ヒカルは所狭しと置かれたダンボールの自室に唖然とした。
「なんだよ。これは・・。」
アキラとこちらのヒカルが住むマンションから逃げ出すように飛び出して 戻ってきた自宅の(自室だった)部屋は今や物置状態と化していた。
大きくため息をついたヒカルは家にはもう居場所がないような気がしていた。
『なんだか虚しい気分だよな。』 とくにこの部屋は佐為と3年の月日を暮らした部屋だってのに・・・。 心の中でもう1度ヒカルは盛大にため息をついた。
ダンボールだらけの部屋に足を踏みいれると、見間違えるはずもない 碁盤をみつけた。
物置部屋だというのにその碁盤だけが神聖で特別な存在感を放っていた。 ヒカルは荷物を端によけると碁盤に触れた。
間違いない。佐為が依り代にしていた碁盤だ。
ホコリを払うようになでると不思議な気分になる。 おそらくは自分の世界にも存在するだろう、この碁盤。そして佐為がここにも存在
したという事実だ。
「なあ、佐為、オレまたこっちの世界に来ちまったんだけど。 なんでこんなことなっちまったんだろな。」
ヒカルが独り言をつぶやいたその時に階段をどたどたと駆け上がってくる音がした。 留守にしていた美津子の足音だ。
「あら、ヒカルだったの。帰ってくるなら連絡ぐらいしなさいよ。」
部屋を覗いた美津子はやっぱりいつもの母さんでヒカルはそれに少なからずほっとした。
「ただいま。」
「ただいまってあんたひょっとして今日こっちに泊まるの?明日
アキラくんと公式手合い?」
「いや、違うけど・・。」
公式手合いと家に戻ってくることが結びつかずヒカルはぎこちなく返事を返す。
「じゃあ、アキラくんは出張とか?」
ヒカルはむっとした。 前に来たときもそうだったが、こっちの母さんは二言目には「アキラ」「アキラ」なのだ。
「なんで、オレがいちいち帰ってくんのに塔矢が関係あんだよ。大体なんだよ。 このダンボールだらけの部屋は。」
それに美津子が反論した。
「あんたに電話したでしょう。御祖父ちゃん家の蔵を建て替える間、荷物を
預かることになったって。
ヒカルも部屋は使ってないから構わないって言ってたじゃないの。」
「ええ、ああ・・」
そういえば・・とヒカルは思い出した。
向こうの世界でも祖父ちゃんから電話があったのだ。
蔵を建て替えることになって貸しロッカーを借りることになったけど 『お前の大切な碁盤だけは祖父ちゃん宅に置いとくからな』って。
で・・、こっちの世界では貸しロッカー代わりにオレの部屋が使われたわけだ。 そして佐為の碁盤も。 ヒカルが一人ごちていると いつものと様子の違うヒカルに美津子は深くため息をついた。
「ヒカル・・・ひょっとしてアキラくんと喧嘩して帰ってきたの?」
鋭い美津子の突っ込みにヒカルは『うっ』と言葉を詰まらせた。 美津子はヒカルのその反応にしわを寄せた。
「全く、あんたって子は。まあ夫婦の喧嘩は犬も食わないっていうから母さんも 何もいわないけど、あんたが悪いならちゃんと謝らないとダメよ。」
一方的にヒカルが悪いと決め付けられるような言い方にムっとしたがひとまず ここは立場を考えた。 しばらくは実家に暮らさないといけないのだから。
「わかったよ。」
それで美津子も納得したようだった。
「ヒカルこの部屋じゃ落ち着かないでしょう。1階の和室を使ったら?」
「ううん。オレここでいい。この碁盤もあるし。」
「そう?」
美津子もそれ以上は何も言わなかった。
その晩、ヒカルはなかなか寝付くことができなかった。 周りに囲まれたダンボールのせいもあったのかもしれないが。
しかたなく起きてヒカルは佐為の碁盤に向かった。
パチンパチンと響く碁石の音は明け方まで続いた。
翌早朝ヒカルがようやく眠りについた頃に美津子がヒカルの部屋を開けた。
「ヒカル、起きなさい。ヒカル」
先ほど眠りについたばかりの睡眠でヒカルはすこぶる機嫌が悪かった。
「何だよ。今日は仕事も休みなんだしもう少し寝かせてくれよ。」
「アキラくんが迎えにきてるけど?」
「へえ??」
