「うわぁ! これが今回の『イケメン』ですか!? すご〜い! マジでイケメンですね!」
 東京都内に拠点を構えるソレイユ出版社編集部のオフィス。斜め後ろからパソコン画面を覗き込んで嬉々とした声を上げたのは、伊波晴香の2年後輩になる編集アシスタントの女の子――佐々倉花菜だ。ロールケーキのように巻かれた栗色のセミロングの髪。今日は淡い桃色のカーディガンと花柄の白いスカートというガーリーな服装だ。些か天然でおっとりとした性格だが、頼んだ仕事は完璧にこなしてくれるので頼りになる。
「前回のピザ屋のお兄さんはかなり微妙でしたもんねぇ〜。髪型が違ったらイケメンの枠かどうか……」
「そうね、そういう意味でも彼は『本物』だと思うわ」
 佐々倉花菜の言葉に首肯して同意した伊波晴香は、自分のパソコン画面に大きく映し出されているパイロットスーツ姿の男性の隣に書かれたプロフィールをじっと見つめる。
 ――航空自衛隊松島基地第4航空団第11飛行隊所属、藍澤蒼真2等空尉。
 それにしてもこんなに綺麗な男性がいるとは驚きだ。男性にしては色白な肌。無骨なパイロットスーツを着ていても、彼が細身で引き締まった姿態の持ち主だということが分かる。切れ長の眦が綺麗なラインを描いていて、彼が放つ独特の眼差しを感じさせた。硝子細工のように繊細で神経質な青年。それが晴香が覚えた彼の第一印象だ。
 断られる覚悟で仕掛けた取材依頼だったが、晴香がアプローチした先の航空幕僚監部広報室はその日のうちにOKのサインを編集部に返してきた。「大丈夫、多少のスケジュール調整ならいくらでもできますから」と、広報室室長は電話の向こう側からとても優しい口調で晴香に言ってきたのだった。


 できれば花形職と言われている戦闘機パイロットをお願いしたい。新宿区陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を敷地とする防衛省――航空幕僚監部広報室に赴いた晴香の要望を聞いた室長は、「それなら」と言って棚に収められているファイルから一枚の写真を取り出して持ってきた。
「今年、ブルーインパルスのパイロットになったばかりなんですが――とてもお買い得ですよ。『イケメン』なのは太鼓判押せます」
「ブルーインパルスって……航空祭や東京オリンピックの時に飛んだ部隊ですよね」
「そうです。もともと空自の広報としての役割がある部隊です」
「そうなんですか――」
 晴香が勤める出版社ソレイユは女性ファッション雑誌「Bleu」を刊行していて、今は「ガテン系のイケメン特集!」という企画を行っている。それは最初は1ページだけの小さな企画だったが、読者の好評価を得て先月号から見開き2ページに増えたばかりだった。もっとも記事の大半のほとんどが写真であまり内容はないのだが。
「あの……失礼かもしれませんが、24歳って空自パイロットとしては大変お若いですよね?」
 ――藍澤蒼真2等空尉、24歳。
 そう書かれたプロフィールを見ながら、晴香は目の前でにこやかに話す広報室室長を見やった。なんでもファッション誌からの取材依頼は初めてとかで、室長自らが営業に当たっているから驚いた。どうも一般的なイメージから、自衛隊とて国家公務員、それゆえにもっと敷居が高いだろうと予想していたのだ。室長は一瞬考えるような表情をしたが、頷きを繰り返しながらこう言った。
「まあ、異例の早さで抜擢されたといえばそうですが……15年前のブルーインパルスには20代のパイロットが四人いましたからね、そう珍しいことではありませんよ」
