御同朋の社会を目指して!

お念仏の教え
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「憲法9条と念仏者」と題して、少し今私が思っていることを書いてみました。教
学的にも色々と間違っているところがあるかも知れませんが、またご指摘いただ
ければと思います。
05.9.20(tomo)
○お念仏の教え
親鸞聖人が明らかにしてくださった浄土真宗の教えとは、阿弥陀様のはたらき
によって私たち凡夫が浄土に生まれ仏とならせていただく教えです。
○浄土とはどんなところ?
では、私たちが生まれさせていただくそのお浄土とはどんな世界でしょうか?
お釈迦様がのこされたお経(『仏説阿弥陀経』)には、お浄土の様子がこんな
風 に描かれています。「また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青
い 花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い
光を 放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである」(浄土三部経・現代
語版・ 本願寺出版社)と。つまり、お浄土には、大きな蓮の花が咲いていて、青
い蓮の 花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光、赤い花は赤い光、白い花は
白い光を 放ち、全ての花がいい香りを放って美しく咲いているんだそうです。
どうでしょうか?一見すると当たり前のようにも思え、「ふ〜ん、そうなんだ。お
浄土って綺麗なところなんだね」で終わってしまいそうですが、ちゃんとそこには
深い意味があるんですね。
みなさんはスマップというアイドルグループをご存知でしょうか?そのスマップ
の 代表曲に『世界に一つだけの花』という歌があります。
こんな歌詞の歌です。
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
人それぞれ 好みはあるけれど どれもみんな きれいだね
この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツの中 誇らしげに し
ゃ んと胸を張っ ている
それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で 一番になりたがる?
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればい
い
(中略)
小さい花や 大きな花 一つとして 同じものはないから
No.1にならなくても いい もともと特別な Only on
どうでしょうか?先ほど紹介したお浄土の様子と少し似てはいないでしょうか?
いろんな花があるけど「どれもみんな きれいだね」と。どの花が一番きれいだと
か言い争うこともなく、どの花もみんな「誇らしげに しゃんと胸を張って」咲いて
いると歌われています。前で紹介した「青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄
色 い光を・・・」「全ての花がいい香りを放って美しく咲いている」というお浄土の
様子 と似ていますね。
余談になりますが、実際にこの歌はある方が浄土真宗のみ教えを聞いて、そ
れをご縁として作詞されたと聞いています。もしかしたら『仏説阿弥陀経』で語ら
れているお浄土の世界を参考にしてこの歌を作詞されたかもしれませんね。
○浄土への憧れ
まあ、それはともかく、このスマップが歌う『世界に一つだけの花』という曲は特
に若い人達の間で大変人気があります。数年前には紅白歌合戦のトリを飾りま
したし、「心に残る日本の名曲」などでも常に上位にランクインされています。も
ち ろん歌っているスマップというグループの人気もあるんでしょうが、やっぱり多
くの 人が歌詞の内容に共感を覚えるのではないでしょうか。
「そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲か
せることだけに 一生懸命になればいい (中略) 小さい花や 大きな花 一つ
として 同じものはないから No.1にならなくても いい もともと特別な Only
one」という歌詞に。
近頃は、「神も仏もあるものか!」とか「お浄土?何それ?」って言う人が多い
ですが、やっぱり意識するしないにかかわらずどこかで「浄土」という世界に共感
や憧れを持っている人多いということではないでしょうか?だからこそ『世界に一
つだけの花』があれ程までに多くの人の支持を得、人気を保ち続けているんだと
思います。
○理想と現実のギャップ
ところが、それとは別に私たちの現実の世界はどうでしょうか?あれだけこの
