ふと対局相手の気配が希薄になった気がしてアキラは碁盤から目を上げた。
みると碁盤の向こうのヒカルはこくりこくりと眠りこけていた。
時計をみると深夜12時にもなろうとしている。
「まったく君は対局中にうたた寝してしまうなんて、」
口の中でつぶやくように言ったのは本音はヒカルを起こしたくなかったからだ。
アキラが立ち上がった時碁石が「じゃら」と音を立てたがヒカルは起きる気配もなく
アキラはそれにほっとした。
相当に疲れているのだろう。
夕刻から何度もアキラはヒカルと碁を打った。
勝負を譲れなくて「もう1局!!」と言うのは必ず負けた方だった。
それでも対局が増すごとにミスも増え疲れが出てきてたのはアキラもヒカルもで、
「この対局で終わりにする。」と言ったのはヒカルの方だった。
そろそろ最終電車に間に合わなくなる時刻でもあったしアキラもこの勝負を受けて
たった。
「進藤最終の・・。」
言いかけて僕はそれもやめた。
今日は泊まっていけばいい。
下心と葛藤が同居するアキラは眠りこけるヒカルから目を逸らすとふっと
長いため息を吐いた。
アキラとヒカルの関係はただのライバルと言うわけではない。
アキラは少なくともそう思ってる。
あの大雨の日ヒカルから想いを告白されアキラは自身の感情を抑えられずヒカルの唇を奪った。
ヒカルがその後気を失って倒れたこともあって、そのことはうやむやになってしまったけれど。
あれからヒカルとアキラの関係は何かかわったろうか?
アキラは自身に問うて大きくため息をついた。
外面上特に変わったことはない。
ただこうして碁を打つだけ・・なら以前とかわりない。
本当は今日だって君を誘った時は碁ではない話ができたらと思っていた。
笑ってる君が見たいとも思った。そして願わくば・・・と。
けれど一旦碁を打ち始めるとそんな事も飛んでしまうほどお互い熱くなってしまう。
碁から離れた今となってアキラは後悔するようにもう1度溜息をついた。
タオルケットを持ってきたアキラは器用に座ったままで熟睡しているヒカルの
肩にそれをかけた。
「進藤、こんな所で寝たら風邪をひいてしまう。」
微かに震える指とは裏腹にアキラの声は優しかった。
「んん、塔矢?碁は・・」
僕の負けでもいいと思ってしまったアキラはそれに苦笑した。
そんな負けを進藤は納得しないだろうし、本来のアキラであるなら許さないはずだった。
それでもそう思ってしまうのだ。今の君には・・。
「また明日打とう。進藤もう最終電車の時間も過ぎたし今日はここで泊まっていけばいい。
君の親御さんにはここに来ることは断ってきたのだろう?」
アキラの問いかけにヒカルは反応しなかった。
「進藤・・・」
アキラは布団を敷きながら無防備なヒカルの寝顔を見やった。
胸からとめどなく進藤への想いが溢れていた。
ヒカルはこの対局は最終電車に間に合わなくなるとわかっていた。
負けっぱなしで終わらせたくなかったのもあったが本音を言えばもっと塔矢と一緒
にいたかった。
もちろんそんなこと口が裂けてもヒカルはアキラには言わないが。
アキラはそんなヒカルの気持ちを知ってか知らずか先ほどからかなり長い長考に入ってる。
ふとヒカルはもう一人のヒカルの事を思い出していた。
あれから半年、よくあの時の事をヒカルは考える。
夢って言うにはあまりにもリアルすぎたし、今も「もう一人のヒカル」はヒカルとは別の世界
で生きてるのだろう思う。
「あいつ」は塔矢と結婚するんだよな?