 晴香は自分に向けられている柔らかい笑顔を見ながら、今年で定年を迎えるという室長を紹介してくれた報道関係の雑誌記者の言葉を思い出した。「『絵空言でも本当に企画にする男』で有名な人らしいから頼りになると思う。確かに自衛隊にファッション雑誌はなかなかない企画だろうけれど、彼ならもしかしたら」とその記者は言っていた。どうやら彼は名物広報官として、その筋の記者たちには有名らしい。
「かなりのイケメンでしょう? 空自の自慢のパイロットです」
「確かにそうですね。当雑誌の企画にぴったりです。記事の掲載は4月発売の5月号になりますが――」
「ええ、結構準備期間がいただける形ですね。充分です。質問内容などはチェックさせていただいても?」
「はい。ではなるべく早めに固めておいて、お知らせいたします」
 安堵した晴香は目の前の資料を片付けて鞄に詰め込んだ。室長は肩越しに振り向くとデスクに座って仕事をしていた一人の女性を呼んだ。デスクから立ち上がった女性自衛官がこちらにやって来る。すらりと背が高く眼鏡をかけた40代の綺麗な女性だ。
「お呼びでしょうか」
「こちらはファッション雑誌Bleuの記者の伊波晴香さん。伊波さん、これからはこの稲嶺恵理花1等空尉が連絡窓口となります。何かありましたら、電話でもメールでも構いませんのでお気軽にお知らせください。伊波さん、藍澤2尉は飛行機馬鹿のクソ真面目なんで、ファッション誌の取材なんて言ったら嫌がるしれませんが、貴女ならきっと大丈夫ですよ」


 さすがに自衛官というだけあって、稲嶺恵理花1等空尉は姿勢もスタイルもファッションモデル並みに良く、晴香よりも身長が高いせいか歩く速度も速かった。置いていかれまいと必死に早足で稲嶺1尉についていくと、歩く速度を少しだけ落とした彼女が話しかけてきた。
「Bleuさんの働くイケメン企画の記事は私もよく拝読しています。消防士さんの回なんかは特に面白かったですよ」
「あ……ありがとうございます」
 言われてみれば確かにあの回は人気があった。意外に制服のある職種は女性から人気があるのだ。仕事に対する熱意があるように感じる――と編集部に届いた感想のメールの中にあった。それに陸海空の自衛官は女性の好意を得やすいと聞く。特に空自の戦闘機パイロットは人気が高いのだそうだ。本能的に優秀な遺伝子を求めるからなのだとミリタリーマガジンに書かれていた。
 結婚活動を略した言葉「婚活」。東日本大震災以降イメージアップが著しい自衛隊員は、この分野で引っ張りだこなのだという。自衛隊員と婚活する「J婚」という言葉も、流行語大賞でノミネートされたほどだ。一昔前だと駐屯地や地方協力本部単位で曹友会などが中心となって企画・開催していたお見合いパーティーが、今や大手結婚相談サイトを含めて20社以上が一挙にヒットするまでになっており、その盛況ぶりを垣間見ることができる。
「藍澤2尉が松島でふて腐れていないかどうか室長はとても心配しておられます。取材のついでに彼の様子を見てきてやってください。私からもお願いします」
 気のせいだろうか? ぴんと背筋を伸ばして晴香の前方を歩く稲嶺1尉も、先程まで応接室で話していた室長も、彼――藍澤蒼真2等空尉には随分と気を遣っている感じがするのだ。この日、晴香が胸に感じた「なぜだろう」という違和感は、やはり当たっていたのだと彼女は後日に分かることとなる。
 藍澤蒼真2等空尉――彼の若くしてブルーインパルスのパイロットになったという異例の抜擢には、複雑に絡み合った理由があったからだ。


 編集部に戻った晴香は他の仕事を片づけながら、ブルーインパルスや航空自衛隊自身について調べ始めた。消防士を取材した時も下調べが功を奏して、短くとも内容のある質問ができて大きな反響のある記事が書けたからだ。だが航空自衛隊ともなると、学生と名がつく間は両親の仕事の都合でずっと海外にいた晴香にはまるで未知の世界だ。
