先週の青天が幻だったかのように、空は一面灰色の雲の絨毯で覆われている。気象班の観測によると今日は雲に覆われる時間帯が長く続くらしく、シーリングも1万フィートに届かないらしい。第11飛行隊の飛行隊長の石神が安全を考慮した結果、この日の区分練成訓練は諦めて、二機編隊による基本機動訓練を実施することになった。石神と真由人。里桜と圭麻。そして小鳥は流星と二機編隊を組むことになった。単機飛行訓練を終えた小鳥は、複数機による訓練に入っていたが、思えば流星と組んで飛ぶのは、今日が初めてだった。小鳥と流星との橋渡し役の鷺沼は松島基地にはいない。大事な用事で数日前から九州地方に旅立っているのだ。 「あの、燕さん。この前は後席で吐いてしまって、本当に申し訳ありませんでした」 小鳥は6番機の外部点検をする前に流星に謝った。だが流星は凍りついた双眸で小鳥を一瞥すると、黙したまま外部点検を終えて、素早く5番機に乗り込んでしまった。あの時小鳥が火を点けてしまった怒りの炎は鎮まることもなく、未だに流星の中で激しく燃え続けているのだろう。その怒りの炎を消す方法は、今の小鳥には分からなかった。 石神たちが乗る1・2・3・4番機が、ノーマル・フォーメーションを組んで、順番に滑走路を走り離陸していく。小鳥も6番機に乗り込み、エプロンから誘導路に入り滑走路に機体を走らせた。流星が乗る5番機はすぐ前方にある。それなのに互いの心の距離はとても遠く感じてしまう。小鳥はそのことがとても悲しくて仕方がなかった。回転数を上げた双発のターボファン・エンジンが、猛き咆哮を上げる。5番機が滑走路を走り始めた。小鳥もスロットルレバーを押し上げて6番機を走らせる。二機はほとんど同時に滑走路から浮き上がり、灰色の雲が支配する空に飛び立った。 『ツー・レフト・サイド』 5番機の左側に6番機をつけろと、流星の指示が小鳥の耳朶に届く。機械で合成された音のように、なんの感情もこもっていない声は、流星が心の扉を固く閉ざしている証拠なのだ。小鳥は「了解」と返事を返すと、操縦桿を倒して左側のラダーペダルを沈め、5番機の斜め左に6番機を滑らせるように動かした。速度300ノットを維持したまま、二機のT‐4は天空を翔ける。小鳥は5番機の斜め左後方に密着するように飛び続けた。どうやら訓練空域に到着したようだ。ややあって流星から無線越しに訓練開始を告げられた。 基本的な機動は四種類ある。一つ目はエルロン・ロール。操縦桿を左右のどちらかに倒して、補助翼を使用することで、機体の前後の軸を中心に、機体を横転させる機動である。ロールを打ち、背面状態の飛行に移ることを、ハーフ・ロールという。二つ目は水平に円運動を行う旋回だ。操縦桿を旋回したい方向に倒して機体を傾け、更に手前に引くことで、旋回を始めることができる。ちなみに「○○度ターン」の数字は、旋回開始時と終了時の機首方位の、変化量を示している。 三つ目は宙返り。操縦桿を手前に引くことによって、上昇から背面姿勢になり、降下して水平姿勢になる。綺麗な円を描くには、機動中の速度とGの調整が必要不可欠だ。四つ目の機動はバレル・ロール。樽の内側に沿うように、螺旋状の経路をとりながら飛行する機動だ。正面から見ると円を描くような形になり、ロール開始時と終了時の針路は同じになる。 フライトグローブを嵌めた流星の手が、ハンドシグナルを宙に描く。基本機動の一つ、旋回のハンドシグナルだ。エレメントリーダーの外側に、僚機のウイングマンが飛行している場合、旋回の半径は外回りの分だけ、どうしても大きくなってしまう。だからエレメントリーダーに遅れないためには、速度を上げてエンジンの出力をより強めなければいけないのだ。スロットル・アップ、6番機の機首を上げて小鳥は操縦桿を左に倒す。重力加速度が華奢な小鳥の身体に重い牙を突き立てた。 パイロットは常にGと戦いを繰り広げている。空中戦では重力の9倍ものGに耐えながら、相手を追い詰めて振りきるための、急激な旋回や宙返りを行う。最大で9倍のGが頭から爪先に向かってかかり、首・背骨・腰などを圧迫するのだ。脳髄から血液が下流するのを防ぐために、パイロットは耐Gスーツという血圧計の帯のような気嚢を、腰から足まで巻きつける。Gがかかると空気が送り込まれて気嚢が膨張し、下半身を締めつけるのだ。 下半身全体を強く絞り上げるような重いGに耐えながら、小鳥は5番機の主翼から視線を決して逸らさなかった。5番機が上で6番機が下を飛ぶ。約20メートルの距離を保ったまま、小鳥はなんとか左旋回を終えた。次は内回りの右旋回だ。速度を上げて行った外回りの旋回とは逆に、今度は出力を落とさなければならない。左手でスロットルレバーを押し下げて、エンジン出力を絞る。小鳥は5番機の右翼だけを見つめながら、機体に寄り添うように右旋回を続けた。まるで運命の赤い糸で繋がっているかのように、同じ速度と軌跡で二機は旋回を終えた。 宙返りを終えた二機はバレル・ロールに入る。小鳥が流星を追いかけて上昇しながら横転する時、彼女の視野に映る5番機は、それまでの常識を越えて覆い被さってくるように動いてきた。眼前に迫る翼端から逃れようと、反射的にスロットルを戻しながら、操縦桿を反対側に引き倒したくなる。だが小鳥がその行動を取ってしまうと、6番機は5番機に置いていかれてしまう。正しくはこの場合は恐怖心に抗い、スロットルを上げてエンジンパワーを継ぎ足し、編隊長機ににじり寄ってその翼を自分の頭部で支えるくらいの、強い気持ちが必要となる。その強い気持ちがあって、初めて一糸乱れぬ密集編隊が維持できるのだ。 (あれ……? 5番機の位置が変わってる……) 一通りの基本機動を終えて、視線を動かした小鳥はふと不思議に思った。斜め右を飛行しているはずの5番機が、いつの間にか6番機のすぐ前方を、飛んでいたのである。風の流れに飲まれたのだろうかと思ったが、モーニングレポートのウェザー・ブリーフィングで、気象班の隊員は風は穏やかだと言っていた。それに流星は卓越した飛行技術の持ち主なのだから、まさか操縦を誤ったわけではあるまい。 そして次の瞬間、6番機が巨大地震に襲われたかのように激しく振動した。頑丈なベルトとハーネスで全身を固定しているというのに、今にも異次元の彼方まで吹き飛ばされそうだ。小鳥はあちこちに身体を打ちつけながらも必死に操縦桿を操り、崩れた機体の体勢を立て直そうと努力する。その甲斐あって、機体はなんとか安定した。 『ハミングバード! どうしたんだ!?』 切迫した石神の声が小鳥の耳朶に届く。反対側からデルタ隊形を組んだ四機のT‐4が飛んでくるのが見える。6番機の異変に気づいた石神たちが駆けつけたのだ。 『わっ、分かりません! いきなり機体が揺れて――!』 『訓練は中止だ! 基地に帰投するぞ!』 六機のT‐4は爆音を響かせながら、松島基地の滑走路に着陸した。小鳥は痛む身体を引き摺ってコクピットから這い出し、生きて地上に帰れたことを神に感謝した。 「夕城! 大丈夫か!?」 駆け寄ってきた石神は、小鳥の無事な姿を確認すると、安堵の色を精悍な顔に滲ませた。 「はい。身体を打ちつけただけです。……訓練を中止にしてしまってすみません」 「お前のせいじゃないさ。……原因はあいつだ」 石神の視線が鋭さを増す。石神の視線の先には、5番機から下りた流星がいた。漆黒のバイザーを上げて、メタリックブルーのヘルメットを脱いだ流星は、まったく臆さずに石神の視線を正面から受け留めている。歩みを進めた石神は流星の正面に立つと、激しい怒りの塊を抑えているような顔で彼を見やった。 「……夕城にわざとジェット後流を浴びせるなんて、いったいどういうつもりだ?」 小鳥が乗る6番機はジェット後流に巻き込まれてしまった。ジェット後流を浴びた影響で、エアインテークの空気の流れが遮断されて、片側のエンジンが不調になった6番機は安定性を失い、激しい震動に襲われた。それなら機体が一時的に制御不能に陥ったのも納得がいく。まさか流星は、6番機が5番機の機体線上に入るように位置を取り、機体が噴出するエンジンの流れに飲まれるよう、故意に仕向けたというのか。きつい口調で問われたにもかかわらず流星は無言だ。石神の表情がさらに重く険しくなった。 「もう一度だけ訊くぞ。どうして6番機にジェット後流を浴びせたんだ?」 「――言わなくたって分かりますよ」 流星が言葉を発する前に小鳥は声を出した。それと同時に、小鳥の心の奥底にあった何かが真っ二つに引き裂かれ、その裂け目から激しい感情が溢れ出す。それは剣のように鋭い言葉に形を変えると、流星の前に進み出た小鳥の喉元から、勢いよく放たれたのだった。 「いい加減にしなさいよ!! 父さんと一緒に飛べないから、私に八つ当たりしたんでしょう!? 私だって、我儘で自分勝手な貴方なんかと一緒に飛びたくないわよ!! 前にいた小松の戦闘機部隊を辞めて、ブルーインパルスにきたって聞きましたけれど、あまりにも自分勝手すぎるから、部隊を追い出されたんじゃないんですか!? それか今日みたいに訓練中に自分勝手に飛んで、誤って部隊の仲間を墜としちゃったんじゃないんですか!?」 小鳥が喋り終えた瞬間、風船が破裂したような乾いた音が、基地中に響き渡った。小鳥の頬に熱い痛みが弾ける。流星の放った平手打ちが小鳥の頬を打ったのだ。頬を弾かれた衝撃で口腔の肉が裂け、食いしばった唇の隙間から、一筋の赤い血が流れた。素早く伸びた流星の手が、小鳥の胸倉を掴み上げ、彼女を地面から引き離す。怒りの炎を燃え上がらせる流星の顔は蒼白に染まり、小鳥の襟元を掴んで締めあげる手は小刻みに震えている。人間の目がこれほど吊り上がるものなのか、これほど人相が変わるものなのかと、疑いたくなるような怒りの形相だった。 「お前にオレの何が分かるんだよ!! 自分の目の前で、火を噴きながら墜ちていく仲間を見たことがないくせに、知ったようなことを言うな!!」 「仲間が墜ちていくのを見るのが嫌だから、戦闘機を降りたんですか!? 航空自衛隊のパイロットは空を守り、時には空で戦うことが任務じゃないですか!! 貴方は空から逃げた!! 今だってそうよ!! 貴方は空から逃げている臆病者だわ!! 私だって空で父さんを亡くしたわ!! でも私は燕さんとは違う!! 空から逃げていない!! 今もこうやって空を飛んでいるもの!!」 「黙れっ!!」 激情と動揺を剥き出しにした流星が、再び右手を振り上げる。だが振り上げられた流星の手が、小鳥の頬を打つことはなかった。二人の間に強引に割り込んできた石神が、振り下ろされるよりも早く流星の手首を掴み、小鳥の頬に二発目の平手打ちが落ちるのを防いだからだ。 「やめろ! 俺の目の前で仲間に手を上げることは許さんぞ!」 「こんな奴、仲間なんかじゃねぇよ!!」 石神に反発するように流星が叫ぶ。世界を取り巻いている時間が停止した。小鳥は目を見開き、真っ直ぐに流星を見据えたまま動かない。それは吊り上げた切れ長の目の奥に、怒りの炎を宿した流星も同じだった。二人の間に張り詰めた弓弦の如き緊張が横たわる。ややあって石神の手を振り払った流星は、小鳥を突き飛ばすように、彼女の胸倉を掴んでいた手を離した。 「――お前が死ねばよかったんだ」 「……えっ?」 「荒鷹さんの代わりに、お前が死ねばよかったんだよ」 放たれた流星の言葉は、鋭いナイフに姿形を変えて、小鳥の心を深く抉り取る。あまりにも残酷すぎる言葉に心を貫かれた、小鳥の両目に熱い涙が滲み出す。石神たちの前で醜態を晒したくはなかった。だが小鳥の涙腺は既に千切れかけていたのだ。 「……オレは二度とお前とは飛ばないからな」 冷たく言い放つと踵を返した流星は立ち去った。 涙が滲む両目を見開いたまま、小鳥は呆然と立ち尽くす。 この瞬間、ブルーインパルスの翼の一部は、無惨にも引き千切れてしまったのだ――。 まるで世界が終わってしまったかのような静寂を孕んだ宵闇が、松島基地を包んでいた。時折聞こえる微かな虫の歌声が、その静けさをより一層深めている。蒼白い月光が、基地を彷徨い歩く小鳥の身体に降り注ぎ、柔らかな曲線を描く彼女の姿態の表面を流れ落ちていく。 あの時心の奥に突き刺さった、流星の言葉のナイフは小鳥を苦しめ続けていた。その痛みに苛まれた小鳥は、安らかな眠りに就くことができず、宿舎を出て夜の基地を独り歩いていた。小鳥の両足は自然とハンガーのほうに向かっている。T‐4を眺めて青い空を飛ぶ幻想を見たかった。幻想の空で大好きな荒鷹が待っていると思ったからだ。 小鳥が向かったハンガーのシャッターは全開に開放されていた。ハンガーから流れ出る照明の光が、エプロンを明るく染めている。ブルーインパルスの整備員たちが仕事をしているのだろうか。機体の点検が終わっても、整備員たちは休憩することもなく、担当を任されたT‐4を隅々まで磨きあげていく。その徹底した姿勢こそが、ブルーインパルスの飛行を支えているのである。 ハンガーに入ろうとした小鳥は、中から聞こえてくる声を耳にして足を止めた。姿勢を低くして陰から中の様子を窺う。ブルーインパルスのエンブレムの上に二人の男性が立ち、神妙な面持ちで会話をしていた。