透きとおるような青色に染まった空はめっきり春めいていて、遠山に被さる白雲は桜の花びらのように見える。「ヒューッ、ゴゴォーッ」と重い爆音が鳴り響き、青く透けた無限の大空を、三角形のデルタ隊形を組んだ六機のT‐4中等練習機が、尾部から白煙を曳きながら飛んでいく。直後に六機は同時にくるりと右に一回転して、爆音を響かせながら右方向に飛んでいった。 ぱっちりと澄んだ蜂蜜色の大きな瞳を、星のようにきらきら輝かせながら、一人の若い女性が空を飛ぶT‐4中等練習機を目で追いかけていた。彼女は基地見学に来た観光客ではない。帽章がついた制帽。紺色のジャケットと膝下丈のタイトスカート。上着の左胸に着けた、勇猛果敢な空の王者の鷲が羽ばたく姿を模した、銀色のウイングマークが彼女が航空自衛官である証拠だ。彼女の名前は夕城小鳥2等空尉。青森県三沢基地から宮城県松島基地に異動してきた、若き女性ファイターパイロットである。 遠ざかっていた爆音が再び近づいてきた。次に見えたT‐4は一機だけだ。これから行われるのは、第1単独機による演技課目。興奮で胸を高鳴らせた小鳥は、目を皿のようにして第1単独機のT‐4を追いかける。水平飛行から二回のインメルマンターンで上昇したT‐4は、続いて二回のスプリットSで降下すると、スモークで垂直に巨大な8の字を空に描いた。憧れのリードソロが描いたバーティカル・キューバン・エイトを見た、小鳥の目は喜びの星を光らせている。そしてバーティカル・キューバン・エイトを終えたT‐4は、青空に吸い込まれるように見えなくなった。 (父さんが言っていたとおりだわ。まるでツバメが優雅に空を飛んでいるみたい――) 気高くのびやかに、春風に乗って舞い飛ぶ5番機を見送った小鳥は、熱い息を吐くと独りごちた。展示飛行を主任務として航空自衛隊の広報を担う、空自で唯一のアクロバットチームが、今しがた空を飛んでいった第11飛行隊ブルーインパルスである。「ブルーに凄いパイロットがいるんだぞ!」と、父親から何度も聞かされていたせいか、いつしか小鳥は5番機パイロットに憧れを抱くようになっていたのだ。名前のとおりツバメが飛ぶような軌跡で彼は空を飛ぶのだと、父親は自分のことのように自慢していたのをよく覚えている。それ以来リードソロの飛行を思い出すだけで、小鳥の胸は恋する乙女のように熱くなってしまうのだった。 「あの、もしかして道に迷われたんですか?」 いきなり声をかけられて驚いた小鳥は振り向いた。警務室のドアが開いていて、受付の男性隊員が身体の半分を外に出している。ブルーインパルスの飛行訓練に目を奪われていた小鳥を、道が分からなくて戸惑っているのではと思い、心配になってわざわざ外まで出てきたらしい。だらしなく口を大きく開けて、無我夢中でT‐4を追いかけていた姿を、物陰からずっと観察されていたというわけか。あまりの恥ずかしさに小鳥の顔は裸の姿を覗かれたように火照った。小鳥のところに歩いてきた隊員は、保育士のように優しく微笑んだ。 「よければ誰か部隊の人を呼びますよ」 「松島には何度か来たことがありますから、だっ、大丈夫ですっ! ご心配をおかけしてすみません!」 親切な隊員に一礼した小鳥は回れ右をすると、脱兎の如くその場から逃げ出した。少し走ってから足を止めて振り返る。隊員は警務室に戻ったようでいなかった。赴任して早々に醜態をさらすなんて情けない。昔からちっとも変わらないではないか。ブルーインパルスのこととなると、小鳥は熱くなって周りが見えなくなってしまうのだ。おまけに熱弁を振るって周囲を呆れさせたこともある。ブルーインパルスのアクロバットは、みんなを笑顔にしてくれるし、どんなに落ち込んでいても心を晴れやかにして希望を授けてくれる。一度でも見たら誰もがブルーインパルスに憧れる。だから小鳥もブルーインパルスが大好きだ。風に乗った白いスモークが、ゆっくりと流れていく空をもう一度見てから、小鳥は庁舎地区に向かった。 本部庁舎地区を歩いていくと、薄緑色で立派な造りの建物が見えてきた。硝子扉の脇には「第4航空団司令部」と書かれたプレートが掲げられている。扉を押し開けて司令部に入った小鳥は、塵一つ落ちていない綺麗なエントランスを歩いて階段を上がり、廊下の再奥にある司令室の扉の前に向かった。最後に服装がきちんと整っているか確認してから、小鳥は肺腑いっぱいに息を吸い込んだ。 「夕城小鳥2等空尉、入ります!」 到着を知らせた小鳥は意気軒昂に扉を開けて司令室に入ったが、一瞬にして気持ちは萎えてしまった。とんでもなく不機嫌な面持ちをした基地司令が、正面の執務机に座っていたからだ。松島基地司令兼・第4航空団団司令の堂上清史郎空将補は、極太の筆で描いたような眉毛に挟まれた眉間に皺を刻み、まさに睨みつけるような眼差しで、小鳥に視線を注いでいる。堂上空将補は脂肪を蓄えて膨張した腹部と、見事な禿頭の持ち主なので、小鳥はなんだか達磨に凝視されているような感じがしてならなかった。 「――申告したまえ」 生きた達磨ではなく堂上空将補が不機嫌な声を出した。 「申告! 夕城小鳥2等空尉は、本日三沢基地より着隊しました!」 少しでもいいから堂上空将補の眉間の皺を和らげたい。小鳥は頭のてっぺんから爪先まで身体を伸ばして、明瞭とした声で淀みなく申告した。だが堂上空将補の眉間の深い亀裂は塞がらず、それどころかますます深くなってしまった。軽い舌打ちが小鳥の耳に届く。忌々しさを滲ませたその舌打ちは、小鳥に聞こえるか聞こえないかの絶妙な音量だった。 「夕城荒鷹2等空佐の娘が、まさか彼と同じ部隊に異動を希望するとはな。君の父親がしたように、我が航空自衛隊の信頼を失墜させないように注意してくれたまえ」 堂上空将補の声には明らかな敵意が含まれていた。それに小鳥を睨み続けている視線にも毒がある。敢えて小鳥の父親を中傷するような発言を口にしたのは、彼女を怒らせて一悶着起こし、上官に逆らったとして基地から追い出そうと企んでいるのかもしれない。堂上空将補が張り巡らせた、邪悪な策略の糸に絡め取られたくはなかったが、心から尊敬している父親を理由もなく中傷されたのだ。だから小鳥は聞き流すことなどできなかった。 「お言葉ですが――」 「入ります!」 部屋の外から聞こえた朗々たる声が、小鳥の口から今まさに放たれようとした反駁の第一声を断ち切った。 「石神焚琉3等空佐、ただいま到着しました!」 「入りたまえ」 数秒の間をおいてから扉がゆっくりと開かれる。航空自衛隊標準装備の低視認性を重視する、オリーブグリーンのパイロットスーツを着た男性隊員が入室してきた。右胸に着けているのは、青い地球に六機のT‐4を表す金色の矢印、衝撃をイメージした赤色の縁取りの金色のストライプと翼のエンブレム。左肩には日の丸をイメージした白い縁取りの赤色の円の中心に、T‐4と同じ配色のイルカのキャラクターを置いたデザインの、ショルダーパッチを着けている。彼は小鳥の隣まで歩いてくるとそこで足を止めて、未だ不機嫌な面持ちの堂上空将補に敬礼をしてから、真っ直ぐに背筋を伸ばした。 「彼は第11飛行隊ブルーインパルスの、飛行隊長兼飛行班長の石神焚琉3等空佐だ。それでは石神3佐、あとはよろしく頼むよ」 「了解であります!」 二回目の敬礼をした石神焚琉3等空佐に続き、小鳥も敬礼をしてから退室した。司令室を出た二人は学校のような廊下を黙々と歩く。ややあって石神は階段の踊り場で立ち止まると小鳥のほうを振り向いた。厳しい表情と筋骨逞しい体躯に圧倒された小鳥は一気に緊張した。 「親父さんを中傷されて抗議したい気持ちは分かるが、あそこで抗議していたら、嬢ちゃんは間違いなく第11飛行隊を追い出されていただろうな。嫌なことを言われたからつっかかるのは、子供のすることだと思うぜ。それに苦労して手に入れたウイングマークを失いたくないだろう?」 はっと息を呑んで桜色の唇を引き結んだ小鳥は、萎れた花のように俯き視線を床に落とす。石神が放った言葉に正しさが含まれていたからだ。落ち込む小鳥を見た石神の表情は少しだけ和らいだ。どうやら彼は本気で怒っているわけではないらしい。 「俺は別に嬢ちゃんを責めているわけじゃないんだ。堂上空将補のような人種は、自分より階級が高い人間にはとことん腰が低いが、下の人間には傲慢かつ尊大になる。自分に服従することが当然だと思っているんだ。だから気持ちを抑えて下手に出れば、波風は立たないし話も円滑に進む。それを分かってくれるか?」 「……はい。申し訳ありませんでした」 小鳥は深く頭を下げて真摯な態度で石神に謝罪した。するとそれまで厳しかった石神の表情は、春の日差しに照らされた雪が溶けるように柔らかくほころんだ。 「分かってくれればそれでいいんだ。改めて自己紹介するぜ。第11飛行隊の飛行隊長兼飛行班長、1番機パイロットの石神焚琉3等空佐だ。これからよろしくな」 「夕城小鳥2等空尉であります! よろしくお願いします!」 小鳥は眼前に差し出された石神の右手と握手を交わした。男性だけあって握り返してくる力はさすがに強い。年齢は30代後半だろうか。身体は野性味と逞しさに満ち溢れ、生命力がみなぎる強い男の顔をしている。短く整えられた鳶色の髪はやや無造作に跳ね、髪と同じ色の双眸は少年のように純粋だ。精悍な顔はパイロットらしく綺麗な小麦色に焼けていた。 「夕城2等空佐の娘さんが、ブルーインパルスに配属されると聞いた時は驚いたよ。……親父さんのことは残念だったな」 可憐な小鳥の顔に暗い影が落ちる。荒鷹と過ごした日々の記憶が、パノラマのように脳裡に蘇った。 「……いえ、父も本望だったと思います。空で死ねたんですから」 小鳥の父親の夕城荒鷹2等空佐は、1年前の8月に開催された松島基地航空祭で殉職している。第1区分第8課目のサンライズを実施した直後に事故は起こった。サンライズを終えてブレイクした6番機は、編隊長に「エマージェンシー!」とだけ伝えると、スモークではなく黒煙を曳きながら、編隊とは合流せず海のほうに飛んでいったのである。しかし海の方角に飛んでいった6番機は、いつまで待っても戻ってこず、航空祭を中止した基地司令はすぐに石巻海上保安署に救難要請を入れて、同時に松島救難隊を石巻湾に向かわせた。海上保安署の巡視艇と救難隊のUH‐60J救難ヘリ、U‐125Aが海を捜索した結果、炎上しながら海を漂流している6番機を発見して、荒鷹がすでに息を引き取っているのを確認したのだった。 運輸安全委員会航空機事故調査官が調査した結果、6番機が墜落した原因はエンジンの停止によるものだと結論づけられた。展示飛行を実施している時、荒鷹はエンジンの回転率がなかなか上がらないことに気づき、それを飛行隊長に伝えた。だが隊長は展示飛行が終わるまで大丈夫だろうと判断し、そのまま飛行を続けることにしたと、事故の関係者全員に行われる聴取で隊長は証言したらしい。そのあと度重なる議論の末に、存在自体が危険だと判断されたブルーインパルスは、活動停止に追い込まれてしまった。だが関係者はもとより、多くの支援者の献身的な努力によって、昨年の年末に活動再開の許可が下り、今年2015年にブルーインパルスの復活を祝う航空祭が、全国各地で行われることになったのだ。 石神に続いて第4航空団司令部を出た小鳥は、飛行指揮所・整備補給群・基地業務群・司令部管理部広報班を、順番に訪れて着隊の挨拶をして、最後に配属先の第11飛行隊隊舎に向かった。小鳥が赴任した宮城県航空自衛隊松島基地は、石巻湾に面した海岸沿いに位置している。総面積は東京ドーム78個ぶん。配備部隊の第4航空団は、ファイターパイロットの養成を任務とする第21飛行隊と、アクロバット飛行隊の第11飛行隊ブルーインパルスの2個飛行隊。そのほかに北太平洋海域と、東北地方地域の山岳地帯の救難活動を担当する松島救難隊と、管制隊・気象隊・地方警務隊が配備されている。 ブルーインパルスの飛行隊隊舎は基地東側の区画に置かれており、パイロットを始めとする四十名以上のメンバーが、飛行隊隊舎を拠点に活動している。その拠点となる飛行隊隊舎には、ブリーフィングルーム・救命装備室・整備員待機室・整備統制室・総括班などのほか、隊舎一階にはブルーインパルスの歴史を展示物で知ることができる、ブルーミュージアムがある。自動ドアを抜けた先のエントランスには、ブルーインパルスのエンブレムが描かれたカーペットが敷かれ、創設50周年を記念したモニュメントが飾られているほか、向かって左手の壁にはメンバー全員の顔写真を貼った木製の額縁と、在籍隊員の氏名などを記したプレートが並べられていた。 