第二部 江蘇省の歴史を歩く
1.淮安(周恩来故居)経由揚州行き
  私は2005年の夏から06年の冬にかけての連雲港滞在中、あるいは2006年春、2007年春の再訪時、再々訪時、多くの旅行、小旅行を楽しんだ。ここ「第二部 江蘇省の歴史を歩く」では、これらについて報告する。
  歴史にあまり関係ない報告があるがご容赦願いたい。

江蘇省の地図。南京および濃紺の点のある市、合計13が省直轄市。水色の点の市はそれより下位の市

 
連雲港(れんうんこう)〜淮安(わいあん)、バスの旅

 中国では、5月1日のメーデーからの1週間と、10月1日の国慶節からの1週間の二度、“黄金周”がある。この期間、大学は授業がない。私は、10月2日、これをチャンスと旅行に出かけた。
  揚州へは、以前から行ってみたいと思っていた。それに、このたび、学生に教えることになった日本語の教科書に「めくらになった名僧」という題で鑑真のことが出ていたこともあり、鑑真ゆかりの揚州・大明寺へも行きたいと思ったのである。高速道路沿いの農村風景
  中国は、広い国土の割には鉄路が少ない。その分、長距離バスの運行が発達している。揚州へは列車もあるが、私はバスを利用することにした。学生の話では、高速道路を走って4時間ということだが、トイレ休憩なしで4時間は不安なので、淮安で一度、下車することにした。連雲港〜淮安120キロ、運賃は30元(1元は約14円)。連雲港を朝8時に出たバスは高速道路を快適に走行、10時きっちり、淮安に到着した。まず、揚州行きのバスの切符を買ってから汽車站(バスターミナル)を出る。揚州行きのバスが出る午後1時20分までの3時間の市内観光である。揚州への途中下車駅ぐらいに考えて下りた淮安の街であった。この街へ3度も通うことになるとは思わなかった。

周恩来、呉承恩、劉鶚(りゅうがく)の故居を訪ねる

まず、周恩来故居へ行くことにした。というより、淮安については、京杭大運河と周恩来故居ぐらいしか知識がなかった。周恩来故居は汽車站からずいぶん遠かった。
  現在の淮安市の市街地は4つの区からなり、その人口は270万人を超える。大都市である。清河区を中心にして、北に淮陰区、南に清浦区、これらは一続きで淮安の中心をなしている。ここから20キロほど南に離れて楚州区がある。この楚州区が周恩来の出身地である。
  タクシーの中で、淮安の汽車站で買ってきた観光地図を拡げていて、『西遊記』の著者呉承恩(ごしょうおん)、そして、甲骨文字の発見者劉鶚(りゅうがく)が同じく楚州の出身であることを知る。それぞれの故居の地理的位置から、呉承恩故居→劉顎故居→周恩来故居、そして時間があれば京杭大運河、と楚州観光のコースを決める。最初の見学地、呉承恩故居は、幹線道路から脇道に入って直ぐ、古い家並みが残っている一角にあった。
呉承恩故居正面  呉承恩(15061582年)は、『西遊記』の作者といわれている。『西遊記』の作者については異説があり、しかも、複数の名があがっている。私には、これについて言及するだけの知識がないのでこれ以上はふれない。
 故居内の説明板に、「呉承恩は絵画、書を得意とし、多芸多才であった。しかし、科挙には受からなかった。60歳で長興県の丞(属官)になったが、長官と反りが合わず帰郷した」とある。これ以外に官歴はなかったというが、どうしてこんな立派な屋敷に住めたのだろうか。