男性の一人は小鳥に広い背中を向けているが、見事に鍛え抜かれた筋骨逞しい身体つきなので、石神だとすぐに分かった。石神と向かい合っているのは長身痩躯の青年――流星だ。納得できないといった顔で、目の前に立つ石神を見つめている。 「オレにはないものを夕城が持っているとはどういう意味ですか? 操縦技術も飛行経験も、オレのほうがはるかに上回っています」 「否定はしない。だがお前には、ブルーインパルスに必要な大切なものが欠けている」 「大切なもの……?」 「チームメンバーに対する『信頼』だ。確かにお前の操縦技術は優れている。だがお前は誰も信頼していない。すべて自分一人でできると思い込んでいる」 「……それの何がいけないんですか」 流星の端正な顔と声に僅かな苛立ちが滲み始めた。 「自分がどう飛べば夕城が力を発揮できるのか、逆に夕城がどう飛んでくれれば、お前が力を発揮できるのか。それを考えたことはあるのか?」 流星は口を噤んだまま一言も答えなかった。それを見た石神は言葉を続ける。 「それがお前に欠けているもの――『信頼』だ。夕城にはそれがある。夕城は俺たちを心から信頼して、一緒にに飛びたいと強く思っている。もちろんお前ともな。夕城はお前のパートナーなんだぞ? 夕城を置いていくな、独りにするんじゃない。独りになる怖さは、お前がいちばんよく知っているはずだ。だから夕城を信じろ。荒鷹さんがお前を導いてくれたように、夕城もお前を導いてくれる」 石神の声が止むと、辺り一面に静寂が浸透した。果たして流星はどのような答えを返すのだろうか。 「誰かを信じるなんて、今のオレにはできません。……失礼します」 漆黒と藍色が混じった髪を揺らして一礼した流星は、石神の脇をすり抜けてハンガーの外に出てきた。小鳥の存在に気づいた流星は、歩みを止めたが驚きも怒りもしなかった。小鳥が柔らかいソプラノの声を奏でる前に、流星は無言のまま彼女の脇をすり抜けると、夜の暗闇の中に消えていった。 「お疲れ様、だいたいのことは鷹瀬君から聞いたよ。大変だったね」 今まで閉じていた救命装備室のドアが開く。小鳥よりも先に石神に声をかけたのは、松島基地に帰ってきたばかりの鷺沼だった。恐らく出るに出られず、救命装備室の中で石神と流星の会話を聞いていたのだろう。石神はビターチョコのような苦笑いを浮かべると、鷺沼を自らの隣に招き入れた。 「腕は立つのにまるで協調性がない。荒鷹さんも厄介な子をブルーインパルスに連れてきたものだね」 ブルーインパルスのパイロットとしての適性については、まず第一に高度な操縦技術が求められるのは言うまでもない。他にも広報活動が主な任務であるブルーインパルスの隊員は、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接する役割が与えられている。社交性があること、またフライトにおいては高度なチームワークが要求されるので、協調性があることなどを、ブルーインパルスのパイロットは求められているのだ。 「確かに燕は扱いにくい男ですが、それはあいつが未だに二年前のことを、引き摺っているからなんです。ですが俺は夕城が燕を変えてくれると思うんですよ」 「夕城君が?」 石神は頷くと光と闇が入り混じった天井を見上げた。 「燕と同じく、夕城も過去に大切な人を失っています。同じ傷を心に抱えて、同じ痛みを知る夕城なら、燕の傷ついた心を癒して、あいつを再び飛べるようにしてくれる。俺はそう信じています」 「……そうだね、僕もそう思うよ。もしかしたら夕城君と燕君は、互いに出会う運命だったのかもしれないね。荒鷹さんもそれを見越して、彼を連れてきたのかもしれないな」 宙に舞っていた言葉が消えると同時に会話は止んだ。やがて静かなる沈黙が訪れる。鷺沼がハンガーの外にいる小鳥に気づき、石神の肩をつついて彼に合図を送った。日に焼けた精悍な顔に驚きを滲ませた、石神が小鳥のほうを向く。存在を知られてしまったからには逃げることは許されない。小鳥は遠慮がちにハンガーに足を踏み入れた。 「夕城? こんな遅い時間にどうしたんだ? もしかして……話を聞いていたのか?」 「……はい」 小鳥は言い訳もせず素直に認める。すると石神は困ったように頭を掻き鷺沼は苦笑した。 「ごめんなさい。盗み聞きをするつもりはなかったんです」 「いや、いいんだ。気にするな」 石神と鷺沼の脇をすり抜けた小鳥は6番機に近づいた。6番機の表面は丹念に磨きあげられ、あたかも鏡の如く小鳥の姿を映している。小鳥は瞑想するように両目を閉じて、視界から苦い現実を追い出した。目を閉じれば荒鷹が待っているはずなのに、瞼の裏側に現れたのは暗く冷たい目をした流星だった。 お前が死ねばよかったんだ。流星の幻影とともに彼の言葉が蘇り、まだ完全に癒えていない小鳥の心の傷を抉った。確かに小鳥は荒鷹よりも操縦技術は劣っているし、篤い人望も持ち合わせていない。しかしだからといって、死ねばよかったはあまりにも残酷すぎる言葉だろう。塩辛い液体が両方の眦を焼くと同時に、胸と心を強く締めつけた。 「……T‐4に乗れば、ドルフィンライダーになれば、父さんみたいになれると思っていたんです。父さんのような、皆に愛されて、尊敬されて、慕われて……そんな人に私はなりたかった。でも私はなれなかった。私は誰の役にも立たない駄目な人間なんです。そんな私が、燕さんに信頼されていない私が、彼の心を癒すなんて、できるわけないじゃないですか」 小鳥は両目を固く瞑ったまま歯を食いしばる。死んでも構わないと思いながら、息を殺してむせび泣いた。唇の隙間から逃げ出す嗚咽は、片手で口を覆い閉じこめる。石神の鳶色の双眸は、肩を震わせて泣き続ける小鳥を静かに見つめていた。 「……燕さんの言うとおりです。父さんの代わりに私が死ねばよかったんです」 「……今の言葉は聞き捨てならんな」 小鳥は顔を上げて振り返り、後ろに立つ石神と視線を合わせた。石神の表情と声音は漣のように穏やかだったが、その内側で静かに燃える怒りの炎を、小鳥は見たような気がした。 「今の言葉を親父さんが聞いたら、酷く悲しむだろうな」 「だって本当のことじゃないですか! 父さんの代わりになれない私なんて、死んだほうがいいんです!」 「確かにお前は、夕城2等空佐の代わりにはなれない」 石神もそう思っていたのか。小鳥は涙で濡れた両眼で石神を見据えた。 「夕城、人間は一人一人違う生き物だ。誰かの代わりになんか、絶対になれやしないんだよ。だから親父さんみたいにならなくていいんだ、なれるわけないじゃないか。俺だって荒鷹さんみたいに飛びたいと思ったが、結局それはできなかった。でも今は自分だけの空を見つけて飛んでいる。夕城は夕城なんだ。お前だけの空を見つけて飛べばいいんだよ」 「そうだよ」 鷺沼が同調するように頷く。 「自分を駄目な人間だと簡単に決めつけてはいけないよ。人は気づかないうちに誰かの役に立っているんだ。もちろん夕城君もね。君はブルーインパルスにとって必要な人間だと僕は思っている」 小鳥を見つめる石神と鷺沼の瞳は、とても温かく優しさに満ち溢れ、悲しみで凍りついていた小鳥の心を、柔らかく溶かしていった。心の奥底で渦巻いていた濁りきった感情が流れ出す。小鳥はその場に座りこみ、人目を気にすることもなく思い切り泣き叫んだ。そして小鳥の心の中で好き勝手に暴れていた感情の嵐は消え去り、沈殿していた濁った感情も綺麗に浄化された。泣いた分だけ小鳥の心は軽くなったのだ。小鳥は服の袖で涙と鼻水で潰れた顔を拭き、折り畳んでいた両足を伸ばして立ち上がった。 「落ち着いたか?」 「はい。……見苦しいところを見せてしまって、すみませんでした」 「謝る必要はないさ。感情を無理矢理押し込めていると、苦しくて辛いだろう? 俺もお前も人間なんだから、思い切り笑って泣いて怒ったらいいんだ。さもないといつか心が折れてしまうぞ」 頬に残っていた最後の涙滴を拭い小鳥は頷いた。 「私、燕さんが私を信頼してくれると信じています。だから石神隊長も鷺沼さんも、燕さんを信じてあげてください。お願いします」 「……そうだな」 小鳥の言葉を受け留めた石神は闊達に笑い、鷺沼は柔らかく相好を崩した。 「俺たちは同じチームだからな。明日も朝は早いし、訓練はきついぞ。飯をたくさん食っていっぱい寝て、体力つけて元気を出せ」 なんとも石神らしい豪快な言葉に小鳥は思わず微笑んだ。陽だまりのように温かく和やかな空気に包まれた三人を、ハンガーの外に広がる暗闇の彼方から、静かに見つめる者がいた。先程その場から立ち去ったはずの流星だ。なぜか小鳥の存在が気になってしまい、流星はハンガーに戻ってきてしまったのである。踵を回した流星はハンガーから離れ、歩きながら煙草に火を点けた。両足で踏み締める地面は冷たい。まるで死神の掌の上を歩いているようだ。火を点けた煙草を口に銜えて紫煙を吸い込む。くらりとした甘い痺れが、脳髄全体に染み渡った。 (そうだ、夕城小鳥。お前は荒鷹さんの代わりになんか、なれやしないんだ。それにオレを信じるだって? ……馬鹿なことを言うんじゃねぇよ) 足を止めた流星は、言葉を染み込ませた紫煙を、漆黒の天頂に向けて吐き出した。胸の奥が掻き乱されて気持ちが悪い。煙草の先端を染める緋色の熱源は星のように瞬くと、やがて持ち主と共に暗闇の中に消えていった。 ◆◇ 鉛色の分厚い雲の群れが空を覆い隠し、その隙間から蜘蛛の糸のような細い雨が、大地に降り注いでいる。梅雨という季節はとても厄介だ。パイロットの訓練は気紛れな天気に左右されて、その訓練も天候が悪ければ実施されない。雨・風・曇天・濃霧。いずれも航空機と相性が悪すぎるからだ。雨なら航空機は飛べないし、強風だと危険が伴ってしまう。曇天ならば飛行は可能だが、中から低高度を使った縦方向の訓練ができないのだ。 二度とお前とは飛ばないと言ったとおり、飛行訓練で流星が小鳥と一緒に飛ぶことはなかった。流星は石神たちとは一緒に飛ぶのだが、小鳥を交えた複数機による飛行訓練になると、決まって事務作業などのデスクワークをすると言い、飛行隊隊舎に籠もるとそれきり出てこないのだ。小鳥を避けているのは誰の目から見ても明らかだった。 隊舎の廊下ですれ違ったり、基地売店や隊員食堂で顔を合わせることも幾度かあったが、必要最低限の会話を交わすだけで、小鳥と流星の間に友好的な会話が生まれることはほとんどなかった。そして松島基地に停滞していた鬱陶しい梅雨はようやく追い払われ、若者を楽園に誘う真夏の空気が戻ってきた。真夏の日差しに身体を焼かれながらも、小鳥は日々飛行訓練に励んでいたが、相変わらず流星は彼女との交流を断ったままだった。こんな状態のままでブルーインパルスは、全国各地で開催予定の航空祭で、飛ぶことができるのだろうか。 この日の飛行訓練を終えて、堂上空将補が呼んでいると鷲尾1曹に教えられた石神は、本部庁舎第4航空団司令部に向かい、小鳥たち五人は先にブリーフィングルームに向かった。訓練で疲れた身体を休めていると、堂上空将補に呼び出されていた石神が戻ってきた。険しい表情だ。また堂上空将補に嫌味を言われたのかもしれない。 「どうかしたんですか?」 石神の顔が暗く曇っていることに気づいた真由人が尋ねた。 「燕のことでいろいろとな。本人に直接言わないところが堂上空将補らしいぜ。それに三週間後に浜松で開催されるリモート展示はどうするんだと厳しく言われたよ。……確かにこのままでは飛べないかもしれんな」 リモート展示とは、航空祭会場以外の基地から進出した、遠隔地で行う展示飛行のことを言う。展開先は航空自衛隊の基地で、T‐4の運用体制がある程度整っている基地の中から選定されるのだ。 「難しいって……どういうことですか? 燕さんは私と飛ばないとは言いましたけれど、石神隊長たちとは飛ばないとは言っていないんですよ? ブルーインパルスの展示飛行を楽しみに待っている人がいるんです。飛べないかもしれないなんて言わないでください」 小鳥が言うと石神は視線を動かした。その先にいるのは鷺沼だ。そして二人の間で頷きが交わされる。 「今月いっぱいで鷺沼さんは第11飛行隊を辞めるんだ。引き継ぎや事務作業を考えると……リモート展示には参加できないんだよ」 まさに寝耳に水ともいえる発言に小鳥は言葉を失った。里桜と真由人と圭麻も、小鳥と同様に双眸を見開き驚いている。瞬く間に注目の的となった鷺沼がその口を開いた。 「実は前々から芦屋基地の第13飛行教育団の教官になってくれないかと言われていてね。どうやら航空学生を育成する教官が、不足しているらしいんだ。それで僕は石神君と話し合って、第13飛行教育団にいくことを決めたんだ。今日まで君たちに言わなかったことは、悪いと思っているよ」 鷺沼は祈りを捧げるように頭を垂れると、小鳥たちに向けて己の非を詫びた。 「夕城の言うとおり、俺たちブルーインパルスを待ってくれている人がいる。その人たちの期待を裏切るわけにはいかん。なんとかなると俺も思っているさ。だがその前に、夕城の最終検定をやろうと俺は考えている」 「私の最終検定ですか? もしかして私が鷺沼さんの代わりにリモート展示で飛ぶんですか? 