明石の見どころ

1.中部幾次郎翁銅像
 「ようこそ来ていただきました」と、歓迎していますのが、この中部さんです。大洋漁業の創立者です。明石の東魚町で生まれた方で、生家は生魚運搬業をしていました。18歳の頃から家業を手伝っていました。いかに鮮度の良い魚を、早く運ぶかを考えて、日本で初めて船に発動機を付けた人です。また造船所を造ったりして、最終的には大洋漁業を生み、南氷捕鯨に乗り出した人です。自分が築いた財を明石の学校や商工会議所のために投じました。その功績をたたえて、昭和3年に銅像が建ちましたが、戦争末期に金属回収で撤去されてしまいました。現在の銅像は、昭和26年に再建されたものです。

2.長屋門
 昔、お堀に沿って東へ家老屋敷が並んでいました。商工会議所がある所は、小泉家でした。ところが、昭和20年に空襲で焼失しました。その中で一つだけ残ったのが、織田家の長屋門でした。月照寺の山門と同じ様式で作られており、明石市の指定文化財になっています。

3.明石城入り口
 100年くらい前には、入り口には「太鼓橋」が架かっていました。幅が5.5メートル、長さは20メートルぐらいある大きな橋でした。お城を囲むようにしてある堀は「中堀」です。「外堀」は今の国道2号線あたりでした。
 入り口は、敵が来てもすぐに攻め入られないように枡型になっていました。防備をよく考えた作りになっています。今の姫路城などは入り口がまっすぐになっていますが、それは後々に作り直されたものです。
 またこの正面入り口は正式な時にしか使われませんでした。普段は、西門や東門を使用していました。

4.時打ち太鼓
 時間を知らせる「時打ち太鼓」は、以前は城の入り口にありましたが、今の場所に移されました。二時間おきに太鼓で時を知らせていました。

5.明石城
 阪神淡路大震災で、明石城も大きな被害を受け、石垣が全て崩れ、二つの櫓も傷みました。石垣を修復するために、櫓をジャッキで持ち上げ、下にレールを敷き、70メートルほど後ろに下げ、修理した後、また元に戻しました。櫓が以前の姿に戻るのは2000年の4月の予定です。
 今、西に鮮やかに白いお城が見えています。それが坤(ひつじさる)櫓です。これは豊臣秀吉が建てた京都・伏見城から持ってきたもので、屋根瓦には豊臣家の家紋が入っています。明石城には天守閣がなかったので、坤(ひつじさる)櫓がその役目を果たしました。
 もう一つの櫓が「巽(たつみ)櫓」です。本丸から東南方向なのでこの名前が付きました。この櫓は明石の西新町西南の船上(ふなげ)城から取ってきたものです。船上城はキリシタン大名であった高山右近が造った城です。
 以前は本丸の回りには、巽、坤、乾(いぬい)艮(うしとら)の4つの櫓があったのですが、明治6年、明治政府の「廃城令」のもと、取り壊されました。城の中心である本丸は3階建てで、お殿様の住む御殿もありましたが、寛永8年正月、火事で焼失しました。
 坤櫓の北側に5階建ての天守閣を造る予定でしたが、初代小笠原忠政(ただまさ)は16年間明石で勤めた後、九州の小倉へ移りました。理由は、九州の外様大名を監視するためでした。また、天下太平の世となり、天守閣を造る必要が無くなり、結局、坤櫓が天主台の役目をすることになりました。
 殿様の政務を執る場は天守閣でしたが、普段の生活の場は、現在の公園の芝生から野球場・バレーボールコートにあった御殿、居屋敷廓でした。城の北側に桜堀があり、その奥に剛ノ池があります。昔は城を守るために堀が造られていました。廓の外には堀や土塀、港が築かれ、外堀は今の国道2号線のあたりでした。また今の明石港は初代・小笠原忠政の時代に砂浜を掘り下げて造られたものです。当初は深さが1メートル足らずでしたので、大きな船は入れませんでした。代々の殿様が武士や町人を使い、徐々に深く掘り下げていきました。掘り下げられた時に出た砂を埋め立てて、今の岩屋神社や中崎公園ができました。
 また明石城の素晴しい石垣は、一国一城令によって取り壊された三木城、高砂城、船上城などから持って来たものです。それでも足りなかったので、家島、淡路、舞子の石ヶ谷などから切り出されました。石垣は船を使い、明石川から剛ノ池へと運ばれました。
 歴代城主は、初代小笠原忠政から第17代松平直致(なおむね)までで、小笠原忠政は信州・松本より赴任しました。小笠原という姓ですが、徳川家康の孫であり、徳川氏とは親族関係です。つまり親藩大名です。
 1600年関ヶ原の合戦で勝利したのが、東軍の徳川家康です。1614年「大阪冬の陣」、1615年「大阪夏の陣」で豊臣家は完全に滅びました。幕府は豊臣方に味方した大名たちを中国地方、四国地方、九州地方などの遠隔地へ配置しましたが、外様大名が反乱を起こした場合、姫路城、大阪城だけでは押えることが難しいので、明石の人丸山にも城を造ることになりました。そこは城ができる前は、月照寺の前身である湖南山楊柳寺(こなんさんようりゅうじ)と柿本人麿呂を祀った人丸塚がありました。