歌に込められた「浄土」的な世界に共感するにもかかわらず、相も変わらずナン
バーワンを目指して生きてはいないでしょうか?毎日のように「それなのに 僕ら
人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で 一番になり
たがる? そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その
花 を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」と唄っていたのに・・・。
最近はあまり聞かなくなりましたが、少し前まで「ゆとり教育」という言葉をよく
聞 きました。知識だけを詰め込むのではなく、もっと人間としての生きる力を備
え た、個性豊かな子どもたちを育てようという願いがあったのだと思います。そ
れに ともなって小・中学校、高校などでは完全週休二日制になりました。できた
時間を 使って家庭や地域で様々な経験を積んで、単なる受験用の知識ではな
い、生き る力を養っていくはずでした。ところが、実際はどうだったかというと、土
曜日が休 みになって他の子どもが勉強しない間に、わが子を塾に通わせ親が
出てくる。一 部の私立の学校では土曜日にも授業をしたり、夏休みを短縮したり
する。言葉 は悪いですが「ぬけがけ」が行われるようになった。親の本音として
は、他の子は いざ知らず、わが子にだけはオンリーワンよりもナンバーワンにな
って欲しい。ま た社会自体も相も変わらずそんな人材を求めているということな
んだと思いま す。
「オンリーワン」と歌いながらナンバーワンを求めているのですね。
しかし、どうでしょか?これはなにも子を持つ親に限った話ではないと思いま
す。たとえば少し前に『白い巨塔』というテレビドラマが人気を博しました。私だけ
でなくたくさんの方が毎回楽しみに視たのではないでしょうか。あれ程人気があ
っ たのは、もちろん唐沢寿明演じる主役の財前教授の強引なやり方が好きだと
い う人もいますが、それよりも江口洋介演じる里見助教授の姿に共感を覚えた
人 が多かったからではないでしょうか?自分の名誉や地位を失ってまでも、自ら
の 信念を貫き、弱者の側に立ち続けた。そんな姿勢が多くの人の共感を得たの
だ と思います。
ところがどうか?実際に自分がその立場だったら・・。生活もある。名誉やお金
も欲しい。信念や他人のことよりもまず自分が一番可愛い。なんやかんや言っ
て もやっぱり自らの保身に走ってしまったことがみなさんにもこれまで何度もあっ
た のではないでしょうか?
最近の例では、郵政民営化法案に反対した自民党の参議院議員が、小泉首
相の反対派衆議院議員に対する非情な対応をみて、いっぺんに信念を覆し、賛
成に転じるということがありました。「なんやねん!」と思うけど、悲しいことです
が それが人間の本音の部分なのかも知れません。
みんな誰だって、オンリーワンの世界や里見助教授の他者に対する優しさや
信 念の強さに共感し憧れるけど、やっぱり現実となると話しは違う。誰もがそん
な理 想と現実とのギャップを感じているのではないでしょうか?出来ることなら理
想に 近づきたい。でも実際問題としてそう簡単にはいかない。やっぱり自分が可
愛い し、楽もしたい贅沢もしたい。名誉も欲しい。「わかっちゃいるけどやめられ
な い」。誰しもがそういった葛藤を抱えているのではないでしょうか?それがまた
私 たち人間(凡夫)の本当のすがたなのかもしれません。
○葛藤を大切に生きる
しかし、じゃあ、それならそれでどうするのか?
どうすることも出来ないし、思い悩んでも苦しいし面倒くさい。だから「どうせ俺
は凡夫だから」と言って開き直るのか?それとも、建前と本音を上手に使い分け
て、口では「ゆとり教育が必要だ」と言いながら、裏ではわが子を塾に通わすの
か?・・・。
どちらでもないと思います。どんなに葛藤を抱き、悩み、苦しもうとも、決して逃
げてはいけないのだと思います。確かに理想と現実の間には大きなギャップが
あ るかも知れない。しかし、それから逃げるのではなく、そんな矛盾を抱えた自
らを 認めることが大切なんではないでしょうか。そしてそんな葛藤を大事にしな
がら、 常に自らの姿を顧み、恥じつつ、しかしそれでも逃げずに少しでも理想と
現実と のギャップを埋めるために努力していくべきなんではないでしょうか。
○「そのまま」の私が救われていく
確かに、私たち凡夫がこの世では決して仏にはなれないように、完全にそのギ
ャップを埋めることは出来ないかも知れません。しかし、それでも仏様に導かれ
ながら、お浄土の光に照らされながら、悩み、苦しみ、葛藤を抱えたまま歩んで
行くことが大切なんだと思います。
よく阿弥陀という仏様は「そのままの私を救ってくださる」というふうに聞かせて
いただいています。でも、じゃあ「そのまま」って一体どのままなのでしょうか?
