俺が中国に来てから8ヶ月になった。
そして・・・相変わらずはじめて訪問してから毎週のように先生の
マンションに通っている。
先生から得るものは大きい。
先生の一手は定石に拘らずいつも斬新で、俺は これでもかと、
最善の手を尽くして対応するのにいつも髪一重でかわされる。
それは、佐為と打っている感覚を呼び起こさせた。
今日は日本でいう正月 元旦。
中国でもこの日は祝日だが、日本のような新しい年に代わるという、
感覚はまだ浸透していない。旧正月の方が中国では今なお根付いていて
街も人ごみも普段の休みとそう変わりない。
この日も俺は明子さんの「おせち料理をご馳走するからいらっしゃい。」という
言葉に甘えて先生のマンションに足を運んでいた。
久しぶりに和食を堪能しいつものように
碁盤に向うと先生が俺に話しかけてきた。
「進藤君、私は今月末、日本に一端帰るが4月にはこっちに戻って
来る。中国リーグがはじまるからね。」
「はい。」
「その中国リーグの最中に君は北斗杯の予選にわざわざ日本に帰る
と聞いたが・・・」
先生の口調は厳しくて俺はその言葉の意味を図りかねた。
「それは・・・・」
「君は予選に出る必要などないだろう。
今の君なら日本のトップ棋士とだって互角にやりあえる。
そんな君がリーグの最中にわざわざ日本へ足を運ぶのは無駄な事だと
言っているのだ。」
確かに今おれは 絶好調だ。タイトル戦も勝ちあがって
リコー杯と碁聖リーグにも入った。しかしそれは中国棋院
での事であって日本での俺はただの初段でおまけに実績もゼロ
なのだ。
「俺は日本では何の実績もない初段なんですよ。
アキラは5段にも昇段する勢いで、昨年の北斗杯でも若獅子戦でも
実績がある。それに俺とアキラがシードされれば残り枠は一人に・・」
そこまでいいかけた時に先生が俺の話を折った。
「君が戻ったところでおなじ事だと思うがね。それに君が今の実力を
北斗杯で示せば誰も君に対して不服などいうまい。
それとも君は先日 私に対局で勝ったのはまぐれだとでも
思っているのか。」
俺はその言葉に返事が詰まった。
俺は先週プライベートだったが、初めて塔矢先生との対局に勝ったのだ。
「元五冠の私を負かしたのだ。胸を張ればいい。私が日本へ
戻ったら北斗杯の件について棋院側と話をつけよう。いいね。」
塔矢先生の言葉には有無を言わさぬものがあった。
相変わらずというのか、こういった所は強引で塔矢と
妙に似ている。
俺は複雑な心境に苦笑しながら「わかりました。」と返すしかなかった。
次の日の朝、俺はカチャカチャという機械音で目が覚めた。
時刻は早朝6時。珍しく塔矢先生はパソコンに向ってネット碁を
打っているようだった。
俺は邪魔にならないように布団を片付けて身支度を整えるとそっと
先生のパソコンを覗きこんだ。
対局相手の名にドキンと胸が高く跳ねあがった。
相手はアキラだったからだ。
対局はまだ始まったばかりで4手しか進んでいない。
突然先生のマウスを持つ手が止まって 先生が俺の方にイスをくるりと
回転させた。
「先生?すみません。気が散るようなら俺、席外します。」
そういって席を外そうとした俺を先生は「待ちなさい。」
と静かに呼び止めた。
「進藤君 アキラと対局したいとは思わないか。」
先生のその問いかけに俺はおもわず唾をごくりと飲み込んだ。
「アキラと対局」・・・突然の先生の言葉に俺の胸が震えた。
対局したくないわけがない。
俺の返事を待たずに先生が席を立ち上がった。
「君と変わろう。」
でも・・・一瞬の戸惑いが胸をよぎる。このまま変われば
塔矢を騙すことになる。
それでも俺は目の前にある塔矢との一局に引き寄せられる。
打ちたい。塔矢と。今のあいつを知りたい。
一時でもいい。同じ時間を共有できるのなら・・・・・・
俺は先生に勧められるままにイスに座った。
俺だと気づかれてはいけない。
だけど俺だと気づいて欲しい。
矛盾した想いが交差する中俺は塔矢との対局に全精神を集中させた。
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