 自衛隊――他国では軍隊と称される組織に当たるが、日本では「専守防衛」を掲げて「自衛」隊と書く。難しい位置にある組織で職種だろう。航空自衛隊の広報活動にあたる航空祭も、当然ながら晴香は一度も見に行ったことがない。
 パソコンの画面に表示されたブルーインパルスが使用する機体――中等練習機T‐4の塗装はとても鮮やかで、飛行機のことなどまるで知らない自分の目にも美しく見えた。第11飛行隊に所属していた歴代隊員たちのなかに、室長が言っていたとおり20代の隊員が四人いたが、やはり30代前後の人物が多いから藍澤蒼真の24歳は若く思える。
 そしてやはり広報活動に従事するためか、ブルーインパルスは普通の戦闘機を扱う飛行部隊よりも協調性と社交性を要求されるようだ。それならば読者受けしそうな写真が撮れるかもしれない。晴香はそんな期待を胸に抱いたが――赴いた松島基地で己の考えが甘かったことを思い知るのだった。



 淡い桜の花が咲き始める4月。
 結局こちらの都合で取材は1ヶ月の延期になり、晴香は桜前線と一緒に北上する形で宮城県松島基地へ向かった。JR仙石線矢本駅からはタクシーで松島基地を目指す。しばらく車に揺られていると道の彼方に松島基地の全景が見えてきた。この辺りまで来ると周囲に建物の姿はほとんどない。視界に映るものは真っ直ぐな道路と飛行場だけだ。 正門の手前でタクシーを降りて、警衛所から出て来た隊員に名前と用件を名乗り、身分証代わりのパスポートを見せて入構証を受け取る。最後に入場者名簿に名前を書いた晴香は松島基地に足を踏み入れた。
 都会の喧騒とは無縁の松島基地は空が広く見えた。それに大気の青がより鮮やかに感じられる。松島の空気が澄みきっている証拠だ。警衛所の脇で待機していると、連絡を受けた案内役らしき一人の男性隊員が早足でこちらにやって来た。濃い緑色のパイロットスーツ姿で、右胸と左肩に青い球体と翼を重ね合わせたエンブレムとイルカのワッペンを着けている。
「お待たせして申し訳ない。第11飛行隊飛行隊長の南雲篤哉2等空佐です」
「ソレイユ出版編集部の伊波晴香と申します」
 すらりとした長身で細身の男性――南雲篤哉2等空佐は低く甘い声で所属階級と名前を名乗った。年齢は30代後半だろうか。メッシュキャップの隙間から覗く淡い栗色の髪。優しく細められた焦げ茶色の双眸は晴香を映している。大学の教壇で教鞭を振るっていそうな風貌の男性で、とても自衛官には見えない。名前を名乗り返して晴香は名刺を手渡した。
「ソレイユ出版というと……確か若い女性向けの雑誌を出版している会社だったかな?」
「はい。主にファッション雑誌を製作しています」
「形はどうであれ、若い人たちが自衛隊に興味を持ってくれるのはとてもいいことだ。取材対象の隊員は部屋に待たせていますので案内しますよ」
 にこやかに微笑んだ南雲2佐の後に続き晴香は構内道路を歩いて行く。航空自衛隊松島基地は石巻湾に面した海岸沿いに位置している。配備部隊の第4航空団はファイターパイロットの養成を任務とする第21飛行隊と、アクロバット飛行隊である第11飛行隊――通称ブルーインパルスの2個飛行隊で構成されているのだ。そのほかに松島救難隊も配備され、北太平洋海域と東北地方地域の山岳地帯の救難活動を担当している。
 第11飛行隊ブルーインパルスのホームベースは松島基地の一角にあり、パイロットを始めとする40名以上のメンバーが飛行隊隊舎を拠点に活動している。その拠点となる飛行隊隊舎にはオペレーション・ルームや救命装備室、整備員待機室に整備統制室と総括班などのほか、ブルーインパルスの歴史を展示物で知ることができるブルーミュージアムがあるのだと道すがら南雲2佐は教えてくれた。