石神に続いた小鳥は正面の階段で隊舎の二階に上がり、左に曲がって廊下を進んでいく。飛行前と飛行後に集合して、飛行計画を打ち合わせるプリブリーフィングや、フライトの評価や反省をするデブリーフィングを行う、ブリーフィングルームのドアが見えてきた。ブリーフィングルームの隣にあるのは隊長室だ。ブリーフィングルームから話し声が聞こえてくる。石神が言うには飛行班のパイロットが小鳥の到着を待っているらしい。ノックをした石神がブリーフィングルームのドアを開ける。果たしてどんなパイロットたちが待っているのだろうか――。期待と不安で胸を高鳴らせながら小鳥は入室した。 ブリーフィングルームは金粉を振り撒くような春の陽光で満ちていた。床には灰色の絨毯が敷かれ、ホワイトボード、大型のモニター、数台のパソコンが並び、硝子板に航空図を挟み込んだミーティングテーブルと数脚の椅子が、部屋の中央に置かれている。奥の窓から見えるのは滑走路だろう。部屋にいるのは男性が二人と女性が一人。椅子に腰掛けて歓談を楽しんでいる。部屋に入ってきた石神と小鳥に気づいた彼らはすぐに歓談を止めた。 「待たせてすまんな。早速だが、期待の新人さんに自己紹介してやってくれ」 椅子に座っていた男女は素早く立ち上がり、まず最初に女性が進み出た。 「初めまして。3番機パイロットの雪村里桜1等空尉よ。よろしくね」 30代前半と思しき女性パイロットは、小鳥に向けてにこりと微笑んで見せた。すらりとした細身の姿態に小さな顔。毛先を軽く跳ねさせたアッシュブラウンのボブヘアと、透明感溢れる雪肌を持つ美女である。くるりと上を向く長い睫毛に縁取られた、張りのある茶色の大きな瞳は、森の奥にひっそりと佇む湖のように綺麗に澄んでいた。 「4番機パイロットの朱鷺野圭麻2等空尉です。よろしくお願いします」 雪村里桜1等空尉が後ろに下がり、次に若い男性が進み出た。物静かな雰囲気の20代後半の若者で、男性にしては些か白い肌と華奢な姿態の持ち主だ。サイドと襟足を刈り上げた前髪の長い栗色の短髪が、芸術家のように繊細で綺麗な面立ちの輪郭を包んでいる。そして最後に進み出たのは、石神とほぼ同年齢に見える男性だった。 「6番機パイロットの鷺沼伊月3等空佐だ。どうやら僕が君の師匠になるみたいだね。よろしく頼むよ」 年齢を感じさせない甘く整った顔立ちに、漣のように柔らかく波打つ淡い栗色の髪。優しく細められた茶色の双眸は小鳥を映している。片方の頬にくっきりと浮かぶ笑窪が魅力的だ。大学の教壇に立っていそうな風貌の男性で、とても自衛官には見えなかった。 三人と順番に握手を交わした小鳥は、些か緊張しながらも部隊着隊の挨拶をする。いったいどんな態度で迎えられるのだろうかと小鳥は緊張していたが、里桜も圭麻も鷺沼も、堂上空将補のように睨みつけて毒を吐くこともなく、温かい笑顔と友好的な態度で、彼女を第11飛行隊に迎え入れてくれた。 活動を制限される前、第11飛行隊ブルーインパルスの飛行班は、パイロット十名と総括班長一名の、計十一名が在籍していた。だが今のブルーインパルスは活動を再開したばかりなので人員が足りず、小鳥を入れて計七人のパイロットが、飛行班に所属しているらしい。ここで小鳥が出会ったのは四人のパイロット。計算すると2番機と5番機のパイロットに、小鳥はまだ会っていないことになるのだが。小鳥が疑問を言葉に変える前に石神が口を開いた。 「2番機のパイロットは不在だが、今夜帰ってくる予定だ。5番機のパイロットにも夕城がくることを伝えたんだが、会いたくないとの一点張りなんだ。あいつは気紛れな奴だから、悪くは思わないでくれよ。練成訓練は明日から始めるから、今日は宿舎でゆっくり休んでくれ。鷺沼さん、夕城を宿舎まで案内してもらってもいいですか?」 航空自衛隊では隊員たちが寝泊まりする独身幹部宿舎のことを「BOQ」と呼ぶ。自衛官は自衛隊法で指定された場所に居住することが義務付けられている。幹部自衛官になると好きな場所に住めるが、それ以外の隊員は基本的には許可されていない。ただし年齢や階級によっては、基地や駐屯地以外の場所に住むことができる。ほとんどの若い自衛官は、結婚しないと営外に住むことができず、外出も許可制で、平日は特別な理由がないかぎり許可も下りない。小鳥は恋人も婚約者もいない独り身だ。なのでドルフィンライダーの任期の3年が終わるまでは、宿舎を出ていくことはないだろう。 「それじゃあいこうか」 「はい。失礼します」 石神、里桜、圭麻の三人に一礼した小鳥は、鷺沼に続いてブリーフィングルームをあとにした。一階に下りてエントランスを歩き、自動ドアを通って隊舎の外に出る。飛行隊隊舎のすぐ隣には緩やかなアーチ形状の建物があった。上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が青色で大きく書かれている。あの建物はT‐4などの航空機を収納している、ブルーインパルス専用の格納庫だ。機体上面は白と青のツートンカラー、裏面は上面のリバースパターンに塗装された、六機のT‐4中等練習機が駐機場に並んでいるのが見える。憧れていたブルーインパルス仕様のT‐4を、間近で見れた喜びと興奮で小鳥の瞳は輝いていた。 「T‐4を見てから宿舎に行くかい?」 「えっ? いいんですか?」 頬を紅潮させた小鳥が興奮を隠せないまま訊くと、鷺沼は笑いながら頷いた。歩き始めた鷺沼の後ろを追いかける小鳥の心は、羽のように浮き立っていた。 進路を変更した小鳥と鷺沼は格納庫のほうに歩みを進めた。FODで綺麗に整えられた駐機場を動き回っているのは、第11飛行隊の整備小隊に所属する整備員たちだ。彼らは二人一組のチームを組んで、六機のT‐4の毎飛行後点検を黙々と効率よく行っている。毎飛行後点検とは次のフライトに備えた点検のことで、機体各部の点検や給油などの作業が実施される。特にブルーインパルスの飛行に必要なスモークオイルの給油や、アクロ仕様機ならではの点検項目など、他部隊で使用されているT‐4と比べると、整備員の作業内容は多くなっているのだ。 担当の整備員に呼ばれた鷺沼と別れた小鳥は、飛行後点検をしている整備員たちの邪魔をしないように気をつけながら、一列に整列した六機のT‐4を眺め歩いた。T‐4中等練習機はT‐33及び、T‐1の後継用に開発されたこともあり、機体の大きさはそれら先輩機とほぼ同寸法となっている。その外見は全体的に角がとれて、丸みを帯びたものとなっているが、左右の胴体脇に置かれたエアインテークや尖った機首など、全体の印象はミニ戦闘機といった感じだ。滑らかな流線形のフォルムは、「ドルフィン」の愛称のとおり、海を泳ぐ愛らしいイルカを思わせる。1番機から4番機を眺め歩いた小鳥は、もう少し近くでT‐4を見たくなった。真剣な表情で作業している整備員に訊いてみると、機体に触らないことを条件に、近くで見てもいいと言われた。 許可を得た小鳥は5番機に歩み寄り、機体をじっくりと観賞する。第11飛行隊が運用しているT‐4は、戦闘機パイロットを目指す航空学生たちが乗るT‐4とは、異なる構造をしていた。発煙装置の追加やラダー作動角の拡大。「平常心」のステッカーが貼られた、手動の横開き式のキャノピーは、ストレッチ・アクリル製からアクリルとポリカーボネートの、四層構造に強化されている。これは低高度を高速で飛行する機会が多いアクロ機を、バードストライクによるキャノピーの破壊から守るためだ。 T‐4の後方に回った小鳥はそこで足を止めた。スモークを発生させるための発煙装置もちゃんと装備されていた。パイロットが操縦桿のトリガーを、右手の人差し指で弾くと電動ポンプが作動して、燃料タンクの脇に配置された発煙油が、噴射される仕組みになっている。高温のエンジンに熱せられた発煙油は、高熱により一瞬で気化するが、すぐに大気中で冷却されて凍結して、微細な油滴が白いスモークとなって現れるのだ。 早く6番機に乗って空を飛びたい、ツバメのように飛ぶ5番機と一緒にデュアルソロを飛びたい。まだ会ったことのない5番機パイロットと、デュアルソロを飛んでいる姿を想像しただけで、小鳥の心は海のように沸き立つのだ。だから飛行隊長から6番機パイロット抜擢の話を聞かされた時、天にも昇る心地だったのは今でもよく覚えている。もしかしたら6番機パイロットだった荒鷹が、見えない力で小鳥を導いてくれたのかもしれない。 「――おまえは誰だ?」 5番機を見上げて空に思いを馳せていると、涼やかで凜とした低音の声が小鳥の背中を叩いた。驚いた小鳥は後ろを振り返る。オリーブグリーンのパイロットスーツを着たパイロットが、小鳥から少し離れたところに立っていた。パイロットスーツの襟のワッペンに刺繍された、三つの桜星と白い一本線は、彼の階級が小鳥より上の1等空尉であることを示している。そして左胸のネームタグには、「TSUBAME」の文字が入れられていて、バイザーカバーの左側に「SWALLOW」のタックネームが描かれたヘルメットを右手に提げていた。 思わず目を見張るような端正な顔立ちをした20代後半の青年。藍色が混じった黒髪は宙に浮くように逆立っていて、長い睫毛に彩られた涼やかな切れ長の双眸は、色素が薄いのか青みがかった灰色だ。引き締まった細身の姿態に贅肉はほとんど一欠片もなく、すべての筋肉が念入りに鍛え上げられているのが分かった。綺麗な線を描く切れ長の眦が、彼の放つ独特の眼差しを感じさせる。気性が激しく反骨的人格を想起させる面立ちとでも言うべきだろうか。 (ツバメにスワローのタックネーム? じゃあ、この人が父さんの言っていたパイロット――?) 「――おい」 小鳥が再び聞いた声はやや苛立ちを滲ませていた。 「おまえは誰だって訊いてるんだよ」 「えっ、その、わたしは……」 小鳥の頬は紅葉を散らしたように赤く火照った。いっぺんに頭がのぼせて言葉が出ない。高鳴る心臓の音が自分でもはっきり聞き取れる。心臓がどんどん膨らんで、肋骨を突き破るんじゃないかと思うほどの激しい鼓動だ。この胸の高鳴りはいったいなんなのだろう。まるでリードソロの飛行を見た時のような、熱く激しい鼓動である。長年探していたパズルの最後のピースを、ようやく見つけたような不思議な気分だった。小鳥が話せずにいると、青年は呆れた様子で再び口を開いた。 「……どうやら基地を観光しにきた一般人じゃないようだな。とすると石神隊長が言っていたケツの青い新人か。おまえは自衛官のくせに着隊の挨拶もできないのかよ。航空学校で何を勉強してきたんだ? 情けねぇな。口の利けない奴はオレたちの部隊に必要ない。荷物をまとめてさっさと出ていきな」 凍てついた辛辣な言葉が小鳥の耳を深く抉る。着隊の挨拶を行わなければいけないことは、もちろん分かっていた。それが新人の小鳥に与えられた義務であり責務だからだ。だが小鳥は着隊の言葉も紡ぐこともおろか、二本の両足を1ミリも動かすことができなかった。小鳥の危機に気づいた鷺沼が隣にやってくる。緊張した空気を和らげようと、鷺沼は小鳥を見据える男性に微笑みかけたが、彼の整った唇は真一文字に固く引き結ばれたままだった。 「彼は5番機パイロットの燕流星君だ。慌てなくていいから、落ち着いて着隊の挨拶をしなさい」 鷺沼の手が強張った小鳥の肩に置かれる。聞く者の心に安らぎをもたらすような甘い低音の声が、小鳥に力を与えてくれた。全身を縛っていた見えない鎖を引きちぎった小鳥は、顔を上げると胸を張って踵を鳴らし、指先まできっちりと揃えた右手を右のこめかみに当てた。 「三沢基地より第11飛行隊に着隊しました、夕城小鳥2等空尉であります! よろしくお願いします!」 敬礼の構えを解いた小鳥は、こめかみから離した手を真っ直ぐに差し出した。だが5番機パイロットの燕流星1等空尉は、小鳥の握手に応じることもなく彼女をじっと見つめている。小鳥を見つめる流星の視線は、空を翔ける猛禽類のように鋭く強いものだった。 「夕城小鳥……? まさか、おまえは――」 発せられた涼やかな低音の声は驚きと戸惑いを滲ませていた。小鳥は自分を見つめる流星の視線が、さらに強くなったような気がした。流星は何か言葉を紡いだが、それはとても小さな声だったので、小鳥の耳に届く前に風に攫われて霧散してしまう。小鳥から視線を外した流星は、何かを否定するように首を振ると、足早にエプロンを立ち去った。憧れの5番機パイロットの冷たい態度を目の当たりにした小鳥は、心臓を抉られたように呆然としていた。自分でも気づかないうちに、流星の機嫌を悪くするような失礼な真似をしてしまったのだろうか? 