夕食をとって飛行場傍のホテルにチェックインした時には8時を回っていた。
エレベーターで最上階へ。荷物を持ち案内するポーターとアキラの後を
追いながらヒカルは流石に疲れと眠気を感じ大きなあくびをかみ締めた。
「こちらがお部屋になります。」
シティホテル並みに丁寧なホテルマンに部屋へと案内される。
そのときになってヒカルは気づいたのだ。
部屋の半端ない広さ。
リビングにはバルコニーがあって
その向こうにはきらびやかな夜景が広がっていた。
ヒカルが唖然としているうちにパタンと部屋の扉がしまった。
ポーターが退出したのだ。
今更ながらアキラと二人きりになってしまったことにうろたえた。
「ちょ、塔矢この部屋・・・。」
「ああ。スィートルームみたいだね。」
「なっ、お前知ってたんじゃねえのか?」
ワザとらしい物言いにヒカルはかっとなって怒鳴った。
「部屋を予約するときに予算を聞かれて・・・。それと空いている部屋なら
どこでもいいと言ったから。」
ヒカルは頭を抱えた。
アキラが提示した予算とここのホテル代・・。
聞きたいような聞きたくないような・・。
ヒカルはつかつかとリビングの奥まで進むと確かめるように寝室と
思われる扉を開けた。
「うっ・・。」
装飾の施されたどどんとでかいベッドが一つ。
そして寝室の向こうにはバスルームらしき部屋があった。
「塔矢、お前何もしねえって言ったよな?」
アキラは小さくため息をついた。
「何もしない。君と僕は夫婦なのだからベッドが一つでも問題ないだろう。」
夫婦だからって言う言い訳にヒカルはカチンときた。
「下心みえみえじゃねえか。」
ヒカルは怒鳴ってベッドにあった枕を二つ三つ掴んでアキラに投げた。
二つは受け止められたが一つは受け損ねてアキラの顔面にあったった。
アキラの端整な顔がゆがんだ。
ざまあ見ろと思ったのはその瞬間だけだった。
「ヒカル。」
真顔になったアキラがヒカルに向かってきた。
「何だよ?」
ヒカルはうろたえて後ずさって逃げ出そうとしたが
アキラにすごい力で腕を掴まれた。
普段感じない体格差と動じない力の差にヒカルの体が戦慄いた。
その瞬間アキラにすごい力でベッドに押さえつけられた。
「バカ、離せ・・、やめろよ。」
じたばたさせればさせるほどアキラの腕力にねじ伏せられる。
『怖い』
どうしようもない力の差にヒカルは情けなさやらふがいなさやらどうしようも
ない感情が押し寄せてきた。
『オレはあいつじゃねえのに・・・。そしてオレが好きなのはこいつじゃなくて・・・。」
ヒカルはこの事態から逃げるように目を閉じた。
だのに目を閉じてもそこにいたのは塔矢だった。
どちらの世界の塔矢なのかすらヒカルにはわからない。
二人の塔矢の存在が重なっていく。
逃げられないのか?
アキラに囚われていく自分自身が怖い。
もし『塔矢』にこんな風に求められたら受け入れちまうかもしれない。
こんな時にバカなことを考えた自分に軽蔑した。
バカ、流されるな。
「ヒカル・・・。」
アキラの声はむしろ穏やかで優しかった。
「怖がらないで・・・。何もしない。」
ヒカルは今更ながら自分が震えていることに気づいた。
けれど震えを抑えることが出来なかった。
「君と・・・ライバルだけの関係になんて今更戻れない。」
アキラも震えていた。
「塔矢・・・?」
「矛盾した感情が押し寄せてくるんだ。君を傷つけたくない、守りたい。
だのに君を強く掻き抱き
僕だけのものにしてしまいたい。」
「ごめん。でもオレは・・・。」
応えられない。
「いいんだ。それで、」
アキラが微笑んだ顔がぼやける。
ヒカルは震える手でアキラの背に自分の腕を回した。
『何もしない。』そういったアキラの言葉が今は信じられる。
トクントクンと早鳴る心臓の音が互いに響いていた。
そうするとほんの少しだけ自分を取り戻せたような気がした。
触れ合わなければわからないこともあるんだとヒカルは感じていた。
こうやっていることで感じる想いや愛情や、感情がある。
ヒカルは心の中で苦笑した。
こいつは『オレの塔矢』じゃねえのにな。
そうして思い切ったようにアキラの腕を離した。