ヒカルが布団からがばっと起き上がるとすでにアキラは美津子と一緒に
ダンボール部屋の中だった。 いつの間に?ヒカルは一瞬で目が覚めたような気がした。
「すみません。お母さん。ヒカルと少し話がしたいのですが。」
美津子はそれで察したらしい。
「ええ、朝ご飯を用意しているから食べて行ってね。」
美津子が出て行った後、ダンボールをかき分けてヒカルのベッド脇まで 来たアキラにヒカルは心底ため息をついた。
「それにしてもこの部屋物置だね。」
ダンボール箱に囲まれて寝ていたヒカルにアキラは呆れたようだった。
「あのな、オレはしばらくの間こっちに帰るっていったろう。」
「わかってる。でも今日は前から約束していた日じゃないか。」
「約束?」
「滅多に君と休みが一緒になることがないから、今日は出掛けようって。
君が言い出したことだろう。」
アキラは少し勝ち誇ったように笑っていた。 もちろんそんな約束なんて知る由もない。
「でもオレ・・。」
「君にはふれない。 それでももし今日1日僕といてやっぱりこっちに帰りたいと思うならそうしたらいい。」
そこまで言われると流石に断れそうにはなかった。
「しゃあねえか、オレすげえ眠いんだ。」
「車の中で寝るといいよ。」
そこまで言ってアキラはヒカルの ベッド下にあった碁盤の不思議な布石に目を細めた。
「ヒカル、この棋譜は?」
「えええ?ああっと。」
向こうの世界でアキラと打った棋譜だ。 でもアキラに見覚えがないなら知らないはずだ。
ヒカルは慌てて立ち上がると両手で石をぐちゃぐちゃと混ぜた。
「ヒカル?」
そんなことをしたら余計に疑われたと思ったのは後のことだ。
「あ、それオレの研究譜。たいしたものじゃねえから。」
「そう。」
アキラは納得したわけじゃなさそうだったがそれ以上はヒカルに問いたださなかった。
今から一緒に出掛けるのにそんなことでまた言い争うわけにはいかなかった。
「それより飯、食おうぜ。」
アキラとヒカルがリビングに下りるとすでに朝食が出来上がっていた。
朝食を食べ終えてアキラと二人、家を出ると美津子がニコニコ顔で後についてきた。
「なんだよ。母さん、」
「あんたって子は本当に、」
ため息をつく美津子にアキラが丁寧にお辞儀した。
「お母さんすみません。ご心配を掛けました。」
寝不足で不機嫌なヒカルをよそに美津子はアキラに笑いかけた。
「いいのよ。どうせ喧嘩はヒカルが原因なんでしょう。」
「なっ」
ヒカルが美津子に抗議する前にアキラが首を振った。
「いえ、僕の配慮が足りなかったんです。」
「あら、そうなの。まあ今日はヒカルもアキラくんも久しぶりの休みなんでしょう。
ゆっくり楽しんできて。アキラくんヒカルをお願いね。」
「はい、ありがとうございます。」
ヒカルは心の中は煮え返りそうだったが我慢するしかなかった。 こちらの母さんはアキラを頼りにしてる・・・。息子(娘)であるヒカル以上に。 それは前にこちらの
世界に来たときからヒカルが気に食わないことの一つだった。
美津子の見送りを受けて車が発進した後アキラがヒカルに聞いた。
「ところで今日はどこに行こう?」
「どこにって行き場所決めてなかったのかよ。」
「ああ。僕は君が行きたいところならどこでも構わないと思っていたから、」
ヒカルは本当にアキラはあいつと出掛ける約束なんてしてたのか?と疑った。 もしかしてヒカルの様子が変わったことに気づいて試しているということも
考えられる。
「君は?行きたい所はないの?」
再度問われてヒカルは思案した。いろいろ考えたってどうしようもないか?
「そうだな。」
アキラと一緒に行きたいところ。ヒカルの脳裏に浮かんだのは 瀬戸内海に浮かぶのどかな島だった。
「因島かな・・・。」
「因島?」
アキラに聞き返されてヒカルは首を横に振った
「いや、因島は遠すぎだな。えっと・・・、」
また思案しだしたヒカルにアキラは微笑んだ。
「君が行きたいなら因島に行こう。」
7話へ
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