「負けた。」
ヒカルは打ち終えた碁をそのままにしてごろんと寝転がった。
「進藤?」
ヒカルは泣き出しそうになる顔を見られるのが嫌で手で顔を遮った。
「すげえ悔しい。」
「いい碁だったよ。」
アキラが世辞でなく言ってくれてる。
「ああ、そうだな。」
だからこそ負けたことが悔しい。
けれど悔しさとともに力を出し切った後の満足感も感じてる。
ヒカルは先ほど思った疑問をアキラに投げかけた。
「なあ塔矢、ここに住もうと思った理由ってあるのか?」
アキラは少し困ったように笑って石を片付けだした。
「君には笑われてしまうかもしれない。」
「笑ったりしねえよ。」
「いや、笑い飛ばして欲しいかもしれない。」
「なんだよ。それ、」
アキラは苦笑してから話し出した。
「時々夢を見るんだ。
君と結婚して一緒に暮らしてる・・・。
夢が鮮明で、ただの夢だと思うことが出来なかった。
記憶にあった通りに歩いたらこのマンションがあって。
部屋番号は君ならここにする気がして。そう思ったら
決めていた。」
「そっか。」
胸が熱くなる。
「呆れたり、笑ったりしないんだな。」
「しねえよ。だってオレは・・・。」
涙が溢れ出しそうになって鼻をすすった。
「そんなお前との生活を知ってる。」
「進藤それどういうこと?」
「いや、別になんでもねえよ。」
こっちの世界に来たからこそ気付かされたこともある。
向こうのオレとアキラの生活がこっちの世界のアキラとヒカルに
なんらかの影響を与えてる。
そしてこっちのアキラとヒカルもきっとオレたちに影響を与えてる。
ヒカルがこうやって悩むことも、悔しいと思うことも、どうしようもなく
アキラを愛おしく思う気持ちも・・・。ちゃんと意味があるんだ。
そしてヒカルがあいつと入れ替わった理由も。
覗き込んだアキラがオレの遮った腕を取った。
涙が溢れて来てオレはアキラから視線を逸らした。
「泣いてるのか?」
「ああ・・・すげえ悔しい。」
真正面から向かってくるまっすぐなアキラをオレは受け止めた。
「やっぱオレお前のこと好きなんだなって。」
「ずっと、君がそう言ってくれるのを待ってた。」
覆いかぶさったアキラの背にオレは躊躇うことなく腕を回した。
アキラとオレはベッドに転がってそのまま時が止まったように
動けなくなる。
まるでずっとそうしていたい、とアキラに無言で言われて
いるようだった。
先ほどキスした時の激しさはない。
戻ってくれてることを願って目を開けたがまだオレたちは
ビジネスホテルの小さな一室で何も状況は変わっていなかった。
ヒカルはこの状況が恥ずかしくなってもそもそと身じろい
でみたがアキラはかすかに腕を緩めただけだった。
沈黙の中口を開いたのはアキラの方だった。
「ヒカル・・・。」
耳元で呼ばれるとアキラに囚われたようだった。
「大阪に来る前に緒方さんに呼び出されたんだ。
君とまだ仲直りしてないってわかったらひどく絡まれて、怒られた。」
「オレが棋院で余計なことを言ったから、」
アキラは首を横に振った。
「君のせいじゃない。緒方さんはこういうことに勘がいい。
まして君のことだと過敏なんだ。」
それってまだ未練があるってことか?
それとも相手が塔矢だから。ただのおせっかいなのかどうか
ヒカルにはわからなかった。
「ひょっとして先生酔ってたとか?」
「まあそれなりに。」
苦笑したアキラにオレもため息をついた。
ヒカルも酔っぱらった先生に絡まれたことがあるから酒癖の
悪さは知ってる。酔っぱらった勢いも加わってアキラは責められた
のだろう。
「君との喧嘩の原因を聞かれたんだ。」
「まさか話したのか?」
「すまない。話したくはなかったんだが。
緒方さんが許してくれなかった。」
ヒカルはその様子が想像できてもう苦笑いするしかなかった。
「それで何か言われたのか?」
「どうして信じてやれないんだって怒られたし、
よりによってなんで進藤はお前なんだって罵られもした。」
ヒカルは小さく溜息をついてアキラの背をトントンと叩いてやった。
親が子供にするように。そうするとアキラがただのでかい
子供のような気がした。
「酔っぱらいの言うことなんか気にすんなよ。」
「緒方さんの言うとおりだと思ってる。」
ヒカルはあいつと夢で会話した時のことを思い出した。
『アキラはオレとの結婚を焦ってた』と言ってた。
ヒカルにはわからないがまだ二人には遺恨があるのだろう。
「僕に君にはふさわしくない・・・。」
そこまで言ったアキラにヒカルは流石に怒鳴った。
「本当にそんなこと思ってるのか?馬鹿だろお前!!