  呉承恩故居から輪タクに乗って周恩来故居へ向かう。途中、時間がないので、劉鶚故居の前で写真だけ撮る。劉顎故居の前でところが、輪タクの運ちゃんに撮ってもらった写真は、ここの写真も、周恩来故居前で撮った写真も、どちらも写っていなかった。ということで、右の写真は、度目の淮安旅行のときのもので、真冬の服装。
  私は劉鶚の名前をよく知っていた。私は社会の教師をしていたが、甲骨文字の説明をするとき、いつも生徒に次のような話をしていた。
  国子監祭酒、王懿栄(おういえい)はマラリアが持病で、季節の変わり目には発熱に悩まされた。妙薬とのことで、「竜の骨」を煎じて服用していた。居合わせた食客の一人、劉鶚が、この「竜の骨」に小さな文字が刻まれているのを見つけた。1899年のこの日が、甲骨文字発見の記念すべき日となった。「竜の骨」は殷王朝の都の遺跡、殷墟から掘り出された亀の甲と牛の肩甲骨だったのである。
  黄金周が終わって授業が再開した日、私は学生に、この旅行の話をした。しかし、甲骨文字の発見者としての劉鶚を知っている者は誰もいなかった。ただ、『老残游記』の作者として劉鶚の名を知っている学生が一人いた。

周恩来故居の前で 周恩来故居内部
周恩来故居内部 周恩来故居内部

  故居めぐりの最後は周恩来故居だ。周恩来故居は、楚州区市街地の裏通りといった場所にあった。
 
周家は、もともと浙江省紹興を祖籍とする旧家である。周家は周恩来の祖父が淮安県知事の師爺(秘書長)に就任し、紹興から淮安に移り住んだ。当時の地方都市にあっては非常に高い地位であったから、住まいは立派な構えである。上の写真、レンガ造りの門を入ると、使用人を抱えた大家族が住める立派な屋敷が続く。他の3枚の写真は、その内部である。
  この祖父は、周恩来が生まれた年(1898年)に県知事に昇進するが、病弱のために知事の仕事を全うできず、財産も残さずに病没してしまう。恩来は、伯父のいる奉天(現在の瀋陽)へ移り住む12歳までを淮安で過ごした。毛沢東故居。1993年末、筆者撮影

 この周恩来故居を毛沢東故居(下の写真。1993年末、筆者写す)と比べてみるとどうだろう。この毛沢東故居を、ユン・チアンは『ワイルド・スワン』で、「けっこう広くて立派な家で、悪辣な地主に搾取される貧農のあばら家を思い描いていた私の想像とは、かけ離れていた」と述べている。ユン・チアンが周恩来故居を見ていたら、何と表現していただろうか、興味深い。革命に進む意志は、家の貧しさとは関係ないのかもしれない。


バスは走る運河沿いの道

 ここ楚州に長居はできなかった。また半時間ほどかけて汽車站へ戻らなければならない。タクシーに乗り、大運河経由で汽車站へ行ってくれるように頼む。隋の煬帝に始まる運河をしかとこの眼で見ておきたいと思う。一口に運河といっても、京杭大運河、古運河、里運河などいろいろあって、ぽっとやってきた観光客の私にはなかなかその見分けがつきにくい。京杭大運河は現在の運河本道である。大運河沿いの都市には、これとは別に、市内の水運、且つ大運河との連絡水路として里運河が作られている。楚州には、また、古い歴史的運河が部分的に残っている、それが古運河である。
 「大運河を見たい」と告げた私に、タクシーの運転手が連れて行ってくれたのが下の写真の場所である。これが大運河なのかどうか、よく分からない。運転手を信用するしかない。

楚州の運河風景
運河沿いの道をバスは走る

揚州行きのバスは淮安の汽車站を発車時刻の午後1時20分を10分遅れで出発。淮安〜揚州170キロ、40元。このバスは、連雲港〜淮安のバスと違って、利に聡い。躍起になって客を拾う。スピードを落として進み、荷物を持って道路わきに立っている人がいると必ず声をかける。行き先とか料金を交渉しているようだ。学生に聞いた話では、途中から乗ると料金が格段に安いという。バスの運行については、会社経営、個人経営などいろいろある。売上金も、汽車站での正式な切符の売り上げ、途中乗車の現金収入など、それぞれ、入るところが違うようだ。途中、躍起になって客を拾うのには、乗務員にそれだけのメリットがあるからだろう。そんな状態なので、淮安を離れるのに小1時間かかっていた。
  連雲港〜揚州、直行の長距離バスは、ほとんど全行程、高速道路を走るが、私が乗ったバスは一般道路ばかりを走った。そして、そのほとんどが京杭大運河に沿った道路で、高速道路では見られない景色を楽しむことができた。運河を多くの船が行き来する。数隻連なった船も多い。先頭の船だけがエンジンを持ち、長いものだと10隻を超える荷船を牽く。こんな景色に見とれて、気がつくと、淮安を出て3時間が過ぎていた。予定だと、そろそろ揚州に着く時間だけれど、執拗な客拾いの所為で、まだ相当かかりそう。と分かると途端にトイレへ行きたくなる。困ったなあと思っていると、うまい具合に、バスはガソリンスタンドで停車した。こんなバスの旅で、やっと、5時半に揚州着。予定より1時間遅れにはなったが、結構、楽しかった。

