プロローグ 始まりの青空

 2013年4月。淡い桃色に頬を染める桜の花が日本列島を彩る季節。
 春の青空と純白の雲の波が天の彼方まで広がっている。今日の宮城県航空自衛隊松島基地の天気は爽快な青色が広がる快晴だ。冬から春に変わる不安定な季節としては奇跡的な天候だと言えるだろう。デルタ隊形を組んだ六機の航空機が、純白のスモークを曳きながら青天を翔け抜けていく。白と青のツートンカラーに塗装された航空機の名前はT‐4。機体のフォルムがイルカに似ていることから「ドルフィン」の愛称で呼ばれている航空自衛隊の中等練習機である。そして六機のT‐4を操縦しているのは、第11飛行隊ブルーインパルスに所属する「ドルフィンライダー」と呼ばれるパイロットたちだ。大勢の観客たちの熱い注目を浴びた六機のT‐4は滑走路正面にさしかかると一斉にスモークを切り、全機同時に360度の右ロールを打ち滑走路の右手後方へ抜けていった。各機のパイロットによる息の合った連携動作と、六機同時の完璧なロール機動に圧倒された観客たちは、万雷の拍手喝采の雨を降らせている。
『見事綺麗に決まりました。六機全機による一斉横転課目『ボントン・ロール』でした』
 低く甘い声を持つTRパイロットのナレーションが航空祭会場に響き渡るなか、明るい栗色に染まったマッシュカットのショートヘアと、大きな蜂蜜色の瞳をした一人の若い女性が、渋面を浮かべながら人混みの海を泳いでいた。彼女の名前は夕城小鳥。航空自衛隊芦屋基地第13飛行教育団で、日々勉学と訓練に励むフライトコースC・チャーリーの航空学生――いわゆる空自パイロットの卵である。今は紅白に塗装された「レッド・ドルフィン」と呼ばれるT‐4に乗り日本の空を翔けているのだ。
(まったく! 母さんはどこまで行ったのかしら! 早くしないと展示飛行が終わっちゃうじゃない!)
 夕城小鳥は幼さが残る可憐な顔を曇らせて嘆息した。連れ立って航空祭を観に来た母親の佐緒里が、基地の北門近くにある厚生施設内の売店で、飲み物を買いに行って来ると言ったきり帰ってこないのである。航空自衛隊松島基地は、東京ディズニーランド7個分の敷地を有する広い基地だ。もしかすると佐緒里は売店を見つけられないでいるのかもしれない。人混みの中を彷徨いながら小鳥はスマートフォンを取り出した。アドレス帳に登録されている佐緒里の番号に電話をかける。だが繋がらない。人が多いせいで電話回線が混雑しているのだろう。仕方がないと割り切り今度はメール機能を起動させる。自分が捜している旨を画面に打ちこもうとしたその時、受信ボックスに保存されていた父親からの未読メールに視線が吸い寄せられた。
【小鳥へ! 勉強や訓練で忙しいのに、航空祭に来てくれてありがとうな! 誰も来てくれなかったら、父さんはマジでへこんでいました。父さん頑張って飛ぶからな! 母さんと一緒にしっかり見ていてくれよ☆】
 やたらと感嘆符の多い文面に小鳥は思わず苦笑を浮かべていた。それにしても「マジ」だとか「へこむ」だとか相変わらず子供のような人だと思ったが、子供のように真っ白で純粋な心を持ち続けているからこそ、大人になった今でも空を目指して飛んでいられるのかもしれない。スマートフォンの画面に視線を落としたまま歩いていたので、小鳥はT‐4が飛ぶ空を仰いでいた一人の観客の背中に顔面からぶつかってしまった。世間で言う「歩きスマホ」による衝突事故が発生してしまったのだ。背中に一撃を食らった観客がゆっくりと小鳥のほうを振り向いた。小鳥は緊張と恐怖でその身を強張らせる。言葉よりも先に暴力を振るわれるのではないかと思ったからだ。だが小鳥を見据える観客は拳を振り上げる代わりに口を開いたのだった。
「……おい、ちゃんと前を見て歩けよ」
「ごっ……ごめんなさい!」
