日本食文化の醤油を知る -筆名:村岡 祥次-


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江戸の外食文化 資料

 江戸時代の醤油の製法


『大日本物産図会・下総国醤油製造之図』 三代 歌川広重(1842-1894) (野田市立興風図書館)

『下総国醤油製造之図』から文字部を拡大。
「醤油は葛飾郡野田海上銚子等より出すこと夥し 小麥(小麦)を炒り大豆に和して麹をつくり塩を咊して大桶にいれて熟せしとき布の袋に包ミて〆器に入て搾り樽に詰て諸國に出す就中野田の(亀甲萬)ハ上品にして八升六合入を一樽と定む」



醤油の産地と普及

【江戸時代に入ると醤油の名産地が現れるとともに各地で醤油の生産が始まる。「雍州府志(ようしゅうふし)」〔貞享元年(1684)序〕には、『泉州堺酒家多造之世稱堺醤油名産。然如今則京師酒店多造之又人家製之。堺醤油雖京師之』とある。
和泉の堺醤油が堺の酒屋で大量に作られ名産品になっているが、今は京都の酒屋でも多く作り、人家でも作っていて、堺醤油を使う必要がない、といっている。
「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」〔元禄三年(1690)刊〕にも『醤油堺を名物とす。大坂と両所に造りて諸国にいだすなり。』と、堺と大坂の製品が全国に出荷されているとある。
(中略)
江戸時代前期の十七世紀中には、各所で醤油の生産がはじまり、市販用の醤油が出回り、また、「人家で製する」(『雍州府志』)、「醤油は近世家々で造っている」(『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』〔元禄八年(1695)〕)とあるように、各家庭での醤油作りも始まっている。
(中略)
しかし、十九世紀に入る頃までには良質な醤油が大量に生産されるようになり、特に江戸という大消費地を抱えた関東において著しかった。
十八世紀末には「うどんやの汁しるつきをもって醤油を六文」〔『辰巳婦言(たつみふげん)』寛政10年(1798)序〕買いに行く、といった記述がみられ、醤油が身近で安価な調味料として利用されようになっている。
『経済要録』〔文化10年(1813)序〕には「近来は関東造家も、皆能く精好なる醤油を作り、年々江府に出る所、二百四十五萬樽に及ぶことなりと雖ども、絶て餘れる説のなきを見れば、此亦頗る大なる物産なり」とある。十九世紀の初め頃には関東の醸造家が上質な醤油を大量に生産し、江戸の需要を賄うようになっていた。】 ・・・ 「醤油の歴史/飯野亮一」から抜粋。


江戸時代の醤油の製法

■醤油の材料「大麦」から「小麦」への変化
江戸前期にみられる『雍州府志(ようしゅうふし)』をはじめ『日本歳時記』貞享四年(1687)や『本朝食鑑』などの醤油の製法では、いずれも原料には「大麦」が使用されている。大豆とペアーをなす麦が小麦に定着するまでには時間を要したことがうかがえる。

元禄期に継ぐ宝永期の『大和本草』宝永五年(1708)の「豆油(シャウユ)」の項には『豆油ハ大麦大豆ニテ作ル製法アリ又小麦ニテモ作ル』と、小麦でも作るとある。そして、1712年の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』によると「凡市鄽之醤油皆用小麦也。用大麦味不佳ナラ」とあり、大体、店で売っている醤油は小麦を用いている、大麦を用いたものは味がよくない、といっている。
この二十年後の『萬金産業袋(まんきんすぎわいぶくろ)』〔享保17年(1732)〕には、「小麦」を使った製法のみが紹介されている。そして十九世紀の記録になるとほとんどが小麦を使った製法となる。
『経済要録』文化10年(1813)では、『豆は…小麦麹と調和して、醤油を極上品に造り出すべし』と、小麦を原料に使うことが優れた製品を生み出すとしている。従って十八世紀中には醤油の原料に小麦を使用することが一般化していたものと思える。


■『料理物語』寛永20年(1643)からの醤油の記述。
「料理物語」は、江戸時代初期の料理書として、最もよく知られており、儀式料理の献立や作法などを記した、前時代の料理書の形式主義から脱却して、具体的に平易に、料理の材料や調理法を書いた、最初の画期的な料理書である。
この書の刊本には異版が多く、現在知られているところでも7種の版があり、版を重ねて多くの人々に読まれたものと推定される。現在、寛永二十年版が初版とされているが、慶応義塾図書館には寛永十三年(1636年)2月5日の日付のある手書きの「料理物語」もある。

