魏志倭人伝

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 ●百衲本(原文、書き下し文、現代語訳)、 国名や官名は北方系の漢音で読む。


普平陽侯相 陳寿 撰

 倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」

  從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行す。韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里なり。」

「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に従い水上を行く。韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里である。」

  始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
「始めて一海を度ること千余里にして対海国(対馬)に至る。その大官は卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」

「(狗邪韓国から)始めて一海を渡り、千余里で対海(対馬)国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。」

  所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
  有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

「居する所は絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食らひ自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

「居する所は、近寄り難い島で、およそ四百余里四方。土地(対馬国、対海国)は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田は無く海産物を食べて自活している。船に乗って九州や韓国へ行き、商いして穀物を買い入れている。」

  又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
「又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」

「(対海国から)また、南に一海を渡る、千余里、名はカン海という。一大国に至る。官は、亦(対馬と同様)、ヒコウといい、副はヒドゥボリという。」

  方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
  差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

「方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食らふに足らず。亦、南北に市糴す。」

「(一大国の)大きさはおよそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地があるが、住民を養うには足りないので、対馬と同じ様に九州や韓国へ行き、商いして穀物を買い入れている。」

  又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
  草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

「又、一海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水の深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

「(一大国から)また、一海を渡ること千余里で、バツロ国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない。魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている。」

  東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
  有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐

「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰ひ、副は泄謨觚、柄渠觚と曰ふ。千余戸有り。世、王有りて、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」

「(末盧国から)東南に陸上を五百里行くとイト国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王があり、皆、女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に滞在する所である。」

  東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
「東南、奴国に至る。百里なり。官は兕馬觚と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。」

「(伊都国から)東南、ドゥ国に至る。百里である。官はシバコといい、副はヒドゥボリという。二万余戸がある。」

  東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「東行し、不弥国に至る。百里なり。官は多摸と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。千余家有り。」

「(奴国から)東に行き、フウビ国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドゥボリという。千余りの家がある。」

  南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」

「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日である。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」

  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰ひ、次は弥馬獲支と曰ひ、次は奴佳鞮と曰ふ。七万余戸ばかり。」

「(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクヮシといい、次をドカテイという。およそ七万余戸。」

  自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
  次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
  次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
  次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
  次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。」

「女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国が有る。次にイヤ国が有る。次にトシ国が有る。次にミドゥ国が有る。次にカウコト国が有る。次にフウコ国が有る。次にシャドゥ国が有る。次にタイソ国が有る。次にソドゥ国が有る。次にコイフ国が有る。次にカドゥソドゥ国が有る。次にキ国が有る。次にヰゴ国が有る。次にキドゥ国が有る。次にヤバ国が有る。次にキュウシン国が有る。次にハリ国が有る。次にシユイ国が有る。次にヲドゥ国が有る。次にドゥ国が有る。ここは女王の境界の尽きる所である。」

  其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」

「その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。」

  男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自稱大夫
「男子は大小なく、みな黥面文身す。いにしえより以来、その使、中国に詣(いた)るや、皆、大夫を自称す。」

「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。」

  夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
  今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
  諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差

「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好み、文身は、また、以って大魚、水禽を厭(おさ)ふ。後、やうやく以って飾となす。諸国の文身はそれぞれに異なり、或いは左、或いは右、あるいは大、あるいは小たりて、尊卑の差あり。」

「夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を威圧する為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある。」

  計其道里 當在会稽東治之東
「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。」

「その(邪馬壱国までの)道の里程を計算すると、まさに(中国の)会稽から東治の東にあるはずだ。(東治は東冶の誤字と考える。)

  其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫
  婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之

「その風俗は淫ならず。男子はみな露紒し、木緜を以って頭を招(くく)る。その衣は横幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫ふことなし。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被のごとくして、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。」(招は括の転写間違いではないか。職貢図には怗のような字が書かれている)

「その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこに髪を垂らし、(後ろ髪を)折り曲げて結っている。一重の掛け布団のような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。」

  種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
「禾稲、紵麻を種まき、蠶桑す。緝績して、細紵、縑、緜を出だす。その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。」

「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹わたを生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」

  兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「兵は、矛、盾、木弓を用ひる。木弓は下を短かく、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」

「兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄や骨の鏃を付ける。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(の人々)と同じである。」

  倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室
  父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也

「倭地は温暖にして、冬夏、生菜を食らふ。みな徒跣す。屋室あり。父母、兄弟は異所に臥息す。朱丹を以ってその身体に塗るは、中国の紛を用いるが如くなり。」

「倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。」

  食飲用籩豆 手食
「食、飲には籩豆を用ひ、手で食らふ。」

「食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。」

  其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
  喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐

「その死には、棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。始め、死して停喪すること十余日、当時は肉を食らはず。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒に就く。すでに葬るや、家を挙げて水中に詣り澡浴すること、以って、練沐の如し。」

「人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりするが、それは(一周忌に白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。」

  其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
  如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
  謂其持衰不勤

「その行来して海を渡り、中国に詣るに、常に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服を垢汚し、肉を食らはず、婦人に近づかざらしむこと、喪人の如し。これを名づけて持衰と為す。もし行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す。もし疾病有るか、暴害に遭へば、さらに之を殺さんと欲す。その持衰が勤めずと謂ふ。」

「海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」

  出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支
  有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉

「真珠、青玉を出だす。その山に丹あり。その木は枏、杼、豫、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香あり。その竹は篠、簳、桃支なり。薑、橘、椒、襄荷あるも、以って滋味を為すを知らず。獮猴、黒雉あり。」

「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、クヌギ(楺櫪)、カシ(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、?(桃支)である。ショウガや橘、山椒、ミョウガなどがあるが、それを使って、うまみを出すことを知らない。アカゲザルや黒キジがいる。」

  其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
  先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆

「その俗、事を挙げ、行来するに云為するところあれば、すなはち、骨を灼きて卜し、以って吉凶を占ふ。先に卜するところを告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て、兆しを占ふ。」

「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」

  其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
「その会同の坐起に、父子男女の別なし。人の性は酒を嗜む。」

「その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。」

  見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人壽考或百年或八九十年
「大人を見て、敬する所は、ただ手を搏き、以って跪拝に当つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり。」

「大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。」

  其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
  不盗竊少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族
  尊卑各有差序足相臣服

「その俗、国の大人は、皆、四、五婦なり。下戸は或いは二、三婦なり。婦人は淫せず、妬忌せず。盗竊せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す。尊卑はそれぞれ差序ありて、相臣服して足る。」

「その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。

  収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
「祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。」

「租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。」

  自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
「女王国より以北は、特に一大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」

「女王国より北は、特に一人の大率を置いて検察する。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中に於ける刺史のような地位である。」

  王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
  皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」

「(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、いつも、(この大率が伊都国から) 港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」

  下戸與大人相逢道路 逡巡入草
  傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

「下戸は、大人と道路で相逢へば、逡巡して草に入る。辞を伝へ、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪きて、両手は地に據し、これを恭敬となす。対応の声は噫といふ。比して然諾の如し。」

「下層階級の者が道路で貴人に出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る(=道を譲る)。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付けうやうやしさを表現する。貴人の返答の声は『アイ』という。(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。」

  其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
  乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

「その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」

「その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」

  自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
  宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」

「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、(指示もなく)自律的に仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」

  女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」

「女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である。」

  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
  又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

「また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。」

「また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72cm~96cm)で、女王国を去ること四千余里。また裸国と黒歯国があり、またその(女王国の)東南にある。船で一年ほど行くと着くことができる。」

  參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周(あまね)く旋りて、およそ五千余里なり。」

「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」

  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
  太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

「景初二年六月、倭の女王は大夫、難升米等を遣はして郡に詣り、天子に詣りて朝献するを求む。太守、劉夏は吏を遣はし、将(ひき)ゐ、送りて京都に詣る。その年の十二月、詔書は倭女王に報いて曰く。」

「景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。」

  制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利
  奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
  汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
  今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順

「制詔、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣はし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以って到る。汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。すなわち、使を遣はし、貢ぎ献ずるは、これ汝の忠孝なり。我は汝を甚だ哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装ほひ封じて帯方太守に付し、仮りに授く。汝は(それ)種人を綏撫し、勤めて孝順を為せ。」【「其(それ)」は語調を整える無意味の助辞】

「制詔、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(私に)孝順を為すよう勤めなさい。」

  汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
  今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
  今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
  銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
  還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