感じが悪いの一言に尽きる。荒鷹からヒーローのように聞かされていただけに、小鳥が心に受けた衝撃は大きかった。 「燕君はいつもあんな感じなんだ。だから気にしなくていいよ。さあ、宿舎にいこうか」 「……はい」 居住区の一角にある女性用の独身幹部宿舎の玄関で小鳥は鷺沼と別れた。三階の廊下の突き当たりに、鷺沼から教えられた番号の部屋はあった。小鳥はドアを開けて電気のスイッチを入れる。焦げ茶色のカーペットが敷かれた八畳ほどの室内は、間をパーテーションで仕切られており、ベッドやロッカーなどの家具・家電製品が置かれている。小鳥は窓を塞いでいた遮光性のカーテンを開けると、部屋に届いていた荷物を荷解きして、中から写真立てを取り出した。 写っている風景は1年前の松島基地の飛行場だ。ブルーインパルス仕様のT‐4を背後に従えた、小鳥と男性が肩を並べて立っている。男性はダークブルーのパイロットスーツを身に着けており、小鳥は繊細なレース模様が織り込まれたホワイトブラウスの上に、淡い桃色のジャケットを羽織り、ライトブラウンのキュロットスカートを穿いている。男性は闊達な笑みを満面に浮かべているが、彼に肩を組まれた小鳥は、どことなく照れくさそうな微笑みを浮かべていた。言わずもがなパイロットスーツ姿の男性は小鳥の父親の荒鷹だ。そしてこの写真は、小鳥が休暇を利用して、松島基地を訪れた時に撮ってもらった思い出の一枚。だがこの写真を撮ってからしばらくして、荒鷹は空に散ってしまったのである。 「……父さん、やっと同じ空を飛べるね」 小鳥は愛情と悲哀が入り混じった眼差しで写真を眺めると、机の上に写真立てを置いた。あれから1年。小鳥は再び松島の大地に舞い戻った。第8飛行隊ではARパイロットとして飛んでいたが、ここでは訓練可能態勢のTRパイロットとして扱われる。もしかしたら小鳥がTRパイロットだから、燕流星1等空尉はあんな態度を取ったのかもしれない。だが子供の頃から憧れていたブルーインパルスのパイロットになれたのだ。兜の緒を締めて明日からの訓練を頑張ろう。 端正なのに氷のように冷たかった流星の姿が小鳥の脳裡に思い出される。確か初対面のはずなのに、なぜか彼と初めて会った気がしない。いつか遠い以前にどこかで一度見たことがある。そのどこかで小鳥は彼の涼やかな低音の声を耳で聞き、他者を威圧するような雰囲気を、肌で感じたような気がするのだ。だが小鳥がいくら考えても思い出せず、流星の姿は記憶の海の底に沈んでいったのだった。 時刻は午後7時。石神と松島基地をあとにした小鳥は、矢本駅前の裏通りに店を構える、「あおい」という名前の居酒屋にいた。古い木造の日本家屋のような外観の店内は想像以上に広い。入り口正面には、新鮮な鯛や伊勢海老が泳ぐ、巨大な生簀が置かれている。右側スペースはゆったりと楽しめる座敷と個室になっており、左側のスペースに並ぶのはコの字型のカウンター席だ。離陸する瞬間のT‐4をランウェイエンドから写した写真、第11飛行隊・第21飛行隊・松島救難隊の部隊ワッペン、恐らく隊員が書いたと思われるサイン色紙が、店内の壁に貼りつけられている。ここ「あおい」は松島基地に勤める隊員たちが、基地クラブの他に馴染みにしている店だと、二階に続く階段を上がりながら石神は教えてくれた。そして今夜は二階の奥にある座敷を貸し切って、小鳥の歓迎会が開かれるのである。 廊下の奥に進んでいくと、賑やかな声が伝播してきた。眉を顰めた石神が嘆息する。どうやら隊員たちは二人の到着を待ち切れずに宴会を始めているらしい。廊下を突き進んだ石神が襖を開放すると、すかさず「待ってました!」と四方から歓迎の声が飛んできた。畳が敷かれた12畳ほどの座敷だ。長方形のテーブルを囲むように、十人以上の隊員たちがずらりと座っている。鶏もも肉の唐揚げ。牡蠣フライとフライドポテトに焼き餃子。すき焼きや舟盛りなど、豊富で豪華な宴会料理で卓上は占領されていた。隊員たちはすでに酒に酔い上機嫌になっているようだ。大声で十八番の曲を歌う者もいれば、シャツを脱ぎ捨てて滑稽な腹踊りをする者もいた。小鳥は座敷を見回してみたが、流星の姿はどこにも見当たらなかった。 石神の音頭で隊員たちが掲げたグラスが乾杯の音を奏でる。遠慮しなくていいと隣席の鷺沼に言われたので、右手に箸を装備した小鳥は好きな料理を小皿に取り、さながら団栗を見つけた栗鼠のように頬張った。肉汁が滴る鶏の唐揚げ。香ばしい焼き餃子。口の中で弾ける牡蠣フライ。新鮮なお刺身。どの料理も作りたてなのでとても美味しい。いつの間にか緊張は断ち切れていたらしい。小鳥は驚異的な速度で料理を飢えた胃袋に収めていく。しばらくすると少し急いでいる様子の足音がこちらに近づいてきた。その足音は小鳥たちがいる座敷の前で止まり、次いで襖が開くと、若い男性が遠慮がちに顔を覗かせた。 「遅れてすみません」 小鳥はファッション雑誌の男性モデルが場所を間違えたのかと思った。だが航空自衛隊の作業着を着ていて、石神たちと親しげに挨拶しているところを見ると、どうやらそうではないらしい。年齢は20代後半に見える。甘く整った端正な顔立ちに、襟足をすっきりと整えた暗い柘榴色のショートヘア。青年も石神や流星と並ぶ長身の持ち主だった。「王子様のご帰還だ!」と酔っぱらった隊員の大声が飛ぶと青年は苦笑した。会話を終えた石神が小鳥に視線を向けて、それに続くように青年が振り向く。青空のように爽やかな微笑みを浮かべた青年は、小鳥に向けて右手を差し出した。爽やかで甘い笑顔を向けられた小鳥は、思わず頬を赤く染めてしまった。 「2番機パイロットの鷹瀬真由人1等空尉だ。よろしく頼む」 「夕城小鳥2等空尉です! よろしくお願いします!」 小鳥と握手を交わした鷹瀬真由人1等空尉は、彼女と鷺沼の間に腰を落ち着ける。作業着の襟元を大きく開けた真由人は、冷たい水を飲んで喉を潤すと、さっそく箸を伸ばして揚げたての牡蠣フライを美味しそうに頬張った。 「半年間の出張お疲れさん。それで第31教育飛行隊の学生たちはどんな感じだったんだ? 将来有望な奴はいたか?」 頬張っていた牡蠣フライを飲み込んだ真由人は端正な顔を顰めた。 「まったくどいつもこいつも根性が足りない奴ばかりでしたね。『お前らにイーグルは10年早い! 顔を洗って出直してこい!』って言ってやりましたよ」 「さすがはアグレッサー。言うことが厳しいな」 石神が言った第31教育飛行隊は、静岡県航空自衛隊浜松基地・第1航空団に陣する部隊だ。そこでは空自パイロットを目指す航空学生たちが、ウイングマークを得るための最終訓練を行っている。訓練自体は芦屋基地第13飛行教育団と変わらないが、要求される技術がまるで違う。おまけにF‐15のイーグルドライバーや、F‐2にブルーインパルスのパイロットなどが教官を務める訓練は厳しく壮絶で、あれほど空を飛ぶことが楽しみだった小鳥でさえも、憂鬱で仕方がない日もあった。だが今思えばそれもいい思い出だ。壮絶な訓練に耐え忍び、努力を積み重ねてきたからこそ、自分は夢だったドルフィンライダーになることができたのだから。 「ところで流星は?」 座敷を見回した真由人がグラスを置いた。石神の渋面を見て彼は苦笑する。 「きていないんですね。まったく相変わらずだな」 「……わたしのことが気にいらないからなのかもしれませんね」 箸を手放した小鳥は顔を伏せると、両膝の上に置いた左右の手を強く握り締めた。小鳥が呟いた暗く重い言葉が、座敷から光を奪い活気を消し去る。小鳥が放った一言で、あんなに賑やかだった座敷は、遊具のない遊園地のように、しんと静まりかえってしまった。 「それは違うと思うな。流星は昔から人見知りが激しい奴なんだ。だから別に君を嫌っているわけじゃない。それにこんなに可愛い子の歓迎会にこないなんて、流星はどうかしているよ。石神隊長たちもそう思いますよね?」 「えっ!? かっ、可愛い!? わたしがですか!?」 真由人に同意を求められた石神たちは口を揃えて賛同した。小鳥の頬は真っ赤に爆発して、胸の下に埋まっている心臓の回転率が急上昇する。真由人のような見目麗しい美青年に可愛いと言われれば、女の子なら誰もが激しく動揺してしまうだろう。頬を赤く染めながら、慌てふためく小鳥を見た石神たちが揃って笑い出す。そして暗欝な空気は笑い声に浄化され、溢れんばかりの活気が座敷に戻った。 最後に石神たちはそれぞれのタックネームを教えてくれた。タックネームはパイロットが飛行隊内で名乗る非公式の愛称で、隊内の通信だけで使い早期警戒管制機や管制塔との交信では使わない。タックネームはずっと変わらない訳ではなく、配置換えによって部隊を移った際や、同名や発音の似た名前を持つパイロットがいた場合、混同しないように変更される。これを機にその新しい名前を使い続ける場合もあり、転勤した際に元の名前に戻す場合もある。タックネームは自己申告することもできるが、部隊の飛行隊長や先輩から命名されることが多く、本人の希望が通ることは極めて稀だ。 石神がウルフ。真由人がホーク。里桜がスノー。圭麻がスペンサー。鷺沼がティーチャー。そしてこの場にいない流星がスワローというらしく、彼だけが新しいタックネームを使っているそうだ。ちなみに小鳥のタックネームは、「小鳥」の「鳥」の英語名である「バード」だ。そして突然生理現象に襲われた小鳥は、隣席の真由人に行き先を告げてから席を立ち、座敷を出るとやや急ぎ足で店の奥にあるトイレに向かった。 「すみません!」 用を足して洗面台の石鹸と水で綺麗に手を洗い、石神たちが宴会をしている座敷に戻ろうと女子トイレを出た直後、小鳥はちょうど男子トイレに入ろうとしていた、数人の男性客の一人と危うくぶつかりそうになった。肩が軽く触れ合っただけで、因縁をつけられて暴力を振るわれ、最悪の場合は命を奪われる時代なので、小鳥はすぐに謝った。相手は何も言わなかった。ということは特に不快に思っていないのだろう。一礼してその場から離れようとした小鳥はいきなり腕を掴まれた。小鳥は肩越しに振り向く。すると顔面に薄ら笑いを張りつけた男性客の一人が彼女の腕を掴んでいた。 「あの、放してくれませんか?」 できるだけ穏便に済ませたい。小鳥は努めて穏やかな口調で腕を掴む男に言った。だが男は小鳥の腕を放そうとはせず、強い力で引っ張ると彼女を自分のほうに引き寄せた。よく観察してみると男たちの顔は猿のように赤く、口から吐き出される息は酒臭い。どうやら全員が酒に酔っているようだ。 「お姉ちゃんは松島基地の隊員さんか?」 「そうですけれど……それが何か?」 「随分と可愛らしい隊員さんだなぁ。ちょっと俺たちと遊んでくれよ」 小鳥の腕を掴んで拘束している男は、もう片方の手で彼女の腰から臀部を執拗に撫で回してきた。陰湿な手の動きに小鳥の背筋はぞくりと粟立つ。互いに顔を合わせた男たちはにやりと笑い、小鳥を男性トイレに押し込めようと動き始めた。意図に気づいた小鳥は戦慄する。彼らの目的はただ一つしかない。トイレの個室で小鳥を性欲の捌け口にするつもりだ。今度は背後から胸を掴まれて乱暴に揉まれる。小鳥は身を捻らせると胸を揉む手を振り払った。 「何をするんですか!? やめてください!」 「うるせぇ! 俺たち東松島の住民はな、お前らの飛行機が出す騒音をいつも我慢してやっているんだぞ! おまけにブルーインパルスが活動再開だと? ふざけるな! あんな事故を起こしてたくさんの人間を傷つけたくせに、何もなかったように平気な顔をして、空を飛びやがって腹が立つんだよ! その身体で償わせてやる!」 ここは店内の奥に位置する人気の少ないトイレだ。ましてや店内は活気溢れる声が途切れることなく飛び交っている。だから小鳥がいくら声を張り上げて助けを求めても、座敷にいる石神たちには届かないだろう。彼らが言いたいことは分かるがこちらにも言い分はある。小鳥は毅然とした眼差しで男たちを見据えた。 「それは違います! 大切な仲間を失くして、守るべき対象の国民を傷つけてしまったのに、平気な顔をして飛べるわけないじゃないですか! 辛いのはあなたたちだけじゃないんです! わたしたち自衛隊員だって辛いんです! 苦しいんです! 悲しいんです!」 「生意気な女だな! お前はおとなしくヤられていればいいんだよ!」 怒りを露わにした男が右手を高く振り上げた。小鳥は両目を固く瞑り頬に痛みが弾けるのを覚悟する。だがいくら待っても熱い痛みは頬に落ちてこない。不思議に思った小鳥は恐る恐る両目を開けた。