『料理物語』第二十 万聞書之部(第20章:萬聞き書)

寛永13年版料理物語から、「まさきしやうゆ(正木醤油)は、大麦壱斗、はく(白)につき引はる、小麦三升、是もつきて引わる、大豆壱斗、みそのごとくよくに(煮)候てあげ右の引わりをふりかけ、板の上にうすく置、にはとこの葉をふたにしてねさせ申也、ね候はゞ、塩八升、水弐斗入、作りこみ候也、時々かきまはして吉也、同二番には、塩四升、水壱斗、かうじ(麹)四升入候、三十日して上け候て吉也。」

正木醤油(寛永20年版料理物語)
原文: 「正木醤油 大麦壱斗、白につきいり引わる、大豆壱斗、みそ(味噌)のごとくに(煮)る、小麦三斗も白にして引わる、右之大豆煮候て麦のこ(粉)にあはせ、こ(粉)を上へふり、板のうへ(上)にを(置)き、にわとこの葉をふた(蓋)にてねさせ候、よくね候ハゝ塩八升水弐斗入つくり候、同二番ニハ塩四升水壱斗、こうじ四升入、三十日を(置)きて上げ候也」
訳文: 【精白した大麦一斗と小麦三升を炒って、挽き割り、粉にする。大豆一斗を煮て、麦の粉と合せ「にわとこの葉」(スイカズラ科の落葉樹。茎・葉は煎じ薬)を蓋(ふた)にして麹(こうじ)をつくる。麹が十分生育した後、塩水(塩八升、水二斗)麹四升を混ぜ、三十日間寝かせてつくる】
(「醤油製造技術の系統化調査」/小栗朋之より、『醤油は中国の醤と豉を基に、日本の豆醤、径山寺味噌の液汁等を経て、垂れ味噌や唐味噌、正木醤油のような醤油様液体調味料に進展し、 18世紀の後半頃には今日の本格的な醤油に近いものに育っていることである。原料は大豆と麦であり、その配合割合はほぼ等量で麦は大麦と小麦が併用されている。麹のつくり方については不明なことが多いが、料理物語では、「麦は炒ってひきわり、煮た大豆と合せ板の上に置き、ニワトコの葉を蓋にしてねかせる」とある』)


■『雍州府志(ようしゅうふし)』貞享元年(1684)による醤油作り

醤油という名の物の作り方を記した最も古い記録は、貞享3年(1686年)に刊行された山城国の地誌である『雍州府志』で、炒った大麦と煮た大豆を原料とした醤油の製造方法が記されている。
この醤油の製造方法は、小麦の代わりに大麦が使われている以外は、ほぼ現在の醤油と同じである。


『雍州府志』貞享元年(1684)に記載の醤油の製法
原文: 『醤油。倭俗汁謂 醤油。其製法煮 大豆 熬 大麦 各有 其量両種。共合 之為 麹。及 其熟 則盛 大桶 合 水加 塩是亦有 其量。而後毎日両三度以 械滾 合 之。械竿頭横 小片木 其滾 之也。似 以 櫓械 操 舟。故謂 械。倭俗櫓棹謂 械。又滾 之謂 掻。凡及 二七十日余 盛 其糟於布嚢 置 石於其上 而搾 取其滴汁。以 是煮 諸物 而食 之』とある。

『雍州府志』の訳文
わが国では「醤の汁」のことを、俗に「醤油」と呼んでいる。煮た大豆と炒った大麦を併せて麹を作り、それに塩と水を加えて大樽に入れ、毎日三回、船の棹(かい)のような竿でかき混ぜ、七十日余りの後に、出来た糟(もろみ)を布の袋にいれ、その上に石を置いて、滴したたる汁を搾しぼり取り、これでいろいろなものを煮て食べる』とある。ここにみられる製法は後世のものと変わりがないが、原料には小麦ではなく大麦が使われ、また圧搾して搾った汁にまだ火入れが行われていない。


■『本朝食鑑』元禄10年(1697)
 
本朝食鑑 巻之二 造醸類十五「醤油」

訳文: 「大豆一斗を水漬けしてから十分煮る。精白した大麦一斗を炒って挽いて粉にする。これらを混合して麹をつくる。塩一斗と水一斗五から六升を混合したものと麹を一緒にして大桶の中に取る。次の日から毎日三から五回撹拌し、七十五日経ったら中に簀を丸くして立て、内に濡れ出る液(醤油)を汲み取る。これを「一番醤油」という」
「(一番醤油で出た)渣(かす)と四から五升の麹、塩水(塩一斗と水四から五升)を混ぜて毎日撹拌し、三十日ないし四十日したら簀を立てて内の醤油を汲み取る。これを「二番醤油」というが、これはうまくない」


