ヒカルが伊角から電話をもらったのは自宅で夕飯の準備をして
いた時だった。
「伊角さん?」
大抵はメールで済ませる伊角からの電話は珍しかった。
「メールにしようと思ったんだが電話の方がいいと思って。」
「どうかしたのか?」
「ソリー杯のペア碁だがオレと組まないか?」
「ええ、伊角さんと?」
突然のことにヒカルは驚いた。丁度その時沸かしていた
鍋が噴いてヒカルは慌てて台所に飛んだ。
ガスを切って一息はついたが、どうしたものかと困った。
「進藤どうかしたのか?」
「いや、大丈夫こっちの事だから・・・。それよりソリー杯のペア
だよな?」
緒方に続き伊角にまでペアを申し込まれる
なんて想像もしていなかった。
「今日塔矢の対局の立会だったから先に塔矢の方に聞いたんだ。」
「聞いたって何を?」
「オレが進藤にペアを申し込んでもいいかどうか。
和谷のやつにも言われたんだが進藤に頼むなら塔矢に先に
声を掛けた方がいいって言われたからな。」
「それで、アキラは何か言ってたか?」
「進藤が良いって言ったらと、進藤の活躍は塔矢も期待してるの
だと言ってた。」
「そっか・・・。」
ヒカルの心境は複雑だったが
アキラがそう言ったのなら大丈夫だろうと思う。
本音はアキラと組みたいが
忙しいアキラに自分の我儘を押すことは出来ない。
アキラは忙しくてペア碁の予選から他棋戦のリーグや防衛
世界大会までスケジュールが埋まる。
まして公式手合いといえペア碁の参加は全棋士対象ではなく
希望者だけなのだから。
「あのな、伊角さん。実はオレ別からもペアを申し込まれててさ。」
伊角はそれに驚かなかった。
「進藤だったら、誘いは一人や二人じゃないだろうな。」
「いや、伊角さんともう一人だけだぜ、」
その相手が緒方とはヒカルは言わなかった。
「今の所はだろ?」
伊角はそう言って笑った。
「返事はまだ少し猶予があるし。オレは進藤に断られても
気にしないから。」
そう言って受話器を置いたヒカルはほうっと溜息をついた。
緒方と伊角。
ヒカルとしてはペアを組むなら伊角の方がいいと思ったこと
は否めなかった。まず気心が知れてる。
まして伊角はアキラにきちんと断りを入れてからヒカルに
申し込んで来てる。
だがそうなると先に申し込んできた緒方に角もたつ。
緒方の方が目上であることも迷いどころの一つだった。
「困ったな。」
ヒカルがぼんやり考え込んでいるとアキラが帰宅した。
「ただいま、」
アキラの顔を見るなりヒカルは慌てた。
「お帰りってもうこんな時間じゃねえか。」
ヒカルは慌てて先ほど噴いた鍋を片付けに台所に入った。
ヒカルがアキラにそれを切り出したのは夕食後の事だった。
「あのさアキラ、ペア碁の事なんだけど、」
「ああ、君は伊角さんと組むの?」
伊角が電話で言っていた通りアキラは事情を知っていた。
「ええ、ああ、いや、」
そう言ってからヒカルは小さく溜息を吐いた。
「今日の研究会で緒方先生にもぺアを誘われてさ、」
アキラはそれに苦笑した。
「君は随分もてるんだな。」
「なんだよ、他人事みたいにさ、」
「他人事じゃないよ。君のことだから。それでヒカルはどうするの?」
本音は言う事が出来なかった。
「緒方さんと伊角さんだったら伊角さんかな。
気使わなくていいし。オレとの碁の相性も悪くないと思う。」
ヒカルは自分で言ってても言い訳がましい気がした。
「でも緒方さんを断ると角立たねえかなって思ってさ。」
「緒方さんを断って伊角さんと組んだら嫌味や苦言の一言
はあるだろうな。」
「だろ?」
「でもそんな事は気にしなくていい。ペアを組む相手なんだ。
無理をして付き合う方が相手に失礼だろう?
君が断り辛いなら緒方さんには僕から断りをいれよう。」
アキラは終始穏やかでヒカルにはアキラの内面までは量
れなかった。
「いや、それぐらい自分で断るよ。」
「そう?
明日の準備があるから僕は風呂に入ってもう寝るよ。」
アキラはそう言って立ち上がった。
ヒカルも片付けがあるため立ち上がった。
アキラは明日からまたしばらく遠征へ出かける。
軽くキスを交わした後アキラは自室へと入って行った。
一人になった後、アキラもヒカルもお互い憂いだことなんて
知る由もなかった。
その晩2人は同じベッドで寝たがアキラはヒカルに触れなかった。
遠征前は必ずヒカルを求めてきたアキラなのに・・・。
ヒカルはこれほど近くにあるのに求めることが出来ない
その背を見つめた。
まるでアキラに拒否されたようでヒカルは寂しさと不安を感じていた。
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