第二部 江蘇省の歴史を歩く
4.孫悟空の生まれた花果山(かかざん)に登る

 孫悟空は、オリンピックのマスコットに、“福娃 fu wa”と最後まで競って、破れはしたが、中国の人々に最も親しまれたキャラクターの一つであることに違いはない。その孫悟空の生まれた山、花果山(かかざん)は、連雲港市街地の外れ、大学からバスで15分ほどのところにある。蒼梧橋の欄干にある『西遊記』にちなんだレリーフまた、市街地のいたるところで、その銅像、レリーフ、看板などを目にし、孫悟空は市民にとって非常に身近な存在になっている。右の写真は、大学近くの川にかかる”蒼梧橋”の欄干のレリーフである。孫悟空や猪八戒の活躍が刻まれている。
 ところで、『西遊記』では、花果山、および孫悟空がどう書かれているのか。ちょっと、覗いてみよう。
 「東勝神州の海のかなたに傲来(ごうらい)という国があって、近くに大海をひかえていた。その海中にひとつの名山があり、花果山と呼ばれたが、この山こそは十州の祖脈、三島の主峰であった。
 そのいただきに、ひとつの仙石があった。高さは三丈六尺五寸あって、天周の三百六十五度に準じ、回りは二丈四尺、暦の二十四気になぞらえ、(中略) 天地開けてこの方、石は、夜ごと日ごと、天地の精髄と、日月の精華とに潤っていたが、長い年月がたつにつれ、やがて霊気をはらんで、内に仙胎を宿した。
 ある日のこと、この石が裂け割れて、まりほどの石の卵が生まれ、卵はまた風にさらされて、一匹の石猿がかえった。(平凡社中国古典文学大系『西遊記』)」
 花果山と孫悟空の誕生が、このように記されている。花果山は海抜625mで、江蘇省で一番高い山であるが、昔、黄海に浮かぶ島であったという。そうだとすれば、上の『西遊記』の描写に合致する。旧称蒼梧山を花果山と呼ぶようになった根拠は、そんなところにあるのだろうか。
 私は、連雲港に滞在するようになって、ずっと、花果山へ行って見たいと思っていた。帰国を間近に控えた1月6日、やっと、花果山登山が実現した。

 前日は雪の降る天候で、翌日の登山があやぶまれたが、当日は、雪も止んでいた。3年生の学生Rの知り合いが花果山に勤めていて、私たちも従業員送迎用のマイクロバスに乗せてもらえることになった。Rと一緒に、朝、まだ明けきらない大学の校門前でマイクロバスに乗る。バスは、私たちが乗った後も、次々、従業員を拾い、ほぼ満員になって、花果山に到着した。花果山の中腹から見る雪景色
 路線バスは山門前が終点だけれど、従業員用の車なので、山門を通り過ぎ、山の中腹まで上り、三元宮前で停まった。バスを降り、一面の雪景色に驚く

 寒さは、十分に考慮に入れていた。ちゃんと、連雲港で買った羽絨服(羽毛の入った防寒着)を着て来た。下着も、連雲港で買った厚手のものを着て、その下に、更に、日本から持ってきていた薄手のものをもう一枚余分に着るという完全武装で出てきた。それでも、まだ寒く、氷点下の寒気がぴりぴり肌をさし、私は、足踏みをしながら耐えていた。しかし、しばらくして、山の峰から太陽が昇ると、雪が一斉に輝き、その美しさに一瞬、見とれた。

