた。振り返って小鳥と向き合った流星は、完璧に整った端正な顔を柔らかく崩して、口から白い歯を覗かせて笑っていたからだ。正面から優しい微笑みを向けられた小鳥の頬は、夕焼け空も指を銜えて嫉妬しそうな赤色に染まっていた。 小鳥の頬を染めている赤い色に気づかないまま、再び背中を向けた流星は、隊舎の明かりを道標にして、暗闇の中を歩いていく。鮮やかな赤色に染まった頬を、流星に見られずに済んでよかった――。ほっと安堵した小鳥は、密かに胸を撫で下ろすと、夜の空気が熱い頬を冷やしてくれるのを願いながら、急いで流星の後を追いかけた。 そして二人が草地から立ち去ったあと、まるで小鳥の純粋な夢を聞き届けたかのように、銀色に煌めく尾を引いた星の欠片が、入間の夜空を静かに駆け抜けていった。 「いい加減に機嫌を直せよ」 「――嫌です」 頬を膨らませたままの小鳥は、不機嫌の塊のような声で答える。速度を合わせて隣を歩く流星は、些か困惑気味の表情だ。どうして小鳥が左右の頬を膨らませて不機嫌なのか、その原因がまったく理解できていないのだろう。広報班で雑誌記者のインタビューを終えた小鳥たちは、次の写真撮影のためにエプロンへ向かっていた。稲嶺1尉によると、もう一人の広報官がそこで待っているのだそうだ。小鳥は肩越しに後方を振り返る。男性カメラマンを引き連れた女性雑誌記者が、やや遅れて後ろをついてきていた。 「美人記者さんに、インタビューされてよかったですね。あんなに鼻の下を伸ばしちゃって、まるで変質者みたいでしたよ」 「馬鹿なことを言うな。オレは鼻の下なんか、伸ばしちゃいねぇよ」 「いいえ、こーんなに伸ばしていました! 防空識別圏よりも長かったです!」 そうだ。流星にインタビューをする女性記者はとても嬉しそうな顔をしていた。絶世の美青年を目の前にすれば、誰だって彼女と同じ反応を見せるだろう。だがそれにしても、あの握手は些か熱が入りすぎていたのではないか。陸海空の自衛官は女性の好意を得やすいと聞く。特に航空自衛隊の戦闘機パイロットは、かなり人気が高いらしい。 人気が高いその理由は、本能的に優秀な遺伝子を求めるからだと、ミリタリーマガジンに書かれていた。流星は花形の元戦闘機パイロットで、おまけに容姿端麗の美青年だから、女性からのアプローチもそれは激しいに違いない。流星がどんな女性と知り合い交際しようが、自分には関係のないことだ。それなのにどうして気持ちが落ち着かないのだろうか。 エプロン地区には四機のT‐4と、整備員たちが待機していた。丁寧かつ丹念に磨かれた白い機体が、太陽の日差しを弾いている。今日の写真撮影のために、整備員がいつもより念入りに磨いてくれたのだろう。横一列に並べられたT‐4の前に、涼しげな第二種夏服を着用した男性が立っていた。恐らく彼がもう一人の広報官に違いない。小鳥たちの姿を認めた彼は、こちらに歩いてきた。自衛官らしい綺麗な歩き方だ。だがよく見てみると、やや右足を庇うように歩いているように思える。観察眼の鋭い者しか分からない微細な仕草だった。 「初めまして。航空幕僚監部広報室広報班の、雪村慎二1等空尉です。このたびはPR活動に協力してくださり、ありがとうございます。ああ、でも、初めましてとは言いましたが、初対面ではない奴もいましたっけ」 雪村慎二広報官はくだけた口調で言うと破顔した。年齢は三十代前半。短く刈り込んだ黒髪と、日に焼けた人好きがする顔立ち。背が高く身体つきもがっしりとしていて逞しい。稲嶺1尉と同じく、彼も小鳥たちと順番に握手を交わしていく。雪村1尉は流星と握手をしながら親しげに会話をしていた。確か流星は、ブルーインパルスにくる前は広報室に勤めていたと言っていた。とすると「初対面ではない奴」とは流星のことか。だが最後に里桜の前に立った雪村1尉の様子から、初対面ではない相手はもう一人いるのだと、小鳥は気づいたのだった。 「久し振りだな、里桜。三年ぶりか?」 「……ええ」 話しかけられた里桜の表情は、化石のように強張って動かない。途切れたまま再開されない会話。里桜と雪村1尉の関係が、あまり良好ではないのだと感じ取れた。諦めたように息を吐いた雪村1尉は、里桜の肩を叩くと、女性雑誌記者と男性カメラマンが待つ所へ歩いていった。ややあって片手を上げた雪村1尉が小鳥たちを呼ぶ。石神が先に歩き出す。小鳥が石神の後に続こうとしたその時、後ろのほうで驚きの声が上がった。 「雪村さん!?」 驚きの声を上げたのは、小鳥たちの最後尾に控えていた流星だった。小鳥は流星が呼んだのは、広報官の雪村1尉と思ったが、彼と同じ名字を持つ人物がここにいることに、ようやく気づいた。振り返った小鳥と石神は揃って瞠目する。雪村1尉と同じ名字を持つ人物――雪村里桜は、地面に座りこんだ流星の胸にぐったりともたれかかり、彼の両腕に抱かれていたのだ。顔面蒼白の里桜は左右の瞼を固く閉ざして、今にも途切れそうな弱々しい呼吸を繰り返している。 「里桜さん!? しっかりしてください!」 「燕! いったいどうしたんだ!?」 流星が言うには、突然里桜の細い身体が胸に倒れてきて、戸惑った彼は彼女を支えることができず、一緒に地面に崩れ落ちてしまったらしい。里桜の異変に気づいた雪村1尉が、数人の隊員を連れて戻ってきた。担架に乗せられて里桜は、衛生隊隊舎の医務室に運ばれていく。小鳥たちも急いで衛生隊員たちの足跡を追いかけた。 担架に乗せられて里桜が搬送された衛生隊隊舎の医務室は、天井と四方を白い壁で囲まれた部屋で、消毒液や薬剤の清潔な匂いが、冷たい空気に残留していた。白いベッドに寝かされた里桜は、毒林檎を食べた白雪姫のように、昏々と眠り続けている。どうやら里桜は、蓄積された疲労からくる突然の貧血に襲われたらしく、しばらく休めば回復するだろうと、入間基地に勤務する嘱託医の男性医師は、そう診断して医務室を出ていった。 小鳥たちは黙って里桜が目覚める時を待ち続けた。隊員たちの飛行訓練が終わったのだろうか、壁の向こうで断続的に響いていた爆音が鳴り止み、やがて湖の底に漂うような静けさが室内を満たした。そして待ち望んでいた瞬間が訪れる。繊細な睫毛が震えて青白い瞼が動き、瞼の奥から薄い茶色の双眸が現れたのだ。深い眠りから覚醒した里桜は、双眸を瞬かせると虚ろな視線を巡らせた。 「石神隊長、燕君、小鳥ちゃん……? 私はいったい――」 枕から頭を持ち上げた里桜が上半身を起こす。しかし急に起き上がったせいなのか、頭蓋を目眩に殴られたようで、里桜の細い身体は振り子のように揺れ動いた。側に座っていた石神の逞しい両腕が、里桜を支えて、優しく労わるようにベッドにゆっくりと横たえる。「エプロンでいきなり倒れたんです」と小鳥が教えると、瞑目した里桜は嘆息した。自分が医務室のベッドに寝ている理由を理解したようだ。 「あの、もしかして、里桜さんと雪村1尉はお知り合いなんですか?」 時間をおいて小鳥が問いかけると、里桜は石神の両腕に支えられながら、再び上半身を起こした。里桜の身体と意識は穏やかに安定している。今度は目眩に襲われなかったようだ。透明感のある美貌に花を添える長い睫毛が、白い瞼と一緒に伏せられる。ふっくらとした薔薇色の唇が、空の上に昇れない重い嘆息を吐き出した。 「雪村慎二は私の兄よ。……私は彼の夢を奪ってしまったの」 里桜と慎二の祖父と父は、共にブルーインパルスのパイロットだ。祖父の晴男はF‐86Fノースアメリカンセイバー、父の誠治はT‐2に乗り、日本の空に曲技飛行の軌跡を描いてきた。そんな二人の息子である兄の慎二が、航空自衛隊のパイロット――ブルーインパルスのパイロットになりたいと夢を抱いたのは、言うまでもない。だがそれは里桜も同じだった。1994年8月に開催された三沢基地航空祭で、ブルーインパルスと米空軍のアクロバットチーム「サンダーバーズ」の、競演を見た瞬間から憧れは一層増して、自分も絶対に祖父と父と同じブルーインパルスのパイロットになると、強く決意したのである。 子供から大人に成長した里桜は、猛勉強を続けて試験に合格して、航空学生として山口県防府北基地・第12飛行教育団に入隊した。二年の航空学生課程で、最低評価を意味するピンクカードを一枚も貰わなかった里桜は、ウイングマークを得たあと、自らの希望通り戦闘機操縦基礎課程に振り分けられる。そして宮崎県新田原基地での、F‐15戦闘機操縦課程を修了した里桜は、福岡県東部周防灘に面している、築城基地第8航空団第304飛行隊に配属されたのだった。 実はブルーインパルスへの内示が出たんだ――。検定に一発合格した里桜が、TRからARに昇格してから数日が経った土曜日、築城基地を訪ねてきた慎二は、嬉々とした表情でそう告げてきた。飛行時間は1300時間を越えて二機編隊長の資格も取得、おまけに戦技競技会のメンバーに選抜されたことがある慎二は、間違いなくドルフィンライダーに抜擢されると里桜は確信していた。里桜が「おめでとう」と言うと、慎二は照れたように笑いながら頭を掻いた。 