「藍澤2尉、ポーズはこの辺りでお願いします」
「――はい」
今日の松島基地の天気は爽快な青色が広がる快晴で、冬から春に変わる不安定な季節としては奇跡的な天候だ。桜の花とブルーインパルスを一緒に撮影したいなどと、あまり現実的ではない申し出があり、それを受けたのはなんと航空幕僚監部広報室だった。しかも企画の元々がふざけている。「ガテン系のイケメン特集!」などというファッション雑誌の企画で、救急隊員から建築業界まで、中にはこれはガテン系か? と思えるような職種も含め、あらゆる業種から毎月一人2ページ程の写真つきで掲載されていた。
とりあえず一応目を通して見たところ、ページの大半を写真が占領していて文面はプロフィール程度だ。そんな内容のない記事に、こともあろうに航空自衛隊の代表として、やっとブルーインパルスのパイロットになったばかりの自分を売り込むのだという、前代未聞の広報を仕掛けた。南雲篤哉2等空佐から「君が出れば他のお嫁さんが来ないパイロット職にも希望が見えるかもしれない」と声をかけられなければ、自分は絶対に首を縦には振らなかっただろう。
「あの……藍澤2尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
さっきから我慢して取材に付き合っているが、本当に頭の緩い女だ。頭の中に花畑が広がっているに違いない。それに自分たち自衛隊をなんだと思っているのだろうか。万一の時は自らの命を捧げてでも国民を守る義務がある。それは殉職する可能性もあること。そんな覚悟を背負って生きているのだ。笑顔なんか――できるわけがない。
「私のところは女性誌なので……できるだけ笑顔でお願いします」
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
やや冷たく言うと彼女は嘆息した。
「……ほんと、室長の仰っていたとおりですね」
「彼は――何て言ったんですか?」
「飛行機馬鹿でクソ真面目だと」
「――っ!」
「あ! 今の表情いいです!」
パチリとシャッターを切る音がする。まったく失礼極まりない奴だ! 募る苛立ちを理性の檻に閉じ込めて、蒼真は冷たい声音で言葉を放った。
「だいたいファッション雑誌って言ったら、普通は専属のカメラマンがいるんじゃないんですか?」
「ええ、のちほど幾つか専属のカメラマンが撮影させていただきます。でも企画自体がなるべくイケメンの自然な表情を、という企画なので」
「……迷惑な企画ですね」
「それでも普段は近寄りがたい自衛隊に良い印象を持ってもらえますよ。先日輸送機の事故があったばかりで、いろいろな広報の企画が流れたんじゃないでしょうか? 藍澤蒼真2尉は20代でブルーインパルスのパイロットになった方でマスコミも注目しています。不謹慎かもしれないですけれど、今のような時期でなかったら、私たちのような弱小雑誌じゃ取材できなかったかも」
「あの雑誌記者、凄い可愛い子だったじゃないか。ラッキーだったな、『宇宙人』」
取材を終えて彼女を矢本駅まで送り、飛行班の居室に戻って細かい事務作業をしていると、5番機のORパイロットである土門3等空佐が野太い声で話しかけてきた。190センチを超える頑健な体躯。坊主頭と極太の眉毛の外貌はまるで生きた仁王像のようだ。ちなみに「宇宙人」というのは蒼真の渾名である。無口で無表情、何を考えているのか分からないからこのような渾名で呼ばれることがあるのだ。今はこんな言葉でもちくりと心に突き刺さる有り様だが、決して顔色には出すまいと内心必死だ。それゆえに――つい表情に抑揚がなくなる。
第11飛行隊ブルーインパルスは極度に協調性――いわゆるチームワークを要求されるため、休暇以外は全員が同じ隊員宿舎で生活をする。だがこの松島基地第4航空団第11飛行隊ブルーインパルスに異動になってから、覚悟の上だったそんな基本的なことも、蒼真は息苦しく感じることが多くなった。
ブルーインパルスのパイロットに――ドルフィンライダーになる。
それは間違いなく確実に、あの空と翼を見た時から思い描いてきた自分の夢だった。でも望まぬ形で叶ったその夢は、手に届かないそれこそ「夢」のままのほうがいっそ楽だったと思うようになっていた。
『藍澤、お前もすぐに来いよ!』
明朗快活で面倒見のいい優しい先輩だった。あの日アラート任務を代わってもらわなければ、事故に遭ったのは自分だったかもしれない。青い夢を絶たれたのは自分だったかもしれない。ましてやその先輩の代わりにブルーインパルスに抜擢されたのが自分だなんて――。
『他人の不幸を踏み台にしてドルフィンライダーになったパイロット』
いつの間にかそんな不名誉な称号が与えられ、あたかも黒い衣を纏う死神のように蒼真につきまとっていたのだった。
*