 渉外室の室長に挨拶をしてから、晴香は青い屋根に覆われた淡いクリーム色の建物――第11飛行隊隊舎に向かった。ブルーインパルスのエンブレムが貼られている正面玄関の自動ドアを抜けてエントランスへ入る。左手の壁には木製の額縁が掛けられており、メンバー全員の顔写真が貼られているほか、その隣には在籍隊員の氏名などを記したプレートが並べられていた。
 普段は仕切り板で塞がれている階段で二階に上がる。しばらく廊下を歩いた晴香はオペレーション・ルームという部屋の前に案内された。パイロットたちは飛行前にここに集合して作戦会議であるプリブリーフィングを行うのだそうだ。二回のノックを奏でた南雲がドアを開ける。果たしてどのようなパイロットが待っているのだろうか――。南雲に続いて晴香は些か緊張しながら入室した。
 灰色のマットが敷かれた室内には数台のデスクトップパソコンが並び、部屋の中央には焦げ茶色の机と数脚の椅子が鎮座している。横長のフラットテレビは茨の森の眠り姫のようにおとなしい。そしてエプロン地区を見渡せる窓際に一人の青年が背筋を伸ばして直立していた。
 青年と対面したその刹那、あたかも天空を走る雷光に貫かれた時のような衝撃が晴香の全身を走り抜けた。神々に引き裂かれたという魂の半身にようやく出会えたような、そんな不思議な思いを晴香は心に感じたのである。高圧電流の如き衝撃は魂の最奥にまで響き渡り、しばらくの間晴香は感電したように痺れて動けなかった。
「君を取材しに来てくださった月刊誌Bleuの記者さんだ。COSMO、自己紹介を頼むよ」
(えっ――? コスモ……って宇宙?)
 やや戸惑う晴香の正面で首肯した青年は踵を合わせて敬礼した。
「航空自衛隊第4航空団第11飛行隊所属、藍澤蒼真2等空尉であります。どうぞよろしくお願いします」
 ここでようやく衝撃から立ち直った晴香は青年の外貌を見ることができた。とても端正な顔立ちの青年だ。漣のように柔らかく波打つ黒髪は光に当たると藍色に染まり、長い睫毛に縁取られた切れ長の双眸は群青色だ。パイロットスーツを纏う細身の姿態は服の上からでも適度に鍛え抜かれているのが分かる。それに彼は背が高かった。恐らく180センチはあるに違いない。
「ソッ……ソレイユ出版編集部の伊波晴香と申します! 今回は当社の取材をお受けいただきありがとうございます! ふつつか者ですがどうぞよろしくお願いします!」
 とても端正な容姿に思わず見惚れていた己を恥じながら晴香は挨拶を返す。だが藍澤蒼真2等空尉は、その綺麗な面に微笑みの一つも浮かべず短く会釈したのだった。


「ここが救命装備室です。自分たちパイロットはここで救命装具を身に着けるんです。耐Gスーツは機体が激しい機動を繰り出した時に下半身を締めつけ、血液の流れを押し戻して脳に行き渡らせる仕組みとなっています。しかしせいぜい2G程度の軽減効果しかないので過信はできません。なので最終的にはパイロットの体力と精神力が必要となります」
「へぇ……そうなんですか」
 藍澤蒼真2等空尉は事務的な声で淡々と説明した。オペレーション・ルームを離れた晴香は藍澤2尉と共に格納庫内に設備されている救命装備室を訪れていた。そう広くない空間にメタリックブルーのヘルメットと救命装具が整然と並べられている。装備の一つ一つに視線を当てながらふと晴香は気づく。なぜか「5」の数字だけが上下逆さまでヘルメットに描かれているのだ。救命装備員が描き間違えたのだろうか? 晴香がそう思うと同時に蒼真の声が響いた。
「描き間違えたわけではありませんよ」
「えっ?」
「難易度の高い背面飛行が多いリード・ソロを担当する5番機パイロットは、ヘルメットの数字を敢えて逆さに描きその技量を誇っているんです。ですからそれは救命装備員が間違えたわけではありませんので心配なく」