■『料理集』享保18年(1733)による醤油作り
醤油
一,大麦五升 大豆五升 右大豆天日にてよく干 二つ割にひき割 皮をさり 右まめ麦よくあらひ とり合ふかし 給べかげんに成候節さまし 椛にねせ申候 椛に成候節 天日にて 水壱斗五升へ塩六升七合五勺入よくせんじ おりを引さまし 右豆仕込二日に二度づつかき廻し申候 日数四十日程過候て 椛三升七合五勺入 日数四十日程過 餅米壱升へ水六升入かゆに焼よくさまし入申侯 日数廿日程過候て酒のごとく懸申候 右壱番取候跡へ水壱升に塩三升入せんじ よくさまし置入侯て 四十日程過椛二升入 日数六十日程にて二番をとり壱番へとり合遣候て能候 大豆麦多く仕候はゞ 右せんじ塩段々多く入候てよく候 信解院せうゆにて秘法に候 口伝色々あり大豆麦多く仕候はゞ 右せんじ塩段々多く入りてよく候 信解院せうゆにて秘法に候口伝色々あり
 
一,又法 小麦五升いり候て引割 大麦二升五合そのままにて潤し大豆三升いり候て二つ割に仕に候て 右の煮汁にて三色ともに こねさましおき 板尺むしろ壱枚敷 其上へ青葉を敷 むしろを二枚その上へかけねせ 椛に成侯節 はらはらとなり申程に干塩三升 水壱斗三升入せんじよくさまし 右の大豆椛を仕込申候十日斗も手を付不申 其後かき廻しすみ合立候節 すを立申候 土用の内せんじ置 十月霜月の頃仕込申侯


■『廣益國産考 こうえきこくさんこう 』天保15年(1844)刊 による醤油作り
江戸後期の農書「廣益國産考 ( 広益国産考・こうえきこくさんこう )」著者は大蔵永常(おおくらながつね)、全8巻よりなり、『国産考』ともいう。
江戸後期の商品経済の発展に対応するために農業経営の改良を説き、農業技術を集大成したもので、五之巻は醤油、灯油、蝋(ろう)綿、養蚕などを記述。
廣益國産考の第五巻「醤油」には、醤油およびこれを手づくりにしたばあいの損得についての説明の後に、醤油の造り方の分量や二番醤油の絞り方が書かれている。
廣益國産考 五之巻 醤油より
「五人口に暮らせる家にては、酒樽の古きを三つ調ふべし。一樽に大豆六升大麦のつきたるを六升づつはつくられるもの也。
三樽にては豆壱斗八升麦壱斗八升也。此の麦を炒鍋(いりなべ)にて炒り、半分はあらく臼にて引きわり、半分はいりたるまま豆を煮てひとつにまぶし、花を付くる也。
花を付くる事は、五月より九月十月上旬迄は、家の隅物置杯の土間に菰(こも)を敷き、其上に筵を引き、それへ右豆と麦と合したるを凢そ暑さ一寸五分位にして夏は上に覆いをする事なし。九月に至らば菰一枚十月上旬には二枚も重ね覆ひをすべし。尤覆ひをする前に薄(すすき)の葉を少し糀(かうぢ)の上に置くべし。
又杉の葉を焼きて其灰を少し糀の上にふりかけ置けば必ず花よく付くとてする事なり。何國(いづく)にても家毎に造るは六月土用中に仕込むなり。ただねせ[莚に入れおくを云ふ]て上に覆ひする事なく置けば三日めには上面(うはつら)に白き花付く也。其時手にてくだく事なく上を下へかへし、其まま置き、夫より二日たてばよく花つく也。其時両手にてもみほごし日に干すべし。
是を樽に仕込むには、豆一斗八升ならば一升鹽(しお)のわりに壱斗八升鹽を入れ、水は三升のわりに五斗四升入るべし。是を三升五合のわりに入る人あれども、味ひ劣る也。極上の醤油にせんと思はば、二升七八合のわりに水を入るべし。仕込みたる砒には日々交棒(まぜぼう)にて上下になるやう交ずべし。大體凢廿日も立ちて四斗樽[豆六升麦六升仕込むたる也]一挺分に糀二升に米壱升五合たき甘酒につくりて入るべし。
又酒のかすをとかし入れてもよし。
又米壱升五合に糀弐升をかゆにたき入るもあり。斯くすれば醤油の味ひ格別宜し。
凢七十五日も立ちぬれば味ひよく熟する也。其時左の図のごとき籠をもろみ[しぼらざるをいふ]の中に立て、其かごの中に溜まりたる醤油をくみ取り、つきたる跡を袋に入れしぼるべし。」
(中略)
「手造りの醤油は色白きとて嫌へるものなり。搾りあげて一遍火を入るべし。火を入るるとは鍋にいれたぎらし、凉(さま)して樽杯に入れ貯ふべし。翌三月に成りて、又一へん右のごとく火を入るべし。然すれば色付く也。又殕(かび)出づる事なし。」