6.薬研堀
 この池はとても深く、一度落ちると這い上がることができません。今はこんなに小さくなっていますが、もとは中央公民館、県立博物館、市立図書館、自転車練習場の辺りまでありました。この広大さは、明石城の北の守りのひとつとなっていました。

7.千石堀
 この千石堀はお城の東北を守るひとつの砦です。この深い堀があるために、攻め入ることができませんでした。戦時には明石藩の武士が、この空堀の前に待機していました。

8.太寺
 江戸時代において太寺は、太寺が原という原っぱで、明石藩の馬術の練習場でした。そして文化博物館の辺りは、馬出しといって明石藩の馬が出ていく所でした。明石小学校の裏手側までが明石城の敷地でした。

9.上の丸台地
 ここからは弥生時代の土器、古墳時代の器、たこつぼなどが見つかっています。また古代の人が食べていた貝類や獣の骨も発見されており、昭和62年の発掘調査では、弥生式の土器の見つかって居ます。よってここは海に面した日当りの良い台地であったことがわかります。

10.明石神社
 この神社はもともと明石城の敷地内にありました。9代目城主・松平直営(なおつね)が先祖の徳川家康、松平直良(なおよし)、松平直明(なおあきら)を祀ったのが始まりでした。明治31年の御料地編入のために移転を余儀なくされ、大正7年にここへ移されました。明石城の太鼓門に置かれていた時打ち太鼓はこの明石神杜に保管されています。
 この時打ち太鼓は明石市の文化財になっています。胴体の部分は、ケヤキで作られ、直径は2メートル70センチ、皮の部分の直径は80センチあります。歴代城主がやらせた皮の張り替え修理の記録が、太鼓の胴体の木の部分に書かれています。そのために文化財に指定されています。
 この神社の西隣には、山王神社がありました。お城の鬼門除けに、14代城主・松平斉音名(なりつぐ)が建てましたが、現在は震災で倒壊してしまいました。

11.時の道
 大聖寺の六角塔の上の観音像は、太平洋戦争の戦没者や明石で犠牲になった人を祀っています。
 このあたりは江戸中期の殿様が、ウグイスなどの鳥を放し、その歌声を競わせる遊びをしていました。その頃は松や梅がうっそうと繁っていたそうで「鶯谷」といわてれいます。
 キリスト教会も大変立派な建物です。明石には昔キリシタン大名の高山右近が船上城にいたことがあり、その影響でキリスト教が広まりました。