「でも悔しいわ! 先に私がドルフィンライダーになろうって思っていたのに!」 里桜は薔薇色の唇を家鴨のように尖らせる。拗ねる妹を見た慎二は苦笑した。 「そんな顔をするなって。里桜ならすぐに追いつけるさ。兄妹でドルフィンライダーになって、一緒に日本の空を飛ぼうじゃないか。だからお前もすぐにこいよ!」 報告を終えた慎二は百里基地に帰ろうとしたが、久し振りに大好きな兄と会えて嬉しかった里桜は、せっかくだから一緒に昼食を食べにいかないかと誘った。恐らく慎二も妹と会えて嬉しかったのだろう。彼はすぐに快諾してくれた。里桜は慎二と連れ立って築城基地を出る。普段から足繁く通っている定食屋に続く横断歩道を渡ろうとした瞬間、里桜はこちらに向かって突進してくる乗用車に気づいた。驚愕した運転手と、フロントガラス越しに視線が絡み合う。恐怖で瞠目した里桜は、これから自分の身に起こるであろう惨劇を覚悟した。 「里桜!!」 悲鳴に近い慎二の叫びが耳朶を打つと同時に、里桜は前方に突き飛ばされた。次いで甲高いブレーキ音が響く。何かが跳ね飛ばされたような音が聞こえた。痛む身体を起こした里桜は斜め後方を見やる。歩道脇の電柱に衝突して大破した乗用車。驚愕の表情を浮かべている群衆。そして――遠く離れた所で倒れたまま、ぴくりとも動かない慎二。思考が三つの点を一本の線で結びつける。瞬間里桜の思考は何が起こったのかを理解した。 ――慎二は里桜を庇い車に撥ねられたのだ。 通行人の通報を受け駆けつけた救急車で、慎二はすぐに病院へ搬送されて緊急手術を受けた。右大腿部の複雑骨折。それが医師の下した診断だ。優秀な医師たちの迅速かつ懸命な手術のお陰で、切断という最悪の事態は免れた。慎二を撥ねた乗用車の運転手は、皮肉なことに頭部打撲の軽傷で済んだ。落とした携帯電話を拾おうと身を屈めて、運転席に座り直した直後に横断歩道を渡る里桜に気がつき、咄嗟にブレーキを踏んだが間に合わなかったと、警察に言っていたらしい。 慎二は何ヶ月も過酷なリハビリを続けた結果、なんとか日常の歩行ができるまでに回復したが、やはり二度と飛行機には乗れない身体となってしまった。二度と空を飛べない慎二を待ち受けるのは、F転とパイロットの資格罷免という残酷な運命だ。運命の女神の気紛れで、ドルフィンライダーになるという慎二の青い夢は、永遠に絶たれてしまったのだった。 いや、違う。これは運命の女神の気紛れではない。 慎二の青い夢を絶ったのは他でもない自分だ。 あの時慎二を引き留めずにいたら、悲劇は起こらなかったのだから――。 過去の記憶を語り終えた里桜は、ぐったりとベッドに沈みこんだ。妖精のように美しい白皙の顔は、先程よりも更に青褪めている。あまりの憔悴ぶりにいたたまれなくなった小鳥は、声をかけようとしたのだが、「ごめんなさい」と謝った里桜は背中を向けると、彼女たちの視線から逃げるように布団を頭まで被り、ベッドの中に潜り込んだ。 盛り上がった布団の表面が微かに震えている。白い繭の中で里桜は肩を震わせながら泣いているのだ。石神が小鳥と流星に視線を送る。布団の中で独り啜り泣く里桜を残して、小鳥たちは医務室を出た。後ろ手にドアを閉めた石神は、沈痛な面持ちで開口した。 「……あの状態だから雪村は飛べないと思う。俺たち三人だけでローパスをすることになるか――最悪PR活動は取り止めになるかもしれん。稲嶺1尉たちと話してみないと分からんが、一応そのことを頭に留めておいてくれ。本当にすまないな」 里桜の側には自分がついているからと石神が言ったので、小鳥と流星は衛生隊隊舎を後にして、とりあえず独身幹部宿舎に戻ることにした。四人で飛ぶことを楽しみにしていただけに、里桜の離脱は残念としか言いようがない。だが誰よりも辛いのは里桜だ。彼女の心境を思えば仕方がないだろう。 「――里桜さん、とても辛そうでしたね」 宿舎に向かう道すがら小鳥は足を止めて呟いた。やや前方を歩いていた流星も、立ち止まってこちらを振り返る。 「そんな里桜さんの気持ちも知らないで、私は雪村1尉と知り合いなのかどうか訊きました。私が軽はずみな質問をしたせいで、里桜さんは深く傷ついて、今も泣いている。燕さんだけじゃなく、今度は里桜さんも傷つけてしまうなんて、私って本当に馬鹿ですよね。……ブルーインパルスのパイロットとして失格です」 歩みを止めたまま小鳥は俯き、地面の上に視線を落とす。落とした視線が黒いブーツの爪先を捉えた。「夕城」と涼やかな声に名前を呼ばれて小鳥は顔を上げる。目の前に立っているのは仏頂面の流星だ。きっと小鳥を厳しく咎めるに違いない。伸びてきた大きな手が、小鳥の明るい栗色の髪を優しく掻き回す。てっきり強い口調で咎められると思っていた小鳥は驚き、目の前に立つ流星を見上げた。 「雪村さんがオレたちに自分の過去を話してくれたのは――オレたちに隠し事をしたくなかった、聞いてほしかったからなんじゃないのか? ……確かに辛い過去を思い出した雪村さんは、深く傷ついたかもしれない。でもな、自分の過去を誰かに話すことで、傷ついた心が救われることもあるんだ。別にお前が気に病むことはねぇよ。それに雪村さんには石神隊長がついている。だから大丈夫だ」 励まされるように軽い力で頭を叩かれる。小鳥が見上げる流星は、優しく穏やかに微笑んでいた。いつもの流星からはとても想像がつかない、穏やかな微笑みだった。 小鳥から見た流星は、気性が激しく言葉遣いも乱暴で、容易には近寄りがたい青年だ。でもそれが彼の「本質」ではないような気がする。ぶっきらぼうだけれど本当は優しく、他者の心の痛みに敏感で、信頼関係を築くことを恐れるがゆえに、周囲の者を拒絶して冷たく突き放してしまう――それが流星の本質ではないのだろうか? あの夜小鳥に見せた笑顔と先程の言葉は、彼が内に隠している本質の一端が、表に出てきたのかもしれない。そして里桜と同じく流星も、深い過去の闇を心に抱えている。その過去を誰かに話したい、聞いてほしいと彼は思っているのだろうか。それならば話してほしいと思う。自分たちは同じ空を目指して集い、互いの心と命を預け合った仲間なのだから。 構内を歩いていると、反対側から雪村1尉が早足で歩いてきた。雪村1尉は小鳥たちに軽く会釈をしてから、二人を昼食に誘ってきた。ちょうどお腹も空いてきたところだ。小鳥と流星は雪村1尉の誘いを受けて、入間基地の隊員食堂に向かう。精算を済ませて配膳カウンターで料理を受け取り、いちばん奥の角席に三人は腰掛けた。小鳥の隣に流星が座り、雪村1尉は二人の向かい側に着席する。しばらく静かに昼食を口に運ぶ。昼食の半分を食べ終えた頃、テーブルの上に箸を置いた雪村1尉が口を開いた。 「……里桜の具合はどうですか?」 「軽い貧血だそうです。疲れが溜まっていたせいもあったんじゃないかって」 「そうですか……」 雪村1尉は息を吐くと、硬かった表情を少しだけ和らげた。里桜が倒れた原因と責任は、すべて自分にあるといった表情だ。 「里桜さんのところにいってみてはどうですか? 雪村1尉は里桜さんのお兄さんなんですよね? 雪村1尉と会って話をしたら、里桜さんも少しは元気が出ると思うんですけれど……」 小鳥が提案すると、雪村1尉は悲しげな面持ちで首を振った。 「いえ……それは無理ですよ。なにせ俺は避けられていますからね。今日ここであいつに会うまで、三年も音信不通だったんです。俺が広報官になっていたことも知らなかったようですし」 里桜が雪村1尉と三年も連絡を絶っていた理由はただ一つしかない。それは彼に対して抱く「罪悪感」だ。形になりかけていた夢を、兄から奪ってしまった罪悪感が、里桜にそうさせているのだろう。雪村1尉もそれに気づいているらしく、彼は日焼けした顔に滲んでいる悲しみの色を一段と濃くした。 「夕城3尉も燕1尉も、里桜から話を聞いたんですね。里桜は子供の頃に、三沢基地航空祭でブルーインパルスの展示飛行を見て、ブルーインパルスのパイロットになることを強く夢見ていました。そしてあいつは憧れのブルーインパルスに抜擢された。けれど俺の事故の一件もあって、素直に喜べなかったんじゃないかって思うんです。……俺はあいつにいろいろな期待をかけて、重荷を背負わせてしまった最低な兄貴ですよ。マスコミの対応があるので、すみませんが先に失礼します」 お茶を一気に飲み干した雪村1尉が席から立ち上がる。小鳥と流星に向けて軽く頭を下げた雪村1尉は、空になった食器を積んだトレイを洗い場の棚に置き、急ぎ足で隊員食堂から出ていった。やや間をおいて唐揚げ定食を食べ終えた流星も、トレイを持ち上げ席を立つ。 「オレは寄る所があるから、お前は先に宿舎に戻れ」 「寄る所ってどこですか? 私も一緒にいきますよ」 「いや、お前はこなくていい。オレ一人でいく」 その瞬間小鳥の第六感が覚醒した。 「もしかして……稲嶺1尉のところですか?」 流星の端正な顔が僅かに動揺の色を滲ませた。