 
『廣益國産考』天保15年(1844)の醤油仕込みの挿絵と醤油の造り方の文章の一部
(大豆を炒るところから出来上がった醤油を汲み取るところまでの製造工程が描かれている)
「廣益國産考 五之巻 醤油」のおおよその意味は次のとおりである。
五人家族の家で醤油をつるのであれば、大豆、大麦それぞれ一斗八升ずつ用意する。麦は炒って、半分は粗く挽(ひき)割り、半分はそのままとする。
豆は煮たら麦と混ぜ、麹をつくる。麹づくりは、家の隅の土間に菰(こも)を敷き、その上に筵(むしろ)を敷いて、豆と麦を合わせたものを約一寸五分程の厚さに敷く。夏はこのままでよいが、九月であれば筵一枚、十月上旬なら二枚覆う。覆いをする前に、杉の葉の灰やススキの葉を原料の上に置くと麹がよく出来る。全国どこでも家庭で醤油をつくるのは、六月の土用中に仕込む。
(麹ができたら)樽に仕込む。塩は大豆と同量使用する。水は麹三升につき五斗四升必要である。仕込み終ったら毎日交棒(まぜぼう)で掻き回すこと。
約七十五日たった頃、味もよく熟成する。そうしたら「もろみ」の中に籠をたて、籠(かご)の中に溜まった醤油を汲み取り、溜まらなくなったら、その「もろみ」を袋に入れて搾る。
手造りの醤油は、色が白いと嫌われるが、搾ったあと一度鍋で煮立たせるとよい。冷して樽に入れ貯蔵する。三か月たったらもう一度これを行なえば、色もよくカビることもない。


■中世の料理書『今古調味集』の醤油
江戸時代初期の『古今料理集』は、著者も刊記も不詳ではあるが 1674年以前の刊行とみられる。そこに描かれた図や内容は、一つのまとまった書物として出版されている。
写本の 『今古調味集 』は、 『合類日用料理抄 』・『料理秘伝記』・『料理伊呂波庖丁』・『鯛百珍料理秘密箱 』(1785)・『万宝料理秘密箱』(1785~1800)・『豆腐百珍』(1782)・『豆腐百珍続編』(1783)・『料理早指南 』・『素人庖丁』(1803~20)など種々の料理書からのダイジェスト版的性格を持つ。 (別府大学短期大学、香蘭女子短期大学、広島文教女子大学、 中世の料理書の研究 『今古調味集』(1)(2),第3-4報より)

江戸期の写本「原奥書(おくがき)」に天正八年庚辰(1580) 信州山家住人 折井内近助人道源祐閉と記された『今古調味集』から、「醤油 味噌 酢 香物之事」の記述部分を以下に抜粋する。[参考:別府大学短期大学部紀要 第15号(1996),中世の料理書の研究 『今古調味集』(1)]
醤油
「小麦一斗炒破 大豆一斗煮て二色共麹とする塩一斗右小麦の挽割 たると大豆と交麹とす 右三品桶に入水二斗五升を入て杓子にて頻々とかきまぜるなり 尤初一ケ月斗は頻々 かきまぜ夫より朝夕暮三度程撹尤十二,三ケ月にて 醸成とす 扨一年程して程布袋に入て絞なり 又好みにて酒粕豆液など入和 して絞る時は悪節事なりと言も 夏月は勿論秋冬と言も久敷成て色 かび出又は虫などを生じ易し又だしに和調ば酸気を出し大いに味を失うなり 家醸の如は全て酒粕の類を用ゆべからず又事節を好時は 右の中へ末糀二斗ばかり入れとくと年月を経て絞り用時はそれ甘味なり 右之仕入方は八味と言積りなり 但し六味とは水一石に 麹六斗の積を以て仕立るを言なり」
大麦醤油  
「大麦一斗二升研賑 大豆一斗塩一斗右両品糀とする事 小麦の 如して水二斗を用いて成醸する事前の如して宜し」
溜り醤油  
「製法右前の如く(大麦醤油の意)にて宜し桶中へ簀をたつ 但竹にて籠を作り桶中 へ立其中へ溜たるを汲取り用ゆ外に法有にあらず 但し備前紀伊播磨三州の醤油皆鹹ヲ宗として又甘きなり 然共上下有り 先湯渉成物を最上トス 作再交物有なり能 吟味すべし 或は水をさし和布扨煎て其汁へ調和し又は酒粕など入又豆液の類を入 右の類ヲ用ゆる時ハ決して鹹の内に苦酸の気ヲ帯して悪敷又酸気を発して煮汁の味を 失して品身悪敷して腐り易すし能々得心して味ひ仕立べし」