12.妙見杜
 ここには妙見大菩薩が祀られています。妙見大菩薩とは、北極星や北斗七星を神の化身として信仰するものです。その星たちはいつも同じ場所にあり、動くことがないため、信仰の対象となったのです。お堂には妙見大菩薩玄武像が祀られています。お隣の本松寺を船上城から移した明石藩の家老斎藤甚左衛門の祖先が島左近でした。その島左近の守り本尊だった妙見大菩薩玄武像を斎藤甚左衛門が寄進したのが始まりです。それから70年ほど後、江戸時代中頃に本松寺を守護する神社として妙見社は建てられました。
 日蓮宗は勇ましい宗派であるとして、武士を中心に崇拝されており、家老たちの寺でもありました。その中でも特に勇ましかったのが島左近でした。石田三成は、自分の領地の半分と引き替えに彼に家来になってくれるよう頼みました。「三成に過ぎたるものは二つあり」という言葉があります。それは三成の城「佐和山城」と島左近のことです。
 島左近は関ヶ原の戦いの時、非常に目覚ましい働きをしますが、戦死してしまいました。けれど、石田三成の見込んだ武勇に優れた人物だということで、江戸時代に入っても島左近ゆかりの妙見杜に大勢の武士たちがお参りにきたそうです。そのために立派な本殿が出来上がりました。現在も毎朝6時半に本松寺の住職がお参りされるので、そのときにお願い事を一つ書いておくと祈願をしてくれます。
 妙見杜には「国土の安全」「災害を防ぐ」「福寿」「眼を守る」というご利益があるといわれています。
 この場所は春はツツジ、秋はハギが美しいといわれています。また昔は夜道を通ると狐が人をだます、とも言われていました。明石で腕自慢の者が狐退治に行きましたが、逆に狐にだまされて、目が覚めると大蔵海岸にいたという話しがあります。

13.本松寺
 ここは日蓮宗法栄山本松寺といい、もとは林崎の船上(ふなげ)にありましたが、明石藩が出来た当時、藩の家老(斎藤甚左衛門)がこの地に移すことを願い出ました。船上では侍たちが集まるには不便なためです。8代松平直明(なおあきら)は、家来たちが帰依している寺でもあるのでそれを許し、寺には1年間充分に食べられるだけのお米と畑を与えることにしました。今も松平直明が書いた刻印や書き物が残っています。
 この辺りに植えられているヤマモモは300年以上経っています。寺が移って来た時からです。またヒガンザクラが秋と冬に咲きます。後には納骨堂がありますが、昔は立派な鐘撞き堂がありました。高台であったために鐘の音は響き渡り、本松寺の鐘は有名でした。が、戦時中に金属供出で今はありません。
 本堂の裏には宮本武蔵が作った「枯れ山水」があり、本堂の中の屋敷から見ると大変素晴しいものでした。

14.亀の水
 亀の水は300年以上も流れ続けている自然水です。この参道が出来た時、上には水がなかったので手水鉢の代わりとして作られたのですが、手水鉢だけでなく米を研いだり、洗濯水としても使われていました。下には丈夫な瓶を受けていたのですが、あまりに多くの人が使ったために壊れてしまいました。
 1719年に常陸の国(今の茨城県)の目明かし飯塚重政(いいづかのぶまさ)が、犯人を明石まで追い詰め、とうとう捕まえました。その手柄に対して恩賞が与えられましたが、重政は受け取らず、その代わりに犯人の刑を減刑してやってほしいと願い出ました。その申し出は受け入れられ、特別な計らいで叶えられました。重政は、犯人が捕まえられたのも減刑が許されたのも全て柿本神社のおかげであるとして、手水鉢を寄進しました。それから200年もこの水を受け続けているのです。昨今の自然水ブームで昼夜を問わず、たくさんの人が水を汲みに来て近所迷惑になっています。そこで重政に成り代わり立て札で注意を促しています。
 亀の水という名前の由来は、この上の柿本神社に亀の碑というものがあるので、それに由来しています。