石神隊長。私はまだブラボーとアルファ訓練のどちらも終えていません」 ブルーインパルスにはシラバスという教育課程があり、担当するポジションによって回数と期間が異なる。ベーシックのブラボー訓練とアドバンスのアルファ訓練があり、ブラボー訓練は40回、アルファ訓練は8回で、これを約八ヶ月間かけて実施する。指示をする隊長機の1番機、難易度の高い動きをする5番機と6番機は、ブラボー訓練が70回、アルファ訓練が16回と他のポジションよりも多く、ORパイロットに昇格するまで一年二ヶ月から一年四ヶ月の期間を必要とするのだ。 「そこは堂上空将補と掛け合ってなんとかする。俺は六人全員でリモート展示を成功させたいんだ」 石神は表情を引き締めると真っ直ぐに小鳥を見つめた。 「改めて訊くぞ。夕城、お前に最終検定を受ける気はあるか?」 小鳥を映す石神の眼差しは、彼女への信頼で満ちていた。小鳥の胸に使命感にも似た強い思いが湧き上がる。自分を信じてくれている人たちのために、自分が目指す空を飛ぶために、荒鷹が待つ空へ舞い上がるために、小鳥は大空に続く扉の前に立ったのだ。手の中には一度は失くしかけた扉の鍵があった。青い扉はまだ閉じられていない。 「私は飛びます。空から逃げたくありませんから」 石神を見つめ返した小鳥は、明瞭とした声で己の意思を告げる。小鳥の双眸に湛えられた、強く気高い光を認めた石神は何も言わずに頷いた。言葉は必要ないと判断したのだろう。言葉の手を借りなくても、心に秘めた思いは相手に伝わるのだ。 「残る問題は燕だな。六機が揃わないと話にならん。鷹瀬、燕を説得できるか?」 「なんとかやってみます」 「私が燕さんを説得します!」 突然ともいえる小鳥の申し出に、石神と真由人はとても驚いたような表情を同時に浮かべた。小鳥には無理だ。二人の目と表情がそう言っているのが分かる。だがここで引き下がるわけにはいかなかった。 「燕さんがあんなふうになってしまったのは、私のせいなんです! だから私にその責任を取らせてください! お願いします!」 椅子から立ち上がった小鳥は頭を下げる。流星が小鳥たちとの交流を断ち切ったのは、怒りを爆発させた小鳥が彼を激しく罵倒したからだ。あの時小鳥は、流星が心の内に抱える触れてはならないものに触れてしまい、怒りを爆発させてしまった。だから全責任は自分にある。小鳥は萎れた花のように頭を垂れたまま、石神たちからの返答を待つ。小鳥の肩に大きな手が置かれた。小鳥は顔を上げる。その手の持ち主は真由人だった。 「あれは君のせいじゃない。責任を取る必要はないと俺は思うよ」 「私は燕さんと飛びたいんです! ブルーインパルスのみんなで空を飛びたいんです! 皆さんだって、燕さんと飛びたいと思っているんじゃないんですか!? お願いします! 私にチャンスをください!」 小鳥は真由人の腕を強く掴み、沈黙を保ったままの彼を仰いで見つめ続けた。根負けした真由人は、長い睫毛の下にある茶色の双眸を伏せると、大きく長い息を口から吐いた。小鳥を思い留まらせることは、もはや不可能だと悟ったのだろう。 「……分かった、君に任せるよ。でも無理だと思ったら、躊躇わずに俺たちを頼ってくれ」 「はい。必ず燕さんを連れてきます」 石神たちの誰もが小鳥と同じように、流星と空を飛びたいと思っている。 七人全員が揃ってこそ、第11飛行隊ブルーインパルスなのだから。 あの問題児の流星を説得する。極めて重大な任務を石神たちから託された小鳥は、デブリーフィングが終わったあと、エプロンに足を運んでみることにした。どうやら流星はいないようだ。整備員たちが無駄口を叩かず黙々と働いている。エプロンを360度見回した小鳥は、駐機されているT‐4の数が足りないことに気づく。飛行後点検を受けているのは五機のT‐4。垂直尾翼のポジション・ナンバーを数えてみると、5番機だけが不在だと分かった。ややあって整備作業をしていた彩芽が小鳥に気づいた。 「小鳥ちゃんやないか。どないしたん?」 「彩芽さん。燕さんはここにきてますか?」 「え? 燕さんならさっきまでここにおったけれど……。その、小鳥ちゃんがくると思うから、聞かれても居場所を言うなって、きつく口止めされてるんや」 小鳥が何度もしつこく居場所を尋ねると、彩芽は渋々といった様子で頭上に広がる青空を指差した。同時に上空から爆音が落ちてくる。空の青さと太陽の眩しさに、双眸を細めながら空を見上げると、5番機が飛んでいるのが見えた。まさか訓練の時間ではないのに空を飛んでいるのか。誰か止めることもできたはずだ。小鳥は彩芽に非難めいた視線を向けた。 「訓練の時間でもないのに駄目じゃないですか! どうして誰も止めてくれなかったんですか?」 「うっ……ウチはちゃんと止めたんやで? けれど全然聞く耳持ってくれへんし、あんな怖い目で睨まれたら、誰もなんも言われんかったんや!」 リードソロ課目を終えて、旋回して高度を落とした5番機が着陸態勢に入る。滑走路に接地した5番機は、タキシングでエプロンに進入したのち完全に停止した。横開き式のキャノピーが開き、メタリックブルーのヘルメットを被った流星が、梯子を伝って地面に下りる。ヘルメットを引き剥がして、パイロットスーツの胸元を大きく開けた流星が、こちらに歩いてきた。ややあって流星が長い足を止める。進路上に立つ小鳥に気づいたのだ。お前と話す気などないというふうに、流星が小鳥の脇をすり抜ける。すぐ横を流星が通り過ぎるその瞬間、小鳥は振り返ると同時に彼の背中に向けて、ソプラノの声を飛ばした。 「待ってください! 私たちと一緒に飛んでください!」 足を止めた流星が振り向き、切れ長の双眸に小鳥の姿を映した。 「……言っている意味が分からない」 「三週間後に浜松基地でリモート展示が開催されるんです! でも私がORパイロットに昇格しないといけないんです! 全機が揃わないと――燕さんがいないと、私たちは飛ぶことができません! うまく飛べるように頑張ります! だからお願いします! 私の最終検定とリモート展示に参加してください!」 限界まで首を下に曲げた小鳥は返答を待つ。首の筋肉が痛み始めた時、沈黙していた流星が涼やかな低音の声を発した。 「……オレは二度とお前とは飛ばないと言ったはずだ」 氷の声を小鳥にの耳に浴びせた流星は、頭を下げ続ける彼女を冷たく一瞥すると、長い両足を動かして再び歩き出した。小鳥の心に氷でできた言葉のナイフが突き刺さる。それでも諦めたくない。小鳥は頭を上げると去りゆく流星の背中に向けて声を張り上げた。 「燕さんを傷つけてしまったことは悪いと思っています! でも、何度か一緒に飛んでいれば、こんなふうにはならなかったじゃないですか! 一緒に訓練してください! さすがに一緒にお風呂に入るのは無理ですけれど、一緒にご飯を食べて、いろんなことを話してください! 私たちは仲間じゃないですか! 同じチームじゃないですか! 私は飛びたいんです! ブルーインパルスのみんなと――燕さんと一緒に空を飛びたいんです!」 今まで言えずにいた思いが泉のように湧き上がる。湧き上がった思いは言葉となって、小鳥の喉から一気に溢れ出た。背中に強い言葉をぶつけられた流星は、足を止めるとゆっくりと振り向いた。 「……いいだろう。お前がオレの出す条件をクリアできたらの話だがな」 「条件、ですか?」 「明日の朝、オレと一緒に飛ぶんだ。第1区分のデュアルソロ課目のうち、どれか一つでもオレと飛ぶことができたなら、お前の最終検定とリモート展示に出てやる。ただしオレは一切コールを出さないし、好きなタイミングで課目を実施する。それがリードソロかデュアルソロかは、お前が見極めろ。この条件を飲めるか?」 無理難題をつきつけられた小鳥はすぐ答えられなかった。息の合ったデュアルソロ課目を実施するには、無線によるやり取りが必要なのは言うまでもない。コールを出さず、おまけに自分の好きなタイミングで課目を実施するなんて、傲慢にもほどがあるのではないだろうか。だが浜松でのリモート展示を成功させるには、小鳥はORパイロットに昇格しなければならず、尚且つ流星の協力が必要だ。ブルーインパルスの展示飛行を心待ちにしている人々を、落胆させるわけにはいかない。ならば小鳥が言うべき言葉は、たった一つしかなかった。 「……分かりました。約束は必ず守ってください」 「守る気はないね。お前みたいな未熟なパイロットが、このオレと飛べるとは思っていないからな」 形のいい唇を斜めに吊り上げた流星は、小鳥に背中を向けてエプロンを立ち去った。流星が立ち去ったあと、遅まきながら小鳥は気づく。流星の唇に浮かんだのは、小鳥の勇気を称える微笑みではない。あれは小鳥を愚か者だと嘲笑う冷笑だったのだ。 この日の飛行訓練とデブリーフィングを終えて事務作業を済ませた小鳥は、隊員食堂で夕食を食べたあと、宿舎の部屋には戻らずブリーフィングルームに留まっていた。小鳥が凝視しているテレビ画面の中を5番機と6番機が颯爽と翔けていく。映像が終わると小鳥はすぐに巻き戻しのボタンを押した。ビデオを巻き戻すのはいったいこれで何回目だろうか――。眉間を押さえた小鳥は瞑目して息を吐く。頭蓋は刺すように痛み両目は充血寸前だ。だがここで音を上げるわけにはいかない。そろそろ巻き戻しが終わる頃だ。停止ボタンを押そうと指を載せた時、部屋のドアが控え目にノックされた。 「根を詰めすぎると明日に響くよ」 ブリーフィングルームに入ってきたのは鷺沼だった。白い湯気を立ち昇らせたマグカップを片手に携えている。小鳥の正面に着席した鷺沼はマグカップを彼女の前に置いた。色と香りからしてコーヒーだろう。「いただきます」と受け取り一口飲む。喉を滑り胃に落ちていくコーヒーは少し甘い。小鳥の味覚に合わせて鷺沼が砂糖の量を調整してくれたのだ。 「明日の朝、燕君と1対1で勝負をするそうだね。まったく君も無茶をする子だ。僕もそうだけれど、皆が君のことを心配していたよ」 やや咎めるような口調で鷺沼は言った。それにどことなく視線も表情も厳しい。いつも鷹揚な彼も、さすがにこの事態は看過できないということか。僅かに俯いた小鳥は、服を巻き込み左右の拳を握り締めた。鷺沼の双眸は静かにこちらを見つめている。なんだか己の心の奥底を――虚勢の裏側を見透かされているような気分に襲われてしまう。そして小鳥はいつの間にか押し込めていた弱音を吐露していた。 「……やっぱり私は飛ばないほうがいいのかもしれません。鷺沼さんの代わりに飛ぶなんて、できっこないですよ。やっと活動再開の許可が下りて、全国各地の航空祭で飛べるようになったのに、一度も飛べないまま部隊を去るなんて、そんなの誰だって嫌に決まっています。浜松のリモート展示は、鷺沼さんが飛ぶべきだと私は思うんです」 鷺沼は黙したまま静かに小鳥の話を聞いていた。 「――僕は荒鷹さんと約束をしているんだ」 「父さんと約束……?」 「荒鷹さんは君がブルーインパルスにくることを――6番機のパイロットに抜擢されることを分かっていたんだろうね。それで荒鷹さんは、『娘を一人前のドルフィンライダーに育ててやってほしい』と僕に言ってきたんだ。君が6番機のORパイロットになることは、荒鷹さんの願いでもある。僕は荒鷹さんとの約束を果たして、彼の願いを叶えてから部隊を去りたいんだ」 鷺沼は足りなくなった呼吸を継いでから言葉を続ける。 「君が言ったとおり、一度も展示飛行をできないまま、部隊を去るのは確かに心苦しいよ。でもORパイロットがTRパイロットにアクロ技術を継承する時、技術だけでなく個人の『思い』も継承されるんだ。だからブルーインパルスと一緒に空を飛んでいるような気になれる。甲高いエンジン音、スモークの色と燃料の匂い、T‐4が空に飛び立つ姿、どこにいてもその全部が見て感じられる。君に託した僕の『思い』が、ブルーインパルスが飛ぶ空を、僕に見せてくれるんだよ」 「鷺沼さん――」 鷺沼の言葉に宿る熱い思いが小鳥の心に染み込んでいく。鷺沼は自分がラストアクロをできる機会を捨ててまで、6番目の翼を小鳥に託そうとしてくれているのだ。それに比べて小鳥は、これからも展示飛行を飛べる。ここで弱音を吐くのは、鷺沼の思いを裏切る行為に等しいのではないだろうか。それにここで逃げ出したら最後、自分は絶対に後悔する。なんとなくだが、気持ちの落ち着けどころを見つけたような気がした。 「私は……燕さんと飛べるでしょうか」 小鳥は最後の不安を口にする。鷺沼の思いに触れて、若干であるが胸中の不安は晴れた。だがそれでも気を緩めれば、重圧感に押し潰されそうだった。それに場の勢いで、絶対に飛んでみせると勇ましく豪語したものの、小鳥は流星と一度もデュアルソロを飛んだことがなかった。神業としか思えない曲技飛行を難なく行う流星と、果たして自分はデュアルソロを飛ぶことができるのだろうか? 鷺沼は強い眼差しで小鳥を見つめると開口した。 「夕城君が燕君の飛行技術に追いつくには時間がかかると思う。でも君はブルーインパルスのパイロットに抜擢された。それは相応の力が君にあるということだよ。だからもっと自分に自信を持ちなさい。