醤油の隆盛と大量生産

■醤油の隆盛と大量生産
江戸時代初期(17世紀前半~後半)は、上方の醤油が人気で、高価な「下り醤油」(たまり醤油や澄み醤油)が船で大量に江戸へ運ばれ、関東醤油の倍近くの値段で販売されていた。元禄年間(17世紀末~18世紀冒頭)になると、江戸近辺の北関東で醤油づくりが盛んになり、味も“江戸っ子”の嗜好にあった「関東地廻り醤油」(濃口醤油)が生産されるようになる。この濃口醤油が好まれて、蕎麦、天ぷら、鰻の蒲焼、寿司、煮物など、江戸の食文化を作り上げた。

江戸時代初頭まで、関西の「醤油」は「たまり醤油」が一般的で、17世紀中頃から濁り酒と異なる清酒を漉(こ)す技法を転用した醤油のもろみを漉し取った「すみ(澄み)醤油」へ移行し生産が増大していった。江戸では、紀州の「たまり醤油」から濃口醤油の転換は元禄十年(1697)頃だという。関東で「すみ醤油」がつくられるようになるのは正徳年間(1711-1716)頃からだと考えられている。

江戸時代後期になると江戸で使用される醤油は、上方醤油(下り醤油=澄み醤油)から関東醤油(濃口醤油)が大半を占めるようになる。関西では「うすしょうゆ=薄口醤油)が主流となり「澄み醤油」は姿を消していく。そして、幕末になると江戸は、利根川近辺で製造される「濃口醤油」が江戸の市場を制圧した。



19世紀(文化・文政期、1804-30年)に入る頃までには良質な醤油が大量に生産されるようになり、特に江戸という大消費地を抱えた関東において著しく、関東の醸造家が上質な「関東地廻り醤油」(濃口醤油)を大量に生産して江戸の需要を賄うようになっていた。
醤油の価格は、江戸初期の頃は米の3~4倍と高価だったが、江戸後期になって手工業的に大量生産できるようになると安くなり、1升(1.8リットルで50~70文くらいだった。同じ量の米の1.3~2.7倍くらいとなった。
江戸時代後期の経済学者・佐藤信淵の『経済要録』文政10年(1827)には「近来は関東造家も、皆能く精好なる醤油を作り、年々江府に出る所、二百四十五萬樽に及ぶことなりと雖ども、絶て餘れる説のなきを見れば、此亦頗る大なる物産なり」とある。
幕末期の『守貞謾稿』嘉永六年(1853)には「江戸ハ、大坂ヨリモ買漕シ、又、近国ニテモ製シ出ス。下総ノ野田町、常陸土浦等ヨリ出ル物上製也」と、相変わらず上方の製品が江戸に回漕されてはいるが、野田や土浦では上方に劣らない上等な製品を生産し、大消費地江戸に出荷している様子を伝えている。


(江戸時代の醤油の製法、参考文献:服部栄養専門学校/飯野亮一、武庫川女子大学/田畑麻里子/食物栄養学科助手、野田市立興風図書館、広益国産考/岩波文庫/大蔵永常著、別府大学短期大学部紀要 第15号(1996)、国立国会図書館、国文学研究資料館、京都府立京都学・歴彩館)




合類日用料理抄(ごうるいにちようりょうりしょう)
『合類日用料理抄』 巻一「醤油之類」
「醤油之類 醤油の方」
一、大豆壱斗 煮ル
一、大麦壱斗しらげ炒引わる
一、小麦三升 炒て引わり粉にす。右三色能々まぜねさせ申候
一、水弐斗 一塩壱斗
水の中にて塩をもみくだきすいなうにてこし右の塩水をにやしひえ候ほど二日も三日もさまし仕込申候
其時糀八升入桶の中にてもみ合一日に二度宛かき申候
五十日の間如此仕候其後中白米壱升ヲ水八升にて粥にたき此かゆを入物いくつにも入すえり不申候やうに成ほど早クあふぎさまし能冷候時右の醤油の中へ入よくまぜ其後も初のごとく一日に二度づゝかき廿一日過候てあけ申候
二番醤油は右の粕の中へ水壱斗塩五升前のごとくせんじさまし候て其時糀をも四升入又毎日二度づゝかき候て廿一日過又中白米壱升ヲ水七升にてかゆにたき前のごとくさまし仕込申し候
其後も毎日二度づゝかき五十日ほど過て上ルなり此醤油何時も成候へ共同は六月のあつき時分仕込てよし