15.月照寺
 明石城本丸ができる前、弘法大師空海が人丸山に湖南山場柳寺.(こなんさんようりゅうじ)として建てたお寺が始まりです。明石城が建てられることになり、名も月照寺と改め、この地へ移されました。
 月照寺の山門は大変素晴しいものです。この山門はもともと豊臣秀吉が建てた伏見城の「業医門(やくいもん)」を二代将軍徳川秀忠が初代明石城主小笠原忠政に与えました。忠政はその門を居屋敷郭(いやしきくるわ)の「切手門」として使いました。ところが、明治になって城が取り壊されたため、その門は月照寺の門となったのです。この門は伏見桃山時代の建築様式でしたが、阪神淡路大震災によって大きな被害を受けました。そこで明石市が1997年に修復工事を行ないました。両脇の柱は、樹齢240年で直径1メートルのトガの木を使っています。この木の生育地は四国や紀伊の山奥にしかありません。8ヶ月をかけ、姫路の業者が修復しました。屋根瓦も以前の通り「葵のご紋」を入れ、それには6,400万円もかかっています。 もともとここには千体地蔵尊という地蔵があります。このあたりは月照寺と柿本神社を合わせて「人丸・ひとまる」といわれています。人丸とは「火・止まる」ということから火除けの神とされ、また「人がとまる」として安産の神様、目の神様、航海安全の神様ともいわれ、ご利益があると言い伝えられています。
 また「八房(やつふさ)の梅」という梅の木もあります。一つの花にめしべが2つも3つもある珍しい梅です。赤穂浪士の大石良雄と「ませきゅうだゆうまさきよ」が首尾よく吉良の首を討てるようにと絵や鉢植えの梅を奉納し、願をかけました。

16.子午線
 子午線というのは北と南を結ぶ線のことです。東経135゜に明石の街はあります。日本の標準時で、この線上に太陽が来たら正午であると定められたのは、明治21年です。明石では子供達に東経135゜を教えるため、正確にその位置を調べようと京都大学の先生に正確に星を観測してもらったところ、月照寺を通るところだと判明しました。そこでここに昭和5年、教師や子供達のカンパや寄付で表示柱を作りました。この表示柱の上部にはトンボが飾られています。トンボはアキツと呼ばれており、それが日本の昔の名前であるアキツシマを連想させるということで、日本の子午線のシンボルとしてトンボが飾られたのです。
 天文科学館ができたのは昭和35年6月10日、時の記念日に開館しました。昭和32年から33年は国際地球観測年だったので、建てられたのです。眺めがよく、明石の街を一望することができます。またこの地のシンポルとして大時計は親しまれていますが、震災で壌れてしまい、今の大時計は3代目です。直径6.2メートルあります。日本には天文科学館がたくさんありますが、東経135゜を通るのはここだけですので、再建するのに文部省からも援助がありました。参考までにいうと英国のグリニッジ天文台を基準にして東へ180゜、西へ180゜で一周。経度15゜移動するごとに一時間の時差がうまれます。

17.柿本神社
 奈良の飛鳥時代、天皇でいうと持統、文武の時代にその両天皇に仕えていたのが、柿本人麻呂でした。万葉集20巻、4,500首の歌の中でもすぐれた歌人のひとりです。女帝持統天皇に仕えていましたが、晩年は近江、讃岐、石見の国司として活躍しました。何年かに一度、都へ報告のために戻ったり、また任務のため出て行く時、この明石の地を通ったのです。
   天ざかるひらの水路をこひくれば明石のたよりやまとじまみゆ
これは任地から大和に帰って来るときの喜びの歌です。それに対して、
 (初めの5文字不明)・・・明石おおたりいらいしや こぎわかれなん 家のあたりみつ
これは川をさかのぼり、浪速の港から船が出ていくときの悲しみの歌です。その当時浪速から九州まで行くのに一ヶ月以上かかっていました。このように明石海峡は喜びや悲しみの接点だったところでした。また、天皇を神格化した歌も残っています。
   おおきみは神にしませば雨雲の雷(いかずち)のおりひよりせんかも

18.盲杖桜
 その昔、九州に目の不自由な人がいてなんとか目が見えるようになりたいと思っていました。播磨の国の明石というところに神様がいらっしゃると聞き、はるばる九州から桜の木の杖をついて人丸山へお参りにきました。その神殿で
   ほのぼのとまこと明石の神なればわれにも見せよ大麻呂の塚
と歌を詠んでお祈りをしました。するとたちまち目が見えるようになり、その人は非常に喜びました。そして自分がついてきた桜の木の杖を突き刺して帰りました。それが立派な桜の木となり、それを後の人々は「盲杖桜」と名付けました。それほどご利益があるといわれています。