すると男たちの背後に若い青年が立っていて、小鳥の頬を弾くために振り上げられた手を掴んで拘束していたのだ。突然の闖入者に男たちは仲良く瞠目して驚いていた。 「……彼女の言うとおりだ。あの事故を痛ましく思っているのはあんたたちだけじゃない、自衛隊員の誰もが、辛くて苦しい記憶を忘れずに抱えているんだよ。万一の時は自らの命を捧げてでも国民を守る義務がある。それは殉職する可能性もあるということだ。そんな覚悟を背負って生きている自衛隊員を、力ずくでレイプして満足か? 満足できるならさっさとやれよ。――なんなら今からオレが手本を見せてやってもいいんだぜ?」 強い口調で言い終えた青年は、見る者に戦慄を植え付けるかのような、凄みのある冷笑を唇に浮かべた。どうやらその戦慄の冷笑が男たちの酔いを一気に冷ましたようだ。顔面蒼白になった彼らは、脱兎の如くこの場から退散していった。そして危機から救われた小鳥はしばし忘我の淵にいた。なぜなら小鳥を助けに参上したのは――。 「……燕1尉?」 宇宙の藍色が混じった黒髪。長い睫毛に縁取られた、青みを帯びる灰色の双眸。そして思わず目を見張るほどの端正な顔立ちは、欠点の一つも見当たらなかった。忘れるはずがない。小鳥の着隊の挨拶を無視して立ち去った、5番機パイロットの燕流星1等空尉だ。滑らかな光沢を放つ黒革のライダースジャケットの下に、胸元が大きく開いたVネックのシャツを身に着けて、ブラックのダメージジーンズがすらりと伸びた長い両脚を包んでいる。流星は無言で硬直する小鳥を見下ろしていたが、しばらくしてから閉じていた口を開いた。 「……ブルーインパルスに入れたからって浮かれてるんじゃねぇぞ。オレはおまえを認めたわけじゃないからな」 脅迫めいた台詞を口にした流星は、丹念に研がれたナイフのように鋭い視線で小鳥を睨みつけると、彼女の脇をすり抜けて廊下を歩いていった。反撃の言葉は出ない。怒りよりも驚きの感情が小鳥の思考を支配していたのだ。いつまで経っても戻ってこない小鳥を心配した、鷺沼と里桜が迎えにくるまで、彼女は魂が抜けたように呆然と立ち尽くしていた。 ★ 東雲から差す朝の光芒が空と海と松島基地を、赤みがかった黄金色に染めていく。時刻は午前6時過ぎ。小鳥は朝食を済ませて、飛行隊隊舎のブリーフィングルームの掃除をしていた。もちろん石神たちはまだきていない。朝一番に部屋にきて、ブリーフィングの準備を整えたりお茶出しをするのは、部隊に入ってきたばかりの新人隊員の役目だと決まっているからだ。 窓を覆うブラインドを引き上げて、朝の日差しを部屋に招き入れ、パソコンの電源を入れて起動する。部屋の掃除を一通り終えた小鳥は隊舎の外に出ると、第11飛行隊の青色の隊旗を朝焼けの空に向けて高く掲げた。ブリーフィングルームに戻り、ゴミや埃が落ちていないか最終確認をしていると、パイロットスーツを着た隊員が入ってきた。一番乗りの小鳥に気づいた隊員はぎょっとしたように立ち止まった。ぎょっとしたのは小鳥も同じである。なぜなら小鳥の次にやってきたのは、5番機パイロットの燕流星1等空尉だったのだ。 「おはようございます! 燕1尉!」 小鳥は頑張って挨拶をしたが、仏頂面になった流星は無言で窓際の席に腰掛けると、腕と脚を組んでそっぽを向いてしまった。相変わらずの無礼な態度に小鳥は怒りを覚えたが、初めての訓練を前に険悪な空気を作りたくなかったので、ぐっと我慢して流星から離れた席に座った。ややあって石神、真由人、里桜、圭麻、鷺沼の五人がブリーフィングルームにやってくる。そして最後に総括班と松島気象隊の隊員が入ってきて、午前6時半過ぎに飛行班が行うモーニングレポートが始まった。 まずは気象隊による天気予報にはじまり、その日の留意事項を確認する。その傍らでホワイトボードに飛行計画を書いたり、他部隊と連絡を取ったりと、忙しく動き回っているのは総括班の隊員だ。モーニングレポートが終わると飛行班のプリブリーフィングが開かれた。この日のファーストフライトはノーマルのT‐4、天候偵察機による天候偵察で、セカンド、サードフライトはともに洋上アクロ訓練に決まった。 ブルーインパルスが実施している訓練には、松島基地上空で行う飛行場訓練と、基地から東方約30キロに位置する金華山半島東岸沖の空域で行う、洋上アクロ訓練の二種類が用意されている。洋上での訓練は目標となる参照物が少なく、飛行高度と対地感覚も把握しづらい。飛行場訓練のほうが高い訓練効果が得られるものの、訓練中は基地周辺の管制圏を、40分近くにわたってブロックすることや、騒音など周囲に及ぼす影響を考慮して、飛行場訓練は週に最大三回程度に制限されているのだ。 ブリーフィングの最後に、六機の一斉横転課目ボントンロールのスティック操作とスモーク合わせを行い、小鳥たちはハンガーの救命装備室に向かった。サバイバルキットなどが詰め込まれたLPU‐H1救命胴衣、下腹部から足首にかけて巻きつけるJG5‐A耐Gスーツを身に着けて、手の甲の部分が青色になっているフライトグローブを両手に嵌める。装備を身に着けた小鳥は、オリジナルペイントが施された、メタリックブルーのFHG‐2改ヘルメットを小脇に抱え、右手と右足を同時に振りそうなくらい緊張しながら、T‐4が待つエプロンに向かった。 淡い青色の空は穏やかに晴れ渡っているが、底のほうに白い雲の波が広がっている。この雲量だと第1区分や第2区分の練成訓練は難しいかもしれない。ブルーインパルスが実施する曲技飛行や訓練の内容は、気象状態や空域などの条件によって細かく定められ、第1区分から第4区分までの四段階に分けられている。通常天候に問題がない場合は第1区分の課目が実施されるが、雲の状況により課目の上限高度が抑えられてしまう場合には、シーリングの高さに応じて段階的に区分が下げられていくのだ。石神はとても真剣な面持ちで空と睨み合っている。今朝のウェザーブリーフィングの結果と照らし合わせながら、どの区分の練成訓練を行うか考えているのだろう。 「……やはり雲が多いな。今朝のプリブリーフィングでも言ったとおり、今日は第3区分課目訓練だ。天候の悪化も考えられるから、フォー・シップ・インバートで訓練を終了するぞ」 石神が搭乗開始の号令を出す。小鳥は鷺沼のあとに続いて6番機の前に向かった。小鳥が担当するのはオポージングソロと呼ばれる第2単独機の6番機だ。6番機は5番機と行うデュアルソロ課目と、第1単独機の5番機とは異なる、オリジナルのソロ課目を実施する。また五機で実施する課目では、1番機が率いる編隊と合流して、フォーメーション課目も担当するため、ある意味もっとも多忙なポジションだと言えよう。 ブルーインパルスの任期は3年と決まっている。1年目は訓練、2年目に実技、最後の3年目が実技と新規入隊者を教務するのが基本だ。ブルーインパルスは1番機から6番機までがあり、選抜された時点で乗る機番が決まっていて、3年間ずっと変わらない。なので小鳥は先輩パイロットの鷺沼に師事して、オポージングソロの全部を学ばなければいけないのだ。 担当の機付き整備員と外部点検を終えた石神たちは、1番機から5番機に乗り込んだ。小鳥も6番機の後席に乗り込んで赤い座席に座り、整備員の手を借りてベルトとショルダーハーネスで全身を固定した。次に石神たちは、ハンドシグナルで整備員と連携を取りながら、双発のエンジンを始動させたのち、プリタクシーチェックと呼ばれる機体の点検を開始した。小鳥も後席のコンソールを確認する。機器の設定OK。エルロン・フラップ・ラダーの三舵は異常なし。ハンドグリップも緩んでいない。いつ離陸しても大丈夫だ。 「夕城君、そんなに緊張しなくてもいいからね。6番機の操縦は僕に任せて、君はブルーインパルスのアクロがどんなものなのか、感じ取るだけでいいよ」 操縦席に座った鷺沼は小鳥のほうを振り返ると、バイザーを上げて優しい笑顔を浮かべた。極度の緊張のあまり、包帯で縛られたミイラのように硬直していた小鳥を、鷺沼は気遣ってくれたのだろう。 「りっ、了解です!」 どうやらかなりの緊張で声帯がおかしくなったらしい。小鳥は裏返った声で返答してしまった。突き刺さるような視線を感じた小鳥は、コクピットから顔を出して周囲を見やった。すると5番機のコクピットに座った流星が、小鳥を睥睨しているではないか。どことなく小鳥を小馬鹿にしているような視線だ。流星を強く睨み返してから小鳥は「ふん!」と顔を背けた。 『ライト・オン! ブルーインパルス、キャノピー・クローズ、レディー、ナウ!』 石神のコールを合図にタイミングを合わせてキャノピーを閉める。タキシングの準備が整った。タクシーライトを点灯、エンジンランナップ開始。双発のF3‐IHI‐30ターボファンエンジンが、「ヒィィーン」と高いエンジン音を地上と空に響かせる。1番機から順番にテイク・オフ。上空で合流した六機は、三角形のデルタ隊形を組み、金華山半島東岸沖に針路を定めた。 蒼茫たる海と青空を背景に構成された景色は、思わず息を呑んでしまうほど明るくて美しかった。沖に進むほど海の紺色は深くなっていて、太陽の光を受ける海面は宇宙で生まれる星のように輝いている。だが綺麗な景色に目を奪われていてはいけない。地上とは違い海上では目標物を捉えにくく、自機の現在位置を簡単に見失ってしまうのだ。ややあってヘルメットイヤフォンに石神の声が届けられた。 『訓練空域に到着。これより第3区分訓練を開始する。ワン、スモーク。ゴーベスト、プッシュアップ。ハンドレット、ナウ』 『フォー、オーケー』 『ワン、スモークオン! ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターン、レッツゴー!』 1番機から4番機が指の形に似たフィンガー・チップ隊形を組む。次いですぐに4番機は1番機の真後ろに横滑りして、ダイヤモンドと呼ばれる菱形の隊形を作った。そして四機は着陸灯を点灯させながら、最初の課目であるダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで飛んでいった。次に5番機が超低空飛行で加速して急上昇に移り、そのまま宙返りを半分行った。次いで背面姿勢から一回転半のロール、離陸方向と反対方向に降下して水平飛行に移る。超低空飛行から急上昇に移行する、見事なローアングル・キューバン・テイクオフに、小鳥は目を奪われていた。 『次は6番機が担当する最初の課目、ロールオン・テイクオフだ。ギアとフラップを下げたままバレル・ロールする、まさに驚くべき機動だよ。夕城君。自分が操縦しないからといって、景色だけを眺めていてはいけないよ。操縦や管制塔とのやり取りに、離着陸のタイミングをしっかり見ておくんだ。僕の操縦を目で見て全身で感じて、すべてを自分のものにしなさい』 鷺沼の声が小鳥の視線を5番機から引き剥がした。そうだ。小鳥はテレビの企画で体験搭乗をしにきた芸能人ではない。れっきとした航空自衛隊のパイロットであり、今は練成訓練のために空にいるのだ。小鳥はいつの間にか緩んでいた気持ちを引き締めた。 『了解です!』 『シックス、スモーク・オン。ロールオン・テイクオフ、レッツゴー』 機体の尾部にあるスモークノズルから白煙が放出された。エルロンが右に切られて6番機が右横転を開始する。小鳥は後席右側にあるハンドグリップを握り締めて、ふわりと浮き上がりそうな身体を押さえつけた。忘れずに高度計や速度計にも視線を向けて、ロールを打つタイミングや高度と速度を記憶する。車輪とフラップを下げたまま、6番機は360度の右バレル・ロールを完成させた。 四機編隊課目のファン・ブレイクが終わり、5番機は90度の角度で止めながら、四つに区切った切れのあるロールを打ち通過していく。それは非の打ちどころのないフォー・ポイント・ロールだった。次に5番機を除いた五機は、縦一列のトレール隊形になり、360度の水平旋回に入った。縦一列だった隊形は、旋回が開始されると同時に左右に大きく展開して傘型の隊形に変わり、さらに密集した傘型隊形へと変化する。各機の尾部から伸びるスモークの間隔が、徐々に狭くなっていくのが見えた。 チェンジ・オーバー・ターンが終わると左手から5番機が飛んできた。ハーフ・ロールで背面になった5番機の、コクピットに座る流星は宙吊り状態となりながら、まさに精密機械のような正確さで5番機をコントロールしている。すかさず急上昇した5番機は、宙返りをして水平飛行に戻り、連続三回捻りを披露した。インバーテッド&コンティニュアス・ロール。