それに君には、燕君が持っていない『信頼』という強みがあるじゃないか。時に信頼は何よりも強い力になるんだ。心配しなくていい、僕は最後まで君をサポートするよ。夕城君を一人で飛ばせたりなんかしない。だから一緒に頑張ろう」 「――はい!」 まさに身が引き締まる思いだ。不安を完全に振り払い、小鳥は毅然とした態度で首肯する。そのあとアクロバットのビデオ映像とT‐4の模型を使い、時間が許す限り小鳥は鷺沼から徹底的な指導を受けた。ブリーフィングルームの窓から差す明かりは、橙色の日が地平線の彼方へ完全に沈んだあとも、マンツーマンのブリーフィングを続ける小鳥と鷺沼を、優しく見守るように照らし続けていた。 第11飛行隊ブルーインパルスの運命を左右する朝が、眩い黄金色に輝きながら東の空からやってきた。事情を知らない第三者が聞けば、大袈裟な表現ではないのかと思われるかもしれないが、小鳥にとってはそう言い表わしたくなるほど重要な朝だった。飛行前点検を終えた5番機と6番機は、ハンガーからエプロンに引き出されていて、二人のドルフィンライダーの到着を待っている。その周りでは小鳥と流星の勝負を聞きつけたパイロットと整備員たちで、黒山の人だかりができあがっていた。ハンガーの中にある救命装備室で、救命胴衣と耐Gスーツを身に着けた小鳥は、緊張した足取りでエプロンに向かう。小鳥が向かったエプロンでは、石神・里桜・真由人・圭麻・鷺沼、そして王者のように堂々と構えた流星が、腕組みをして待っていた。正面に小鳥を迎え入れた流星は、嘲笑に近い笑みを唇に浮かべた。 「逃げずにくるとは大した奴だ。尻尾を巻いて逃げるなら今のうちだぜ」 「逃げません! 絶対に燕さんと飛んでみせます!」 小鳥を挑発した流星は5番機の外部点検を始めた。小鳥も石神たちに見守られながら、6番機の外部点検を終えると、コクピットに搭乗して発進準備を整える。リリース・ブレーキ、タキシングで滑走路に向かい5番機の隣に並ぶ。流星はキャノピー越しに小鳥を一瞥すると視線を前方に向けた。そしてスロットルを開いた5番機は一気に加速すると、ローアングル・キューバン・テイクオフで離陸していった。小鳥もスロットルを開き、ロールオン・テイクオフで離陸する。高度300フィートまで上昇。小鳥は上空で待つ流星と合流した。 『神に祈りは捧げたか?』 『捧げました。燕さんのぶんも一緒にしておきましたよ』 『軽口を叩いていられるのも今のうちだ。泣いて謝るお前の顔が目に浮かぶぜ』 『その言葉、そっくりそのままお返しします!』 『……言ってくれるな。まあいい、お喋りはここまでだ!』 一気に速度を上げた5番機が、弓弦から放たれた矢の如く翔けていった。スロットル・アップ、小鳥は速度を上げて追いかける。小鳥は5番機の右翼を食い入るように見つめた。順番からいけば次の課目はハーフ・スロー・ロールのはず。ハーフ・スロー・ロールは、まず右へ180度のロールを打って背面姿勢に移行する。ならば5番機の右翼が僅かに下がった瞬間に、エルロンを右に切ればいいのだ。理論上は間違ってはいないはず。操縦桿を握り締めながら小鳥はその瞬間を待った。そして待ちに待った瞬間が訪れる。5番機の右翼がほんの僅かに傾いたのだ。小鳥は操縦桿を倒して右に180度ロールする。小鳥が思ったとおり、斜め前方の5番機も右にロールを打ち背面になっていた。 (まさかこんなに簡単に決まるなんて――) 小鳥がそう思った時だ。5番機は左ロールで復帰して引き起こしを始めると、上昇姿勢を確立した直後に右ロールで再び背面になった。2分の1ループから下降した5番機は、三回連続で左ロールを打ち、すれ違うように6番機の真下を通過していった。流星が繰り出したのは、デュアルソロ課目のハーフ・スロー・ロールではなく、リードソロ課目のインバーテッド&コンティニュアス・ロールだった。つまり小鳥はまんまと出し抜かれたのだ。 エレベータ・ダウン。小鳥は降下旋回して流星の後を追いかけた。5番機の右翼は下がっている。ハーフ・スロー・ロールか? それとも他のリードソロ課目によるフェイクか? 正しい判断が下せず小鳥はロールを打てない。だが今度は本物のハーフ・スロー・ロールだった。また出し抜かれてしまった――! 悔しさのあまり、小鳥は酸素マスクの奥で歯噛みした。それからも小鳥は流星に翻弄され続ける。背面になったかと思えばロールを打ち、ループで上昇していく5番機を追跡すると、インメルマン・ターンで逃げられる。風に弄ばれる木の葉のように、5番機の動きがまったく読めないのだ。 ロール。アップ。ダウン。フラット・スピン。スプリットS。小鳥は異なる機動を秒単位で繰り出し続けて、流星が操る5番機を追いかけた。凄まじい重力加速度が、小鳥の全身に貪欲な牙を突き立てる。骨が砕かれ肉や神経が千切られそうだ。耐Gスーツが下半身を締めつけているが、奮闘も空しく小鳥の視界は次第に狭窄していった。黒く塗り潰されていく視界に映る5番機は、どんどん遠ざかっていく。ブラックアウトの恐怖に怯えながらも、小鳥は懸命に6番機を操り飛ばすが、5番機との距離は埋まらなかった。 皆から託された思いを無駄にしたくない! 流星と飛べないまま終わるなんて絶対に嫌だ! (父さん! お願い! 私に燕さんと一緒に飛ぶ力を貸して!) 小鳥はパイロットスーツの胸ポケットに入れている、桜色のお守りを布地の上から掴んだ。 操縦桿を握り締める小鳥の右手に、温かく懐かしい温もりが舞い降りる。 瞬間小鳥の意識は蒼茫たる空の全域に拡散した。 青。 水色。 紺碧。 藍色。 群青色。 それらが折り重なって生まれた青色が――永遠の彼方まで広がっていた。 解放された五感と知覚が、青天の彼方まで広がっていく。極限まで研ぎ澄まされた小鳥の意識は、訓練空域の状況を完全に把握していた。雲量。風の速度。空気の流れ。そのすべてを把握していたのだ。まるでこの空域を飛行する、すべての機体を後方上空から鳥瞰しているような、これまで経験したことのない不可思議な感覚に、小鳥は導かれていたのである。 研ぎ澄まされた小鳥の知覚は、彼女の肉体から離れると、前方を飛ぶ5番機に向けられた。瞑目した小鳥の瞼の裏側に、流星の姿が映し出された。左右の手はそれぞれ操縦桿とスロットルレバーを握り締めて、器用に折り畳まれた長い両足は、フットペダルの上に置かれている。切れ長の双眸は空の青に染まっているだろう。そして肉体の檻から解き放たれた小鳥の意識は、流星に寄り添うように一つに重なり合ったのだった。 操縦桿を握る流星の右手が動く。180度の右ロールで5番機は背面になった。スロットル・アップ、小鳥は5番機の右側に並び真横に占位する。スタック・アップ、地上から見て5番機と6番機の下面同士が重なるように合わせた。5番機がハーフ・ロールで水平飛行に戻った。スタック・ダウン、今度は機体が背中合わせになるように重ねる。バック・トゥ・バックとカリプソ。二つのデュアルソロ課目が見事に成功したその瞬間、小鳥は熱く激しい稲妻が、己の肉体と魂を貫き走り抜けたのを確かに感じた。225度のロールを打った5番機が離脱する。同時に小鳥も45度のバンクで離脱した。オポジット・コンティニュアス・ロール。キューピッド。タック・クロス。コーク・スクリュー。背面姿勢で飛ぶ5番機を優しく抱き締めるように、小鳥は6番機を操りバレル・ロールで螺旋を描く。 小鳥も流星も踊るのをやめなかった。いや、やめられなかったのだ。 青い空の舞台で二人は踊り続ける。 やがて二人の描く航跡雲は、天を染める青に溶けるように一つになった。 まるで夢のようだった流星との競演を終えて、蒼穹の大空の舞台から大地に下り立った小鳥は、待っていた石神たちに囲まれると、口々に大丈夫かと尋ねられた。小鳥は微笑みを添えた返事を返しながら、流星が乗る5番機の着陸を待つ。6番機が無事に着陸するのを見守るように、上空を旋回していた5番機は、高度を落とすと機首を上げて滑走路に接地した。タキシングで誘導路からエプロンに進入した5番機は、ハンガーの前で停まり、ややあってコクピットから流星が下りてきた。一秒でも早く勝負の結果が知りたかった小鳥は、急いで流星のところに駆け寄る。開放された漆黒のバイザーの下から現れた流星の端正な顔は、複雑な感情の色に染まっていた。 「燕さん! 私は――」 「……お前の勝ちだ。約束どおり、お前の最終検定とリモート展示に出てやるよ」 「あっ、ありがとうございます!」 流星はメタリックブルーのヘルメットを脱ぎ、一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたあと、小鳥の眼前にフライトグローブを嵌めた右手を差し出した。小鳥は流星が右手を差し出した意味がまったく飲み込めず、きょとんとした顔で彼を見上げた。 「……ちゃんとした自己紹介をまだしていなかったからな。5番機パイロットの燕流星1等空尉だ。TACネームはスワローテール。頭に叩きこんでおけよ」 「はい! 夕城小鳥3等空尉です! TACネームはハミングバードです! よろしくお願いします!」 小鳥は流星の右手と自らの右手を絡ませると、彼の指の一つ一つまで力強く握り締める。右手をほどいて5番機を整備員に預けた流星は、運命の神から与えられた役目を終えたようにその場から立ち去った。彼方に去りゆく流星の背中が見えなくなるまで、小鳥は深く頭を下げ続けた。 流星との競演を終えてから、最終検定が行われるまでの数日間、小鳥は洋上アクロ訓練と飛行場訓練に専念した。鷺沼の指導はいつもより細かく厳しかったが、小鳥の未来を思うがゆえの厳しさなのだと充分理解していた。訓練中に小鳥が上空でミスをしても、石神たちと流星は怒鳴ることもなく、丁寧かつ紳士的に指導してくれた。それは編隊飛行中に操縦の乱れが出て、僚機を危険な状況に陥らせないためである。 第11飛行隊ブルーインパルスは編隊飛行を中心とする部隊。毎回同じメンバーで飛行するので、パイロット同士の信頼関係が特に重要視される。それゆえに先輩の物言い一つで、パイロット同士の関係に亀裂が入り、展示飛行に悪影響を及ぼしてしまう可能性があるからだ。時には優しく、時には厳しい彼らの思いを小鳥は真摯に受け留め、限られた時間のなか懸命に洋上アクロ訓練と飛行場訓練に励んだのだった。 第11飛行隊の隊舎に隣接している専用のハンガーから、ブルーインパルス仕様のT‐4が、整備員が操縦する牽引車の、トーイングバーに繋がれて搬出されていく。予備機を含めた七機のT‐4は、ゆっくりと一機ずつ、ハンガー前のエプロンに綺麗に整列された。ブリーフィングルームで最終検定のプリブリーフィングを、入念に終えた小鳥たちは、ハンガーの中に設備されている救命装備室にいた。 「夕城、いつもどおりに飛べばいいからな。落ち着いていこうぜ」 いつも以上にリラックスした顔で石神が小鳥に言った。さすが過去に最終検定を突破しただけあって、石神たち六人は、余裕さえ感じられるほど落ち着きはらっている。パイロットスーツの上に救命胴衣と耐Gスーツを身に着けた石神たちは、小鳥の肩を叩いて彼女に激励の言葉を贈ると退出していった。そして小鳥は一人救命装備室に残り、6のナンバーがペイントされたヘルメットを見つめながら、己が内側に潜む緊張と戦っていた。だがなかなか緊張は断ち切れない。小鳥が嘆息を吐いたその時だった。 「……変な顔をしてるんじゃねぇよ。出来損ないの雪だるまみたいになってるぞ」 耳朶に不意打ちを食らった小鳥は驚き、声が聞こえたほうを見やる。石神たちと先に部屋から出ていったはずの流星が、腕組みをして壁に背中を預けて立っているではないか。なんらかの用事を思い出して、救命装備室に戻ってきた流星の存在に気づかないくらい、小鳥は緊張との戦いに集中していたのだ。小鳥の耳に届いた流星の言葉は、明らかに彼女を馬鹿にしていた。自分の顔の造形は自分がいちばんよく知っている。だから小鳥は左右の頬を膨らませると、自分がとても不愉快に思っていることをアピールした。 「そんな顔はしてません! からかわないでくださいよ! 集中できないじゃないですか!」 組んでいた腕をほどいて壁から背中を離した流星が、小鳥の正面まで歩いてきた。膨らませていた頬から空気を抜いた小鳥は、長身の流星を見上げて彼の様子を窺う。相変わらずの仏頂面ではあるが、以前のような小鳥に対して剥き出しにしていた、険しさや嫌悪は薄れているような気がする。 「オレが一緒に飛んでくれるかどうか、お前は不安なんだろう?」 「それは――」 流星から蜂蜜色の視線を外した小鳥は俯いた。「はい、そうです」と簡単に言えるわけがないからだ。 「安心しろ、約束は守る。……お前のフライトを最後まで見届けてやるよ」 小鳥の正面から離脱した流星は救命装備室から出ていった。用事を思い出してきたのではなく、小鳥にその言葉を伝えるためだけに、彼はわざわざ戻ってきたのだろうか。その言葉を聞いた小鳥は思う。今まで固く閉ざされていた流星の心が、少しずつではあるが開放されつつあるのかもしれない。 流星が変わろうと努力しているのだから自分も頑張ろう。悔いが残らないように全力で空を飛ぼう。