 小鳥がぶつかった観客は漆黒のサングラスで両眼を隠した長身痩躯の青年だった。「Blue Impulse」のロゴが刺繍された紺色の識別帽を頭に被り、自衛隊員に支給されている灰色のピクセル迷彩の作業着で、引き締まった細身の姿態を覆っている。右胸と左肩の部隊ワッペンはとても精緻な造形だ。身も心も自衛隊員になりきった熱烈なミリタリーマニアだろうか。不意に小鳥の爪先付近に硬い感触が走った。首を傾けて蜂蜜色の視線を真下に転ずると、アクセサリーのような小さい物が小鳥の足下に転がっているのが見える。きっと目の前の青年が衝突された衝撃で落とした物に違いない。両足を畳んで屈みこみ、それを拾い上げて掌に載せた小鳥は驚きに瞠目した。
 小鳥が拾い上げた物は翼を広げる鷲に似せて作られたエンブレムだった。小鳥は高潔な白銀の輝きを纏うその名前を知っている。航空自衛隊のパイロットが身に着けることを許されたエンブレム。それが航空徽章――ウイングマークだ。模倣品かと思ったが視界を貫く白銀の輝きは気高き誇りに満ち溢れている。模倣品では再現できない輝き。このウイングマークは本物に違いない。そしてこのウイングマークの持ち主である青年は、鋼鉄の翼を手に入れた航空自衛隊のパイロットだ。
 小鳥が確信したその瞬間、頭上から伸びてきた大きな手が掌に載せていたウイングマークを乱暴に奪い取った。やや驚きながら視線を真上に向ける。すると例の青年とサングラス越しに視線が合った。漆黒のレンズが両眼を隠しているので表情は分からない。だがどことなく焦っているように見えた。青年は苛立たしげに舌打ちを奏でると、小鳥から奪い返したウイングマークを作業着のズボンのポケットに押しこんだ。そして青年はサングラス越しに小鳥を一瞥して青天を仰ぐ。どうやらこれ以上小鳥を怒る気はないらしい。
『ただいま会場上空を通過した編隊は隊形変換を行い、再び会場右手方向から進入して参ります。会場上空をご覧ください。六機のT‐4が進入して参りました。4番機を中心に五方向に規則正しく位置した各航空機は、この後一斉に左旋回を開始しそれぞれが円を描き始めます。我が国の花『サクラ』の始まりです』
 会場右手方向から1番機を先頭に4番機を中心とした、ワイドな正五角形の隊形を組んだ六機のT‐4が進入してきた。高度は2000から5000フィート。リーダーのコールを合図に六機は一斉に旋回を始めた。速度250ノットで3・5Gの360度左水平旋回が始まる。六機の旋回が終わると、天空のキャンバスには我が国を代表する桜の花が美しく描かれていた。大空に描かれた一つ一つの円の直径は約500メートル、桜の花の大きさは約1500メートルになるだろう。航空自衛隊創設50周年を記念して、2004年シーズンから実施されている課目の一つ「サクラ」だ。主に第3・4区分や編隊連携機動飛行で実施される課目である。T‐4の爆音にも負けない拍手喝采はしばらくの間鳴り止まなかった。
「……あの人は、いつ見ても綺麗な飛び方をするな」
「あの人……?」
「オポージングソロ――6番機のドルフィンライダーだ。風に乗って自由に空を舞う。まるで鳥みたいだ。……オレには真似できない」
 青空の眩しさに負けたのか、それとも自由に空を舞う機体に嫉妬したのか、青年は天に向けていた二対の視線を地上に落とした。
「どうしてそう思うんですか? お兄さんは航空自衛隊のパイロットなんじゃ――」
「……オレの翼は一度折れちまったからさ。時々飛ぶのが怖くなるんだ」
 小鳥が問いかけると青年は唇の端に自嘲にも似た笑みを刻んで答えた。
「心の中に翼を持っていれば、誰だって空を飛べますよ」
 まさに不思議だった。出会って間もない見ず知らずの青年を励ますために、小鳥は自分だけのものだと決めていた言葉を自然と口にしていたのだ。その言葉は大好きな父親が常日頃から口癖にしているもので、小鳥にとっては神の御言葉よりも神聖で尊いものだった。空から地上に落とされていた視線が、小鳥のほうにゆっくりと向けられる。持ち上がった青年の手が双眼を覆っているサングラスを外す。青みを帯びる灰色に染まった切れ長の双眸と虹彩は、始動する直前のエンジンのように微動していた。理由は分からないが青年は心に大きな衝撃を受けたのだ。