背面姿勢からの切り返しによる急上昇時の切れは、フォー・ポイント・ロールを遥かに凌駕していた。五機の航跡が描いた幻の朝日が空に昇り、5番機のインバーテッド・ロールが始まる。ハーフ・ロールで背面に移行した5番機は、二回の連続横転を打ち再び背面になった。 『長時間のマイナスGに晒されているのに、正確なロールを打つなんて凄い――』 背面からの連続横転機動に圧倒された小鳥は、思わず感嘆の言葉を呟いていた。 『インバーテッド・ロール。宙吊りとなる背面飛行から連続横転を行ったあと、再度背面に戻るという過酷な課目だ。燕君が繰り出す連続横転機動は絶対に狂わない。いつ見ても舌を巻く思いだよ。さすがブルーインパルスのエースと言われるだけはある』 『ブルーインパルスのエース……』 『さあ、二回目のオポージングソロ課目だ。シックス、スモーク・オン。スロー・ロール、レッツゴー』 6番機は緩いレートで360度の右ロールに入った。小鳥が見る空と海がゆっくりと入れ替わり、再びゆっくりと元の位置に戻る。360度の右ロールを始めてから終えるまでの時間は10秒だった。 『これがスロー・ロールだ。夕城君はどう思った?』 『えっと……とても簡単そうに思いました』 『スロー・ロールは一見簡単そうに見えると思うけれど、エレベータ・エルロン・ラダーの三舵の調和に、優れた空中感覚と高度な操縦技術が要求されるんだ。オポージングソロ課目のなかでも、特に難易度が高い課目なんだよ』 『見た目で判断するなということですね』 『そういうこと。みんなには内緒だけれど、僕はちょっと苦手なんだ。次は5番機と6番機のデュアルソロが実施する二機課目だ。第3区分はバック・トゥ・バックかカリプソを実施するんだけれど、どちらをやるかは5番機のパイロットが判断するんだ。どちらも背面飛行中の5番機に、6番機が合わせるように編隊飛行を行う、難度の高い課目だよ』 鷺沼の解説が終わると同時に5番機が飛んできて、6番機の左側に占位した。鷺沼がキャノピー越しに右手を上げて「よろしく」と挨拶すると、流星はすぐに頷き返した。小鳥もぺこりと頭を下げたのだが、流星は彼女の挨拶には応えなかった。 『よろしく頼むよ、燕君』 『こちらこそ。後ろに重い荷物を載せているみたいですが……大丈夫ですか?』 『重い荷物って――まさかわたしのことですか!?』 『おまえ以外に誰がいるんだよ』 『女の子に「重い」だなんて失礼すぎます! そんな失礼なことを平気で言うんだから、女の子に告白されたことなんて、一度もないんじゃないですか?』 『その言葉、そっくりそのままお前に返すぜ。おまえこそ男に告白されたことなんて、今まで一度もないんだろう?』 『あっ、あなたには関係ありません!!』 『どうやら図星のようだな』 流星が鼻で笑ったような音が聞こえたので、小鳥の怒りは爆発寸前にまで高まった。今すぐにでもキャノピーを跳ね上げて後席から飛び出して、5番機のコクピットに乗り込み、流星の顔面に平手打ちを食らわせたい衝動が突き上げる。それを示すように小鳥は両手をきつく握り締めていた。次の瞬間、静けさの中に厳しさを滲ませた鷺沼の声が割って入った。 『夕城君に燕君。君たちは二人共いい大人なんだから、子供じみた喧嘩はやめなさい。それに僕たちは国を守る仕事に就いている人間だ。訓練中に子供じみた言い合いをする、自衛隊員のみっともない姿を国民が見たら、失望すると思うよ』 前席から送られてきた鷺沼の言葉が、小鳥の耳に鋭く深く突き刺さった。――確かにそうだ。今までたいして意識をしたことはなかったが、外の世界にいる国民から見ると、小鳥たちは誇り高き自衛隊員なのだ。中学生のような口論をする二人を見たら、国民たちは揃って肩を落として、重い嘆きの息を吐くに違いない。自分が情けなく思えてしまい、小鳥はショルダーハーネスで縛られた肩を落とした。 『……申し訳ありません』 『自分も謝ります。申し訳ありません』 『分かってくれればそれでいいよ。さあ、気を取り直して訓練を続けよう。燕君、今日はどちらの課目をやるんだい?』 『カリプソでお願いします』 『了解』 『ファイブ、スモーク・オン。カリプソ、レッツゴー』 トリガーが弾かれて二条の白煙が青空に伸びていく。小鳥は計器類を見やった。高度300フィート、速度は400ノットだ。5番機がハーフ・ロールを打ち背面姿勢になった。機体が背面姿勢になると、操縦桿の効きが真逆になってしまうのだが、流星は見事に背面姿勢を維持している。その直後、右側に位置していた6番機は、背面状態の5番機の真横に占位した。スタック・ダウン、地上から見て機体同士が背中合わせになるように重ねていく。まるで空の水面に映ったかのようにカリプソは完成した。 『レフト・ロール、ナウ』 再び流星からのコールが入り、すべてを同調させた二機は、225度の左ロールで水平飛行に復帰すると、左手後方に翔け抜けた。ダイヤモンド隊形で飛行していた四機が二つに分離して、4番機だけが左旋回を開始した。横向きに8の字を描く四機編隊課目、レター・エイトである。円を描き終えた四機は合流を果たすと、今度は縦一列のトレール隊形に移行した。これから始まるのはトレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール。縦一列に並んだ四機は、右に大きなバレルロールを打ちながら、ダイヤモンド隊形に姿を変えていく。ダイヤモンド隊形となった四機は、そのまま横転を続けながら右手方向に抜けていった。 『次はオポジット・コンティニュアス・ロールだ。連続で三回の右ロールを打ちながら交差する課目だよ。両機の間隔は50メートル。対進を開始する際の両機の位置関係と、同時にロールを打つタイミングがとても重要になるんだ』 前席に座る鷺沼の背中から、張り詰めた緊張感が伝播してくるのを小鳥は感じた。位置関係とロールを打つタイミングを誤れば、空中衝突しかねないからだろう。おまけに後席には小鳥が搭乗しているのだ。鷺沼は人間が持ちうる全感覚を、極限まで研ぎ澄ましているに違いない。 『ファイブ、スモーク・オン。オポジット・コンティニュアス・ロール、レッツゴー』 瞬間6番機は時速800キロまで一気に加速した。物凄い重力加速度が前方から押し寄せる。小鳥の身体は座席にめり込むように押しつけられた。右手方向から5番機が高速で飛んでくる。二機は同時に右ロールを打ち、連続横転しながら鋭く交差した。 二機の軌跡が放つ青い衝撃は、小鳥の心を強く揺さぶった。 自分が目指していた空が――飛びたいと強く望んでいた空が今ここにある。 あたかも青い稲妻が天空を貫いたような鋭い軌跡は、そんな想いと共に小鳥の胸に強く刻まれたのだった。 四機編隊課目のフォー・シップ・インバートで、金華山半島沖を舞台にしたセカンドフライトは終わり、小鳥たちは松島基地に針路を定めて訓練空域を離れた。しばらくすると松島基地の全景が見えてきた。石神たちが順番にランウェイ25に着陸していく。そして先行する5番機が着陸態勢に入る。5番機はしんしんと舞い降りる粉雪のように、静かにかつ滑らかに着陸した。石神たちが着陸した時よりも遥かに安定した動きだ。小鳥が覚えているかぎり、こんなに完璧な着陸は見たことがない。曲技飛行。T‐4の操縦技術。そのすべてが優れているのだと見せつけられているようだった。 誘導路からエプロンに移動してT‐4をエンジン・カットする。エプロンで待機していた整備員が駆け寄ってきて各機体の胴体左側に梯子を引っ掛けた。キャノピーを開けて前席の鷺沼が先に降りる。続いて小鳥も後席コクピットから梯子で地面に下りて、メタリックブルーのヘルメットを脱ぐ。そこに1番機から下りた石神がやってきて、労うように小鳥の肩を叩いた。 「ご苦労さん。鷺沼さんもお疲れさまでした。初めてのアクロはどうだった?」 「……とても圧倒されました。地上から見るのと実際に体験するのって、こんなにも違うんですね。それに身体にかかるGも凄かったです」 「ブルーインパルスの六つのポジションのなかで、最も過酷な条件で飛行するのが5番機と6番機なんだよ。どちらも激しい機動が多いからね。特に5番機は背面飛行や急上昇、それと連続横転が多いんだ」 「いつも思うんだが、あんな細い身体で燕はよく耐えられるよな。感心するぜ」 「燕君はそんなに細くはないと思うけれどね。石神君が逞しすぎるんだよ」 石神と鷺沼の会話を聞きながら小鳥は5番機のほうを見やった。ちょうど流星が梯子を伝って5番機のコクピットから下りてくるところだった。地面に両足をつけた流星は小鳥に背中を向けて整備員と話している。流星は石神とほとんど同じ身長をしているが、鷺沼が言ったとおり明らかに石神のほうが体格も筋骨も頑丈かつ逞しいだろう。しかしだからと言って流星が貧弱な身体つきをしているわけでもない。流星が着ているパイロットスーツの上からでも彼が適度に筋肉をつけていると分かるのだ。 流星が頭にかぶるメタリックブルーのヘルメットのバイザーカバーには、ブルーインパルスのロゴと逆さに描かれた5の数字が描かれている。難易度の高い背面飛行が多い、リードソロを担当する5番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描き、その技量を誇っているからだ。 着隊の挨拶を無視されて訓練中に「おまえは重い荷物だ」と中傷されたが、同じ航空自衛隊のパイロットであり同じ部隊の仲間なのだから、流星の卓越した操縦技術は認めざるを得ないだろう。整備員との会話を終えた流星がこちらに歩いてくる。小鳥は流星のほうに歩みを進めて、数歩手前のところまで近づいた。流星の歩みが止まる。流星を見上げる小鳥。小鳥を見下ろす流星。二人の視線が一つに重なり合った。 「……なんだ?」 「その、あなたの曲技飛行、とても凄かったです。圧倒されました」 「勘違いするな。オレはおまえを喜ばせるために飛んだんじゃねぇよ」 小鳥は一瞬苛立ちを覚えたが、石神たちがいるのでここはぐっと堪えた。 「さっきは生意気な態度をとってすみませんでした。わたしたちはこれから一緒にデュアルソロを飛ぶことになるんですから、お互いに歩み寄ったほうがいいと思うんです。これからよろしくお願いします」 小鳥はにこやかに微笑み、流星に向けて右手を差し出した。流星は無言で小鳥の右手に視線を注いでいる。しばらくして身体の脇に垂らされていた流星の手が動いた。小鳥と友好条約を締結する気になったのかもしれない。小鳥が握手を期待したその瞬間、彼女の右手に軽い痛みが走った。伸ばされた流星の手が、握手を待ち望んでいた小鳥の右手を乱暴に払い除けたのだ。まるで周囲を飛び回る鬱陶しい蠅を追い払うような乱暴な動作だった。 「一緒にデュアルソロを飛ぶだって? ……ふざけるんじゃねぇよ。おまえと仲良く手を繋いで飛ぶなんて、吐き気がするぜ」 小鳥に向けて放たれた流星の言葉は、団結心と協調性を重んじる部隊の一員だとは思えない、とても衝撃的なものだった。 「わたしたちは同じチームじゃないですか! どうしてそんなことを言うんですか!?」 「オレはおまえを認めない。そう言ったはずだ」 流星は小鳥の前から去ろうと動いたが、何かを思い出したのか、もう一度彼女のほうを振り向いた。 「……おまえ、夕城荒鷹2等空佐の娘だそうだな」 「そうです。夕城荒鷹はわたしの父です。それがどうしたっていうんですか?」 不意に問われた小鳥は一瞬戸惑いを覚えたが、別に隠す必要はなかったのですぐに答えた。語気が強くなってしまったのは、堂上空将補との一件を思い出して、思わず熱くなってしまったからだ。小鳥を捉えている流星の瞳が上下左右に動く。小鳥は自分の細部まで観察されているような気がした。流星は無言のまま氷の双眸で小鳥を一瞥すると、フライトブーツの踵を鳴らして立ち去った。視線が交差した瞬間、小鳥は流星の目の奥に現れた影を確かに見た。困惑と戸惑いと迷いが混じり合った影は、まるで死神が纏う衣のように、暗い色を帯びていたのだった。 ★ 松島基地を駆け抜ける風は爽やかな初夏の香りを帯びて、天を目指して伸びる植物たちは濃い緑色に頬を染め、黄色い向日葵の花が背伸びをして太陽に甘い恋の歌を歌う。白色を掻き混ぜたように淡い色だった春空の青は、濃くはっきりとした、暑い夏の始まりを予感させる群青色に染まっていた。 小鳥が第11飛行隊ブルーインパルスに配属されてから、もうすぐ2ヶ月が経とうとしていた。1番機から4番機の後席に搭乗して、各機と自機が担う役割を充分に理解し、鷺沼から基本的な曲技飛行の操縦操作と、細かなテクニックを教わった小鳥は、後席に彼を乗せて単機飛行洋上アクロ訓練に入っていた。