「この人、凄く素敵ですねぇ」
「この人って――どの人?」
 白皙の頬を淡い薔薇色に染めた編集アシスタントの佐々倉花菜は、晴香のデスクの上に置いてある小冊子の一点を指差した。それは参考になるかと思い南雲2佐から貰った展示飛行のパンフレットで、今はドルフィンライダーたちの顔写真が掲載されているページが開かれている。花菜の白く細い指は一人のドルフィンライダーを――1番機パイロットでフライトリーダーの南雲篤哉2等空佐を指していた。
「伊波さん、南雲さんってどんな人なんですか?」
「そうね……とても礼儀正しくて優しい人よ。自衛官というよりかは、大学の先生って感じだったわ」
「恋人か奥さんはいるんですか?」
「そこまでは訊いていないから分からないわ。もしかして――南雲2佐を好きになったの? 花菜ちゃんよりも一回りは年上じゃない」
「伊波さん! 恋に年の差なんて関係ありませんよ!」
 拳を握り締めて周囲の目を気にせずに高らかに吠えた花菜は、財布を持つと飲み物を買いに編集部を出て行った。晴香は苦笑しながら記事の編集に戻る。それからしばらくすると、血相を変えた花菜が編集部オフィスに駆け込んできた。
「伊波さん! 大変です! 来客です! イケメンが来ています!」
「――え?」
 晴香は眉を顰めた。巣を刺激された蜂の如く花菜が大騒ぎする理由が分からない。ここはファッション雑誌の編集部なのだから稀にメンズのファッションモデルが訪ねて来る。なかには売り出し前のアイドルの卵である男の子も営業で来たりするので、「イケメン」の来訪は特に珍しい現象ではないのだ。
「花菜ちゃん、落ち着いて話してくれないと分からないわ」
「えっと、ほら! 伊波さんがこの前取材に行った! 空自の人ですよ!」
「もしかして――」
 急いで席から立ち上がった晴香は編集部の入り口に向かった。廊下の自販機の前に長身痩躯の青年は直立したまま佇んでいる。黒髪と群青の瞳、そしてあの端正な顔立ちは忘れるはずがない。青年の名前は藍澤蒼真2等空尉。航空自衛隊松島基地第4航空団第11飛行隊所属、簡単に言うとブルーインパルスのパイロット――ドルフィンライダーだ。それがどうしてここに? しかも松島にいるはずの彼が。そこまで考えて晴香は彼が東京出身だったことを思い出した。
「昨日、休暇で松島から東京に帰ってきたので……」
 晴香の姿を認めた蒼真はどことなく決まり悪そうに口を開いた。松島基地で他の隊員や整備員たちにてきぱきと冷静な口調で話していた彼と明らかに様子が違っている。慣れない場所と雰囲気に圧倒されて緊張しているのかもしれない。
「わざわざすみません。それで……今日はどのようなご用件で来たんですか?」
「今から時間はありますか?」
「え? ああ、はい。そういえばもうすぐお昼ですね。早めに出ちゃおうかしら。よろしければ蒼真さんもご一緒にいかがですか?」
 晴香が尋ねてみると蒼真はこくりと首肯した。
 晴香はふと思う。彼はこんなにもはにかむ人物だっただろうか? 確かに些か素っ気ない印象は感じたものの、松島基地ではもう少し大人びて見えた。今日は彼が着ている細身のシルエットの黒いパーカーのデザインのせいもあるのだろう。なんだか年相応な――いや、まだ大学生のような感じだった。
「私、美味しいコーヒーの店を知っているんです。そこはランチメニューもありますから、そこに行きましょうか」
 蒼真は再び首肯した。晴香は慌てて自分のデスクに戻って鏡を一瞥してから、鞄と朝一番で渡されたファイルを持つとまた入口に向かった。