例えどんな結果が待ち受けていたとしても、静かにその運命を受け入れよう。緊張を断ち切って、6のナンバーのヘルメットを脇に抱えた小鳥は、迷いのない力強い足取りで救命装備室を出た。 強い風が蒼穹の天空を貫く第11飛行隊の隊旗を大きく揺らしている。松島基地特有の強い北西風が飛び回るなか、小鳥の最終検定フライトは始まった。滑走路上でフィンガー・チップ隊形を組んだ石神たちが、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティ・ターンで離陸していく。それに続き流星が操る5番機が、ローアングル・キューバン・テイクオフで離陸する。呼吸を整えた小鳥は、胸ポケットに入れた桜色のお守り袋に触れてから、左手でスロットルレバーを押し上げた。 スロットル・ハイ、ランディングからテイク・オフ。速度計を確認しながら170ノットを維持。エレベータ・アップ、ピッチ角を30度に合わせる。脚とフラップを下ろしたまま、右に360度のバレル・ロール。完璧なロールオン・テイクオフで離陸した小鳥は、上空で待つ石神たちとジョインナップした。第1区分の課目構成で進められている最終検定フライトは、天気にも恵まれているお陰で、これといったトラブルも起きず、小鳥は順調に進めていくことができた。 『その調子だ。落ち着いていこう』 小鳥は難度の高いスロー・ロールを終える。前後席通話装置のインターコムを通じて、6番機の後席に座っている鷺沼が、頑張る小鳥にエールを送ってきた。1・2・3・4番機のチェンジ・オーバー・ループが終わる。次はデュアルソロ課目のハーフ・スロー・ロールだ。操縦桿を握る右手に緊張が走る。果たして流星は小鳥と肩を並べて共に踊ってくれるだろうか――。一瞬小鳥は不安に襲われたが、救命装備室で聞いたあの言葉を思い出した。小鳥のフライトを最後まで見届ける。流星は確かにそう言った、約束してくれた。だから大丈夫だ。小鳥は6番機を旋回させて右手方向へ向かい、同じ方向を目指していた5番機と合流した。 『ファイブ、スモーク・オン。ハーフ・スロー・ロール、レッツゴー』 『ラジャー!』 5番機と6番機は滑走路上空で隊形を維持したまま、緩いレートで右へ180度のロールを打ち、背面飛行に移行した。そして滑走路正面で、素早く270度の左ロールを打ち左方向に抜ける。機体の速度も左右にロールを打つレートも、親密な恋人同士のように、ぴったりと呼吸が合っていた。 『上出来だ、ハミングバード。その調子で頑張れよ』 無線から流れてきた流星の声は柔らかく優しかった。小鳥の心臓の律動は一度だけ熱く高鳴る。流星が初めて、小鳥のTACネームの「ハミングバード」を言ってくれたからだ。バイザーで覆われた小鳥の視界の端に、4番機の左側に並んだ5番機が映る。まだフライトは終わっていない。小鳥は気を引き締めて操縦桿を握り締め、編隊長の無線による指示に対するアクノレッジを返した。 『シックス、ボントン・ロール、ゴーポジション! レディー!』 『ラジャー! ワン、スモーク。スモーク。ボントン・ロール。ワン、スモーク。ボントン・ロール。スモーク。ナウ!』 朗々たる石神の声がボントン・ロールのコールを歌う。「ナウ!」が放たれたその瞬間、小鳥たちは操縦桿を右に倒す。デルタ隊形を維持したまま、六機のT‐4は一斉に右に横転した。一糸乱れぬ切れ味鋭い右ロール。それは瞬きも許されない一瞬の機動だった。六機のT‐4がロールを成功させた瞬間、小鳥の心は大きく震えた。 第1区分22課目のボントン・ロールは、ロールを打つタイミングを合わせるのが非常に難しく、六人全員の心が一つに合わさって、初めて可能となる技である。その非常に難易度の高い技を、小鳥たちは完璧な機動で繰り出した。全員が心を一つに重ね合わせることができたからこそ、ボントン・ロールを繰り出せたのだ。 最終検定フライトはいよいよ終盤に入る。小鳥の指は強張り両腕は痺れていた。密集した隊形を維持するには、操縦桿を強く握らなければいけないからだ。だが小鳥の姿勢は決して揺るがない。小鳥は無我夢中で三舵を操り、6番目の青い翼で空を飛ぶ。天空に巨大な星を輝かせ、5番機と鋭く交差して、稲妻の如き軌跡を空に刻みつけた。 小鳥を空へと突き動かすのはただ一つの強き思い。 遠く遥かな蒼穹の空をこの手で――この6番目の翼で絶対に掴んでみせる! 小鳥が操る6番機は、青い天の頂きを目指すように、螺旋を描きながら飛んでいった。 第1区分の残りの演技課目をすべて終えた六機は、横風滑走路のランウェイ33に一機ずつ着陸した。滑走路を出て、全機が揃っていることが確認されると、タキシングでハンガー前のエプロンまで戻る。駐機場まで移動する時も、速度と間隔は一つも乱さない。例えそこに観客がいなくても、常に誰かに見られていることを、意識しないといけないのだ。石神たちが歩いてくるのを確認した小鳥は、ヘルメットを脇に抱えると限界まで背筋を伸ばし、飛行隊長の石神から最終検定の合否の結果が告げられる瞬間を待った。石神の精悍な顔が動く。小鳥の脊椎から脳髄を電流の如き緊張が駆け抜けた。 「文句なしの合格だ、ハミングバード。金曜日までにはORの命令書が下りるように手配するからな。リモート展示はよろしく頼むぞ」 感動で喜び震える小鳥の正面に鷺沼がやってくる。東雲の宵闇を染め上げる朝日のように、彼は清々しい笑顔を浮かべていた。 「とても素晴らしかったよ。これで僕も心置きなく引退できる。僕の代わりに6番機に乗って、ブルーインパルスの一員として、自由に空を飛んでくれ」 「鷺沼さん――」 鷺沼の名前を呼ぶ小鳥の声は、涙腺と同様に震えていた。飛行訓練、そして飛行訓練後のデブリーフィングにおいても、鷺沼はマンツーマンで指導して、段階的にすべての技術を小鳥に教えてくれた。鷺沼がアクロ技術を継承してくれたからこそ、小鳥は晴れて6番機のORパイロットになることができたのだ。だからこの場に相応しいのは、涙と鼻水で潰れた情けない顔ではない。小鳥は今にも緩みそうな涙腺を引き締める。小鳥は掲げた右手の指先をこめかみに当てて、高らかに踵を鳴り合わせると、目の前に立つ鷺沼に向けて、凜とした敬礼を捧げた。 「ありがとうございました!」 小鳥は敬礼の姿勢を保ったまま、明瞭とした声で謝辞の言葉を述べた。小鳥と同じく踵を合わせた鷺沼が、完璧で非の打ちどころのない敬礼を返す。瞬間小鳥は己が蜂蜜色の双眸を見張った。鷺沼の左右に並んだ石神たちが、揃って敬礼の構えをとっていたのだ。それは石神たちだけではなかった。鷲尾1曹や彩芽ら整備員も――なんと驚くべきことにあの流星も、小鳥に向けて敬礼していたのである。 最終検定は飛行隊にとって一つの大きな試練。全員の心を一つにして取り組み、ドルフィンライダーの誰もが、一度は越えなければいけない通過点である。その通過点を小鳥たちは見事に乗り越えた。今この瞬間、青い翼で空を翔ける七人のパイロットの心は、真に一つとなったのだった。 松島基地をその懐に抱く大空は、永続無限の宇宙を思わせる、深い藍色に染まりつつあった。消灯時間が近いせいか、庁舎の窓から洩れる明かりは少ない。物音一つ聞こえず、まるで世界中からありとあらゆるすべての音が盗まれてしまったかのようだ。隊舎と屋上を繋ぐ階段を叩く小鳥の足音だけが、世界で唯一ともいえる音だった。 「……また一歩、父さんのいる空に近づいたよ。あと少しで同じ空を飛べるね。もしかして父さんが私を助けてくれたの?」 屋上に続く階段を上りきった小鳥は頂点で立ち止まり、肌身離さず持っている写真を取り出して、写真の中の荒鷹に語りかけた。小鳥には不思議に思うことが一つだけあった。それは流星との対決の時に感じた、空との一体感である。写真の中の荒鷹は優しく微笑むだけで、何も答えてはくれなかったが、きっと彼の魂が力を貸してくれたに違いない。小鳥は写真をしまうと目の前にある扉を開けた。隊舎の屋上には、スタジアムのように椅子が並んだ観覧席が設備されており、ここからエプロン地区が俯瞰できるのだ。 貸し切り状態だと思っていた観覧席にはすでに先客がいた。月明かりのスポットライトの下に佇んでいたのは流星だ。小鳥に背中を向けて、転落防止用の柵に身体を預けている。小鳥の背後にある扉は開いたままなので、いつでも好きな時に出ていける。今にも逃げたがる両足を叱咤して、小鳥は流星に近づいた。小鳥の気配を感じた流星が、肩越しにこちらを振り向いた。 「こっ……今晩は」 些か緊張しながらも小鳥は流星に挨拶をした。もちろん返事が返ってこないのは分かっている。それでも最低限の礼儀は守らないといけない。想定どおり流星は挨拶を返さなかった。小鳥が会話のボールを投げてみても、流星は受け留めてはくれないだろう。友好的な会話を生み出せないと判断した小鳥は、この場から立ち去ることにした。 「邪魔をしてごめんなさい。私、部屋に戻りますね」 「待てよ」 一礼して屋上から出ようと動いた直後、小鳥は流星の涼やかな声に呼び止められた。振り向いた先には星空を背負った流星がいた。その切れ長の双眸は真っ直ぐに小鳥を捉えている。鋭い視線に貫かれた小鳥は思わずその身を強張らせた。 「なっ……なんですか?」 「お前は言っていたな。オレたちは『仲間』だと」 小鳥は記憶の扉を開く。自身の最終検定フライトに参加してもらうべく、仲違いしていた流星を説得しようとした時、自分たちは仲間だと小鳥は確かに言った。 「はい。確かに言いました」 「……お前が思う『仲間』はなんだ?」 いきなり投げられた急な問いかけに、小鳥はしばしの間言葉を詰まらせた。催促する視線を感じながら、思考を落ち着かせて言葉を整理する。やや間をおいた小鳥は、流星の質問に返答するための言葉を、開いた喉から放った。 「同じ空を目指して集い、互いの心と命を預け合う同志。それが私が思う『仲間』です。でも、私と燕さんは、まだ『仲間』じゃないですよね」 小鳥を見つめている流星が片方の眉を顰めた。意味を理解できていないのだ。 「……どういう意味だ?」 「互いの心を預け合うということは、喜びだけじゃなくて、痛みや悲しみや苦しさを分かち合うことです。でも、私には燕さんの抱える痛みや悲しみが、まだ分からないんです」 流星は開きかけた口を閉じると黙りこんだ。小鳥には流星が言葉を紡ぐのを躊躇っているかのように見えた。数秒の沈黙のあと、流星が一つに結んでいた口を開く。先程まで鋭かった視線は、少しだけではあるが和らいでいた。 「……オレは怖いんだ」 「怖い……?」 「……オレが誰も信じないのは、置いていかれるのが怖いからだ。絆を強めれば強めるほど、相手を失った時の喪失感は大きくなる。誰かを信じることは、お前の言うとおり自分の心の半分を相手に預けることだ。心の半分を預けた相手が死んだらどうなると思う? 永遠に治らない傷と痛みを抱えて生きていくしかないんだ。オレは二度とそんな痛みは味わいたくないんだよ。だからオレは独りで空を飛んで――独りで死にたいんだ」 流星は服の胸ポケットから煙草の箱を掴み出すと、銀色のライターの火で煙草の先端を緋色に染めた。流星の吐き出した紫煙が夜空に軌跡を描き、退廃的な煙草の匂いが、煙を追いかけるように昇っていく。胸を衝くような悲しみが競り上がる。小鳥は両手を握り締めると、その悲しみを言葉に変えて紡いだ。 「独りで飛んで、独りで死にたいなんて、そんな悲しいことを言わないでください。燕さん、私は絶対に燕さんを置いていきません。約束します。だから私を――私たちを信じて一緒に飛んでください」 小鳥は真っ直ぐに流星を見つめると、祈るように心から訴えかけた。だが流星からの返事はない。実際はほんの数秒が経過しただけだったが、永遠に続くのかと思ってしまうほど、息の詰まるような長い沈黙が続いた。ズボンのポケットから取り出した携帯用灰皿に、くたびれた煙草の残骸を押し込んだ流星は、柵から背中を離すと、小鳥の脇をすり抜けて夜の冷気で冷えきった扉に片手を当てた。小鳥はできるかぎりの誠意と思いを込めたつもりだったが、それでも流星には届かないのだろうか――。 水と油。炎と氷。天使と悪魔。正義と悪。地球人と宇宙からの侵略者。それらのように、自分と小鳥の関係は、決して相容れない反発し合うものだと流星は思っていた。そう思うのは小鳥が彼の――夕城荒鷹の血を引く娘だからだ。小鳥を見るたびに苛立ちを覚えて戸惑った。年齢も体格も性別も違うのは分かっている。だが見てしまう、見えてしまう。小鳥の内側に荒鷹を見て感じてしまうのだ。 流星は苛立ちと戸惑いを言葉のナイフに変えて、小鳥の心に突き刺した。果てには胸倉を掴み上げて小鳥の頬を弾いた。今思えば酷いことをしたと思う。だが小鳥とどう向き合えばいいのか分からなかったのだ。深く傷つけられたにもかかわらず、小鳥は流星が自分を信頼してくれると言った。そして流星と一緒に空を飛びたいという思いを、真正面からぶつけてきた。 追憶の海に意識を沈めた流星は、最終検定の参加を賭けて小鳥と飛んだ時のことを、脳裡に思い出していた。輝かしい勝利を小鳥に与える気などもちろんなかった。空への憧れだけで飛んでいる小娘が、自分に勝てるはずがないからだ。 