覚醒した小鳥の第六感は、流星の思考を完璧に読んだのだ。この瞬間も里桜が傷つき、涙を零して苦しんでいるというのに、流星は稲嶺恵理花と愛を語らうつもりのようだ。小鳥の質問には答えず、流星はトレイを洗い場の棚に置くと、食堂から出ていった。それにしてもどうして自分は、流星の一挙一動にいちいち一喜一憂してしまうのか――。まったくもって自分が理解できない。小鳥は憤然としながら、驚異的な速度で目の前のカレーライスを完食した。 青い月の光が静寂に包まれた部屋に落ちている。幻想的な月の光でいっぱいに満たされたその部屋は、あたかも部屋全体が群青の深海に沈んでいるかのようだ。里桜は窓際に佇み、独り天空に浮かぶ月を仰いでいた。静かに黙して月を仰ぐその姿は、海面に突き出た岩に腰掛けている人魚姫のような、儚くも美しい印象を、見る者に与えるであろう。 「眠れないのか?」 濃い青色の陰りを帯びた月の光で満たされた部屋に、低い声が響き渡る。里桜は満月に当てていた視線を外すと、医務室の入口のほうを見やった。そこに立っていたのは作業着姿の石神だ。石神は快活に笑んではいたが、その精悍な顔には隠しきれない疲労の色が、濃く滲み出ている。部屋に入ってきた石神は里桜の隣に立つと、彼女の視線の先にある、夜空と白銀の天体で彩られた景色を共有した。二人はしばらく無言で月夜を眺める。やや間をおいて、里桜は閉じ合わせていた唇を開いた。 「PR活動はどうなったの?」 「ん? ああ、写真撮影とローパスの撮影は、一日延期ということになったよ」 「……ごめんなさい、貴方に迷惑をかけてしまったわね」 「別に俺は何もしていないさ。マスコミの対応をしてくれたのは、稲嶺1尉と雪村1尉と燕だからな。燕から『自分もマスコミの対応をする』と言われた時、俺は驚いたぜ。さすがは元広報官といったところか、燕の対応は迅速かつ丁寧だったよ」 「あの燕君が……? とても信じられないわ」 里桜が驚くのも無理はない。第11飛行隊ブルーインパルスに着隊した頃の流星は、口数が少なく表情も乏しい、暗い影を背負った青年で、里桜たち部隊の隊員とは、常に一定の距離を置いていたからだ。里桜たちは親身になって流星に接し、その甲斐あって流星は、少しずつ人間性と喜怒哀楽を見せるようになった。だが一年前の松島基地航空祭で荒鷹が命を落としてから、流星は再び心を固く閉ざしてしまったのである。そんな流星がマスコミの対応を自ら買って出たとは。以前の彼ならとても考えられなかったことだ。 「燕君は変わろうとしている、少しずつ前に進もうとしている。……それに比べて私は前に進めない、変わることができない駄目な人間だわ。あれから三年も経っているのに、未だに過去を引き摺り続けているんですもの」 里桜は己を嘲るかのような歪んだ微笑を、薔薇色の唇に刻んだ。 「そんなことはない!!」 石神が発した大きな声が里桜の耳朶に弾ける。里桜を見下ろす石神の双眸は、怒りと悲しみが混在した複雑な色を、瞳いっぱいに滲ませていた。 「お前は駄目な人間じゃない!! 雪村が今ここにいるのは、変わることができたからだ!! 辛い過去を乗り越えることができたから、お前はこうやってブルーインパルスで飛んでいるんじゃないのか!? 俺の前でそんなことを言うのは許さんぞ!! お前が駄目な人間じゃないってことは、俺たちブルーインパルスの誰もが知っているんだ!!」 「石神隊長――」 里桜の胸に震えが走る。「仲間」を思いやる石神の熱い言葉が、里桜の心に溜まっていた暗い澱を押し流していく。理性を取り戻して我に返った石神は、怒鳴ったことを後悔したかのように顔を伏せた。 「……いきなり怒鳴ってすまん。ただ俺の気持ちをお前に分かってほしかっただけなんだ。何度もしつこく言うが、PR活動のことは気にしなくていいからな。今はゆっくりと身体を休めて、元気になることだけを考えるんだぞ」 里桜の側から離れた石神は、片手を上げて別れの挨拶をすると、ドアを開け放ち医務室から出ていった。石神の気配が意識の届かないところに遠ざかっていく。彼の気配が完全に消え去ると、静寂の帳が再び下りてきた。相変わらず熱い心の持ち主だと思った。それに三年前とちっとも変わっていない。確かあの時もそうだった。石神は今と変わらない熱き心で、空に繋がるもののすべてを嫌悪するようになった、里桜の心を救い空に導いてくれたのだ。 ◆◇ 今から三年前の2012年。P免になった慎二が百里基地の第305飛行隊を去ってからしばらく経ったある日のことだ。里桜は「ブルーインパルスの3番機パイロットになってみないか」と、部隊の飛行隊長から打診された。それはまさに青天の霹靂ともいえる言葉だった。本当は里桜より二年上の年代の隊員から抜擢しようとしていたらしいのだが、戦技競技会が近いためか、どの戦闘機部隊も優秀なパイロットを手放したくなかったようなので、里桜たち下の年代の隊員に、抜擢の機会が回ってきたのだという。 里桜がブルーインパルスに抜擢された話は、瞬く間に基地中に拡散した。心から祝福する者もいれば、当然ながら悪意の牙を剥く者もいる。もしや自分がドルフィンライダーになりたいがゆえに、慎二を車の前に突き飛ばしたのではないか。そう邪推する同僚の隊員がいちばん多かった。時には「違う」と激昂に任せて反論し、時には何も聞かぬ振りをして、里桜はひたすら耐え忍んだ。だが人間には自ずと限界がある。気づけば里桜の心は限界寸前にまで傷ついていた。 ブルーインパルスのドルフィンライダーとして日本の空を飛ぶ。それは十八年前の三沢基地航空祭で、T‐4が飛ぶ空を見た時から、心に思い描いてきた自分の夢だった。しかし里桜が望まぬ形で叶ってしまったその夢は、永遠に叶わないままのほうが、いっそ楽だったと思うようになっていた。ましてや慎二の代わりにブルーインパルスに抜擢されたのが、彼の夢が絶たれる原因を作ってしまった、この自分だなんて――。運命の神の残酷な気紛れを呪いたくなる。 それに里桜は空自でも珍しい女性ファイターパイロットだったから、周囲からの風当たりも激しかった。そしていつしか里桜は空が嫌いになっていた。空は慎二に届かない夢を抱かせた。あの空に憧れなければ、慎二は決して叶わない夢を見ずにすんだ。夢を失った絶望で、心を打ち砕かれることもなかったのではと思い至ったからだ。 心身共に限界を感じた里桜は、部隊の飛行隊長にしばらく休職させてほしいと願い出た。里桜が抱えている複雑な事情を知っていた飛行隊長は、優秀なパイロットである彼女の休職を残念がりつつも、申請を受理してくれた。荷物を纏めて築城基地を離れた里桜は、新幹線に乗り実家がある福井県へ旅立つ。里桜が連絡もせず、突然実家に戻ってきたことに、両親は揃って驚いていたが、二人は何も詮索せずに、優しい態度と温かい笑顔で迎え入れてくれた。 「里桜さんって、航空自衛隊のパイロットなんだよね」 洗い終えた食器を拭く手を止めた里桜は、肩越しに振り向いた。リビングのテーブルの上に展開されたノートパソコン越しに、青年がこちらを見ている。青年の名前は宮野聡志。里桜より二つ年下の従姉弟だ。今は東京都内に拠点を構える、航空事業関係の会社に勤めているのだと本人から聞いた。聡志が里桜の家にいるのは、ホテル代節約のためで、彼は出張で東京から福井県にきているのである。聡志は明るく人懐っこい性格で、幼い頃は慎二と三人でよく遊んだものだ。問われた里桜の脳裡に、暗い過去の一端が去来する。だが聡志に悪意や詮索の意図はない。彼は何気なく訊いただけなのだから。 「ええ、そうよ。それがどうしたの?」 「航空祭に興味ある?」 拭き終えた食器を棚に直して、キッチンからリビングに移動した里桜は、聡志にパソコンの画面を見せられた。平坦な画面に映っているのは、航空自衛隊のホームページだ。マウスが滑り画面が切り替わる。そして「小松基地航空祭」の案内ページが、画面に映し出された。F‐15イーグルの機動飛行。小松救難隊のU‐125Aと、UH‐60Jの救難展示。岐阜基地からやってくるF‐2の機動飛行。そして最後に第11飛行隊ブルーインパルスの展示飛行が行われるらしい。だがどうして聡志は、里桜に航空祭の話題を振ったのだろうか? 理由を尋ねてみると、聡志は苦笑しながら事の経緯を話し始めた。 それは聡志が出張で福井県に来る数日前のことである。懇意にしている取引先の重役と、商談がてら食事をすることになり、なんと聡志はプロジェクトリーダーを務めている上司から、「勉強のためにお前も参加しろ!」と言われた。それは会社の命運がかかった重要な商談だ。それから聡志は必死で情報収集に奔走した。情報収集に奔走した末に、重役と話したことがある秘書課の女性から、彼が大の航空ファンだということを聞く。そして従姉弟の里桜が、空自の戦闘機パイロットだったことを思い出して、彼女からいろいろと教えてもらえるのではないかと期待を抱いたのだという。 「一人でいくのもなんだか嫌なんで、一緒に小松基地航空祭にいってください! お願いします!」 