 あたかも晴香の思考の内側を見透かしたかのように蒼真は言った。鋭い洞察力に舌を巻いていると、黒髪を揺らした蒼真がこちらのほうを振り向いた。湖のように深い群青の瞳に己の姿を映された晴香はどきりとする。
「すみませんが――服を着替えたいので外で待っていてもらえませんか?」
「えっ? 着替えるって……どうしてですか?」
 蒼真は再び説明してくれた。第11飛行隊ブルーインパルスには展示飛行の際に着る「展示服」と呼ばれるパイロットスーツが用意されているのだそうだ。これから行う写真撮影のために彼はわざわざ勝負服に着替えてくれるというわけか。ここに留まり彼の着替えを眺めるのは極めて不躾な行為だ。赤面した晴香は「すみません!」と謝り脱兎の如く救命装備室から出て行った。
 蒼真が展示服に着替え終わるまでの間、南雲は一人の整備員を晴香のところに連れて来た。ダークグリーンの作業服の腰には二本のドライバーとフラッシュライトが収められたガンベルトと、エンジン音から耳を保護するイヤーマフと青いポーチが巻かれている。帽子を前後逆に被った若い男性整備員は大和大輔2等空曹と名乗り、5番機の整備を担当していると言った。
 ややあって硬い足音が背後から近づいてくる。衣装を変えた蒼真に違いない。振り向いた晴香は瞠目したまま硬直してしまい、彼の姿から1秒たりとも視線を剥がせなくなってしまったのだった。
 蒼真の展示服姿はギリシャ彫刻のように美麗かつ完璧であった。筋骨隆々たる体格ではないが、適度に筋肉を纏った若木を思わせる撓うような強靭さを秘めた引き締まった姿態の線を、ダークブルーの展示服は見事なまでに引き立たせていたのである。そして不躾ともいえる晴香の視線に気づいた蒼真は眉を顰めた。
「……何か?」
「いっ……いえ……何でも、ない、です……」
「それで自分は何をすればいいんですか?」
「えっ? はっ――はい! えっとですね――まずは飛行機をバックに藍澤2尉の写真を何枚か撮らせていただきます。写真撮影の後は、こちらで用意した簡単な質問をさせていただきたいと思っています。よろしいですか?」
 こくりと首肯した蒼真は駐機場で控えている飛行機のところへ歩いて行った。少し遅れて晴香もカメラを用意しながら彼の後を追いかける。初めて目にする自衛隊機に晴香は些か興奮していた。白と青のツートンカラーに塗装された機体の名前はT‐4。その形がイルカに似ていることから「ドルフィン」の愛称で呼ばれている中等練習機だ。だからT‐4に乗るブルーインパルスのパイロットは「ドルフィンライダー」と呼ばれているのである。
「あの……藍澤2尉。できればもう少し笑ってもらえませんか?」
 カメラを構えていざ撮影に挑まんとした晴香は困惑した。彼女が困惑するのも無理はない。なぜならばT‐4を背後に立つ蒼真は無表情のままにこりとも笑わないのである。その眦も口角もまったく微動だにしない。強力な接着剤で固定されているのかと思ってしまいそうだ。
「申し訳ありません。ですがこれが自分の限界なので」
「はぁ……」
 思わず晴香は嘆息した。限界ですと言われてもこれでは仕事が進まない。なにせ晴香は職場の上司から「なにがなんでも絶対にイケメンの笑顔を撮って帰るように!」と強く言われているのだ。仏頂面の写真など持ち帰ったら間違いなく叱責されるだろう。
 ――もしかしたら自分は歓迎されていないのかもしれない。
 普段から命の危険と隣り合わせの生活を義務付けられている職種の人間に、「好きな食べ物は?」とか「休暇の過ごしかたは?」とか「好きなタイプの女性は?」なんて軽薄な質問をぶつけるのだから失礼でないはずがない。橋渡し役となってくれた広報室室長の応対が柔らかかったので失念していたのだ。
