第4部 中国歴代皇帝陵
6.保定市内観光と清の西陵(10年5月)
  私の保定行には3つの目的があった。第一は、直隷総督府の置かれた町を訪れることだった。これはもう、何十年も前からそう思っていた。李鴻章は直隷総督兼北洋大臣として、天津と保定を行き来したという。
 中鋒書法を初めて日本へ紹介した人物で、また、日本における中国語教育の先駆者に、宮島大八という人がいる。私はこの人物の父親、宮島誠一郎について少し調べたことがあり、宮島大八にも関心があった。この宮島大八がその師、張裕釗(ちょうゆうしょう)の教えを受けた場所、蓮池書院を訪れることが二つ目の目的だった。
 三つ目の目的は、保定市易県にある清西陵へ行くことだった。昨年、清東陵へ行ったので、次は西陵と思っていた。丁度そんな時、保定在住の河北大学生
Z.Mと知り合いになり、行く決心がついた。
  ここでは、保定市内と易県への道中について、写真で簡単に説明します。
工事中の北京西駅 北京西~保定 私が乗った2階建て列車
保定 正面は旧総督府 改札口から見た旧総督府の中
保定市内 旧蓮池書院正面 今は古蓮花池という
古蓮花池の無人改札機に通す入園カード 20元
旧蓮池書院の内部 旧蓮池書院の庭
「張裕釗 宮島大八 師生紀念碑」               保定へ行った目的の一つはこの碑に会うこと 上條信山は宮島に師事した
河北大学 ディズニーランドのホテルのよう 校訓「実事求是」
Z.Mと夕食 支払いは彼女の父上
私が泊まったホテル 一泊317元
保定~易県の道中 易県の町中

清西陵

 清朝は山海関内に入ってから、皇帝が10代続いた。そのうち東陵には5人の皇帝が埋葬されている。残る5人の皇帝のうち、溥儀を除く4人は、みな北京の西120kmのところにある西陵に葬られている。どうして、このようなことになったのだろうか。なお、溥儀には陵はない。溥儀については別にふれる。
  清朝も、「子は父に随って葬られ、祖父の代から父、子、相ついで引き継がれる」いわゆる「昭穆の制」を実行してきた。これに従えば、清代の10人の皇帝はみな一緒に葬られるべきであった。この制度を破ったのは雍正帝である。

  雍正帝は第4皇子で、康熙帝が長く位にあったこともあって、即位のとき、既に45歳であった。次の皇帝として最も有望視されていたのは、康熙帝の寵愛を受けていた第14皇子であったが、老帝が息を引き取るとき、司令官として遠く出動していて不在であった。
 雍正帝の即位には陰謀の臭いもあるが、彼は、皇帝としては非常に有能であった。朝は4時に起き、夜は12時まで、片時も政治から離れなかった。また、文字の獄など、非情さがつきまとうが、彼の治世は、康熙帝の寛容が雄大な世界帝国にゆとりと落ち着きをもたらした後、帝国のタガを締め、以後の200年にわたる存続の基礎を固めたといえる。
洋装をした雍正帝

雍正帝は康熙帝の遺言を改ざんして皇位を奪ったといわれている。心中やましいところがあるために、父康熙帝と同じところに葬られたくなかったというのである。
  雍正帝は、さらに後嗣ぎの皇帝たちにも、自分に随って西陵入りをさせたいと考えていた。しかし、息子の乾隆帝は父の意に反して、「風水のよいところを陵地に選ぶ」という理由で、東陵を自らの墓所とした。そして以後、清朝では、東西二つの陵区のあいだで、墓所を自由に選べばよいとされた。
  西陵には、皇帝陵が⑤雍正帝の泰陵、⑦嘉慶帝の昌陵、⑧道光帝の慕陵、⑪光緒帝の崇陵、の4基と皇后の陵墓が3基、王公、皇女、妃の園寝が7基、合計14基存在する。
 東陵も西陵も、基本的に、建物の配置は同じである。

雍正帝の泰陵の隆恩殿 光緒帝の崇陵の五供座

愛新覚羅溥儀の墓

ここは皇家に繋がる人たちの墓苑 この一番上に溥儀の墓がある

最後に、ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の墓について述べる。溥儀の墓は、光緒帝の崇陵の裏の一角につくられている。

宣統帝溥儀略歴
1906年 北京に生まれる
1908年 第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
1912年 辛亥革命により退位
1922年 婉容(正妻)と結婚
1924年 クーデターにより紫禁城から退去
1925年 イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否。天津日本租界内張園
   に移転

1931
年 満洲事変勃発後、日本軍の満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引き
   で天津を脱出、満洲へ移る

1932年 満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
1934年 満洲国皇帝に即位
1945年 満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位。その後、ソ連軍捕虜となる
1946年 東京裁判ソ連の証人として出廷させられる。正妻婉容死去
1950年 中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
1959年 模範囚として釈放され、その後、北京文史資料研究委員会に勤務
1962年 李淑賢と結婚
1964年 中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
1967年 北京で死去

左の写真、中央が溥儀の墓。溥儀の墓に並んで、その向かって右横が皇后婉容の墓(上右の写真)。
 なお、1962年に結婚し、終生の伴侶となった李淑賢は、1997年、世を去るにあたって、「溥儀には、漢奸としての半生がある。私は死んでからもその妻であると言われることには耐えられない。私の骨を、溥儀と一緒に葬ることは絶対にしないで欲しい」と言い残した。遺骨は溥儀の墓とは別の人民公募に納められている。