 編集部のあるオフィスビルを出るとそこはすぐ神田の古本屋街だ。コーヒーが美味しい喫茶店は古本屋街の中にある。4月も終わりに近づいた今日は街中を吹き抜ける風も爽やかで陽射しは柔らかく暖かい。晴香は隣を歩く蒼真をそっと仰ぎ見た。180センチはありそうな長身の引き締まった細身の姿態。完璧に整った端正な顔。確かに女の子たちが嬌声を上げて騒ぎたくなるのも納得がいく。
 それに彼には独特の雰囲気があるように思える。例えば広報室室長は年齢を感じさせない整った顔立ちの人だが、あまり他人にプレッシャーを与えるタイプではない。気がつくとすぐ側で優しく微笑んでいるようなそんな感じだ。
 だが蒼真は遠く彼方から歩いて来るだけで、それが彼だと分かるような独特の存在感がある。だから先程オフィスの廊下にいる蒼真を見た時は――心臓の活動が停止するかと思ってしまった。硝子製のドアを開放して老舗の喫茶店に入ると、晴香の後に続いた蒼真は珍しそうに店内を見回した。
「……変わった店ですね」
「確かにインテリアがちょっとアフリカンですよね。でもこの店は古いんですよ」
 店員が注文を訊きにきたので、晴香はいつも頼んでいるキリマンコーヒーとハムサンドウィッチを注文する。どうやら蒼真はお腹が空いていないらしく、彼はカフェオレだけを雨粒のように小さな声で注文した。そして注文を終えた蒼真は晴香のほうに向き直ると、ポケットから白銀に光る物を取り出してテーブルの上に置いた。それは二頭のイルカに包みこまれたアクアマリンのペンダントだった。
「私――もしかして基地に落としていたんですか!?」
「5番機の胴体の下に落ちていたのを、点検していた大和2曹が見つけてくれたそうです」
「ありがとうございます! これはお祖母ちゃんの大切な形見で――もう戻らないと諦めてました」
 ふと正面に座る蒼真と視線が絡み合う。今――彼は笑っていた? なぜだか急に左右の頬が熱くなり、俯いたついでに晴香は持っていたファイルに気がついた。
「あっ……あの……今日の朝一番にゲラが完成したんです。まだまだ知らないことが多いので、未熟な記事で申し訳ないんですが見ていただけますか?」
「自分の……ですか?」
「ええ、そうです」
 ファイルを受け取った蒼真は中に挟まれていたゲラを取り出すと、群青の視線をその表面に落とした。彼の伏せがちな両目の縁に並んだ長い睫毛がよく見える。それにしてもこんなに緊張したのは、自分が初めて書いた記事を編集長にチェックされた以来かもしれない。やや置いて蒼真は造形の整った口を開いた。
「……最初にこの取材の話を聞いた時は、こんなにきちんと書いてもらえるとは思っていませんでした」
「そうですか? やっぱり対象は20代から30代の女性ですし、随分噛み砕いて書きました――とは言っても私自身が飛行機も航空自衛隊も未知の世界で、パイロットの蒼真さんには物足りないと思いますけれど」
 銀色のトレイを携えた店員が落ち着いた足取りでやってきて、二人が注文したキリマンコーヒーとハムサンドウィッチ、そしてカフェオレをテーブルの上に置くと静かに立ち去った。白い湯気と手を繋いだコーヒーの香りがふわりと立ち昇る。
「いや……いいと思います。『普通の人に分かってもらうことは凄く大切だ』と自分の父は口癖のように言っていました。でもパイロットをやっていると、つい専門馬鹿になりがちだから、こういうふうに外側から書かれるのは違うなって。自分が担当している5番機パイロットは広報活動が中心の第11飛行隊の中でも、外部からの取材や広報を担当するんです」
「飛行機のフォーメーションだけじゃなくてそういう任務もあるんですね」
「はい。後はその日の天候を編隊長に報告する、なんていうのもあります。フライトは天候に左右されますから」
「へぇ……やっぱりブルーインパルスって面白いですね」
 淹れたてのコーヒーを一口飲んで晴香は蒼真を見やる。すると彼は色白の頬を薄い薔薇色に染めて俯いたのだった。