 それから何回か会話を交わしたが、やはり彼の端正な面を凍てつかせている硬い表情は溶けなかった。それでも笑顔は撮って東京に帰りたい。何かいい方法はないものか――。瞬間、晴香の脳裡に閃きの花が咲き開いた。
「好きな物や好きなことを思い浮かべてみてはどうでしょうか」
「好きな物や好きなこと……?」
「そうです。そうすれば自然と微笑みが浮かぶかと思うんです。藍澤2尉は何がお好きなんですか?」
「――飛ぶこと」
「えっ?」
「空を飛ぶことが……好きです」
 どことなく照れるように蒼真は小さく短く答えた。こんな顔もできるんだなと晴香は変に感心してしまった。そして晴香の脳裡に第二の閃きの花が咲き開く。
「でしたらT‐4のコクピットに座っている姿を撮影しましょうか。藍澤2尉は自分が空を飛んでいるところをイメージしてください。私のことは忘れてもらって構いませんから、イメージすることに集中してください」
「分かりました」
 首肯した蒼真は機体に立てかけられている梯子を上って前席コクピットに乗り込んだ。綺麗な顔を隠してしまうと思ったのでヘルメットは被らないでほしいと頼み、顔の角度はややカメラを意識するように傾けてもらう。しばらくして蒼真は瞼を伏せて瞑目した。空を飛んでいる自分の姿を思い描いているのだろう。よく見れば彼の右手は股の間にある操縦桿を握り締めていた。
 ややあって真一文字に引き結ばれていた唇がゆっくりと解かれていった。カメラを構えて晴香はその瞬間を待つ。あたかも蒼真の表情の変化に呼応するかの如く、晴香の胸の鼓動は少しずつ高鳴っていく。そして閉じられていた蒼真の双眸が開かれる。
 その眼差しはとても凛々しく真っ直ぐで――空の青だけを捉えていた。
 そして晴香はファインダー越しに己が目を見張る。先程まで仏頂面だった蒼真は大きく綻ばせた口元から白い歯を覗かせ、あたかも快晴の日の太陽のように光輝く笑顔を満面に浮かべていたのだ。
「藍澤2尉! こちらを向いてください!」
 晴香は柔らかい響きのソプラノの声を張り上げた。すると蒼真は太陽の笑顔を浮かべたまま晴香のほうを振り向いてくれた。気紛れに吹いた早春の風が彼の黒髪をなびかせる。その一瞬の笑顔を永遠にするために、桜吹雪が舞い踊るなか晴香は夢中でシャッターを切っていた。


 黄金色の陽光が眩しく感じる午後3時。一通りの写真撮影とインタビューを終えた晴香は蒼真と共に松島基地の正門前にいた。来た時よりも荷物が増えているのは南雲2佐から松島基地のお土産を大量にもらったからで、その増えた分の荷物は蒼真が正門まで運んでくれた。
「今日は本当にありがとうございました。皆さんが協力してくれたお陰で素敵な写真が撮れました。これで胸を張って東京に帰れます」
「お役に立てて光栄です」
 晴香が感謝の一礼をすると蒼真も丁寧にお辞儀を返してくれた。渉外室室長も南雲2佐も他の隊員たちも、晴香に対してとても親切丁寧な態度で接してくれた。第11飛行隊ブルーインパルスは展示飛行の他に広報活動という任務があるからだろう。ゆえにブルーインパルスのパイロットは、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接する役割が与えられているのだ。
「それでは私はこれで――」
 もう一度一礼して踵を回したその刹那、晴香は構内道路の微小な亀裂に躓いてしまった。地面に向けて傾いた晴香を素早く伸びてきた長い腕が抱き留める。晴香を激突の危機から救ったのは蒼真だった。そして晴香は蒼真に背後から抱き締められるような格好になっていた。華奢な腰に絡む長い腕。背中越しに感じるのは蒼真の引き締まった胸板と温もりだ。熱い吐息が晴香の耳朶と首筋をくすぐった。
「――大丈夫ですか?」