「凡夫だから何をやってもいい」と開き直った私のままなのか?それとも、建前と
本音を上手に使い分けて生きていく私のままなのでしょうか?
私には、浄土に生まれたい、仏と成りたいと願いつつも、現実とのギャップに
苦 しみ、悩み、もがきながら、それでも決して諦めることなく生きていく。そんな
「そ のまま」が救われていくんだと頂いています。そんな「そのまま」の私がすば
らしい んだと阿弥陀様は仰ってくださっているような気がしてなりません。
私はまさにそんな生き方が、念仏者の生き方ではないのと思っています。そん
な生き方が、念仏者としての、今、この場での浄土への歩みとなっていくんだと
思 います。
○憲法9条と「兵戈無用」の世界
少し前置きが長くなりましたが、じゃあ次に念仏者にとって憲法9条は何なのか
ということを考えていこうと思います。
さて、憲法9条では、いかなる戦争も認めていません。そして、そのために一切
の戦力を保持することも禁じています。
どうでしょうか?どこかで聞いたことのある世界ではないでしょうか?そうです、
『仏説無量寿経』に説かれている「兵戈無用」の世界(武器も兵隊もない平和な
世界)にそっくりですね。私には憲法9条とはまるでお浄土への道しるべ≠ン
た いな気がしてなりません。
それはともかく、お浄土という存在を意識しようがしまいが、おそらくほとんどの
人はこの「兵戈無用」の世界、憲法9条の精神が実現された社会に異論はない
と 思います。それは、憲法9条を守ろうとする人も。9条を「改正」して自衛のため
の 軍隊を持つことを主張する人も。極端な話、軍事的均衡を保つために核武装
を 主張する人の中にも戦争のない平和な世界に暮らしたいと願っている人はい
る と思います。
○理想と現実との間のギャップ
ところが、よく改憲派の人たちからこんな声を聞きます。「自分たちは平和を望
むけど、他国が攻めてきたらどうするんだ?」「せめて自衛の戦争だけは認める
べきだ!」と。「そのためにはちゃんと憲法で自衛隊の存在を認めるべきだ!」
と。
確かに今の世界情勢の中で、日本一国だけが「戦争は絶対にしません。軍隊
を持ちません」と言ったところで、どうなるかなんてわからないかもしれません。
悲 しいことだけど、やっぱり理想と現実の間にはまだ大きなギャップはあります。
正 直なところ、今の私にも「こうすればいい」と言えるような答えはまだありませ
ん。 おそらく私だけなく憲法9条を守りたいと願っている多く人も同じ思いだと思
いま す。
○諦めない
じゃあどうするのか?開き直ってアメリカのように強大な軍事力でもって自分に
都合の悪い国を力で押さえつける。念仏者としてそんな国を認めるのか?それ
と も、口では「仏教徒として戦争は絶対に許しません!」と言いつつ、一方では
今の 憲法9条改悪の動きに対して無関心を装い、結果的に黙認する。そんな建
前と本 音を上手に使い分ける念仏者になるのか?・・・・。
私はどちらにもなりたくありません。私は、たとえ理想と現実の間にどんなに大
きなギャップがあったとしても、決して諦めたくはありません。苦しいかもしれな
い、面倒くさいかもしれない。誰も相手にしてくれないかも知れない。でもそれで
も 憲法9条を守りつつ、同時に「じゃあ、どうすればいいのか」と悩み、葛藤を抱
えな がら生きていきたいと思っています。私にとってはそれが念仏者の生き方な
んだ と思います。そんな「そのまま」の私がすばらしいんだと仏様が言ってくださ
ってい るような気がしてなりません。
だから、憲法9条を捨ててしまったら、もう念仏者であって念仏者でないのでは
