碁は半目ほどの接戦だった。
酔ってる先生だと油断したかもしれない。
よく考えたら酔ってるも何も今の緒方は霊体だから体裁なんて関係ない
かもしれなかった。
「やっぱお前には敵わねえか。」
緒方はそう言って石を置いた。
「いや、オレ今すげえ興奮してるぜ。」
「オレでもまだまだやるってか?」
ヒカルが「ああ」と頷くと緒方は満足そうだった。
「お前はちっとも変らんな。いや、また強くなったな。」
そう言われると素直に嬉しかった。
「そっか?」
「姿はあの頃のままだがな。」
ヒカルには自分の姿は見えない。鏡にも映らないし。
だが勲はヒカルの事を17.8歳ぐらいに見えると言っていた。
だったら緒方の言うとおりあの頃のままの姿なのだろうと思う。
それが嬉しいというように緒方は笑っていた。
「先生はちっと変わったな。」
「どこが?」
聞き返されてヒカルは困った。
「オヤジになったっていうのか、」
「なんだ、それは・・・。」
緒方はヒカルの髪をぐりぐりとかき回した。
ちゃんと触れられた感覚があった。
ヒカルはそれが嬉しかった。
「そうだ、お前に報告しておかないとな。」
緒方は急に真顔になった。
「改まってなんだよ?」
「もうすぐ結婚するんだ。」
「そうなのか?よかったな、先生!!」
ヒカルの素直な気持ちだった。
なんとなく緒方の事だからずっと独身貴族でいるのかと思っ
ていたけれど、そんな相手が出来たのなら喜ばしいことだった。
「お前にそんな風に喜ばれると複雑な気分だな。」
「なんだよ、素直に喜べよ。それでどんな人なんだ?」
緒方はそれに応えなかった。ヒカルはそれに苦笑した。
「先生まさかマリッジブルーとかいうんじゃ・・・。」
ヒカルはそこまで言って言葉を失った。
緒方の寂しそうな表情を見てしまったからだ。
ここに来たときに荒れていたのは何も碁の事だけではなかった
のかもしれない。
「あいつは好きだし別に問題があるわけじゃない。」
「うん、でも迷いが少しあるんだろ?」
「よくわかるな。」
「なんとなくな・・・オレもそういうのあったから。」
「お前はアキラくん以外とは付き合ったことないと思っていたがな。」
ヒカルはそれに苦笑するしかなかった。相手はその
アキラなのだが。それは言わなかった。
ヒカルは横目で時計を見た。
時計を見ると5時前にもなっていた。
なんとなく名残惜しくてずるずると引きずってしまってしまったのだ。
勲が目を覚ます前までには戻らないといけない。
「先生オレそろそろ戻らねえと。」
「進藤行くな!!」
緒方が怒鳴った。
「緒方先生・・・。」
そういってくれたことにヒカルは心の底から嬉しいと思った。
そして辛くもなった。
こうやって『夢』でも何でも緒方に会える日がまた来るかどうか
なんてわからない。
今夜はたまたま偶然が重なっただけかもしれない。
「ありがとうな。オレ『夢』から醒めても先生の事見守ってるぜ。」
そう言いおいて出て行こうとしたら緒方がヒカルの腕を掴んだ。
「待て・・・」
先ほどこの部屋を出て行こうとしたときのようにだ。だが
気迫はそれ以上だった。
「ごめんな、先生。」
「なんで謝るんだ。お前がオレに応えられないからなのか?」
「恋人がいるのにそういうこというと誤解するぜ?」
「誤解じゃない。オレはお前を愛してた。」
ズクンと胸が痛くなった。
ヒカルは緒方と暮らしていたころ緒方の気持ちなどまったく
知らなかった。
気づいたのはそう・・・緒方に抱かれた後だ。
「応えられるわけないだろ。オレはもう死んでるんだぜ。」
「そんなことは関係ない。お前がオレに応えるか否かは
お前の心の問題だ。」
気持ちはありがたかったが相変わらず無茶苦茶な人だ
