第4部 中国歴代皇帝陵
3.明孝陵と十三陵

中山陵

 南京市の東部に紫金山という高さ450メートルの山がある。この山の南斜面東側高いところに中華民国建国の父孫文の墓、中山陵があり、西側低いところに明の太祖朱元璋の墓、明孝陵がある。また、明孝陵への途中、目立たないところに、三国志の英雄、呉の孫権の墓がある。  
 話の都合上、孫文の中山陵から入る。
 孫文の死んだのは1925年の3月であった。

 右の写真は、1924年11月28日、兵庫県立神戸高等女学校に於ける「大亜細亜主義」の講演風景。神戸から天津へ向かう船の上から胃痛を訴えていた。天津に上陸して張作霖と会談。会談後、胃痛がひどく医者を呼ぶがその診断は肝臓癌であった。特別列車で北京に移り、ロックフェラー病院で手術をするがすでに手遅れでそのまま縫合してしまった。1925年3月12日死去。享年59歳。遺体は北京の碧雲寺に安置された。
 中山陵は1926年から3年を費やして完成した。29年6月1日、この場所で中国国民党葬が行なわれ、孫文の棺は碧雲寺からこの陵に移された。何ともすごいスケールの墓だ。延々と続く壮大な石段を登り切ったところに、青い瓦の屋根と白い壁を持った美しい建物が建っている。正面には「天地正気」の額が掛かり、その下には三民主義を表す「民族・民生・民権」の文字が見える。
 中に入って私たちが見るのは、大理石の臥像であって、孫文の棺は臥像の下5メートルのところに安置されているということだ。


明孝陵と三国呉孫権の墓

 以下は、1994年の私の旅行記からの抜粋である。
 明の太祖朱元璋は貧農の出であるが、元末の農民反乱、紅巾の乱に加わり頭角を現した。彼は、おでこであごの長い、しかもあばた面の醜男だったという。
 彼の妃の一人寧妃は観相に長じていた郭山甫の娘であるが、零落中の朱元璋を一見するや、そのすぐれた人相にほれこんで、娘を娶わせ、のちに一族は封侯の栄誉を受けることになったという。
 左の絵は、現地、孝陵にあった肖像画であるが、ハンサムとはいえないが、なかなかの人物に描かれている。
 
 中山陵は新しいこともあるが、なんとも人工的な建造物で、見学者も多くにぎやかだ。他方、孝陵は明代陵墓では最大の規模であったということだが、太平天国の南京占領他、幾度も戦禍を被り、破壊されてしまい、かつての壮大さを今に伝えるのは、方城というデッカイ城壁のような建造物だけである。また、見学者が少ないこともあって、しっとりとした雰囲気が感じられる。

 明孝陵への参道に当たるところが石像路と呼ばれ、武人の石像5対と、動物の石像12対が並んでいる。この動物の石像がなかなかユーモラスで楽しい。獅子、駱駝、麒麟馬、象、その他、カイチという牛に似た想像上の動物などが顔を向き合わせて立ったり座ったりしている。
 ところで、参道は一直線と思っていたが、孝陵の参道は途中で「くの字」に曲がっていて、陵の前の梅林の小高い丘を迂回している。この丘は墓で、あの三国、呉の孫権が眠っているのだ。朱元璋は自らの陵墓造営の際、それを知り、「参道は直線」の常識を破り、かつての英雄をたたえて、あえて、その丘を迂回し、曲がった参道を建設させたという。

 春のように暖かく、一昨日、昨日と続いた寒さが嘘のよう。喉の痛みはだいぶ和らぐ。しかし、中山陵、孝陵と歩いて来たので、左足の付け根の痛みがまたぶり返す。孫権の墓の入り口の芝生に座り、持ってきたパン、りんご、チーズで昼食を摂る。今度の旅行で、この孝陵付近が一番気に入った。上の写真は「孫権墓」の碑。 

上右の写真を方城という。上左の絵のように、その上に明楼が乗っかる台座である。明楼は破壊されて今はない。その後ろに墳丘がある。墓である。この墳丘を城壁がぐるっと取り囲んでいる。この部分を宝頂という。
 
明十三陵

 明は3代永楽帝の1421年に北京に遷都した。永楽帝はじめ13人の皇帝が眠る北京の〝明の十三陵〟は有名である。

③成祖永楽帝:長陵
④仁宗:献陵
⑤宣宗:景陵
⑥⑧英宗正統帝・天順帝:
  裕陵
⑦代宗景泰帝の陵はここ
  にはない
  北京市西部の金山口にある
⑨憲宗:茂陵
⑩孝宗:泰陵
⑪武宗:康陵
⑫世宗:永陵
⑬穆宗:昭陵
⑭神宗万暦帝:定陵
⑮光宗:慶陵
⑯熹宗:徳陵
⑰毅宗崇禎帝:思陵
 明は17代であるのに、どうして皇帝の墓は南京に1つと北京に14の合計15しかないのか。また、どうして⑦景泰帝の陵墓だけ、明十三陵ではなく別の所にあるのか。これは、明の歴史の中身に関わることで面白いので少し記す。
 2代建文帝と3代永楽帝は、甥、叔父の関係であるが、永楽帝は建文帝を破り位を奪った。しかも永楽帝は、建文を明の歴史から抹殺して、洪武からただちに永楽と続くように改めたので、建文帝は明一代を通じて最後までその正位は認められなかった。これでマイナス1。6代正統帝は、土木の変(1449年)で西モンゴルに捕らえられ捕虜となる。この事態に対し北京では、正統帝の弟が位につく、これが7代景泰帝である。ところが、一年の後、西モンゴルは正統帝を送り返して明と和解する。正統帝が帰ってきても7代景泰帝が権力を持ち続ける。七年後、クーデターによりやっと正統帝は、景泰帝を破り復位する。これが8代天順帝である。6代正統帝と8代天順帝は同一人物であるので、合計マイナス2。17マイナス2で15。これが明朝の陵墓の数である。また、天順帝は、7代景泰帝の帝位を認めず、景泰帝は死後、明十三陵とは別の場所に親王として葬られた。これが、〝明十四陵〟ではなく、〝明十三陵〟の理由である。

 明十三陵の画像を掲載する。
神道 第4代仁宗献陵
第14代神宗万暦帝定陵 定陵の地下宮殿
第3代成祖永楽帝長陵 長陵の明楼
(上の6枚の写真はGoogle画像検索「明十三陵」による

皇帝として葬ってもらえなかった景泰帝

その理由は既に説明したので、ここでは、北京市西部、金山口にある景泰陵の写真のみ掲載する。写真はウェブサイト「訪北京明十四陵 明景泰陵」より転載。
  死後、最初は親王として金山口に葬られていたが、次の⑨憲宗の時、帝号と廟号が回復され、同じ金山口の地にではあるが帝陵として造営された。

上左は碑楼、上右は祾恩殿の大門
祾恩殿等も今に残っているようであるが写真が見あたらなかった