 蒼真は御茶ノ水駅から自宅に帰ると言うので、晴香はそこまで彼を送ることにした。1秒でも長く蒼真の側にいたかった、ブルーインパルスや飛行機など、何でもいいからもう少しだけ蒼真といろんな話をしていたかったからだ。そんなことを考えていると、やや前方を歩いていた蒼真が急に振り向いたので、晴香は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がってしまった。
「明日……会えますか?」
「えっ? 明日って――みどりの日ですよね?」
「貴女は休みじゃないんですか? 伊波晴香さん」
「い、いいえ! 休み、休みですっ!」
 勢いこんで答えた晴香は思わず転びそうになり、眼前に素早く差し出された男性としては細身に感じる腕に支えられた。
「……貴女と歩くのは心臓に凄く悪い。この前も基地の正門前で転びそうになっていましたし」
「す、す、す、すみませんっ!!」
 顔面を真っ赤に爆発させた晴香は慌てて蒼真の腕から離れる。深淵の青い眼差しが静かに晴香を見下ろしていた。
「――明日、新宿御苑の正門前で。時間は後で名刺にあったメアドにメールすればいいですか?」
 瞬間、晴香は世界を駆け抜けていく時間がぴたりと止まったような錯覚に襲われた。
 これは――もしかして。
 晴香は自分でも飲み込みきれない展開に頷くことしかできない。楽器店が建ち並ぶ緩やかな坂道を昇り、明治大学の前を過ぎても晴香の思考は凍りついたままで、まだ何が起こったのか理解できなかった。蒼真はその後はずっと黙ったまま、医科歯科大前の丸ノ内線の入口まで来ると足を止めて振り返り、あの綺麗なお辞儀をして地下鉄の階段を下りていった。


 編集部に戻っても午後の仕事はまるで手につかなかった。表向きは仕事をしていたのだが――昼間に見た藍澤蒼真の仕種や話す言葉を一つ一つ鮮明に思い出してしまうのだ。そこでふと空幕広報室室長のことを思い出した晴香は、ゲラをJPEGデータに変換して稲嶺1尉にメールで送った。すると1時間もしないうちに室長直々に返信メールが届いたのであった。

『伊波晴香様

 ゲラのデータありがとうございます。
 非常にしっかりした良い記事ですね。
 きっと藍澤2尉も喜ぶでしょう。今から雑誌の発売が楽しみです。
 またBleuさんで空自を題材にしたい時はいつでもお声がけください。
 伊波さんの取材なら大歓迎です☆』

 広報室室長の柔らかい笑顔が目の前に浮かぶような文面だ。
 今日見た彼――藍澤蒼真の笑顔とは少し違う。
「蒼真さんもあんなふうに笑うのかしら――」
 思わず呟いたのに気づいた晴香は慌てて周囲を見回してしまった。


 なんとか仕事を終えて自宅に戻り、シャワーを浴びてから会社用のメールアドレスを確認すると、内心待ち望んでいたメールがパソコンに届いていた。高鳴る律動を抑えながら晴香はカーソルを滑らせてクリックする。

『伊波晴香様

 明日の午後2時に新宿御苑正門前で大丈夫でしょうか?
 都合が悪かったら連絡ください。
 あの記事を書いた貴女になら話せる気がします。

 藍澤蒼真』

 話せる気がするとはいったいどういうことだろう? 耳朶まで熱く赤くなっている自分を意識しながらも、落ち着かなければと心の中で何度も繰り返す。少し震える指で文章を打ちこみ晴香は返信した。

『藍澤蒼真様

 明日、指定の時間で大丈夫です。私のスマホのアドレスはこちらです。
 何かありましたらご連絡ください。

 伊波晴香』



 「東京の自宅に戻りなさい」と南雲篤哉2等空佐から優しく命令された蒼真は、C‐1輸送機に搭乗して宮城県から東京都に帰還した。とは言われてもやはり両親が待つ自宅には帰りづらく、結局都内のマンションのほうに行ってしまった。熱いシャワーで旅の疲れを流してベッドに寝転ぶ。ふと枕元に置いたアクアマリンのペンダントに二対の視線が吸い寄せられた。
 微笑むと片方の頬にくっきりと笑窪が浮かぶ、伊波晴香の笑顔が脳裡に浮かんだ。
 相手が誰であろうと――この前の取材では人間ではない5番機にまで全開の笑顔だった。しかも「私は貴方を尊敬しています。だからいい記事が書けるよう頑張ります!」なんて恥ずかしい台詞を真剣な表情で何の裏もなく言うのだ。
 ――あれでは言葉の裏を探りようがない。
 蒼真はゆっくりと起き上がると、ペンダントを握ってベッドから下りた。