「オレ風呂入ってくる。風呂の後1局相手しろよ?」
「ああ。」
こちらの世界にきて女の体になっちまってから、風呂にはろくに
入っていない。
なるだけ自身の体をみないようにして、ざっと体を流すだけだ。
ヒカルは今日もなるだけ見ないようにしてやり過ごし、備え付けられていた
浴衣を羽織って寝室にでると早々にアキラと視線が合った。
「もう上がったの?随分早いんだね。」
「ん、なんか疲れちまったかも。」
適当に理由をつけて誤魔化したヒカルの髪はまだ濡れていたし
浴衣もだらりと垂れていた。
「大丈夫?今日は1日よく歩いたし、もう寝たほうがいいんじゃないか?」
明日は大手合いもあるし・・と付け加えたアキラにヒカルは
首を振った。
「いや、打つぜ。なんかさ、いてもたってもいられねえんだ。」
アキラはそれに目を丸くした。
「僕と打つのが?」
「まあな。」
いつ元の体に戻るともわからないが、もし今元の世界に戻ったらもうこいつと
対局する機会さえないかもしれない。
塔矢とは何百回、何千回だって打てるだろう。
でもこちらのアキラとは一期一会になるかもしれない。
(まあ2度目があったのだから3度目もあるかもしれないが。)
それが寂しい・・・とも思う。だが少なくとも今のままでいいわけ
でもない。
ヒカルはどうしようもない不可思議な感覚に囚われる。
アキラはそんなヒカルの心境などしらずくすっと笑いをこぼした。
「わかったよ。僕もすぐに風呂に入ってくる。」
風呂場にアキラが消えたあとヒカルはフロントにコールした。
アキラがリビングに出てきたときには碁盤と碁石がすでに用意されヒカルが
1人棋譜打ちをしていた。
アキラの顔を見て石を片付けだしたヒカルにアキラは顔をしかめた。
「ヒカルこの碁盤と碁石は?」
「ああ、フロントに頼んで貸してもらった。携帯碁盤じゃ味気ねえからさ、」
アキラはコホンと軽く咳を払った後、小さくため息をついた。
その仕草にヒカルはむっとした。
「なんだよ。何か言いたいことがあるのか?」
「ああ。言いたくなかったんだけど・・・。」
そういった後アキラが渋る。
「何だよ、勿体ぶんなよ?」
アキラはもう1度ため息をついた後ぼそりと言った。
「浴衣が乱れて、痕が・・見えてる。」
ヒカルはぼっと顔がイッキに火照ったような気がした。
「バカ、これはお前がつけたんだろ?なんで・・・そんなこと、
オレが気にしねえと。。」
動揺したヒカルは自分でも何を言ってるのかわからない事を
口走っていた。
「それに君は今ブラもしていないのだろう。」
「へっ・・・あっ。」
アキラの指摘した通りだった。
『つうかお前どこ見てんだよ。』
ヒカルはアキラの指摘に心の中でおもいっきり突っ込んだ後、
胸を押さえた。
外にでる時はともかく部屋にいる時や寝る時にあんな
しめつけられるものをつけていたらくつろげない。
けどそれって女だったら非常識なことになるのか?
ヒカルは頭を抱えたが
わかるわけねえじゃないかっと心の中で逆切れて、怒鳴った。
「何だよ。それ、新手の盤外戦か?」
「それを言うなら君だってそうだろう。誘っていると取られたって
しょうがないんだよ。」
ヒカルは言葉をうっと詰まらせた。
そういうことにヒカルは無頓着すぎた。
言葉を返せないでいるとアキラはふっとため息を落とした。
「君が無自覚でやったことだって僕もわかってる。でももう少し
女性として自覚して欲しい。・・・そういう姿は僕の前だけにしてくれないか。」
臆面もなくこっ恥ずかしい台詞を面と向かって言われてヒカルは
恥ずかしいやら、照れくさいやらで顔をますます赤くさせた。
「何か、女ってすげえめんどくせえ。オレ男だったらよかったのに。
そしたらお前ともっと対等でいられた気がする。」
アキラは笑った。
「君は女であっても僕と同じ土俵に立てるって言ったじゃないか。」
「そっか。・・・そうだよな?」
あいつがそんなことを言ったのか・・・。
きっとあいつもそう感じてるんだろう。だからこそそう言ったんだ。
ヒカルはもう1人のヒカルの強い意志のようなものを感じた。
アキラは微笑むと石を握った。
「ほら打とう、」っと。
10話へ