5番機を操り流星は戦闘機のような機動で小鳥を翻弄する。肩越しに背後を見やると、小鳥が乗った6番機が、懸命に追従しているのが見えた。砂糖菓子のように甘い機動は、小鳥の技術が未熟な証。速度を上げて引き離し、圧倒的な技術を見せつけて、戦意喪失させてやろうと流星が考えた時だ。その瞬間は唐突に訪れた。 雲間から差し込む陽光のような、柔らかく温かい何かが流星に寄り添い、包み込んだのだ。それはまるで誰かに抱き締められているような感覚だった。瞬間脊椎を稲光が駆け抜ける。その感覚は流星自身も忘れかけていた、瑞々しく透きとおった感情を呼び起こした。これは身体の奥底で、永い間眠りに就いていたもの。そして呼び起こされたそれは、流星の心身に水脈の如くいき渡ったのだった。その奔流が魂の最奥まで満ちた時、流星は笑っていた。 流星は笑みを浮かべている自分に驚き戸惑う。だが驚きと戸惑いを感じても悪くはなかった。流星が一緒に飛びたいのは、荒鷹であって小鳥じゃない。そう思っていたはずなのに、小鳥と飛ぶことだけを――ただそれだけを考えていた。自分がどう飛べば小鳥の力を活かせるのか。流星は無意識のうちに、小鳥の動きに合わせて、5番機を操っていたのだ。 小鳥と飛びたいという思いは消えることなく、今も胸の奥に留まっている。胸の奥に芽生えたこの思いこそが、小鳥が荒鷹の代わりに6番目の青い翼で空を飛ぶパイロットだと、自分が認めた証拠ではないのだろうか? 「――お前を信じてもいいのか?」 「えっ? 今、なんて……」 「お前を信じてもいいのかって訊いてるんだよ。……何回も言わせるな」 「燕さん……」 「オレはお前を信じる。だから……お前もオレを信じろ」 それは天上から下界を見下ろす神様のように高圧的な言葉ではあったが、嘘偽りのない真摯な響きを――信じるに値する言葉と響きを、小鳥の耳は確かに聞き取った。小鳥は静かに微笑みゆっくりと頷いた。 「……はい。私も燕さんを信じます」 零れ落ちてきそうな星空の下で、互いに心を預け共に空を飛ぶことを、小鳥と流星は誓い合った。 「……あの時は、頬を叩いて悪かったな」 頭こそ下げなかったが、流星の声は深い後悔に満ちていた。 「……いえ、いいんです。私も燕さんに酷いことを言いましたから。お互い様ですね」 お互いに懺悔を交わした瞬間、目には捉えることのできない清廉なる力が、二人の間に走っていた亀裂を完全に消し去ったのだと、小鳥と流星は感じ取った。 「オレは部屋に戻る。お前はどうするんだ」 「もう少しここにいます」 「風邪を引くなよ。……お前がいないと、オレたちは飛べないんだからな」 「……はい」 流星は小鳥を残して屋上から立ち去った。流星の背中を見送った小鳥は空を見上げる。瞬いた星が煌めきを残しながら落ちていく。輝く星の軌跡は鮮明に見えた。だからきっと明日は晴れるだろう。叩かれた頬も、心の奥も、もう二度と痛みを訴えることはなかった。痛みが過ぎ去ったあとに残ったのは、春の日差しのように、温かい感情だった。 ◆◇ 時間は早朝の午前6時。世界を包み込む天空が、宵闇の黒で凍てついている時間帯だ。小鳥たち第11飛行隊ブルーインパルスのメンバーは、展開先の浜松基地に向かうための準備作業を総出で行っていた。 リモート展示の展開基地の航空自衛隊浜松基地は、静岡県中央部の浜松市に所在する、陸上自衛隊航空部隊の前身である、保安隊航空部隊と航空自衛隊が発足した基地で、現在は航空教育集団司令部が置かれている。 配備部隊はランウェイ北側に2個飛行隊の第1航空団、ランウェイ南側に飛行警戒管制隊・浜松救難隊の計4個飛行隊。第1航空団は空自パイロットを目指す航空学生が、ウイングマークを得るための最終訓練を行っている。飛行警戒管制隊はE‐767とE‐2Cを装備し、日本の領空警戒と管制が任務。浜松救難隊は太平洋中部海域・静岡県・長野県・山梨県の山岳地帯の救難活動を担当している。この他に航空部隊ではないが、航空機や装備部品整備士を養成する第1術科学校、レーダーや防空火器に関する教育を行う第2術科学校が、基地に配置されているのだ。 パイロットたちの荷物、各機体に付属する小さな備品が入れられた、ブルーインパルスの専用バッグ、展開先で食べる弁当など、展開に必要な機材や荷物は梱包をしてからアルミ製のコンテナに詰め込み、パレットに集積していく。小鳥は額に透明な汗を流して唸りながら、重い荷物を積んだカートを押して、パレットのほうに歩いていた。カートに積載されているのは、パイロットたちの荷物だ。積みきれなかった荷物を肩に提げ、小柄で華奢な小鳥が押して歩くにはかなり重すぎる。それでも懸命に頑張っていた小鳥だったが遂に力尽き、膝を折ってその場に屈みこんでしまったのだった。 「手伝おうか?」 小鳥が乱れた呼吸を整えながら振り向くと、斜め後ろに真由人が立っていた。真由人は小鳥の隣までくると、彼女の肩を押し潰していた荷物を取って自分の肩に提げ、代わりにカートを押して歩き始めた。小鳥が悪戦苦闘していたカートを、真由人は軽々と押している。女性に優しくする行動はそう簡単にできることではない。両親の教育の賜物だろう。小鳥は視線を巡らせてハンガーをぐるりと見回す。梱包・集積作業に勤しむ石神たちや整備員の中に、流星の姿はなかった。 「鷹瀬さん。燕さんは一緒じゃなかったんですか?」 「部屋の前にいって声をかけてきたけれど……こないということは、まだ寝ているんじゃないか?」 「もう! 燕さんったら、石神隊長から何度も言われていたのに! いい加減な人なんだから!」 小鳥はヘリウムガスの代わりに不平不満を頬に詰め込んで膨らませ、流星に対する怒りを爆発させた。そんな小鳥を真由人は微笑ましく眺めていて、彼の優しい表情と眼差しに気づいた小鳥は、恥ずかしさで頬を赤く染めた。彩芽が熱弁していたとおり、真由人は優しくて頼りになる。それに理由は分からないが、なぜか不思議と親近感を覚えるのだ。 「君も……苦労したんじゃないか?」 「え?」 「いや、その、お父さんを事故で亡くしてから、いろいろと苦労したんじゃないかなって思ってね」 「そうですね。でも、私よりも母さんがいちばん苦労してたような気がします」 「お母さんが?」 「はい。家に航空学校の合格通知が届いた時、母さんはそれを私に渡そうとせずに、いきなり泣き出したんです。私がどうして泣くのって訊いたら、母さんは無事に帰ってきて、絶対に死なないでって、何度も何度も言ったんです。言われて初めて、私は母さんが抱えている恐怖や辛さを知ったんです。私は父さんと同じ空を飛びたかったから、空自パイロットを目指しました。でも私は、自分の夢を追いかけるのに必死で、母さんの気持ちなんて、全然考えていなかったんです。天気予報とか、飛行機に関するニュースとか、空に繋がるいろんなものを気にしながら、母さんはずっと生活をしていたんですね。その時は親不孝しちゃったなって思いました」 小鳥は遠く離れた場所にいる佐緒里のことを、思い浮かべていた。洗濯物を干している時も、小鳥が通っている幼稚園の送り迎えの時も、幼い小鳥と公園で遊んでいる時も、佐緒里はいつも憂いの眼差しで、空を見上げていたような気がする。それは今現在も、空を飛ぶ役目を終えた小鳥が、戻ってくる日までずっと続くのかもしれない。カートを押しながら小鳥の話に耳を傾けていた真由人が、不意に歩みを止めた。暗い空の彼方を見つめている端正な横顔は、どことなく険しいように見える。自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか? 小鳥の不安げな視線に気づいた真由人は表情を和らげたが、完全に険しさを消し去ることはできていなかった。 「ごめんなさい。私、何か悪いことを言っちゃったみたいですね」 「いや、いいんだ、気にしないでくれ」 カートの荷物を下ろして、コンテナに詰め込む作業をしていると、身支度を整えた流星が欠伸をしながらハンガーにやってきた。みんなが汗水流して労働しているというのに、遅れてやってくるなんて許し難い。文句を言うべく小鳥は流星のほうを振り向く。だがその直後小鳥は瞠目したまま硬直してしまい、彼から視線を外せなくなってしまった。 小鳥たちはいつも着ている作業着やパイロットスーツではなく、「展示服」と呼ばれるダークブルーのパイロットスーツで全身を包んでいる。サイズ自体は通常の航空服と同様に種類が限られているが、ブルーインパルスでは身体にフィットして綺麗なラインに見えるように、サイズを詰めたりするなどの微調整をしている。ギリシャ彫刻の如く美麗かつ完璧で、贅肉もない均整のとれた身体の線を、ダークブルーの展示服は見事なまでに引き立たせていたのだ。そして不躾ともいえる小鳥の視線に気づいた流星が眉を顰めた。 「……なんだよ」 「いっ……いえ……なんでも、ない、です……」 流星を見れば見るほど小鳥の頬は赤く染まり、心臓の律動は早鐘の如く高鳴り、回転率は上がっていく。そんな小鳥を見た里桜はどことなく嬉しそうに微笑んだ。 「小鳥ちゃんは燕君に見惚れているのよ。無理もないわ、だって凄く格好いいんだもの」 「……気持ちの悪いことを言わないでください。鳥肌が立ちますよ」 小鳥に対して失礼すぎる発言をした流星は、展示服の袖を二の腕まで捲り上げると、真由人と一緒にコンテナをパレットに載せる作業を手伝い始めた。完璧に整った端正な顔立ち。モデルもハンカチを噛みながら羨む八頭身スタイル。その性格の悪さがなければ最高なのだが。そんなことを思いながら、小鳥は胸の内で嘆息したのだった。 午前7時になると、小鳥たちは作業の手を止めて隊舎前に整列して、編成完結の報告を飛行隊長の石神に対して行った。石神からの訓示のあと、直ちにハンガーから機体が搬出される。その間小鳥たちパイロットは、飛行隊隊舎二階のブリーフィングルームで、モーニングレポートとプリブリーフィングを実施した。気象幹部によるウェザー・ブリーフィング、航空機の状況や全般的な計画の確認、編隊長を務める石神が中心となったフライト・ブリーフィングなど、密度の濃い内容を小鳥はノートに書きながら、頭の中に必死に叩きこんだ。 プリブリーフィングを終えた小鳥たちは、再びハンガーに戻り救命装備を身に着けて、それぞれの機体に搭乗した。展開の際はパイロットだけではなく整備員も後席に搭乗するため、予備機を含めた七機のT‐4の座席はすべて満席となる。ただし人員が足りないので、予備機の7番機は第21飛行隊の隊員が操縦してくれることになっている。 「鶴丸」 小鳥のハーネスを手際よく締めている彩芽のところに真由人がやってきた。 「浜松まで君を乗せて飛ぶことになった。よろしく頼むよ」 爽やかに微笑んだ真由人は、ぽかんとした顔で立ち尽くす彩芽の肩を叩き、自らが乗る2番機のほうに歩いていった。 「よかったですね、彩芽さん――いたっ!」 小鳥は苦痛の悲鳴を上げた。ハーネスがいきなり身体に食い込んだのである。今まで優しい力加減で締められていたのにどういうことだ。ラダーに足を掛けて作業をしている彩芽に目を向けると、彼女は何やら独り事を呟きながら、小鳥のハーネスを締めていた。 「鷹瀬さんの後ろに乗るってことは……浜松まで二人きりってことやんな。ふとした拍子に唇がくっついたり、触れたらあかんところにうっかり手が触れてしもうたり――。よっしゃ! 鷹瀬さんをゲットする絶好のチャンスやないか! あんたらちょい待ち! 鷹瀬さんのハーネスはウチが締めるんやで!」 小鳥のハーネスを全て締め終えた彩芽は、ラダーから飛び下りると真由人が待つ2番機を目指し、猪突猛進の如き勢いで駆けていった。他の整備員を蹴散らした彩芽が、恋する乙女そのものの表情で、真由人のハーネスを締めているのが見える。搭乗準備を終えた小鳥たちは、石神からの無線のコールで同時にキャノピーを閉めてタクシーライトを点灯させ、整備員にタキシングの準備が整ったことを知らせる。例え観衆の眼に触れることがない展開時のフライトであっても、ブルーインパルスは常に一糸乱れぬ編隊行動を基本としているのだ。 小鳥たちはT‐4をタキシングさせて、誘導路から滑走路に機体を走らせた。まずは1番機から4番機が離陸、それを追いかける形で5番機から7番機が離陸する。松島基地を離陸した七機は、上空でジョインナップして針路を南南西に定め、茨城県・神奈川県などを経由して静岡県に向かう。視程は良好。タービュランスの影も全く見られない。まさに絶好のフライト日和だ。小鳥が目線を横に転ずると、世界遺産に登録された富士山が見えた。 『……綺麗だなぁ』 『ただの山のどこが綺麗なんだよ。馬鹿じゃねぇの』 小鳥の独り事に律儀に返事を返す者がいた。小鳥はその声を聞いただけで誰かすぐに分かった。4番機の左側を飛んでいる5番機を操る流星である。雄大な景色に感動していたというのに見事に邪魔された。小鳥は無線を切っておけばよかったと後悔したが、互いに連絡を取り合う必要があるので、勝手に切ることはできないのだ。 『だって世界遺産に選ばれたんですよ? 綺麗に決まっているじゃないですか』 『そんなの知るかよ。