 名刺の住所を頼りに赴いたソレイユ出版社編集部の入り口で、偶然通りかかった女性社員に伊波晴香を呼び出してもらった。何人かの女性がファイルや書類を持って通り過ぎていく。考えてみたら高校を卒業してからは航空学校に入り、そして基地に赴任でこういう「オフィス」という場所にはまるで馴染みがなかった。
 女性向けファッション雑誌の編集部だから当たり前なのかもしれないが、これだけ女性がいる職場というのも蒼真には初めてだった。通り過ぎていく女性たちの視線があまりにもこちらに向くので、パーカーとダメージジーンズという自分の格好が、こういうきちんとした場所に来るにはラフすぎていたのでは? と些か気になってしまう。
「わざわざすみません。それで……今日はどのようなご用件で来たんですか?」
 伊波晴香の甘く柔らかいソプラノの声と真っ直ぐな眼差しにやっと少し安堵できた。


「ありがとうございます! これはお祖母ちゃんの大切な形見で――もう戻らないと諦めてました」
 深く透き通ったアクアマリンが嵌め込まれた銀色のペンダントを受け取った彼女は、心の底から本当に嬉しそうに笑った。何も探らずに見ることのできる純粋な笑顔なんて久しぶりだ。思わず口元が緩んだ気がしたので蒼真は慌てて俯く。すると彼女は一冊のファイルを取り出してこう言った。
「今日の朝一番にゲラが完成したんです。まだまだ知らないことが多いので、未熟な記事で申し訳ないんですが見ていただけますか?」
「自分の……ですか?」
「ええ、そうです」
 水色の表紙を捲ると見開きと思しき写真入りのカラーページの記事が一枚入っていた。この前チェックしたはずなのに、いつの間にこんな写真を撮ったのだろうと思うような写真もあった。記事はまず初めはブルーインパルスの簡単な説明から始まり、パイロットの職務からドルフィンキーパーと呼ばれる整備員の説明にまで及んでいる。
 丁寧な記事だと思う。本当にどこまでも真っ直ぐで、彼女の気質そのままらしい記事だった。それに知ったばかりの世界の新鮮さと面白さが余すことなく全面に出ている。そして記事の終わりに、松島基地にいた黒猫の兄弟たちの写真が小さく掲載されているのを見て、何だか今までやけに自分が斜に構えて世界を見ていたのではないだろうか、ということに蒼真は気づかされた。
 もう、ここで終わりにするべきなのかもしれない。
 初めてそんなふうに思えた。
 ブルーのパイロットでいられるのはたった3年でしかない。
 自分は途中でその青い夢を絶たれた先輩――そしてその道を目指しながらも届かずに終わった人たちの分まで今進める道を必死で進み、今飛べる空を白い翼で必死に飛ぶべきなのだろう。
 無駄にしている時間など1秒もないのだ。
 自分自身のためにも。
 そう決意して顔を上げたら、目の前の伊波晴香がきょとんとした面持ちでこちらを見ていた。


 彼女との待ち合わせは午後2時だった。昨日の格好はラフすぎたので、今日はきちんとした服装で行くことにした。白のワイシャツの上に黒のベストを羽織り、ベストと同色のスラックスを両足に穿く。最後に鏡で身だしなみを整えてから革靴の紐を結び、蒼真はマンションから出て駅に向かった。
 JR新宿駅の東口の地下改札から出ると、地下通路を真っ直ぐに進んで伊勢丹方向に向かう。休日の新宿で地上を歩くのは、松島基地の広さに慣れた自分には自殺行為に近い。そもそも新宿御苑を選んだのだって、久しぶりの東京の思わぬ空気の不味さに昨日一日で辟易してしまったからだ。新宿通りと明治通りが交差する大きな交差点から地上に上がり、世界堂のビルを右に曲がると鬱蒼と生い茂る木々が見えた。
 新宿御苑はイギリス風景式庭園・フランス式整形庭園・日本庭園を巧みに組み合わせた庭園で、日本における近代西洋庭園の名園だ。広々とした芝生にユリノキやプラタナスなどの巨樹が点在するイギリス風景式庭園、薔薇花壇を中心に左右にプラタナスの並木を配したフランス式整形庭園、回遊式の情緒あふれる日本庭園など、さまざまな様式の特色が溢れる庭園が楽しめる場所となっている。
 新宿御苑の正門前、たくさんの家族連れや観光客に混じって伊波晴香は立っていた。若草色に染色された薄手のニットトレーナーと白いチノパン姿だ。初夏の草原のように爽やかな色の組み合わせが彼女にはよく似合っている。
「やっぱりパイロットスーツでないとイメージが違いますね、蒼真さん」
 そう言うと伊波晴香は満面の微笑みを浮かべる。また頬に笑窪が刻まれた。