「合類日用料理抄(ごうるいにちようりょうりしょう)」醤油の方(醤油のつくり方)

『合類日用料理抄』元禄二年(1689)初版の料理書。寛政四年(1792)に再版。五巻が一冊に合冊されている。
各巻の内容は
巻一、酒之類 味噌之類 醤油之類 粉之類
巻二、餅之類 麪類 菓子の類
巻三、漬物の類 豆腐の類 菓持様 雑の類
巻四、魚類 鮨の類 塩漬の類 塩辛の類 鱠の類 指身の類 釜鉾の類 鳥の類
巻五、魚類 雑の類 薬の類
である。書かれている内容は、広く秘伝口伝・聞書の類等から料理に関する事柄を丹念に集めて再編成したものであり、江戸時代の料理百科である。

(神戸女子大学古典芸能研究センター)



和漢三才図会(わかんさんさいずえ)


「和漢三才圖會(わかんさんさいずえ)」正徳5年[1715]刊は、中国の『三才図会』(さんさいずえ)にならって、江戸時代中期の大坂で寺島良安により編纂された日本の類書(百科事典)である。
「和漢三才圖會」は全体で105巻81冊あり、和漢古今にわたる事物を天文・人論・土地・山水などを天(1-6巻)・地(7-54巻)・人(55-105巻)の三部門に分けて並べて考証し、図(挿絵、古地図を添えた。各項目は漢名と和名で表記され、本文は漢文で解説されている。
この中の地・和漢三才圖會105巻「醸造、酒・菓子・鹽(塩)・酢・醤油之類」という一冊には、味噌・醤油・酢・酒・焼酒(焼酎)・味醂酎(味醂酒)などの醸造物についての記述がある。





■和漢三才図会 巻第百五 「醤油」

<醤油の名についての記述>
和漢三歳図絵には醤油として「醤、倭名比之保、本邦俗加油之字、其未搾者為醤、似為二物」とあり、訳文は「醤、和名は比之保(ひしほ)、わが国では俗に油の字を加える。まだ搾しぼらないものを醤(ひしほ)というので、醤と醤油は別物としてよい」となる。このように、醤油は醤の汁であると書かれていて、醤を搾って用いるようになってから醤油と称したものである。
 

<和漢三才圖會の醤(ひしお)>
和漢三才圖會には「未醤(みそ) 高麗醤 和名美蘇」の項で、白未醤・糠(ヌカ)未醤の作り方の次に「醤 倭名比之保」が出てくる。醤とは、「醤 倭名比之保、豆醢也、今造法、大豆一斗、炒麤(粗)磨去皮、精麦一斗、一夜浸水、豆麦混合、盦(蓋)麹別用、醢(塩)二升六合水一斗、一沸去渣冷定、和豆麦盛桶、毎月向陽、攪至十余日、密封二十日、而成、俗謂比之保未醤」。このように「醤」は豆醢也、とある。
醤は醤油の元であつて、即ち醤( ヒシホ)より味噌となる。 和漢三才図絵の記すところは、原料は今日の醤油にほぼ同じであるが、実は俗にいう比之保未醤(味噌)である。

<豆油と大麦醤の製法>
豆油( タマリ)の造法
大豆三斗を用いて、水を以て煮糜し、麹二十四斤を以て撹拌し、黄色を呈するに至りたるもの、十斤に付塩八斤、 井水四十斤を入れて撹拌し、之を晒らして、油となし、而して之れを収取す。
大麦醤の造法
黒豆一斗を用いて、炒熬(しゃごう)し、水に浸すこと半日、更らに同様にして煮爤(爛)したる大麦麹、二十斤を以て撹拌し、篩いて麹を下し、煮豆汁を用いて、和剤し、之れを切片し、蒸熟し、晒して之れ挽き、毎一斗に塩二斤と井水八斤を入れ、晒して黒甜(こくてん)と成し、而して之れを清澄ならしむ。

