淮安へは、昨年、’05年の10月2日と06年の1月8日の2度、行ったが、なお、やり残したことがあった。それは、「南船北馬舎舟登陸」の碑を見つけることだった。私は、作家の池上正治氏のエッセー、『悠久の大運河2000キロを雪舟とともに』の6回目、「蘇北の淮安に南船北馬の分岐点」を読んで、その存在を知ったが、氏のエッセーには、その位置についての記述がなかった。ところで、1回目の淮安旅行は時間がなく、2回目は、探したが見つからず、結局、その所在がわからぬまま帰国した。
帰国後、淮安の地図を見ていて、淮安の汽車站(バスターミナル)からそう遠くない清河区の里運河沿いに「大運河文化広場」という場所があるのを見つけ、ピンときた。ひょっとして、ここにあるのでは!これこそ灯台下暗しであった。私は、それまで、連雲港からの長距離バスが着く淮安の汽車站から南へ20キロほどもある楚州区の方ばかりを探していた。というのは、初めて運河を見たのが楚州区だし、「総督漕運公署遺址」があるのも楚州区で、運河に関係のあることは楚州区との先入観があったからだ。
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ということで、3月末から4月初めにかけての連雲港再訪時、なんとか淮安へ行きたいと考えていた。ところが、連雲港滞在が1週間と短かった上、たくさんの学生が私の宿泊所へ来てくれたこともあって、最後の最後まで時間が取れるかどうか分からなかった。4月2日の朝も、3人の学生の訪問があった。しかし、「今日を逃したらもう淮安へは行けない」と思い、1時間半ほどのおしゃべりの後、私は、準備もそそそこに汽車站へ急いだ。淮安行きは3度目なので、大体のバスの時間は頭に入っていたし、乗車券を買う要領も分かっていた。うまく、淮安行きの便があって飛び乗った。12時前に淮安に着き、帰りの便、16:20連雲港行の乗車券を買ってから汽車站を出た。
まず、汽車站近く、清河区にある「大運河文化広場」へ行って、「南船北馬舎舟登陸」碑を探し、その後、韓信の「胯下橋」を探す、という予定を立ててタクシーに乗る。運転手は、この碑のことを知らなかった。とにかく、「大運河文化広場」で降りる。
「大運河文化広場」は、新しく建設された立派な広場で、特に、運河の歴史を辿る長大なレリーフは見応えがあった。しかし、目的の碑はなかった。ちょっと落胆。気を取り直し、美しい街並みを歩いてみようと交差点を渡ったところ、運河の畔で、探し求めた「南船北馬舎舟登陸」の碑を見つけた。その裏には、「清江浦石碼頭記」というタイトルの長い碑文があった。
興味深い内容なので、全文和訳する。
清江浦の石碼頭は南北の大通りで、南は清江水門に続き、北は黄河の古くからの渡しである毛家嘴に通じており、両端が石でしっかり造られていたことが名前の由来である。清の雍正年間、その南端に石板道十八丈を敷きはじめた。道光、咸豊年間、茶庵の僧、広達は、寄付金を集めて、三里に及ぶ石道を建設し、かつ、その間、二十基の石柱を立て、「灯火のためにその上方をうがち、夜、油を燃やし道行く人を照らした」。これは、市区で最も早い街灯のある大通りであった。
淮安は古来、大運河の沿線にあった「四大都市」の一つで、その隆盛は交通と不可分の関係にあった。明代の中葉、黄河の流れが淮河を奪った後、淮安より北の京杭運河では、水量が不足し、運航に時間がかかるだけでなく危険であった。馬頭鎮の三閘一帯では、舟を曳くロープが切れたり、舟が沈没するなどの事故も多発した。 それ故、糧米を運ぶ漕船と運河を巡行する官舫を除き、一般の旅行者で北をめざす者は皆、ここ淮安の石碼頭で、舟を舎て、陸に登り、黄河を渡ってから、王家営で車馬に乗り、陸路、京(北京)へと旅をつづけた。また、北から南をめざす者は、王家営で車馬を棄て、清江水門で舟に乗り換えた。 昔、石碼頭と王家営は南船北馬、「轅(えん:車のかじ棒)楫(しゅう:舟のかい)交替」の地とされ、東南各省人士が北へ上る要路であった。 古い歴史書には、「もし、(三年に一度の)会試の年にあたると、南は嶺外、西は豫章まで、どの道も、同じ時期にそろって出発し、ここ石碼頭は、京をめざして各地から上ってくる人々の集まり賑わうところとなった」、よって、「九省に四通八達石碼頭」と記され、その名声は全国に知れ渡った。 その盛時には、旅館、料理店、車屋など、いろんな商店が隙間なく並び、賑わった。 十九世紀七十年代に至り、海路が開かれると、「このルートを利用する人は、だんだん少なくなり」、二十世紀初葉、津浦鉄道と隴海鉄道が開通すると、石碼頭は更にさびれた。 石碼頭の賑わいと寂れは、淮安市の盛衰の縮図であり、重要な証拠となった。