ぴんと背筋を正して正座を組んだ聡志は、顔の前で両手を合わせると、子犬の如く縋るような眼差しで、小松航空祭への同行を里桜に懇願してきた。正直に言うと里桜は、飛行機や空に繋がるもののすべてに関わりたくなかった、距離を置きたかった。だが幼い頃から兄妹のように遊び育った、聡志の頼みを無下に断ることもできない。自分の一言に聡志の未来がかかっている。それにもう誰かの未来を奪いたくなかった。しばらく逡巡の迷宮を彷徨ったのち、里桜は首を縦に振ったのだった。 それから一週間後の日曜日。午前9時前に里桜は聡志が運転する軽自動車に乗り、福井県から石川県に向かった。小松までは約70キロの道程だ。頭上に広がる空は、青く爽やかな快晴なのに、里桜の心は重い曇天に包まれていた。片山津インターチェンジから、北陸自動車を小松空港方面へ走る。右手方向に望めるのは、白山連峰の裾野だ。安宅サービスエリアで休憩してから再出発、左側に日本海を望みながら快走する。 小松まで1キロの標識を確認した聡志が、車を減速させて小松空港方面に進路を定めた。「小松基地航空祭臨時駐車場へ」と書かれた立て看板に従い、空港に続く道を直進する。ややあって右手方向に小松基地の管制塔が見えてきた。小松基地に近づくにつれて、周辺道路の渋滞は酷くなっていく。思い切って抜け道を探しに、渋滞の列を抜け出す車もあるほどだ。 「このままだと展示飛行に間に合わないかも。車を停めたらすぐにいくから、里桜さんは先にいってて」 「分かったわ。基地に着いたら電話してね」 基地東側の交差点で車から降りた里桜は、徒歩で広大な水田の間道を進んで東門に向かった。自転車やバイクを押して歩く人の姿も、多数見受けられた。彼らはこの近隣に住んでいる人たちなのだろう。里桜は歩行者・二輪車・タクシー専用の東門から小松基地に入る。売店エリアとなっている、第1・2・3格納庫前には、303と306の隊員たちが売り子を務めるグッズ販売のテントや、食べ物や飲み物などを販売しているテントが、一列にずらりと並んでいる。中空音楽隊の演奏。獅子舞や太鼓演奏の伝統・文化の舞台。救難機・装備品展示。基地防空火器・車両展示。キッズパイロットの撮影など、基地では様々なイベントが開催されていた。 人の流れが集まっている場所が、小松基地航空祭のメイン会場となるエプロン地区だ。記念塗装された303と306のF‐15や、岐阜基地から遠征してきたF‐2に、小松救難隊のU‐125AとUH‐60Jなどの航空機が、広大なエプロンに地上展示されている。見物客で溢れかえる広大なエプロンに着くと同時に、スピーカーから音楽が鳴り響き、航空祭のメインイベントとも言える、ブルーインパルスの展示飛行の始まりを告げる、TRパイロットのナレーションが響き渡った。 『御来場の皆様、本日はようこそ小松基地航空祭においでくださいました! ただいまからブルーインパルスの展示飛行を開始いたします。これから約三十五分間、ダイナミックなアクロバット飛行と、美しい編隊飛行の妙技をお楽しみください!』 午後12時35分。六人のドルフィンライダーたちが、ウォークダウンで観客たちのすぐ目の前を歩いていき、それぞれが担当するポジションナンバーが垂直尾翼に描かれたT‐4に搭乗していく。 まず離陸したのはフィンガー・チップ隊形を組んだ1・2・3・4番機だ。編隊を組んだまま離陸した四機は、直後に4番機が最後尾に移動して、ダイヤモンド隊形に移行する。次いで旋回を行いスモークを放出しながら、会場正面から進入してきた。爆発した歓声が空気を揺らす。飛び跳ねながらT‐4に手を振っているのは、純粋な心を持つ子供たちだ。そしてスモークを切った四機は、会場の真上を通過して後方に飛び抜けていった。 里桜がその四機の航跡を視線で追いかけていると、花形の5番機が離陸していった。離陸した5番機は上昇角を抑えながら、滑走路上を超低空飛行で翔け抜けていく。ランウェイエンドで急上昇した5番機は、ループ反転しながらロールを打ち、再び会場に進入したのち、右方向に抜けていった。続いて離陸したのは6番機だ。離陸した6番機は、車輪とフラップを下げた状態のまま、右に360度のバレル・ロールを打ちながら、会場の左後方に飛んでいった。 ややあって先行して離陸した四機が戻ってくる。四機は互いの主翼同士が触れ合うほどに、密集したダイヤモンド隊形を組んだまま、会場左手方向から右方向に、低空飛行で一気に翔け抜けていく。後ろに建つ管制塔の高さと、ほとんど変わらない高度だ。瞬間稲妻に撃たれた時のような、大きく激しい衝撃が里桜の全身を駆け抜ける。観客たちが歌う熱い歓声を、遠く意識の彼方に聞きながら、里桜は立ち竦んでいた。 「――いつ見てもブルーインパルスは凄いよな」 里桜の隣に立ち、同じように青天を仰いでいる男性がぽつりと言った。三十代前半と思しき男性だ。モスグリーンのフライトジャンパーと、濃い灰色のカーゴパンツという服装で、野性的で精悍な面立ちをしている。そして鍛え抜かれた長身の体躯は、岩壁の如く筋骨逞しい。体力を要求される職業に就いているのだろうか。 「ファン・ブレイクは、機体同士の最短距離が約1メートルという、全課目の中でも密集した隊形が見られる課目でな、それぞれのパイロットの卓越した技術と、互いを信頼し合う心があるからこそ、行える課目なんだぜ」 「随分と詳しいのね」 「同僚から『ブルーインパルス馬鹿』って呼ばれているからな。十八年ほど前だったかな、三沢基地でサンダーバーズと競演した、ブルーインパルスに憧れて追いかけてきたんでね。そこらへんのミリタリーマニアよりかは詳しいと思うぜ」 「貴方は……空が好き?」 里桜から突然投げかけられた質問に驚いたのか、男性はきょとんとした面持ちを浮かべていた。ややあって精悍な顔の全面に、溢れんばかりの自信を滲ませた笑顔が強く刻まれる。莞爾としたその笑顔は、あたかも真夏の太陽のようだ。 「ああ! 俺は空が大好きだ!」 両手を腰に当てて厚い胸を張った男性が、朗々たる声で答えを放つ。一切の躊躇いも感じさせない、短く簡潔とした答えだった。とても眩しい笑顔を直視できずに里桜は視線を逸らす。そして里桜は凍てついた鋭い言葉を口から放ち一閃させた。 「――私は空が嫌いよ」 里桜は顔を背けているので、男性の表情に表れた変化は分からない。だが自分が大好きだと言った空を、冷たい声で「嫌いだ」と否定されたのだ。だから彼は傷ついた表情を、精悍な顔に刻んでいるに違いない。そんなことを思いながら、里桜は彼から逃げるように航空祭会場を離れる。聡志と一緒に家に帰ったあとも、ブルーインパルスが与えた青い衝撃は、いつまでも里桜の心から消えなかった。 小松基地航空祭を訪れたあとからだ。里桜は空を見上げることが多くなり、蒼茫たる天空にブルーインパルスの姿を重ねて見るようになっていた。あの日小松の青天を飛んでいたブルーインパルスが、記憶に強く鮮烈に焼きついていて消えなかった。そして最後には決まって必ずあの男性の姿が脳裡に浮かぶのである。 もう一度白と青のドルフィンを見たい、青天を舞台にして爽快に飛ぶドルフィンを見たい。胸の奥から抑えきれない思いが湧き上がる。航空自衛隊のホームページにアクセスして、ブルーインパルスの飛行スケジュールを調べてみると、来月の第2日曜日に百里基地航空祭で飛ぶと記載されてあった。 F‐15とF‐4EJ改戦闘機を有する、第7航空団が配備される茨城県航空自衛隊百里基地は、その場所柄ゆえに首都圏防空の要という役目を担っている。同基地にはU‐125AとUH‐60Jを使用する百里救難隊・F‐4ファントムの偵察機型であるRF‐4Eと、F‐4EJを改修したRF‐4EJを運用する、偵察航空隊も配備されている。特に偵察航空隊は百里基地だけに配備されている部隊で、F‐4EJ改ファントム2を運用する第302飛行隊と共に人気の高い部隊だという。百里基地は慎二が所属していた基地。その百里基地を、自分はブルーインパルスの展示飛行を見るために訪れようとしている。それを知った慎二はどんな表情をその顔に浮かべるのだろうか。しかし連絡を絶っているので、もはや知りようがないが。 航空祭の日がくると里桜は父から車を借りて百里基地に向かった。常磐自動車道の千代田石岡インターチェンジから、国道6号線に入り鹿島方面に向かう。基地周辺に設けられている特設駐車場に車を停めて、運行されている臨時バスで正門から百里基地に入る。正門付近にはかつて百里基地に配備されていたF‐104や、退役したF‐4EJ改に、ブルーインパルス仕様のT‐2が展示されていた。 サッカーグラウンド四つ分の広さを誇るエプロンには、F‐15イーグルJ・RF‐4E・U‐125A・F‐4EJ改などの、地上展示機が整然と並べられていて、航空機を牽引するトーイングカーに張りぼてを被せた、F‐15の花列車が会場を走っている。