第4部 中国歴代皇帝陵
1.中国歴代皇帝陵概観

時代別皇帝陵概観 

  まず、時代別に皇帝陵を概観してみよう。
 下表右端、「HP掲載頁」欄の数字は、このホームページの次の項目(頁)の頭の数字を入れている。
  1.中国歴代皇帝陵概観
  2.秦始皇陵と漢武帝陵
  3.明孝陵と十三陵
  4.天津市内観光と天津~薊県小旅行
  5.清の東陵 
  6.保定市内観光と清の西陵

時代 皇帝 陵 墓 所在地
現在地名
HP
掲載頁
始皇帝 始皇帝陵及び兵馬俑坑 陝西省西安市
前漢
(長安)
①高祖劉邦長陵、⑦武帝劉徹茂陵ほか、計13代のほとんどの陵が渭水の
北、渭水に近いところ、陝西省咸陽市にある。西安陵墓群
当HPでは、武帝の茂陵、その陪塚霍去病墓他について紹介する。
後漢
(洛陽)
①光武帝劉秀原陵から⑭献帝劉協禅陵まで、全てが河南省、しかも、その
ほとんどが洛陽にある。
三国 蜀の劉備の墓は四川省成都。魏の曹操の墓は河北省臨漳。呉の孫権の墓は江蘇省南京にある。このホームページでは、孫権の墓についてのみ、「3.明孝陵と十三陵」でわずかにふれている。
魏晋南北朝 (この間、省略)
①文帝太陵
②煬帝
揚州郊外にある煬帝陵については非常によく知られている。煬帝陵は、これとは別に、陝西省咸陽市武功県にもある。
②太宗李世民昭陵、③高宗李治と則天武后の合葬墓乾陵についてはよく知られている。
その他、⑥玄宗李隆基泰陵など計20基。
陝西省咸陽市。
渭水のずっと北。
東西に広い範囲。
西安陵墓群
五代十国 (この間、省略)
北宋
(開封)
北宋は①太祖趙匡胤から⑨欽宗まで9代。そのうち、⑧徽宗と⑨欽宗については別に記す。 ①から⑦の全てが今の河南省鄭州市
鞏義市。
南宋
(臨安(杭州))
①高宗から⑧端宗までだと8代。次の衛王まで数えると9代。 ①~⑥は浙江省紹興。
⑦と⑨は不詳。
⑧は広東省新会。
①世祖フビライから⑪順帝トゴン=ティムールまで11代。
埋葬地、埋葬状況については不詳。
漢文史料『元史』によると「起輦谷に葬る」。起輦谷=ケルレン谷(谷=河畔)の音写。モンゴル人の伝承によると,オノン・ケルレン・トーラの三河が合流するヘンティ山中にあるらしい。

(南京)
①太祖洪武帝 孝陵 南京市

(北京)
②建文帝は陵墓無し。③世祖永楽帝から、⑦代宗景泰帝を飛ばして、⑰毅宗崇禎帝まで計13代は北京の明十三陵。⑦代宗景泰陵は北京市西部の金山口。

(入関前)
①太祖ヌルハチの福陵、②太宗ホンタイジの昭陵は共に瀋陽市。

(入関後)
③順治帝孝陵、④康熙帝景陵、⑥乾隆帝裕陵、⑨咸豊帝定陵、⑩同治帝恵陵は東陵。
⑤雍正帝泰陵、⑦嘉慶帝昌陵、⑧道光帝慕陵、⑪光緒帝崇陵は西陵。
5及び6

 以下では、上の表のHP掲載頁の欄が「1」となっている箇所について、落穂拾いとして補足説明する。

後漢光武帝劉秀原陵


 後漢の皇帝陵は、最後の献帝の陵が今の河南省焦作市にあることを除いて、他は全て、洛陽市にある。王莽(おうもう)を滅ぼし、紀元25年に帝位について漢王朝を再興した後漢の初代皇帝劉秀の陵墓原陵は、黄河河岸近く洛陽市孟津県にあり、同じく洛陽市といってもかなり遠いところに造営されている。