改革開放以来、淮安は、交通を先導に、すばやく立ち上がった。 今、淮安市は、水上交通が若々しい活気に満ちているだけでなく、新たな鉄道が域内を縦貫し、鉄道がなかった歴史を終わらせた。 更に同三、京コ(コは上海)など、五本の高速道路がここに集まり、重要な水陸交通の要衝としての地位を再び確立した。 しかるに、「石碼頭」は、一冊の埃まみれの史書として、今はただ、人々に「心の奥底にひそんでいる、いにしえを思う感情」を湧かせ、世の移り変わりの激しいことを感じさせるにすぎない。(ここまでが碑文)
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上の碑文について、四つ補足をしておこう。
まず、最初、大運河沿いの「四大都市」とは、杭州、蘇州、揚州、そして淮安で、「淮安」とは、淮水が穏やかに流れ、氾濫しないことを願って付けられた名である。
二つ目。高速道路の一つ、「同三」とは、黒竜江省同江〜海南省三亜をいう。
三つ目は黄河の河道である。黄河は、山東半島を挟み、南北、その河道を何度も変えている。碑文にある「清江浦の石碼頭は、(中略)北は黄河の古くからの渡しである毛家嘴に通じており」とか、「ここ淮安の石碼頭で、舟を舎て、陸に登り、黄河を渡ってから、王家営で車馬に乗り」などといった記述は、山東半島の北を流れている現在の河道からは理解できない。現在、淮安に、清河区と淮陰区の境になっている廃黄河という川がある。この川の位置から判断すると納得が行く。
少し横道にそれるがお付き合い願いたい。私は、蘇北を旅行して、地理・地形についての認識が変わった。私は、社会の教師をしていたので、授業中、よく黒板に地図を書いた。それも、できるだけ正確に書くことを心がけていた。中国の地図を書くときも、黄河、淮河、長江、珠江は必ず書いた。その時、あまり考えずに、一本線で書いていたが、実際の川の流れはそんなに単純ではない。特に淮河など、詳細な地図を見ると、ひとすじの川とはとても言えない。途中、くねくね曲がり、大きな湖に入り、幾本もの流れ、たくさんの湖沼を作り、半分は長江に流れ、半分は黄海に入る。そして、それぞれの川は氾濫し、隣の川と合流したり分かれたり、河道を変えたりを繰り返す。本流の河道は変わっても、もとの流れは、細くなったり、途切れ途切れになったりして存在し続ける。
閑話休題。補足の四つ目。上の碑文、会試の年の石碼頭の賑わいについて記した箇所がある。これに関連して思い出すのが、宮崎市定著『科挙』中公新書の記述である。引用する。
各省の挙人が地方から北京へ上る際に乗る船や車には「奉旨礼部会試」、すなわち天子の命によって開かれる礼部の会試参加者という意味の字をかいた旗をたてる。沿途の官憲はこれを見れば優先的に通してやり・・。
この、『科挙』の記述を見ると、「奉旨礼部会試」と書かれた旗を立てた舟が、旅館、料理店、車屋など、いろんな商店が隙間なく並び、たくさんの人が行き交う石碼頭に、次々、到着する。そんな様子が眼に浮かぶようである。
「南船北馬舎舟登陸」の碑は見ごたえがあった。また、碑が建っている運河の畔は、なんとも風情があった。
念願の碑に出会え、感激!このあと、もう一度、大運河文化広場に戻ってレリーフを詳細に見る。
レリーフは、8つあって、向かって右から順に、
夫差末口陳兵図 |
磨盤口艤舟待潮図 |
清江倉廠盛況図 |
漕督躬親盤験図 |
康熙碼頭巡河図 |
舟船過閘艱験図 |
通ク(行の中に瞿)古驛晨旅図 |
水上立交壮観図 |

一つ補足、「5.淮安に琉球国使節の墓を訪ねる」で取り上げた松浦章論文に次のような箇所があることを見つけた。
「内田慶一教授が附近の老人から聞き取りされたことによれば、若飛橋は新四軍の部隊長王若飛が抗日戦争の際に戦死した記念で、1946年に名付けられた」
中国を旅行すると、よく、こういう見聞をする。これは、日本人としてつらい。土地の人は、ほとんど毎日のようにこの橋と橋名碑を眼にし、一方、日本人のほとんどは、こういう橋があることすら知らない。
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