第501飛行隊は近年航空祭に合わせて特別塗装機を登場させていて、迷彩塗装のファントムに描かれるシャークティースは人気が高いらしい。 午前9時15分に百里基地航空祭は開幕した。オープニングフライトは、F‐4・F‐15・RF‐4E・U‐125Aの航過飛行だ。F‐4の飛行が終わると、灰色塗装のF‐15イーグルJが、滑走路を蹴り上げて離陸していく。垂直尾翼には茨城県水戸の名所として知られる、偕楽園の梅を由来とする305部隊のマークの梅が描かれていた。双発のエンジンノズルから噴射されるオレンジ色の炎が、厚い雲に覆われた暗い空を明るく照らし出す。離陸してから数十秒後、灰色の雲の海の中から戻ってきた305のイーグルは、滑走路上空を低空飛行で通過するローパスを披露した。次いで着陸してから間髪入れずにエンジン全開で離陸する、「タッチアンドゴー」と呼ばれる復行方式が行われて、U‐125Aの航過飛行で最初の展示飛行は終了した。 F‐4EJ改ファントム2による、スクランブル発進デモと空対地射爆撃が終わると、百里基地にしか配備されていない、偵察航空隊第501飛行隊の偵察機RF‐4Eが離陸した。RF‐4Eには固定武装はなく、側方偵察レーダーと赤外線探査装置を備えて、機首に低高度パノラマ・高高度のパノラマ・前方フレームの、三種類のカメラを装備することで、全天候での偵察と撮影を可能としている。そのRF‐4Eによる戦術偵察飛行は、百里基地航空祭の名物として見逃せない。低高度を高速で飛行しながら、会場上空通過時に撮影を行い、着陸後に撮影画像を現像して展示するなど、RF‐4Eの性能を活かした内容となっているのだ。 いきなり雨が降り出したので、どこか風雨を凌げる場所はないか里桜は駐機場を離れた。売店が軒を連ねている通りの向こうに、格納庫らしき建造物があった。濡れた地面を蹴り里桜は格納庫のほうに急ぐ。里桜が格納庫を目指して走る間も雨は容赦なく彼女の身体を打ち続ける。格納庫に辿り着く頃には、里桜の全身はずぶ濡れになっていた。 雨で濡れた衣服が里桜の身体に張りつき、非の打ちどころのない姿態の線が露わになっている。里桜は雨宿りをしている男たちの不躾な視線を感じたが、濡れた身体を隠したくても隠せる物が何もない。困り果てていると、いきなり後ろから分厚いジャンパーで上半身を覆われた。突然のことに驚き里桜は背後を振り返る。するとそこにあの男性が立っているではないか。思わぬ邂逅に里桜も彼も戸惑いを隠せずにいた。 「貴方はこの前の――」 「誰かと思ったら、まさかお前さんだったとはな。またブルーインパルスの展示飛行を観に来たのか?」 「……ええ、そうよ」 「そうか。残念だがこんな悪天候だからブルーインパルスは飛ばないと思うぜ。それにしても台風が迫っているなか航空祭にくるなんて、お前さんはかなりの飛行機好きなんだな」 「違うわ! 飛行機も、戦闘機も、あの空も私は好きじゃない! 空に繋がるものの全部が嫌いなの! 私のことを何も知らないくせに、知ったような口を利かないでよ!」 一瞬の激情に駆られてしまい思わず里桜は叫んでいた。雨音を裂いた里桜の声が薄暗い格納庫全体に響き渡る。不意打ちともいえる一撃に耳朶を殴られた彼は、鳶色の双眸を瞠目させて里桜を見下ろしていた。その双眸に宿るのは深い悲しみの光。里桜は濡れた髪を揺らして悲しみの光から顔を背ける。果たして彼はどんな言葉で反撃してくるのだろうか。 「そのジャンパーは返さなくていいからな。……知ったような口を利いて悪かったよ」 反撃の言葉を発する代わりに里桜の肩を叩いた彼は、格納庫から出ていくと、滝の如く降り注ぐ豪雨の中を駆けていった。それからしばらくして、ブルーインパルスの展示飛行が中止になったというアナウンスが、百里基地に鳴り響く。里桜は開放された格納庫の中から曇天を見上げる。すると言いようのない寂しさと孤独感が、里桜の胸を強く噛んだのだった。 身体が深い闇の中に落ちていくような暗澹たる気持ちのまま百里基地から自宅に戻った里桜は、フライトジャンパーのポケットに、薄い紙のような物が入れられてあることに気づいた。濡れたジャンパーのポケットに手を入れて取り出してみると、それは顔写真入りの身分証で、表面に印刷されてある顔写真に写る人物は、間違いなく里桜が知る彼本人だった。 【航空自衛隊三沢基地第3航空団第3飛行隊・石神焚琉1等空尉】 ジャンパーのポケットに置き去りにされていた身分証にはそう記載されていた。まさか彼が自分と同じ航空自衛隊のパイロットだったとは驚いた。ジャンパーは返さなくてもいいと言われたが、借りた物は返さなくてはいけないし、ポケットから見つけた身分証はとても大事な物だ。そう判断した里桜は旅行会社の航空祭ツアーに申し込み、三沢基地に向かうことにした。 青森県航空自衛隊三沢基地は、青森県下北半島の付け根に位置して、米空軍・海軍・航空自衛隊・民間航空の四者が共同使用している。配備部隊は2個飛行隊の第3航空団・1個飛行班の北部方面支援飛行班・飛行警戒監視隊・三沢ヘリコプター空輸隊の計4個飛行隊と1個飛行班。アメリカ空軍は第35戦闘航空団の2個飛行隊。アメリカ海軍は三沢航空基地飛行隊の1個飛行隊となっている。 千歳基地の第2航空団、三沢基地の第3航空団などを隷下にもつ、北部航空方面司令隊を中心に、F‐2支援戦闘機飛行隊・E‐2C運用の警戒航空隊・輸送ヘリコプターCH‐47J・司令部支援飛行班のT‐4などが配備される同基地は、在日米軍三沢基地と同居しており、米空軍のF‐16C戦闘機・米海軍のP‐3C・P‐8対潜哨戒機の姿も見られるのだ。 三沢市内に設置された駐車場でバスは停まり、そこからはシャトルバスで基地に入った。地上展示機は陸海空の自衛隊機に各種米軍機が多く、過去にはF‐15Eストライクイーグルや、最新鋭のステルス戦闘機F‐22ラプターなど、日本では見る機会が少ない機体が見られたらしい。土産物屋や飲食物を販売する店の一部では、アメリカドルも使用可能なので、アメリカ旅行をしている気分を味わえるのが、この基地の特徴だと言えよう。 午前9時に三沢基地航空祭は開幕された。F‐2・T‐4・F‐16・E‐2Cによる所属機のオープニングフライト。CH‐47Jの物資吊り下げ。千歳基地から遠征してきたF‐15の機動飛行。F‐2支援戦闘機飛行隊による機動飛行と模擬対地射爆撃などが、ブルーインパルスの展示飛行前に行われた。そして午後13時45分。ブルーインパルスの展示飛行が始まった。 上空を翔けるブルーインパルスを一目見てから、里桜は彼の姿を捜し歩く。人混みから遠く離れた所に彼――石神焚琉1等空尉はいた。頑強な体躯を包むパイロットスーツの上に、救命胴衣と耐Gスーツを身に着けたまま、逞しい両腕を組んで、ブルーインパルスが飛ぶ空を静かに仰いでいる。こちらに歩いて来る里桜に気づいた石神焚琉は、驚きと戸惑いが混在したような表情を、生命力漲る精悍な顔に浮かべた。二度目の邂逅に運命の不思議さを感じているのかもしれない。 「また会うとは驚いたな。あのあとは風邪をひかなかったか?」 「貴方が貸してくれたジャンパーのお陰で大丈夫だったわ。今日は貴方に借りた服とこれを返しにきたの」 里桜は丁寧に折り畳んだクリーニング済みのフライトジャンパーと身分証を石神に手渡す。すると彼は鳶色の双眸を限界まで瞠目させた。 「別に返さなくてもいいと言ったのに。それにこれは俺の身分証じゃないか。もしかして――ジャンパーのポケットに入っていたのか?」 「ええ、そうよ」 「いやはや見つかってよかったよ。身分証を失くしてしまって、そのことで上官から思いっきり説教されたからな。これで安心して夜も眠れるぜ。わざわざ届けにきてくれてありがとうな!」 フライトジャンパーと身分証の二つを受け取った彼は、心の底から本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。里桜が小松基地と百里基地で取った無礼な行動を謝ると、石神は気にするなと言って、彼女の謝罪をすんなりと受け入れてくれた。あの時の些細な諍いなど微塵も気にしていない様子だ。きっと彼は頭上の大空のように寛大な心の持ち主なのだろう。 「ずっと考えていたんだが――お前さんはどうして空が嫌いなんだ?」 不意に口調を変えた石神が問いかけてきた。教会の告解室で信者の懺悔を聞く神父を思わせるような、静謐な眼差しが里桜の像を結んでいる。静謐な眼差しに己が姿を映された里桜は、いつの間にか口を動かして自らの過去を語り始めていた。 ブルーインパルスのパイロットだった祖父と父に憧れて、航空自衛隊のパイロットになったこと。同じ空自パイロットである兄の慎二が、自分を庇って交通事故に遭い右脚を負傷したこと。その怪我が原因で、慎二がドルフィンライダーへの道を絶たれてしまったこと。代わりに自分がブルーインパルスに抜擢されたこと。里桜はその全てを石神に話していた。 「……病院にお見舞いにいった時、兄さんは私にこう言ったの。