<醤油の製法>
原文: 按ずるに、今本邦に於ては、大麦醤、小麦醤の二種を用ゆ、大抵其造法は、大豆一斗を水煮し、精麦一斗を妙りて、之れを粗磨し、以て伴罨して麹となし略ぼ晒し、別に塩一斗水二斗五升を用いて煎沸し、冷定し、桶に盛り、豆麦之麹を投じ、毎日槌杖を以て、之れを攪伴し、夏七十五日、冬百日にして成る、之れを搾りて油を取る、其油は色浅く美ならず、一度之れを沸煮し、桶に収めて若干日を経過すれば、則ち色沢黒くして而して味も又美となるなり、其粕を用いて、再び之れに塩水を和して攪伴し、其油を搾る、之れを二番醤油と云う、味最も劣れり、凡そ市鄽の醤油、皆な小麦を用ゆるなり、大麦を用ゆる者は味佳ならず、然れども病人之を吃(くら)えば、妨(さた)ぐる所なし、蓋し未醤(ミソ)及び醤油は、本邦庖厨一日も無かるべからざるは、猶ほ支那人の麻油を尚ぶが如くなり

現代語訳: 【醤油には大麦を原料にしたものと、小麦を原料にしたものがある。つくり方は、大豆1斗をよく煮る。精白した麦1斗を炒って粗(あら)く挽く。これらを一緒にして麹(こうじ)をつくる。塩1斗と水2斗5升を混ぜて煮る。これを冷まして桶に入れ、そこに豆麦麹を入れてよく撹拌(かくはん)する。夏は75日、冬は100日で出来上る。これを搾り、油を取る。油を取った液を一度煮る。色は黒くなるが、味はよい。搾った渣(かす)を使って再び仕込み、同様の方法で液を取る。これを「二番醤油」といい、味はすこぶる劣る。市販されているおおかたの醤油は、みな小麦を用いており、大麦を使ったものは味がよくない。そのため市に売っている醤油は、皆、小麦で造ったものである。味噌及び醤油は、本邦で一日も欠くことのできないものである】

 
「和漢三才圖會」巻第百五 醸造類


■『和漢三才図会』『萬金産業袋』による醤油の火入れと生醤油
『和漢三才図会』正徳2年(1712)には『これ(諸味)を搾って油を取る。油の色は浅く味はよくない。一沸かし煮立ててから桶に収め、一夜すると色は深黒で味もよくなる。そのカスを再び塩水にまぜてかき混ぜ油を搾る。これを二番醤油という。味は大へん劣る』とあるように、醤油に火入れをすることも行われるようになる。
搾った油を煮立てると色も味もよくなるとあり、十八世紀の初めには火入れの効果が知られていた。また、ここには二番醤油についても言及されている。二番醤油については、すでに『多聞院日記』に「唐ミソ二番」の名で二番醤油作りが行われているが、『本朝食鑑』にも「二番醤油」の作り方が詳しく載っている。醤油作りが始まるとその搾り滓を再利用した二番醤油作りも行われるようになっている。

二番醤油が作られる一方で、諸味に増量剤を添加した醤油も作られていた。西鶴の『好色一代女』貞享三年(1686)には『当座漬けの茄子に、生醤油を掛けて』と『生醤油』の名がみえる。
近松門左衛門の世話物初作『曽根崎心中』元禄16年(1703)初演の主人公徳兵衛は醤油屋平野屋の手代で、徳兵衛が丁稚に「生醤油」の樽を持たせて得意先回りをする場面が出てくる。ここにみられる生醤油は、生一本と同じく、純粋でまじりけのない醤油のことと思える。この生醤油に対して生でない醤油も作られていた。

また、先の生醤油の記述に関して、『萬金産業袋』に『是(搾り取った醤油)を此ままにてつかふ時は、生しやうゆにて風味よくかろく何程に暑気の時も、少も出ず、よろしけれ共、今当代のねだんにては中々売当にあはねば、中古よりもどしといふ事を仕出す。酒屋のふんごみ粕三貫目に、水壱斗塩三升いれ、よく煮立てればどびろくのことくなる。それをよくさまし置、しやうゆ壱斗の中へ、右のもとし四升か四升五合の割を以て諸味の中へいれ、袋にいれしめ木にてしぼる』とある。 生醤油は風味もよく、日持ちもするが、価格の点でなかなか商売になりにくいので、諸味一斗に対し四升~四升五合の割合で「もどし」を加えてつくるとある。