石神たちは自分たちが操縦する機体の役割を、親切丁寧に教えてくれたのだが、流星だけは小鳥が5番機の後席に乗ることを、絶対に許さなかった。小鳥が初めて5番機の後席に搭乗しようとした時、流星に戦慄を覚えるような険しい視線で拒絶されてしまったことは記憶に新しい。それ以来小鳥は一度も5番機の後席に乗っていないのである。だがいったい流星は、自分の何が気にいらないのだろうか――。 「今なんて言った!?」 煩悶としながら小鳥がエプロンに着いた時だ。突然雷が落ちたような怒鳴り声がエプロンの空気を震わせた。驚いた小鳥はエプロンの一点に視線を動かした。パイロットスーツの上に救命装具と耐Gスーツを着けた青年が、5番機の前で女性整備員を睨みつけている。女性整備員を睨んでいるのは流星だ。緑の黒髪を引っ詰めた女性整備員は、臆病な兎のように震えていた。 「だっ、だから、機体にクラックがあったから、Gをかけすぎたんじゃないですか、オーバーGはよくないですよって――」 「クラックを見つけたら修理すればいいじゃねぇか! それともおまえは機体をオーバーホールするのが面倒だって言いたいのか? 担当の機体の整備がおまえら整備員の仕事だろうが!」 「ウチは整備が面倒やって言ってるんじゃありません! もう少しドルフィンを大事に扱ってほしいんです! あんなに負荷をかけたら、機体が可哀相やないですか!」 「整備員のくせに、パイロットに口答えするんじゃねぇよ!」 怒り心頭に発した流星が整備員の胸倉を掴み上げた。きつく握り締められた拳は、流星の命令ひとつで整備員の顔面を陥没させるだろう。小鳥の中で正義の炎が勢いよく燃え上がった。 「暴力はやめてください!」 小鳥は急いでエプロンを走り、早朝の満員電車に乗り込むように、流星と整備員の間に強引に割り込んだ。予告もなしに、間に割って入ってきた小鳥に驚いた流星の動きが止まる。小鳥は咎めるような厳しい眼差しで流星を見上げた。同じく流星も小鳥を見下ろしていて、抑えきれない怒りの感情が、燃えるように灰色の瞳を火照らせていた。 「関係ない奴は黙ってろ!」 「いいえ、黙りません! 幹部自衛官はいずれ人の上に立つ人間です! だから仲間のことを思いやるべきじゃないんですか? 整備員のみなさんが、いつも機体を整備してくれているから、わたしたちパイロットは空を飛べるんですよ! 整備員よりパイロットが偉いだなんて勝手に決めないでください!」 一喝するような厳しい口調で小鳥は言った。小鳥を見下ろす流星の視線は、睨み潰そうとしているかのような強い圧力を感じる。流星の顔に嵐の前の稲妻のように閃く怒りの表情が見えた。飛行訓練を円滑に進めていくためには、機体の高い稼働率を維持する必要があり、それは整備員たちの高い能力が大きな支えとなっている。だから小鳥は整備員を怒鳴りつけ、さらには殴ろうと身構えた流星が許せなかった。いっぱいまで引かれた弓弦のように空気が張り詰めていく。瞬きをするのも忘れて小鳥は流星を見据え続けた。先に視線を外したのは流星だ。舌打ちした流星は最後に小鳥を睨みつけると、飛行隊隊舎の中に入っていった。ひとまず危機が去ったので、肩の力を抜いた小鳥は後ろを振り返る。後ろに立つ整備員は今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「大丈夫ですか?」 「なんともあらへんから大丈夫や。でも小鳥ちゃんが助けてくれてへんかったら、ウチはフルボッコにされてたわ。ほんまに噂通りの問題児やな!」 恐怖から解放された安堵で胸を撫で下ろして怒りを露わにしたのは、整備小隊に所属する列線整備員の鶴丸彩芽2等空曹だ。大阪出身で年齢は一つ上の26歳。松島基地にくる前は浜松基地の第31教育飛行隊で、T‐4の整備をしていたらしい。食堂でたまたま相席になった時、彩芽から話しかけられてT‐4の話題で盛り上がり、数少ない女性自衛官同士ということもあって、小鳥は彼女と仲良くなったのである。 「燕1尉が問題児って……何かあったんですか?」 「ウチも詳しいことは知らへんねん。聞いた話によると、なんでも小松の306にいた時に大きな事故を起こして、部隊を辞めてブルーにきたらしいで。鷹瀬1尉は燕1尉と防衛大からの長い付き合いやって言うてたし、詳しいことが知りたいなら鷹瀬1尉に訊いてみるとええよ。先に言うておくけど、鷹瀬さんはウチが狙ってるんやからな! エッチなことしたらアカンで!」 「エッチなことなんてしません! 大声で変なことを言わないでください!」 T‐4の整備に向かった彩芽と入れ替わるように、ハンガーの救命装備室から出てきた鷺沼がこちらに歩いてきた。小鳥は少し迷ったが、鷺沼にエプロンでの一件を報告する。小鳥の話を聞いた鷺沼は表情を暗く曇らせると、「分かった」というふうに頷いてみせた。 「その一件はあとで僕から隊長に話しておくよ。さあ、気を取り直して訓練を始めようか」 元気づけるように小鳥の肩を叩いた鷺沼は、梯子を上って後席に乗り込んだ。小鳥は前席には乗り込まずに6番機の外部点検を始めた。6番機担当の機付き整備員が緊張した表情で小鳥を見つめている。整備員の腕を信頼していないわけではない。すべて手で触れて目で見て確かめる。これもパイロットに与えられた大事な役割なのだ。 外部点検を終えた小鳥は前席に乗り込み、離陸の前に行うエンジンスタートが始まる瞬間を待った。左手に待機している頑強な外見の車両は、機体に電気を供給する電源車だ。6番機の正面に整備機付き長と整備員がやってくる。これからエンジンスタートの手信号が開始されるのだ。エンジンは右エンジン・左エンジンの順にスタートさせる。エンジンの回転数が上昇していくのを、10〜50%まで指の本数で示し、60%になったらアイドル到達のサインを出して、電源車から繋いである外部電源を外すのである。 「ブルーインパルス、エンジンスタート」 小鳥は些か緊張しながら声を出して、インターコムで繋がった整備機付き長に合図を送った。彼らはインターコムの通話と手信号を織り交ぜながら、手順通りに点検項目を確認していく。小鳥はフライトグローブを嵌めた指を一本ずつ立てて、右エンジンの出力が正常に上がっていくことを確認していった。油圧が上昇、眠りに就いていた計器が目覚めていく。アイドルの回転数に到達した右エンジンの始動完了。まったく同じ手順で左エンジンも始動した。 次は操縦系統の確認だ。小鳥は胴体後部のスピードブレーキを開閉させて、両脚の間から出ている操縦桿を掴み、前後左右に動かしながら同時にラダーペダルも踏み込む。エレベータ・エルロン・ラダー、三舵の動作は滑らかで異常なし。トリム・チェックもOKだ。ラダーに組み込まれているヨー・ダンパーが、正常に機能するか確認するため整備員が機体を揺らす。フラップをテイクオフ位置にセット、整備員がOKのサインを出した。小鳥はタクシーライトを点ける。主脚車輪に噛ませていたチョークを解放した整備員が、機体を送り出す位置に立つ。お互いに敬礼を交わして、キャノピーを閉じた小鳥は6番機を発進させる。誘導路を通過して滑走路の端に向かい、小鳥は最後のエンジンチェックを開始した。 『ブルーインパルス、エンジンランナップ』 小鳥はブレーキを強く踏み込んで機体を地面に固定した。左のエンジンの回転率を順番に上げて、正常に動作していることを確認してアイドルに戻す。次に小鳥は操縦桿のトリガーを握る。戦闘機では機関砲の発射トリガーとなっている部分だ。人差し指でトリガーを弾くと電動ポンプが作動して、ジェット噴流に押し出されたスモークが、機体後部から上昇していく。最後に加点率を上げていた右エンジンをアイドルに戻して、エンジンランナップは終了した。 『ブルーインパルス06、松島タワー。レディー・フォー・ディパーチャー』 小鳥は無線越しに基地管制塔に呼びかけた。ブルーインパルスは第11飛行隊のコールサインだ。通信の際にいちいち部隊名を名乗っていては手間がかかるため、航空自衛隊の飛行隊はそれぞれ個別のコールサインを持っている。ちなみに「06」は部隊の6番機という意味だ。 『松島タワー、ブルーインパルス06。ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』 『ラジャー。ブルーインパルス06、ランウェイ・ゼロ・セブン、クリアード・フォー・テイクオフ』 離陸準備完了。小鳥はスロットルを押し上げた。双発のエンジンが勇ましく咆哮する。ノズル周囲のフラップ・ダウン。ノズルのアイリスがすぼまり鮮烈なオレンジ色の光を孕む。滑走路をランディング、機体の速度がぐんぐん上がっていく。操縦桿を引いてエレベータ・アップ。機首が天を仰ぎ両翼が爽やかな風を纏う。主脚が地上を離れてテイク・オフ。天高く飛翔した6番機の操縦席に座る小鳥の視線は、空の青だけを真っ直ぐに捉えていた。 洋上アクロ訓練を終えて松島基地に帰投した小鳥は、デブリーフィングが終わったあとも部屋に残り、極限まで緊張した面持ちで椅子に座っていた。小鳥の向かい側には鷺沼が座っており、部屋に置かれているテレビを見ている。画面に映し出されているのは6番機のコクピットの映像だ。前方の景色とガラス板に映ったHUDの表示が重なっている。これは地上と機載カメラで撮影した今日の訓練映像で、テレビのスピーカーからは無線交信の音声が絶えず流れている。隊形変換のタイミング。スモークのコール。高度・速度・旋回の傾き角度。機体に掛かるG。鷺沼はそれらすべてを細かくチェックしているのだ。 息の合った飛行をするためにはビデオによるチェックが欠かせない。飛んでいる最中は演技が揃っているかどうかは分からないからだ。臨機応変な対応が求められる戦闘機パイロットとは違い、ブルーインパルスのパイロットが行うべきことは明確に決まっている。それは毎回同じ展示飛行を行うことで、パイロットたちは常に同じレベルと同じ飛行を保たなければならない。そのためビデオなども使い、飛行訓練に活かすようにしているのだ。ロールオン・テイクオフを実施する6番機が映ったところで、映像はぴたりと停止した。 「6番機のロールオン・テイクオフ。ここは脚を上げて上昇していくところなんだけれど……ちょっと高度が低すぎかな」 映像が早送りされ、コーク・スクリューでバレル・ロールを打つ6番機が映し出された。リモコンで映像を停止させた鷺沼が小鳥のほうを振り返る。 「コーク・スクリューは5番機の周りを回る半径を、その日のスモークの太さによって調整するんだ。気象条件によってスモークの太さが異なるから、事前の課目の実施間にスモークの太さを確認しておき、太い日は大きく回らなければいけない。僕が言おうとしていることは分かるかい?」 小鳥は静止している映像に視線を向けた。バレル・ロールで回る6番機の半径は大きいように見える。瞬間小鳥の頭脳に閃きの花が咲いた。 「この映像を見ると……私が打ったバレル・ロールの半径は大きいです。コーク・スクリューを実施する前に確認したスモークは、細い形をしていました。今日のようにスモークが細い日は、小半径でバレル・ロールを打たなければいけない――そういうことですよね?」 「大正解だよ」 鷺沼は満足げに微笑んだ。 「高い機動性を披露するソロの役割と、美しく調和がとれたフォーメーション課目のいずれにも加わり、ブルーインパルスの飛行展示課目のバリエーションを豊かにする。どの課目にもそれぞれに難しさがあるけれど、細かなところにまで目を配り、より美しく見えるように配慮する。それが6番機の役割なんだ」 「私の操縦技術はまだまだ未熟ということですね。……もっと頑張らないと」 「そんなことはないさ。夕城君の操縦技術はだいぶ上達してきていると僕は思うよ。この調子でいけば――早ければ来月には飛行場訓練に移れるはずだ。週三回までに制限されている飛行場訓練は、君の練成訓練を中心に計画されているんだ。夕城君が飛行場訓練を終えて、曲技飛行操縦者の資格を取得すれば、ブルーインパルスの活動する機会は更に増えるだろうね。今から楽しみだよ」 鷺沼伊月は素晴らしい人格者だと小鳥は改めて思った。常に微笑みを絶やさず、アクロに関する説明はとても親切丁寧で分かりやすい。初めて会った時は大学の教師のような印象を覚えたが、その印象は今も違わず、自衛官になる以前は教師を志していたのではないかと思ってしまいそうだ。だが鷺沼に褒められたにもかかわらず、小鳥の心は暗い雲に覆われたまま晴れなかった。 