「汝の来使、難升米と牛利は、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して労ひ、賜ひて、還し遣はす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じ貢いだ所の値ひに答ふ。また、特に、汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、みな装ほひ封じて難升米、牛利に付す。還り到らば録して受け、悉くを汝の国中の人に示すを以って、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜ふなり。」

「汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。」

  正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
  并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣はし、詔書、印綬を奉りて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに、詔を齎(もた)らし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜ふ。倭王は使に因って上表し、詔の恩に答へて謝す。」

 「正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。」

  其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
  上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
  掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬

「その四年、倭王はまた使の伊聲耆、掖邪拘等八人を遣はし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将、印綬を一拝す。」

「その(正始)四年(243)、倭王はまた使者の大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将の官位と印綬を授けられた。」

  其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
「その六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮綬す。」

「その(正始)六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。」

  其八年太守王頎到官
  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

「その八年、太守、王頎官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず、倭載斯烏越等を遣はし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。」

「正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」

   卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。」

「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」

  更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
  復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

「さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。」

「新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。」

  壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
  因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

「壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣はし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。」

「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。」


魏志倭人伝の構造

 魏志倭人伝は、「魏の関連事項としての倭」を書いたものです。したがって「後漢の関連事項としての倭」を書いた後漢書倭伝とは立場が異なります。その根本的な違いを認識していないと、頭を混乱させることになります。魏志に「旧百余国」とあるのは漢書地理志燕地からの引用、「漢の時、朝見する者あり」は范曄に先立つ後漢代の書からの情報と思われますが、魏とは関係がないので、前史として、あっさり片づけています。
 一番後ろに、魏略の構造分析も加えましたが、後漢のデータを交えたと思われる魏略とは明らかに編纂姿勢が異なって、魏志の方が厳密といえます。

●採用資料別色分け
●帯方郡使梯儁と張政の報告の区別に関しては、リンクの「魏志倭人伝から見える日本」を参照してください。

1,陳寿の解説、補足
2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
4,裴松之の加えた注
5,魏の公文書の写し(そのままと思われる)
6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約

倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対海(対馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家 南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸 自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳 次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国 次有支惟国 次有烏奴国 次有奴国 此女王境界所盡 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王 自郡至女王国 萬二千余里 男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在会稽東治之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如単被 穿其中央 貫頭衣之 種禾稲紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異処 以朱丹塗其身体 如中国用粉也 食飲用籩豆 手食 其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十余日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐 其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤 出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉 其俗挙事行来 有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜 其辭如令亀法 視火坼占兆 其会同 坐起 父子男女無別 人性嗜酒(魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀)見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差 序足相臣服 収租賦有邸閣 国国有市 交易有無 使大倭監之 自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 両手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛 又有侏儒国在其南 人長三四尺 去女王四千余里 又有裸国黒歯国 復有其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔 親魏倭王卑弥呼 帯方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還 今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝国中人使知国家哀汝 故鄭重賜汝好物也 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔 其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授 其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝仮難升米 為檄告喩之 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

【参考 魏略逸文の構造】
「魏略」は何でもかんでも書き込んでいるという評価を受けていますが(唐代)、魏志扶余伝に入れられた裴松之の注(魏略逸文)を見ても、それは感じ取れます。魏略逸文にある「倭人は自ら太伯の後と言う」という重要な情報を魏志の著者、陳寿が見落とすとは考えられない。おそらく、それは後漢代の資料だったので、陳寿に無視されたのだと思われます。「春秋を数えて年紀としている」という魏志の裴松之注(魏略逸文)もそうでしょう。

1,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文の要約
2, 奴国の朝貢により得られた後漢代の史料に基づくと思われる文の要約
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文の要約

倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国皆倭種 従帯方至倭 循海岸水行歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里至対馬国 其大官卑狗副曰卑奴 無良田 南北市糴 南度海至一支国 置官与対同 地方三百里 又度海千余里至末盧国 人善捕魚能浮没水取之 東南五百里到伊都国 戸万余 置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚 其国王皆属女王也女王之 南又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王 自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於会稽 断髪文身以避蛟龍之害 今倭人又文身以厭水害也 其俗不知正歳四時 但記春耕秋収為年紀 倭国大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶倭 南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千余里




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