 広大な芝生を抜けて蒼真は彼女と玉藻池の側まで歩いた。ここは江戸時代の内藤家の屋敷跡の面影を留める庭園で現在の大木戸休憩所には御殿が建てられ、池、谷、築山、谷をしつらえた景勝地「玉川園」が造られたといわれている。御苑で暮らす水鳥たちも羽を休めている、凪いだ海のように穏やかな空気に包まれた庭園だった。
 彼女の家は東高円寺にあるらしく、ここには丸ノ内線一本で来ることができたという。取材の時もそう思ったが、あまりこちらを気遣ってあれこれ訊いてきたりすることのない彼女との会話は、呼吸が掴みやすくて蒼真は気が楽だった。時折――あの大きな瞳が真っ直ぐこちらに向けられるのは、何だか少し落ち着かない気持ちになるものの。会話を交わしているうちに、彼女の両親も蒼真と同じく共働きだったということを知った。
「私……落ちこぼれなんです」
「落ちこぼれ――? とてもそうは思えませんが」
 声のトーンを低くして彼女は玉藻池の対岸を見つめた。人々のざわめきに混じり、首都圏では珍しい野鳥の歌声が聞こえる。
「私は三人兄妹の末っ子なんです。音楽一家で……小さな頃から演奏旅行について回っていろいろな国に行きました」
「それで帰国子女ですか」
「そんな凄いものじゃないんですけれど、行く先に国境なんかないから自然に覚えたと言うか……」
「凄いと思いますけれど」
「父も母も、兄も姉も演奏家として身を立てています。でも――私だけ音楽の才能がなかったの。だから誰からもあまり褒められたこともなくて……お祖母ちゃんだけが私に優しくしてくれました」
 彼女は華奢な肩をすくめて小さく笑った。
「それでも……貴女だって何かしらの楽器を弾くんでしょう?」
「ええ、ピアノを弾いていました。これだけは手離せなくて……帰国してからも買ってしまいました」
「……聴いてみたいですね」
「え? さっ……才能がないって言ったでしょ。下手ですよ」
「才能があるかないかなんて、自分には関係ないです」
 その細く白い指先は、どんな旋律を奏でるのだろうか?
 そんな興味があった。
 きっと彼女の性格そのままの、率直で澄んだ音色がするのだろう。
 肩を並べてゆっくりと玉藻池の回りを歩いて行くと、咲き始めの藤の花が静かに揺れる四阿に着いた。
 ――彼女に聞いてほしい話があった。
 部隊の隊員にも、家族にも、今まで誰にも話せなかった。
 それはあまりにも複雑に絡み合っていて、
 自分が苦しいと訴えるにはあまりにも我儘な気がして、
 だから今までずっと胸の奥に押し込めていた。
 彼女がベンチに腰掛けるのを見て、蒼真は話す覚悟を決めた。


