第4部 中国歴代皇帝陵
2.秦始皇陵と漢武帝陵(父と娘の西安旅行)

秦始皇陵と兵馬俑博物館 

 1995年の夏休み、私は娘と一緒に中国旅行をした。その三日目の8月3日、私たちはタクシーを一日借り切って、秦始皇兵馬俑博物館と華清池を見学した。そのときの記録である。
 華清池は西安の東北東30キロ余りのところ、兵馬俑博物館は更に東5、6キロのところ、共に驪山(りざん)の麓にある。この日のタクシー代、365元。
 ホテルを八時半に出る。車が混んでいて、市内を抜けるのに二十分以上もかかる。市の東北部から西臨(西安~臨潼)高速公路に乗る。五元の高速料金を払う。高速道路は葡萄、とうもろこし、ひまわり畑を抜けて走っている。かなり古い小型車が時速百キロで飛ばすので恐い。二十分も走ると臨潼に着く。ここからは砂埃りの田舎道を進む。
 石榴畑の続く道を走っていると、運転手がスピードを落とし、秦始皇陵だと指を差す。タクシーを下りて道端から写真を撮るが、あまりよいアングルがない。本に載っている写真はもっと大きくきれいに撮れているし、頂にまで人が写っている。「陵の近くに行ってほしい」と言うと、運転手は「道がない」と言う。嘘っぽいが信じるしかない。
 史書によると、始皇帝は己れの陵墓として驪山に大いなる墓を穿つ計画を立て、即位するやいなや陵墓を造り始める。人夫は最も多い時には、70万人を超えた。皇帝在位37年、陵墓造営36年、彼の一生をかけての事業であったのだ。
 盗掘を防止するため、自動発射の実戦用の武器を備え付け、盗賊を射殺するなどの防備手段を構じた。
 そんな防備をした墓も項羽によってあばかれ、30万人の人力で30日にわたって財宝が運び出されたという。 
 兵馬俑坑は始皇帝陵から東1.5キロの所にある。石榴畑の間の道から、急に視界が開け、兵馬俑坑博物館前の大通りに出る。  
 タクシーを下りると、うだるような暑さである。旅行中この日が一番暑かった。タクシーに乗っている時も暑かったが、それでもまだ、多少はクーラーが効いていた。私は「暑い!暑い!」を連発するが、娘は平気である。
  運転手が通りの露店で、ペットボトルに入った水を買ってくれる。日本でも、特に地震以来、ペットボトルに入ったミネラルウオーターがよく売れているが、中国では、少し小振りの容器に入っていて氷っている。観光客は手に手にこれを持って、溶かしながら、飲みながら歩いている。このような光景は、いたるところで見かける。

 海外旅行では飲み水、食物に注意するのは鉄則である。今までの中国旅行では、ホテルでも列車に乗っても、熱い湯の入った中国特有のポットが用意されていた。でも、今回の旅行では、なぜかどのホテルでも飛行機でも、この小振りのペットボトルに入った鉱泉水が出てきた。
 ところで、ポットの熱い湯は安心でも、ペットボトルの水、それも、観光地の露店で売っているのはどうも不安である。しかし、この用心も暑さに敗けてしまい、ついつい飲んでしまった。やはりこれはまずかったようだ。
 通りの両側には、このような飲み物屋の他、土産物屋、果物屋など小さな露店が並んでいる。果物屋といっても、ほとんどが、石榴だけ、葡萄だけというように単品だ。
 兵馬俑坑は、1974年、日照りに悩む農民が井戸を掘っていて偶然発見した。現在、隣接して三つの俑坑が発見されている。一号俑坑が一番大きく、約6千体の陶俑陶馬が発見された。これを巨大な体育館のように覆い博物館としている。私たちがよく見る写真は、すべてこの一号俑坑のものである。

