第4部 中国歴代皇帝陵
5.清の東陵(09年5月)
清東陵
 
  清東陵は、北京の東125キロのところ、河北省遵化市西北部、馬蘭峪(まらんよく)の昌瑞山の麓にある。以下、羅哲文著『中国歴代の皇帝陵』より抜粋引用。
  清の順治年間(164361年)、順治帝が狩に出ていたとき、たまたま昌瑞山の麓にやってきた。馬を止めてあたりを眺め、ここの風景の静かで美しいことに打たれた。山並みに「王気が青々と茂っている」と思った。そこで、弓懸(ゆがけ)の指輪をとって空に投げ、近侍の家来に言った。「指輪の落ちたところは、必ずや墓地としてよい地相であるだろう。そこに朕の墓を準備してよいであろうぞ」
 
 康熙2年(1663年)、順治帝のために昌瑞山の麓に孝陵の建造を始めたのが、東陵造営のはじまりであった。その後、康熙帝とその皇后、皇妃たちもそれぞれ東陵に葬られるようになり、清代の「子は父に随って葬られ、祖父の代から父、子、相ついで引き継がれる」「昭穆の制」が始まった。「昭穆(しょうぼく)の制」とは、宗廟の霊位の席次のことで、中央を太祖として、2世、4世、6世は左に列して昭といい、3世、5世、7世は右に列して穆という。

  清朝の場合、太祖ヌルハチと太宗ホンタイジは山海関入関前の時代で、その陵は瀋陽市にあるので、東陵の中央は三代順治帝である。
 この制度は、雍正帝のとき変化を見せる。これについては、清西陵のところで述べる。

清東陵には、③順治帝の孝陵、④康熙帝の景陵、⑥乾隆帝の裕陵、⑨咸豊帝の定陵、⑩同治帝の恵陵、それから、慈安太后(東太后)、慈禧太后(西太后)など皇后陵が4基、皇妃の園寝(墓所)が5基、皇女の陵が1基建っている。これら15基の陵墓は昌瑞山の南麓一帯に、東西に展開している。長く続く山並が、屏風のように陵墓の後ろに立ち、長い神道が陵墓の前に伸びている。清東陵は、中国現存の規模最大で、しかも、ほぼ完全に保存されてきた帝王皇室陵墓群である。
  清東陵の門票(入場券)百十元。

 清東陵の鳥瞰図を下に載せている。この図の右下の隅、東陵の塀の外に一つ、孝荘文皇后の昭西陵がある。これについて、頭に留めておいていただきたい。

陵の最前面は石牌坊 上右の写真の奥に見えるのが大紅門 これが東陵の入り口
約5kmの神道が続く。両側に一定の間隔で石獣と石人が立つ。ここは、馬、象、カイチ、麒麟など18対。 一番前に見えるのが石牌坊、続いて二層屋根の碑楼、アーチ3つの石橋、隆恩門、その後ろに見える大きな屋根は隆恩殿、一番後ろに少し見える屋根は明楼。明楼の後ろが宝頂、つまり、墓地である。
アーチ3つの石橋(三孔橋という)の向こうに見えるのが隆恩門。その後ろの高く大きな屋根が隆恩殿。 隆恩殿は祭りの儀式の中心となる場所
隆恩殿の後ろに瑠璃花門がある。写真では、3つの門のうちの左の門と中央の門の一部が見えている。瑠璃瓦や色つきの磚で飾られている。瑠璃花門の後ろの大きな建物が明楼。 瑠璃花門をくぐると、二柱門。その後ろに小さく見えるのが石の台に乗った五供。真ん中が香炉でその両脇に花瓶、燭台、蝋燭と火炎。五供座の後ろには、方城の上に明楼が聳え立っている。
明楼の後ろの墳丘が墓地で、墳丘(宝頂という)の周りを城壁(私が立っている部分)が一周している。 補足:3つ上の写真の碑楼の中身は亀の背(亀趺)に乗った石碑。皇帝の事蹟等が漢字と満字で記されている。