それから1週間後、また例のファッション雑誌「Bleu」の取材依頼が広報室を経由して第11飛行隊ブルーインパルスに届けられた。5番機の整備点検を担当する整備員の大和大輔2等空曹がにやけながら蒼真の背中を小突いてきた。
「きちんとメアドなりラインのIDなり訊いておけよ。ことに飛行隊は女子が少ないんだからチャンスは逃すな」
「――頭の中が花畑のようでしたけれど」
「お前なぁ……」
大和2曹が嘆息を漏らす。すると格納庫の入り口のほうから伊波晴香と名乗ったあの雑誌記者が、男性カメラマンを後ろに連れてやって来た。さっそく元気に挨拶をするのかと思いきや、直立する蒼真の前を通り過ぎた伊波晴香は5番機の翼の前に立った。
「先週来た時にも思ったんですけれども……やっぱり綺麗な飛行機ですよね!」
「綺麗に撮ってやってください。今日はことさら念入りに整備しましたから」
大和2曹は伊波晴香の横に立つと自慢げに胸を張って言った。
「ええ、そのために乗り物類が得意なカメラマンさんにお願いしました」
どうやら撮りにきた被写体は自分ではないようで、いつの間にかブルーインパルスが主役になっている。だがそのほうが幾分気が楽かもしれない。そう割り切った蒼真は晴香に視線を当てた。七分袖の白いフリルシャツと黒い布地にピンストライプ模様が織り込まれたクロップドパンツ。ふわりとした明るい栗色のショートヘアは、どことなくパリジェンヌのような異国めいた雰囲気を醸し出している。そういえば五ヶ国語を流暢に操る帰国子女だと広報室室長が言っていた。
「すみませんでした。今日はお天気が微妙ですし、できたらこの格納庫でT‐4と一緒に撮影させてください。基地の渉外室にも南雲隊長にもお話は通してあります。もちろん広報室にもお話ししました。少し記事の趣向をいつものものと変えようと思います」
可憐な笑顔の花を咲かせた伊波晴香は、蒼真ではなく大和2曹のほうを振り向いた。
「もしよろしければですが……大和2曹もご一緒にどうですか?」
「えっ? 自分もですか?」
「はい。ブルーのパイロットと整備員――ドルフィンキーパーは、任期の間は機体を変更することはなくその結びつきも強いと聞きました。できるだけ勤務中の自然な姿を撮影したいので、担当の整備員さんもご一緒のほうがいいかと思うんです」
「何だかカレーライスの福神漬けみたいですね。引き立て役って感じですか?」
「まさか! もしもこれがうまくいったら、次は整備員さんで特集を組もうかと思ってるぐらいです」
お世辞でもなさそうな勢いで彼女は笑いながら大和2曹に言葉を返した。頭の中が春の花畑のわりに少しはブルーインパルスに関する知識を得たようだ。この前は正門前の微細な亀裂に躓き転びかけたくせに。声に出さずに嫌味を言っていると、伊波晴香が突然こちらを振り向き、硝子玉を思わせる大きな双眸で蒼真を真っ直ぐに見てきた。
「藍澤蒼真2等空尉、今日は一日よろしくお願いします!」
なぜだか心臓の律動が高鳴ったように感じたが、それは気のせいだと蒼真は強く言い聞かせたのであった。
爽やかな涼風が吹きぬける春の青天の下、雑誌の撮影は順調に進んでいった。インタビューも畏まってするような類いのものではなく、大和2曹と一緒に任務中の話やオフの時はどう過ごしているかなど自然な運びで進んだ。
「そう言えば……藍澤2尉が異動してきて一週間くらいかな、基地で面白いことがあったんですよ」
蒼真の肩に軽く手を置いた大和2曹は楽しげな口調で話し始めた。
「なにせ20代でブルーインパルスのパイロットに抜擢されたわけだから、その幸運にあやかろうとオフの時間帯に覗きに来る隊員がそれはもう多くて多くて。それで自分が『いっそ握手会でもしたらどうですか?』って南雲隊長に言ってみたんですよ。そうしたらそれを聞きつけた女性隊員が一気に並びましてね」
「やっぱりモテるんですね」
「確かにそうですけれど、あれは幸運にあやかるというよりかは、単に握手したかっただけですよ。それで女性たちが並び始めた途端、黒猫の兄弟がズラズラっと藍澤2尉の足元に来て」
「……あれは何日も前から基地の中をうろついていたから、危ないなと思って何度も外に連れ出してやったんです。それに万が一のことがあったら嫌じゃないですか」
「その後すぐに『黒猫に懐かれたパイロット』って第二の渾名がついたんだよな。確か黒猫は縁起が悪いんですよね」
「ええ、世間一般ではよくそう言われますね。あの……第二の渾名ということは、第一の渾名があるんですか?」
「ああ、それはですね――『宇宙人』です!」
この大馬鹿野郎が! 嘆息した蒼真は思わず天を仰いだ。
「宇宙人……ですか?」
「無表情で無口、何を考えているのか分からない。だから宇宙人って渾名がついたんですよ。それで南雲2佐から『COSMO』のTACネームが与えられたんです」