ないか。それこそ浄土(「兵戈無用」の世界)への歩みを自ら止めることになって
しまうのではないかと思ってしまうわけであります。
○いのち≠フ願いの中から生まれた憲法9条
確かに憲法9条を守り、その精神を実現していくには長い時間がかかるだろう
し、一人の力では無理かも知れません。でもみんなで力を合わせ、人類の叡智
を結集すればいつか必ず武器も兵隊も持たなくてもすむ社会を実現できると確
信しています。また、絶対にそうしなければならないと思っています。なぜならそ
れだけの価値が憲法9条にはあるからです。
よく、「今の憲法は敗戦のドタバタの中で、戦勝国のアメリカによって一方的に
押し付けられたものである」「だから自分たちの手で今一度憲法を創るべきだ」
と いう意見があります。
でも、それは絶対に違うと思います。決して押し付けられたものではありませ
ん。憲法9条とは、近代以降日本が引き起こした侵略戦争の犠牲となった無数
の 人々の苦しみ、悲しみ、怒り、絶望、そして平和への願いの中から紡ぎだされ
た ものです。
日本の侵略戦争によって命を奪われた2000万人以上のアジアの人々の苦し
み。その遺族の悲しみ。「慰安」という目的で軍隊に同行させられ、性奴隷として
兵士の相手をさせられた女性たちの痛み。無理やり異国の地に連れてこられ、
過酷な労働条件のもと牛馬のように働かされ力尽きていった人々の呻き。たっ
た 一枚の紙切れによって大切な家族から引き離され、侵略者の片棒を担がさ
れ、 見知らぬジャングルの中で飢えに苦しみながら死んでいった兵士の慟哭。
爆弾 を一杯抱えて「お母さん」と叫びながら相手の戦艦に突っ込んでいった青年
たち の叫び。本土防衛のための捨石として戦わされた沖縄の人々の怒り。原爆
や空 襲によって焼け出され命を落とした何の罪もない人々の苦しみ、怒り、悲し
み。そ んな人々の、いのち≠フ叫び、平和への痛切な願いの中から生まれた
んだと 思います。
決して押し付けられたんじゃありません。憲法9条には無数の人々のいのち
≠フ願いが詰まっているのです。
そんな憲法9条を、「もう古臭い」とか「無理やり押し付けられた憲法なんて改正
して当然だ」、「日本も普通の国になるべきだ」といった理由で、簡単に捨てるこ
と など絶対に許すことができるはずがありません。
○念仏者とは
最近よく考えるんですが、念仏者とは一体なんなのでしょうね?
ただお釈迦様がのこされた経典や親鸞聖人が著されたお聖教を机の上で勉
強 するだけでいいのでしょうか?お寺の本堂やお仏壇の前でお経を称え、「ナマ
ン ダブツ」とお念仏を申すだけ。それだけでいいのでしょうか?
私は、念仏者とはすべての<いのち>の叫び≠竍悲しみ=A痛み=A
願い≠ノ耳を傾け、共感し、順じて生きていくものをいうのではないかと思っ
て います。たとえば、戦争によって差別される人、排除される人、殺されていく
人々 の呻き≠ニか、悲しみ=A痛み≠ノ耳を傾け、共感していくもの。平
等や 平和を求める人々の、いのち≠フ痛切な叫びや願いに順じて生きていく
もの を念仏者というのだと思っています。
だから、そんないのち≠フ痛切な叫び、願いの中から生み出された憲法9
条 を大切に守っていくこと、葛藤しながらもその精神を実現していくこと、それが
念 仏者の役目ではないでしょうか。
憲法9条を捨てるということは、もう念仏者であって念仏者でないのではない
か?念仏者として浄土への歩みを止めることになってしまうのではないか?そん
なふうに思っています。
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