「夕城君? どうしたんだい?」 「私、思うんです。燕1尉が私を後席に乗せて飛んでくれないのは、私の操縦技術が低いからなんじゃないかって。だから一日でも早くうまくなりたいんです」 鷺沼は双眸を見張る。小鳥の目尻に透明な涙滴の欠片を見てしまったからだ。 「君にいいものを見せてあげるよ。ちょっと待っていてくれ」 一言小鳥に断った鷺沼はブリーフィングルームを退出すると、右手に一本のビデオテープを携えてすぐに戻ってきた。 「そのテープはなんですか?」 「君が元気になる魔法のビデオだよ」 鷺沼がビデオデッキにテープを捻じ込んだ。再生ボタンが押されて新たな映像がテレビ画面に映し出される。画面に投影されたのは、どうやら地上から撮影された映像のようだ。カメラのレンズは松島基地上空で飛行場訓練を行う六機のT‐4を捉えている。ややあって六機のうちの二機が編隊から離脱した。編隊から離脱した二機は、ゆっくりとしたレートの180度の右ロールで背面になると、同時に225度の左ロールを打ち、左手後方に離脱していった。ハーフ・スロー・ロール。第1区分課目で実施されるデュアルソロ課目だ。 「鷺沼さん。6番機に乗っているのは、もしかして――」 「君のお父さんの荒鷹さんだよ。5番機に乗っているのは練成訓練中の燕君だ」 両眼を見開き僅かに口を開け、小鳥は画面越しの二機が繰り出す曲技飛行に目を奪われる。小鳥の全身の産毛は粟立っていた。鷺沼から「ブルーインパルスのエース」と称されたように、流星の操縦技術は明らかに群を抜いている。その軌跡は天に閃く稲光のように鋭く、時には野原を飛び交う蝶のように柔らかく美しい。小鳥は一秒たりとも画面から視線を引き剥がせなかった。27にも及ぶ第1区分課目飛行を終えた編隊は、精密に整った隊形を1ミリも崩さぬまま、松島基地の滑走路に着陸した。キャノピーが開放されて、機体を操っていたパイロットたちが大地に下り立つ。ウォークバックで行進したパイロットたちは、担当の整備員と固い握手を交わしている。基地上空での訓練内容は、航空祭の展示飛行と同じ内容で、ある区分の離陸課目から着陸課目まで、すべての演技を実施するのだ。 『このカメラ、まだ撮影しているのかい?』 撮影を続けるカメラの前に、40代後半の男性パイロットがやってきた。瞬間小鳥の心臓は高く跳ね上がる。カメラのレンズを覗き込んでいるのは、今は亡き父親の荒鷹だったからだ。 『ランプが点いているから、まだ撮影中なんだな。小鳥! 元気にしているか? お父さんは元気に空を飛んでいるぞ〜!』 両手でピースサインを作った荒鷹は満面の笑顔を浮かべて見せた。無邪気な笑顔に誘われるように、小鳥も自然と微笑みを浮かべていた。 『……いったい何をしているんですか』 カメラの前から動こうとしない荒鷹のところに違うパイロットがやってくる。長身で引き締まった身体つきの若い青年だ。完璧に整った端正な顔立ちを構成する目鼻立ちの形は、小鳥が知る流星と同じものだった。 『三沢基地で頑張っている娘の小鳥にエールを送っているんだよ。燕君もエールを送るかい?』 『送りません。これはビデオレターを撮っているわけじゃないんですよ。あとで確認するために撮っているんです。それにだいたい娘さんが観るとはかぎりません。彼女が第11飛行隊に配属されるわけじゃあるまいし――ちょっと! 何をするんですか!?』 荒鷹に腕を掴まれて、撮影を続けるカメラの前に無理矢理引き摺り出された流星が、抗議の声を上げる。だが抗議する流星などお構いなしに、荒鷹は強引に彼と肩を組んだ。 『小鳥、彼は5番機パイロットの燕流星君だ。かなりのイケメンだろう? お前のお婿さんにしてやるからな!』 『おっ――お婿さん!? 何を言ってるんですか! 勝手に決めないでください!』 『まんざらでもなさそうだな! 今から孫の顔が楽しみだよ!』 小鳥は蜂蜜色の双眸を見張った。荒鷹に無理矢理肩を組まれて、抗議の声を上げていた流星は、いつの間にか大きく綻ばせた口元から白い歯を覗かせ、あたかも快晴の日の太陽のような、光輝く笑顔を浮かべていたのだ。荒鷹と流星の後ろには石神と里桜と鷺沼が立っていて、笑い合う二人の様子を微笑ましく眺めている。そしてビデオテープが記憶していた映像はそこで終わった。 「……まるで家族みたいですね」 「そうだろう? この頃の第11飛行隊のメンバーは、本当に仲が良かったんだよ」 小鳥の言葉に応じた鷺沼は、夕焼けのように寂しげな微笑を浮かべた。 「……第11飛行隊にきた頃の燕君は、積極的に他人と関わろうとはしなかったけれど、夕城君が思うような冷たい子じゃなかったよ」 鷺沼はとても静かな声で言葉を紡いだ。テレビから離れた鷺沼の双眸は小鳥を見ていない。遠い時空の彼方に過ぎ去った、過去の情景に意識を飛ばしているのだ。そして鷺沼は重い溜息をついた。 「燕君が変わってしまったのは、荒鷹さんが亡くなってからかな。燕君は誰よりも荒鷹さんを信頼していた。あれは燕君が5番機のORパイロットになってからすぐの事故でね、彼は荒鷹さんと航空祭でデュアルソロを飛ぶ日をずっと夢見ていたんだ。……でも荒鷹さんは事故で命を落とし、それが原因でブルーインパルスは活動停止になってしまった。彼が受けた喪失感と痛みは大きかったと思うよ」 「――余計なことを言わないでくれませんか?」 鷺沼の声と重なるように、ブリーフィングルームの室温を急激に低下させるような、涼やかな低音の声が響き渡った。小鳥は半身を捻り声がしたほうを見やる。腕組みをした流星が部屋の片隅に立っていた。恐らく流星は部屋の前を通りすぎようとした時に、偶然小鳥と鷺沼の会話を耳にして、気配を殺して室内に入ってきたのだろう。 「オレは昔と変わっていません。憶測でものを言うのはやめてください。あんなくだらないビデオなんか見せて、いったいどうするつもりだったんですか?」 「くだらないビデオなんかじゃありません!」 気づけば小鳥は両手でミーティングテーブルを叩き、甘いソプラノの声を張り上げていた。腕組みの構えを解いた流星が小鳥のところにやってくる。小鳥は椅子から立ち上がり、30センチは身長差がある流星を見上げた。 「お前は何をしに航空自衛隊に入隊したんだ? ホームビデオを見て喜んでるなんて、幼稚園児のすることじゃねぇか。お前の親父だってそうだ。大事な訓練中にふざけているから、航空祭であんな事故を起こして死んじまうんだよ」 流星の放った言葉が小鳥の怒りに火を点けた。目の奥を燃やした小鳥が、流星に掴みかかろうとしたその瞬間、素早く伸びてきた鷺沼の手が彼女の腕を掴んで引き留めた。理性を取り戻した小鳥は肩越しに鷺沼を見上げる。普段は優しく穏やかな一対の目は、厳しい光を湛えて真っ直ぐに流星を捉えていた。 「今の言葉は彼女に対して失礼すぎると僕は思う。夕城君に謝りなさい」 暗い深海のような沈黙がブリーフィングルームに漂う。それは肺腑まで押し潰されてしまいそうな重い沈黙だった。流星は無言の姿勢を貫いている。つまり謝る気がないのだ。そんな態度を見た小鳥の怒りはさらに燃え盛った。小鳥は強い光を灯した眼差しで流星を見据える。だが流星は小鳥が放つ眼差しから視線を逸らさなかった。 「事故を起こした父さんを責める人もいました! けれど私は父さんを心から誇りに思っています! 父さんのことを悪く言う人は私が許さない! あなたは父さんと同じ部隊にいて、一緒に飛んでいたのに、どうしてそんなことが言えるんですか!」 心の奥底から湧き上がる激情に突き動かされた小鳥は、強い口調で紡いだ言葉を流星にぶつけていた。深海のような沈黙が濃度を増してさらに重くなる。そして結ばれていた流星の唇がゆっくりと解かれた。 「――オレだって荒鷹さんを誇りに思ってる」 「えっ……?」 流星の端正な顔を覆っていたのは、痛みと悲しみの二つの感情だった。 「田んぼとか空き地とか、どこか開けた場所に着陸すれば荒鷹さんは助かったはずだ。でも着陸に失敗して地面に激突したら、機体の破片が飛び散って、周囲に甚大な被害を出してしまうかもしれない。荒鷹さんはそのことに気づいて、被害を最小限に抑えられる海に向かって飛んでいったんだ」 流星は一度言葉を止めると呼吸を継ぎ再び声を発した。 「何が起こっても諦めずにあらゆる手段を考え、最大多数の幸福を目指すのが航空自衛隊のパイロットであるべきだとするなら、そのとおり荒鷹さんは最期の時まで航空自衛隊のパイロットでありつづけた。……オレはそう思っている」 流星が荒鷹に対して抱いている思いは、自分の思いと極めて類似している。小鳥は確信した。そうでなければあのような言葉は紡げない。同じ思いを抱く者同士なのだから分かり合えるはず。小鳥は期待を込めた眼差しで流星を仰ぎ見る。だが小鳥と絡まっていた視線を解いた流星は、踵を回して背中を向けると、部屋から出ていったのだった。 ★ 第11飛行隊隊舎二階のブリーフィングルームは、真冬の湖面を覆う分厚い氷のような、張り詰めた空気で満ちていた。張り詰めた空気の中心にいるのは石神と流星だ。この二人が凍てついた空気を生み出しているのである。小鳥たちの誰もが固唾を飲んで二人の動向を見守っていた。石神から今日の訓練内容を伝えられた流星が、それに異を唱えたのが事の発端だった。 気象班の報告によると、今日の天気は快晴が続くということなので、金華山半島東岸沖で六機による第1区分課目洋上アクロ訓練を実施することに決まった。そして流星は石神から小鳥を後席に乗せて飛ぶことを命じられた。当然ながら小鳥と流星は揃って驚いた。流星は鋭く強い眼差しで小鳥を一睨みすると、彼女に対して抱く激しい嫌悪を隠すこともせず、その端正な顔に剥き出したのだ。 「こいつを乗せて飛ぶことはできません。訓練計画を見直してください」 「どうしてそう思うんだ。理由を言ってみろ」 「それは――」 青みを帯びた流星の灰色の視線が、一瞬だけ小鳥のほうに動く。小鳥は流星がどんな理由を話すのか緊張したが、彼は何も話さずに唇を引き結ぶと椅子に座り直した。 「夕城の何が気にいらんのかは知らんが、お前の我儘で今日の訓練計画を見直すことはできん。もう一度だけ言うぞ。夕城を後席に乗せて飛ぶんだ」 「……それは命令ですか?」 「そうだ。燕、お前は俺が統率する部隊にいるんだ。だから俺の部下であるお前は、飛行隊長である俺の命令に従う義務がある。分かったか?」 風船が割れた時のような乾いた音が鳴り響く。流星がノートとバインダーをミーティングテーブルの天板に叩きつけたのだ。荒い動作で椅子から立ち上がった流星は、ブリーフィングルームから出ていった。石神と目配せを交わした鷺沼が、急いで席を立ち流星の後を追いかける。極度の緊張で張り詰めていた空気はゆっくりとほぐれていき、小鳥たちはようやく息をつくことができたのだった。 「あんなことを言うなんて、燕君はいったいどうしちゃったの? 少し前まではあんな子じゃなかったのに――」 茶色の双眸を伏せて、美貌の顔を悲しく曇らせた里桜がぽつりと呟く。その問いに答える者は誰もいなかった。誰も正しい答えを知らないからだろうか。あるいは石神たちは答えを知っているのかもしれない。その答えを口に出せば、小鳥を傷つけてしまうと分かっているからこそ、彼女に気を遣い誰も何も言わないのだ。第11飛行隊ブルーインパルスは、強い団結心と熱い絆で結ばれているはず。だが今はその二つがとても脆く不安定に思えた。もしかしたら小鳥が第11飛行隊に入隊したことによって、今まで保たれていた均衡が、音を立てて崩れてしまったのかもしれない。 プリブリーフィングを終えた小鳥は、煩悶としながら救命胴衣と耐Gスーツを身に着けて、石神たちとエプロン地区に向かった。夏の青天の下では、整備員たちが額に汗を流しながら、六機のT‐4の飛行前点検を行っている。流星は腕組みをして5番機の前に立っていた。上半身に救命胴衣、下半身に耐Gスーツを着けているから、訓練に参加するのだろうか。鷺沼が小鳥たちを出迎える。鷺沼の顔に浮かぶ微笑みには、少し疲労の色が滲んでいた。 「燕の様子は?」 「よく言い聞かせておいたから大丈夫だよ。夕城君も安心して燕君のところにいきなさい」 石神たちと別れた小鳥は、初夜を迎える花嫁のように緊張しながら、5番機の前にいる流星のところへ向かう。「よろしくお願いします」と小鳥の挨拶にも応じず、流星は5番機の外部点検を始めた。心の片隅が痛むのを感じながら、小鳥は胴体に取り付けられた梯子を上り、後席コクピットに身を沈ませる。