それから数日後、晴香宛てに広報室室長からメールが届いた。仕事ではなくプライベートで話がしたいという内容の文面で、指定された待ち合わせの場所は、偶然にも晴香が馴染みにしている老舗のカフェだった。先に到着した晴香は些か緊張しながら室長が来るのを待つ。しばらくして細身のダークスーツを着た黒髪の男性が来店した。晴香を認めた彼――広報室室長は柔らかな微笑みを浮かべてこちらにやって来ると綺麗にお辞儀した。
「お忙しいなかありがとうございます。どうしても伊波さんにお話ししておきたいことがありましたので――」
 晴香の正面に着席した室長は、注文を訊きにきた店員にカフェオレを頼んだ。晴香はいつも飲んでいるキリマンコーヒーを注文する。
「Blue5月号、拝読させていただきました。ブルーインパルスの魅力が余すところなく書かれた、真っ直ぐで丁寧な記事に心から感動しましたよ。広報室室長ではなく一人の父親として、改めて貴女にお礼を言わせてください」
「父親として……ですか?」
「ええ、貴女が取材した藍澤蒼真は私の息子なんですよ」
「えええっ!?」
「藍澤享。正真正銘の藍澤蒼真の父です」
 そういえば姿ではなく、その身に纏う雰囲気が似ていたような気がする。だが顔立ちは蒼真のほうが鋭角的だろう。そんなふうに思いながら彼――藍澤享広報室室長の顔を見たらにっこりと微笑み返された。
「息子は――蒼真は1月の末に生まれましてね、生まれる前の晩は東京でかなりのドカ雪が降ったんですよ。でもあいつが生まれた日は快晴で、真っ青な空が広がっていた。それで『青い空まで真っ直ぐに』という願いを込めて、私が蒼真と名付けたんです」
 届けられたカフェオレを一口飲んだ藍澤室長は言葉を継ぐ。
「先日、息子が久しぶりに家に帰って来ましてね、彼から全てを聞きました。誰にも言えずに一人で苦しんでいたことに気づけなかったなんて……私は父親失格です。ですが伊波さんの真っ直ぐな思いが蒼真の心を救ってくれた、再び空を飛ぶ勇気を与えてくれた。感謝してもしきれないくらいですよ。本当に――ありがとうございました」
 席から立ち上がった藍澤享室長は、晴香に向けて深く深く頭を下げた。
「そっ――そんな! 私も蒼真さんに、大切なことを――『夢の重さ』から逃げてはいけないことを教えてもらいました。どんなに苦しくて辛くても、『夢の場所』に立ち続ける強さと勇気をもらいました。感謝したいのは私のほうです! ありがとうございました!」
 晴香も席を立ち、ふわりと波打つ明るい栗色の髪を揺らして頭を下げる。年齢も異なる二人の男女が互いに頭を下げ続ける様子は、他の客から見ればきっと奇妙な光景に映っているに違いない。



 休暇を終えた蒼真は航空自衛隊入間基地からC‐1輸送機で松島基地に戻った。帰ってからはすぐにブルーの練成訓練だ。救命装備室でパイロットスーツの上に救命装具一式を身に着けた蒼真は、逆さまではない5のナンバーがペイントされたヘルメットを、群青の双眸で静かに見つめていた。不意に肩を叩かれる。後ろには蒼真と同じく救命装具一式を装備した、パイロットスーツ姿の南雲篤哉2等空佐が立っていた。
「いい休暇だったようだね、COSMO」
「――はい」
「君に期待しているのは、お父さんだけじゃないぞ」
「胸に留めます。南雲隊長、今まで迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「僕たちは迷惑だとは思っていない。本当の意味で君がブルーインパルスの一員になれたことを喜ばしく思うよ」
「……はい」
 南雲2佐と連れ立ってエプロンに向かうと青と白の機体――T‐4が蒼真を待っていた。四日ぶりに見た「ドルフィン」ことT‐4は、流線形のフォルムや翼など、その機体の全てが相変わらず美しかった。F‐86ノースアメリカンセイバーやT‐2の歴代ブルー採用機に比べると見た目も軽やかに見えるが、コクピットに座るそのポジションの重みは連綿と受け継がれた心のまま変わることはない。
「よう、宇宙人。少しは親孝行してきたか?」
 5番機の前で待機しているORパイロットの土門3佐が声をかけてきた。
「土門3佐。もう『宇宙人』なんて呼ばせませんよ」
「生意気に言うようになったじゃねえか。さては、お前……できたな?」
「は?」
「コレだよ」
 土門3佐は太い小指を立てるとチェシャ猫のように笑った。
「まあ、その辺の話はあとでゆっくり聞かせろ」
 5番機の外部点検を終えた土門3佐が前席の操縦席に乗り込んだ。梯子を上り蒼真は5番機の後席に搭乗する。メタリックブルーのヘルメットを被ってバイザーを下ろすと、気持ちが凜と引き締まるのを感じた。
 ドルフィンライダーとして飛べるのはたった3年だ。
 でも――たくさんの夢の重みと青い夢を背負っているぶん、その3年は決して軽くはないだろう。だが蒼真は決して夢の場所から逃げはしない。絶対にTRパイロットからORパイロットになって、自らの力とこの5番目の青い翼で、あの青空まで駆け上がってみせる。
 双発のF3‐IHI‐30ターボファンエンジンが大空の賛歌を歌う。
 ブルーインパルス05、クリアード・フォー・テイクオフ。
 5月の淡い青空が、蒼真の視界いっぱいに広がった。