『俺はもう飛べない。だからお前に俺の夢を託す。ドルフィンライダーになって、俺の代わりにT‐4に乗って空を飛んでくれ、俺の夢を日本の空に届けてくれ』って。本当は悔しくて悲しいはずなのに、それなのに兄さんは笑いながら私に言ったの。でもそんなのできない! 私のせいで事故に遭って、夢を絶たれた兄さんの代わりに飛ぶことなんて――できるわけないじゃない!」 里桜はここで疑問に思う。どうして自分は出会って間もない彼に、腹を割って話しているのだろうか? 確かな理由は分からない。ただ一つ分かるのは、自分の過去を彼に聞いてほしいという強い衝動で、それが里桜の舌を滑らかに動かしていたのである。石神は黙したまま里桜が語る過去の話に耳朶を傾けていた。 「……俺たちパイロットはな、たくさんの『夢』を背負って飛んでいるんだ」 「夢を背負っている……?」 「お前さんの兄さんのように、空を飛ぶことを夢見て、でも夢を目指しながらも叶えられずに、終わった人たちがたくさんいる。パイロットになれた俺たちは、そんな彼らの夢を背負って空を飛んでいるんだと俺は思う。だから例えどんなに苦しくて辛くても、背負った夢から逃げてはいけないんだ」 例えどんなに苦しくて辛くても、背負った夢から逃げてはいけない――。石神が紡いだ言葉を耳朶に受け留めたその瞬間、里桜の心は大海の荒波に飲み込まれたかの如く、激しく揺さぶられた。 「本当は――空が好きなんじゃないのか?」 「えっ……?」 「お前さんがどんなに飛行機と空が好きか、それは空や飛行機を見ている時の表情を見ればすぐに分かるさ。本当は空は嫌いじゃない。空とブルーインパルスが好きだから、ドルフィンライダーとして空を飛びたい思いが捨てきれないから、小松や百里、そして三沢基地航空祭に足を運んだ。そうなんじゃないのか?」 「私は――」 問われた里桜はすぐに答えることができず、顔を伏せて項垂れる。心を揺さぶる荒波は、先程よりも更に強く激しくなっていた。肯定も否定もできないまま時間は過ぎていき、やがて三沢基地航空祭は惜しまれながらも終幕した。ややあって坊主頭と頬に傷痕がある男性隊員が石神を呼ばわる。航空祭が終わったからデブリーフィングを始めるのだろう。「すぐにいく」と合図を送った石神は、里桜の肩に手を置くと、真下に向けられていた彼女の顔を、自分のほうに上げさせた。 「空が嫌いだなんて言わないでくれ。お前さんが空を飛ぶことをやめたら、誰が兄さんの夢を空に届けるんだ? 兄さんから託された夢を空に届けられるのは、彼の夢の重みを知るお前さんしかいないんだぞ? だから俺はもう一度お前さんに空を好きになってほしい、自由に空を飛んでほしいんだ」 大きな手で里桜の肩を叩いた石神は、足下に置いていたヘルメットバッグを手に取ると、待っていた二人の同僚と連れ立って、第3飛行隊隊舎のほうに歩いていった。肩越しにこちらのほうを窺いながら、会話を交わしているのが見える。とはいっても会話の主導権を握っているのは、石神ではなく二人の同僚のほうだ。大方「綺麗な人だな!」とか、「もしかしてお前の彼女か?」といったことを、笑いながら彼に訊いているのだろう。ふと胸に手を当てた里桜は、己の心の変化に気づく。いつの間にか心を揺さぶっていた迷いの荒波が消え去っていたのだ。 瞑目した里桜は己の内奥と向き合う。様々な思いと迷いの荒波の中に沈んでいた純粋な感情が湧き上がってきた。自分はまだ空に焦がれている。幼い頃から思い描いてきた青い夢を諦めきれずにいる。夢の続きを追いかけたいと強く望んでいる。だからこそ小松基地でブルーインパルスの軌跡を見た瞬間、自分は心に強い衝撃を受けたのではないだろうか? そして自分は途中でその青い夢を絶たれた慎二と、それぞれの夢の場所を目指しながらも、そこに辿り着けずに終わった人たちの分まで空を飛ぶべきなのだ。 心に決意をして里桜が見上げた三沢の青空は、純粋だった子供の頃に、ブルーインパルスが飛ぶのを初めて見た空の色と同じように、限りなく透明な青色に澄んでいた。 ◆◇ 「燕さん! 起きてください! 燕さん!」 瑠璃色の空が広がる早朝の入間基地に、甘く柔らかなソプラノの声が鳴り響く。その声の持ち主である小鳥は、流星が泊まっている独身幹部宿舎の一室のドアを叩きながら、何度も声を張り上げていた。今朝早く緊急事態が発生して、石神から流星を起こして連れてくるように指示されたからだ。交互にドアを叩く左右の拳に、熱い痛みが滲み出した頃、内側で物音が聞こえた。寝ていた流星がようやく目を覚ましたのだ。ややあって小鳥の目の前でドアが開放される。開口いちばん流星に文句を言ってやろうと、小鳥は構えたのだが――。 「にゃあああぁぁっ!?」 小鳥は尻尾を踏まれた猫の如き大声を出して絶叫していた。なぜならドアを開けて小鳥の前に出てきた流星は、黒い布地に青いラインが入れられた、ローライズのボクサーブリーフ一枚を穿いているだけという、限りなく裸身に近い姿だったからだ。あたかも強力な磁石に物体が吸い寄せられるかのように、小鳥の蜂蜜色の視線は、その姿態に釘づけになっていた。 毎日の自己鍛錬によって鍛え抜かれた、流星の姿態は美麗かつ完璧だった。鍛え抜かれているとはいっても、ボディビルダーのように筋骨隆々ではない。必要最低限なぶんだけ、筋肉をつけているような感じとでもいうのだろうか。骨格のしっかりした厚い胸板。綺麗に割れた腹筋。すらりと伸びたしなやかで長い四肢。まさに神様の最高傑作ともいえる肉体だと言えよう。そして1グラムも無駄な脂肪の見当たらない、平坦な腹部の下の重みのある膨らみは、小鳥がまだ知らない男性の「未知なる部分」だ。視線を感じたほうに目を向ける。すると端正な顔を不機嫌そうに歪めた流星が、小鳥を見下ろしていた。 「ごっ……ごめんなさい!!」 小鳥は電光石火の如き素早さで踵を回して流星に背中を向ける。身体の脇に垂らした両手をぎゅっと握り締めて、流星の罵倒の言葉が耳朶を抉る瞬間を覚悟した。 「……すぐに着替えてくるから、そこで待ってろ」 そう言った流星は部屋に引き返すとドアを閉めた。流星が部屋の中に消える直前、筋肉で硬く引き締まった彼の臀部が、視界に入り小鳥は赤面してしまう。小鳥は膝を折ってその場に座り込むと、両手で熱を帯びた顔面を覆い隠して瞑目した。瞬間裸身に近い流星の姿態が脳裡に蘇る。その幻影はなかなか消えてくれない。脳裡に浮かぶ幻影だと分かっているのに、小鳥の意識はどうしてもそちらに吸い寄せられてしまうのだ。どうやら流星の外貌には、人を惹きつけてしまう強い力が備わっているらしい。 それにしても入間基地にきてから小鳥は変だ。流星の腕に抱かれている己の姿を想像して、稲嶺恵理花1等空尉に嫉妬しているのではないか、と彩芽に指摘されたりもした。そして今は、ほとんど裸身に近い流星の姿を、脳裡から消せずにいる。もしかしたら小鳥は、流星を「異性」として意識し始めているのではないだろうか? 煩悶としながら頭を抱えている小鳥の背後でドアが開く。着替えた流星が部屋から出てきたのだ。折り畳んでいた膝を伸ばして振り返ると、いつもの作業着に身を包んだ流星が立っていた。 「あっ……あの……すみませんでした……」 「……気にするな。それよりなんなんだよ、何かあったのか」 「えっ? はい、そうなんです! 実は里桜さんがいなくなったんですよ!」 「いなくなった? 雪村さんは昨日から医務室で休んでいるはずだぞ」 「それが石神隊長が様子を見にいったら、いなくなっていたんです――ひゃっ!?」 突然右太腿の付け根に振動が走り小鳥は悲鳴を上げた。ポケットにスマートフォンを入れていたのを思い出して引っ張り出す。ディスプレイの表示を確認。アプローチしてきた相手は石神だ。急いで通話ボタンを指先で叩き電話に出る。通話を終えた小鳥は流星のほうに向き直った。 「石神隊長からで、ついさっき里桜さんを見つけたそうです。いきましょう!」 小鳥は流星を連れて、第402飛行隊隊舎に急いで向かった。待機室に続くドアを開けて室内に駆けこむ。淡い黄金色の朝日が差す室内には、石神と行方をくらませていた里桜がいた。パイロットスーツを着た里桜は、静かに窓の外を眺めている。里桜がパイロットスーツを着ているのは、彼女が空を飛ぶ決意の表れなのだと小鳥は思った。 「里桜さん……! 突然いなくなったから心配したんですよ!?」 「心配をかけてしまってごめんなさい。もう大丈夫だから」 里桜は胸に手を置くと静かに言葉を紡いだ。 「……私は、今までずっと、兄さんから託された『夢』を、空に届けず胸の中にしまいこんでいた。だから空を飛んで、兄さんの夢を空に届けなければいけないの。そうしないと託された夢はいつまでも叶えられない。私は、もう二度と、兄さんから夢を奪いたくないから――」 兄を強く想う里桜の言葉に、小鳥の眦と胸は熱くなった。なんとしてでも断たれていた兄妹の絆を取り戻させたい。彼女の素直で真っ直ぐな想いを、雪村1尉にどうにか伝えられる方法はないものか――。