情けない渾名をつけられた本人を目の前に大和2曹は大笑いした。さすがに伊波晴香は気が引けるようで、ただただ唇の端に薄い苦笑いを浮かべている。ややあって一人爆笑していた大和2曹は、唐突に緩んでいた表情を真面目に引き締めた。その変わり身の早さに蒼真は驚いた。
「こいつのドルフィンライダー抜擢は幸運なんかじゃない。間違いなく実力です。たまたまチャンスが1・2年早まっただけです。藍澤2尉は努力家ですよ。空き時間はほとんど筋力トレーニングに費やしています。俺たち部隊の皆は分かっているんです」
伊波晴香は黙って話を聞いていた。ペンを走らせていた手を止めた彼女は同意するように頷くと桜色の唇をゆっくりと開いた。
「私もそう思います。先日ですが、航空学校の学生がどんな勉強をするのか関心があったので、航空幕僚監部広報室から資料を貰ったんです。たった2年間なのに物凄い量のカリキュラムでした。ましてや戦闘機のパイロットは、身体的・精神的にも要求されるものが多いと聞きました」
「そうなんですよ。戦闘機パイロットは宇宙飛行士と同じような難関ですからね」
確かにその通りだった。ファイターパイロットは音速に近い速度で大空を飛び回りつつ時には一瞬で乱高下する。それに最大で9Gの重力加速度と戦いながら空中戦を行わなければいけない。だからこそファイターパイロットには、研ぎ澄まされた集中力に一瞬の判断力、そして苦痛に耐え抜く強靭な忍耐力が要求されるのだ。
「藍澤蒼真2尉」
伊波晴香はとても真面目な面持ちで蒼真のほうを振り向いた。
「私は貴方を尊敬しています。だからいい記事が書けるよう頑張ります!」
あまりにも真っ直ぐで素直な言葉にどう答えたものか戸惑っていると、大和2曹が渾身の力で背中を叩いてきたので、蒼真は彼女から見えない角度で大和2曹の臀部を抓り返して反撃した。
半日以上の撮影をして伊波晴香は松島基地を立ち去った。彼女が言うにはもう記事の〆切まで時間がないので、帰ったらそのまま東京のオフィスに直行して急いで原稿にするらしい。
「つい調べ始めたら面白くなってしまって……調べものに時間をかけすぎました。写真のチェックですが、明日にはしていただきます。メール便で渉外室宛に送りますのでよろしくお願いします」
「――蒼真で構いません」
慇懃に頭を下げる彼女を見ていたら自然とそんな言葉が口に出た。
「えっ?」
「……階級つきのフルネームで呼ばれるのもなんだか落ち着かないので」
蒼真の像を結ぶ彼女の双眸は、まるでラムネの瓶の中で踊るビー玉のように、透明で純粋で綺麗だった。急に気恥ずかしく感じたので蒼真は僅かに顔を伏せた。
「じっ……じゃあ、蒼真……さん。写真のチェック、お願いしますね」
彼女はもう一度ぺこりとお辞儀をすると、トレンチコートのリボンを翻して立ち去った。その翌日、プリンターで出力された数枚の写真が収められたクリアファイルがメール便で宿舎に届けられた。短い昼休みのなか、歓談を楽しんでいる仲間の目を盗み、ファイルからそっと取り出して写真を見る。なんだか情けない。まるで台所を漁るネズミのような気分だ。
写真に閉じ込められたもう一人の自分は心の底から笑っていた。意外だった。もうこんな表情はできないと思っていたからだ。ここに――ブルーインパルスにいる間は。それに笑う資格などないのだと自分に強く言い聞かせてきた。
「へぇ……いい写真だね。いつもより五割増しで撮ってもらったんじゃないかな?」
唐突に低く甘い声が蒼真の耳朶に落ちてくる。やや驚きながら背後を振り仰ぐと、飛行隊長の南雲篤哉2等空佐が、眦を緩めて微笑みながら蒼真の肩越しに写真を眺めていた。椅子を引いて隣席に座った南雲2佐はポケットから取り出した物を蒼真に差し出した。水色の宝石――アクアマリンが銀色の二頭のイルカに抱き締められたデザインのペンダントだ。
「藍澤君、確か君はGW前に休暇があったはずだ。だから一度東京に帰りなさい。松島に来てから一度も家に帰っていないんだろう? 親不孝してはいけないよ」
「……はい」
例の一件以来、両親にもどんな顔をして会えばいいのか、どんな声で何を話せばいいのか分からず、松島基地に異動になってからは今まで一度も顔を合わせていなかった。
「それとこのペンダントだけれど――伊波記者が着けていた物だと思うんだ。ついさっき大和2曹から渡されたんだよ。東京に帰るついでに君が届けてあげなさい」
「どうして自分が――? 名刺を貰いましたから、彼女の会社に郵送すればいいのではありませんか?」
「高価な物だったらどうするんだい? それに……こんなに素晴らしい写真を撮ってもらったお礼代わりだ。これもブルーの広報活動の一環だと思いなさい。親切かつ丁寧に。これは隊長命令だよ」
隊長命令だと言われれば素直に受け取るしかなかった。
蒼真の眼前で揺れる青く透き通った宝石の色は、純粋だった子供の頃にブルーインパルスが飛ぶのを初めて見た空の色に似ていた。