とも思った。
「ごめん、」
「オレの夢でもあいつを選ぶのか。」
それにヒカルは応えることができなかった。
だが拒否することも出来なかった。
緒方はつかんだヒカルの腕をひっぱった。
二人の間にはテーブルがあったがそれは素通りした。
緒方の胸にきつく抱きしめられる。
「先生、」
「しゃべるな・・・。」
緒方の腕が強くなる。
痛みは感じないのに触れられた感覚だけが強くなる。
唇を奪われた瞬間すごい衝撃がヒカルの魂を駆け抜けた。
緒方に全神経を直接撫でられたような
重なってそのすべてが飲みこなれてしまうような快楽だった。
「あああ・・・・。」
キスして抱きしめられただけのはずだった。なのに
ヒカルは抵抗も理性も飲み込まれた。
まるで夢の中でHした時のように無抵抗でどうしようもない感覚だった。
「気持ちいいか、進藤。このままオレのものになれ。」
加速するように緒方と一つになろうとして魂が研ぎ澄ま
されてくようだった。
「進藤・・・お前を感じる。」
緒方はヒカルをもっともっとと乞うようにきつく抱き寄せた。
「く・・・あっ・・・ うん」
思わず漏れたヒカルの吐息に緒方は満足してますますその行為を
エスカレートさせる。
「もうあいつの名は呼ぶなよ。」
かろうじてヒカルはその緒方の言葉に理性を戻して身じろぎした。
「緒方・・・せんせい・・・。」
その時だった。突然目覚まし時計の音が高く鳴り響いた。
「ジ・・リリリリイ」
ヒカルを抱いていた緒方の感覚がすっと消えていった。
ソファで寝ていた緒方はゆっくりと頭を抱えてのそりと置きあがった。
ヒカルはその場に座り込むようにペタンと腰を下とした。
緒方の魂が肉体に戻ったことに安堵したのか
気が抜けたのかわからなかった。
「なんか色々ヤバかったよな。」
ヒカルはまだ胸がドキドキ高鳴っている気がした。
肉体なんて当にないはずなのに先ほどのあれは全く理解で
きなかった。
緒方は緒方でぼうっとして、無意識のようにタバコに火をつけていた。
ヒカルは思い切りがついて立ち上がると緒方にキスをした。
それは煙を縫うように通りぬけただけだったが。
「進藤・・・。」
名を呼ばれてドキッとして振り返ると緒方はまだそこで頭を抱えていた。
ヒカルの姿が見えたわけではなさそうだった。
ヒカルは寂しげに笑った。
「先生幸せにな。」
ヒカルが部屋へと戻る途中 勲と和谷と伊角の姿が目に入った。
早朝から連れ立って大浴場にいこうとしているところだった。
ヒカルの姿を見て勲が駆け寄った。
「兄ちゃん、どこ行ってたんだよ?」
勲がふくれっ面をみせる。
「ごめん、緒方先生のとこ行ってたんだ。心配したか?」
「そりゃ心配するよ。オレからあんまし離れられないって
いつも言ってるのに、」
「ごめん、ごめん。」
「それで緒方九段には会えたの?」
「ああ。」
「そっか・・・。」
勲はまだ何か言いたそうだったが先を歩いていた
和谷と伊角が振り返った。
「勲どうかしたのか?」
「ううん、何でもない。」
2人の元へ駆けだした勲の後をヒカルが追う。
勲もこうやってのんびり出来ることはしばらくないだろう。
来週からはプロ試験が始めるのだから。
丁度エレベーターから降りてきた緒方は駆けていく勲の背中をみつけた。
「進藤・・・。」
勲の姿がヒカルと重なり緒方は独りごちた。
「お前に会ったからかもしれんな。昨日の夢は。」
夢の中で打った対局も会話も鮮明で夢だとは思えないほどだった。
緒方はまだこの胸にヒカルの感触が残っているような気がして
空を抱くように拳を握った。
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