瞬間小鳥の脳裡を閃きが駆け巡った。石神のほうに顔を向けた小鳥は開口する。 「石神隊長。今日のフライトで、3番機の後席に雪村1尉を乗せて飛ぶことはできないんですか?」 小鳥の提案を耳にした里桜は、薄い茶色の双眸を見開き丸くした。驚く里桜の視線を感じながら小鳥は言葉を続ける。 「里桜さんと雪村1尉は、地上のしがらみに縛られているから、お互いうまく話せないんじゃないでしょうか。でも、空に飛び立てば自由になれる、地上のしがらみから解放される、身も心も解放される。そうすれば、お二人はきっと理解し合えると思うんです」 「オレも夕城の提案に賛成です」 小鳥に続いて流星が発言した。まさか流星も賛同してくれるとは。驚いた小鳥は流星を見やった。蜂蜜色と灰色の視線が一瞬だけ絡み合う。小鳥から視線を外した流星は、真剣な眼差しで石神のほうを見た。 「石神隊長も知っていると思いますが、まだ広報官だった頃、オレは一度だけT‐4の後席に乗せてもらって、空を飛んだことがあるんです。夕城が言ったとおり、身も心も解放されたような気がしました。だから胸の奥にしまいこんでいた気持ちも素直に言える、過去を断ち切って前に進むことができる。兄妹の絆を取り戻すことができると思います」 流星の賛同を得た小鳥の提案に、果たして石神は賛成してくれるのだろうか。固く唇を引き結び、床の上に視線を落とした石神は、難しい表情で腕組みの構えを保ったまま、深く思案している。静寂と沈黙が続くなか、石神は難しい表情を崩さないまま、里桜の正面に立った。そして静寂と沈黙が終わりを迎える時がやってきた。 「……夕城と燕が言ったとおりだ。俺も今日のフライトで、3番機の後席に雪村1尉を乗せて飛ぶことを考えている。そして兄妹の絆を取り戻してほしいと思っている。だが無理はしなくてもいいんだぞ? 俺と燕と夕城だけで、飛ぶこともできるんだからな」 自分を気遣う石神の視線を受け留めた里桜は静かに首を振った。 「たとえどんなに苦しくて辛くても、背負った『夢』から逃げてはいけない、兄さんから託された夢を、空に届けられるのは私しかいない。あの時貴方がそれを教えてくれたから、私はブルーインパルスのパイロットとして空を飛んでいる。ドルフィンライダーとして空を飛ぶことを、固く決意したはずなのに、兄さんと再会しただけで戸惑ってしまった。でも私の心はもう迷わないわ。ブルーインパルスの皆が側にいてくれるかぎり、私は何度でも立ち上がれるから」 里桜の双眸に迷いの色は見られない。そして里桜は毅然とした表情で頷いて見せた。 「さあ、私たちの空を飛びにいきましょう」 雪村慎二広報官を3番機の後席に乗せて飛ぶ。雪村1尉と各テレビ局から派遣されてきたスタッフたちは、些か戸惑った様子を見せていたが、稲嶺1尉と第11飛行隊の広報幹部を務める流星の丁寧な説明を聞くと、一様に頷き納得してくれた。テレビ局のスタッフたちが撮影機材を展開している間、小鳥たちは第402飛行隊隊舎の一室に、臨時に設けられた救命装備スペースで、装備を身に着けてエプロンに戻った。 スタッフたちに挨拶をして、それぞれ搭乗機のところに向かう。里桜の隣を歩く慎二は、やはり緊張した面持ちをしている。担当の整備員と挨拶を交わして、梯子を上ってコクピットに乗り込んだ。エンジンスタート開始。小鳥たちは三名の整備員とハンドシグナルでやりとりしながら、ターボファンエンジンのRPMを上げていく。RPM60パーセント。独特の甲高いエンジン音が、入間基地の空気を震わせる。次は外部電源を外してタクシー前のチェックだ。全ての操縦系統の点検を終えて、タクシーライトを点灯させる。車輪止めを外した整備員と、敬礼を交わしてタクシーアウト。1・3・5・6番機は列を成して滑走路にと向かった。 テイク・オフ。突き抜けるような青色に染まった、入間の空に飛び立った小鳥たちは、デルタ・ダーティー・ローパスや、リーダーズ・ベネフィット・ローパスなどのローパス課目を、見事な連携で実施していく。里桜が操縦する、3番機の後席に座る慎二はとても静かだ。里桜はコクピットのリアビュー・ミラー越しに背後を見やる。首を捻り真横を向いている慎二は、後方に流れていく青空と白雲を黙って眺めていた。無線に伸ばしたかけた手が止まる。言葉を紡ぐのが躊躇われた。だが兄と向き合わなければ、いつまで経ってもこのままだ。躊躇いを振り払い里桜は無線を入れた。 『兄さん、今までずっと連絡を絶っていてごめんなさい。どんな顔をして兄さんに会ったらいいのか分からなかったの。兄さんは夢を奪った私を憎んでいる、ドルフィンライダーになった私を恨んでいるんじゃないかって思うと怖くなって――』 言葉は返ってこなかった。沈黙が前席と後席のコクピットを満たしている。やはり慎二は未だに里桜を許せずにいるのだろうか。窮屈な地上を離れて、空に飛び立てば分かり合えると思っていたが、些か考えが甘かったのかもしれない。諦観の思いが里桜の胸に広がり始める。酸素マスクのエアを吸い込んだ時の、掠れた音が響いた。恐らく慎二が深呼吸をしたのだろう。里桜との会話を繋ぐ言葉を紡ぐために。 『……どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのは、俺も同じだよ。俺はお前と会うのが怖かったんだ。あの時事故に遭っていなかったら、この右脚さえ折れていなかったら、俺は夢だったドルフィンライダーとして、日本の空を飛んでいたかもしれない。そんなふうに考えてしまう自分が怖かった。――これがお前に言えなかった、俺の本音なのかもしれないな』 里桜は悄然と細い双肩を落とす。「でもな」と慎二は言葉を継いだ。 『俺は自分の届かなかった夢を、無理矢理お前に押しつけてしまった。だから俺もお前に憎まれている、恨まれているんじゃないかって、ずっと思っていたんだ。何度か電話をかけようとしたし、手紙も送ろうとした。でもやっぱりできなかった。俺にあと少しの勇気があったら、もっと早くに分かり合えていたはずなのにな。望まない形で手にした翼で空を飛ぶのは、辛くて苦しかっただろ?』 『それは違うわ! 辛くて苦しかったのは、私じゃなくて夢を絶たれた兄さんのほうじゃない! 私は兄さんから託された夢を捨てて、空から逃げようとしたの。……私は最低な妹よ』 股の間の操縦桿を握る右手に思わず力が入る。 『――それは違うぞ、里桜』 慎二の声音は厳しく、だが温かく優しい響きを帯びていた。 『お前はこうやって3番機に俺を乗せて飛んでくれているじゃないか。お前はブルーインパルスが飛ぶ空を俺に見せてくれた。T‐4に乗って俺の夢を空に届けてくれた。届かなくなった夢を、俺の手の中に戻してくれた。お前のお陰で俺は夢の場所に戻ることができたんだ。だから里桜は最低な妹なんかじゃない。胸を張って言えるよ。里桜は俺の自慢の妹で、最高のドルフィンライダーだってな』 『兄さん――』 『……夢の場所に連れてきてくれて、ありがとうな』 里桜の視界に映る空の青が、水でぼかした水彩絵の具のように滲む。慎二だって自分の自慢の兄だ。里桜は彼にそう伝えたかった。それなのに眦から溢れ出る涙を抑えるのに必死で言葉が紡げない。でも慎二は里桜が言いたいことを、ちゃんと分かってくれているはず。再び繋がった兄妹の絆が、伝えきれなかった里桜の思いを伝えてくれる。それに今は子供のように泣いている場合ではなかった。 里桜が空を飛ぶのは、自分や慎二のためだけじゃない。今この瞬間も、里桜たちブルーインパルスが飛ぶ空に憧れて、この場所に立つことを夢見ている人たちがいる。だから自分は最高の演技をして、ドルフィンライダーとして飛ぶ空が、どんなに素晴らしい場所であるか、今も懸命に努力を続けながら、青い夢を追いかける人たちに、伝えなければいけないのだ。眦の涙を律して里桜は操縦桿を握り締める。兄妹の絆を取り戻した、里桜と慎二を乗せたT‐4は、二人が立つことを望んでいた夢の場所を、純白のスモークを曳きながら飛んでいった。 トレール・ローパスでローパス課目を終えた小鳥たちは、着陸するためのダウンウインド・レグに向けて、各機が等しくセパレーションを取りながら、180度の旋回で縦一列に並び、1番機から順番に入間基地の滑走路に着陸した。機体から降りた小鳥たちが、ウォークバックで順番に合流していく間も、もちろん写真撮影は行われて、テレビカメラも回されている。ウォークバックを終えた小鳥たちは、機体を担当する整備員と固い握手を交わす。そして駐機場前に居並ぶ報道関係者たちに、笑顔で手を振って撮影は終了した。 小鳥たちは一様に清々しい表情を浮かべて、展示飛行を成功させた充実感と、無事にフライトを終えた安堵の気持ちを胸に感じていた。エプロンを進んでいると、不意に小鳥と流星の前方を歩いていた里桜が歩みを止めた。もしやまだ身体が本調子ではなかったのだろうか。急に立ち止まった里桜に気づいた石神は、踵を反転させると彼女の側に向かった。 