■『和漢三才図会』と『萬金産業袋』にみる現在の醤油作りの関係
「しょうゆの科学と歴史」財団法人日本醤油技術センター/田上秀男より以下を引用する。
『現在、「しょうゆ」と言えば、通常、8 割以上のシェアを占める「こいくちしょうゆ」を意味する。この「こいくちしょうゆ」の作り方の特徴を歴史的視点で整理すると、①大豆と小麦がほぼ等量、②麹菌を使用する、③バラ麹(甘酒や清酒を作る時の米麹のような形状)、④原料を全て麹とする、⑤清澄な液体調味料 の5つのキーワードが挙げられる。
これらの、5つの特徴が揃ったのがいつの時代か、川の流れに例えて文献に基づいて遡って行くと、江戸時代の中期に至る。1712 年の和漢三歳図絵(わかんさんさいずえ)、1732 年の萬金産業袋(ばんきんずわいぶくろ)の記載により明確となる。』



和漢三才図会とうなぎ蒲焼
「みんなの知識 ちょっと便利帳」/土用の丑の日の鰻から以下を引用する。

『和漢三才図会』という江戸時代中期の文献の「うなぎ」の項目に「馥焼(カバヤキ)」が見られる。
(要約)
馥焼(かばやき)
中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて醤油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美なり、あるいは蓼醋(たです)にひたして食べる者もあり。多く食べると頬悶して死に至ることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり。

*「かばやき」には、「馥」の字が当てられている。「馥」は、音で「フク」、訓で「かおり」。 「かば」という読み方はないようだが、「かんばしい」「ゆたかな香り」という意味から当てたもの。
*『近世職人尽絵詞』 では、「かばやき(蒲焼)は、か(香)はよ(能)きの相通なり」としている。




「下り醤油」の復元

■「下り醤油」を復元したら(読売新聞記事)

そば、握り寿司、天ぷら、蒲焼きと言えば東京の味の代表格。その完成はざっと170~200年前の文化文政期で、今我々が口にする濃口しょうゆの登場時期とも重なる。それまでは色が薄く塩味のきつい上方からの『下りしょうゆ』が全盛だったのに、ここで江戸庶民の味覚は劇的に変わった。

そう解説するのはキッコーマン国際食文化研究センター(千葉県野田市)長の平山忠夫さんだ。塩味以上に色・うま味・香り・コクが前面に出る濃口は、かつお節や砂糖、味醂(みりん)などの強い調味料にも負けず、これがそばつゆや鰻(うなぎ)のタレ独特の甘辛味を育てた。
「でもそれを本当に確かめるには当時の下りしょうゆの味を知らないと」そこでセンターは2年前から下りしょうゆの復元に取り組み、昨年末、最初の製品が完成した。

18世紀前半の文献を参考に、江戸起源の大豆や小麦を使い、夏場にもろみを仕込んで都合5か月の工程。 一概に熟成時間の長短だけがしょうゆの味を決めるのでもないようだが、この工程は極端に短い。
所内の検査でも 〈1〉大豆のうま味が分解されていない 〈2〉アルコール発酵が不十分 〈3〉瞬間的な口当たりはいいが、すぐに塩辛さが来る ―― などのマイナス評価が目立った。確かになめるとしょうゆと言うより単純な食塩水に近い。これで天丼の丼つゆをこしらえても、例の“甘辛”は出そうにない。

念のため復元品で伝統的懐石料理の宗家柳原一成さんが往事のレシピを試したところ、「胡椒(こしょう)飯(茶飯の一種)なら強い塩気のおかげで色が淡く味も十分」という結果になったとか。裏を返せば茶飯だけでは物足りなさを感じる口の奢(おご)り、それが現代のしょうゆに垣間見えるわけだ。
(2005年9月12日  読売新聞 快食ライフ/宇佐美伸)


■江戸料理の再現(近茶流宗家 柳原一成)

『料理珍味集』(1763年)より【胡椒飯(こしょうめし)
胡椒食(こしょうめし)
分量通りのしょうゆを加えて炊いたらどれほど濃いしょうゆ色になってしまうかと案じた一品である。
このたび、出来上がった江戸醤油で試作して、なるほどと膝を打った。
書物をみただけでは、このめしのおいしさはわからなかった。
醸造期間が短い分、色が淡く、実によい味に仕上がったのである。



調理方法
①米はしょうゆを茶碗の蓋に1杯と1割5分増しの水を入れ、更に胡椒小匙2杯を加えて炊く。
②鰹だしにしょうゆで薄味をつけて青刻み昆布を加え、①の飯を茶碗によそってかける。
③薬味は大根おろし、陳皮、唐辛子、山葵を好みで使う。
(キッコーマン国際食文化研究センター)






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