あれから半年過ぎたからもう・・。
想像したのはアキラと自分自身の姿でヒカルは頬を染めた。
バカ、対局中に何考えてんだよ。
碁盤に意識を戻すと長考が長引いてるアキラは今もまだ思考中だった。
ヒカルは今になって流石に疲れを自覚した。
集中力が散漫になってる。もう1度集中力をかき集めるように
ゆっくりと深呼吸して目を閉じるとまるでヒカルを待っていたように
もう一人のヒカルが目の前に現れた。
「えっ?」
偶然にしてはすごいタイミングだとヒカルは思う。
「よお、久しぶり!!」
ヒカルそのままの顔に声だ。けど体肢だけは見た目で女だってわかるぐらいヒカルとは
違う。
「なんだよ、お前、突然出てくるとびっくりすんだろ!!」
ヒカルが怒鳴ると相手がカラカラと笑った。
「んなにムゲにすんなよ。せっかく来てやったのに。
ってお前今忙しかった?何してたんだ?」
「オレは塔矢と碁を打ってた。お前は?」
もう一人のヒカルは照れくさそうに笑ってた。
その笑顔が少し眩しかった。
「オレ、今日塔矢と結婚したんだ。」
「そっかあ、等々な、おめでとうな。」
ヒカルはなんだか自分の事のようなこそばい気分だった。
それでも素直な気持ちで「おめでとう」をいえた気がした。
「ありがとう、お前にどうしてもそれだけは伝えたかったんだ。」
「そっか、」
「お前の方は?あれからお前の塔矢となんか進展があったのか?」
『お前の塔矢』といわれてヒカルは苦笑した。
「変わるわけねえだろ。オレと塔矢は男同士なんだぜ?」
「なんだよ。それ、オレがせっかく告ってやったのに、」
「そのせいでオレはえらい目にあってんだぞ、」
「えらい目ってなんだよ?」
「そりゃ、あんなことになったり・・」
口ごもったヒカルにヒカルが笑った。
「お前も素直じゃねえよな。」
「うるせえ、」
口を尖らせるとますます笑われてオレもつられたように笑った。
こいつの思考やっぱりどっかオレと似てるような気がする。
一折笑ったあと相手のヒカルに言われた。
「お前はかわってねえって言ったけど、オレはお前たち変わった気がするけどな。」
「そうか?」
「本当はわかってんじゃねえ?」
図星をさされてオレはうっと言葉を詰まらせた。
塔矢との関係は表立って変わってないって思う。
けどオレはあれから塔矢をいつも意識するようになった。
今日だってそうだ。
塔矢から誘いを受けた時少し期待したし胸もドキドキした。
それに塔矢自身がヒカルを意識してることも知ってる。
どうしてかそんなのは感じちまうんだ。
ひょっとすると以前からそうだったのかもしれねえけどな、
オレが気づかなかっただけで。
「実はオレなお前らの事、さっきから見てたんだ。」
「さっきからっていつからだよ?」
「お前が集中切らしてたあたりかな、
だからわかった。なんか羨ましいのな、お前らの関係って、
オレとオレの塔矢にはねえんだよな、そういうのは。」
「お前、塔矢と結婚したばっかなんだろ?もう後悔してんのか?」
「そんなんじゃねえけど。うまくいえねえけどお前とお前の塔矢しかないものがあるんだよ。」
「なんだよ、それ?」
ヒカルにはそれはよくわからなかった。
そういうともう一人のヒカルは笑っていた。
そうすると急に相手のヒカルの顔がぼやけた。
ヒカルの体がふわりと浮き上がる。この感覚には覚えがあった。
「おっと、オレ邪魔しちまったな。後はお前の塔矢とうまくやれよ。」
ヒカルはそういうとオレにヒラヒラと手を振った。
ヒカルも慌ててそれに応える。
「お前も幸せにな!!」
ヒカルの声が聞こえたかどうかはわからなかったが
「ヒカル」は満面の笑みを浮かべていた。
そして眩いばかりの光の中へと消えていった。
温かなぬくもりだけがヒカルを包み込む。
「なんだよ、あいつ、言いたいことだけ言って消えやがって、」
ヒカルはヒカルが消えたほうを見つめた
「本当に幸せにやれよ。塔矢のやつあいつにひでえ事したら
承知しねえんだからな。オレがこっちの塔矢で仕返ししてやるんだからな。」
そう独りごとをもらしてヒカルは可笑しくなって笑った。
ヒカルを包み込む温かな空間が動いた。
頬に何かが当たってオレはそのくすぐったさに咄嗟に何か大切な事を忘れていた
ことを思い出した。
オレ、塔矢と対局中だったんじゃ?
ヒカルが慌てて目を開けると唇が触れ合うほど近くにアキラの顔があった。
「な ・・・塔矢、」
そうしてヒカルは今更ながら気が付いたのだ。
この温かさが塔矢の腕だったことに。