西瓜を食べる娘
上左の体育館のような建物の中が兵馬俑坑

漢武帝の茂陵と霍去病の墓   

 これも、1995年夏の私と娘の中国旅行の続きである
 西安の周辺には、秦の始皇帝陵を始めとして、前漢時代の皇帝陵が十一ヶ所、唐代の皇帝陵が十八ヶ所ある。この他、帝王陵の近くに一族郎党文武官僚の陪塚が数多く造られているので、観光地図に載っている陵墓をざっと数えただけで優に五十はある。そして、そのほとんどが渭河の北、西安から遠く離れて造られている。 
 渭河は渭水(いすい)とも呼ばれる。関中平野(渭水盆地)を貫いて流れ、黄河に合流する。流域は中国古代史の中心地である。

 前漢の皇帝の陵墓は渭河の北、咸陽に比較的近いところにあるが、唐の皇帝の陵墓は、西安の西北百キロの所にある乾陵(けんりょう:高宗と則天武后の合葬墓)を一番西に、西安の東北百四十キロの所にある泰陵(玄宗の陵墓)を一番東に、斜めにずっと並んでいる。
 パックツアーで、こういう所へ行くことはまずない。私たちもどうしようか迷った末、漢の武帝の茂陵と、そこから比較的近い楊貴妃の墓とに行くことにする。
 昨日と同じタクシーを利用する。一時半にホテル出発。 西安から三十キロ、渭河を渡って、一時間弱で咸陽着。
 唐の詩人王維に「渭城の曲」という七言絶句がある。

   渭城の朝雨 軽塵をうるおす
   客舎 青青 柳色新たなり
   君に勧む 更に尽せ一杯の酒
   西のかた陽関を出づれば故人無からん

 詩題は、「元二の安西に使するを送る」となっている。
 秦の都、咸陽城の故地を渭城と呼ぶのは、前漢以来の伝統である。唐代では、西に旅立つ人をここまで見送る習慣があった。現在の咸陽市は、秦の都咸陽城と同じ所ではない(少し西に寄っている)。しかし、いずれにしても、そんな風情は微塵もない。ただ、この辺りからは黄土層が顕著になり、街全体が土色で埃っぽく、「渭城の朝雨 軽塵をうるおす」の七言は想像できる。
 咸陽から、さらに西へ十五キロ。一面のとうもろこし畑の向こうに、小山が一つ、そして右手遠く離れて、ずっとずっと小さい小山が二つ三つ見えてくる。茂陵と陪塚である。
 生存中に造る陵を寿陵というが、武帝は即位の翌年から寿陵を造り始める。死ぬまで実に五十三年にわたって、毎年、国民総生産の三分の一を陵墓造営に投入し続け、死んだ時にはすでに財宝が満ち満ちていたという。下の写真、左、漢武帝茂陵、右、霍去病

茂陵および陪塚、復原想像図

 この茂陵の東には、霍去病(かっきょへい)、衛青など重臣の墓がある。この二人は、共に、対匈奴(きょうど:北方の遊牧騎馬民族)戦を成功させた将軍である。とくに霍去病は有名である。彼は十八歳で叔父衛青の匈奴討伐軍に従ってより、票騎将軍として数々の大功をあげ、武勇の声望高く、武帝の寵をあつめたが二十四歳で病死した。武帝はこれを悲しみ、建設中の茂陵の傍らに墓を造らせ形を彼が大功をたてた祁連山(きれんざん)に似らしめたという。 
 茂陵は陵墓だけしかなく、時間をかけてみるほどの物はなにもない。しかし、陪塚の霍去病の墓は木立が多く、あずまやや庭園があって公園のようになっている。ここに、茂陵博物館ができている。観光客は霍去病の墓と博物館を見学する。