「雪村? どうした――」 里桜を心配した石神の声は途中で途切れた。小鳥と流星は揃って呆気に取られてしまう。素早く爪先立ちをした里桜は、なんと小鳥たちが見ている前で、石神にキスをしたのだ。里桜から突然のキスを贈られた石神は、瞠目して硬直している。重ねていた唇を離して、石神を見上げた里桜の眼差しは熱く潤み、桜色に両頬を染める彼女の綺麗な顔は、彼への愛が溢れんばかりに満ちていた。 「……いきなりこんなことをしてごめんなさい。私、ずっと前から、三沢で再会したあとから、ずっと貴方のことが好きだったの。松島で貴方と一緒に飛ぶことになった時は、本当に嬉しかったわ。私は、これからもずっと、焚琉さんの側にいたい、焚琉さんと一緒に幸せを感じながら、未来を生きていきたい」 「――俺もだよ、里桜」 喜びで眦を緩めて微笑んだ石神は、逞しい胸に里桜を抱き寄せると、大きな身体を屈めて彼女と唇を重ねた。まるで外国の恋愛映画のように情熱的な姿に、目を奪われている小鳥の視界が、突然真っ暗になって何も見えなくなった。これは後ろに立った何者かが、両手で小鳥の視界を塞いだに違いない。思い当たる人物はただ一人。視界を塞ぐ大きな手を振り払い、小鳥は背後を振り仰ぐ。小鳥が思ったとおり、そこには流星が立っていた。 「……子供が見るんじゃねぇよ」 「私は子供なんかじゃありません! 二十四歳の立派な大人ですっ!」 「は? お前のどこが二十四歳なんだよ。どこからどう見ても中学生じゃねぇか。おまけにチビの貧乳だしな」 「貧乳じゃないです! こう見えてもぎりぎりCカップはあるんだから――ってこれは明らかにセクハラじゃないですか! 石神隊長に言いつけますからね!」 「うるせぇ! 誰がお前みたいなガキに欲情なんかするかよ!」 「よっ、欲情って、そんな嫌らしい目で私を見ていたんですか!? 燕さんのエッチ! スケベ! ド変態!」 「よく言うぜ! オレの裸を見たお前のほうこそ、エッチでスケベでド変態じゃねぇか!」 「あれは下着姿で出てきた燕さんが悪いんです! それに気にするなって言ったじゃないですか!」 口論の火種は尽きず、ますます激しさを増していく。小鳥と流星の口喧嘩を断ち切ったのは、涼やかな声が奏でる笑い声だった。小鳥と流星は声がしたほうを揃って見やる。腕を組んで呆れ顔をした石神と、微笑んでいる里桜が二人を見ていた。だが微笑んでいたのは里桜だけではない。なんと雪村1尉も全開の笑顔を浮かべていたのだ。まさか雪村1尉にまで笑われてしまうとは――! 小鳥と流星は自分たちが失態を晒していたことに気づく。恥ずかしさのあまり顔も合わせられない、小鳥と流星に里桜が話しかけた。 「石神隊長、鷹瀬君に朱鷺野君、そして燕君と小鳥ちゃん。ブルーインパルスのみんなが、私に空と向き合う勇気と力を与えてくれたから、私は兄さんから託された夢を、やっと空に届けることができた、兄さんを夢の場所に連れて行くことができた、兄さんと分かり合えることができた。ブルーインパルスのみんながいてくれたからこそ、私たちは夢の場所に戻ることができたの。だからありがとうを言わせて。私にとってみんなは、最高の仲間たちよ」 「俺からも改めて礼を言わせてください。……本当にありがとうございました」 小鳥たちに頭を下げて、里桜のほうに向き直った雪村1尉は、とても真剣な面持ちで彼女を見つめると、大きく深呼吸をしてから言葉を継いだ。 「里桜。俺のことはもう気にしなくていいから、お前は石神さんと幸せになるんだぞ! もちろん結婚式には絶対に出る! 子供が産まれたら、誰よりも一番に兄ちゃんがお祝いしてやるからな!」 どこまでも真っ直ぐに自分を想ってくれる兄の言葉を聞いた瞬間、空で抑えていた里桜の感情は、一気に溢れ出した。「馬鹿」と呟きながらも、眦を涙で濡らした里桜は雪村1尉に抱きつき、人目を憚ることもなく、溢れ続ける涙で彼の厚い胸板を濡らした。まるで幼い頃の二人に戻ったかのようだと郷愁を感じながら、雪村1尉は自分の胸の中で泣き続ける里桜の背中を優しく撫でる。 里桜と雪村1尉は顔を見合わせると、幸せと喜びに彩られた声で笑った。続くように誰彼の区別なく笑い声が上がる。そしていつしか重なり合った笑い声は一つの旋律となり、あたかも一羽の鳥が軽やかに羽ばたくように、青空の彼方に昇っていった。 インタビュー・写真撮影・ローパス課目の展示飛行で構成された、ブルーインパルスのPR活動は、多少の内容変更はあったものの、なんとか無事に終えることができた。雑誌記者もテレビ局のスタッフたちも、心から満足した様子で帰っていった。きっとこれで、さらに多くの人々にブルーインパルスの魅力を伝えて、夢を与えることができるだろう。次に控える小松基地航空祭が楽しみだ。 「夕城さん、ちょっといいかしら。貴女に話したいことがあるの」 6番機の外部点検を終えて、梯子に片足をかけた小鳥は、稲嶺恵理花1等空尉に声をかけられた。小鳥は石神に視線を送る。首肯した石神は片手を上げて笑った。石神の許可を確認した稲嶺1尉は、小鳥をエプロンから少し離れた場所に連れていく。稲嶺1尉が小鳥に話したいこととは、いったいなんなのだろうか。ややおいて稲嶺1尉は珊瑚色の唇を開いた。 「そんなにたいした話じゃないんです。その、燕君と私のことなんだけれど……」 稲嶺1尉はどことなくはにかんでいる。もしや「もう一度付き合うことにした」とか、「婚約することにした」などと、小鳥に言おうとしているのか。今にも嫉妬の導火線の先端に火が点きそうだ。だが自分が嫉妬していることを、稲嶺1尉に悟られたくない。なので小鳥は努めて平静を装ったまま、稲嶺1尉の言葉を待った。 「私と燕君が交際していたって噂があるみたいだけれど……それは違うんです」 「えっ……?」 思わず小鳥は蜂蜜色の双眸を瞠目させた。 「実は私が広報室に異動してきた燕君に、一目惚れして告白したんです。でも結果は見事に玉砕。『貴女の想いは嬉しいが、今はそんな気持ちにはなれない』って言われちゃったわ。だから安心してください」 「あっ、安心って、私は別に――」 双眸を瞬かせて小鳥は視線を逸らす。稲嶺1尉が言ったとおり、確かに小鳥は心の片隅で安心を覚えていた。それに二人が交際していなかった事実を知り、とても嬉しいと思っている。自分はありもしない噂に翻弄されていたというわけか。白雪姫の若さと美貌に嫉妬する、王妃のようになっていた自分が馬鹿らしく思えてしまう。恐らく安堵の色が顔に表れたのだろう、稲嶺1尉は微笑ましげに小鳥を見つめていた。 「燕君が笑って握手をしてくれた時ね、私は凄く驚いたんです。だって広報室にいた頃の彼は、まったく笑わない人だったから。そんな燕君がいつの間にか笑うようになっていた。私、燕君が変わったのは夕城さんのお陰だと思うの。きっと夕城さんの純粋な心が、彼を大きく変えたんだわ。貴女の中にある燕君への想いを大切にしてください」 「稲嶺さん……」 「おい! 何やってるんだよ! 早く戻ってこい!」 流星の涼やかな低音の声が小鳥の耳朶を叩く。小鳥が肩越しに背後を見やると、眉間に皺を刻んだ流星が、不機嫌な面持ちでこちらを睨んでいた。流星の機嫌を損ねる前に、急いで戻ったほうがよさそうだ。ぺこりと一礼した小鳥は踵を回した。 「待って、夕城さん」 小鳥を呼び止めた稲嶺1尉は、彼女の耳に唇を寄せて囁いた。驚いた小鳥は稲嶺1尉を見やる。驚きの視線を受け留めた稲嶺1尉はにこりと笑い、雪村1尉が待つ見送りの位置に向かっていった。再び流星が小鳥を呼ぶ。二回目の声は先程よりも苛立っていた。小鳥は駆け足でエプロンに急いだ。小鳥がエプロンに戻ると、待ち構えていた流星に軽く頭を小突かれる。小鳥が仰ぎ見た流星は、仏頂面で口をへの字に曲げていた。 「お前、稲嶺といったい何を話していたんだよ」 「燕さんには内緒です!」 「はぁ? ……勝手にしろ!」 舌打ちをした流星は、荒い足取りで5番機に向かいコクピットに乗り込んだ。まるでゲームソフトを買ってもらえなかった子供のようだ。小鳥も苦笑しながら6番機のコクピットに乗り込み、ベルトとショルダーハーネスを締める。キャノピー・クローズ、入間基地の管制塔と交信。スロットルレバーを押し上げて、双発のエンジンに命の火を灯す。見送りの敬礼をする、稲嶺1尉と雪村1尉と入間基地の隊員たちは、ゆっくりと方向転換した機体の翼の陰に隠れた。ランウェイ・イズ・クリア、クリアード・フォー・テイクオフ。四機のT‐4は軽やかに飛翔する。離陸して空中集合したあと、小鳥は稲嶺1尉の囁きを思い出した。 ――流星は小鳥と一緒にいたいからPR活動に参加した。 稲嶺1尉が教えてくれた魔法の言葉は、小鳥の心を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。 5番機のほうを見やった小鳥は思わず微笑みを零す。 上空でダブルライン隊形を組んだ四機のT‐4は、光り輝く青天を飛んでいった。 |