「お前、まさか――」
「小鳥!」
 誰かに名前を呼ばれた小鳥は半身を捻って振り向いた。慌てている様子の女性が人混みを掻き分けながら、機動装甲車の如き勢いでこちらのほうに突き進んで来るのが見えた。先程まで小鳥が身を案じていた母親の佐緒里だ。佐緒里の視線が小鳥から青年に移る。陽だまりのような柔らかい微笑みを浮かべた佐緒里が青年に会釈した。青年はぎこちない会釈を返すと素早く踵を返し、二人から逃げるように人混みの中へと消えていったのだった。
「もう! いくら待っても戻って来ないから、心配したんだからね!」
「ごめんなさいね。道に迷っちゃったんだけれど、親切でイケメンのお兄さんにここまで連れて来てもらったの。ちゃんと戻って来たし、飲み物も買ってきたから許してちょうだい」
 売店のビニール袋を掲げた佐緒里は無邪気に微笑んだ。
「サクラ、凄く綺麗だったわ。……まるで小鳥の夢を応援しているみたいね」
 サクラを描き終えた5・6番機が次の課目を実施するべく編隊から離脱した。その二機を目で追いかけながら佐緒里はどことなく寂しげな口調で呟く。いつの間にか無邪気な微笑みは消えており、消えた微笑みの代わりに、見知らぬ砂浜に打ち上げられた深海魚のような孤独感がその横顔に湛えられていた。小鳥も佐緒里の視線を追いかける。背面姿勢になった5・6番機が会場正面から進入してくるところだった。
 背面姿勢を維持したままの二機は旋回を開始すると、激突するかしないかの間隔で交差した。すれ違った二機はそれぞれ滑走路上で急上昇に移り、横転しながら約1500メートルまで翔け上がっていく。そして間髪入れずに急降下に転じた二機は再び会場正面に戻ってきた。高度100メートル、背面飛行で二機は鋭く交差した。5番機と交差した6番機が小鳥の頭上を翔け抜けていく。6番機が頭上を飛んでいく瞬間、小鳥はオポージングソロを担当するドルフィンライダーが、自分に向けて手を振ったような気がした。だがそれは気のせいではないだろう。なぜならば小鳥の父親――夕城荒鷹3等空佐は、ブルーインパルスの6番機パイロットを務めているのだから。
「母さん、父さんが手を振っていたよ。一緒に空を飛ぼう、あの空で待ってるって」
「……馬鹿な人。どうして地上で言えないのかしら。それにしても親子揃って空に続く道を選ぶなんて、血は争えないということなのね」
 春の青天を仰ぐ佐緒里の声と横顔は暗い憂いを帯びていた。小鳥が自分の手の届かない場所に行ってしまい、そして二度と帰ってこないのではないか――そんな不安を胸に覚えているかのようだ。佐緒里が胸に不安を覚えるのも分かる。それは今から3ヶ月前のことだ。北陸地方の基地に陣する戦闘機部隊のパイロットが、飛行訓練中に機体の操縦を誤り、墜落死してしまうという痛ましい事故が起きた。きっとその事故が佐緒里の不安を増幅させているのだろう。佐緒里は鞄を開けて小さな袋を取り出すとそれを小鳥に手渡した。小鳥が受け取ったのは、桜色の布地に「安全祈願」の文字が刺繍された手作りのお守り袋だった。
「これは……?」
「それは私と父さんの思いが――貴女がもっと空と仲良くなれますようにって、思いが込められたお守りよ。いつでも帰って来なさい。私はずっと貴女を待っているわ」
「……うん。私も父さんもちゃんと地上に戻ってくるから。だから心配しないで」
 空を仰ぐ佐緒里を見上げ、小鳥は約束の言葉を紡ぐ。
 永遠の彼方まで続く青空を、彼らと同じ白と青の翼で飛びたい。
 風に乗り、自由に空を舞う、空気の妖精のように。
 空を見上げて彼らの名前を呼ぶたびに、小鳥の胸には果てしない憧れが湧き上がる。
 ブルーインパルス――それが小鳥を空へと導いてくれる魔法の言葉だ。
 小鳥が交わした約束の言葉は彼女の想いと共に清廉な風に乗り、六機のT‐4が描くスモークの航跡を追いかけるように、澄みきった青空の高みへと昇っていった。