洛陽市孟津県にある後漢光武帝原陵

隋煬帝陵

  隋の煬帝については、このホームページの「第二部 江蘇省の歴史を歩く」の「1.淮安経由揚州行き」でふれている。そこで私は、「煬帝は、618年、江都の離宮で近衛兵に殺された。死ぬまで杯を離さなかったという。煬帝陵は揚州郊外にある。」と書いた。この、2005年に揚州へ行ったときには、残念ながら、煬帝陵へ行く時間がなかった。それで、ここに掲載した写真は、インターネットで検索したもので、ご容赦願いたい。ただ気になるのは、隋の煬帝には、陝西省咸陽市武功市にもその陵があることである。こちらは、ほとんど知られていないし、インターネットで検索しても出てこなかった。これについては、引き続き調べたい。


唐太宗昭陵と、高宗と則天武后の合葬墓乾陵

 唐の皇帝陵は、「山に依って陵となす」という形をとっている。山岳の雄大な姿を借りて、帝王の壮大な気概を表わそうとするものである。太宗の昭陵や、高宗と則天武后の合葬墓乾陵は、ともにその代表例であるが、これらの陵はその雄大なこと、秦の始皇帝の陵の巨大な盛り土と甲乙つけがたい。
 しかし、盗掘防止ということになると、昭陵もそれをまぬがれることはできなかった。唐が滅びたとき、軍人の頭目、温韜に盗掘されてしまった。ところが、高宗の乾陵は、現在にいたるまで盗掘にあっていない。これは、山の岩石が堅固なこと、そして、大きな石や鉛で密封してあることと大いに関係があるといわれている。
 この二つの陵は、それぞれ、昭陵博物館、乾陵博物館を持ち、観光地になっている。

唐高宗と則天武后の合葬墓乾陵

北宋及び南宋の帝陵

 北宋の帝陵は今の河南省鄭州市鞏義市に分布している。北宗九帝のうち徽宗と欽宗を除く七帝陵がここにある。①太祖永昌陵、②太宗永熙陵、③真宗永定陵、④仁宗永昭陵、⑤英宗厚陵、⑥神宗永裕陵、⑦哲宗永泰陵である。
 太祖趙匡胤の陵墓である永昌陵は、河南省鄭州市鞏義市の市街地から約15キロ離れた所にある。現在、陵墓にある石刻は周りの麦畑に散らばり、時の移り変わりとともに、多くの石像の表面が剥がれ落ちたり欠けたり、一部の石像は壊れてしまっている。もちろん陵墓が出来た当時の華やかさはないが、今でも、かつての様子をうかがい知ることができる。
 なお、徽宗と欽宗は靖康の変で金の本拠地、北満の地に連れ去られ、配所で没した。のち、南宋と金との和議がなり、①高宗は徽宗の霊柩と母・韋氏の返還を求めたが、兄・欽宗については、一言もふれなかった。

太祖永昌陵の麦畑の中の石像 太祖永昌陵残陵台
宋の陵墓の建物配置

南宋九帝のうち、前の六帝の陵が浙江省の紹興にある。
 ところで、その航空写真に北宋の徽宗の陵が写っている。上述したように、徽宗は金の地で没したが、その霊柩は返還され、遺骨はこの陵に転葬せられたと思われるが、ただ、返還された霊柩の中は空だったと記している歴史書もあり、真実はつまびらかでない。また、航空写真中、后陵とあるのは皇后の墓である。

元のハーンの陵

よく言われる話だが、「チンギス汗の遺骸は故郷なるオノン川の源、ケルレン川とトーラ川の分水嶺なるブルハン山に運んで葬られたが、葬地を後世に知らせぬために、葬式の列に会う者はことごとく殺し、埋葬した上を騎馬隊が往復して踏み固め、もちろん墓石も指標も立てずにひきあげた」と。
 『草木子』によれば、
 「国の制度として塚を起さず。葬い終われば万馬をもって、そこを平らに踏みならし、らくだの子をその上で殺し、千騎でそれを守る。翌年、草が生えてくれば、テントを移して去る。見わたす限り平坦、どこに葬った跡があるのか誰にも分からない。祭りをしようと思えば、殺したらくだの母らくだを先導にする。それが足を止めて悲しげに鳴くところ、そこが葬った場所である、ということが分かるのである」
 チンギス汗の陵と呼ばれるものが、今の内モンゴル自治区にある。しかし、チンギス汗の陵は本当の陵ではない。チンギス汗だけでなく、元のすべての帝王の陵はみな同様であって、彼らが結局のところ、どこに葬られているのかはあきらかになっていない。

内モンゴル自治区にあるチンギス汗の陵