点滅した留守録をヒカルは躊躇しながら押した。
「進藤今日はそのすまなかった。君のことだから心配はして
ないけれど・・・。」
そのあと塔矢の小さなため息と共に奇妙な間が流れ
ヒカルは固唾を飲んで次の塔矢の台詞を待った。
「明後日の手合いが終わったらゆっくり話しをしたい。
健闘を祈ってる。」
留守録のメッセージは塔矢らしくないほどに言いよどんでいた気がした。
何か別の感情を抑えてるように。
あいつはオレが絡むと感情的になることはよくあることだけど・・。
ヒカルはアキラが留守電で言ってた明後日の手合いの事が
引っかかった。
『健闘を祈る』なんて普段の塔矢じゃ言わねえよな。
あさっての手合いってなんだ?
ヒカルは塔矢の口からでた手合いと言う言葉で急に
現実に戻されたような気がした。
元の世界では明後日のオレの手合いは十段戦予選3回戦。
相手は芦原さんだった。
けど・・・こっちの相手は違うのか?
ヒカルは慌てて手合い表を探すために部屋中を漁った。
「オレが置くとしたらこの辺だとおもうんだけどな・・。ってこれか?」
普段の自分の目線の高さより低い本棚にそれらしきものを見つけてひっぱり
出すとヒカルが思ったとおりそれは今週の週刊碁だった。
「ええっとオレの明後日の相手は・・・・て!?」
手合い割りを探す前にヒカルは自分の名が大きく載った記事を
目にして驚愕した。
女流名人戦・・・
小林女流名人に挑戦してるのは進藤ヒカル5段!?
初タイトルなるかってウソだろ???
明後日の対局は4戦目・・・今までの対戦成績はオレは1勝2敗。
何が何でも落とせねえっていう試合じゃねえか。
ヒカルは穴があく程その記事を眺めたが、何度みてもその内容が
変わるはずはなかった。
ヒカルはふと元の世界の女流名人戦の挑戦者の名を思い出そうと
したがその記憶はどこかに落としてしまったようにようにあやふやで
思い出せなかった。
とにかく、今度あいつがこっちに戻ってきた時に言い訳できねえような
対局をするわけにはいかねえってことだ。
それまでに体が元に戻ってくれることを願いたいがやるしかねえんだろうな。
なんとなくヒカルはこの対局は自分が打つことになるのだろうと思った。
そう思うと今日の出来事なんてどうでもいいほどにヒカルの精神は
研ぎ澄まされていく気がした。
ヒカルはそこに載っていたもう一人の自分が打った棋譜を追った。
これ。やっぱオレのうち筋だよな?
自分だからわかるうち筋、くせ・思考それはヒカルの持つものと同じものだった。
ヒカルは週刊碁を閉じると気を引き締めるように顔をパンパンと叩いた。
とにかく今の自分に出来る事を全力でやるしかないねえってことだ。
ヒカルが碁盤に向かったのはそれからまもなくの事だった。
その晩ヒカルはまた夢をみた。
どうして夢ってのがわかるかっていうと、オレ自身がもう一人のオレの行動を
第3者のように見下ろしてるからだ。なんか変な感じだよな。
オレとアキラは誰もいないがらんとした碁会所で碁を打つでもなく向き合っていた。
「進藤、今日のことだけど・・。」
「悪かった。俺お前の見合いぶち壊しちまって。」
「そんな事はいいんだ。」
オレは自分が言ったはずの台詞にへっ?と聞き返していた。
が、オレの意思とは別に二人は話は続いてる。
そっか、この夢はオレと入れ替わっちまったあいつと塔矢の会話だ。
「それよりも・・。」
塔矢はらしくもなく語気を弱めた。
「何でオレがあんな事をいったのかって事が聞きてえんだろ?」
塔矢はじっとヒカルを見ていた。その真意を計るように。
こいつ塔矢になんって言うつもりなんだ?
オレも塔矢とおなじように固唾を呑んでその様子を見守った。
「理由なんてねえっていうのじゃダメか。お前が見合いするって聞いて
その・・ただ嫌だと思ったんだ・・・ホントにごめん。・・その塔矢呆れたか?」
「いいや、僕も君が止めに来てくれて嬉しかった。」
はにかんだように笑った塔矢はヒカルの知らない塔矢だった。
「嬉しかったって、お前自分から見合いしたんじゃ?」
「ああ、自分からした。けれど、僕にも理由なんてないんだ。」
「なんだよ。それ。」
ヒカルが口を尖らせるとアキラは苦笑した。
その笑顔を見てヒカルのと鼓動がドクンと大きくなった。
なんだよ、この感覚。
楽しそうに笑う塔矢とあいつを見てると焦燥感みてえな焦りと苛立ちが
ヒカルの中に湧き上がってくる。
なんでオレこんな気持ちになってるんだ?
オレだったらそんな事しねえし言わねえって言いてえのか?
大体だ。それはオレの塔矢だろ。
お前の塔矢じゃねえって。
なのに知ったかぶりで馴れ馴れしくして、塔矢も楽しそうに笑って。
オレと会った時なんていつも口げんかになる事が多いのに。
「塔矢も塔矢だ。そいつがオレじゃねえって事ぐれえ気づけよ。」
入れない会話に苛立ちながらつぶやいた独り言で
ヒカルは自分の矛盾した考えに気づいた。
オレなに考えてんだ。あいつが羨ましいのか?
気づかれたらまずいのはお互いさまだろ?
さっきまであいつとオレは他人じゃなく
同じ人間のようにさえ思ってたはずだろ。
なのになんでこんなに苛立ってんだよ。
二人を見ているうちにヒカルは気づいてしまったのだ。
アキラの熱い眼差しがヒカルに向けられている事に。
そしてそれは本来ならそれは自分自身に向けられてる事に。
割り切れない想いを胸にヒカルは目を閉じた。
とにかく今は明後日の手合いだけに集中しよう。
二人の楽しそうな会話を聞きながらヒカルは意識を閉じるように
思考を深い眠りへと潜らせた。