小鳥のショルダーハーネスを締める整備員は、まるで死地に赴く兵士を見送るような目をしていた。 外部点検を終えた流星が前席コクピットに搭乗した。F3‐IHI‐30ターボファンエンジンが始動、猛烈な回転音がエプロンに響き渡る。次はエンジンスタートだ。コクピットの外に伸ばされた流星の右手が動き、人差し指と中指が回転した。これは「クリア」のサイン。ここから先は肉声ではなく、すべてハンドシグナルとインターコム越しの会話になるのだ。小鳥は計器類とハンドシグナルを交互に見やりながら、流星が繰り出す一つ一つの動作と言葉を結びつけ、そのタイミングを記憶に焼きつける。流星の右手が宙に描くハンドシグナルは、小鳥のハンドシグナルよりもはるかに滑らかで素早かった。 清廉な小川を流れゆく水のように流暢な英語で、流星は地上管制席と交信していく。三舵と計器類の点検が終わるとタクシー・ライトが点灯した。キャノピー・クローズ、リリース・ブレーキ。列を成した六機は地上を這うように滑走しながら離陸位置に向かった。 管制塔と交信を交わした石神たちが順番に離陸していく。次はいよいよ5番機が離陸する番だ。管制塔から離陸許可が下りた。双発のエンジンの回転数が一気に跳ね上がる。吹き抜ける風の音が高音に変わり、機体は氷上を滑るように前進した。加速を始めた5番機が滑走路を走っていく。離陸決定速度からローテーション速度へ。5番機の機首が上を向き、主脚と左右のタイヤが滑走路から離れた。計器盤の速度計が、安全離陸速度の100ノットを超えると同時に、小鳥の両足の間にある操縦桿が手前に倒れた。T‐4は前席と後席に操縦桿が埋め込まれており、その二つは連動している。だから流星が操縦桿を引いたのだ。 重力の楔から解放された5番機はふわりと浮き上がり、光り輝く青天の懐を目指して飛翔した。小鳥を後席に乗せて飛ぶことを不服に思っている流星は、今は何を思いながら飛んでいるのだろうか――。そんな小鳥の思いは、前席に座る流星に伝わることもなく、清らかに澄んだ真夏の青天の中に溶けていった。 トルコ石のような色に染まった空は湖水のように澄みきっている。雲は所々に浮かんでいる程度で、夏の晴れた空の青白さがとても清々しい。低層雲を突き抜けると、そこは太陽の光と青色だけという幻想的な世界になるのだ。金華山半島東岸沖の訓練空域に到着した六機は、第1区分課目洋上アクロ訓練を開始した。 『燕さん』 第1区分5課目のリードソロ課目の、フォー・ポイント・ロールが終了した直後、小鳥はインターコムを繋いで前席の流星に話しかけた。速度と高度の確認。空中集合と解散のタイミング。そして鷺沼とのコールのやり取り。それらに全神経を集中させている、流星の気を散らしてしまうのではないかと思ったが、小鳥は彼にどうしても尋ねたいことがあった。 『……なんだ?』 『貴方はどうして私と飛んでくれないんですか? 具体的な理由があるのなら教えてください。態度が悪いとか、飛行技術が下手だからとか、私の何が気にいらないのか教えてくださいよ。それを教えてくれたら、私は直すように努力しますから――』 『そんなものは関係ない』 『えっ……?』 『飛行技術が下手だろうが、態度が悪いだろうが、そんなものは関係ない。オレがお前と飛ばないのは、お前が荒鷹さんの娘だからだ。だからオレはお前と飛ばないし、ブルーインパルスの一員として認めない。それだけだ』 なんとも曖昧な理由を聞いた小鳥は愕然とした。飛行技術が低いのならば、日々の鍛錬によって向上させることができる。流星に対する態度が悪いのならば、それは今すぐにでも改善できる。だが自分の親となる人間は選べない。すべて神と運命が決めることなのだ。小鳥が荒鷹の娘だから一緒に飛ばないというのは、あまりにも身勝手すぎるのではないだろうか。 『そんな理由で私と飛ばないなんて、それはあまりにも勝手すぎるんじゃないですか!? 貴方は5番機パイロットとしての義務と責任を、ちゃんと果たすべきです!』 『――黙れ』 戦慄に貫かれた小鳥の背筋は、瞬時にぞくりと粟立った。唐突に流星の声色が一変したのだ。その声は氷河を思わせる冷たさを湛えているが、同時にその中で激しい炎が燃えているように小鳥は感じた。 『オレが一緒に飛びたいのはお前じゃない!! オレは荒鷹さんと飛びたいんだ!! ちくしょう!! なんで荒鷹さんは死んじまったんだよ!! なんでオレを置いていってしまったんだよ!! 一緒に空を飛ぼうって約束したのに――守れもしない約束なんか、最初からするんじゃねぇよ!!』 慟哭に近い流星の声が小鳥の耳朶を深く抉る。瞬間小鳥の両足の間に埋め込まれている操縦桿が、手前に倒れた。小鳥が上昇すると思った時には、すでに5番機の機首は上を向いていた。機首を天に向けた5番機は、垂直に近いピッチ角で一気に上昇していく。天を目指して舞い上がるその姿は荒々しくも美しい。常軌を逸脱した速度は、もはや飛躍といってもいいだろう。そして5番機は、四回転と四分の一の右ロールを打ちながら、9000フィートまで上昇した。 1・2・3番機のライン・アブレスト・ロールが終わり、300ノットまで増速した5番機は、80度のバンクで360度の旋回に入った。6倍の重力加速度が小鳥の身体を切り刻む。二十秒の旋回を終えた5番機は、機首を引き起こし、ループ軌道で3500フィートまで上昇した。ボントン・ロールを終えた5番機は、ミリタリー・パワーのまま機首を引き起こし、背面姿勢になった瞬間に右へハーフ・ロールを打ち、二回目の上昇に入る。5番機は9000フィートの頂点に達するとそのまま降下を続け、水平姿勢への回復と同時に、ハーフ・ロールで背面降下に移り、1000フィートでレベルオフして、バーティカル・キューバン・エイトを終えた。 演技が進んでいくなか小鳥の身体に異変が現れた。背面飛行。背面からの連続横転機動。時速800キロで一気に9000フィートまで翔け上がる際に生じる、強烈な重力加速度。初めて体験するそれらに、腹部を激しく絞り上げられた小鳥は一気に気持ち悪くなり、酸素マスクを剥がすと、5番機の後席コクピットの中で吐いてしまったのだ。どうやら小鳥の吐いた吐瀉物が放つ悪臭が届いたらしく、前席の流星が肩越しにこちらを振り向いた。 『なっ――!? テメェ! 何やってんだよ!』 『ごめんなさい……気分が悪くなって……』 謝った直後に小鳥はまた吐いてしまう。おまけにタック・クロスで打つロール機動の最中だったので、小鳥の口から飛び出した濁った黄色の液体は、キャノピーの四方に飛び散った。小鳥の意識は明瞭さを失い混濁していく。それからのことは、細切れのフィルムのようによく覚えていない。気づけば浮揚感が消えて、重力が身体を包んでいた。青い空が遠く離れて見える。小鳥は空から地上に連れ戻されたのだ。 「おい! さっさとこの女を摘まみ出せ!」 真夏の空気を貫いた流星の怒声が爆発して、エプロン地区に響き渡った。バイザーを上げて後席を見やった流星の端正な顔は、真夏の太陽の如き灼熱の怒りで覆われている。急いで駆けてきた整備員が、5番機の胴体に梯子を固定させた。小鳥の身体を縛るベルトとショルダーハーネスを外した整備員が、早く降りるようにと目で促してきたが、彼女は後席に蹲ったまま動けなかった。 「早く降りろよ! クソ野郎!」 容赦の欠片もない流星の怒声が、小鳥の耳朶に突き刺さる。小鳥は小刻みに痙攣を繰り返す己の身体に鞭を打ち、心配そうに見守る整備員の手を借りて、なんとか後席から這い出すことができた。前席から下りた流星は小鳥の正面に立ち、5番機の後席に一度だけ目を向けてから、忌々しげに舌打ちをした。小鳥を見据える切れ長の双眸から放たれる視線は、稲妻の如く苛烈だった。 「――ふざけた真似をしやがって」 「……すみません」 不意に小鳥が見上げる夏空がくるくると回り始める。それと同時に小鳥の身体を支えている両足が、笑いを堪えているかのように震えた。酷い目眩と吐き気が小鳥の頭蓋と胸を殴りつける。これは意識を失う前兆だ。小鳥は自分を連れ去ろうとする悪魔と戦っていたが、奮闘も虚しく身体を支えていた両足が折れ、彼女の身体は地面に吸い寄せられるように傾いた。 「夕城!」 駆け寄ってきた真由人が、地面に倒れる寸前だった小鳥の身体を腕に抱き留めた。真由人の腕に抱かれた、小鳥の顔面は蝋のように真っ白で、華奢な四肢は力を失いだらりと垂れ下がっている。可憐な睫毛に縁取られた瞼は、今にも閉ざされそうだ。今にも千切れそうな意識の糸を懸命に結びながら、小鳥は身を起こそうと動いた。 「大丈夫……です……早く座席の掃除をしないと……」 「どこが大丈夫なんだ! 顔が真っ白じゃないか!」 小鳥を抱き上げた真由人は、エプロンを離れて飛行隊隊舎に向かい、テレビと雑誌棚に流し台と食器棚が置かれた部屋のソファに、彼女を横たえた。真由人はタオルを水で湿らせると、汚れた口元と襟元を拭いてくれた。まるで小鳥は母親の胎内から生まれ出てきたばかりの赤子のようだ。小鳥は恥ずかしさで頭がいっぱいになり、穴があったら入りたいと思った。しばらくして退室していた真由人が、清涼飲料水のボトルを携えて戻ってくる。真由人が言うには、常温の飲み物を飲むことで、嘔吐感が抑えられるのだそうだ。 「流星が酷い真似をしたな。――すまないと思っている」 いきなり真由人に謝罪された小鳥は驚き戸惑った。 「鷹瀬さんは何もしていないじゃないですか。……あれは吐いてしまった私が悪いんです」 小鳥はアクエリアスのボトルを握り締める。 「あの、鷹瀬さん、燕さんが小松の306にいたっていうのは、本当なんですか?」 「ああ、本当だよ。アグレッサーに異動する前は、俺も306にいたからね」 「じゃあ、大きな問題を起こして部隊を辞めたっていうのも、本当なんですか?」 「それは――」 真由人は言葉を濁すと貝のように固く閉口した。小鳥は濁った言葉が濾過されるのを待つ。数秒後、真由人が口を開いた。 「……すまないが、詳しいことは言えないんだ。俺が言えるのは流星は戦闘機から離れた。それだけだよ」 「戦闘機から離れた――」 真由人は小鳥の視線から逃げるように双眸を伏せた。これ以上詮索しないでほしいという意思表示だろう。第11飛行隊ブルーインパルスは協調性を重きとする部隊。だから他人の過去に土足で踏み込むような、無粋な真似をする気はなかった。重い沈黙が空気を満たす。ややあって真由人は、わざとらしく思い出したように口を開いた。まるで話題を切り替えようとしているかのように。 「石神隊長に話しておいたから、今日の訓練はやめて、君は部屋に戻って休むといいよ」 突然の戦力外通知に小鳥は愕然とした。だが真由人が下した判断は正しい。航空機の操縦には強靭な体力と精神力が必要となる。パイロットは2000メートル以上の高空を飛び、身体も脳髄も激しい機動で生じるGに耐えねばならないので、体力の維持は絶対条件だ。だから体調を崩せば、すぐさま航空機から降ろされてしまうのである。 「待ってください! 私は大丈夫です! ちゃんと飛べます!」 ソファから立ち上がった直後、小鳥は再び強烈な目眩に頭蓋を殴られてしまった。ぐらりとよろめいた小鳥を、真由人の腕と胸が受け留める。不意に小鳥の肩に添えられた両手に力が込められた。 「……頼むから、これ以上流星を刺激しないでくれ」 真由人を仰いだ小鳥は息を呑む。真由人の端麗な顔は、苦痛を受けているかのように歪められていたのだ。これ以上ブルーインパルスの中で波風を起こしたくない――。そんな強い思いが、真由人の双眸の最奥で渦巻いているのを、小鳥はこの目で見てしまった。だから小鳥は嫌だと言い張ることもできず、弱々しく頷くしかない。小鳥の頷きを見た真由人は、励ますように彼女の肩を叩くと、部屋から出ていった。 小鳥は飛行隊隊舎から出てエプロンを見やる。ブルーインパルスの整備員たちが、セカンド・フライトに備えて飛行後点検を行っていた。5番機の代わりに予備機の7番機が引き出されている。小鳥に5番機を使用不能にされた流星が搭乗するのだろう。デブリーフィングにいったのか、石神たちの姿は見当たらない。小鳥は安堵した。惨めで情けない自分の姿を、みんなに見られたくなかったからだ。 例えそこに小鳥がいてもいなくても関係なく、飛行訓練は続けられて世界は明日に進んでいく。苛立ち。劣等感。己の不甲斐なさ。心に痛みを覚えた小鳥は視線を天に向けた。子供の頃に空を飛ぶことを強く夢見て、心の底から飛びたいと願った青空が広がっている。だが今の小鳥には、その青空がどんなに手を伸ばしても届かない場所にある、とても遠い存在のように思えたのだった。 |