第二部 江蘇省の歴史を歩く
3.徐福(じょふく)の里を訪ねて

徐福研究家、張先生の招待を受ける

11月中旬、外国語学部長の趙平先生から、「徐福研究家で孫文研究家でもある張良群先生が橘先生と私と三人で食事をしたいと言っておられます。お受けしてよろしいでしょうか」と電話があった。趙先生と張先生は、以前からの知り合いで、私が、かつて、()孫中山記念会に勤めていたということでの招待であった。私は、この誘いを受けて、即座に、4年生のOを同伴できないかと思った。というのは、Oの卒業論文のテーマが「徐福」だったからである。そのことを、趙先生を通して張先生にお願いしたところ、快諾を得た。1117日の夕方、趙先生、O、そして私の3人は、大学から歩いて半時間ほどのところにある蒼梧小区の張先生宅を訪問した。「小区」というのは、新しい団地である。日本でも、かつて、○○ニュータウンというのが流行ったが、その小規模のものをイメージすればいい。連雲港でも次々、建設されている。
向かって左から、張先生の知人、筆者、張先生、学生O、張先生の奥さん 張先生は、連雲港テレビ局の局長を勤められた方で、既に退職され、現在は、徐福、および孫文の研究家として活躍されている。特に、2006年の孫文生誕140年に合わせ、中国の中央テレビ局が記念番組の製作を進めているが、張先生もこの企画に加わっておられ、神戸の孫中山記念館に興味を示され、この日の会食となった。ちょうど私は、孫中山記念館の展示内容並びに建物(移情閣:国の重要文化財)を解説した『孫中山記念館(移情閣)概要』を持っていたので、それを贈呈したところ、非常に喜んでいただいた。お返しに、Oと私は、『徐福故里掲謎』等、張先生執筆のご本をいただいた。
 ところで、私たち日本人は、家に客があると、寿司の出前をとったり、近くのレストランへ一緒に食べに行ったりということが多い。しかし、中国人が客を招待する場合、半端じゃない。文字通り、「熱烈歓迎、熱情招待!」である。奥さん手作りのフルコースの料理が次から次に並び、張先生ご自身、あまり飲めないと言いながら、白酒、紹興酒、日本酒などなど、いろんな種類の酒を勧めて下さる。趙先生も私も食が細いほうだし、Oは女性だし、料理も酒も残ってしまったが、それが、中国人が客を招待するときの仕方である。Oの通訳で話は弾み、ついつい長居をしてしまう。帰りしな、12月に入ったら、徐福の里を案内いたします」「楽しみにしております」と、徐福の里訪問を約して張先生宅をあとにした。

徐福の里訪問

 12月2日、張先生、張先生の友人、テレビ局の人、そして、Oと私の5人はテレビ局が手配してくれた車で徐福村へ出かけた。徐福村、つまり、連雲港市カン楡県金山鎮は連雲港市街地から車で北へ時間ほどのところ、山東省との省境近くにある。
青口鎮のロータリーに立つ徐福像 カン楡県の中心、青口鎮まで来たとき、車が停まった。張先生の「写真を撮りましょう」との声に促されて車を下りる。下りてびっくり。交差点のロータリー中央に、でっかい徐福の石像が立っていた。ここで、記念撮影。この道路は、山東省の日照市を経て青島に至る幹線道路であるが、間もなく、この道をはずれて村道へと入っていった。やがて、金山鎮着。金山鎮では、共産党金山鎮委員会の張永信書記の歓迎を受ける。豪華な昼食をご馳走になった後、張書記も一緒に、車を連ね、
徐福祠へ向かう。

徐福伝説

 ここで、徐福についてふれておこう。
  始皇帝は二十八年(紀元前219年)、山東半島の北部の芝罘(しふ)山と、同じ半島の付け根南側、琅邪(ろうや)山へ行き、秦の徳をたたえる石碑を立てた。
  この続きを、司馬遷『史記 始皇本紀』で追ってみよう。( )内の言葉、文章は筆者。
                            
  かくして石を立て終わった。斉人の徐市(じょふつ:徐福と徐市は同一人物とするのが通説)らが上書していった。「海中に三神山があって、その名を蓬莱(ほうらい)・方丈・エイ洲といい、仙人がそこに居住しております。われわれは斎戒して身を潔め、けがれなき童男・童女とともに仙人を求めたいと存じます」
 そこで(始皇帝は)、徐市をつかわし、童男・童女数千人をおくって、海にでて仙人をさがさせた。(中略)