「本当は……自分の前にブルーのパイロットの内示が出ていた先輩がいました」
「同じ部隊の方だったんですよね?」
「もしかして、広報室の室長から聞きました?」
「その方は事故で亡くなられたと――」
 彼女は敢えてなのか蒼真から二対の視線を逸らしていて、風の妖精の悪戯で浮かんでは消えていく池の水面をじっと見つめていた。彼女の視線を追いかけて蒼真も池の水面を見つめる。群青の視界の前を水鳥が優雅に泳いでいった。
「他の人が知らないことがあるんです。……あの日、本当は、自分が――俺がアラート任務に就くはずだったんだ」
「えっ――?」
「でも俺は風邪をひいてこじらせてしまって、高熱で動けなくなった俺の代わりに先輩がアラート任務に就くことになったんだ。そしてスクランブルを終えて小松基地に帰投する途中で、先輩が乗るF‐15イーグルJは日本海に墜落してしまった。墜落の原因は空間識失調――バーディゴだった。バーディゴは飛行中に平衡感覚が失われる現象で、上下左右がまったく分からなくなり、そのために自分の姿勢が確認できなくなる。何よりも恐ろしいのはどんなに計器が異常を伝えても、それを信じられないようになっていることで、自分が正しい、機械が故障している。そう思っているうちに、手遅れになってしまうのだと――」
「――それで事故に遭われたんですね」
 爽やかな風が踊るたびに、咲き始めた籐の花の甘い香りが頬を撫でていく。
 もう取り戻すことのできない「人」の笑顔、温もり、時間、そんなものが蒼真の脳裡に次々と浮かぶ。あの日のあの時間に戻れたら、自分は――ブルーインパルスのパイロットになる、あの青空まで駆け上がる、幼い頃から約束のように決めていた青い夢を手放すことも辞さないはずだ。
 それなのに――。
「……苦しかったでしょうね」
「いや……両親や先輩に比べたらどうってことない。先輩はもうそれを口にすることもできないから」
「蒼真さんがどんなにブルーインパルスが好きか、それはコクピットに座った時の表情を見ればすぐに分かります。亡くなられた先輩も、その『夢の重さ』は変わらないんじゃないでしょうか?」
 夢の重さ。
 皆が皆、担うことを夢見ながら、必ずしも担えるとは限らない重み。
「……なんか、俺って、物凄く甘い奴なのかな」
「そ、そんなことはないです! 蒼真さんはその重さから逃げてはいないじゃないですか。苦しくても、ちゃんと立っているじゃないですか。その場所に立てるのは、夢の重さから逃げなかった人だけです。――私みたいに放り出していないもの」
「運が良かったって言う奴もいる」
「その『運』すら担えない人もいますから」
 彼女はこちらを見上げると、本当に素直で真っ直ぐで純粋な微笑みを見せた。群青の視界の片隅で花影が僅かに揺れる。そして今まで言いたくても言えなかった、短い言葉が蒼真の口から零れ落ちた。
「……ありがとう」


 その後、新宿門入口横のインフォメーションセンター内にあるカフェテリア「はなのき」で一緒にお茶を飲み、彼女とは御苑駅で別れた。彼女はそのまま新宿御苑駅から丸ノ内線で自宅マンションに帰るらしい。
「なんだか久しぶりにピアノを弾きたくなりました」
 幼さが残る可憐な顔に満面の笑顔を浮かべた彼女は鍵盤を弾く仕草をした。そういう全開の笑顔はめったやたらに男に向けていいものじゃないと思うのだが。
「伊波さんの家は広いの?」
「ええ、ワンルームですけれど、15畳もあるので広いですよ。元は美大の教授のアトリエだったんです」
「じゃあ、俺が行っても寝る場所くらいあるかな」
「えー、でもベッドは一つ……って、ええっ!?」
 驚くタイミングが遅すぎる。そんな彼女はすぐに容易く捕まえられるだろう。自分にも他の男にも。不意にアメリカ空軍が所有する、とあるステルス戦闘機のキャッチフレーズが蒼真の脳裡に浮かんだ。
 First Look, First Shot, First Kill
 敵よりも先に発見して、先に撃ち、先に撃墜する。
 ターゲット・ロックオン、俺は絶対に逃がさないし外さない。
 素早く屈んだ蒼真は、笑窪が出ていた頬に口唇で優しく触れた。
「――次の休暇は、真っ直ぐ伊波さんの所に行くから」
 紅葉のように耳朶まで真っ赤に色づいた彼女はこちらをじっと見ている。少しの間、彼女は同じ姿勢で硬直したままだったが、大きく呼吸を吐き出すとこう言った。
「わっ、私もブルーインパルスの展示飛行見に行きます! 二つ年下の子が頑張ってると思えば、し、仕事の活力になりますしっ!」
「……もしかして俺より年上ですか?」
「6月で27歳になります」
 蒼真は思わず失笑した。
 まったく先にロックオンされたのはどちらだろう。
 穏やかな黄昏に染まっていく空の色を瞼の裏に浮かべながら、切れ長の眦に涙を滲ませて、蒼真は心の底から本当に笑っていた。