楊貴妃の墓

 中国歴代皇帝陵の話として、秦始皇陵や漢武帝陵の話をしているところへ、皇后でもなく、時代も違う楊貴妃の話を持ってくるのは、いかにも取って付けたという感が否めない。ただ、楊貴妃の墓が武帝の茂陵と地理的に近く、私がその両方へ行ったということでこの話をここにおく。ご容赦願いたい。
  楊貴妃の墓は茂陵から更に西へ三十キロのところ、興平県馬嵬(ばかい)の幹線道路脇にある。
 中唐の詩人白居易は、「長恨歌」に   

   春寒くして浴を賜う華清の池
   温泉水滑らかにして凝脂を洗う
   侍児扶け起こせば嬌として力なし
   始めてこれ新たに恩沢を承くるの時
   雲鬢 花顔 金歩揺 
   芙蓉の帳暖かにして春宵を度る
   春宵は短かきに苦しみ日高くして起く
   これより君王は早朝せず

と、うたっている。
 当時、皇帝は四時、五時に起きて多くの文書に目を通し決裁するのが習わしであった。それが、「早朝せず」とは楊貴妃にうつつを抜かし、早朝するだけの緊張感をなくしていた、もう政治に興味を示さなくなったということである。
玄宗の治世は、元号でいえば開元、天宝である。開元は〝開元の治〟と呼ばれるように政治が締まっていた。ところが後半の天宝は楊貴妃とのラブロマンス、安禄山の登場と重なる。755年、楊国忠との対立から安禄山は兵を起こす。安史の乱である。安禄山は瞬く間に洛陽を落とし長安をうかがう。翌年6月、やがて潼関(東からの侵入に備え長安を守る関)も破られ安禄山は長安に迫る。玄宗は楊貴妃、王子たち、後宮女官を従え、衛兵たちに守られ蜀(四川省成都)へと向かう。
 落ちゆく皇帝、楊貴妃の一行が渭水を渡り咸陽を過ぎ、逃避行二日目、馬嵬駅まで来た時、衛兵たちから、「こんな事態に到ったのはすべて貴妃とその一族のせいである」という声があがる。
 まずその憤懣は、楊貴妃の従祖兄(またいとこ)で、楊一門ということで立身出世し、権力をほしいままにしていた楊国忠に向けられる。兵たちは楊国忠を殺し、国忠の子供を殺し、楊貴妃の姉たちを殺し、さらに、「賊本なおあり!」と叫ぶ。玄宗は涙にくれながら、宦官高力士に、「楊貴妃を絞殺せよ」と命じる。
  楊貴妃は仏堂に入り、仏前で帛(きぬ)でくくり殺された。
 貴妃の亡骸は高力士の手で駅亭から程遠からぬ原野の一角に葬られた。時に38歳。楊貴妃が、もし、玄宗の息子寿王の妃のままであれば・・、歴史に「もし」は禁句であるが、どんな思いで死んでいったか。   
 この後のことについて、堂の壁の説明書には次のように記されている。
  「長安回復の後、玄宗は都に帰ると、ひそかに人を馬嵬に遣わし改葬した。その時、死体は既に溶けて無くなり香嚢がなお残っていた。現在の墓はこれを埋めた塚である。
 もと、楊貴妃の墓は土盛りであったが、墓の土は毎年の春に白粉に変わって、香りを漂わせた。その白粉を顔に付けると美人になるという噂がひろまってから、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参った。このため、二、三年の内に墓の盛り土が無くなってしまった。
 現在の墓は半球状に煉瓦で覆われていて、白粉は見えない。墓前に「楊貴妃の墓」の碑がある。
 楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、多くの詩人が墓に参拝し詩を献じた。それらの詩を刻んだ三十二の石刻が墓の横の回廊の壁に嵌められている。」
 そんな中に、アヘン焼燬の英雄林則徐の名があった。また、墓の後の白壁に填められた毛沢東手書きの長恨歌が目を惹いた。あの右上がりの特徴のある字で書かれている。
 西安咸陽空港前のホテルの車寄せで運転手に今日の料金四百元を支払う。これで西安観光も終わりである。