押し寄せた観光客がばら撒いたゴミのせいで、今よりもさらに汚れるんだぞ? 綺麗に見えるのは今のうちだ』 『そんなことありません! みんなでマナーを守れば綺麗なままでいられます!』 『どうだか』 『燕さんの分からず屋! もう少しロマンを持ったらどうなんですか!? そんなんじゃ絶対女の子にモテませんよ!』 『うるせぇ! オレのことより自分の心配をしたらどうなんだよ! お前みたいな口うるさい女と結婚する男に同情するぜ!』 『それはこっちの台詞です! 性格が悪い燕さんと結婚する女の子が可哀想だわ!』 『なんだと!? 誰が性格が悪い残念な人間だって!?』 『それはもちろん燕さんのことです! 他に誰がいるんですか? いたら是非教えてくださいよ!』 『夕城に燕、夫婦喧嘩はあとにしろ』 笑いを堪えているような石神の声が乱入してきた。 『夫婦喧嘩なんかじゃありません!!』 石神に向けて放たれた小鳥と流星が反駁した声は、見事に重なり合った。高さの異なる笑い声が小鳥の耳朶に響く。会話を聞いていた真由人たちが堪え切れずに失笑したのだろう。 『浜松基地が見えてきたぞ。各機降下、オーバーヘッド・アプローチに入る』 小鳥たちは一斉に気を引き締めた。オーバーヘッド・アプローチとは、戦闘機に見られる飛行場へのアプローチ方法である。比較的高い高度と速度で滑走路上空へ接近してから、滑走路上で大きく旋回を行って減速し、高度を下げつつトラフィックパターンに進入するのだ。 T‐4は四機と三機に分かれてイニシャル・ポイントから進入すると、360度のオーバーヘッド・アプローチで浜松基地のランウェイ27に着陸した。次に浜松基地の整備員の誘導に従い、外来機エプロンにランプインする。あと一時間もすればC‐1輸送機に乗った地上クルーも到着するだろう。T‐4から下り立った小鳥たちを出迎えたのは、柔らかい雰囲気を纏った細身の男性だった。 「初めまして。浜松基地司令官の藍澤1等空佐です。堂上空将補から話は聞いています。貴方がたブルーインパルスの展開基地に選ばれて光栄ですよ」 「第11飛行隊飛行隊長の石神焚琉3等空佐です。しばらく騒がしくなると思いますが……よろしくお願いします」 肩越しに背後を見やった石神の視線の先では、小鳥と流星が未だに睨み合っていた。 「いえいえ。賑やかになるのはいいことですよ。第32教育飛行隊の学生隊舎が空いていますので、そこを使ってください。案内しましょう。こちらです」 藍澤1等空佐はマシュマロのように優しい笑顔を浮かべると、嫌な顔一つ浮かべず小鳥たちブルーインパルスを、教育飛行隊の学生隊舎まで案内してくれた。心の底から小鳥たちを歓迎しているのが手に取るように分かる。彼の爪の垢を煎じて堂上空将補に飲ませてやりたいものだと、小鳥は思ったのだった。 事前訓練がない休日。小鳥は圭麻に誘われて、航空自衛隊浜松基地の東側に併設されている、浜松広報館に足を運んでいた。浜松広報館――またの名をエアーパークというこの場所は、目で見て体験して楽しむ、航空自衛隊のテーマパークだ。戦闘機や装備品の展示をはじめ、シミュレーターや全天周シアターも設置されており、航空自衛隊のすべてを知ることができる展示施設として、有名となっている。 自衛隊の豊富な資料が展示されている資料館。大空を飛ぶパイロットの気分が体験できる、全天周シアター。歴代ブルーインパルスの実物などが展示されている、展示格納庫。まずはどれから観賞すべきか悩んでしまう。二人で話し合った結果、まずは展示資料館を見て回り、次に展示格納庫に赴いて、最後に喫茶スカイラウンジ「Fuji」で、昼食を食べることになった。 正面入り口を入ってすぐの一階展示資料館では、航空自衛隊の「任務と活動・研究開発・航空機のメカニズム」を、展示紹介していた。二階は現在航空自衛隊が所有している航空機全種の模型や、パイロットの携行品などを、展示紹介している。このフロアから、迫力満点の大空の映像が観賞できる、全天周シアターに入場できるようだ。 二階フロアを一周した小鳥たちは、次に展示格納庫に向かう。展示格納庫は、主に航空自衛隊が使用した航空機を、中心に展示している施設だ。F‐1支援戦闘機、T‐2高等練習機、F‐104Jスターファイター、F‐86Fノースアメリカンセイバーなど、日によって異なるが、一部の航空機は操縦席への着座もできるらしい。圭麻はブルーインパルス仕様の、F‐86F展示機の前で足を止めると、静かな眼差しで空を飛ぶという役目を終えた機体を見上げた。 「ここエアーパークは、僕と彩芽の原点ともいえる場所なんですよ。僕はこの場所で飛行機と出合い、その素晴らしさを知ったんです」 「朱鷺野さんは彩芽さんとお知り合いだったんですか?」 「はい。実は幼馴染みなんです」 圭麻は短く答えると、F‐86Fを仰いだまま言葉を紡ぎ始めた。 圭麻は静岡県浜松市で生まれ育った。圭麻が小学校に入学してからしばらくして、大阪から鶴丸彩芽が彼の家の隣に引っ越してきたのだ。家が隣近所ということで、両家は自然と家族ぐるみで付き合うようになっていた。実を言うと圭麻は、豪放磊落で言いたいことははっきりと言う彩芽が苦手だった。だが観光目的で浜松広報館――エアーパークを訪れたその時、氷炭相容れずだった二人の関係は、大きく変わることとなる。 圭麻も彩芽も、最初は航空機という乗り物には、一片の興味も抱いておらず、空を飛ぶただの巨大な金属の塊としか思っていなかった。しかし両親に連れられて、展示資料館と展示格納庫を見て回っているうちに、二人は航空機に興味を抱き、いつの間にか心の底から魅了されていた。その興味はとても大きく、「帰りたくない!」と、両親に駄々をこねるほどだった。それから圭麻と彩芽は、飛行機の図鑑や資料を読み漁って造詣を深め、時には専門家も顔負けの難解な質問をして、両親を困らせたりもした。 いつしか二人は、航空機の整備員になりたいと、心に強く思い願うようになっており、同じ夢を抱く者同士として互いを認め合い、友好を深めるようになっていた。そして成長した圭麻と彩芽は、航空自衛隊という道を選んだ。エンジニアとして、民間の航空会社に就職する道もあったが、様々な機種の航空機を間近で見て感じて、触れ合いたかった。だからこの道を歩む決意をしたのである。両親の同意を得た圭麻と彩芽は、心身を鍛錬して知性を磨き、航空学校を卒業したのち、航空自衛隊に入隊することができたのだった。 「でもな、航空学校に願書を出す前に、圭麻は馬鹿なことを言ったんやで」 個性的な口調で紡がれた言葉が、小鳥と圭麻の背中を叩く。小鳥と圭麻が背後を振り返ると、少し離れたところに、一組の若い男女が立っていた。若い女性は艶やかな緑の黒髪を、シュシュでポニーテールに束ね、袖口に繊細なレースをあしらったコットンブラウスの上に、サロペットを着ている。女性の隣では、サングラスをかけた長身痩躯の青年が、腕組みをして立っていた。胸元が大きく開いたVネックのシャツに、黒革のライダースジャケット。ブラックのダメージジーンズに、無骨なミリタリーブーツという、ハードなテイストの服装だ。 「燕さんに彩芽さん? どうしてここに?」 燕流星と鶴丸彩芽という異色の組み合わせに、小鳥と圭麻は驚きを露わにした。外したサングラスを胸元に挿した流星は、小鳥に切れ長の視線を向けて、彩芽は猛禽類の如き鋭い眼差しで圭麻を睨みつける。二人がどことなく不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。 「暇だったからきただけだ。なんだよ、オレがここにきたらいけないのか?」 「ウチらに内緒で小鳥ちゃんをこんな場所に連れ出したりなんかして、無理矢理押し倒して襲うつもりやったんちゃうんか? 小鳥ちゃんはおとなしいし可愛いからな」 「押し倒して襲う!? ちっ、違うよ! 馬鹿! 僕はただ夕城さんにエアーパークを見せたかっただけだ!」 小鳥の目の前で圭麻と彩芽は痴話喧嘩を始めた。周囲の来場者たちが、何事かといった顔でこちらを窺っている。大人げない二人を宥めながら小鳥は質問した。 「あの……馬鹿なことって?」 「僕はパイロットになりたい! いきなりそう言ったんや。アホちゃうかって思ったで。だってちっちゃい頃から整備員になりたいって、言ってたんやで? わけ分からんかったわ」 彩芽は視線を横に動かすと圭麻を一睨みした。だが圭麻は蛇に睨まれた蛙にはならなかった。 「僕がパイロットになりたいって思ったのは、エア・フェスタ浜松でブルーインパルスの展示飛行を見たからなんですよ。そして僕は思ったんです。あのT‐4に乗って、大空と一つになって飛んでみたい、あんなふうに自由に飛びたいと思った。だから僕はドルフィンライダーになるために、パイロットになろうと決意したんです」 見上げていたF‐86Fから視線を外した圭麻は、小鳥に向き直るとどことなく照れたように笑った。仏頂面の彩芽が、圭麻の脇腹を肘で乱暴につつく。どうやら今の圭麻の発言が気に食わなかったようだ。 「なんや格好いいこと言うてるけれど、ブルーインパルスに入りたての頃の圭麻は、ほんまに悲惨やったんや。T‐4の操縦は下手くそやし、訓練中にゲロゲロ吐くし、おまけに皆のなかでORパイロットに昇格するのがいちばん遅かったんやで? そんなんでブルーインパルスのドルフィンライダーになりたい! なんてよう言えたな」 「オレも鶴丸に同感だね。朱鷺野はいちばん最後にブルーインパルスに入ってきた真由人に、すぐに追い抜かれたからな」 小鳥は驚きに満ちた視線を圭麻のほうに向ける。ブルーインパルスの4番機パイロットとして活躍している圭麻が、小鳥と同じく訓練中に嘔吐して、T‐4の操縦に苦戦していたとは信じられなかったからだ。それにファンブレイクやレター・エイトの曲技飛行を見るかぎり、とてもそうは思えない。 「僕が4番機のORパイロットになれたのは、夕城さんのお父さん――荒鷹さんのアドバイスのお陰なんですよ」 「父さんの……?」 「ある日、僕は荒鷹さんに言われました。君は頭の中でいろいろと考えすぎているから、身動きがとれなくなって、うまく飛べないんだ。飛行機という乗り物は、もともと浮いて飛ぶように設計されているから、そう簡単には墜落しない。だから難しいことは考えず、自分の好きなように操縦すればいいんだ。あれこれ悩むと自由に飛べないぞ。荒鷹さんはそう教えてくれました。それで荒鷹さんに教えられたとおりにやってみたら……僕はうまく飛べるようになったんです」 「……やっぱり父さんは凄い人だったんですね」 第11飛行隊ブルーインパルスの6番機パイロットを務めていた荒鷹は、厳しくも優しいチームの大黒柱だったと聞いた。また操縦技術も優れており、ブルーインパルスの展示飛行をさらに美しくしていたという。そんな偉大なる父親の遺伝子を、娘である自分は確かに受け継いでいるはずなのに、どうしてこんなにも――天と地ほどの差があるのだろうか。なんだか小鳥は、我が身の不甲斐なさを思い知らされたような気がした。自分がブルーインパルスにいるのは何かの間違いか、あるいは神様の悪戯なのかもしれない。そう思った小鳥は肩を落とすと、質量の重い溜息をついた。 「――僕は夕城さんを尊敬していますよ」 「えっ? 私を……ですか?」 「夕城さんは航空機の扱いが凄く上手ですから。きっとそれは――天性のものなんじゃないかって僕は思うんです」 「てっ、天性って、天才ってことですよね!? 私が天才ってことですか!?」 「夕城さんは頭で考えるより先に身体が動いて、飛行機と一緒に――自分が飛行機になったように飛んでいるように思えるんです。荒鷹さんに言われましたけれど、僕はやっぱりいろいろと考えながら飛んでしまいます。どうするべきか頭で考えて、それから操縦します。けれど夕城さんは、それが本能で分かるんですね。僕には絶対に真似できない。見ていると羨ましくなりますよ」 小鳥を見つめる圭麻の眼差しは、天空の太陽を見上げる向日葵の花のように、尊敬と憧れの光でいっぱいに満ちていた。同意するように彩芽が頷く。小鳥は横目で流星の様子を窺った。流星は無言で展示機を眺めているだけで、なんの反応も示さない。なにせ流星は「ブルーインパルスのエース」を自負しているのだから、些か不愉快に思っているに違いない。あまり刺激しないほうがいいと小鳥は判断したのだが。 「燕さんもそう思いますよね?」 そんな小鳥の気も知らず、にこやかに微笑んだ圭麻が、流星に問いかける。展示機に向けられていた切れ長の双眸が動き、小鳥のところでぴたりと止まった。ややあって一つに結ばれていた唇が開かれた。 「――仲間のお前がそう言うのなら、そうなんじゃねぇの」 どことなく面倒そうに答えた流星は、両眼の上にサングラスをかけると踵を反転させて、展示格納庫の入口に向かって歩いていった。小鳥も圭麻も彩芽も一様に驚いていた。なんとあの無愛想で協調性の欠片もない流星が、「仲間」と言ったのだ。おまけに口元に微笑みさえ浮かべていたのだから、それを見た小鳥たちは、さらに驚いてしまったのだった。 そして小鳥は思った。