お前は男のオレから見たって嫌味なぐらい・・・・。」
言いかけてヒカルは誤魔化すように咳払いした。
「男のオレ」も「嫌味」も余計だった。
大体にふさわしくないと言えば自分の方じゃねえかって思うぐらいだ。
あいつには悪いがどう見たって割りあわないだろ?
そう思ってそれも違うなって思った。ふさわしいとかふさわしくない
とかじゃないない。
お互いの気持ちじゃないか。
「オレは塔矢が好きだって言ったろ?
出会ったころからオレはお前に惹かれてたぜ。
負けたくないって思ったのも一緒にこの道を歩きたいって思ったのも
お前だったから。」
うまく言葉が見つからない。
オレはあいつの代弁者だし。そう思ったオレはそれを心の中で
打ち消した。
いや、代弁者というよりオレ自身が伝えたいんだ。
塔矢アキラに・・・。
言葉で伝わらないなら心で感じてくれとばかりにオレは抱きしめられた
腕に力を込めた。
「いつかお前には話すかもしれないって言ったこともだ。」
そういってオレは言葉に詰まった。まだそれを言うことは出来ない。
「けどさ・・・。
お前がオレに弱音見せることがあってもいいぜ。
お前の愁傷なところなんて滅多みれねえしな。」
向こうの塔矢はそんなところをヒカルに見せたことはない。
けれど「塔矢」だって心の中でずっと葛藤してたんだと感じてる。
「ごめん、オレ本当何言ってんだか。」
自笑するように笑うとアキラが首を振って笑った。
「いいや、励まされた。
本当のことを言うと君がここに来てくれてすごく嬉しかった。
それに叱咤してくれたことも。」
アキラはヒカルの背に回した手を
ほどくとヒカルの前髪に触れた。
「君を愛してる。」
流石に恥ずかしくてヒカルは体が熱くなるのを感じた。
「ああ、うん。まあ」
「君はまだ僕が怖い?」
「怖くねえけど。」
「君が欲しい。」
耳元でそういわれた瞬間ヒカルは固まった。
先月結婚した加賀が『夫婦喧嘩した時には
あれが一番』と言った時オレは『そうだろな』などと無責任に言った
事をこんな時に思い出した。
「えっと・・・。やっぱしないと不安か?」
「少し。君に塔矢って呼ばれると距離を感じるんだ。
どうしてそう呼ぶようになったのかわからないけれど。
もし理由があるなら聞かせてほしい。」
理由なんてない。普段からヒカルがそう呼んでるだけだ。
けれどこちらのアキラに『ヒカル』と呼ばれることには少し
慣れた気がする。
「ア、キラ、その
理由なんてねえから。それと戻ったらにしよう。
もう構わねえから。」
戻ったらというのはヒカルが元の世界に戻ったらという意味だが。
アキラは東京のマンションに戻ったらと思ったに違いなかった。
「そういう約束だしね。」
「約束?」
「ああ、もし僕らが公式戦で対局する時は前夜は一緒のベッドでは
寝ないのだろう?」
「ええ?ああ。」
曖昧に相槌を打ったもののそんな約束をこいつらしてたのかと思うと
ヒカルは心の中で苦笑した。
「だけど対局が終わったらどちらが勝とうと負けようと
一緒に過ごそうって君の提案だったろ?」
「あはは・・・。」
ヒカルは声をあげて笑った。なんか微笑ましいというのか。
らしい気もした。
「そうだな。」
もし明日までに戻れなかったら・・・。
そう思ったがオレはもう予感してた。
明日のアキラとの対局はあいつがつけなきゃならない。
「オレはもうずっと前からお前の気持ちを知ってたし、オレの気持にも
気づいてた。怖くて逃げてたんだ。
けどもう逃げねえよ。帰ったらちゃんと伝えるし、
アキラを受け止める。」
そう言った瞬間オレはあいつと思考も体もそのすべてが重なって
くような感覚を感じた。
「ヒカル、」
唇が重なり深くなる。
それと同時に意識が遠のいて行く。
『アキラ、またな。』
そう心の中で言って苦笑した。
『また』があるかどうかはわからない。けど願わくば・・・。
ヒカルはそこで意識を閃光に飲み込まれた。