 晴香が肩越しに背後を振り仰ぐと、神様の最高傑作ともいえる蒼真の端正な顔がすぐ近くに――互いの鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離にあった。
「ひゃいっ!? はっ……はい! 大丈夫ですっ!」
 可憐な顔を真っ赤に染めた晴香は蒼真の腕の中から高速離脱した。蒼真は無言のまま晴香を見つめている。
「送りましょうか」
「え?」
「矢本駅まで車でお送りします。荷物も多いことですし……それに貴女は見ていて危なっかしい。南雲隊長に話してから車を回してきますので、ここで待っていてください」
 晴香の返事を待たずに踵を返した蒼真は早足で構内道路を引き返していった。晴香は目を白黒させる。「貴女は見ていて危なっかしい」と蒼真は口にした。まさか自分がそんなふうに見られていたとは。他人に無関心だと思っていた彼からそう言われたので晴香は驚きを隠せなかった。
 待つこと数十分、一台の軽自動車が構内道路を走って来る。晴香の前で停まった車の運転席のドアが開く。運転席から降りた蒼真は反対側に回り込み助手席のドアを開放した。まるで貴族の令嬢に仕える執事のようだ。晴香は気恥ずかしさを感じながら助手席へ乗り込む。彼女の荷物を後部座席に積みこんだ蒼真が運転席へ戻ってきた。
 シートベルト確認。天気は快晴で南南西の風。太陽の日差しはやや強め。プリタクシー・チェックOK。レディー・フォー・ディパーチャー、クリアード・フォー・テイクオフ。二人を乗せた車はフル・スロットルでアスファルトの空に飛び立った。


 松島基地から矢本駅にはすぐ到着した。やはりパイロットスーツ姿の蒼真はとても目立っている。駅構内を往来する人々の眼差しは好奇心に満ちており、なかには嬌声を上げながらスマートフォンで写真を撮る女性もいた。ブルーインパルスが国民に愛されている証拠だ。晴香の荷物を半分持った蒼真は、改札前まで彼女をエスコートしてくれた。
「わざわざ車で送っていただいて、本当にありがとうございました」
 明るい栗色の髪を揺らして晴香は頭を下げた。
「いえ、これも広報活動の一環ですので」
 表情を引き締めたまま蒼真は答えた。確かにそうかもしれないと晴香は思う。この瞬間も蒼真は群衆の注目を集めているのだから、広報活動になっていると言えるだろう。隊員たちのこういった地道な努力の積み重ねが、ブルーインパルスの名前とアクロバット飛行を日本中に広めているのだ。
「――では、自分はこれで失礼します」
「あの、藍澤2尉」
 一礼した蒼真が踵を返す。駅から立ち去ろうとした彼を晴香は呼び止めた。長い両足を地面に縫いつけた蒼真が振り向いた。
「コクピットに座った時の表情はとても素敵でした。笑わないともったいないですよ。次も是非素敵な笑顔を撮らせてくださいね」
 言い終えると同時に晴香の頭上でアナウンスが鳴り響く。蒼真に向けて一礼した晴香は改札を抜けてホームに急いだ。そしてヒールを響かせながら駅のホームに向かう晴香の背中を、藍澤蒼真2等空尉は戸惑いを湛えた眼差しで見つめていたのだった。



 宮城県から東京都内の自宅マンションに戻った晴香は、カメラのSDカードに保存した写真をパソコンに取り込んで画面上に出した。航空自衛隊のパイロットなんて滅多に出合える職種ではないので最初から興味を覚えていたのだが、藍澤蒼真本人と会ってからは尚更関心が増したのだった。
 その理由はよく分からない。お世辞にも愛想はよくなかった。むしろその逆といえる。基地の正門前で転びそうになった時は全身で支えてくれたが、やや呆れた表情をしていたと思う。
 彼が絶世の美青年だから強い関心を覚えるのだろうか? でもただ美形なだけなら取材で俳優やモデルに会うこともあるから、晴香にとって珍しい訳ではない。無表情だった彼がようやく笑顔を見せてくれたのは、晴香の提案でコクピットに座った時だ。あの瞬間は本当に胸が高鳴った。外の世界にまで自分の心臓の律動が聞こえてしまったのではないかと思ったほどだ。