  三十有七年十月癸丑の日に、始皇は巡遊に出発した。(中略)
  呉をすぎ、江乗より揚子江をわたり、海に沿って北上して琅邪にいたった。方士の徐市たちは海に浮かんで神薬を求めたが、数年たっても入手できず、要した費用は多大であったので、譴責されることを恐れて詐っていった。
 「蓬莱の島の薬は入手できます。しかし、いつも大鮫魚に苦しめられるものですから、島まで行くことができません。どうか、弓の名手と同道させてください。大鮫魚があらわれましたら、弩を連発してしとめましょう」(訳は『平凡社中国古典文学大系』による)
 こんどは、始皇帝みずから弩を持って海上に出て、大鮫魚を射止めた。始皇帝は、この直後に発病して、やがて死ぬ。
 また、司馬遷『史記 淮南・衡山列伝』の記述は、こうである。
               

 (始皇帝は)道士の徐福に命じて海上に浮かんで神異のものを求めさせました。徐福は帰還していつわって申しました。『臣は海中の大神にお目にかかりましたが、大神は、汝は西皇の使者かと問われましたので、そうですと答えますと、汝はなにを求めているのかとのおおせでしたので、願わくは延年長寿の薬をいただきたいものですと答えました。日本全国の徐福伝説地一覧(「古代史の扉」より転載)すると大神は、汝がつかえている秦王の礼物が薄いからその薬を見せてはやるが取ってはならないと申されて、臣をしたがえて東南におもむき、蓬莱山にいたり、芝園にかこまれた宮ケツ(宮城)を参観なさいました。(中略)かくて、臣は再拝して、どのような物を献上したらよろしいのでしょうかとたずねますと、海神は、良家の善男善女ともろもろの工作品とを献じたら、薬を得ることができるだろうと申されました』。始皇帝は大いに悦んで、良家の善男善女三千人を派遣することとし、これに五穀の種をもたせ、もろもろの工人をつけて出発させました。徐福は平原と広沢とを手に入れ、その地にとどまって王となり、ふたたび帰ってはきませんでした。(訳は『平凡社中国古典文学大系』による)
 おおぜいの童男童女を乗せた徐福の船隊がたどり着いたとする話が、日本の各地に伝わっている。今も、新宮市と熊野市に「徐福の墓」があり、土地の人は祭祀を絶やさない。

徐福の故郷、「徐福村」の発見

それでは、司馬遷の『史記』と連雲港市金山鎮がどう繋がるのか説明しよう。
  1982年、中国は全国の地名標準化のための一斉調査を展開した。江蘇省カン楡県担当の地名調査員が現地の人々の話を聞きに訪れ、歴史資料を閲覧した時、金山郷徐阜村は原名「徐福村」と称していたことを発見した。地名調査の責任者は、清の乾隆年間の村の記録『張氏宗譜』『王氏家譜』『壹経堂・韋氏支譜』を閲覧調査し、徐阜村が「徐福村」としてどのような変遷を経てきたのかを発見して、調査報告書を提出した。この調査報告書は、多方面にわたる調査の結果、「徐福村」は徐福の故郷であると基本的に認定された。(張良群著『徐福故里掲謎』より抜粋)

徐福祠の横にある「徐福村」の碑 徐福祠の門
徐福祠の内部。左は学生O 徐福祠の庭
     
  徐福祠見学の後、徐福茶の茶工廠の見学に行く。「ここの茶畑では、有機農業をやっており、化学肥料、殺虫剤はいっさい使用しておりません」と張書記。私は、神戸で、中国茶の喫茶店へよく行くが、農薬やほこりを洗い流すため、「一煎目は、飲まずに棄てる」、というのが、「老板(店の主人)」に指導を受けた中国茶の飲み方である。でも、ここでは、そんなことをする必要はない。茶楼に上がり徐福茶をいただく。茶畑の中の茶楼で、のどかな風景を見ながら飲む茶の味は最高であった。「茶畑の向こうは山東省です」と張書記。今日は、昨日までの寒さがうそのような小春日和。「こんなところで生活すれば、不老長寿の薬はなくても寿命が延びますねえ。このお茶の味は一生忘れられないでしょう」と私。これは、社交辞令ではなく、本気でそう思う。

徐福茶園 茶楼でくつろぐ張先生(向かって左)と張書記
徐福茶楼の張書記(向かって左)、筆者、張先生 徐福村からの帰りに立ち寄った「小塔山水庫」。連雲港の水をまかなう

  1982年の「徐福村」の発見は、中国だけでなく、韓国、日本の研究者の注目を引くところとなり、徐福研究は、一気に活発化した。
 つい先日(200665日)も、淮海工学院で「日中韓徐福文化研究会」が開催された。下の写真は、学生が撮影してメールで送ってきてくれたもの。    

日中韓徐福文化研究会。向かって左端は趙平淮海工学院外国語学部長