早春の淡い青空と純白の雲が天の彼方まで広がっている。
蒼穹の空と白い雲。その二つを掴んでみたくて、爪先立ちをした少年は限界まで手を伸ばす。すると指先が空の青に染まったような気がした。
デルタ隊形を組んだ六機の航空機がスモークを曳きながら早春の青天を駆け抜ける。白と青の二色に塗り分けられた航空機の名前はT‐4。機体の形がイルカに似ていることから「ドルフィン」の愛称で呼ばれている航空自衛隊の航空機である。T‐4を駆るのは第11飛行隊ブルーインパルスに所属するドルフィンライダーと呼ばれるパイロットだ。
複数機による編隊課目は確かに美しく素晴らしい。だが何よりも少年は5番機が実施するリード・ソロ課目にその目を奪われていた。青天を切り裂くナイフの如き鋭い四回のロール。3000メートル上空まで一気に駆け上がる垂直上昇。ダブル・インメルマンの軌跡が描く8の字。あの機体に憧れの「彼」が乗っているのだと思うと、少年の瞳は綺羅星の如く輝き、小さな胸は純粋な心と共に熱く燃え上がるのだった。
27にも及ぶ第1区分課目展示飛行を終えた編隊は、その精密な隊形を1ミリも崩さぬまま飛行場の滑走路に着陸した。六機の機体を自由自在に操っていた六人のドルフィンライダーたちがコクピットから地上に降り立ったその刹那、拍手喝采の雨が飛行場に降り注いだ。担当の整備員と握手を交わし、ウォーク・バックで合流した六人のパイロットたちは、熱き声援に答えながらこちらのほうへ歩いて来た。
憧れている「彼」を間近で望んで触れ合いたい――。胸の奥から迸る強い思いに背中を蹴飛ばされた少年は、前方に広がる人混みの中に飛び込んだ。邪魔だと乱暴に押し退けられ、足を踏まれながらも少年は人混みを掻き分けながらひたすら疾走した。
少年が観客の最前列に飛び出すと同時に、すぐ眼前を5番機のドルフィンライダーが歩いて行った。少年は飛び跳ねながら懸命に自分の存在をアピールしたが、パイロットは彼に気づくことなく通り過ぎてしまった。自分ではなく他の観客と握手を交わすパイロットを視界に捉えながら、少年は双肩を落として悲しげに俯いた。
「どうしたの?」
少年は伏せていた顔を上げる。「彼」とは違うドルフィンライダーが、にこやかに微笑みながら少年の正面に立っていた。明るい栗色の髪と蜂蜜色の大きな瞳。柔らかな曲線を描く姿態をしているから女性だろう。ブルーインパルスには空自で初となる二人の女性パイロットが在籍しており、それぞれ3番機と6番機に乗っているのだと父親から聞いたことがある。ネームタグには「YUUKI」の文字が刺繍されていた。彼女はオポージング・ソロを担当する6番機のドルフィンライダーだ。
「君はいつも航空祭を観に来てくれている子だよね? 今日はいつもの元気がないみたいだけれど――」
未練を断ち切れないまま少年は彼が歩き去ったほうを見やる。大きな蜂蜜色の双眸を動かした彼女は少年が望んでいることをすぐに理解したようで、「ちょっと待っててね」と言うと彼女は小走りに駆けて行き、小柄で華奢な後ろ姿は観客の海の中に沈んでいった。
「――おい、坊主」
ややあって涼やかで凜とした低音の声が耳朶に降ってくる。いつの間にか長身痩躯の青年が、あたかも入道雲の如く少年の背後に立っていた。ダークブルーのメッシュキャップと同色のパイロットスーツは彼がドルフィンライダーだということを示している。左胸のネームタグには「TSUBAME」の文字。瞬間、胸の鼓動が高く波打つ。なぜならば目の前に立つ青年は、少年が強く憧れている5番機のドルフィンライダーだったからだ。
「お前はブルーインパルスが好きか?」
長身を折り曲げて少年と目線の高さを合わせた青年は、両眼を覆っているサングラスを外すと問いかけた。サングラスの奥から現れたのは、同性である自分も思わず見惚れてしまいそうな端正な顔と、青みを帯びた灰色の切れ長の双眸だ。その瞳は真っ直ぐな眼差しで少年を見つめている。緊張で言葉が出てこない。青年のやや後ろでは奇跡を運んできてくれた女性パイロットが「頑張れ!」とジェスチャーしていた。
「――うん! 僕はブルーインパルスが大好きだ!」
頬を紅潮させた少年は嘘偽りなき答えを明瞭とした声で放つ。すると今まで仏頂面だった青年は、真一文字に引き結んでいた唇を解いて快活に笑んだ。そして青年は少年の黒髪を優しく掻き混ぜると被っていた帽子を脱ぎ、きょとんとした面持ちを浮かべる彼の頭にそれを被せた。
「それなら、オレたちが飛ぶあの青空を目指して駆け上がってこい」
折り曲げていた長身を伸ばして立ち上がったドルフィンライダーの青年は、少年の肩を叩くと観客からの握手と声援に応じながら彼方に歩き去っていった。
――あの青空を目指して駆け上がってこい。
そんな青年の言葉は少年の心に熱く強く響き渡った。
永遠の彼方まで続く青空を、彼らと同じ白と青の翼で飛んでみせる。
風に乗り、自由に空を舞う、空気の妖精のように。
空を見上げて彼らの名前を呼ぶたびに、少年の胸には果てしない憧れが湧き上がる。
青い衝撃――ブルーインパルス。
それが少年を空へと導いてくれる魔法の言葉だった。