 本当はあの表情が彼の――藍澤蒼真が隠している本質なのではないかと感じた瞬間、そこまで考えたら胸が切なく苦しくなってしまい、晴香はマッキントッシュのパソコンを閉じた。


 松島基地訪問の翌日、晴香は再び航空幕僚監部広報室に足を運んだ。予定を訊いてみると室長も在籍しているらしい。今日の用件は稲嶺1尉でも事足りるのだが、松島基地との橋渡し役となってくれた室長に、お礼も兼ねて先日撮影した写真を見てもらいたかった。スナップではあるが簡易アルバムのページを捲りながら、室長は苦笑気味の笑顔を晴香に向けた。
「やれやれ、愛想がないな……おや?」
 晴香の予想通りのページで室長は手を止めた。
「コクピットに座った時だけこんな顔をするとは……まったく困った奴だ」
 室長はしばらくそのページの写真を複雑な面持ちでじっと見つめていた。
「伊波さん、ありがとうございます。彼の笑う顔を久しぶりに見ましたよ」
 晴香は驚いていた。室長は綺麗に深々とお辞儀をしていたからだ。これは松島基地でも気づいたことだが、自衛隊員の人はお辞儀が綺麗だった。
「どういうことでしょうか? 確かに藍澤2尉はなかなか笑顔にならない方だとは思いました。でもそれが彼の本質ではないような気もします。若くして厳しい訓練に耐えてやっと入れた部隊なんですよね? もう少し嬉しそうでもいいんじゃないかと私は思うんです」
 晴香は蒼真に会って心に感じたそのままの感想を告げた。
「伊波さん。貴女は素直な方だ」
 室長は一呼吸置くとまた言葉を続けた。
「彼の笑顔を逃さず撮ってくださった貴女だから――確かもう一度取材をしに行かれるんですよね?」
「は……はい。今度は本職のカメラマンが来ます。ページを半分埋める写真になるので――できたらブルーインパルスと藍澤2尉を一緒に撮りたいかと」
「それはいいですね。こんなことで彼も少し心を開いてくれればいいんですが」
「え?」
「前にお話ししましたよね。彼がブルーインパルスのパイロット、ドルフィンライダーに選ばれたのは極めて異例だと」
「そう言えば――」
「本当は……彼と同じ部隊にいた2年上の隊員が抜擢されて内示も出ていました」
 室長は先程稲嶺1尉が運んできたコーヒーを晴香にどうぞと勧めた。晴香はプラスチックのカップをそっと口許に運ぶ。
「ところがその隊員はスクランブルの帰りに事故に遭い、一週間後に亡くなりました」
「そんな――」
「その抜擢された隊員の年代は、たまたま大きな航空機の事故があった影響で学生も人材不足でね。下の年代にブルー抜擢の機会が回ってきたんです」
「それが藍澤2尉だったんですか……」
「そうです。彼は子供の頃に航空祭でブルーの展示飛行を見て、ブルーのパイロットになることを強く夢見ていた。しかし事故の一件もあって素直に喜べなくなってしまった。本来なら広報活動のために社交性もかなり重要視される部隊なので、あんな表情をしていてはまずいんですが、南雲2佐も事情を知っていて今年1年は様子を見てくれるようです」
「そうだったんですか……」
 彼には――藍澤蒼真には笑いたくても笑えない理由があったのだ。
 カップから立ち昇る湯気だけが蜃気楼のように揺らめいていた。


 広報室を後にして編集部に戻った晴香は記事の編集を始めたが、いつの間にかキーボードを打つ両手の動きはぴたりと止まっていた。
 ――来週、自分は再び松島基地を訪れる。
 重い十字架を背負った藍澤蒼真から、笑顔を引き出す術などあるのだろうか?
 何か重荷を背負わされたように感じた晴香の口から嘆息が零れ落ちた。