第二部 江蘇省の歴史を歩く
2.「新シルクロード」東の起点、連雲港

連雲港市の市街地には二つの中心がある。海に近い方を連雲区、海から遠い方を新浦区・海州区といい、その間、30キロほどある。前者、連雲区の市街地や港の辺りを墟溝(xu gou)という。この墟溝と、私たちの生活圏である新浦との間を、「墟溝⇔新浦」と表示した小型バスがひっきりなしに行き来している。
 4年生の学生Oとは、卒業論文の指導を通じて親しくなった。私は連雲港へ来て、もう既に2ヶ月が過ぎていたが、大学やスーパーなど、私の生活圏である新浦区以外、連雲港をまだ、あまりよく知らなかった。11月初めの土曜日の午後、Oは、そんな私を「墟溝」見物に連れ出してくれた。
 朝からの雨も、彼女が私を宿舎に誘いに来てくれたときには上がっていた。新浦区のバスターミナル「蘇欣快客」から
墟溝行きの小型バスに乗る。
  半時間ほどで墟溝着。シャングリラ・ホテル前でバスを降りて、路線バスに乗り換え「西大堤」へ行く。途中、街中で多くの白人を見かける。Oの話では、原子力発電所で働くロシア人とその家族ということだ。「核電専家村」というバス停と、それに続く団地があることからも、原発で働くロシア人の多さがわかる。西大堤とは、陸地と東西連島という小さな島を結んだ6.7kmの海堤である。海堤沿いの岩場で海苔や牡蠣を採っているのを見ながら、海堤を途中まで往復する。西大堤に一時間ほどいて、また、バスで墟溝の市街地へ戻り、今度はタクシーで、連雲港港へ向かう。

孫文の「実業計画」と連雲港

硬い話になるが、連雲港港の建設と発展について、少し、見てみよう。私は、財団法人孫中山記念会に勤めていたので、孫文記念館に孫文の「実業計画」とそれに付された地図が展示されていたことをよく覚えている。
  孫文は、1919年6月、上海で中国の経済開発に関する『中国実業国際開発計画』を英文で作成し、欧米各国に送り、協力を要請した。この国家建設計画は、のちに『建国方略』の第二部「実業計画」として出版され、孫文思想の重要な一部となった。この「実業計画」で、孫文は、まず、北方大港(大沽と秦皇島の間に深水不凍港を作る)、東方大港(上海とは別に杭州湾中に作る)、そして南方大港(広州)の三つの大港の建設と、それらを拠点とする経済発展計画について述べた後、続いて、営口、海州、福州、そして欽州の四つの二等海港と、葫蘆島、黄河港、芝罘、寧波、温州、厦門、汕頭、電白、そして海口の九つの三等海港の建設に言及している。連雲港港のコンテナバース
 ここでいう海州こそ連雲港である。そして、この海州について、「最も肥沃なる中部平原の東端に位し、且つ支那の中部を横貫する海蘭鉄道の終点として、又内地水運により大運河等が完成された後は、黄河及揚子江と舟行し得る。海州附近は比較的海が深く、海岸数マイルのところまで外洋航路船を接近せしめ得るから、更に浚渫を行い、吃水二十フィートの汽船を自由に出入し得る如くする」と記している。

  海州と呼ばれていた頃の港は河港であったが、河が運んでくる土砂のため、港は東の新浦、および大浦に移され、さらに、1935年、ベルギーからの借款を得て、オランダの手で現在地に近代的な港が建設された。現在、連雲港港は、発展著しい中国経済を背景に、上海〜青島間の要港として活況を呈している。コンテナバースの数30、年間荷扱い量三千万トンは、共に、神戸港に匹敵する。

「新シルクロード」東の起点、連雲港

「新亜欧大陸橋東端起点」のモニュメント連雲港は、渤海と黄海を分ける山東半島の南側の付け根に位置する。1992年12月1日、この連雲港を出た列車は、隴海蘭新線を通り、阿拉山口で中国を出て、カザフスタン、ロシア、白ロシアと、ユーラシア大陸を一路、西に向かってひた走り、ポーランド、ドイツを経て、オランダのロッテルダムに到着した。これによって、連雲港は、全長10,900q、「新シルクロード」の東の起点となった。
 この、できごとのモニュメント、“大きな碇”が連雲港港の中にあると聞いていたので、ぜひ、それが見たかった。Oは前日に、何人もの友人に、このモニュメントへの行き方について聞いてくれたようだが、結果、どうも、通常の観光地のように、自由に入れるとか、入場料を払えば見られるとか、そんなではないようだった。連雲港港はずいぶんでかかった。大きなコンテナを積んだトラックを含め、いろんな種類の車両が出入りする。しかも、門がいくつもあった。Oが門ごとに、時には学生証を見せたりしながら守衛に掛け合ってくれた。やっと、3つ目の門から、入ることができた。まず、事務所まで行き、用件を伝えると、職員は至って親切で、港内は危険だからと、付き添って案内してくれた。トラックや、フォークリフトが行きかう埠頭は、ぼんやりしていると轢かれてしまいそう。そんな中、写真で見た大きな碇の「新亜欧大陸橋東端起点」のモニュメントがあった。そしてもう一つ、その横に、隴海鉄道の線路の起点があり、「新亜欧大陸橋 0+000km」の表示があった。私は、見たかったものが見られて大いに満足した。
 
この日の遠出が、これから続く、Oと一緒に出かける旅行の第一回目となった。

「新亜欧大陸橋東端起点」の裏側にある表記 隴海鉄道の起点にある「新亜欧大陸橋 0+000km」の表示