19.大砲
 大砲は、幕末に外国の黒船が押し寄せてきた時にその船を打ち滅ぼすため、16代松平慶憲(よしのり)が明石の松江から塩屋まで十合の大砲を配置しました。それは今も舞子に残っています。

20.亀の碑
 この亀の碑は、柿本人麻呂の生涯を書いた文章で、6代松平信之(のぶゆき)が当時の幕府字間所大学守(だいがくのカ)み)だった「林しょうざい(漢字不明)」に作らせたものです。ここには1712文字が刻んであり、一息に読み終えると亀が動くといわれています。
 江戸時代の俳人松尾芭蕉が、月照寺にお参りに来たとき次の句を詠みました。

      たこつぼやはかなき夢よ夏の月
      かたつむり角突き出せよ須磨明石
      ほととぎす楠きつる方や須磨ひとつ
芭蕉が大阪で51歳で没した時の句
      旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る

21.明石海峡大橋
 この橋は全長3,911メートルで、世界一長い橋です。ロープはしなやかそうに見えますが、そばで見ると太いものです。ピアノ線を37,000本束ねて直径1メートルのロープにしてあります。
 昔から橋の下の潮流は大変厳しいところで、毎秒4.5メートル、深さ110メートルです。そこを船が何隻も往来するので、建設にあたっては風速秒速80メートル、地震にはマグニチュード8.5クラスにも耐えられるように設計されています。
 明石海峡は昔から景観が素晴しく、いろんな人がいろんな思いを込めて歌や旬に詠んだところです。また潮流にもまれ、身のしまったおいしい魚が獲れます。

22.長寿院
 明石8代藩主松平直明(なおあきら)から15代松平斉宣(なりこと)までの夫婦が祀られているところです。瓦は葵のご紋、彫り物は龍で大変精巧なものです。
 なぜ8代目藩主から祀られているのでしょうか。それは8代松平直明が越前の「おおの(漢字不明)」から来たお殿様で、それから17代までずっとその子孫が代々藩主を勤めだからです。それ以前の藩主は2代以上続くことはありませんでした。それは幕府が2代以上直系の藩主を置くことを禁止したからです。が、8代あたりから江戸時代も安泰となり、直系の藩主が続くことが許されたのです。が、昭和20年7月6日の明石大空襲で全部焼けてしましました。
 このお墓の中でも15代松平斉宣(なりこと)の墓が特に立派なのはなぜでしょうか。徳川幕府第11代将軍家斉(いえなり)には子供が56人もいました。幕府はその中の25男にあたる斉宣を養子にせよと明石藩主14代なおちか(?)に命じました。それで、なおちか(?)は自分の子の慶憲(よしのり)を15代にする予定でしたが、変更して将軍の子の斉宣(なりこと)を15代に迎え、慶憲(よしのり)は16代藩主となりました。そして16代慶憲(よしのり)は徳川将軍の子でもある15代斉宣(なりこと)のためにひときわ立派なお墓を作ったのです。

23.寺院の格付け
 江戸期の寺院は、徳川幕府によって格付けされ、序列が決められていた。大きくは「朱印状」を受けた寺と「黒印状」を受けた寺にわかれる。前者が格上であり、藩主への謁見が許可されていた。謁見の順番も寺社奉行によって決められ、それが寺院の格付けとなっていた。明石藩で一番目に認められた寺は、如意寺(神戸市西区)、ついで太山寺(神戸市西区)、石峯寺(神戸市北区)、法光寺(美嚢郡吉川町)、五番目が密蔵院(明石市船下町)となっていた。月照寺は、曹洞宗のため格付けが低く十二番目であった。

24.宮本武蔵
 初代明石藩主・小笠原忠真に仕えたという記録が残っている。忠真の命で、築城間もない明石城下の「町割」を担当、城下の寺院の作庭にも加わったともいわれる。本松寺や善楽寺の円珠院の庭を設計したと伝えられている。

宮本武蔵

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