最終検定フライトの時、小鳥が救命装備室で思ったのと同じように、微小な水滴が頑強な岩を少しずつ削るかの如く、流星の心は彼女たちに開かれつつあるのだと。だから流星は「仲間」という言葉を口にした、無意識のうちかもしれないが、口元に微笑みを浮かべたのだ。圭麻と彩芽が小鳥の背中を同時に叩く。小鳥の背中を強く叩いた圭麻と彩芽は、偉業を成し遂げた者を称えるような顔をしていた。 「光陰矢の如し」という諺が示すとおり、浜松基地での日々はまさに光の速さで過ぎ去った。毎日が事前訓練の連続で、松島基地にいる時よりも忙しかったかもしれない。なかでも石神は一日中仕事に追われていた。事前訓練を行いながら、飛行パターンを練らなければいけないからだ。様々な条件や制限があるなか、いかに高い展示効果が得られるかどうかは、飛行隊長と飛行班長を兼任している石神の腕にかかっている。それが大きなプレッシャーとなって、石神の心身に重くのしかかっているのは、誰の目から見ても明らかだった。だが石神の顔は今にも倒れそうなほど疲弊しきっていても、その瞳は青春を謳歌する少年のように、強い輝きを放っていた。それは石神だけではない。流星を除くブルーインパルスのメンバー全員も、その瞳を輝かせていたのだった。 そして遂にリモート展示の開催日がやってきた。ダークブルーの展示服に着替えたブルーインパルスのメンバーは、第32教育飛行隊隊舎の一室を借りて設けられた、待機室に集合していた。ミーティングテーブルの上には、5万分の1の地図が敷かれ、浜松基地からリモート展示会場までが描かれており、基準となる360ノットで十秒の距離と、1マイルごとの目が滑走路を基点に刻まれている。 ブルーインパルスの初舞台は、浜松国際宇宙展のオープニングセレモニーだ。国際宇宙展という名前が示すとおり、世界中から集められた月面探査機と人工衛星のレプリカや、隕石の欠片などが展示されているパビリオンが集合している。そのセレモニーで実施するのは曲技飛行ではなく、リモート展示用に用意された、編隊連携機動飛行と呼ばれる課目だ。編隊連携機動飛行の基本的な雛形自体はあるものの、イベントの内容によって、その課目構成をアレンジする場合が多い。今回は国際宇宙展ということで、ローパス系の隊形に、グランド・クロスやポイント・スターにカシオペアという、星に関する名前の入った隊形が組み込まれていた。 飛行パターンはこうだ。午前9時に市長のテープカット、開門となるタイミングでグランド・クロス・ローパスを行い、少しの時間を置いてから、5番機のナイフエッジ・ローパスで課目を再開する。そのあとはチェンジ・オーバー・ターンからポイント・スター・ローパスに移行して、デルタ・スリー・シックスティ・ターンに入る。次にカシオペア・ローパスを実施して、セブン・トゥエンティ・ターン、そしてレベル・オープナーでフィニッシュする計画だ。 プリブリーフィングを終えた小鳥たちは、エプロンで待機していたT‐4に搭乗した。浜松基地を離陸、針路を西に定めて飛び続ける。しばらく飛んでいると、パビリオンの屋根が見えてきた。まだ開門されていないメインゲートの外には、期待に胸躍らせている来場者で、長蛇の列ができあがっていた。小鳥たちはデルタからグランド・クロスへ隊形を変えた。速度は380ノットを維持。国際宇宙展の会場がみるみる近づいてくる。 『ワン、スモーク・オン! グランド・クロス・ローパス、レッツゴー!』 小鳥たちは操縦桿のトリガーを弾き、スモークをオンにした。それとほとんど同時にメインゲートが開門されて、六機のT‐4はスモークの尾を曳きながら、上空を翔け抜けていった。観客たちは会場に入るのを忘れて天を仰ぎ、ブルーインパルスの軌跡を熱い眼差しで追いかけている。観客の興奮が冷めやらぬうちに、流星が操る5番機が、ナイフエッジ・ローパスで低空を飛んでいく。次はチェンジ・オーバー・ターンだ。小鳥たちは縦一列のトレールで進入して、石神のコールで右旋回を開始する。2番機から6番機の各機は、一斉に弾けるように大きなデルタ隊形に移行した。 180度旋回、石神のコールで間隔を詰めて密集したデルタが完成した。5番機を加えて、ポイント・スター・ローパスからデルタ・スリー・シックスティ・ターンへ。隊形を維持したまま右へ360度旋回。バンクは鋭くロールレートは速い。カシオペア・ローパスを終えて次の課目へ進む。単独となった5番機が、タイトな右旋回に入る。360度の右旋回を終えると5番機は直ちに左に切り返して、同様に360度の左旋回を始めた。ロールアウトする5番機を確認。次はいよいよフィナーレだ。会場正面から進入、外側を飛ぶ圭麻と小鳥は、60度バンクする。その一秒後、内側の真由人と里桜が、45度バンクの旋回を四秒実施した。散開からロールアウト。右に二回の連続ロールは感謝の気持ちだ。 上空からは拍手喝采と歓声は聞こえない。 けれどその感嘆の音と声は、小鳥たちの耳朶に確かに届いたのである。 深い群青の空に刻まれた六条のスモークは、まるで七色の虹のようだった。 午後12時50分。浜松基地の隊員たちに見送られながら、小鳥たちはホームベースの松島基地に向けて、ランウェイ27を離陸した。石神たち1番機編隊が先に出発、三十分遅れで流星が編隊長の、5番機編隊が離陸する。左旋回で遠州灘に出た小鳥たちは、北東に針路を取り富士山の東側を通過して、北関東に抜けてから、ほぼ真っ直ぐな経路で仙台に向かう。東北東に転針しながら仙台空港の南側を通過。そのまま洋上に出て、ワイドなダイレクト・ダウンウインドに入り、松島基地のランウェイ25に着陸した。 いつもの定位置にランプイン、次いでエンジンカット。あとは信頼する整備員たちに機体を任せた。6番機のコクピットから下りた小鳥は大きく伸びをして、三週間ぶりに帰投した松島基地の、澄んだ空気を思い切り肺腑に吸い込んだ。無事にリモート展示を終えた達成感と、ホームベースに帰ってきた喜びで、小鳥の心は満ち溢れていた。今は亡き荒鷹も、小鳥と同じ達成感と喜びを感じていたに違いない。 「――お疲れさん」 後ろから歩いてきた流星が、すれ違いざまに小鳥の頭を軽く叩いて労いの言葉を送り、そのままハンガーに入っていった。思わぬ不意打ちを食らった小鳥は己が目を何度も瞬かせ、救命装備室に入っていく流星の背中を見つめていた。自然と頬が緩み桜色の唇に微笑みの形が作られる。小鳥はその微笑みをとめられなかった。 14時45分、展開ミッション・コンプリート。 ブルーインパルスの長くも短かった展開ミッションは、大団円を迎えて終幕した。 ◆◇ 「夕城、ちょっといいか?」 隊員食堂で栄養豊富な夕食を食べ終えた小鳥は、入口に姿を見せた石神に呼ばれた。席を立った小鳥は、空になった食器を載せたトレイを洗い場の棚に置くと、早足で食堂の入口で待っている石神のところに向かった。 「なんでしょうか」 「話があるんだが……時間はあるか?」 時間ならオークションに出品できるくらいたくさん余っている。頷いた小鳥は石神の後に続き、隊員食堂を出て、第11飛行隊隊舎の一室に向かった。完璧に整理整頓された室内には、一人の女性が椅子に座り小鳥の到着を待っていた。机の上にはクリアファイルが置かれていて、ファイルの隙間からはみ出した書類には、とある有名なテレビ局の名前が書かれていた。 「彼女は航空幕僚監部広報室広報班の、稲嶺恵理花1等空尉だ」 「初めまして。稲嶺恵理花1等空尉です」 「夕城小鳥3等空尉です」 小鳥は椅子から立ち上がった稲嶺恵理花1等空尉と握手を交わした。うなじで一つに束ねた栗色の長い髪と、濃紺の制服を真面目に着こなした綺麗な女性で、細身のフレームの眼鏡がよく似合っている。 東京都新宿区陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地を敷地とする防衛省に籍を置く広報室は、広報班と報道班の二つに分かれている。報道発表や取材対応などを担当する報道班は、ディフェンスと呼ばれており、基地主催のイベントやPR活動を担当する広報班は、オフェンスと呼ばれているのだ。だが一見小鳥となんの関わりも持たない、広報室の女性自衛官が、彼女になんの用があって訪ねてきたのだろうか。 「今日私が夕城3尉を訪ねたのは……これを伝えるためです」 稲嶺1尉は机の上のファイルを手に取って中身を取り出すと、分厚く束ねられた書類を小鳥に手渡した。それはテレビ局の番組企画書だ。【亡き父の遺志を継ぎ、ドルフィンライダーになった女性空自パイロット】というタイトルが、強調されるように濃い黒色の太い文字で、大きく書かれている。その文字を目に刻んだ小鳥の表情は瞬時に強張った。 「どうやって嗅ぎつけたのは分からんが、取材をさせてくれと広報室に持ち込んできたらしい。それでお前に知らせるために、稲嶺1尉が東京から宮城までわざわざきてくれたというわけだ」 書類を持つ小鳥の手は微かに震えていた。石神の視線が小鳥の手の震えを捉える。 「それでだが……俺の独断でこの話は断った。今は大事な時期だからな。事後承諾で悪い」 「いえ、それで構いません。ありがとうございます」 安堵の息を吐いた小鳥は石神の英断に感謝した。テレビ局はただ視聴率が欲しいだけ。小鳥の存在を視聴率稼ぎに利用しようと目論んでいるのだ。小鳥は書類を返そうとしたのだが、震えが残っていたので手が滑り、稲嶺1尉が持っていたファイルを巻きこんで、書類を落としてしまった。 部屋の床一面に書類が散らばる。「すみません」と謝った小鳥は、急いで身を屈めると、散らばった書類を拾い集めようと四方に手を伸ばす。一枚の書類に小鳥の視線は引き寄せられる。そこに書かれていた文面を目にした小鳥は、書類を拾い集める手を止めていた。 【一人だけ生き残った元イーグルドライバー。彼は何を思いながら空を飛んでいるのか】 それがどういう意味なのかは分からない。だが小鳥はその文面が指し示す人物が、流星であることを理解できた。真横から素早く伸びてきた石神の手が書類を回収する。小鳥の視界に映る石神の横顔は、些か険しいように見えた。小鳥と同じく流星にも、なんらかの取材の話がきているのかもしれない。そしてそれも石神がきっぱりと断ったのだろう。 石神と稲嶺1尉に一礼した小鳥は、部屋を出て玄関で靴を履き、第11飛行隊隊舎の外に出た。空の色は橙色の黄昏から宵闇に移り代わっている。雲の切れ間から見えるのは、銀色の満月と満天の星空だ。だが今の小鳥は、月と星が織り成す絶景を愛でる気分にはなれなかった。石神は独断でテレビ局の取材の話を断ったと言っていたが、恐らくそれは嘘だ。遥か雲の上に存在する上層部の防衛省が、取材を許可しなかったに違いない。一年前に起きたあの航空事故が、防衛省や航空自衛隊全体に、濃く暗い影を落としているのだ。小鳥は荒鷹の死を乗り越えたと思っていたが、未だにそれを引き摺っている自分がいることを、改めて思い知ったのだった。 「――災難だったな」 突然話しかけられた小鳥は驚き、声がしたほうを見やる。暗闇に慣れてきた視界に映ったのは、腕組みをして隊舎の外壁にもたれかかっている流星だった。真夜中のサバンナで獲物に忍び寄るライオンのように、小鳥はまったく気配を感じなかった。 「災難ってどういう意味ですか?」 「広報室広報班の稲嶺1尉が、テレビ局の取材の話を持ってきたんだろ?」 「そうですけれど……稲嶺1尉をご存じなんですか?」 「短い間だが広報室にいたことがあったからな」 「ブルーインパルスにくる前ですか?」 「そうだ」 流星の意外な経歴に小鳥は驚いた。明らかに流星は、他人を遠ざけることを得意としているように見えるからだ。その彼がPR活動や報道発表をしていたとは俄かに信じられなかった。 「マスコミの奴らは、オレたちの気持ちなんてお構いなしに、好き勝手に過去をほじくり返すからな。デリカシーの欠片も持ち合わせちゃいない、最低な奴らだぜ」 涼やかな流星の声には、小鳥を気遣っているような響きが込められていた。壁から背中を離した流星が、暗闇に向かって歩き出す。まだ言っていなかった言葉を思い出した小鳥は、「待ってください」と去ろうとした流星を呼び止める。暗闇から小鳥に切れ長の目が動いた。 「私の最終検定とリモート展示に参加してくれて、本当にありがとうございました」 「……礼なんていらねぇよ。オレは約束を守っただけだ」 「私、燕さんと一緒に飛んでみて、やっぱり凄いなって思ったんです。燕さんの飛び方は、自由で綺麗で、まるで父さんを見ているようでした」 正面から小鳥を見つめている流星の端正な顔は、凪いだ海のように穏やかだった。だが長い睫毛に埋もれてしまいそうな、青みがかった灰色の双眸には、闇の深淵を思わせる深い悲しみと、苦痛の色が宿っていた。自分はまた余計なことを言ってしまったのだろうか――。小鳥が不安に思い始めたその時、黙していた流星がその口を開いた。 「――オレにあの人と同じ空を飛ぶ資格なんてない」 そして流星は月明かりの届かない暗闇の中に姿を消した。空を飛ぶ資格がないとは、いったいどういう意味なのだろうか? 去り際の流星の横顔が悲しそうに見えたのは、白銀に輝く月の魔法に惑わされたせいなのかもしれない。 |