  以上、どの陵墓にも共通する建物配置についてみてきた。

  以下、落穂ひろい。
明楼前の五供の3つがよく見える    満州文字をよく目にする
乾隆帝裕陵地下宮殿の入り口 左の写真とは別の地下宮殿  皇妃の棺


孝荘文皇后の昭西陵

 清の東陵は、皇帝と皇后の陵墓のほとんどが長さ20キロほどの陵壁のなかに集中しているが、太宗ホンタイジの皇后で、順治帝の生母である孝荘文皇后の昭西陵だけはポツンと大紅門東側の陵壁の外に建てられ、特例となっている。

 昭西陵のこの特殊な場所は、陵墓の主の伝奇的で輝かしい生涯を物語っている。彼女は若いころ、太宗・ホンタイジの政務を助け、清の政権が中原に入るための基礎をつくった。ホンタイジが突然逝去した後、政治を熟知していた彼女は、多くの親王たちが皇位を奪おうとした混乱状態のなかで、知恵と才覚でそれらの親王たちを退け、自らの6歳の息子を皇位につかせた。つまり、それが順治帝である。以降、内乱もおさまった。
 順治18年(1661年)、24歳の順治帝が天然痘で急逝し、8歳の康熙帝が即位すると、またもや皇帝の政務を補佐した。
 康熙26年(1688年)、75歳の孝荘文皇后が亡くなった。清朝の伝統的な規定によれば、遼寧省瀋陽に陵墓が建てられている太宗ホンタイジと合葬すべきであるが、太宗と合葬されたくなかった孝荘文皇后は、病床にあって康熙帝に次のように遺言した。
 「太宗は墓所に奉安してすでに久しく、私のために軽々しくそのお墓を動かすことはなりませぬ。ましてや、私は心からお前たち父子を愛していますので、孝陵(順治帝の陵)の近くに仮安置してくれれば、私の心は安まります」と。
 初め、康熙帝はお祖母さんの遺言を尊重して、孝陵の南に「暫安奉殿」を建て、陵は造営しなかった。雍正2年(1724年)になって、雍正帝は、初めて曾祖母さんのために陵をつくり、「昭西陵」と名付けた。この命名からも、瀋陽の昭陵と対になるものとされていることがわかる。昭西陵は東陵の壁の外に位置し、東陵と体系的に区別されている。と同時に、子孫のそばに安置してほしいという孝荘文皇后の願いもかなえられている。(『人民中国20053月号)

 下線の部分について、『人民中国』の記事では、その立場上、どろどろした箇所には触れずに記述されている。

  順治帝の初年、孝荘文皇后は国母という尊い身分にありながら、兄嫁として弟に嫁し、摂政王ドルゴンの妻になっている。これは、山海関内に入ってくるまえの満州貴族のあいだでは、別に驚くに当たらない行為であった。ところが、孝荘文皇后とドルゴンの間には、ホンタイジ生存中から不義があったとなると話は違ってくる。
  ドルゴンは、摂政王とまでよばれた実力者であったが、死後、順治帝によって、大逆などの罪があったとして爵位を剥奪され宗室から除名されている。これには、母親とドルゴンの関係が原因していると思われる。
  孝荘文皇后は、死して葬られるとなったとき、清朝の伝統通り、かつての夫、ホンタイジの眠っている昭陵に合葬してもらうには、やましさがあった。かといって、国母という手前、爵位剥奪されたドルゴンと合葬してもらうということもできなかった。子供の墓の近くにというのが彼女にとっては最善の選択だったのだろう。

山海関外の陵墓

 順治帝は清朝の3代目である。では、初代ヌルハチと2代目ホンタイジの陵はどこにあるのか。これについて簡単に補足する。太祖ヌルハチの福陵も太宗ホンタイジの昭陵も、ともに瀋陽市にある。

太祖ヌルハチの福陵 太宗ホンタイジの昭陵