憧れの揚州

私は、揚州という字と響きに特別な思いがあった。歴史のある美しい都市、そして同時にハイセンスな都市、なぜかそのように考えていた。この予想は不思議と当たっていた。
  揚州は、人民共和国成立までは江都と呼ばれていた。現在、江都市は運河の東に別にある。長江の旧称、揚子江の名は揚州に由来する。揚州の歴史は、春秋時代に呉王夫差がこの地に城を築いたことに始まる。また、遣唐使の多くは揚州を経て長安に入った。ここでは、先ほどからの運河の話の関係上、隋の煬帝の運河建設にまつわるエピソードから始めよう。
  7世紀はじめ、605年、隋の煬帝は黄河と淮河(わいが)をつなぎ(通済渠)、続いて、淮河と揚子江をつないだ(カン溝)。一からの建設ではなく、大半は、それまで各地に建設されていた運河を連結させたということであるが、それにしても、この大土木工事を春から秋のはじめにかけての半年ほどで完成させたというのは信じられない。この大運河は御河と称せられ、岸に沿って御道が築かれ、柳が植えられた。また、この間、40もの離宮が造られ、離宮には多数の美女が集められた。秋月、煬帝は洛陽から江都へ、皇帝として初めての行幸を行った。皇帝の御船「竜舟」を中心に、数千隻が運河に浮かび、付近の農村からかり出された船の曳き手は8万人に及んだという。このあとも運河建設は続く。黄河とタク郡(北京)を結び(永済渠)、揚子江と銭塘江をつないだ(江南河)。これらの大土木工事は軍事、経済に大きな力となったが、一方、農民の疲弊は、はかり知れなかった。煬帝は618年、江都の離宮で近衛兵に殺される。死ぬまで杯を離さなかったという。煬帝陵は揚州郊外にある。
  ホテルは、観光に便利な場所にあり、由緒ありそうな名前の揚州賓館にした。宿泊料は、“黄金周”ということで、結構高かった。2泊で1,112元。

痩西湖の入口附近 園内で、声を張り上げ伝統劇の練習をする土地の人々

翌日、黄金周のこの期間、揚州に帰っていた学生が観光案内をしてくれる。まず、痩西湖(そうせいこ)へ行く。杭州の西湖に似ていて、形が細いからこの名が付いた。
  園内では市民活動が盛んだ。この地方の伝統演劇の練習なのか、楽器の演奏をバックに、京劇のような声を張り上げている。痩西湖はずいぶん広く、歩き疲れた。それでも一応、最後まで見学する。北の出口に近づいてきた辺りから大明寺の塔が見えてくる。この塔は新しくできたもので、風情はないが、痩西湖に映る姿は美しい。

痩西湖から見る大明寺の塔 寺門の正面上部に「大明寺」の文字

大明寺は南朝宋の大明年間(457464年)の創建。その年号にちなんで大明寺と名づけられた。現在の建物は清の同冶年間に再建されたものである。1980年、“法浄寺”と変わっていた寺名を唐招提寺の鑑真像の里帰りを記念して、元の“大明寺”に戻された。現在、大明寺には、摸造の鑑真坐像が安置されている。
  三日目は、もと来た道を淮安経由で連雲港へ戻る。あわただしい旅行であった。