三元宮の石段 石段を上りきって見下ろす三元宮

 三元宮は海寧禅寺ともいい、唐の時代に創建された大きな寺院である。1938年、日本軍の攻撃によって大部分が破壊されたが、中華人民共和国成立後、じょじょに修復され、ほぼ明代の状態に復元されている。氷結した雪に注意しながら石段を登る。少し上ると息が弾む。若いRが却って遅れがちになる。「先生何歳?」とR。年齢をはっきりとは言いたくない私は、「どうして?」と問い返す。「だって元気だから」とR。「君のお父さん、お母さんは、いくつ?」と私。「二人とも、まだ、50歳になってない」とR。彼女にとって、63歳の私は、お父さんというより、お爺さんというほうがふさわしいのだ。折角、若い女性と楽しい時間を過ごしているのに、こういう会話になると現実に引き戻される。私は、「白と黒の混ざった、チュエチュエと鳴いているのは何という鳥?」と、話題をそらす。「喜鵲(xi que)だと思う」とR。こんな会話をしながら山を登る。 
水簾洞前で バスを降りたときは、あんなに寒かったのに、「水簾洞」まで登ると、汗ばんでくる。「水簾洞」は、その入口が水のカーテンのような滝で隠されている洞穴である。この日は、気温が低かったので、滝は凍っていた。ここは、孫悟空の棲家として知られており、今もたくさんの猿がいる。写真を撮ろうと、リュックからカメラを出しかけると、餌をもらえると勘違いした猿が何匹も近づいて来て、私のリュックに手を掛ける。非常に危ない。次は「玉皇閣」。遠い峰々、麓の寺院、みんな見渡せ、ここからの眺めは素晴らしかった。
 山頂が近づいてくると10センチほども積もった雪道になる。山頂は「玉女峰」、海抜625m。ここが、江蘇省で一番高い地点である。625mで一番ということは、それだけ、江蘇省は低地が多いということでもある。南には長江、北には淮河という大河が流れ、洪澤湖など大きな湖もある。また、京杭大運河があり、沼沢地も多い。


山頂近くの雪道のR 玉女峰の石碑に立つR
石段に腰掛けて昼食を摂るRと私 花果山遠景

 「玉女峰」で少し休憩。記念写真を撮ったあと、来た道を引き返す。
 下山は楽だけど、溶けかけた雪道に何度も「ツルッ」と足をとられそうになる。途中、石段に腰掛け、私は梅干と塩昆布を入れたおむすび、Rはパンの昼食を摂る。
 「九龍橋」まで下ってくると、一般道路に出る。一般道路といっても、車の通行はほとんどなく、上の最後の写真、「花果山遠景」のような景色を見ながら歩く。
 「試験が終わると冬休みですねえ」「うれしい!」。「何か予定はあるの?」「知り合いの子供に勉強を見てあげる」。「旅行とか、どこかへ行かないの?」「わからない」。「一番行きたいところはどこ?」「海南島」。「どうして?」「景色が連雲港と違っていて楽しそう」「連雲港の春節ってどんなの?」「みんな集まっておいしいものを食べる」「それだけ?」「家族でマージャンをする」「みんな、マージャンがすきなの?」「お母さんが一番好き」。こんな会話をしながら、小一時間で山門着。

山門前の「花果山」の標識 山門を入ったところにある呉承恩の像

 登るときは、マイクロバスに乗ったまま山門を通過したので、登山口が最後になった。上の写真、花果山の標識の後ろ、ちょっと見にくいが、上から孫悟空がのぞいている山門が写っている。この山門を入ったところに、上右の写真、呉承恩の像がある。呉承恩は『西遊記』の作者といわれているが、あくまで、「いわれている」であって、むしろ、研究者は、『西遊記』の作者を呉承恩とすることに否定的である。また、花果山も、連雲港以外、例えば洛陽の宣陽県にもある。
 まあ、理屈はいろいろ付くが、花果山は本来、空想上の山なのだから、別に、どこにあってもいいわけだし、研究者でない私たちにとっては、物語が面白ければ作者が誰であってもいいわけだから、詮索はここまでとしておこう。
 帰りは、山門近くのバス停から、路線バスに乗る。
 帰国を間近に控え、連雲港で過ごした日々の思い出が、また一つ加わった。
 謝々R.W。