徐州は東の連雲港と並んで、江蘇省の一番北に位置する。徐州市は、行政区画人口900万人、市街地人口165万人、東西交通の要衝に位置する大都市である。
徐州へは、ずっと、行きたいと思っていたが、5ヶ月にわたる連雲港滞在中、結局、行けずに帰国してしまった。帰国後、3月末から4月初めにかけて連雲港を再訪したが、その間に、やっと、行くことができた。
徐州へ行きたかった理由は二つある。まず、一つ目。「徐州徐州と人馬は進む」と軍歌に歌われた徐州である。この都市は、1938年、徐州会戦の戦場となった。私は、1931年の柳条湖事件に始まる日中間の戦争について、私なりの考えを持っている。それは、日本の戦争責任を意識する歴史観である。その戦場となった徐州に身を置いてみたかった。
二つ目。劉邦、項羽ゆかりの地としての徐州に興味があった。劉邦の出身地、沛(はい)は、現在、徐州市豊県であるし、項羽が都とした彭城(ほうじょう)は現在の徐州市である。また、徐州市には、漢楚の交戦地がいくつもある。
結論から言うと、徐州日帰り旅行では、一つ目の点については、ただ、「徐州へ行って来た」というだけで、特別な感情を惹き起こすような見聞は何もなかった。しかし、二つ目の点については、多くの史跡を訪れることができた。ここでは、後者について報告する。
今回も4年生のOが案内してくれた。Oは、一時期、徐州で勉強をしたことがあるということで、徐州の地理に詳しかった。
‘06年3月30日、6時半にOと大学の校門前で待ち合わせ、タクシーで連雲港駅へ向かう。10分ほどで着く。ところが、8時45分まで徐州行の列車はなかった。しかたないので、長距離バスを利用することにする。連雲港駅近くのバスターミナルへ行くと、7時20分発というバスがあった。バスは例によって、スピードを落とし、客を拾いながら走る。市街地を出ても、工事中の一般道路を西へ走る。徐連高速公路を走ると聞いていたが、そんなふうはない。小一時間経って、私が何度も往復した連雲港飛行場への道であることに気付く。飛行場を過ぎ、東海県も抜け、やっと、高速道路に入る。こんな調子では、徐州に着くのは何時になるかなと思っていたが、高速道路に入ってからは、さすがに速い。連雲港〜徐州214km、3時間、10時半に徐州着。すぐに、沛県行きのバスがあり、トイレだけ済ませて飛び乗る。徐州〜沛県、約70km、昼前に到着。
『史記 高祖本紀』冒頭、「漢の高祖は江蘇省の沛県豊邑の中陽里の人である」(訳は明治書院『新釈漢文大系』による)と記されている。現在、豊邑は豊県になり、沛県と同格である。また、中陽里は豊県中心部の地名である。劉邦関係の史跡は沛県、豊県、双方にある。今回は、時間に追われ、とても両方には行けないので、沛県だけにとどめる。
漢楚の戦いの話に入ろう。
紀元前206年、秦は滅ぶ。項羽は鴻門の会の後、咸陽に入り、功臣18人を王に封じる。劉邦は漢王とし、蜀の地に閉じ込め、自らは、西楚の覇王を称し、彭城(ほうじょう:現在の徐州市)に都す。前205年、劉邦が挙兵し、漢楚の争いが始まる。この争いは、前202年の垓下(がいか:現在の安徽省東北端。徐州市から案外、近い)の戦いで決着がつく。
大きな敵を倒した後、劉邦は、まず、軍功第一の韓信を謀殺、功臣を次々、粛清していく。紀元前196年10月、粛清があらかた済んだ帰途、久しぶりに故郷の沛に戻る。
この場面、『史記 高祖本紀』の記述を明治書院『新釈漢文大系』の訳でたどってみよう。
高祖は帰還して、故郷の沛を通り、沛宮で大酒宴を張って、悉く知人・父老・子弟を召し集め、無礼講で飲み放題にした。沛の子供たちを選り集めて百二十人を得、歌を教えた。酒が酣な頃、高祖はみずから歌を作って、筑をうち、唱うていうには、
大風が起こって雲が飛揚するように、われは身を起こして四方を平定した。わが天子たるの威は天下を圧して、いま故郷へ帰ったのだ。父老と痛飲して快楽ここに極まる。今やわが思いは、どうすれば、勇猛の良士を得て四方を守らせ、平和を維持することができるかだなあ・・。
と、少年達に習いうたわせた。高祖は起ちあがって舞い、慷慨胸に満ち、感傷禁ずる能わず、涙数行を流した。

現在、沛県では、宮殿、町並み等、漢の時代の建物が再現され、漢城公園として整備されている。特に、“歌風台”は上述した宴会のシーンを彷彿させる。
高祖は、このとき既に、死を予感していたのかもしれない。これより先、功臣粛清の戦いの中、矢傷を負っていた。この傷が悪化、数ヵ月後、長安で死ぬ。
再現された町並み“漢街”の中に、“樊家狗肉”がある。沛県は狗肉食の土地である。樊カイは劉邦と同じ沛県の人で、もとは犬の屠殺業をしていたという。劉邦に仕えて武勲を挙げた。鴻門の会で劉邦を救ったことは有名。“樊家狗肉”はそれをもじったものか。“漢街”で昼食を摂ったあと、バスで徐州市街地へ戻る。
項羽の故里については、まだふれていなかったので、簡単に述べる。『史記
項羽本紀』は、「項籍は下相の人なり。字は羽」で始まる。下相(かしょう)は、現在、徐州市の隣の宿遷市に属する。このように見てくると、劉邦、項羽、そして、樊カイや韓信など劉邦に従った面々、それぞれの出身地、そして、垓下など漢楚の抗争の舞台、等々が案外、近いところに集まってくる。
徐州市街地に戻った後、今度はタクシーを利用し、項羽が兵を訓練した“戯馬台”、漢楚抗争の主戦場の一つ“九里山古戦場”などへ行く。
5時半ごろ、バスターミナルへ戻る。しかし、もう、連雲港行きのバスはなく、19時01分の列車で帰ることになる。徐州〜連雲港、所要時間2時間半、硬座普快 無座 14元。発車までかなり時間があるので、待合室の長椅子に座り、持っていたパン、果物で空腹を補う。ところが、発車時刻が近づいているのに、一向に、改札の始まるようすがない。おかしいなと思っていると、延着の表示が出た。その時間が近づいてきても、まだ、改札が始まらない。あまり遅くなると、私の宿である大学の招待所、およびOの寮の門限にかかってしまう。ちょっと不安になる。結局、1時間遅れで改札が始まる。プラットホームには、烏魯木斉―連雲港のプレートが掛かった列車が既に到着していた。遠いところから来たのだから、1時間ぐらいの遅れは仕方ないかとあきらめる。大学に戻ると、10時半を過ぎていた。招待所の服務員はまだ起きていて、無事、フロント通過。
最初、徐州で一泊するつもりだったが、Oの手際よい案内のおかげで、一日で見たいところは全部見終わり、日帰りの徐州旅行となった。
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